我が子にも劣らず思ひて過ぎけるに、この向腹の乳母、心や惡しかりけむ(今昔物語)、
の、
向腹、
は、
正妻の子、
の意である(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。
向腹、
を、
むかばら、
あるいは、転化して、
むかっぱら、
と訓ませると、「向っ腹」で触れたように、
むかっぱらが立つ、
とか、
むかっぱらを立てる、
と用いて、
わけもなく腹立たしく思う気持、
の意になる。
むかひばら、
と訓むと、
本妻の腹から生まれること、
また、
その子、
を言い、
むかいめばら、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
向かひ腹、
とも表記し、
当腹、
嫡腹、
とも当てる(デジタル大辞泉)。
嫡妻腹(むかひひめばら)なるより移れるかと云ふ、
とある(大言海)。
側女でなく、正妻が生んだこと(広辞苑)、
「むかいめ(嫡妻)」すなわち本妻の腹から生まれること。また、その子(日本国語大辞典)、
正妻から生まれること。また、その子(デジタル大辞泉)、
などというのが通常の辞書の意味だが、
先妻に対して今の妻の生めること、またその子、
とあり(大言海)、
當腹、
というのは、
先妻のと別ちて云ふ、
とある(仝上)ところを見ると、
現時点の正妻、
という含意なのだろうか。
なお、「向腹」は、後に、日葡辞書(1603~04)によると、
正妻と妾とが同時に懐胎すること、
の意で使われているようだ。
「向かふ」は、
対、
とも当て、
向き合ふの約、互いに正面に向き合う意、また、相手を目指して正面から進んでいく意(岩波古語辞典)、
で、
身交(みか)ふの義(大言海)、
ムキアフ(向合)の義(日本語原学=林甕臣)、
と、
対面する、
意で、
向かひ座、
というと、
向き合ってすわること、
向かい陣、
というと、
敵陣に向き合って構えた陣、
向かひ城、
というと、
対(たいの)城、
つまり、
城攻めのとき、敵の城に相対して築く城、
をいうように、「向かふ」は、
対、
の意味を持っている。まさに、夫婦の、
対、
という含意になる。
「向」(漢音コウ、呉音キョウ)は、「背向(そがい)」で触れた。
(「腹」 楚系簡帛文字(簡帛は竹簡・木簡・帛書全てを指す)・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%85%B9より)
「腹」(フク)は、
会意兼形声。复(フク)は「ふくれた器+夂(足)」からなり、重複してふくれることを示す。往復の復の原字。腹はそれを音符とし、肉を加えた字で、腸がいくえにも重なってふくれたはら、
とある(漢字源)。別に、
形声文字です。「切った肉」の象形と「ふっくらした酒つぼの象形と下向きの足の象形」(「ひっくり返った酒をもとに戻す」の意味だが、ここでは、「包」に通じ「つつむ」の意味)から、内臓を包む肉体、「はら」を意味する「腹」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji279.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95