八月十五日の法會(ほふゑ)を行ひて放生會(はうじやうゑ)と云ふ、これ大菩薩の御誓ひに依る事なり(今昔物語)、
にある、
放生会(はうじやうゑ・ほうじょうえ)、
は、
仏教の不殺生の思想に基づいて、捕らえられた生類を山野や池沼に放ちやる儀式、
をいい(広辞苑)、
殺生戒に基づくもの、
で、奈良時代より行われ(大辞泉)、日本では、養老四年(720)、
合戦之間、多致殺生、宜修放生者、諸国放生會、始自此時矣(扶桑略記)、
と、
大隅、薩摩両国の隼人の反乱を契機として同年に誅滅された隼人の慰霊と滅罪を欲した宇佐八幡宮の祝(はふり・ほうり)大神諸男(おおがのもろお)と禰宜尼大神杜女(おおがのもりめ)による八幡神の託宣により宇佐八幡宮で放生会を執り行った、
のが初例(日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A)で、
(八月十五日石清水宮放生會)今件放生會、興自宇佐宮、傳於石清水宮(政事要略)、
とある、
石清水八幡宮の放生會は、貞観四年(863)に始まり、その後天暦二年(948)に勅祭となった。律令体制の衰退とともに、
古代の国家制度としての放生会は衰滅していく一方、全国に八幡信仰が広まり石清水八幡宮を中心に放生会が行われるようになった、
とある(仝上)。
(放生会 精選版日本国語大辞典)
放生、
とは、仏語で、
殺生(せつしやう)、
の対、
正旦放生、示有恩也(列子・説符)、
と、
功徳を積むため、魚鳥などをはなちやる、
意だが、
諸国をして毎年放生せしむ(「続日本紀(しょくにほんぎ)」)、
と、
仁政を示すためなどに行った(岩波古語辞典)。
放生会(ほうじょうえ)、
は、
仏教の不殺生(ふせっしょう)、不食肉の戒めに基づき、鳥魚などを野や海などに放って命を救う法会(ほうえ)、
で、仏典には、
生類は人間の前世の父母かもしれないから、その命を救い、教えて仏道を完成させてやるべきだ(「梵網経(ぼんもうきょう)」)、
眼前の動物は六道を輪廻する衆生であり、代々の父母であり我が身である(梵網経)、
釈迦が前世で流水長者であったとき、流れを止められ死にそうな魚のために、20頭の大象に水を運ばせこれを注いで命を救い、忉利天(とうりてん)に生まれさせた(「金光明経(こんこうみょうきょう)」)、
などとある(日本大百科全書・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A)。
唐の肅宗天下に詔して放生池を置く、
とあるが(金石録)、
長江(揚子江)沿岸の州県城に放生池81所を設けた、
とされ(世界大百科事典)、南北朝時代末の天台智顗(ちぎ)が、
放生池をつくり殺生を止めた、
話が有名である。また、
四月八日、為佛誕生日、諸寺各有浴佛會、是日西湖作放生會、小舟競賣亀魚螺蚌令放生(宋「乾淳佛時記(周密撰)」)
と(字源)、宋代、杭州西湖の三潭印月の周囲を放生池とし、仏生日に供養の放生会を催したことも有名である。
(源頼朝が行なった鶴岡八幡宮の放生会(月岡芳年)。由比ガ浜で千羽の鶴を放ったと言われる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9Aより)
日本では、応仁の乱の後、石清水八幡宮での放生会も中断し、江戸時代の延宝7年(1679年)に江戸幕府から放生会料百石が下され再開したが、江戸時代の放生会は民衆の娯楽としての意味合いが強く、
放し亀蚤も序(ついで)にとばす也(小林一茶)
は亀の放生を詠んだ句であり、歌川広重の、
名所江戸百景 深川万年橋、
は、亀の放生を描いた絵である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9A)。
(名所江戸百景・深川万年橋』歌川広重) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E7%94%9F%E4%BC%9Aより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95