2023年04月30日
いとほし
今よりかかる事なせそ。いとほしければ逃すぞ(今昔物語)、
の、
いとほし、
には、意味の幅があり、
翁(おきな)をいとほしく、かなしと思(おぼ)しつることも失せぬ(竹取物語)、
と、
気の毒だ、
かわいそうだ、
の意と、
宮はいといとほしと思(おぼ)す中にも、男君の御かなしさはすぐれ給(たま)ふにやあらん(源氏物語)、
と、
かわいい、
の意、
人の上を、難つけ、おとしめざまの事言ふ人をば、いとほしきものにし給(たま)へば(源氏物語)、
と、
困る、
いやだ、
の意、
女のかく若きほどにかくて(貧しくて)あるなむ、いといとほわしき(大和物語)、
と、
見ていてつらい、
気の毒だ、
の意、
熊谷あまりにいとほしくて、いづくへ刀を立つべしとも覚えず(平家物語)、
と、
かわいそうだ、
の意(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)等々、微妙な意味の違いがあるが、
弱い者、劣った者を見て、辛く目をそむけたい気持になるのが原義、自分のことについては、困ると思う意、相手に対しては「気の毒」から「かわいそう」の気持に変わり、さらに「かわいい」と思う心を表すに至る、いとしはこの転、
とある(岩波古語辞典)。ある意味、たとえば、
弱小的なもの、
を、外から見て、
気の毒、
が、弱小なものへの保護的な感情を表わして、
見るのがつらい、
↓
いじらしい、
↓
かわいそう、
といった状態表現から、
かわいいい、
↓
いとしい、
と、価値表現へと転じていくように見える。
「いとほし」の語源は、
イタワシ(心痛・心労)の転(大言海・俚言集覧・日本語源広辞典)、
と、
イトフ(厭)と同根、イトハ(イトフの未然形)+シイ(岩波古語辞典・日本語源広辞典)、
動詞「いとふ」から派生した形容詞(精選版日本国語大辞典)、
に分かれる。前者は、
いとおし、心苦しい、気の毒、いじらしい、の意を表し、
後者は、
見ていても厭でたまらない、他人への同情の語をあらわす、
とある(日本語源広辞典)。大勢は、
「いたはし」の母音交替形と考えられている、
が、平安時代になって多用され、「いたはし」とも併用されている。その、
いたはし、
は、
「いたはり・いたはる」が富を背景とした物質的な待遇を表わすのに応じて対象を価値あるものとして認め、大切にしようとするのに対して、「いとほし」は、あくまでも精神的な思いやりとして表現されるが、和歌には用いられない、
とあり(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、中世から近世初期ころに、
ハ行音転呼によってイトヲシとなり、さらに長音化してイトーシと発音され、いじらしい・いとしいの意が強くなって、イトシとなった、
ため(精選版日本国語大辞典)、「今昔物語集」から、
糸惜、
と漢字表記され、近世には、
いとをし、
いとうし、
の両形で表記されている(仝上)。
ただ、「いとふ」で触れたように、「いとふ」は、
傷思(いたくも)ふの約か。腕纏(うでま)く、うだく(抱)。言合(ことあ)ふ、こたふ(答)(大言海)、
いやだと思うものに対しては、消極的に身を引いて避ける。転じて、有害と思うものから身を守る意。類義語キラヒは、好きでないものを積極的に切りすて排除する意(岩波古語辞典)、
などとある。この語源からみると、
好まないで避ける
↓
この世を避けはなれる
↓
害ありと避ける
↓
いたわる、かばう、
↓
大事にする、
という意味の変化となり、
身をお厭いください、
という言い方は、
危なきを厭ひ護る、
意より転じて(大言海)、
自愛、
の意に変っていく。「いたはし」は、「いたわる」で触れたように、
いたはし(労はし)、
という形容詞があるが、『岩波古語辞典』は、
「イタは痛。イタハリと同根。いたわりたいという気持ち」
とあり、
(病気だから)大事にしたい、
大切に世話したい、
もったいない、
といった心情表現に力点のある言葉になっている。この言葉は、いまも使われ、
骨が折れてつらい、
病気で悩ましい、
気の毒だ、
大切に思う、
と、主体の心情表現から、対象への投影の心情表現へと、意味が広がっている。こうみると、
いとほし、
と、
いたはし、
の意味の重なりがあることは確かだが、「いとふ」の「いた」も、
痛、
と重なる。とすると、
いとふ、
と
いたはし、
の語源の対立は、
自分にとって面白くないと思う心情を表わす、
つらい、
こまる、
いやだ、
と、他人に対する同情の心を表わす、
かわいそうだ、
不憫だ、
気の毒だ、
のような(日本国語大辞典)自分に向かう感情との、
二つの方向性、
を言う(今井久代「『源氏物語』の「いとほし」が抉るもの」)のだが、共通に、
いた(痛)、
の含意があって、
いとふ、
と、
いたはし、
との二つの感情表現、
かわいそうで見ていられない、
になっているところが、
いとほし、
という言葉の含意の多重性を表しているように見える。
「痛」(漢音トウ、呉音ツウ)は、
会意兼形声。「疒+音符甬(ヨウ・トウ つきぬける、つきとおる)」、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(疒+甬)。「人が病気で寝台にもたれる」象形(「病気」の意味)と「甬鐘(ようしょう)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である、つきぬける」の意味)から、「身体をつきぬけるようないたみ」を意味する「痛」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1025.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
今井久代「『源氏物語』の「いとほし」が抉るもの」(https://core.ac.uk/download/pdf/268375063.pdf)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95