2023年07月09日
博引傍証
柳田國男『妹の力』を読む。
本書は、
妹の力、
玉依彦の問題、
玉依姫考、
雷神信仰の変遷、
日を招く話、
松王健児の物語、
人柱と松浦佐用媛、
老女化石譚、
念仏水由来、
うつぼ舟の話、
小野於通、
稗田阿礼、
の、12編が収められていて、
巫女、
ないし、
巫術、
に関わる論述である。特に、
「神々の祭に奉仕した者が、もとは必ず未婚の女子であり、同時に献供の品々を取得する者が、神を代表したその婦人に限られていた」(序)
とする仮説に基づき、
男帝の政治的主権をたすけた、巫女としての妹の力、
を明らかにしていくところに、その主眼がある。
「玉依彦は鴨御祖神の御兄であり、また非常に大いなる一族の高祖であったけれども、その名はただ人界に止まって、今の御社の神に祀られていない。しかもそのすぐれた妹の姫神と御子とを守護し信奉することによって、まず最大の恵沢を受けた者は玉依彦とその後裔子孫とであった。」(玉依彦の問題)、
とある、賀茂神社の祭祀での、
玉依彦と玉依姫という兄妹、
がそれにあたるし、アイヌの伝説においても、
「ところどころの島山に占拠した神は、必ず兄と妹との一組にきまっていた」
とあり(妹の力)、まさに、魏志倭人伝の、
卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた、
とする記述とも関わる問題である。その役割は、
「天然と戦い異部落と戦う者にとっては、女子の予言の中から方法の指導を求むる必要が多く、さらに進んでは定まる運勢をも改良せんがために、この力を利用する場合が常にあったのである。」(妹の力)
「けだし前代の女性が霊界の主要なる事務を管掌して、よくこの世のために目に見えぬ障礙を除去し、必ず来るべき厄難を予告することによって、いわれなき多くの不安を無用とし、ないし男たちの単独では決しがたい問題に、いろいろの暗示を与えるなど、隠れて大切な役目を果たしていた」(玉依彦の問題)、
とある。
それにしても、林達夫が、本書の書評で、
「この学問はその訪問者にも幾分この身軽な翼を賦興してくれるから、いま私が『妹の力』を読んでひどく見当違ひに見える方角へ、すっとんで行った」
とあるように、柳田國男の世界は、入口の話から、予想もしない遠くへ読み手を引っ張っていくのに、毎回驚かされる。それは、著者自身が手元にすべてのデータを持っていて、それに基づいて、ワープするように異世界へ連れていかれる感じなのである。それを批判するには、同じデータを手元で分析する以外、ないのである。
たとえば、
日を招く話、
は、
午の日を忌む、
寅の日を忌む、
子の日を忌む、
などといった、その日は、
田植えよろしからず、
という、
田植の日忌、
の話から始まり、次いで、その忌み日に田植えをすると、
「嫁が死ぬと、今でも言い伝えている処がある」
とし、そうした、
田植日忌の由来、
の話に、たとえば、
「五月七日には田を植えず、これを蘇我殿田植の日と称して忌んでいた。昔大友皇子がこの国遣水という山に城郭を構えて御住居なされたころ、この日臣下の蘇我大炊なる者を召して、国中の田人早乙女を催して田を植えしめて御覧あるに、日は夕陽となって御興いまだ尽きず、願わくは八つの時分にもなさばやと仰せられると、たちまち日は戻って九つのころとなったが、にわかに空かき曇り雷電暴雨あって万民こぞって死す」
と伝えられる、
日招き譚、
へとつなぎ、いまもその故跡がある、その田は、
死田(した)、
と呼ばれる。同種の、
日忌みの慣習の由来譚、
が、全国にあり、
死人田(しびとだ)、
病田、
癖田、
忌田、
などといい、その由来には、
「昔この田の持主に強欲な者があって、おきくという田植女にこれだけの田を一日に植えよと命じたので、おきく苦しさのあまりに死んでしまった。それから後は作れば凶事あり、今でも作る者がこれを恐れているという」
というものがあり、似たものに、
「昔嫁を虐待する姑が、これだけの田を一人で植えよと命じたところ、嫁は植え終わって即死したので、その祟りをもって植えると必ず家に死者を出す」
と言い伝える、
嫁いびり譚、
となっているものへとつなげ、それは、
嫁田、
嫁殺し田、
という名を残すものもある。そこで、柳田國男は、
「結局するところヨメとは何ぞや、何故に嫁ばかりが田植に出ては死んだといわれたかを、遡って考えてみる必要を感ずる」
とし、こんな田植え歌、
何でもかでも嫁のとが
きょうの日の、
暮れるも嫁のとがかい
を紹介し、
「三水は更級郡更府村の大字で、昔田であったという大きな池がある。これも姑に憎まれた若い嫁女が、五月に笠もなく、広い田を一日の中に植えかねて、日暮に気を落として死んでしまった。それから後はこの田の米を餅に搗くと、血がまじって食われなかった」
という嫁いびりの話の姑を、前出の、
強慾非道の長者、
に置き換えれば、結局、
同じ話、
に行きつくことになるとし、
「嫁の田系統のいくつかの遺跡に共通なる一点は、塚あり樹木あってその下に女性の霊を祀る」
ということであり、その、
日暮らし塚、
の口伝に、
「きびしい姑が、嫁をいじめて日の中に帰ってくると怒り罵る。その嫁は至って善良であって、日ごとに星を戴いて出て耕耘を事としたのみならず、なお常に日の神を拝して日中の長からんことを祈った。そうしてある年の秋重い病を煩って死んだ」
というのがある。ここで、冒頭の、
蘇我大炊の日招き、
の話と繋がり、
日の長がからんことを祈ったという女性が、後に重い病にかかって死んだ、
のは、
偶然の二つの事件、
ではなく、
「昔八幡太郎が安倍貞任と戦うた時に、戦いたけなわにして日暮れんとしたゆえに、義家扇をとって日をさしまねく。日これがために反ること三舎、その壇を麾日壇といいその地を麾日道路という」
という、
日招壇(ひまねきだん)、
につなげていく。この出典は、『淮南子』の、
「楚の魯陽公韓と難を構へ戦酣にして日暮る。戈を援いて撝くに日之が為に反ること三舎なり」、
や、舞の『入鹿』の、
蘭陵王の舞の手が戦の半ばに入日を招き返した形、
とも通底し、俗間に伝わる、
平清盛の日招き、
とも重なるが、
どうしてそれが、蘇我殿田植えのような、
田植習俗、
とつながったのかと設問し、
音頭 穏戸の瀬戸を切抜く清盛こそはノー
早乙女 日の丸の扇で御日を招ぎもどいた、
という安芸・吉田地方の田植歌を導き、各地に残る、長者の、
「ある年国中の男女を催してこの田を植えしむるに、日暮れかかってなお少しく植え残したるを本意なく思って、金の団扇をもって三たび入日を招きければ、山の端にかかりし日輪三段ばかり返り昇り、ついにその日の田植えを終わった」
という、
「沈まんとする日輪を扇をもって呼び戻す」
伝承にみられるのは、
「目的もなく夕日を招き返したのではなかった」
として、類似の話で、残った田植えを終えるために、日を招くのではなく、
「三千の油樽を取り出して山鹿の日の岡山にそそぎかけ、これに火を付けて、その光によって苗を取り終えた」
話を取り出し、すくなくとも、その話が事実であったかどうかは別としても、
「少なくとも大昔この地にいかめしくものものしい田植があり、何か記念すべきでき事があった」
と想像し、もう一つ別の、
「ある年の田植の日、……昼飯を運ぶ婢女が路の辺に死んだ」
言い伝えとつなげ、
田植と若い女の死、
の口承が残る所以へと切り込んでいく。
昼飯を運ぶ女の伝承も、結構あり、たとえば、
「印旛沼船尾の喜右衛門が家の子守女、田に働く者に運ぶ弁当を背負籠に入れ、その上に児を載せて田へ行くと、男どもきたないと怒って弁当をことごとく他の中へ投げ入れ、今一度炊き直してこいといって追い返した。子守は主家に戻って叱られんことを恐れ、そのまま児を負うて生まれ在所の師岡に返り、金毘羅淵に身を投げて死んだといって、船尾の鎮守宗像神社では、毎年その忌日にいろいろの奇怪があった」
といった類例が結構あり、たとえば、野州足利の五十部(いよべ)の水使(みずし)神社が祀る神、水速女(みずはやめ)命は、
「生前五十部(いよべ)小太郎なる者の召使いであり、農中傍輩の方へ昼飯を持参する路で、わが子が主人に打擲せられて死んだと聞き、怨み歎いて路の傍の淵に身を投げた」
とされるが、その神が、
「十二単衣を著て、杓子を持ち飯鉢を抱えた小木像」、
であることから、田の畔に安置する風習のある、
田の神の石像、
を連想し、その神が、
右の手に杓子、左の手に鉢、
あるいは、
左に杓子、右に手杵、
を持っていることへとつなげ、
田人のために昼餉を送った女、
と関係づけ、こう仮説する。
女が田植えの日に死んだという嫁ケ田の伝承、
と、
長者が日を招く物語、
とをつなぎ、
「同一の習俗に発生したものではないか」
と想定していくのである。そして、
「田植はすなわち田の神の誕生であり、それを期するためには主要な原因として、日の神と水の神の和合を必要としたのである。水の神は女性であって、ヨメの装いをして清き水の辺から出現した。尋常の少女がこれに扮するのだということを忘れるために、紅白の顔料をもって容貌を変化せしめるのが通例であったけれども、仮面もまた往々にして同じ目的に供せられた。」
とし、
「五十部(いよべ)の水使(みずし)神のごとく、手には主要の表象たる食物配給の危惧を握っていた」
という「田植」の儀式について、最後に、田植には必ず昼飯を運び、必ず田の畔で田人すべてが食事をすることになっていたが、炊ぐ材料や薪までも決まっていた以上、
運搬する者、
は、女性であった。そしてこう結論づける。
「通例の早乙女以外、別に特定した食事方の婦人があり、それが極度の美装粉飾して、田植儀式の中心をなしていた」
と。いわゆる早乙女の、
殖女(ウエメ)、
以外に、田植儀式の中心をなした、
養女(おなりせば)、
と呼ばれる女性がおり、
田遊びの行列の中には、殖女と養女二種の女性
がいた(『洛陽田楽記』)ことに着目する。
神聖だからこそ、それを犯すことをタブーとする。その意味で、田植儀式の中心の女性へのタブーが、
忌田、
につながったと思われる。
日招き、
もまた田植儀式とつながるだろうことが想像される。
日招き
↓
長者の無理な田植強要
↓
姑の嫁いびり
↓
昼餉を送った女
↓
殖女(ウエメ)
と、田植儀式にまでたどり着く、柳田國男の論旨の特徴は、離れた飛び石を曲芸のように伝っていくところにあり、『日を招く話』の展開はその特徴がよく表れている。その語りの幅と奥行きについては、その、
博引傍証、
に瞠目するほかはないが、柳田國男の頭の中でつながっている筋が、全て文章として表現されているとは見えず、読み手は戸惑い、混乱させられて、その結論を、とりあえず首肯しておくほかはない、という印象である。
なお、柳田國男の『遠野物語・山の人生』、『妖怪談義』、『海上の道』、『一目小僧その他』、『桃太郎の誕生』、『不幸なる芸術・笑の本願』、『伝説・木思石語』、『海南小記』、『山島民譚集』『口承文芸史・昔話と文学(柳田国男全集8)』については別に触れた。
参考文献;
柳田國男『妹の力』(Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95