2023年05月01日

最手(ほて)


最手(ほて)に立ちて、いくばくの程をも経ずして脇にはしりにけり(今昔物語)、
これが男にてあらましかば、合ふ敵なくて最手なむどにてこそあらまし(仝上)、

とある、

最手、

は、主位の相撲、

脇、

は、

次位の相撲、

と注記がある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)が、これだとわかりにくい。

最手、

は、

秀手、

とも当て、

すぐれたわざ、
上手、
てだれ、

の意で、

相撲節(すまいのせち)で、力士の最上位の者の称、

をいい、後世の、

大関にあたり(広辞苑・大言海)、

ほつて、

とも訓ませる。「最手」の語源は、

秀手(ほて)の義(大言海)、
秀(ほ)の意(岩波古語辞典)、
ホは秀の意。(「ほつて」の)ツは連体格助詞(広辞苑・大辞林)、

である。

脇、

は、

最手脇(ほてわき)、
最手の脇(ほてのわき)、

のことで、

相撲節(すまいのせち)で、最手に次ぐ地位の力士、

をいい、現在の、

関脇、

にあたり(仝上)、

助手(すけて・すけ)、
占手(うらて)、

ともいう(岩波古語辞典・大辞林・大辞泉)。和名類聚抄(931~38年)に、

相撲……本朝相撲記、有占手、垂髪総角、最手、助手等之名別、

とあり、平安時代後期の有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』(大江匡房)に、

内取御装束、……一番最手與助手取之、

裏書に、

助手、又曰腋也、最手、腋手、皆近衛府各補其人也、

とある。また平安時代に編纂された歴史書『三代実録』(『日本三代実録(にほんさんだいじつろく』)は、

膂力之士左近衛阿刀根継、右近衛伴氏長竝、相撲最手、天下無雙(仁和二年(886)五月廿八日)、

とある。

すまふ」で触れたように、

すまひ、

は、

相撲、
角力、

と当て、

乃ち采女を喚し集(つと)へて、衣裙(きぬも)を脱(ぬ)きて、犢鼻(たふさぎ)を着(き)せて、露(あらは)なる所に相撲(スマヒ)とらしむ(日本書紀)、

と、

互いに相手の身体をつかんだりして、力や技を争うこと(日本語源大辞典)、

つまり、

二人が組み合って力を闘わせる武技(岩波古語辞典)、

要するに、

すもう(相撲)、

の意だが、今日の「すもう(相撲・角力)」につながる格闘技は、上代から行われ、「日本書紀」垂仁七年七月に、

捔力、
相撲、

が、

すまひ、

と訓まれているのが、日本における相撲の始まりとされる(日本語源大辞典)。「捔力」は、中国の「角力」に通じ、

力比べ、

を意味する(日本語源大辞典)。字鏡(平安後期頃)にも、

捔、知加良久良夫(ちからくらぶ)、

とある(日本語源大辞典)。中古、天覧で、

儀式としての意味や形式をもつもの、

とみられ、

其、闘ふ者を、相撲人(すまひびと)と云ひ、第一の人を、最手(ほて)と云ひ、第二の人を、最手脇(ほてわき)と云ふ、

とあり(大言海)、これが、制度として整えられ、

勅(ちょく)すらく、すまひの節(せち)は、ただに娯遊のみに非ず、武力を簡練すること最も此の中に在り、越前・加賀……等の国、膂力の人を捜求して貢進せしむべし(続日本紀)、

とある、

相撲の節会、

として確立していく(仝上)。これは、平安時代に盛行されたもので、

禁中、七月の公事たり、先づ、左右の近衛、力を分けて、國國へ部領使(ことりづかひ)を下して、相撲人(防人)を召す。廿六日に、仁壽殿にて、内取(うちどり 地取(ちどり))とて、習禮あり、御覧あり、力士、犢鼻褌(たふさぎ 下袴(したばかま 男が下ばきに用いるもの))の上に、狩衣、烏帽子にて、取る。廿八日、南殿に出御、召仰(めしおほせ)あり、力士、勝負を決す。其中を選(すぐ)りて、抜出(ぬきで)として、翌日、復た、御覧あり、

とあり(大言海)、その後、

承安四年(1174)七月廿七日、相撲召合ありて、その後絶えたるが如し、

とある(仝上)。また、別に、

相撲の節は安元(高倉天皇ノ時代)以来耐えたること(古今著聞集)、

ともある(日本語の語源)。高倉天皇は在位は、応保元年(1161)~治承四年(1181)、承安から安元に改元したのが1175年、安元から治承に改元したのが1177年なので、安元から治承への改元前後の頃ということか。なお、「犢鼻褌(たふさぎ・とくびこん)」については「ふんどし」で触れた。

当麻蹴速と角力を取る野見宿禰.jpg

(当麻蹴速と角力を取る野見宿禰(月岡芳年『芳年武者无類』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%A6%8B%E5%AE%BF%E7%A6%B0より)

スマヒの勝ちたるには、負くる方をば手をたたきて笑ふこと常の習ひなり(今昔物語)、

とあるように、禁中では、相撲の節会は滅びたが、民間の競技としては各地で盛んにおこなわれていた(日本語源大辞典)とある。また、「すまひ(相撲)」は、武技の一のひとつとして、昔は、

戦場の組打の慣習(ならはし)なり。源平時代の武士の習ひしスマフも、それなり、

と、

組討の技を練る目的にて、武芸とす。其取方は、勝掛(かちがかり 勝ちたる人に、その負くるまで、何人も、相撲(すまふ)こと)と云ふ。此技、戦法、備わりて組討を好まずなりしより、下賤の業となる(即ち、常人の取る相撲(すまふ)なり)、

とあり(大言海)、どうやら、戦場の技であるが、そういう肉弾戦は、戦法が整うにつれて、下に見る傾向となり、民間競技に変化していったものらしい。

その装束は、「犢鼻褌」で触れたように、

ふんどし(褌)のようなもの

とされ、

今の越中褌のようなもの、まわし、したのはかま(岩波古語辞典)、
股引の短きが如きもの、膚に着て陰部を掩ふ、猿股引の類、いまも総房にて、たうさぎ(大言海)、
肌につけて陰部をおおうもの、ふんどし(広辞苑)、

等々とあるので、確かに、

ふんどし、

のようなのだが、「ふんどし」で触れたことだが、

犢鼻(とくび)、

と当てたのは、それをつけた状態が、

牛の子の鼻に似ていること(「犢」は子牛の意)、

からきている(日本語源大辞典)とする説もあり、確かに、和名類聚抄(平安中期)に、

犢鼻褌、韋昭曰、今三尺布作之、形如牛鼻者也、衳子(衳(ショウ)は下半身に穿く肌着、ふんどしの意)、毛乃之太乃太不佐岐(ものしたのたふさき 裳下(ものしたの)犢鼻褌)、一云水子、小褌也、

とあり、下學集(文安元年(1444)成立の国語辞典)にも、

犢鼻褌、男根衣也、男根如犢鼻、故云、

とある。しかし、江戸中期の鹽尻(天野信景)は、

隠處に當る小布、渾複を以て褌とす。縫合するを袴と云ひ、短を犢鼻褌と云ふ。犢鼻を男根とするは非也、膝下犢鼻の穴あり、袴短くして、漸、犢鼻穴に至る故也、

とする。つまり、「ふんどし」状のものを着けた状態ではなく、「したばかま」と言っているものが正しく、現在でいうトランクスに近いものらしいのである。記紀では、

褌、

を、

はかま、

と訓ませているので、日本釈名に、

犢鼻褌、貫也、貫両脚、上繁腰中、下當犢鼻、

と言っているのが正確のようである。

「最」 漢字.gif



「最」 甲骨文字・殷.png

(「最」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%80より)

「最」(サイ)は、

会意文字。「おおい+取」で、かぶせた覆いを無理におかして、少量をつまみ取ることを示す。撮(ごく少量をつまむ)の原字。もと、極少の意であるが、やがて「少ない」の意を失い、「いちばんひどく」の意を示す副詞となった、

とある(漢字源)が、別に、

形声。「宀」+音符「取 /*TSOT/」、「宀」が変形して「曰」の形となった。「あつまる」を意味する漢語{最 /*tsoots/}を表す字、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%80

会意。冃(ぼう=冒。おかす意。曰は変わった形)と、取(とる)とから成り、むりに取り出す意を表す。「撮(サイ、サツ)」の原字。借りて、「もっとも」の意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意文字です(日(冃)+取)。「頭巾(ずきん)」の象形と「左耳の象形と右手の象形」(戦争で殺した敵の左耳を首代わりに切り取り集めた事から、「とる」の意味)から頭巾をつまむを意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、他と区別して特別とりあげる、「もっとも・特に」を意味する「最」という漢字が成り立ちました、

ともありhttps://okjiten.jp/kanji661.html、説が分かれている。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:43| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする