大梵天王は、中の間にこそおはしませ、少将波利女の御前は、西の間にこそおはしませ(梁塵秘抄)、
の、
波利女、
とあるのは、
婆利采女(ばりさいにょ・はりさいじょ・はりさいにょ)、
のことと思われる。
頗梨采女、
波利采女、
波利賽女、
とも表記される。名前の由来は、
梵語のハリ(水晶の意)、
に求める説がある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%97%E6%A2%A8%E9%87%87%E5%A5%B3)。
(頗梨采天女(「仏像図彙(1783年)」) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%97%E6%A2%A8%E9%87%87%E5%A5%B3より)
「婆利采女」とは、「祇園」で触れたように、
牛頭天王の妃の名。沙伽羅(しゃがら)龍王の三女、
とされる。「牛王」でも触れたが、
牛頭天王(ごずてんのう)、
は、もともと、
祇園精舎(しょうじゃ)の守護神、
であったが、
蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A0%AD%E5%A4%A9%E7%8E%8B)、
武塔天神(むとうてんじん)、
あるいは、京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として、
祇園天神、
ともいう(日本大百科全書)。「ごづ」は、
牛頭(ぎゅうとう)の呉音、此の神の梵名は、Gavagriva(瞿摩掲利婆)なり、瞿摩は、牛と訳し、掲利婆は、頭と訳す、圖する所の像、頂に牛頭を戴けり、
とあり(大言海)、
忿怒鬼神の類、
とし、
縛撃癘鬼禳除疫難(『天刑星秘密気儀軌』)、
とある(大言海)。これが、
素戔嗚を垂迹、
としたのは、鎌倉時代後半の『釈日本紀』(卜部兼方)に引用された『備後国風土記』逸文にある、
蘇民将来に除疫の茅輪(ちのわ)を与えし故事による、
とある(仝上)。すなわち、
北海の武塔天神が南海の女のもとに出かける途中で宿を求めたとき、兄弟のうち、豊かであった弟の巨旦将来(こたんしょうらい)はこれを拒み、貧しかった兄蘇民将来(そみんしょうらい)は髪を厚遇した。のちに武塔天神が八柱の子をともなって再訪したとき、蘇民将来の妻と娘には恩返しとして、腰に茅の輪を着けさせた。その夜、巨旦将来の一族はすべて疫病で死んだ。神は、ハヤスサノオと名のり、後世に疫病が流行ったときは、蘇民将来の子孫と称して茅の輪を腰につけると、災厄を免れると約束した、
というものである(日本伝奇伝説大辞典)。で、平安末期『色葉字類抄』は、
牛頭天王の因縁。天竺より北方に国有り。その名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ、
とあり、
沙渇羅(娑伽羅、沙羯羅 しゃがら)竜王の娘と結婚して八王子を生み、8万4654の眷属神をもつ、
とある(世界大百科事典)。
頗梨采女、
は、
頗梨采女は牛頭天王の后であることから、素戔嗚尊の后である
奇稲田姫、
とも同一視されたとある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%97%E6%A2%A8%E9%87%87%E5%A5%B3)。もともと頗梨采女は、祇園社の本殿西御座に祀られていたが、明治以後の八坂神社では、奇稲田姫として東御座に祀られている(仝上)とある。
「祇園」で触れたことだが、祇園社の由来は、
牛頭天皇、初て播磨国明石浦(兵庫県明石市一帯の海岸)に垂迹し、広峯(広峯神社 兵庫県姫路市広嶺山)に移る。其の後、北白川東光寺(岡崎神社 京都市左京区岡崎東天王町)に移る。其の後、人皇五十七代陽成院元慶年間(877~885)に感神院に移る、
とあり(吉田兼倶『二十二社註式』)、
託宣に曰く、我れ天竺祇園精舎守護の神云々。故に祇園社と号す(『二十二社記』)
とある、
祇園天神、
婆利采女(ばりさいにょ)、
八王子、
を祭って、承平五年(953)六月十三日、
観慶寺を以て定額寺と為す、
と官符に記され、別名、
祇園寺、
といった(http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/12.html・日本伝奇伝説大辞典)。
なお、「八大龍王」については、「沙竭羅王(しゃがらおう)」で触れたように、
八龍王、
八大龍神、
ともいい(大言海)、
有八龍王、難陀龍王、跋難陀、娑伽羅竜王、和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王等、各與若干百千眷属俱ト説ケリ(法華経・序品)、
と、
難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃがら)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら)、
の八龍王をさす(仝上・精選版日本国語大辞典)。
娑伽羅龍王、
は、
海や雨をつかさどる、
とされることから、
時により過ぐれば民の歎きなり八大龍王雨やめ給へ(金槐集)、
と、
航海の守護神、
や
雨乞いの本尊、
とされる(仝上)。
「竜宮」で触れたように、この娑竭羅龍王(しゃからりゅうおう)の第三王女は、
善女(如)龍王、
と呼ばれ、
その年わずか八歳の竜少女、
とあり(妙法蓮華経・提婆達多品)、文殊師利菩薩はこの竜女は悟りを開いたと語るも、
智積菩薩はこれに対し、お釈迦様のように長く難行苦行をし功徳を積んだならともかく、僅か八つの女の子が仏の悟りを成就するとは信じられないと語った。また釈迦の弟子の舎利弗も、女が仏になれるわけがないと語った。
のに、
竜女はその場で法華経の力により即身成仏し、それまで否定されていた女子供でも動物でも成仏ができることを身をもって実証した、
とある(https://www.wdic.org/w/CUL/%E5%A8%91%E7%AB%AD%E7%BE%85%E9%BE%8D%E7%8E%8B%E3%80%82%E5%A5%B3)。
雨乞いの対象である竜王のうちの一尊、
であり、
神泉苑、金剛峯寺などで鎮守社に祀られ、醍醐寺に鎮守として祀られる、
清瀧権現、
と同一視されたり、沙掲羅龍王の第三王女とされる方位神、
歳徳神、
とも関係が深い(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%A5%B3%E7%AB%9C%E7%8E%8B)とある。
(善女龍王像(長谷川等伯 安土桃山時代) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%A5%B3%E7%AB%9C%E7%8E%8Bより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95