2023年03月01日
石塚
柳田國男『増補 山島民譚集』を読む。
本書は、
『甲寅叢書』の一冊として大正三年七月に刊行、
され、
七冊の続編が予定、
され、
長者ノ栄華、
長者没落、
朝日夕日、
黄金ノ雞、
椀貸塚、
隠里、
打出ノ小槌、
道(衢)ノ神、
石生長、
石誕生、
硯の水、
の続刊が予告されていたが、刊行されずに終わったといういわく付きの書である。当初の、
山島民譚(さんとうみんたん)集、
は、
河童駒引、
馬蹄石、
が収録されており、再版された際(昭和十七年)の「序」で、柳田國男は、
「この書に掲げた二つの問題のうち、一方の水の神の童子が妖怪と落ちぶれるに至った顛末だけは、あの後の三十年に相応の論及がすすんでいる。最初自分がやや臆病に、仮定を試みたことが幾分か確かめられ、之れと関連して亦新たなる小発見もあった。……他の一方の馬の奇跡についても、別な解説を下す人はまだ現れず、しかも私が引用したのと同じ方向の証拠資料が、永い間には次々と集積して、何れも倍以上の數に達して居る。」
と記しているように、その示した道筋が広げられていることは確かだが、この再版が出るまでは、本書は、
好事家の書架に死蔵、
された状態(関圭吾「解説」)で、一般には知られていなかった。
本書は、この「山島民譚集」に加えて、『定本柳田國男全集』に収録された、その続編、
山島民譚集(二)(初稿草案)、
と、
本書の編者の一人関圭吾の手もとにあった、その続編の、
山島民譚集(三)(未発表原稿)、
を加えて、刊行されたものである。前者には、
大太法師、
姥神、
榎の杖、
八百比丘尼、
後者には、
長者栄華、
朝日夕日、
黄金の雞、
貸椀塚、
隠里、
打出小槌、
衢の神、
が収録され、予告と比較して欠けている部分の補綴として、
日を招く話、
が収録されている(『妹の力』所収)。
本書は、いわば、
民俗学、
の草創期の著作で、後年、これを深めた著作群を柳田自身いっぱい出しているが、その発想の種となるようなテーマが山のようにあるように見える。
自身「再版序」で、
「斯んなにまで沢山の記録を引用しなくとも、もっと安々と話は出来たのであるが、それが駆け出しの学徒の悲しさであり、又実は内々の味噌でもあつた。」
と書くように、ほぼ引用の羅列のようなところもあるが、「未発表」原稿辺りになると、たとえば、
「……同じ土佐長岡郡の上倉(アゲクラ)村大字奈路には村の北に小字四合屋敷と云ふ宅址がある。茲に昔住んだ者も大した長者であった。其長者の家では家内の人数の増減に由らず、毎日只の四合の米を飯に炊けば常に総勢を飽かしむるに足りたと云ふ。此伝説にも打出小槌の如意と無尽蔵との分子が含まれて居る。併し米を四合と限ったのは寧ろ四合屋敷の文字に捕へられた後説であらうと思ふ。凡そ土地の小字に何々屋敷と云ふのは、普通の百姓屋敷の割渡(わりわたし)と時を異にするか条件を異にするか、必ず特殊の階級の住地である。而して此に四合と云ふのは恐らく四宮(しぐう)神即ち守宮神の信仰に基く守宮屋敷のことであらうと思ふ。
守宮神はもとは宮城の中にも祭られた神である。栄花物語の花山院の巻には守宮神かしこ所の御前にてとある。即ち宮守(みやもり)の神の義であって、皇居の鎮護を任とする土地の神であらうと思ふ。諸国の国府の地にも此神を祭つたらしい。(中略)此神は何故か早くから諸道の守神であった。例へば典薬頭雅忠の家では夢に守宮神が七八歳の童子と現はれて火の災を予報した。……盲法師が守宮神を奉ずるのは此神を土地の神とすれば一段と由緒がある。何となれば此徒は琵琶を弾いて野牢地神(「けんろうじじん 大地をつかさどる地神、呪術的信仰対象の一つ)を祭り国土の豊穣を祈祷するを職として居たからである。所謂当道の坐頭の仲間では此神を守瞽神(しゅくしん 辺境の地主神、守宮神とも)であると云ふ。……彼等が祭典を行ふ京の東の地名を四宮川原と云ふが、此も亦恐くは守宮川原であらう。……琵琶法師が妙音天の保護の下に琵琶を弾くと云ふのも、元は地神の祭に他ならぬのであるが、音楽技芸の保護者たる妙音天が其別名の弁財天の名を以て専ら財宝充足の祈願に耳を傾けるやうになつてからは、此徒も亦自然に其方面に於ける別当役を務めることに成つたらしい。殊に後世に於いて殆ど盲僧の主たる職務とした竈払いの祭の如きは、必しも支那の土公(どこう 「つちぎみ」とも 陰陽道で土をつかさどる神の名)の思想即ち竈を支配する土の神の信仰のみを以て説明することは出来ぬ。何となれば我国では竈の神の祭を以て食物の潤沢と健全とを祈る風が古くから有つたらしいからである。此を以てみれば、打出小槌類似の調法な釜を据附けてあつた所謂四合屋敷は、守宮神を祭り且つ竈若は釜の祓をした琵琶法師の住居と仮定して差支ない。従つて隠里に坐頭が居ると云ふことも強ち語路の誤解ばかりでは無いかも知らぬ。岩穴を釜又は竈と呼んだ例もあるのである。又守宮(やもり)が岩穴の中に居て米を出したと云ふ話も、事に由ると盲人の徒が修行した財宝豊穣の祈祷の場所であった結果で、右の守宮はやはり宇賀耶天女の仮の姿であつたかも知らぬ。但しヤモリを守宮と書くことと如何なる関係があるかはまだ考へることが出来ない。(「打出小槌」 カッコ内注記は引用者)
といった具合に、その奥行きと幅は、縦横無尽となる、いわば柳田節である。
ところで、原著の「小序」には、
横ヤマノ 峯ノタヲリニ
フル里ノ 野辺トホ白ク 行ク方モ 遥々見ユル(後略)
とつづく一文があり、
一坪ノ 清キ芝生ヲ 行人(ギョウニン)ハ 串サシ行キヌ
永キ代ニ ココニ塚アレ
とあり、最後に、
此フミハ ソノ塚ドコロ 我ハソノ 旅ノ山伏
ネモゴロニ勧進ス
旅ビトヨ 石積ミソヘヨ コレノ石塚
とある。民俗学の長い道筋に立てた石塚に、さらに研究を積み重ねてほしいという、柳田國男の願いが込められている気がする。
なお、「座頭」については「検校」、「弁財天」については、「弁才天」で触れた。
また、柳田國男の『遠野物語・山の人生』、『妖怪談義』、『海上の道』、『一目小僧その他』、『桃太郎の誕生』、『不幸なる芸術・笑の本願』、『伝説・木思石語』、『海南小記(柳田国男全集1)』については別に触れた。
参考文献;
柳田國男『増補 山島民譚集』(東洋文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月02日
一緡
二岩の団三郎が相川の玄伯などに贈った一緡の錢は、使ひ残しの一文が再び元の一緡になると云ふ(山島民譚集)、
の、
一緡、
は、
ひとさし、
と訓むが、
いちびん、
と訓む漢語である。
「緡」(漢音ビン、呉音ミン)は、
会意兼形声。暋(ビン)は、よく見えない意を含む。緡はそれを音符とし、意とを加えた字、
で(漢字源)、
維絲伊緡(召南)、
と、
細くて見えにくいひも、
つまり、
絲、
釣り糸、
の意(字源・漢字源)で、
なわ、
の意もあり(字源)、
錢の穴に通し、幾つもの錢を束ねる細い紐、
つまり、
ぜにさし(錢緡)、
ぜになわ(錢縄)、
の意(仝上・精選版日本国語大辞典)であり、そこから、
幾緡則豊用(幾緡ナレバスナワチ豊カニ用ヰルヤ)(杜子春)、
と、
紐を通した錢の束を数える単位、
つまり、
緡錢(びんせん)、
の意で使う(漢字源)。日本にもそれが伝わり、
ぜにさし、
あるいは、
ぜにざし、
といい、
銭差、
銭緡、
繦、
と当てる(精選版日本国語大辞典・大言海)。略して、
さし、
ともいう。また、
銭緡(ぜにさし)に通した銭、
をもいい、
銭貫(ぜにつら)、
貫銭(ぬきぜに)、
ともいう(広辞苑)。なお、「錢貫(センカン)」は、
緡、謂錢貫也(漢書・食貨志「注」)、
とあり、漢語からきている(字源)。江戸後期の百科事典『類聚名物考』には、
貫、さし、緡、錢ヲ貫ク縄ヲ緡ト云ヒ、又、即チ其ノ貫ヌクヲ名トシテ、貫トノミモ云フ、錢千文ヲバ、又、一貫トモ云フ也、……又俗ニハ、錢一貫文ヲ長ク貫ク緡ヲバ、即チ、貫緡トモ云フ也、
とある。「貫緡(かんざし)」は、
貫差、
とも当て、
銭一貫文をつらぬく緡(さし)、また、緡につらぬいた一貫文の銭、
を言うが、実際には、
九百六拾文、
で、一貫文として通用した(精選版日本国語大辞典)とある。
「ぜにさし」には、
百文差、
三百文差、
一貫文(千文)差、
などがあるが、一文錢一緡は、
六百文、
四文錢一緡は、
四百文、
ともある(大言海)
(錢さし・一貫文(寛永通宝) https://www.yamatobunko.jp/shopdetail/000000009626/ct134/page1/disp_pc/より)
銭差し・300文差し(寛永通宝) https://www.yamatobunko.jp/shopdetail/000000018142/ct134/page1/disp_pc/より)
(寛永通宝。上:裏面に波形が刻まれているもの(4文)、中:文銭(ぶんせん 裏に「文」の字があるこ)、下:一般的なもの(1文) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E9%80%9A%E5%AE%9Dより)
一文の「文」というのは、
貨幣の面に鋳出した文字から、
といわれ、
銅で鋳造した穴あき銭一枚、
をいい(仝上)、「一文錢(いちもんせん)」は、通貨の最下位の単位で、千枚で一貫文。
一銭、
一文、
とも。「四文銭(しもんせん)」は、
四文通用の銭貨、
四当銭、
しもん、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
寛永通宝、
は、それまで長く使われてきた、明の、
永楽通宝(えいらくつうほう)、
に代えて、寛永元年(1624)、江戸幕府が鋳造発行したものである(https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p026/)。
(銭緡売り(銭差売り 画像左)(『守貞謾稿』) http://detailofmodel.blog.fc2.com/blog-entry-6.htmlより)
ところで、「錢さし売り」という商売があり、
緡売り(さしうり)、
と呼ばれ(デジタル大辞泉)、江戸後期の三都(京都・大阪・江戸)の風俗、事物を説明した類書(百科事典)『守貞謾稿』によると、
10本を一把、10把を一束、
として、京坂では、
所司代邸や城代邸などの中間の内職、
で、
一把で6文程度、
あり(http://detailofmodel.blog.fc2.com/blog-entry-6.html)。江戸では、
火消役邸の中間による内職、
で、
一束で約100文、
であった(仝上)とある。そして、
実は江戸でも京坂でも、店構えの大小や商売に応じて「押し売り」をした、
とある(仝上・デジタル大辞泉)。
「貫」(カン)は、
会意文字。もと、丸い貝を二つひもで抜き通した巣が゛他を描いた象形文字。のち「ぬきとおすしるし+貝(貨幣)」、
とあり(漢字源)、
穴あき錢千文をひもで貫いたもの、
を指し、
万貫之家資、
満貫、
という言葉がある(仝上)。ただ、
象形。縦棒が二つの貝を貫通した形を象る。「つらぬく」「うがつ」を意味する漢語、
とする『説文解字』の、
「毌」+「貝」、
という分析は、
金文などの資料とは一致しない誤った分析である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B2%AB)とし、また、「毌」は、
『説文解字』の「貫」に対する誤った分析から作られた字、
であり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AF%8C)、
「毌」なる字の実在は確認されていない、
とある(仝上)。しかし、その解釈が、
会意形声。貝と、毌(クワン つらぬく)とから成り、ひもに差し通した銭の意を表す。ひいて「つらぬく」意に用いる(角川新字源)、
会意兼形声文字です(毌+貝)。「物に穴をあけ貫き通す」象形と「子安貝(貨幣)」の象形から、「貫き通した銭」、「つらぬく」を意味する「貫」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1610.html)、
等々と通用している。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月03日
よむ
ヨムという我々の動詞はか算(かぞ)えること、また暗誦することをも意味していた(柳田國男「口承文芸史考」)、
とある、
よむ、
は、
読む、
詠む、
訓む、
誦む、
等々とあてる(広辞苑)。
「よむ」は、
一つずつ順次数えあげていくのが原義。類義語カゾフは指を折って計算する意、
とあり(岩波古語辞典)、
ぬばたまの夜渡る月を幾夜経(ふ)とよみつつ妹は吾を待つらむぞ(万葉集)、
と、
一定の時間をもって起こる現象を、一つ一つ数え上げていく、
意の
數(よ)む、
から、
人の世となりて素戔嗚尊よりぞ、みそもじあまりひともじはよみける(古今和歌集・序)、
と、
一つ一つの音節を数えながら和歌を作り出す、
意の、
詠(よ)む、
あるいは、
維摩詰(ゆいまつき)のかたちをあらわして維摩経をよめば即ちやみぬ(三宝絵)、
と、
書かれた文字を一字ずつ聲立てて唱えてゆく、
唱えて相手に聞かせる、
意の、
誦(よ)む、
さらには、
春の日と書いてかすがとよめば、法相擁護の春日大明神(平家物語)、
と、
訓読する、
意の、
訓(よ)む、
とがなるが、「よむ」の、
数える、
意は、
錢をよむという事(世間胸算用)、
と生きている(仝上)し、そこから、
志学垂統と私かに題せる冊子に録せり。後の人々これをよんで知るべし(蘭学事始)、
や
古典をよむ、
というような、
文書を見て、意味をといて行く、
意や、そうした意味をメタファにして、
腹をよむ、
暗号をよむ、
と、
了解する意、
や、
顔色をよむ、
敵の作戦をよむ、
消費者動向をよむ
と、
推測する、
意や、囲碁・将棋などで、
先の手を考える
意でも使う(広辞苑)。大言海は、
白妙の袖解き更へて還り來む月日を數(よ)みて往きて來(こ)ましを(万葉集)、
と、
數、
と当てる、
数(よ)む、
を別に立て、さらに、その轉として、
物を数ふる如く、つぶつぶに唱ふる、
聲立てて唱ふ、
意の、
誦む、
と、
定まりてある詞を、今まねびて口に云ふ、
意の、
読む、
を立て、それは、
和藤内些とも臆せず、読めたり、扠ては異国の虎狩(国姓爺合戦)、
と、
さとる、
了解する、
意でも使い、さらに、
心に思ふことを、條條とかぞへあぐる、
意として、
詠む、
を立てている。
「よむ」の語意の広がりは、
声に出して言葉や数などを、一つ一つ順に節をつけるように区切りを入れながら(唱えるように)言う行為を表わすのが原義、
↓
(歌・詩・経典・文章などを)声を立てて、一区切りずつ、一音ずつたどりながらいう。声に出して唱えていく、
↓
文章など書かれた文字をたどって見ていく、
↓
文章・書物などを見て、そこに書かれている意味や内容を理解する、
という(この順で変化したという意味ではないが)流れが分かりやすい(日本語源大辞典)。本居宣長が、
凡て余牟(ヨム)と云は、物を數ふる如くにつぶつぶと唱ふることなり〈故物を數ふるをも余牟と云り、又歌を作るを余牟と云も、心に思ふことを數へたてて云出るよしなり〉、
といっていたこと(古事記伝)が、上記諸説の背景にあるようだが、
数を数える、
唱える、
歌を詠む、
が、原義としては同じとみなしていた(日本語源大辞典)ということなのだろう。このことで思い合わされるのは、柳田國男が、
メチャクチャ、
シンネリムッツリ、
あるいは、
スッタカッタ(急いで走り回る)、
アワタキサワタキ(狼狽する)、
といった方言等々を例に、語音の変化を楽しむところが日本語にはあり、
我々の歌謡や語り物の面白さ、さては謎とか諺とかの文句に、意味を離れてなお幼い者をまでひきつける力、
について言及していた(口承文芸史考)ことと考え合わせると、
よむ、
という言い回しにある、日本語の特徴をうかがわせる奥深さを想ってしまう。
ただ、「よむ」の語源については、
ヨフ(呼)の義(言元梯)、
ヨビミル(呼見)の義(日本語原学=林甕臣)、
ヨクミ(見)の転(和句解)、
ヨモミル(四方見)の反(名語記)、
ヨセメ(寄目)の義(名言通)、
ヨフクム(世含)の義(柴門和語類集)、
ヨ(節)を活用させた語(俚言集覧)、
と、とても語源を特定できる説はない(日本語源大辞典)。一方、「かぞふ」は、
カズ(数)と同根(岩波古語辞典)、
數+フ(継続)(日本語源広辞典)、
數(かず)を活用させた語(名言通・和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健)、
カズフ(数)の転、カズフは数を活用せしむ(占ふ、甘ふと同例)(大言海)、
と、「数」と繋がり、「かず」も、
カサ(嵩)から(国語の語根とその分類=大島正健・大言海)、
カソフ(日添)の義か、ズはソフの反(和句解)
古く貝を貨としたから、カソ(貝副)の義(言元梯)、
とあるが、はっきりしない。語源は定かではないものの、
カズ、
と
カゾフ、
とはつながっていることは確かである(岩波古語辞典)。
「讀(読)」(「よむ」意では、漢音トク、呉音ドク、「とまる」意では、漢音トウ、呉音ズ)は、
会意兼形声。𧶠(イク・トク)は、途中でしばしばとまる音を含む。讀はそれを音符とし、言を加えた字で、しばしば息を止めて区切ること、
とある(漢字源)が、
会意形声。「言(ことば)」+音符「𧶠」(「イク」または「ショク」。「賣(=売)」に似るが「罒(モウ)」ではなく「四」。人目につかせ立ち止まらせて売ること)。立ち止まらせる、区切るなどの意があり、「瀆(みぞ)」「黷(とどこおらせる)」と同系、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AE%80)、別に、
形声。言と、音符𧶠(イク→トク)とから成る。書物から意味を引き出す、ひいて、声を出して「よむ」意を表す、
とか(角川新字源)、
形声文字です(言+売)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつし(慎・謹)んで)言う」の意味)と「足が窪(くぼ)みから出る象形(「出る」の意味)と網の象形と貝(貨幣)の象形(網をかぶせ、財貨を取り入れる、
「買う」の意味)」(買った財貨が出る、すなわち、「売る」の意味だが、ここでは、「属」に通じ、「続く」の意味)から、「言葉を続ける・よむ」を意味する「読」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji200.html)が、上記、
「賣(=売)」に似るが「罒(モウ)」ではなく「四」。人目につかせ立ち止まらせて売ること、
から(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AE%80)判断すると、いずれも間違っていることになる。なお、漢字、
讀、
誦、
の違いは、「讀」は、
書に対してよむ、
であり、「誦」は、
書に背きてそらんじよむ(背誦と熟す)、
とある(字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月04日
正法・像法・末法
一体、善悪の因果や吉凶得失の法は仏教の経典や他の書物に記されている。釈迦一代の教えの分を見ると、三つの時期に分けられる。一つは正法(しょうぼう)五百年、二つは像(ぞう)法千年、三つは末法万年である。釈迦が入滅して以来、延暦六年丁卯(787)まで千七百二十二年すぎた。正像の二つの時期がすぎて末法にはいった(「霊異記」下巻・序)、
とある、
正法(しょうぼう・しょうほう)、
像法(ぞうぼう・ぞうほう)、
末法(まっぽう)、
については、「闘諍堅固」で触れたように、
仏滅後二千五百年を五百年毎に区切った、
五五百歳(ごごひゃくさい)、
を、
大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん(大集経)、
とあり、順に、
①解脱堅固(げだつけんご 仏道修行する多くの人々が解脱する、すなわち生死の苦悩から解放されて平安な境地に至る時代)、
②禅定堅固(ぜんじょうけんご 人々が瞑想修行に励む時代)、
③読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご 多くの経典の読誦とそれを聞くことが盛んに行われる時代)、
④多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご 多くの塔や寺院が造営される時代)、
⑤闘諍言訟(とうじょうごんしょう 仏教がおとろえ、互いに自説に固執して他と争うことのみ盛んである時代)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)=闘諍堅固、
とし(大集経)、
解脱・禅定堅固は正法時代、
読誦多聞・多造塔寺堅固は像法時代、
闘諍堅固は末法、
といい、これを、
正法、
像法、
末法、
の、
三時説、
といい(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AB%E6%B3%95)、
仏教が完全に滅びる法滅までの時間を三段階に区切り、
釈尊の入滅の後しばらくは、釈尊が説いた通りの正しい教えに従って修行し、証果を得る者のいる正法の時代が続く。しかしその後、教と行は正しく維持されるが、証を得る者がいなくなる像法の時代、さらには教のみが残る末法の時代へと移っていき、ついには法滅に至る、
という、
時代が下るにつれ、教(教説)・行(実践)・証(さとり)が徐々に失われていく、
という説である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E6%99%82)。南岳慧思の『立誓願文』(558年)では、
正法五百年、
像法千年、
末法万年、
と三時の年数を定め、
末法思想、
の嚆矢となる(世界大百科事典)、とある。ただ、各時代の長さには諸説あり、
正法千年、
像法五百年、
末法万年、
とする説もある(とっさの日本語便利帳)。
日本では、正法・像法の時代を各千年とする説が採られ、周穆王(ぼくおう)五二年(紀元前949)の仏滅説から計算して、釈迦入滅後二千年に当たる後冷泉天皇の永承七年(1052)から末法の時代に入った、
とされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AB%E6%B3%95・岩波古語辞典)が、『日本霊異記』で景戒がいち早く、上記のように、
正法五百年、
像法千年説、
に則り、延暦六年(787)はすでに末法であると表明している。その後平安期後半に源信の『往生要集』や最澄に仮託した『末法灯明記』が著され、
正法千年・像法千年説、
を取り、周穆王(ぼくおう)五二年(紀元前949)の仏滅説から計算して、
永承七年(1052)、
を末法の年と見なした(仝上)。
正法(しょうぼう)、
は、
白法(びゃくほう)、
浄法(じょうぼう)、
妙法(みょうほう)、
ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B3%95)、
有誹謗佛正法者、我當断其舌(涅槃経)、
と、
釈尊入滅後の500年または1000年間。正しい教えが行われ、証果がある、
とする、
正法時、
つまり、
教・行・証が具わった時代、
をいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E6%99%82・広辞苑)。「教・行・証」は、
教えと修行と覚り、
の意で、
教は仏の説いた教え、行は教えに従って行う修行、証は修行によって得られる覚りを意味する、
とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%95%99%E3%83%BB%E8%A1%8C%E3%83%BB%E8%A8%BC)。覚りは修行の結果として得られるものだから、
教・行・果、
ともいう(仝上)。
像法(ぞうほう・ぞうぼう)、
は、
正法の次の500年または1000年間の称で、教法は存在するが、真実の修行が行われず、証果を得るものがない、
とする(「像」とは「似」の意)、
像法時、
つまり、
証が欠けるが、教・行が存続する時代、
をいう(仝上)。日本では永承六年(1051)がその最後の年と信じられていた。
末法(まっぽう)、
は、
於末法中、但有信教、而无行證(末法燈明記)、
と、
像法(ぞうぼう)の後の1万年を指し、仏の教えがすたれ、修行するものも悟りを得るものもなくなって、教法のみが残る、
とする、
末法時、
つまり、
行・証が欠け、教のみ残る時代、
をいう(仝上)。日本では永承七年(1052)に末法に入ったとされる(仝上)。
因みに、末法の後は、
法滅、
で、
末法一万年後無窮、
とある(https://buddhist.hatenablog.com/entry/2017/08/24/120000)。
(ブッダ像(サールナート考古博物館) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6より)
なお、平安時代は仏滅を紀元前949年とする説が一般的だったが、現在は、
周書異記の記述を根拠とする紀元前949年説、
東南アジアの仏教国に伝わる紀元前544-543年説、
2をギリシャ資料によって修正した紀元前486年もしくは紀元前477年説、
中国、チベットに残る記述から紀元前400-368年説、
があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%BB%85)、周書異記は偽書とする説があり、949年説の根拠が失せている。
(釈迦の入滅(アジャンター石窟群) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%BB%85より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月05日
脇士(きょうじ)
本堂の東側の脇士(きょうじ)の観音像の首が、理由もないのに切れて落ちた(霊異記)、
の、
脇士、
は、
仏の左右に侍る菩薩を脇士という、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。「三尊」で触れたように、
中央に立つ尊像を、
中尊(ちゅうそん)、
左右に従っているのを、
脇士、
というが、
挟み侍る、
意で(大言海)
夾、挟、俠、相通ず、
とある(仝上)。つまり、
、
仏の左右に侍して衆生(しゅじょう)教化を助けるもの、
の意(広辞苑)で、
脇侍、
夾侍、
挟侍、
とも当て、
脇士、
脇侍、
を、
わきじ、
とも訓ませ(大辞泉)、
脇立(わきだち)、
ともいう(広辞苑)。「脇侍」の、訓読みが、
わきだち、
で、
脇士、
は、
脇侍大士の意、
で、菩薩を、
大士、
という(仝上)とある。確かに、三尊は、
阿弥陀三尊は、阿弥陀如来と観音、勢至の二菩薩、
釈迦三尊は、釈迦如来と文殊、普賢の二菩薩(梵天と帝釈天、薬王菩薩と薬上菩薩、金剛手菩薩と蓮華手菩薩の例も)、
薬師三尊は、薬師如来と日光の二菩薩、
弥勒三尊は、弥勒如来と法苑林菩薩、大妙相菩薩の二菩薩、
盧舎那三尊は、盧舎那仏と如意輪観音、虚空蔵菩薩の二菩薩(薬師如来と千手観音菩薩)、
など脇士は菩薩が主流だが、菩薩とは限らず、
不動三尊は、中尊は不動明王と矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吒迦童子(せいたかどうじ)、
観音菩薩三尊は、観音菩薩(十一面観音、千手観音など)と毘沙門天、不動明王、
という場合もあるので、
中尊をはさんで左右に侍する菩薩または比丘などのこと(日本国語大辞典)、
というのが正確かもしれない。
(釈迦三尊像(法隆寺金堂 寺伝では脇侍は薬王菩薩・薬上菩薩と称している) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8Aより)
「脇士」については、観無量寿経では、
阿弥陀如来ではその左辺に観音菩薩、右辺に勢至菩薩を配すること、
陀羅尼集経では、
釈迦如来では目連は左に侍し、阿難は右に在りと説かれ、釈迦画像ではその下の左辺に文殊騎獅像、右辺に普賢騎象像を画作せよ、
と説いている(世界大百科事典)。ただ、たとえば、阿弥陀三尊は、
阿弥陀如来と観音、勢至の二菩薩、
だが、脇侍を、観音菩薩を文殊菩薩に置き換えることはない。
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩は、死後無事に浄土へたどり着けるよう導く「あの世担当」であるのに対し、文殊菩薩は仏道に沿った生き方をするための智慧を授ける「この世担当」だから、
と、それぞれが持っている仏教的な役割から、置き換え不可の者もある(https://goto-man.com/faq/post-10487/)。
「脇士」の多くは、
二尊で、中尊と合わせて、
三尊像、
だが、仏像には、
四尊、
八尊、
十二尊、
それ以上数十尊に及ぶこともある(世界大百科事典)。四尊像というと、
多聞天、持国天、増長天、広目天、
の四天王像があるが、牛伏寺(松本市)四尊像は、鎌倉時代のもので、4体の姿を田の字型に配置し、
向かって右上が孔雀明王像、その下が愛染明王像、その左が不動明王像、その上が尊勝仏頂像、
とある(https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/134/3823.html)。五尊像は、
大日如来、阿閦如来(あしゅくにょらい)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、阿弥陀如来(あみだにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)、
の五智如来、
不動明王、降三世明王(こうざんぜみょうおう)、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王(だいいとくみょうおう)、金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)、
の五大明王があり(https://goto-man.com/faq/post-10487/)、
獅子に乗った文殊菩薩の周囲に優填王、善財童子、大聖老人(最勝老人)、仏陀波利三蔵(中国語: 佛陀波利)の4侍者、
の文殊菩薩五尊、
がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E4%BE%8D)が、五尊懸仏(奈良国立博物館)では、
中尊が施無畏(せむい)・与願(よがん)の印を示す釈迦如来(しゃかにょらい)、以下右上から時計回りに十一面観音(じゅういちめんかんのん)、定印(じょういん)の阿弥陀如来(あみだにょらい)、僧形(そうぎょう)の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)、胸前に経巻を持する文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、
という組み合わせである(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/149157)。
八尊像は、
天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩睺羅迦(まごらが)、
の八部衆(釈迦如来の眷属)がある(仝上)。十二尊像では、
宮毘羅(くびら)、伐折羅(ばさら)、迷企羅(めきら)、安底羅(あんてら)、安底羅(あんにら)、珊底羅(さんてら)、因達(陀)羅(いんだら)、波夷羅(はいら)、摩虎羅(まこら)、真達羅(しんだら)、招杜羅(しゃとら)、毘羯羅(びから)、
の十二神将(薬師如来の眷属)がある(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年03月06日
結節点
ハリー・スタック・サリヴァン(阿部大樹編訳)『個性という幻想』を読む。
本書は、編訳者が、
初出出典に基づいて 新しく訳出した日本語版オリジナルの論集、
である(編訳者まえがき)。
「ウォール街大暴落の後、サリヴァンが臨床から離れて、その代わりに徴兵選抜、戦時プロパガンダ、そして国際政治に携わるようになった頃に書かれたものから特に重要なものを選んで収録した。『精神医学入門三講』を除く11編はThe Fusion(後期論文集" The Fusion of Psychiatry and Social Sciences")にも収められている。順に読めるように、口語体の入門講義から始まり、前半は『精神医学の基礎』篇、そして後半をその「実社会 への応用」篇として並べた。」
とあるように、収録されているのは、
第一部 精神医学の基礎篇
精神医学入門三講
精神医学 ─『社会科学 百科事典』より
黒人青年についての予備調査
症例ウォーレン・ウォール
「個性」という幻想
不安の意味
第二部 精神医学の応用篇
プロパガンダと検閲
反ユダヤ主義
精神医療と国防
戦意の取扱いについて
戦後体制に向けたリーダーシップの機動化
緊張─対人関係と国際関係
と、二部に分けられている。
サリヴァン、
というと、タイトルの、
個性という幻想、
にあるように、
人間同士の差異よりも互いを結びつけているものに着目する、
主張であるので、どうしても、第一部、とりわけ、
「個性」という幻想、
が最も面白い。
「いずれにせよ生命体とその周囲環境には片時も止むことなく相互交流があって、これがなくてはどのような生命も 生きられません。この意味で、私たちは交流的存在 communal existenceであります。」
それを、
結節点 nexus、
つまり、
結び目、
と呼び、今日風に、
ネットワークの接点、
という言い方をするなら、
Node(ノード)、
ということになる。つまり、
「経験の結節点があって、その内部で私たちはそれぞれの世界観を作り上げます。この結節点はme-and-my-mind(こころの挙動をみている当人)か、(皆さんが 私と距離を感じているようなら)you-and-your-mindの経験するものの内側にあります。このyou-and-your-mindには、経験や定式化に際してとてもはっきりと名付けることのできるものがいくつかあるあるのです。」
「―人を人たらしめている」のは、
「積み重なった文化、それも生物学的というよりも社会的意味によってパフォーマンスを左右するような文化」
であり、
「文化、社会体制、あるいは言語や定式化された概念などが含まれる環境が人間にとっては必要不可欠なのです。そうであるからこそ、孤立しているとか、空想ばかりで実のある交流を失っていると、それまで高度に社会的だった人物であったとしても堕落してしまいます。」
そして、
「人格は、多数の人々そして文化からなる世界と深く絡み合った生命のコンタクトから生まれるものです。ですからその領野においては、人間が単純素朴であるとか、事物の中心にいて、個々独立していて、単位的であるなどと考えるのはまったく愚かしいことであります。」
そう見なすと、
「対人関係を記述することに重きを置けば、新しい医学の進歩にとって最大の障壁であるものを取り除くことができます。もっとも高い壁、すなわち個々独立した、ひとり立ちする、確固不変でシンプル『自己』があるのだという妄想です。その時々によって『あなた』とか『ぼく』などと様々に呼ばれる、摩訶不思議な『自己』が、まるで私有不動産のようにどこかに建っているという幻想です。」
で、こう強調する。
「人間を『個々独立した存在』だとか『その各々を取り扱うことができる』などと考えるのはまったく見当違いだと分かるはずです。私たちが観察するべきは、個人ではなく、人間が互いに何を取り交わしているかであります。互いに取り交わすものを互いにどうやってコミュニケートしているか、と言い換えてもいいでしょう。
それが完了すれば、個性というものが永遠不滅でも唯一無二でもないと明らかになるはずです。私たちは皆、対人関係の数と同じだけ人格の数を持ちます。対人関係の多くが幻想上の人々── つまり非 実在人物群──を現実上で操作することから成り立っていて、しかもそれがしばしば実在人物群──角を曲がったところの薬局の店員とか──よりも重大視されています。」
僕自身は、この、
人間関係、
社会関係、
の、
結節点としての人間、
という発想に同感である。ただ人は人との関係の中にいる、という意味だけではなく、
交差点、
なので、どの道とつながるかで、その表情、見え方は変わるはずである。この発想は、平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』の、
分人、
という考えと繋がっている。平野も言う、
「全ての間違いの元は、唯一無二の『本当の自分』という神話である。そこでこう考えてみよう。たったひとつの『本当の自分』 など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて『本当の自分』である。」
と、そして、
個人(individual)、
ではなく、
inを取った「分人(dividual)」
という言葉を導入する。
「分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味仲間との分人、…それらは、必ずしも同じではない。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。」
つまり、
「一人の人間は『わけられないindividual』な存在ではなく、複数に『わけられるdividual』存在である。」
「個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。私という人間は、対人関係毎のいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によってけっていされる。」
人は、
社会的存在、
である。人の存在は、人と人との関係の、
ノッド(結び目knot)、
である。その意味でネットワークの結節点なのである。
「私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。」
その意味では、その人がつながる人との側面、
「分人はすべて、『本当の自分』である。」
逆に言えば
「本当の自分は、ひとつではない。」
ということになる。
「誰とどうつきあっているかで、あなたの中の分人の構成比率は変化する。その総体があなたの個性となる。」
まるで、サリヴァンの思考の延長線上である。
参考文献;
ハリー・スタック・サリヴァン(阿部大樹編訳)『個性という幻想』(講談社学術文庫Kindle版)
平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年03月07日
修多羅(すたら)
聖武天皇の世に、大安寺の修多羅(すたら)分の錢三十貫を借りて、越前の敦賀の港に行って物を買った(霊異記)、
とある、
修多羅、
は、
経典の意、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。
『東大寺要録』巻七に、修多羅供(すたらく)事の条があり、『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平元年(729)閏五月二十日の詔を引用して説明している。大安寺、薬師寺などに錢、布、稲などを施入し、華厳経をはじめ、一切の経論を転読講説し、天下太平、兆民快楽を祈らせた。この法事を大修多羅供といい、この経費や、常に寺で修多羅を研究する人々(常修多羅衆 じょうすたらしゅう)にあてる費用として施入される金を修多羅分の錢といったが、寺はこの金を利用して利息をつけて一般に貸し付けていた、
とも注記がある(仝上)。因みに、修多羅衆には、毎年一定期日に大規模な転読講説を行う、
大修多羅衆、
と、毎日平常の転読講説を行う、
常修多羅衆、
があり、その中には、東大寺大修多羅衆のごとく、天平勝宝元年(749)の詔によって設置されたものと、大安寺・弘福寺の両衆のごとく奈良初期から存在したものがあった(世界大百科事典)。
修多羅供銭(すたらぐせん)は、
しゅたらぐせん、
とも訓み、奈良時代の南都諸大寺において、
大小乗一切経律論疏を転読講説する修多羅供、およびそれに従事する修多羅衆の予算、
で、大安寺では、
寺の全予算額の28%近く、
に達したとある(仝上)。
いま、
修多羅、
を引くと、たとえば、
しゅたら、
と訓ませ、
浄土宗などで七条袈裟を着用する際に掛ける組紐、
のこととして出てきて、
七条袈裟は全体に着丈が長く、左肩から左腕まで覆うように身に着け、右脇の下で前にまわして修多羅の紐で右胸と左肩を結びとめます。修多羅を七条袈裟に結ぶときには、紐に裏表があるので注意します。七条袈裟には2か所で結びます。上は内側でしっかり結び、下は外側で余裕を持たせて結ぶようにします、
などと解説されている(https://en-park.net/words/7927)。
江戸中期(1729)の『聖道衣料編』修多羅絲結事には、
修多羅ノ事、本トハ、是レ、鈎紐ノ代ワリナリ、是ヲ、修多羅ト名ヅクルコトハ、種々ノ色相ノ絲ヲ集メテ、種々ニ組ミテ、袈裟ヲ飾ルナリ、……今、種々ノ模様ノ絲ヲ交ヘテ組ミシ、結ンデ、契経ニ擬ス、故ニ、修多羅ト名ヅクルナリ、
とある。これを見ると、後述の「経」のメタファとしての「紐」の意が生きていることになる。
(修多羅 精選版日本国語大辞典めより)
修多羅、
は、元来、
梵語sūtra、経(たて)糸の意(広辞苑)、
梵語sūtraの音写、線・ひも・糸の意(デジタル大辞泉)、
梵語sūtra の訳語。修多羅と音訳する(精選版日本国語大辞典)、
等々とあるように、
糸、
の意で、
インドでは多羅葉という葉に書いた教法を鉛筆のようなもので刻書して、それが飛んで行かないように穴をあけて紐を通して保存していました。この紐を、
修多羅、
と呼んでいたとされている(仝上)。それをメタファに、
花を糸で通して花飾りをつくるように、金言が貫き収められている、
ので(日本大百科全書)とも、
教法を貫く綱要の意、
とも(岩波古語辞典)とされる。元来は、バラモン教で使われていたのを、仏教でも採用したものである(仝上)。また、
インドから中国に仏教要点を運ぶときに、組紐に巻経を挟んで馬やらくだで運んできた……ため、修多羅結びという組紐の組み方は、大切な経文が飛んで行かないように、結び留めの編み方で作られています。正確で歪みなどがなく、秩序良く束ねられるのが修多羅という紐の特長になっています、
ともある(仝上)。こうして、
修多羅、
は、
経者。乃是聖教之通名。仏語之美号。然経是漢語。外国云修多羅(「法華義疏(7C前)」)、
と、
仏の説いたもの、経文、佛書、契経(かいきょう)
の意で使われる(精選版日本国語大辞典)が、仏教聖典を集めた、
三蔵、
の一つである。因みに、三蔵は、
律蔵(パーリ語・梵語 Vinayapiṭaka(ヴィナヤピタカ) 僧伽(僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの、
経蔵(パーリ語Suttapiṭaka(スッタピタカ)、梵:語Sūtrapiṭaka(スートラピタカ) 釈迦の説いたとされる教え(法、ダルマ)をまとめたもの、
論蔵(パーリ語Abhidhammapiṭaka(アビダンマピタカ)、梵語Abhidharmapiṭaka(アビダルマピタカ) 上記の注釈、解釈などを集めたもの、
のうち(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%94%B5)、
経蔵(仏の説いた教えの集成)、
を指す(精選版日本国語大辞典)。中国、南宋代の梵漢辞典「翻訳名義集」の「修多羅」の注に、
何者従古及今、譯梵為漢、皆題為經、若餘翻是正、何不改作線契、若傳譯僉然、則經正明矣、以此方周孔之教名為五經、故以經字、翻修多羅、然其衆典、雖單題經、緒論所指、皆曰契經、所謂契理契機、名契経也、
とある。で、やがて、
聖人、修多羅、祇耶など言十二部経の名字を唱へければ(「神宮文庫本発心集(1216頃)」)、
と、特に、十二分経(じゅうにぶきょう)の一つ、
契経(かいきょう)、
に限定して使われるようになる(仝上)。「契経」は、
経は人の資質に契(かな)い、法理に合するところからいう、
とある(精選版日本国語大辞典)。
十二分経(じゅうにぶんきょう)は、
十二部教(じゅうにぶきょう)、
ともいい(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%88%86%E6%95%99)、漢訳では、
十二部経、
十二分聖教、
ともいい(仝上)、
仏典の文章を叙述の形式または内容から12に分類したもの、
をいい(精選版日本国語大辞典)、
散文で法義を説いた、
契経、
を、
修多羅(sūtra)、
というほか、
祇夜(geyaぎや 応頌または重頌 散文の教説の内容を韻文で重説したもの)、
伽陀(gāthāかだ 諷誦、偈、偈頌または孤起頌(こきじゅ 最初から独立して韻文で述べたもの)、
尼陀那(nidānaにだな 因縁 経や律の由来を述べたもの)、
伊帝曰多伽(itivŗttakaいていわったか 如是語(かくの如き出来事)、本事 の意 菩薩などの修行時代の行為を述べたもの)、
闍陀迦(jātakaじゃだか 本生 釈迦の前生における菩薩としての多くの善行を説いたもの)
阿浮陀達摩(adbhutadharmaあぶだだつま 未曾有、希法 仏やその他の神秘なこと、またその功徳を記したもの)、
阿波陀那(avadānaあばだな 譬喩 教説を譬喩で述べたもの)、
優婆提舎(upadeśaうばだいしゃ 論義 教説を解説したもの)、
優陀那(udānaうだな 無問自説 質問なしに仏がみずから進んで教説を述べたもの)、
毘仏略(vaipulyaびぶつりゃく 方等、方広 広く深い意味を述べたもの)、
和伽羅那(vyākaraņaわからな 授記、記別 仏弟子の未来について証言を述べたもの)、
があり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%88%86%E6%95%99・精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)、
修多羅(しゅたら 契経)、
祇夜(ぎや 応頌または重頌)、
伽陀(かだ 諷誦、偈、偈頌または孤起頌)、
の三者は経文の形式から、残り九者は経文の内容から立てた分類となる。また、古く、
釈尊(しゃくそん 釈迦(しゃか)の説法を9種にまとめた九部経(くぶきょう)があり、それに、
尼陀那(nidāna 因縁)、
阿波陀那(avadāna譬喩)、
優婆提舎(upadeśa 論義)、
を加え、九部経より発達した形となったものである(日本大百科全書)。
(「經(経)」 https://kakijun.jp/page/E353200.htmlより)
「經(経)」(漢音ケイ、呉音キョウ、唐音キン)は、
会意兼形声。坙(ケイ)は、上の枠から下の台へたていとをまっすぐに張り通したさまを描いた象形文字。經はそれを音符とし、糸篇をそえて、たていとの意を明示した字、
とある(漢字源)。
「巠」が「經」を表す字であったが、糸偏を加えた(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B6%93)、
ともあり、
織機のたて糸、ひいて、すじみち、おさめる意を表す(角川新字源)、
ともある。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
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2023年03月08日
摂像(しょうぞう)
その山寺に執金剛(しつこんごう)神の摂像(しょうぞう)があった(霊異記)、
とある、
摂像、
は、
芯に木や針金で骨組みを作り、その上に塑土(そど)をつけて肉付けした像、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。
粘土をひねって作った像、
つまり、
塑像(そぞう)、
のことで、
摂像、
は、また、
せつぞう、
とも訓ませ(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、
𡓳(しょう)像、
埝(てん)像、
ともいった(広辞苑)。
(東大寺戒壇堂 四天王立像のうち持国天 http://theory-of-art.blog.jp/archives/23804074.htmlより)
日本最古の塑像とされていめのは。
當麻寺(奈良県)金堂本尊の弥勒仏坐像、
で、7世紀後半にさかのぼると言われ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%91%E5%83%8F)、
岡寺(奈良県)如意輪観音坐像、
法隆寺(奈良県)中門 金剛力士立像
法隆寺食堂(じきどう)旧・安置 四天王立像、梵天・帝釈天立像、
新薬師寺(奈良県)十二神将立像、
東大寺法華堂(三月堂)(奈良県)執金剛神立像、日光菩薩像・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像、
等々塑像は奈良時代に集中し、平安時代以降木彫が主流となる(仝上)。
(如意寺の仁王像・阿形 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%91%E5%83%8Fより)
造仏方法には、
塑像仏、
のほか、金属で作る、
金銅仏(飛鳥〜奈良時代)、
木の芯で骨組みを作り、粘土で原型を作り、漆を含ませた麻布を貼り付ける、
脱活乾漆仏(奈良時代)、
脱活乾漆仏が粘土だったのに対し、こちらは木で原型を作る、
木心乾漆仏(奈良時代)、
1本の木から像を掘り出す、
一木造(飛鳥〜鎌倉時代)、
複数の木を組み合わせ、パーツごとに作る、
寄木造(飛鳥〜鎌倉時代)、
の六種がある(http://theory-of-art.blog.jp/archives/23804074.html)とされる。「乾漆像」については、『阿修羅と大仏』で触れた。
(「攝(摂)」 https://kakijun.jp/page/u_j061200.htmlより)
「攝(摂)」(慣用セツ、漢音呉音ショウ)は、
会意兼形声。聶(ニョウ)は耳三つを描き、いくつかの物をくっつけることを示す。囁(ショウ 耳に口をつけてささやく)の原字。攝は「手+音符」で、合わせくっつけること。散乱しないよう多くの物をあわせて手に持つ意に用いる、
とある(漢字源)。
手もとに引き寄せて持つ、ひいて「おさめる」意を表す、
ともある(角川新字源)。別に、
会意兼形声文字です(扌(手)+聶)。「5本の指のある手」の象形と「3つの耳」の象形(「削ぎ取った耳をそろえる」の意味)から、「手でそろえて持つ」を意味する「摂」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1707.html)。
「塑」(漢音ソ、呉音ス)は、
会意兼形声。「土+音符朔(サク)」。のみやこてで、土塊に逆立てて削ること、
とある(漢字源)。別に、
形声。土をけずって作った人形の意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(朔+土)。「人をさかさまにした象形と月の欠けた象形」(欠けた月がまた、もとへ逆戻りする「ついたち」の意味だが、ここでは、「さかのぼる」の意味)と「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)から、「粘土のかたまりを次第にけずり上げて目的の像を作る」、「土で作った人形」を意味する「塑」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji1775.html)ある。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月09日
執金剛神(しつこんごうじん)
その山寺に執金剛神(しつこんごうじん)の摂像があった。行者は神像の脛に縄をかけて引き、昼も夜も休まなかった(霊異記)、
とある、
執金剛神、
は、
しつこんごうじん、
のほか、
しゅうこんごうじん、
しっこんごうじん、
しゅっこんごうじん、
とも訓み、
しゅうこんごう、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
執金剛神、
とは、
手に金剛杵(こんごうしょ)を執れる金剛神の義と云ふ、
とある(大言海)ように、
手に金剛杵(こんごうしょ)を持ち仏法を護る夜叉神、
をいい(仝上)、その形相は、初期には、
着甲の神将形、
にあらわされたが、後には、
半裸の力士形、
が一般に行なわれ、。本来は一つの神格であるが、日本では多く二神一対として寺門の左右に置かれた。いわゆる、
仁王、
をいう(仝上・デジタル大辞泉)。サンスクリット名は、
バジュラ・サットゥバVajra‐sattvaḥ、
で、
執金剛、
金剛手秘密主、
等々と漢訳され(世界大百科事典)、
持金剛、
金剛神、
金剛手、
執金剛力士、
金剛力士、
密迹(みっしゃく)力士、
密迹金剛、
執金剛夜叉、
等々様々な称がある(精選版日本国語大辞典)。
(執金剛神 精選版日本国語大辞典より)
衆生が生まれながらに持つ菩提心(ぼだいしん)を象徴すると同時に、菩提心によって無上の悟りを求める者を代表する、
とし(仝上)、
密教付法の第二祖ともいわれる。形像は菩薩形であるが、胎蔵界曼荼羅金剛手院の像と金剛界曼荼羅理趣会、成身会、微細会の像とでは、持物と手の位置に差が見られる。後者に作例があり、それは左手に五鈷鈴(ごこれい)、右手に五鈷杵(ごこしよ)を持つ、
とある(世界大百科事典)。なお、
金剛杵、
は、「金剛の杵」で触れたように、
古代インドで、インドラ神や執金剛神が持つとされる武器。また、密教で用いられる法具の一種、
である。
(仁王 広辞苑より)
仁王、
は、本来、
二王、
で、
二体一具の尊格、
を意味する(https://www.enyuu-ji.com/aboutus/kuronioson/)。
伽藍守護の神で、寺門または須弥壇しゅみだんの両脇に安置した一対の半裸形の金剛力士、
で、普通、口を開けた、
阿形(あぎょう)、
と、口を閉じた、
吽形(うんぎょう)、
に作られ、一方を
密迹(みっしゃく)金剛、
他方を、
那羅延(ならえん)金剛、
と分けるなど諸説がある(広辞苑)が、いずれも、
勇猛な忿怒の形相、
をなす。健康の象徴とされ、口中でかんだ紙片を投げつけて自分の患部または発達を願う部分に相当する箇所にはりつけば、願いがかなうという俗信がある(日本国語大辞典)。
また、
健脚の神、
ともされ、大きな草鞋(わらじ)などが奉納される(仝上)。
「那羅延」で触れたように、
那羅延(ならえん)、
は、
那羅延金剛(ならえんこんごう)、
あるいは、
那羅延天(ならえんてん)、
の略であり(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、「那羅延(Nārāyaṇa)」は、
バラモン教・ヒンドゥー教の神ヴィシュヌが、仏教に取り入れられ護法善神とされたもの、「那羅延」とはヴィシュヌの異名「ナーラーヤナ」の音写、ヴィシュヌの音写として毘瑟笯(びしぬ)、毘紐[(びちゅう、びにゅう)、毘紐天(びちゅうてん、びにゅうてん)、
とも表記され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%BE%85%E5%BB%B6%E5%A4%A9)、大力があるとして、
勝力、
と訳され(仝上)、その大力を、
餠を作りて三宝に供養すれば、金剛那羅延の力を得云々といへり(「日本霊異記(810~824)」)、
と、
那羅延力、
という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。その大力の故に、
釣鎖力士、
とも称す(大言海)とある。唐代の密教の要義約百条を解説した『秘蔵記』には、
那羅延天、三面、靑黄色、右手持輪、乗迦楼羅鳥、
とある。「迦楼羅鳥」は「迦楼羅炎(かるらえん)」で触れたように、
両翼をのばすと三三六万里あり、金色で、口から火を吐き龍を取って食う
という神話的な鳥である。
密迹(みっしゃく)力士、
の、
密迹(みつしゃく)、
は、サンスクリットの、
ヴァジュラパーニ(Vajrapāni)、
または、
ヴァジュラダラ(Vajradhara)、
の漢訳、
金剛杵(こんごうしょ 仏敵を退散させる武器)を持つもの、
の意味(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB)で、「密迹(みつしゃく)」は、
常に仏に侍して、其秘密の事跡を憶持する意、
とあり(大言海)、
密迹力士、
金剛密迹(密迹金剛 みっしゃくこんごう)、
執金剛神(しゆうこんごうじん・しゆこんごうしん)、
跋闍羅波膩(ばじゃらぱに)、
伐折羅陀羅(ばざらだら)、
金剛手(こんごうしゅ)
持金剛(じこんごう)、
等々とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%8A%9B%E5%A3%AB・精選版日本国語大辞典)。これを、「金剛を持つもの」の意から、
金剛力士、
とし、
開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。寺院の門に配される際には仁王(におう、二王)の名で呼ばれる、
とあり(仝上)、
半裸の力士形に作られ、寺門の左右に安置されるもの(執金剛神)は、普通、仁王(二王)と呼ばれる、
ともあり(広辞苑)、「密迹金剛」の二体がおかれるように読めるが、「金剛力士」の、
其一を、金剛密迹天と云ひ、其一を、那羅延天、又那羅延金剛と云ふ、共に金剛神、又金剛手(こんごうしゅ)とも称し、其力量、非常なりと云ふ。此の二神を、二王尊とも称し、巨大なる立像を作り、寺門の両脇に安置したるを二王門と云ふ、各、裸体にて、腰に布を纏ひ、顔面、手足、勇猛なる相をなす、閒に向かひて、右方に金剛密迹を置く、金剛杵を執りて、口を開く、左方に那羅延を置く、口を閉づ、開閉は阿吽の二音を表す、
とあり(大言海)、
本光寺の阿形像は「那羅延金剛」(ならえんこんごう)、吽形像は「密迹金剛」(みっしゃくこんごう)です、
とある(https://www.honkouji.com/butsujin/niouzou)。阿形の仁王像は金剛杵を持ち、
密迹金剛力士の当初の性格を示す、
とある(世界大百科事典)。だから、「仁王」像は、
「金剛」をもつ「密迹金剛」二体、
なのか、
右に密迹金剛、左に那羅延金剛、
なのか、ちょっと分からないところがある。普通に考えれば、対の、
密迹金剛と那羅延金剛、
だが、金剛をもつから、
金剛力士、
というのなら、
密迹金剛、
が並んでいるという見方も可能である。金剛杵を持つ執金剛神(しゆうこんごうじん・しゆこんごうしん)は、
金剛力士、密迹力士(みつじゃくりきし)、密迹金剛力士などの称があり、金剛杵を執ってつねに釈尊を守る神であるから、仁王の本来の尊像と同一のものである、
とするの(仝上)は、故なくはない。なお、「密迹金剛」は、
中国の竜門や雲岡の諸像の中に鎧を着た武将像として表現され、日本の古代の作例の中にも東大寺三月堂の須弥壇上にある乾漆造仁王像(奈良時代)や法隆寺蔵橘夫人厨子扉絵の像、東大寺三月堂の執金剛神像(奈良時代)は鎧で武装した像であり、中国の像の形式を伝える、
とある(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月10日
優婆夷・優婆塞
利苅(とかり)の優婆夷(うばい)は河内国の人である。姓が利苅村主(とかりのすぐり)であるので字(あざな)とした(霊異記)、
とある、
優婆夷、
は、
仏道を修行している俗人の女性、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。
在家の女性仏教信者、
である。対する、在家の男性仏教信者は、
優婆塞(うばそく)、
という。
(ブッダ像(サールナート考古博物館) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6より)
優婆塞、
は、
サンスクリット語ウパーサカupāsakaの音写、
優婆夷、
は、
ウパーシカーupāsikā、その俗語形uvāyiの音写、
で、原義は、
そば近く仕える者、
で、
在家信者は出家者に近づいて法話を聞き、出家者の必要な生活物資を布施して仕えるのでこのようにいう、
とある(日本大百科全書・世界大百科事典)。
優婆塞、
は、
清信士(しょうしんじ)、
近事男(ごんじなん)、
などと漢訳され、
優婆夷、
は、
近事女(ごんじにょ)、
清信女(しょうしんにょ)、
などと漢訳される(広辞苑・日本国語大辞典)。『徒然草』(吉田兼好)には、
四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼に劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり、
とある。
優婆夷、
優婆塞、
は、
優婆夷・優婆塞、此在家二衆(圓覺経)、
と、
「四衆」で触れたように、
四衆(ししゅ)、
つまり、
四種の信徒、
であり、四種は、
比丘(びく ビクシュbhiku)、
比丘尼(びくにビクシュニーbhikunī)、
優婆塞(うばそく ウパーサカupāsaka)、
優婆夷(うばい ウパーシカーupāsikā)、
をいう(仝上)が、仏教の術語で、
仏教教団のメンバーの総称、
とする(日本大百科全書)のが正確。つまり、
出家者の男女、
を指す。比丘・比丘尼は、
具足(ぐそく)戒を受けて教団内で修行に専念する者、
の意、優婆夷・優婆塞は、
彼らに衣食住などを布施し、五戒を受け帰依(きえ)した在家信者、
を指し、彼らによって、教団は構成され維持される。後に比丘・比丘尼の未成年者、
沙弥(しゃみ 十戒を受けた二〇歳未満の男性出家者)、
と
沙弥尼(しゃみに 沙弥に同じ女性出家者)、
比丘尼として出家する前の二年間を過ごす、
学真女(がくしんにょ しきしゃまなśikṣamāṇā)、
を加えて、
七衆(しちしゅ)となる(仝上)。「四衆」は、
四輩、
四部衆、
四部、
などともいう(岩波古語辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。「沙弥」「沙弥尼」については「沙喝」で触れた。
在家信者となるには、三宝(さんぼう 仏・法・僧、仏陀(釈迦)と法(ダルマ)と僧伽(さんが)をいう)に帰依し、
五戒、
を保つことが必要で、また六斎日(ろくさいにち 毎月の8、14、15、23、29、30の各日)には八斎戒(はっさいかい)を守り、とくに身を慎むことが勧められる(仝上)。
(舎衛城の祇園精舎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6より)
六斎日は、「非時」で触れたように、
特に身をつつしみ持戒清浄であるべき日と定められた六日、
で、「五戒」は、
五つの戒、
だが、「戒」は、
サンスクリット語のシーラśīla、
の訳語、
自ら心に誓って順守する、
徳目であり、「在家者のために説かれた「五戒」で、
不殺生(ふせっしょう 生命のあるものを殺さない)戒、
不偸盗(ふちゅうとう 与えられないものを取らない)戒、
不邪淫(ふじゃいん みだらな男女関係を結ばない)戒、
不妄語(ふもうご いつわりを語らない)戒、
不飲酒(ふおんじゅ 酒類を飲まない)戒、
をいい(日本大百科全書)、
優婆塞戒(うばそくかい)、
五常、
五学処、
などともいう(精選版日本国語大辞典)。「八戒」は、
在家信者が一昼夜の間だけ守ると誓って受ける八つの戒律、
つまり、
生き物を殺さない、
他人のものを盗まない、
嘘をつかない、
酒を飲まない、
性交をしない、
午後は食事をとらない、
花飾りや香料を身につけず、また歌舞音曲を見たり聞いたりしない、
地上に敷いた床にだけ寝て、高脚のりっぱなベッドを用いない、
をいい、おもに原始仏教と部派仏教で行われた(仝上)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月11日
五趣
我、身を受くること唯五尺余有りとは、五尺とは五趣の因果なり(霊異記)、
の、
五趣、
については、
五趣とは、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上のこと、ここは前世で五趣をへめぐっている間になした行為が因となって、この世で五尺の身を受けたことをいう、
と注記がある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。
五趣、
は、
五悪趣(ごあくしゅ)の略、
五悪趣、
は、
五悪道、
五道、
五種、
ともいい、
衆生(しゅじょう)が善悪の業因(ごういん)によって趣く五つの生存の状態または世界。
つまり、
地獄、餓鬼、畜生、人間、天上
をいう(広辞苑・日本国語大辞典)。
五道神識、盡能得知彼善悪趣(菩提處胎経)、
とある。
六道、
のうち、
修羅道、
を除いた五つの世界をいうので、
五道、
という(デジタル大辞泉)。「六道」は、「六道四生」で触れたように、
欲望が支配する欲界の衆生が輪廻する六種の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)、
をいい、「欲界」は、「摩醯修羅(まけいしゅら)」で触れたように、仏教における、
欲界、
色界、
無色界、
の三つの世界(三界)のうち最下の層は欲界で、欲望にとらわれた生物のすむ領域、
であり(「三界」については触れた)、欲界には、「天魔波旬」で触れた、六種の天が、上から、
他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、
化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、
兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、
夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、
忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、
四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、
とある(http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html他)。そして、「六道」(ろくどう・りくどう)は、「六道の辻」で触れたように、
天道(てんどう、天上道、天界道とも) 天人が住まう世界である。
人間道(にんげんどう) 人間が住む世界である。唯一自力で仏教に出会え、解脱し仏になりうる世界、
修羅道(しゅらどう) 阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる、
畜生道(ちくしょうどう) 畜生の世界である。自力で仏の教えを得ることの出来ない、救いの少ない世界、
餓鬼道(がきどう) 餓鬼の世界である。食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる、
地獄道(じごくどう) 罪を償わせるための世界である、
を指し、このうち、
天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)、
といい、
畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)、
という(大言海)らしい。この六つの世界のいずれかに、
死後その人の生前の業(ごふ)に従って赴き住まねばならない、
のである(岩波古語辞典)。
「六道」は、
梵語ṣaḍ-gati(gatiは「行くこと」「道」が原意)、
の漢訳で、
六つの迷える状態、
の意(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93)。
紙本着色の「五趣生死輪図」(妙楽寺)がある。
2本の角をもつ無常大鬼が腹前に五趣生死を描いた大きな輪を抱き、上部には虚空に浮かぶ丸い円が白色でシンボリックに描かれ、「涅槃円浄」と記されている、
とあり(https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000472.html)、
「五趣生死の輪は、中心に小円を表わし、外輪と小円のあいだは五等分して、右上から順に天・畜生・地獄・餓鬼・人間の各界(すなわち五趣)を、小円中には定印坐像の一仏を配し、その周辺に鳩・蛇・猪を描いて、それぞれ多貧・多瞋・多癡と註記する。また、輪環をもつ無常大鬼の回りにも葬送の人々や、舟を漕ぐ人物など12因縁を中心に18種の図柄を表わす。」
とある(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月12日
大白牛車(だいびゃくごしゃ)
白米を捧げて乞食に献じるとは、大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)を得を得むが為に、願を発し、仏を造り大乗経典を写し、真心をもって善因を行うことである(霊異記)、
にある、
大白牛車、
は、
法華経の譬喩品(ひゆほん)にある故事。大きな白い牛が引く、宝物で飾ってある車のことで、仏道の喩えとして出している、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。
大白牛車、
は、普通、
だいびゃくごしゃ、
と訓ませ、
牛の車、
ともいう(広辞苑)。
大きな白牛の引く車、
の意で、
法華経譬喩品の、
如下彼長者初以三車誘引諸子。然後但与大車宝物荘厳安隠第一。然彼長者、無中虚妄之咎上
から出た、
某長者の邸宅に火災があつたが、小児等は遊戯に興じて出ないので、長者はために門外に羊鹿牛の三車あつて汝等を待つとすかし小児等を火宅から救ひ出したといふ比喩で、羊車はこれを声聞乗に、鹿車はこれを縁覚乗に、牛車はこれを菩薩乗に喩へた、この三車には互に優劣の差のないではないが、共にこれ三界の火宅に彷復ふ衆生を涅槃の楽都に導くの法なので、斯く車に喩へたもの、
で(仏教辞林)、
火宅にたとえた三界の苦から衆生を救うものとして、声聞・縁覚・菩薩の三乗を羊・鹿・牛の三車に、一仏乗を大白牛車(だいびゃくごしゃ)にたとえた、
三車一車、
によるもので、
すべての人が成仏できるという一乗・仏乗のたとえに用いられる、
とある(仝上)。法相宗では、
羊・鹿・牛の三車、
の一つとして声聞乗の羊車、縁覚乗の鹿車に対して菩薩乗にたとえたとするが、天台宗では、全
羊車(ようしゃ)・鹿車(ろくしゃ)・牛車(ごしゃ)の三つ(三車)に、大白牛車(だいびゃくごしゃ)を加えたもの、
を、
四車(ししゃ)、
とし、この説が一般にもちいられている(精選版日本国語大辞典)とある。
三界は安きこと無しなお火宅の如し、
と、
迷いと苦しみに満ちた世界を、火に包まれた家にたとえた、
三界火宅、
のたとえ、
は、
「あるところに大金持ちがいました。ずいぶん年をとっていましたが、財産は限りなくあり、使用人もたくさんいて、全部で百名ぐらいの人と暮らしていました。主人が住んでいる邸宅はとても大きく立派でしたが、門は一つしかなく、とても古くて、いまにも壊れそうな状態でした。ある時、この邸宅が火事になり、火の回りが早く、あっという間に火に包まれてしまいました。主人は自分の子どもたちを助けようと捜しました。すると、子供たちは火事に気付かないのか、無邪気に邸宅の中で遊んでいます。この邸宅から外に出るように声をかけますが、子どもたちは火事の経験がないため火の恐ろしさを知らないのか、言うことを聞きません。そこで主人は以前から子供たちが欲しがっていた、おもちゃを思い出します。羊が引く車、鹿が引く車、牛が引く車です。主人は子どもたちに『おまえたちが欲しがっていた車が門の外に並んでいるぞ!早く外に出てこい!』と叫びます。それを聞いた子どもたちが喜び勇んで外に出てくると、主人は三つの車ではなく、別に用意した大きな白い牛が引く豪華な車(大白牛車)を子どもたちに与えました。」
という話(https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=103)で、これは、
主人が仏で、子どもがわれわれ衆生、邸宅の中(三界)に居る子どもは火事が間近にせまっていても、目の前の遊びに夢中で(煩悩に覆われて)そのことに気付きません。また、主人である父(仏)の言葉(仏法)に耳を傾けることをしません。そこで、主人は子どもに三車(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教え)を用意して外につれ出し助け、大きな白い牛が引く豪華な車(一乗の教え)を与えた、
というもので、
われわれ衆生をまず、三乗の教えで仮に外に連れ出し、そこから更に、これら三乗の教えを捨てて一乗の教えに導こうとする仏の働き(方便)を譬え話に織り込んで、説いている、
と解釈されている(仝上)。三車は、
羊鹿牛車(ようろくごしゃ)、
みつのくるま、
などともいう(仝上)。
因みに、法華経には、
仏は衆生の能力に応じていろいろな教法を説くが、目的は、仏の悟りに導くため、および仏の法身 (永遠不変の真実の相) は不滅かつ普遍であることを示す、
ためであり、
三界火宅の喩え(譬喩品)、
のほかに、
長者窮子(ぐうじ)の喩え(「窮子」については触れた)、
三草二木の喩え、
化城宝所の喩え(化城喩品)、
衣裏(えり)繋珠(けいじゅ)の喩え(五百弟子受記品)、
髻中(けいちゅう)明珠(みょうじゅ)の喩え(安楽行品)、
良医病子の喩え(寿量品)、
の七つの喩え、
法華七喩(ほっけしちゆ)、
が説かれている(http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_07.html・ブリタニカ国際大百科事典)。それぞれの概略はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9に譲る。
(法華経の梵語(サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』、逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」である https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)
なお、法華経については、「法華経五の巻」で触れたことがある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月13日
千手の呪(まじない)
千手の呪(まじない)を持っている者を打って、死の報いを得た話(霊異記)、
の、
千手の呪(まじない)、
は、
呪とは陀羅尼のこと、ここは千手陀羅尼經の陀羅尼を指す、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。『梁塵秘抄』(第二巻陀羅尼品)にも、
ゆめゆめ如何にも毀(そし)るなよ、一乗法華の受持者をば、薬王勇施(ゆせ)多聞持國十羅刹の、陀羅尼を説いて護るなる、
とある(佐々木信綱校訂『梁塵秘抄』)。
密教の要義約百条を解説した『秘蔵記』(恵果の口説を空海が記述とも、不空三蔵の口説を恵果が記述とも、唐の義操の弟子文秘述とも、諸説ある)には、
諸經中説陀羅尼、或陀羅尼、或明、或呪、或密語、或真言、如此五義、其義如何、陀羅尼者、佛放光、光之中所説也、……今持此陀羅尼人、能發神通、除災患、與呪禁法相似、是曰呪、
とある。
(梵字とソグド文字で書かれた青頸陀羅尼 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%82%B2%E5%BF%83%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BCより)
「陀羅尼」は、「加持」で触れたように、
サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、
で、
陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、
とも書き、
保持すること、
保持するもの、
の意で、
総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、
と意訳し、
能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、
をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、
サンスクリット語原文を音読して唱える、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC)。
其の用、聲音にあり。これ佛、菩薩の説ける呪語にして、萬徳を包蔵す。呪は、如来真言の語なれば真言と云ひ、呪語なれば、誦すべく解すべからず、故に翻訳せず、
とある(大言海)。ダーラニーとは、
記憶して忘れない、
意味なので、本来は、
仏教修行者が覚えるべき教えや作法、
などを指したが、これが転じて、
暗記されるべき呪文、
と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、
一種の記憶術、
であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、
暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、
を目的とし(仝上)、
種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、
と称したもので、
術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった
とある(精選版日本国語大辞典)のは、
原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、
真言 mantra、
といわれたからだが、普通には、
長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)
と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、
これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、
とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、
初に那謨(なも)、或は唵(おん)の如き、敬礼を表す語を置き、諸仏の名號を列ね、二三の秘密語を繰返し、末に婆縛訶(そはか)の語を以て結ぶを常とす、又、阿鎫覧唅欠(アバンランガンケン)の五字は、大日如来の真言にて、五字陀羅尼とも云ひ、この五字は阿鼻羅吽欠(アビラウンケン)の如く、地、水、火、風、空、の五大にして、大日如来の自体となす(大言海)、
とか、
仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる(日本大百科全書)、
とかとある。因みに、「阿毘羅吽欠蘇婆訶」(あびらうんけんそわか)となると、
阿毘羅吽欠、
は、
梵語a、vi、ra、hūṃ、khaṃ、
の音写で、
地水火風空、
を表し、
大日如来に祈るときの呪文、
である(デジタル大辞泉)。
蘇婆訶、
は、
梵語svāhā、
の音写で、
成就の意を表す(仝上)。『大智度論(だいちどろん)』には、
聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、
分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、
入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、
の三種の陀羅尼を説き、
略説すれば五百陀羅尼門、
広説すれば無量の陀羅尼門、
があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、
法陀羅尼、
義陀羅尼、
呪(じゅ)陀羅尼、
能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、
の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、
法持(ほうじ)、
義持(ぎじ)、
三摩地持(さんまじじ)、
文持(もんじ)、
の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、
原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、
とある(精選版日本国語大辞典)。
なお、「陀羅尼」は、訛って、
寺に咲藤の花もやまんたらり(俳諧「阿波手集(1664)」)、
と、
だらり、
ともいう。
陀羅尼、
は、結句、
すべてのことを心に記憶して忘れない力、または修行者を守護する力のある章句、
をいい(日本国語大辞典)、特に、
密教では一般に長文の梵語を訳さないで梵文の呪文を翻訳しないで、原語のまま音写されたものを、そのまま読誦するので(仝上)、
一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受ける、
とされ(仝上)、
秘密語、
密呪、
呪、
明呪、
ともいい(広辞苑)。
呪、
を、
陀羅尼、
と名づけるところから、呪を集めたものを、
陀羅尼蔵、
明呪蔵(みょうじゅぞう)、
秘蔵(ひぞう)、
等々といい、経蔵、律蔵、論蔵、般若(はんにゃ)蔵とともに、
五蔵、
の一つとされる。密教では、
祖師の供養(くよう)や亡者の冥福(めいふく)を祈るために尊勝(そんしょう)陀羅尼を誦持するが、その法会(ほうえ)を、
陀羅尼会(だらにえ)、
といい(日本大百科全書)、
陀羅尼を誦する時につく鐘、特に、京都建仁寺の
百八陀羅尼鐘、
を、
陀羅尼鐘、
といい、陀羅尼のこと、また、密教の呪文を、
陀羅尼呪(だらにじゅ)、
また、吉野・大峰・高野山などで製造する、
もと陀羅尼を誦する時、睡魔を防ぐために僧侶が口に含んだ苦味薬で、ミカン科のキハダの生皮やリンドウ科のセンブリの根などを煮つめて作る黒い塊、
を、
陀羅尼助(だらにすけ)、
という(仝上)。
苦味が強く腹痛・健胃整腸剤、
に用いる(日本国語大辞典)。訛って、
だらすけ、
ともいう(仝上)。
なお、真言密教の「加持」、「求聞持法」については触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月14日
日摩尼手(にちまにしゅ)
千手観音を信仰し、日摩尼手(にちまにしゅ)をたたえ、眼が見えるように祈った(霊異記)、
にある、
日摩尼手、
は、
千手観音の多くの手の中で、日摩尼(日精摩尼ともいう)の玉を持つ手をいう。日摩尼の玉は一切の闇を除くと信じられていた、
とある(景戒(原田敏明・高橋貢訳)『日本霊異記』)。
日摩尼(にちまに)、
の、摩尼は、
maṇi、
日宮殿(太陽)の火珠、
からできていて、
自然に光熱を発する玉、
で、
太陽をかたどったもので、この玉は、
千手観音の四十手中、右の第八手が持ち、
衆生に光明を与えることを意味し、盲人の信仰が厚い(精選版日本国語大辞典)とある。日宮殿(太陽)の対が、
月宮殿(げっきゅうでん、がっきゅうでん)、
で、「須弥山」で触れたように、共に須弥山の中腹の高さで周回している。
「千手観音(せんじゅかんのん)」は、
千手千眼観自在菩薩、
の略称(精選版日本国語大辞典)、
千手、
千手千眼、
千手観世音、
千手千眼観世音菩薩、
千眼千臂観世音、
とも呼び(精選版日本国語大辞典)、観世音菩薩があまねく一切衆生を救うため、身に千の手と千の目を得たいと誓って得た姿である、
観音菩薩の変化(へんげ)像の一つ、
で、
五重二十七面の顔と一千の慈眼をもち、一千の手を動かして一切衆生(いっさいしゅじょう)を救うという大慈(だいじ)大悲の精神、
を具象している(日本大百科全書)。
(千手千眼観自在菩薩 精選版日本国語大辞典より)
「千手観音」の、
千は満数で、目と手はその慈悲と救済のはたらきの無量無辺なことを表わしている、
とある(精選版日本国語大辞典)。観音菩薩は大きな威神力をもち世間を救済するという期待が、この千手観音像を成立させたと考えられる(仝上)。千手のうち、四十二臂(ひ)には、
印契器杖(いんげいきじょう)、
を持ち、九五八臂より平掌が出て、
宝剣、宝弓、数珠(じゅず)、
などを持っている。ただ、造像のうえでは千手ではなく、四十二手像に省略されることが多い(仝上)。江戸時代に土佐秀信によって描かれた仏画集『佛像圖彙』(元禄3年(1690))の「千手観音」の註には、
千手、實ニハ、四十臂也、二十五有ニ、各々、四十臂コレアルヲ都合スレバ、千手ナリ、根本印、九頭龍印、又、大慈悲観音、
とある。また、
二十八部衆、
という大眷属を従え、これらは礼拝者を擁護するという(仝上)。
なお、「印契(いんげい)」とは、
Mudrā、
の意訳、
で、
牟陀羅、
と音訳し、
印相、
密印、
印、
等々とも意訳する(精選版日本国語大辞典)。
「印」は標幟(ひょうし)、「契」は契約不改、
の意で、
指を様々の形につくり、また、それを組み合わせて、諸仏の内証を象徴したもの、
で、もとは、
釈尊のある特定の行為の説明的身ぶりから生れたもの、
であったが、密教の発展に伴って定型化した。顕教と密教では印契の意味についてかなり異なった解釈をし、顕教はこれを、
しるし、
の意味としているが、密教では、
諸尊の悟り、誓願、功徳の象徴的な表現、
と解し(ブリタニカ国際大百科事典)、
三密(身密(しんみつ 身体・行動)、口密(くみつ 言葉・発言)、意密(いみつ こころ・考え)との「身・口・意(しんくい)」)、
のうちの「身密」であるとされる。
施無畏印(せむいいん)、
法界定印(ほっかいじょういん)、
施願印(せがんいん)、
智拳印(ちけんいん)、
引声印、
などがある(精選版日本国語大辞典)。印契のうち持物を用いる象徴を、
契印、
手の形による象徴を、
手印、
という(仝上)。
「千手観音」は、六道に対応する、
六観音の一つ、
とされ、
餓鬼道または天道、
に配し、形像は、
立坐の二様、
で、
一面三目または十一面(胎蔵界曼荼羅では二十七面)、四十二の大きな手をそなえ、各手の掌に一眼をつけ、それぞれ持物を執るか、印を結ぶ、
とある。この菩薩の誓いは、
一切のものの願いを満たすことにあるが、特に虫の毒・難産などに秀でており、夫婦和合の願いをも満たす、
という(仝上)。因みに、六観音とは、
六道それぞれの衆生を救済するために、姿を七種に変える観音、
を言い、
衆生を救う六体の観音、
で、密教では、
地獄道に聖(しよう)観音、餓鬼道に千手観音、畜生道に馬頭観音、修羅道に十一面観音、人間道に准胝(じゆんでい)または不空羂索(ふくうけんじやく)観音、天道に如意輪観音、
を配する(広辞苑)。
七観音(しちかんのん)、
という呼び方もする。
(木造千手観音坐像 妙法院蔵(三十三間堂安置) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%89%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3より)
千手観音の眷属である、二十八部衆は、『千手経二十八部衆釈』には、
密迹金剛士・烏芻君荼央倶尸・摩醯那羅延・金毘羅陀迦毘羅・婆馺婆楼那・満善車鉢真陀羅・薩遮摩和羅・鳩蘭単吒半祇羅・畢婆伽羅王・応徳毘多薩和羅・梵摩三鉢羅・五部浄居炎摩羅・釈王三十三・大弁功徳天・提頭頼吒王・神母女等大力衆・毘楼勒叉・毘楼博叉・毘沙門天・金色孔雀王・二十八部大仙衆・摩尼跋陀羅・散脂大将弗羅婆・難陀跋難陀・大身阿修羅・水火雷電神・鳩槃荼王・毘舎闍、
等々の各神とされるが、神名は必ずしも一定しない(精選版日本国語大辞典)とある。
なお、小児の遊戯の一つに、
小いさき児を背合せに負いて、千手観音と呼びあるくもあれば(「東京風俗志(1899~1902)」)、
と、
小さな児を背中合わせにおぶって「千手観音、千手観音」と呼び歩く遊び、
というのがある(精選版日本国語大辞典)という。
(子供の遊戯、千手観音 精選版日本国語大辞典より)
なお千手観音の持ち物についてはhttps://butsuzo-nyumon.com/senju-kannon-bosatsu#jimotsuに詳しい。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月15日
兜率天
弥勒菩薩が兜率天にいて、願いに応じて現れた(霊異記)、
とある、
兜率天、
とは、
仏教に六欲天の第四なり、須弥山の頂上十二万由旬に在り、摩尼宝殿又兜率天宮なる宮殿あり、無量の諸天之に住し、内院には弥勒ありて説法す、
という(画題辞典)。
六欲天の中下の三天は慾情に沈み、上の二天は浮逸多し、唯この天のみ浮沈の中間に在りて喜事遊樂多しと説かる、之を画けるものに兜率曼陀羅あり、
とある(仝上)。「兜率」は、
サンスクリットの原語 Tuṣita、
を(トゥシタは「満足せる」の意)、
都率(とそつ)、
覩史多(とした)
兜率陀、
都史陀、
兜術、
等々と音写し、
上足、
知足、
喜足、
妙足、
などと訳す(東洋画題綜覧・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9)。
内外二院、
あり(広辞苑)、内院は、
将来仏となるべき菩薩が最後の生を過ごし、現在は弥勒(みろく)菩薩が住む、
とされ、
弥勒はここに在して説法し閻浮提に下生成仏する時の来るのを待っている、
とされている(仝上)。日本ではここに四十九院があるという。外院は、
天人の住所、
である(広辞苑)。
一切衆生(しゅじょう)の生死輪廻(しょうじりんね)する三種の世界、すなわち欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)と、衆生が活動する全世界を指す、
三界、
は、
仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死流転する、苦しみ多き迷いの生存領域、
を、
欲界(kāma‐dhātu)、
色界(rūpa‐dhātu)、
無色界(ārūpa‐dhātu)、
の三種に分類したもので(色とは物質のことである。界と訳されるサンスクリットdhātu‐はもともと層(stratum)を意味する)、
欲界は、
他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、
化楽天(けらくてん、楽変化天 らくへんげてん)六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、
兜率天(とそつてん、覩史多天 としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある、
夜摩天(やまてん、焔摩天 えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、
忉利天(とうりてん 三十三天 さんじゅうさんてん)六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、
四大王衆天(しだいおうしゅてん、四天王の住む場所) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、
の六つの、
六欲天(ろくよくてん)、
からなる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%AC%B2%E5%A4%A9・精選版日本国語大辞典)。
(兜率天を描いた浮彫 クシャーナ朝 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9より)
で、「兜率天」は、
夜摩天の上にあり、この天に在るもの五欲の境に対し、喜事多く、聚集して遊楽す、故に喜楽集とも訳し、又兜卒天宮とは、此の兜率天にある摩尼宝殿をいふ、また三世法界宮ともいふ、この天に内院外院の二あり、外院は定寿四千歳にして内院にはその寿に限なく火水風の二災もこれを壊すこと能はざる浄土である、この内院にまた四十九院あり、補処の菩薩は弥勒説法院に居す、余の諸天には内院の浄土なく兜率には内院の浄土ありと『七帖見聞』に説かれている、
とあり(仏教辞林)、この天の一昼夜は、
人界の四百歳に当たる、
という(精選版日本国語大辞典)。この天は、
下部の四天王、忉利天、夜摩天三つの天が欲情に沈み、
また反対に、
上部の化楽天・他化自在天の二天に浮逸の心が多い、
のに対して、
沈に非ず、浮に非ず、色・声・香・味・触の五欲の楽において喜足の心を生ずる、
故に、弥勒などの、
補処の菩薩、
の止住する処となる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9)。七宝で飾られた四九重の宝宮があるとされる、
兜率天の内院(ないいん)、
は、
一生補処(いっしょうふしょ)の位、
にある菩薩が住むとされ、かつて釈迦もこの世に現れる前世に住し(釈迦はここから降下して摩耶夫人の胎内に宿り、生誕したとされている)、今は弥勒菩薩が住し、法を説く(仝上)とされ、日本では古くよりこの内院を、
彌勒菩薩の浄土、
つまり、
兜率浄土、
と見てきた(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。弥勒信仰の発展とともに、兜率天に生まれ変わることを願う、
兜率往生、
の思想が生じ、阿弥陀仏(あみだぶつ)の極楽浄土(ごくらくじょうど)への往生との優劣が争われた(日本大百科全書)とある。
(木造弥勒菩薩半跏像(広隆寺蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%8B%92%E8%8F%A9%E8%96%A9より)
一生補処(いっしょうふしょ)、
とは、
eka-jāti-pratibaddha、
の意訳で、元来は、
一生だけこの迷いの世につながれたもの、
の意(ブリタニカ国際大百科事典)で、
この一生だけ生死の迷いの世界に縛られるが、次の世には仏となることが約束された菩薩の位、
をいい、菩薩の位のうちでは最上の位で、特に、
遠く西天の雲の外、一生補処の大聖(宴曲「拾菓集(1306)」)、
と、
彌勒(みろく)菩薩、
をさし、
一生所繋(いっしょうしょけ)、
補処、
ともいう(仝上・精選版日本国語大辞典)。もともと、
浄土、
という理念はインドにはなかったので、浄土思想はむしろ中国において発達し展開したが、未来仏として修行中の弥勒菩薩が待機している天上の兜率天(とそつてん)を、
弥勒の浄土、
として、そこに生まれたという信仰がまず起こり、兜率天の信仰から、東方にある、
阿閦(あしゆく)仏の浄土、
としての妙喜を説いた「阿閦仏国経」につながっていく、とある(世界大百科事典)。
弥勒信仰には、釈尊滅後五六億七千万年の後に弥勒菩薩が兜率天から娑婆世界に下ってきて衆生を済度することを待望する、
下生(げしょう)信仰、
と、
死後に兜率天宮に生天して下生するまでの間、弥勒菩薩の教化を受けようとする、
上生(じょうしょう)信仰、
の二種類があり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9)、兜率天が重視されるのは主として後者の思想である(仝上)とある。
「弥勒菩薩」については、「三会」で触れたように、阿弥陀信仰が盛んになる前は、
弥勒菩薩信仰、
が広く信じられ(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BF%E3%82%8D%E3%81%8F)、釈迦が滅した56億7千万年(57億6千万年の説あり)の未来に姿をあらわす為に、現在は、兜卒天で修行していると信じられている。このため、中国・朝鮮半島・日本において、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰が流行した(仝上)。
(阿閦(あしゆく)仏 精選版日本国語大辞典より)
因みに、「阿閦(あしゆく)仏」とは、
大乗仏教の如来(にょらい)の名、
で、
サンスクリット語の、アクショービヤAkobhya、
の訛(か)音写で、正しくは、
阿閦婆、
あるいは、
阿閦鞞(べい)、
また、
無動、
無瞋恚(むしんに)、
と訳される(日本大百科全書)とある。
過去久遠の昔、大日如来の教化により、発願、修道して成仏し、東方善快浄土を建てた仏、
で、西方の、
阿彌陀仏、
に対比され、今なお説法していると『阿閦国経』に説かれている。密教では、金剛界五智如来の一つで東方に住し、無冠で降魔の印を結ぶとする(仝上・精選版日本国語大辞典)。
インドにおいて阿閦仏の信仰は、西方の阿弥陀(あみだ)仏の信仰よりも古くから行われていたが、弥陀信仰が盛んになるに及んで衰えてしまった(仝上)とある。
(絹本著色兜率天曼荼羅図成(成菩提院) https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/312315.htmlより)
弥勒菩薩が説法をしている兜率天の世界を描いた、
兜率天曼荼羅図、
があるが、「絹本著色兜率天曼荼羅図」(滋賀県立琵琶湖文化館)では、
図像は左右対称を原則として、上から虚空、摩尼宝殿(まにほうでん)、弥勒菩薩を中心とする諸菩薩・諸天、宝池(ほうち)、二重門を描く。中央には、二重円光を背にして蓮華座上で結跏趺坐(けっかふざ)する弥勒菩薩がひときわ大きく描かれる。弥勒菩薩は脇侍(わきじ)を従え、その周囲には菩薩衆が囲繞する。弥勒菩薩の前では説法を聴聞する天子・天女が恭敬礼拝し、舞踊奏楽が献じられるなど、兜率天浄土の安穏快楽の様相をあらわす、
とある(https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/312315.html)。
(貝葉(ばいよう)経に描かれた兜率天の弥勒菩薩 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%9C%E7%8E%87%E5%A4%A9より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年03月16日
打出の太刀
打出(うちで)の太刀をはきて、節黒の胡簶(やなぐい 矢を入れ、右腰につけて携帯する道具)の、雁股(かりまた)に幷(ならび)に征矢(そや 戦闘に用いる矢。狩矢・的矢などに対していう)四十ばかりをさしたるを負ひたり(今昔物語)、
の、
打出の太刀、
は、
金銀を延べて飾った太刀、
と注記があり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、
節黒、
は、
矢柄(がら)の節の下を黒く漆で塗った物、
とある(仝上)。
打出、
は、
うちいで、
うちだし、
とも訓み、
打出の太刀、
は、
金銀を打ち延ばした薄板で柄・鞘を包み飾った太刀、
をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、「矢」については、「弓矢」、「矢の部位名」については、「はず」、「乙矢」、「矢の種類」については、「鏑矢」、「雁股」については「雁股の矢」で、それぞれ触れた。
「かたな」、「太刀」で触れたように、「太刀(たち)」は、
太刀(たち)とは、日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上で、太刀緒を用いて腰から下げるかたちで佩用(はいよう)するもの、
で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%80)、
腰に佩くもの、
を指す。腰に差すのは、
打刀(うちがたな)、
と言われ、打刀は、
主に馬上合戦用の太刀とは違い、主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀剣、
とされる(仝上)。馬上では薙刀などの長物より扱いやすいため、南北朝期~室町期(戦国期除く)には騎馬武者(打物騎兵)の主力武器としても利用されたらしいが、騎馬での戦いでは、
打撃効果、
が重視され、「斬る物」より「打つ物」であったという。そして、腰に佩く形式は地上での移動に邪魔なため、戦国時代には打刀にとって代わられた、
とある(仝上)。
(金無垢板打出葵紋散糸巻太刀拵え https://www.samurai-nippon.net/SHOP/V-1842.htmlより)
打刀(うちがたな)、
は、
反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80)、やはり、これも、
太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣である、
という(仝上)。ちなみに、
「通常 30cmまでの刀を短刀、それ以上 60cmまでを脇差、60cm以上のものを打刀または太刀と呼ぶ。打刀は刃を上に向けて腰に差し、太刀は刃を下に向けて腰に吊る。室町時代中期以降、太刀は実戦に用いられることが少い、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。「太刀」と「打刀」の区別は、例外があるが、「茎(なかご)」(刀剣の、柄つかの内部に入る部分)の銘の位置で見分ける。
(打刀の差し方(江戸時代の武士。左の武士は落とし差し。右の武士は閂差し(もしくは素早く刀を抜けよう左手で握り鐺(こじり)も上げている) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%93%E5%88%80より)
「いかもの」で触れたように、
嚴物造(づく)り、
は、
嚴物作、
怒物作、
嗔物造、
等々と当てて、
鍬形打ったる甲の緒をしめ、いかものづくりの太刀を佩き(「平治物語(鎌倉初期)」)、
と、
見るからに厳めしく作った太刀、
を指し(岩波古語辞典)、
龍頭の兜の緒をしめ、四尺二寸ありけるいか物作りの太刀に、八尺余りの金(かな)さい棒脇に挟み(太平記)、
では、
金銀の装飾をしていかめしく作った太刀、
と注がある(兵藤裕己校注『太平記』)。
イカモノは、形が大きくて堂々としているもの、
とある(岩波古語辞典)だけでなく、
事々しく、大仰なさま、
をも言っているようである。
打出の太刀、
も、その一種、こけおどしに見える。
なお、刀については、「鎧通し」、「来国光」でも触れた。
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2023年03月17日
胡簶(やなぐい)
鎧、甲、胡簶(やなぐひ)、よき馬に鞍置きて、打出の太刀などを、各取り出さむと賭けてけり(今昔物語)、
にある、
胡簶(やなぐひ)、
は、
矢を入れ、右腰につけて携帯する道具、
で、
胡籙、
とも当て、
ころく、
とも訓ませ、奈良時代から使用され、
矢と矢を盛る箙(えびら 矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具)とを合わせて完備した物の具、
で(デジタル大辞泉)、
箙(えびら)に似て軽装、
とあり(大言海)、
十矢を差す、
とある(仝上)。
矢を差し入れて背に負う武具。「靫」(ゆき・ゆぎ 矢を入れる背に負った細長い箱形のもの)に対して、矢の大部分が外に現れる、
立て式のもの、
のほか、状差し状の、形、細く高く、筒の如きを、
狩胡簶(かりやなぐい)、
といのは、古製の靫(ゆき)が発展したもので、平安時代は、
壺胡簶(つぼやなぐい)、
といい、また、丈短く、下に盆の如きものありて、背に棒を添えて矢を平らに立てたるを、
平胡簶(ひらやなぐい)、
という(仝上・デジタル大辞泉)。
裾開きの背板に細長い方立(ほうだて 鏃(やじり)を差しこむ箱の部分の称、頬立)を取りつけた平たい形、
からいう。
和名類聚抄(平安中期)には、
箙、夜奈久比、盛矢器也、胡祿、
字鏡(平安後期頃)には、
靫、兵戈之具也、也奈久比、
とある。
また、箙にさす矢羽や矢篦(やの 矢の幹)の名称から、
石打胡簶、
鷹羽(たかのは)胡簶、
中黒胡簶、
鵠羽(くぐいば)胡簶、
節黒胡簶、
などがある(精選版日本国語大辞典)。
(やなぐい 精選版日本国語大辞典より)
此の負ひたる胡簶の上差(うはざし)の矢を一筋、河より彼方に渡りて土に立てて返らむ(今昔物語)、
の、
上差、
は、
うわざし、
うわや、
とも訓み、
やなぐいの左側に差した二本のかぶらや、
とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が(「鏑矢(かぶらや)」については「鏑矢」で触れた)、「上差の矢」とは、「胡簶」「箙(えびら)」等々に盛った矢の上に、
別形式の矢を一筋または二筋差し添えたもの、
で、征矢(そや 戦場で使う矢。狩り矢・的矢などに対していう)に対しては、
狩矢(かりや)である狩股(かりまた)の鏃(やじり)をつけた鏑矢(かぶらや)、
を用い、狩矢を盛った狩箙(かりえびら)には、
征矢、
を上差しとする(精選版日本国語大辞典)。平胡簶や壺胡簶では矢篦(やがら)を斜めに筈(はず)を下げて差しこむので、
落し矢、
ともいう(仝上)。
(臺胡簶 精選版日本国語大辞典より)
(平胡簶 精選版日本国語大辞典より)
「やなぐい」は、
矢之杙(ヤノクヒ)の義(大言海・和字正濫鈔)、
矢具笈(やぐおひ)の略転(大言海)、
辺りが語源と見られるが、その他、
矢の笈の意か(南留別志・安斎随筆)、
ヤクイレ(矢具入)の義(言元梯)、
ヤナクミ(簗組)の義か(名語記)、
等々もある。
「靫」(ゆぎ)は、平安時代までは、
ゆき、
と発音、
上古時代に矢を入れて携行した武具の一種、
で、
靭、
とも当てる(ブリタニカ国際大百科事典)。
背中に背負って携行、
し、
古墳時代後期には、武人埴輪や装飾古墳の壁画などにみられる奴凧形の靫が使用されている(ブリタニカ国際大百科事典)。木製漆塗りのほか、表面を張り包む材質によって、
錦靫(にしきゆき)、
蒲靫(がまゆき)、
などがあり、平安時代以降の壺胡簶(つぼやなぐい)にあたる(デジタル大辞泉)。
「靫」の語源には、
弓術笥(ユミゲ)の略顛と云ふ、射具(イゲ)と云はむが如し(大言海)、
ユミケ(弓笥)の義(名言通)、
ユミゲの略(箋注和名抄)、
ユキ(弓笥)の義(東雅・和訓栞・日本語源=賀茂百樹)、
ユキオヒ(靭負)の義(名語記)、
等々、「笥」(ケ)という、
四角いはこ、
の意は形態からきている。
(ゆぎ 精選版日本国語大辞典より)
なお、
靫、
を、
うつぼ、
と訓ますと、
空穂、
とも当て、
うつお、
となまり、
雨湿炎乾に備えて矢全体を納める細長い筒、
で、
下方表面に矢を出入させる窓を設け、間塞(まふたぎ)と呼ぶふたをつける。竹製、漆塗りを普通とするが、上に毛皮や鳥毛、布帛(ふはく)の類をはったものもあり、また、近世は大名行列の威儀を示すのに用いられ、張抜(はりぬき)で黒漆塗りの装飾的なものとなった、
とある(精選版日本国語大辞典)。なお、
「靱」と書くのは誤用、
とある(広辞苑)。
(「靫」 デジタル大辞泉より)
(うつぼ 精選版日本国語大辞典より)
また、「箙」(えびら)は、
矢筒、
ともいい、
やなぐい、
とも訓ませ、
靫(うつぼ、ゆぎ)、
とも呼ばれ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%99)とあり、同じ、
矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具、
である、
箙、
胡簶、
の区別が難しいが、
矢をもたせる細長い背板の下に方立(ほうだて)と呼ぶ箱をつけ、箱の内側に筬(おさ)と呼ぶ簀子(すのこ)を入れ、これに鏃(やじり)をさしこむ。背板を板にせずに枠にしたものを、
端手(はたて)、
といい、中を防己(つづらふじ)でかがって、
中縫苧(なかぬいそ)、
という。端手の肩に矢を束ねて結ぶ緒をつけ、矢把(やたばね)の緒とする(精選版日本国語大辞典)。
箙は、
靭(ゆぎ)から発展したもの、
とされ、平安時代中期ごろから盛んに用いられた。なお、同時代の矢入れ具である、
胡籙(やなぐい)
と同じものであったらしいことが当時の資料にみえる(日本大百科全書)とあり、鎌倉時代以後、
矢を盛った状態のものを、
胡籙、
矢入れ具そのものを、
箙、
と称したこともあったようだが、
箙、
は武人用、
胡籙、
は公家の儀式用と区別するようになった(日本語源大辞典)。結局、箙は、
古製なるは、胡簶に同じ、後には、平胡簶に似たる製の物の称、
とあり(大言海)、
矢の數二十四本にて、其一本は、矢がらみの緒にて鎧にからみつく、
とある(仝上)。
なお、箙は、熊や、猪の皮を張った、
逆頬箙(さかづらえびら)、
を正式とし、そのほかに、
葛(つづら)箙、
竹箙、
角(つの)箙、
革箙、
柳箙、
塗箙、
等々の種類がある(仝上・精選版日本国語大辞典)。
(腰に箙を着けた武士 (新形三十六怪撰) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%99より)
(えびら 広辞苑より)
(えびら 精選版日本国語大辞典より)
(箙の各部位 日本大百科全書より)
「箙」の語源は、
蠶簿胡簶(エビラヤナグヒ)の略にて、竹籠製の竹箙(タカエビラ)が本なるべし、
とあり(大言海)、今昔物語の、
夫は竹蠶簿(タカエビラ)、箭十ばかり刺したるを掻負いて、弓うち持ちて後に立ちむて行きけるほどに、
とあるのを用例とする(仝上)。「蠶簿(えびら)」は、
葡萄葛(えびらつら)の略、
で、養蚕の具、和名類聚抄(平安中期)には、
蠶簿、衣比良、養蠶(蚕)器、施蠶於其上、令作繭者也、
とある。そのため、
蚕具のエビラにかたどったものであるところから(名言通・和訓栞)、
というのが妥当ではあるまいか。
なお、「矢」については、「弓矢」、「矢の部位名」については、「はず」、「乙矢」、「矢の種類」については、「鏑矢」、「雁股」については「雁股の矢」で、それぞれ触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年03月18日
馬手・弓手
其の呼ぶ聲を弓手(ゆんで)ざまになして、火を火串(ほぐし 松明を固定させるための串)にかけていけば、……本(もと)の如く、馬手(めて)になして火を手に取りて行く時には、必ず呼びけり(今昔物語)、
の、
弓手、
は、
弓を取る手、左手、つまり、弓を射る時の正面になる、
とあり(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、
馬手、
は、
馬の手綱を取る手、右手、
とある(仝上)。
(流鏑馬の射手の狩装束 (流鏑馬絵巻) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E5%B0%84より)
「弓矢」で触れたことだが、
(源為朝は)弓手のかひな馬手に四寸のびて、矢づかを引く事世に越たり(保元物語)、
と、
ユミデ(弓手)の音便(大言海)、
ユミテの音便形(岩波古語辞典)、
で、
弓を持つ方の手、右手には手綱を持つ。因りて、右手を馬(め)手と云ふ、
とあり(大言海)、広げて、
左の方、
左側、
の意でも使い、鎧(よろい)の右脇(わき)の草摺(くさずり)を、
射向(いむけ・いむか)の草摺、
というのに対して、左脇のそれを、
弓手の草摺、
と称し、左側から体を後ろひねりにすることを、
弓手捩(もじり)、
と言う(精選版日本国語大辞典・世界大百科事典)。
馬手、
は、
右手、
とも当て、
馬の手綱を持つ手、
の意(広辞苑)で、
矢をつがえる手、
の意で、
矢手(やて)、
とも言う(精選版日本国語大辞典)。広げて、
右の方、
右側、
の意でも使い、鎧(よろい)の右脇の草摺を、
馬手の草摺(くさずり)
鎧(よろい)の右側の袖を、
馬手の袖(そで)、
という(日本国語大辞典)。
右方が防備不十分だったところから、
とも、また、
めて(女手)の意、
ともいい、
御連中といふ物は、ちっとめてな時に見てやらしゃるが本の御ひいき(浄瑠璃「難波丸金鶏」)、
と、
劣っているさま、
落ち目であるさま、
の意で使い、
めてくち、
ともいう(仝上)。また、犬追物(いぬおうもの)のとき、向かいから右方へ筋かいに行く犬の右を射ることを、
馬手差(めてざし)、
また、通常の腰刀は左腰にさすが、組打(くみうち)などの便宜から右脇にさすために、さし方や栗形(くりがた 刀の鞘口に近い差表(さしおもて)に付けた孔のある月形(つきがた)のもの。下緒(さげお)を通す)、折金(おりがね 栗形の下につけて帯をはさみ、刀身を抜く際に鞘の抜け出すのを防ぐ)の拵(こしらえ)を反対にとりつけた腰刀(短刀)を、
馬手差(めてざし)、
という(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
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2023年03月19日
うちまき
うちまきの米を多(おほ)らかにかいつかみてうち投げたりければ、此の渡る者ども、さと散りて失せにけり。……されば、幼き兒どもの邊には、必ずうちまきをすべきことなりとぞ(今昔物語)、
とある、
うちまき、
は、
まよけの為に子供の枕もと等に米をまくのをいう。又その米をもいう、
とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。
(うちまき 精選版日本国語大辞典より)
打撒き、
と当て、
散米(うちまき)、
とも書き(ブリタニカ国際大百科事典)、
打撒米(うちまきよね)の略、
とあり、
散米(さんまい)、
ともいう(広辞苑)。
陰陽師の祓に、粿(カシヨネ)を撒き散らすこと、禍津比(まがつび)の神の入り来たらむを、饗(あ)へ和めて、退かしむる、
という(大言海)、
供物供進の一方法、
で、
米をまき散らすこと、
だが、特に、
陰陽師が祓(はらい)、禊(みそぎ)、病気、出産、湯殿始めなどの時、悪神を払うために米をまき散らすこと、また、その米、
をいう(精選版日本国語大辞典)とある。「粿(カシヨネ)」は、
カシは淅(か)し(水に浸す)の意、
で、
水で洗った米、
洗米、
の意(岩波古語辞典)である。「禍津比(まがつび)の神」は、
神名の「禍」(マガ)は「災厄」、「ツ」は上代語の格助詞「の」、「日」(ヒ)は「神霊」の意味で、「マガツヒ」の名義は「災厄の神霊」、
という意味になり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8D%E6%B4%A5%E6%97%A5%E7%A5%9E)、
神産みで、黄泉から帰った伊邪那岐命が禊を行って黄泉の穢れを祓った時に生まれた神、
である(精選版日本国語大辞典)。
祓に際してまくのは、
米のもつ霊力で悪霊や災厄を防除し、心身や四囲を清めようとするため、
である(ブリタニカ国際大百科事典)。
節分の夜の豆撒きは、これの名残、
とある(岩波古語辞典)。
しかし、「うちまき」の意は、転じて、
御幣紙(ごへいがみ)、うちまきの米ほどの物、慥(たしか)にとらせん(宇治拾遺物語)、
と、
祓の際や、神仏に参ったときなどに水に浸した米をまき散らすこと(ブリタニカ国際大百科事典)、
また、
神拝の時、神前にまく米(精選版日本国語大辞典)、
をも指すようになり、やはり、
散米、
ともいい、
散供(さんく)、
花米(はなしね)、
などともいい(大辞泉)、散供がなまって、
さんご(散供)、
お散供がなまって、
おさこ(御散供)、
おさご(御散供)、
ともいう(世界大百科事典・ブリタニカ国際大百科事典)。字鏡(平安後期頃)に、
糈、ウチマキヨネ、
とある(「糈(ショ)」は、神前に供える米、または餅)。この、
神仏に供える白米、洗い米、
は、
糈(くましね)、
といい、
糈稲(くはししね)の転、
とあり(大言海)、
神のカミはクマからきたとする、
説もある(世界大百科事典)
糈米、
供米、
奠稲、
とも当て(仝上・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、
おくま、
御洗米(おせんまい)、
おくまい(御供米)、
ともいい、
すごき山伏の好むものは……わさび、かしよね、みづしづく(梁塵秘抄)
と、
かしよね(粿米・淅米)、
ともいい、略して、
くま、
ともいう(大言海)。
社前にまくのは、
神供、
としてであり、
賽銭箱、
が普及して、そこに銭を奉財する習俗が一般化したのは近世になってからであるといわれ(仝上)、
散米の習俗、
は、その一つ以前の姿を伝ている(仝上)とされる。ただ、
後世、神社に詣で、神前に米を撒き奉りて、御散供(おさんごう)と云ふは、無禮なり、
ともあり(大言海)、賽銭は、
幣帛(みてぐら)に代えて供へ奉る錢、
で、
香花錢、
ともいう(大言海)。江戸後期の『松屋筆記』に、
聖福寺佛殿記に、錢幣之獻、材木之奉、……按ズルニ、コレ、今ノ賽銭也、
とある。「散米」、「産供」は、
散錢(さんせん)、
ともいい、
神前に奉る錢、
で、
散物(さんもつ)、
ともいう(仝上)。
花米(はなしね)、
は、
花稲、
とも当て、神供には違いないが、
山桜吉野まうでのはなしねを尋ねむ人のかてにつつまむ(古今著聞集)、
と、
神に供えるため、米を神に包んで木の枝などに結びつけたもの、
とあり(岩波古語辞典)、また、参拝のとき、
神前にまきちらす散米、
をもいう(精選版日本国語大辞典)とある。
はなよね、
ともいう(仝上)。もともと、白紙に米を包んで一方をひねったものを、
オヒネリ、
ともいうから、もとは神への供え物である米を意味したが、米の霊力によって悪魔や悪霊を祓うためにまき散らすこととなった、
ようである(世界大百科事典)。たとえば、『延喜式』記載の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞の注に、
今世、産屋以辟木束稲、置於戸邊、乃以米散屋中之類、
と、
出産にあたって産屋に米をまき散らし、米の霊力によって産屋を清めたこと、
がみえている(仝上)。
神前にまきちらす散米、
の意からであろうか、「うちまき」は、さらに転じて、
御うちまきのふくろ二宮の御かたへまいる(御湯殿上日記)、
と、
米、
特に、
ついて白くしたものをいう女房詞、
としても使われた(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。
「散供」(さんぐ)は、
清き砂を散供として、名句祭文を読みあげて、一時の祝(のっと)と申しけり(源平盛衰記)、
神祇官人……次南殿御膳宿、散供畢挿土銭以糸貫之(「江家次第(1111頃)」)
と、
米、金銭などをまき散らして、神仏に供えること、また、そのもの、
を言い、特に、
米、
にいい、
うちまき、
はなしね、
散米、
と同義に用いることが多い(精選版日本国語大辞典)とあり、やはり、
戌時帰小野宮、以陰陽允奉平令反閉、先是於小野宮令散供(「小右記」寛和元年(985)五月七日)、
と、
散米、
うちまき、
はなしね、
と同様に、
米、金銭などをまき散らして、悪、けがれ、災厄等を祓い、善、浄、吉祥等をあがなおうとすること、また、そのもの、
の意でも使う(仝上)。
因みに、節分の夜、鬼を追い払うためと称して煎豆(いりまめ)を撒く、
豆撒き、
は、食べ物を撒き散らす、
散供(さんぐ)、
からきているが、白米を撒く、
散米(うちまき)、
白米すこしを紙片に包んで神仏にあげる、
オサゴ、
とつながっている。、家屋新築の棟上げに餅(もち)や粢(しとぎ)団子を投げるのも同類の趣旨とみられる(日本大百科全書)とある。「豆撒き」については、「追儺」、「鬼門」で触れた。
(豆撒き(北斎漫画・節分の鬼) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%88%86より)
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年03月20日
詠(なが)む
こぼれてにほふ花櫻かなと詠(なが)めれば、其の聲を院聞かせ給ひて(今昔物語)、
花を見る毎に、常にかく詠めけるなめりとぞ人疑ひける(仝上)、
などとある、
詠む、
は、
声を長くひく、また、声を長くひいて詩歌をうたう、
つまり、
真日中に、聲を挙げてながめけむ、まことに怖るべき事なりかし(仝上)、
と、
詩歌を吟詠する、
意で(広辞苑・大辞林)、そこから、転じて、
彼の在原のなにがしの、唐衣(からころも)きつつなれにしとながめけん三河の国八橋(やつはし)にもなりぬれば(平家物語)、
と、
詩歌をつくる、
詠ずる、
吟ずる、
つまり、
詠(よ)む、
意でも使う。
「詠む」は、
「長(なが)む」の意か(広辞苑・大辞林)、
「なが(長)」から派生した語か。「長む」とも書く(日本国語大辞典)、
とある。
長む、
は、
さしはなれたる谷の方より、いとうらわかき聲に、遥かにながめ鳴きたなり(蜻蛉日記)、
いとむつかしがれば、長やかにうちながめて、みそかにと思ひて云ふらめど(枕草子)、
と、
長くなす、
引き延ばす、
意で、
詠む、
と同義でも使う(大言海)。憶説だが、
長む、
が先で、
歌を詠う、
のと絡めて、
詠む、
と当てたのではあるまいか。漢字「詠」は、
聲を長くのばして、詩歌をうたう、
意と共に、
詩歌を作る、
意もある(漢字源)。
「詠」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、
会意兼形声。「言+音符永(ながい)」、
とあり(仝上)、
声を長く引いて「うたう」意を表す、
とある(角川新字源)。別に、
会意兼形声文字です(言+永)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「支流を引き込む長い流域を持つ川」の象形(「いつまでも長く続く・はるか」の意味)から、口から声を長く引いて「(詩歌を)うたう」を意味する「詠」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1238.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95