2023年09月01日

おらが一茶句集


小林 一茶(玉城司訳注)『一茶句集』を読む。

一茶句集.jpg


一茶の発句総数、

約二万、

と言われている。その中から、

千句、

を選んだ編者は、

「紀行や日記類に書き残された夥しい一茶句も、実に面白い。等類・類 想・同意・同巣の句が多いが、それもまた楽しい。そこで、恣意的な選択だと非難されても致し方ないと腹をくくって千句にしぼった。」

という(解説)。で、

「それぞれに『おらが一茶句集』を編んで、楽しんでいただきたい。」

という。すべてには当たれないので、本書の千句の中から、幾つか選択してみた。五分の一位の、170句程.。

本書は、

春、
夏、
秋、
冬、
雑、

と区分して、句を載せているので、年代順ではない。

「春」から、

又ことし娑婆塞(しゃばふさぎ)ぞよ草の家
あら玉のとし立かへる虱哉
我春も上々吉よ梅の花
すりこ木のやうな歯茎も花の春
あれ小雪さあ元日ぞ元旦ぞ
こんな身も拾ふ神ありて花の春
影ぼしもまめ息才(そくさい)でけさの春
瘦蛙まけるな一茶是に有
つくねんと愚を守る也引がへる
七転び八起の花よ女郎花(をみなへし)
目出度さもちう位也おらが春
草の戸やどちの穴から来る春か
門の春雀が先へ御慶(ぎょけい)哉
正夢や春早々の貧乏神
里しんとしてづんづと凧上りけり
大凧(おほだこ)のりんとしてある日暮哉
温石(をんじやく)のさめぬうち也わかなつみ
長閑(のどか)さや浅間のけぶり昼の月
しなのぢや雪が消れば蚊がさわぐ
雪とけて村一ぱいの子ども哉
とくとけよ貧乏雪とそしらるゝ
うそうそと雨降中を春のてふ
ぼた餅や地蔵のひざも春の風
茹汁(ゆでじる)の川にけぶるや春の月
すつぽんも時や作らん春の月
かすむ日の咄(はなし)するやらのべの馬
ほくほくとかすみ給ふはどなた哉
烏メにしてやられけり冷やし瓜
さむしろや銭と樒(しきみ)と陽炎と
ねはん像銭見ておはす顔も有
初午を無官の狐鳴にけり
雀子や仏の肩にちよんと鳴
狙(さる)も来よ桃太郎来よ草の餅
山焼の明りに下る夜舟哉
ざくざくと雪かき交ぜて田打哉
猫の恋打切棒(ぶつきらぼう)に別れけり
五六間烏(からす)追(おひ)けり親雀
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
うぐひすの腮(あご)の下より淡ぢ島
瘦藪(やせやぶ)の下手鶯もはつ音哉
鶯や今に直らぬ木曾訛(きそなまり)
鳴く雲雀(ひばり)人の顔から日の暮るゝ
草蔭にぶつくさぬかす蛙哉
夕不二に尻を並べてなく蛙
瘦蛙まけるな一茶是に有
蝶とぶや此世に望みないやうに
白魚のどつと生るゝおぼろ哉
大仏の鼻で鳴也雀の子
地車におつぴきがれし菫哉
なの花のとつぱづれ也ふじの山
木々おのおの名乗り出たる木の芽哉
銭からから敬白(つつしんでまうす)んめ(梅)の花
梅さくや地獄の門も休み札
花の月のとちんぷんかんのうき世哉
有様(ありやう)は我も花より団子哉
人に花大からくりのうき世哉
ゆさゆさと春が行(ゆく)ぞよのべの草

「夏」から、

大空の見事に暮る暑(あつさ)哉
あつき夜や江戸の小隅のへらず口
暑き夜をにらみ合たり鬼瓦
短夜を継(つぎ)たしてなく蛙哉
短夜に竹の風癖(かぜくせ)直(なほ)りけり
がい骨の笛吹やうなかれの哉
大の字にふんぞり返る涼(すずみ)哉
芭蕉翁の臑(すね)をかぢって夕涼(ゆふすずみ)
てんでんに遠夕立の目利(めきき)哉
むだ雲やむだ山作る又作る
投出した足の先也雲の峰
瘦松(やせまつ)も奢(おごり)がましや夏の月
寝むしろや尻を枕に夏の月
夏山や一人きげんの女郎花(おみなえし)
白雲を袂(たもと)に入て袷(あはせ)かな
蒲公(たんぽぽ)は天窓(あたま)そりけり更衣(ころもがへ)
泣虫と云れてもなく袷哉
身一ッや死(しな)ば簾の青いうち
満月に隣もかやを出たりけり
此世をば退屈顔よ渋うちは
朔日(ついたち)のしかも朝也時鳥(ほととぎす)
三日月に天窓(あたま)うつなよほとゝぎす
吉日の卯月八日もかんこ鳥
づ(ず)ぶ濡(ぬれ)の仏立けりかんこ鳥
念仏の口からよばる蛍哉
おゝさうじや逃るがかちぞやよ蛍
行け蛍手のなる方へなる方へ
はつ蛍つひとそれたる手風哉
馬の屁に吹とばされし蛍哉
方々(はうぼう)から叩き出されて来る蚊哉
明がたに小言いひいひ行蚊哉
孑孑(ぼうふら)が天上するぞ三ケの月
蠅一ツ打てはなむあみだ仏哉
やれ打な蠅が手をすり足をする
一ぱしの面魂(つらだましひ)やかたつむり
夕月のさらさら雨やあやめふく
露の世や露のなでしこ小なでしこ
露の世は得心ながらさりながら
御地蔵や花なでしこの真中に
野なでしこ我儘咲(わがままざき)が見事也
萍(うきくさ)や花咲く迄のうき沈(しずみ)
笋(たけのこ)のうんぷてんぷの出所(でどこ)哉
人来たら蛙になれよ冷し瓜

「秋」から

鰯めせめせとや泣子負ながら
娵(よめ)入りの謡(うたひ)盛りや小夜時雨
うしろから大寒小寒夜寒哉
たばこ盆足で尋る夜寒哉
盆の灰いろはを習ふ夜寒哉
秋の夜や旅の男の針仕事
秋の夜やしやうじの穴が笛を吹
長き夜や心の鬼が身を責る
をり姫に推参したり夜這星(よばひぼし)
我星はどこに旅寝や天の川
草花やいふもかたるも秋の風
うつくしやせうじの穴の天の川
雨降やアサツテの月翌(あす)の萩
名月をとつてくれろと泣子哉
草花やいふもかたるも秋の風
秋の風一茶心に思ふやう
白露のかた袖に入(いる)朝日哉
露ちるやむさい此世に用なしと
ばかいふな何の此世を秋の風
露の世ハ露の世ながらさりながら
姨捨(をばすて)はあれに候とかがし哉
立鴫(しぎ)の今にはじめぬゆふべ哉
雁わやわやおれが噂を致す哉
なくな雁けふから我も旅人ぞ
喧嘩すなあひみたがひの渡り鳥
夕日影町一ぱいのとんぼ哉
又人にかけ抜れけり秋の暮
蛼(こほろぎ)のふいと乗けり茄子(なすび)馬
寝返りをするぞそこのけ蛬(きりぎりす)
蟷螂(とうろう)や五分の魄(たなしひ)見よ見よと
きりきりしやんとしてさく桔梗哉
くやしくも熟柿仲間の坐につきぬ
さぼてんにどうだと下る糸瓜哉
栗おちて一ツ一ツに夜の更る
梟(ふくろふ)の一人きげんや秋の暮
活(いき)て又逢ふや秋風秋の暮
青空に指で字を書く秋の暮
膝抱て羅漢顔して秋の暮

「冬」から、

よい連ぞ貧乏神も立給へ
義仲寺へいそぎ候はつしぐれ
有様は寒いばかりぞはつ時雨
而(しかうして)後何が出る時雨雲
寒き夜や我身をわれが不寝番(ねずのばん)
あら寒し寒しといふも栄(え)よう哉
ウス壁にづんづと寒が入にけり
ひいき目に見てさへ寒き天窓(あたま)哉
寒月や喰つきさうな鬼瓦
北壁や嵐木がらし唐がらし
山寺や雪の底なる鐘の声
わらの火のへらへら雪はふりにけり
はつ雪をいまいましいと夕(いふべ)哉
ほちやほちやと雪にくるまる在所哉
是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
掌(てのひら)へはらはら雪の降りにけり
む(う)まさうな雪がふうはりふはり哉
はつ雪や駕をかく人駕の人
三絃(さみせん)のばちで掃きやる霰哉
炉のはたやよべの笑ひがいとまごひ
屁くらべが又始るぞ冬籠
婆ゝどのや榾(ほだ)のいぶるもぶつくさと
枯菊に傍若無人の雀哉
何として忘れませうぞかれ芒
猫の子がちよいと押へるおち葉哉
正月の待遠しさも昔哉
行としや馬にもふまれぬ野大根
六十の坂を越るぞやつこらさ
喰(くつ)て寝てことしも今(こ)よひ一夜哉
羽生(は) へて銭がとぶ也としの暮

「雜」から

便(たより)なくば一花(いつくわ)の手向情(なさけ)あれや
花の月のとちんぷんかんのうき世哉

僭越かもしれないが、一茶の句は、
奇を衒う、
ところがあって、面白いのだが、ちょっといかがかと思わせるところもあり、時に、
マイナス感情、
が強く出過ぎ、芭蕉の、
品格、
とまではいわないが、
風格、
に及ばないかもしれない。しかし、それは、
下世話風、
庶民感覚、
生活感満載、
という言い方もできる。
桃青霊神託宣(とうせいけいじんたくせん)に曰(いはく)はつ時雨、
と、一茶が皮肉るように、別に、芭蕉を神格化する必要はないが、一茶自身、

「我宗門(浄土真宗)にてはあながちに弟子と云ず、師といはず、如来の本願を我も信じ人にも信じさすことなれば、御同朋・御同行とて平坐にありて讃談するを常とす。いはんや俳諧においてをや。たゞ四時を友として造化にしたがひ、言語の雅俗より心の誠をこそのぶべけれ」(「あるがままの芭蕉会」)、

と述べ、

「実に仏法は出家より俗家の法、風雅も三五隠者のせまき遊興の道にあらず。諸人が心のやり所となすべきになん」

と、結ぶ(仝上)。そこを衒って、

風雅より心の誠、

と言い切り、

浄土真宗の理想が俳諧の馬でこそ実現できる、

と言っているのだから(解説)。

参考文献;
小林 一茶(玉城司訳注)『一茶句集』(角川ソフィア文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月02日

若王子(にゃくおうじ)


熊野へ参らむと思へども、徒歩(かち)より参れば道遠し、すぐれて山きびし、馬(むま)にて参れば苦(く)行にならず、空より参らむ羽(はね)たべ若王子(梁塵秘抄)、

の、

若王子(にゃくおうじ)、

は、

熊野の十二所権現の一つ。十一面観音の垂迹(すいじゃく)といわれる、

とある(日本国語大辞典)。『長秋記』長承三年(1134)の記事で、

若宮(わかみや)、

とあるのが本来の呼称らしいが、平安末期の『梁塵秘抄』には、

若王子、

とある(世界大百科事典)。平安中期から中世を通して繁栄した、

紀伊国の熊野三山(本宮(ほんぐう)、新宮(しんぐう)、那智(なち)の熊野三社)、

に祀(まつ)られた、

熊野十二所権現(くまのじゅうにしょごんげん)の一つ、

とされ、「若王子」、「若宮」のほか、

若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん)、
若宮王子(わかみやおうじ)、
若女一王子(にゃくにょいちおうじ)、

などとも称し、三山ともその発祥を異にするらしいが、平安中期頃から神仏習合を表す本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により、

本宮は家津御子神(けつみこのかみ 本地は阿弥陀如来)、
新宮は速玉大神(はやたまのおおかみ 本地は薬師如来)、
那智は牟須美神(むすびのかみ 本地は千手観音)、

の、

熊野三所権現、

と本地仏が祀られた(日本大百科全書)。平安後期までには、

若王子(本地は十一面観音)、

を中心とする、

五所王子(ごしょおうじ)、

と、一万眷属を含む、

四所宮(ししょみや)、

の、

熊野十二所権現、

が成立したとされる(仝上)。つまり、

三所権現、

が、

証誠殿(本地阿彌陀)・新宮(本地薬師)・那智(本地千手観音)、

五所王子、

が、

小守の宮(本地聖観音)・児の宮(本地如意輪観音)・聖の宮(本地龍樹)・禅師の宮(本地地蔵)・若王子(本地十一面観音)、

四所明神が、

一万の宮(本地普賢)または十万の宮(本地文殊)・勧請十五所(本地釈迦牟尼)・飛行夜叉(本地不動)・米持金剛童子(毘沙門天)、

の一二の権現を、

十二所権現(じゅうにしょごんげん)、

という(精選版日本国語大辞典)。

室町時代の意義分類体の辞書『下學集』には、

熊野権現、證誠殿、本地阿弥陀、両所権現者、薬師観音、若一王子者、施畏大士(だいじ)、號曰日本第一霊験熊野三所権現、

とある。

若王子、

は、三所権現に次ぐ位置を占め、

五所王子の第一、

に置かれ、

本宮・新宮では第四殿、
那智では第五殿、

に祀られる(仝上)。祭神は、

天照大神、
または、
伊邪那岐命、

で、

十一面観音の垂迹(すいじゃく)、

といわれる(精選版日本国語大辞典)。

十一面観音.jpg

(十一面観音(心覚撰『別尊雑記』(平安時代)より https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3より)

また、京都から熊野への参詣路である、

熊野街道、

のうち、

窪津(くぼつ、大阪市中央区)から熊野三山までの各拝所、

に、

若王子
または
若一王子、

が配され、中世後期までには熊野九十九王子(熊野王子)と総称されるようになった(仝上)とある。

若王子神社.jpg

(若王子神社 広辞苑より)

若王子、

というと、京都市左京区にある神社、

若王子(にゃくおうじ・にゃこうじ)神社、

を指したりするが、これは、

後白河天皇が京都白川に熊野三所権現を勧請(かんじょう)した際、那智(なち)の分社として建立した。祭神は天照大神・伊弉諾尊、

とあり(広辞苑)、

白川熊野、

とよばれ、全国の具足屋の信仰をあつめ(日本人名大辞典+Plus)、

若王寺、

とも記された(世界大百科事典)。

熊野三山、

は、

熊野三所権現、
三熊野、

ともいい、熊野に鎮座する、

熊野本宮(ほんぐう)大社(旧称は熊野坐(にます)神社、通称は本宮)、
熊野速玉(はやたま)大社(旧称は熊野早玉神社、通称は新宮)、
熊野那智(なち)大社(旧称は飛滝権現(ひろうごんげん)、熊野夫須美(ふすみ)神社、熊野那智神社、通称は那智山)、

の総称、中古、

僧徒の掌る所となり、盛んに、本地垂迹説を唱へて、本宮を證誠殿(しょうじやうでん)と称し、新宮を両所権現と称し、那智と併せて、熊野三所権現、また熊野(ゆや)権現と称す、後に、末社の神、若王子、禅師宮、聖宮、兒宮、子守宮など、凡そ、九所を加へて十二所権現とす、熊野より出す、牛王(ゴワウ)寶印と云ふもの、名高し、

とある(大言海)。「牛王」については触れた。

熊野那智大社の牛王宝印.jpg

(熊野那智大社の牛王宝印(烏牛王、「おからすさん」などともいわれる。熊野神の使令であるカラスを配したこの護符は、古来、熊野権現の信仰を伝える) 日本大百科全書より)

平安初期に新宮・本宮を中心に修験(しゅげん)道場が開かれ、延喜(えんぎ)年間(901~23)にさらに那智が加えられ、この3社が知られ、11世紀末の永保(えいほう)・応徳(おうとく)年間(1081~87)ころ、

熊野三山、

の呼称が一般となり、

本宮の本地阿弥陀如来、
新宮の本地薬師如来、
那智の本地観音菩薩、

を一体とした

熊野信仰、

が発達した(日本大百科全書)とある。

熊野三山の主祭神、

は、本宮の主神は、

家都御子大神(けつみこのおおかみ)、

家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)、

とも言い、

素戔嗚尊、

に当てられており、新宮の主神は、

熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の2神、

熊野速玉大神、

は、

伊邪那岐、

に当てられ、那智の主神は、

熊野夫須美(ふすみ)大神、

で、

伊弉冉尊

に当てられている(マイペディア・ https://www.mikumano.net/nyumon/kami.html)。

なお、補陀落で触れたように、三山は、本地垂迹思想により、阿弥陀浄土と信じられ、妣(はは)の国、常世(とこよ)の国への通路とも、また補陀落(ふだらく)浄土(観音浄土)とも信じられた(仝上)。

熊野速玉大社くまのはやたまたいしゃ.jpg

(熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ) https://www.shinguu.jp/kumanokodo1より)

熊野本宮大社くまのほんぐうたいしゃ.jpg

(熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ) https://www.shinguu.jp/kumanokodo1より)

熊野那智大社くまのなちたいしゃ.jpg

(熊野那智大社(くまのなちたいしゃ) https://www.shinguu.jp/kumanokodo1より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月03日

常楽我浄


近江の湖(みずうみ)は海ならず、天台薬師の池ぞかし、何ぞの海、常楽我浄の風吹けば、七宝蓮華の波ぞ立つ(梁塵秘抄)、

常楽我浄(じょうらくがじょう)、

は、大乗仏教において、

涅槃(ねはん)や如来に備わる四つの徳、

をいい(涅槃経)、すなわち、

永遠であり(常)、安楽であり(楽)、絶対であり(我)、清浄である(浄)こと、

を言う(広辞苑)。

四徳(しとく)、
または、
四波羅蜜(しはらみつ)、

ともいわれる(岩波仏教辞典)。さらに、

四つの誤った考え、

つまり、

四顛倒(してんどう)、

にもいい、真の仏智から見れば、世間の一切のものは、

無常・苦・無我・不浄、

であるのに、これを、

常・楽・我・浄、

ととらわれていること。また、仏の涅槃は、

常・楽・我・浄、

であるのに、これを、

無常・苦・無我・不浄、

と誤り解することをいい、

四倒(しとう)、

ともいい(仝上・精選版日本国語大辞典)、合わせて、

八顛倒、

という(仝上)。つまり、

顛倒の妄見を四つに分類したもの、

をいう(精選版日本国語大辞典)。教行信証(1224)に、

如風能鄣静、土能鄣水、湿能鄣火、五黒十悪鄣人天、四顛倒鄣声聞果、

とある。ここから転じて、

げにや喜見城の都常楽我浄(ジャウラクガジャウ)とたわれしもことはりや(洒落本「交代盤栄記(1754)」)、

と、

何の心配もない安楽な生活、のんびりしていること、

の意で使うに至る(仝上)。

常楽我浄、

の、

「常」とは、

仏や涅槃の境地が永遠不変であること、

「楽」とは、

仏や涅槃の境地が人間の苦を離れたところに真の安楽があること、

「我」とは、

仏や涅槃の境地が人間本位の自我を離れ如来我(仏性)があること、

「浄」とは、

仏や涅槃の境地が煩悩を離れ浄化された清浄な世界であること、

をいうとあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84。なお、

四波羅蜜(しはらみつ)、

には、

涅槃(ねはん)にそなわる常・楽・我・浄の四種のすぐれた特徴、

の意の他に、

此の無常苦空無我の四波羅蜜を観して菩提の道を求むるを、声聞四諦の法と云ふ(「快馬鞭(1800)」)、

と、

凡夫の常楽我浄の四顛倒に対して、それが無常であり苦であり空無我であるとみること、

の意もある(精選版日本国語大辞典)。

なお、「七宝蓮華」については触れた。

「常」 漢字.gif

(「常」 https://kakijun.jp/page/1143200.htmlより)

「常」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、

形声。「巾(ぬの)+音符尚(ショウ)」。もとは裳(ショウ)と同じで、長いスカートのこと。のち時間が長い、いつまでも長く続く、の意となる、

とある(漢字源)。

「もすそ」(下半身の着衣の意)を意味する漢語、

から、仮借して、

「つね」を意味する漢語、

に用いる(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%B8・角川新字源)とある。別に、

形声文字です(尙+巾)。「神の気配を示す文字と家屋の象形と口の象形」(屋内で祈る意味だが、ここでは「長(ジョウ)」に通じ(同じ読みを持つ「長」と同じ意味を持つようになって)、「ながい」の意味)と「頭に巻く布にひもをつけて帯にさしこむ」象形から、長い布を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「長く変わらない」、「つね」を意味する「常」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji894.html

「樂」 漢字.gif

(「樂(楽)」 https://kakijun.jp/page/gaku15200.htmlより)

田楽」で触れたように、「樂(楽)」(ガク、ラク)は、

象形。木の上に繭のかかったさまを描いたもので、山繭が、繭をつくる櫟(レキ くぬぎ)のこと。そのガクの音を借りて、謔(ギャク おかしくしゃべる)、嗷(ゴウ のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の樂。音楽で楽しむというその派生義を表したのが快楽の樂。古くはゴウ(ガウ)の音があり、好むの意に用いたが、今は用いられない、

とある(漢字源)。音楽の意では「ガク」、楽しむ意では、「ラク」と訓む。しかし、この、

「木」に繭まゆのかかる様を表し、櫟(くぬぎ)の木の意味。その音を仮借、

とする説(藤堂明保)、

に対し、

木に鈴をつけた、祭礼用の楽器の象形、

とする説(白川静)があるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A5%BD。また別に、

象形。木に糸(幺)を張った弦楽器(一説に、すずの形ともいう)にかたどり、音楽、転じて「たのしむ」意を表す、

とも(角川新字源)、

象形文字です。「どんぐりをつけた楽器」の象形から、「音楽」を意味する「楽」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「たのしい」の意味も表すようになりました、

とするものもあるhttps://okjiten.jp/kanji261.html

「我」  漢字.gif



「我」 甲骨文字・殷.png

(「我」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%91より)

「我」(ガ)は、

象形文字。刃がぎざぎざになった戈(ほこ)を描いたもので、峨(ガ ギザギザと切り立った山)と同系。「われ」の意味に用いるのは、我(ガ)の音を借りて代名詞をあらわした仮借、

とある(漢字源)。

刃がぎざぎざになった戈又はのこぎりを象る。「のこぎり」を意味する漢語、

から、

仮借して「われ」を意味する一人称代名詞、

ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%91・角川新字源・https://okjiten.jp/kanji1020.html)。

「浄」 漢字.gif

(「浄(淨)」 https://kakijun.jp/page/09130200.htmlより)

「浄」(漢音セイ、呉音ジョウ)は、

形声。「水+音符爭」で、爭(争)の原義とは関係ない、

とある(漢字源)が、

形声。水と、音符爭(サウ、シヤウ→セイ、ジヤウ)とから成る。もと、魯国にあった池の名。古くから、瀞(セイ、ジヤウ)の略字として用いられている。常用漢字は俗字による、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(氵(水)+争(爭))。「流れる水」の象形と「ある物を上下から手で引き合う象形と力強い腕の象形が変形した文字」(「力を入れて引き合う」の意味)から、力を入れて水を「清める」を意味する「浄」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1938.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月04日

山王十禪師


神の家の小公達(こきんだち)は、八幡(やわた)の若宮熊野の若王子子守御前(こもりおまえ)、比叡(ひえ)には山王十禅師、賀茂には片岡貴船の大明神(梁塵秘抄)、

の、

山王十禅師(じゅうぜんじ)、

は、

日吉山王(ひえさんのう)七社権現の一つ、

であり、

国常立尊(くにとこたちのみこと)を権現と見ていう称、

とあり、

瓊々杵尊(ににぎのみこと)から数えて第十の神に当たり、

地蔵菩薩、

の垂迹(すいじゃく)とする(精選版日本国語大辞典)とある。

僧形あるいは童形の神、

とされた。現在は、

樹下神社、

と称し、祭神は、

鴨玉依姫(かもたまよりびめの)和魂(にぎたま)、

とある(仝上)。

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を権現とみていう称、

ともある(デジタル大辞泉)のは、

国常立尊(くにのとこたちのみこと)、

から数えて第十の神にあたるからである。つまり、『日本書紀』本書によれば、天地開闢の最初に現れた

国常立尊(くにのとこたちのみこと)、
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、
泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと)、
大戸之道尊(おおとのぢのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、
面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)、
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)、

の十一柱七代の神を、

神世七代、

とし、

天照大神(あまてらすおおみかみ)、
天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)、
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、
火折尊(ほのおりのみこと)、
鸕鶿草葺不合尊うがやふきあわせずのみこと)、

を、

地神五代(ちじんごだい)、

といい、

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

が、十代に当たるからである(日本書紀)。

瓊瓊杵尊.png


瓊瓊杵尊、
火折尊、
鸕鶿草葺不合尊、

の3柱の神々を、

日向三代、

といい、

鸕鶿草葺不合尊

玉依姫命

の間に生まれたのが、

磐余彦尊(いわれびこのみこと)、

つまり、

神武天皇、

ということになる(日本書紀)。

ちなみに、

山王七社権現(さんのうしちしゃごんげん)は、現在、

本宮
一宮・西本宮(祭神 大己貴神 旧称・大宮法宿権現(大比叡) 本地釈迦如来)
二宮・東本宮(祭神 大山咋神 旧称・地主権現(小比叡) 本地薬師如来)
摂社
三宮・宇佐宮(祭神 田心姫神 旧称・聖真子(しょうしんじ)権現 本地阿弥陀如来)
四宮・牛尾神社(祭神 大山咋神荒魂 旧称八王子(やおうじ 牛尾)宮 本地千手観音)
五宮・白山姫神社(祭神 白山姫神 旧称客人(まろうど)権現 本地十一面観音)
六宮・樹下神社(祭神 鴨玉依姫命(大山咋神の妃) 旧称十禅師(じゅうぜんじ)権現 本地地蔵菩薩)
七宮・三宮神社(祭神 鴨玉依姫神荒魂 旧称三宮(みぐう)宮 本地普賢菩薩)

とあるhttp://tobifudo.jp/butuzo/san7sha/index.html

十禅師.jpg


地蔵菩薩、

については、「六道能化」で触れたが、

はじめ三日の本尊には、来迎の阿彌陀の三尊、六道のうけの地蔵菩薩(曾我物語)、
われはかの入道(結城上野介入道道忠)が今度上洛せし時、鎧の袖に書きたりし六道能化(ろくどうのうげ)の主(あるじ)、地蔵薩埵にて候なり(太平記)、

などとある、

六道のうけ、
六道能化の主、

とあるのは、

六道衆生を能く教化する地蔵菩薩、

の意で、

六道能化、

自体が、

六道にあって衆生を教化する者、

の意、つまり、

地蔵菩薩の異称、

とされ(広辞苑)、

五濁(ごじょく)の悪世において救済活動を行う菩薩、

である。

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、

忉利天(とうりてん、三十三天 須弥山の上にある)に在って釈迦仏の付属を受け、釈迦の入滅後、5億7600万年後か56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩、

であるとされるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9

「地蔵」は、

サンスクリット語クシティ・ガルバKiti-garbha、

の、

大地を母胎とするもの、

の意で、

一切衆生(いっさいしゅじょう)に仏性(ぶっしょう)があるという如来蔵(にょらいぞう)思想と関連し、大乗仏教の比較的後期に現れた、

とされ、『地蔵菩薩本願経(ほんがんきょう)』に、

仏になることを延期して、菩薩の状態にとどまり、衆生の罪苦の除去に携わることを本願とした、

とある。

国宝・木造地蔵菩薩立像.jpg

(国宝・木造地蔵菩薩立像(法隆寺大宝蔵院) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9より)

しばしば比丘(びく 修行者)の姿をとり、剃髪(ていはつ)し、錫杖(しゃくじょう)と宝珠(ほうしゅ)を持つ。天上から救済活動を行う他の仏、菩薩と違い、自ら六道を巡る菩薩、

である(日本大百科全書)。地蔵信仰は、

平安朝末から中世にかけて民間信仰として普及し、堂宇に祀(まつ)るだけでなく、道の辻、橋のたもとなどに石像を立てて祀るようになった、

とされ、今日民間における地蔵信仰では、

子育て地蔵、子安(こやす)地蔵、夜泣き地蔵、乳貰(もら)い地蔵、田植地蔵、鼻取り地蔵、いぼ取り地蔵(縛り地蔵)、雨降り地蔵、雨止(や)み地蔵、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、お初地蔵、とげぬき地蔵、勝軍地蔵、延命地蔵、

等々、何々地蔵とよばれるものが100以上にも及ぶといい(仝上)、各地にある、

六地蔵、

は、上述の六道の衆生を済度するというのに因み、六道のそれぞれにあって、典籍によって名称は異なるが、

檀陀(だんだ 地獄道を教化する)、
宝珠(ほうじゅ 餓鬼道を教化する)、
宝印(ほういん 畜生道を教化する)、
持地(じじ 阿修羅道を教化する)、
除蓋障(じょがいしょう 人間道を教化する)、
日光(にっこう 天道を教化する)、

の六種の地蔵をいう、とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年09月05日

来迎引接(らいごういんじょう)


彌陀の誓(ちかひ)ぞ頼もしき、十惡五逆の人なれど、一たび御名(みな)を唱ふれば、来迎引接(らいがういむぜう)疑はず(梁塵秘抄)、

の、

来迎引接(らいごういんじょう)、

は、

引接(摂)、
迎接(ごうしょう)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、四字熟語にもなっていて、

南無阿弥陀仏を唱えている人が死ぬときには、阿弥陀仏が菩薩を引き連れて迎えに来て、極楽浄土へ導いてくれる、

という意味である(四字熟語辞典)。

来迎、

は念仏を唱えている人の元へ、阿弥陀仏や菩薩が迎えに来ること、

引接、

は阿弥陀仏や菩薩が、念仏を唱えている人を極楽浄土へ導くこと、とある(仝上)。なお、

十惡五逆、

は、「業障(ごうしょう)」で触れたが、

身(しん)・口(く)・意の「三業(さんごふ)」から生ずる十種の罪悪、

つまり、

殺生(せつしよう)・偸盗(ちゆうとう)・邪淫(じやいん)・妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あつく)・両舌(りようぜつ)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じやけん)、

を、

十惡、

といい、

五逆、

は、

五逆罪、

ともいい、この重罪を犯すと、もっとも恐ろしい無間地獄(むけんじごく)に落ちるとされるので、

五無間業(ごむけんごう)、

ともいう。異説が多いが、代表的には、

母を殺すこと、父を殺すこと、悟りを開いた聖者(阿羅漢)を殺すこと、仏の身体を傷つけて出血させること、仏教教団を破壊し分裂させること、

で、前二者は、

恩田(おんでん 恩に報いなければならないもの)、

に背き、後三者は、

福田(ふくでん 福徳を生み出すもの)に背くので、あわせて、

五逆、

という(日本大百科全書)。

阿弥陀二十五菩薩来迎図.jpg

(阿弥陀二十五菩薩来迎図(京都国立博物館) https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/butsuga/item06/より)

この、

来迎引接(摂)、

を絵画化したのが、「九品往生」でも触れた、

来迎図、

であり、儀礼化したのが、

迎講、

来迎会、

である(世界大百科事典)。

阿弥陀仏の来迎、

は、

阿弥陀仏の救済の三様態(本願成就・光明摂取・来迎引接)の一つ、

で、阿弥陀仏四十八願のうちの第十九願が、

来迎引接の願、

になるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9D%A5%E8%BF%8E%E5%BC%95%E6%8E%A5。法然は、

然れば則ち深く往生極楽の志有らん人は、来迎引接の形像を造り奉りて、則ち来迎引接の誓願を仰ぎたてまつるべきものなり(逆修説法一七日)、

と述べ、また、

いわゆる疾苦身に逼せまりてまさに死なんと欲する時、必ず境界・自体・当生の三種の愛心起るなり。しかるに阿弥陀如来大光明を放ちて行者の前に現じたまう時、未曽有の事なる故に、帰敬の心の外には他念無し。しかれば三種愛心を亡ぼして更に起こること無し…しかれば臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明らかなり、

ともあり、

然れば則ち、来迎引接は、魔障を対治せんがためなり、

とし、阿弥陀仏の来迎は衆生の三種の愛心や魔障を滅し、正念に導き浄土に往生させるため(来迎正念)であるとしている(仝上)。

四十八願(しじゅうはちがん)、

は、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分(しょうしゅうぶん)」に説かれる、

法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位の時(修行時)の名)が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと、

であり、http://shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=shijyuuhachiganに詳しい。

臨終正念(りんじゅうしょうねん)、

については、「正念に往生す」で触れたように、

臨終のときに心が乱れることなく、執着心に苛まれることのない状態のこと、

で、『阿弥陀経』には、念仏衆生の命終について、

その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸(もろ)もろの聖衆とともに、現にその前に在(ましま)す。この人終わる時、心顚倒(てんどう)せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得、

とあり、善導は、

願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せず、身心に諸の苦痛なく、身心快楽(けらく)にして禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ、

と述べている(『往生礼讃』発願文)のが、臨終正念のありさまを示したものとされる(仝上)。これは、

臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明(あきらか)なり、

とある(法然『逆修説法』)ことや、

念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし(歎異抄)、

という、

他力本願、

からいえば、

念仏申す毎に罪を滅ぼして下さると信じて「念仏」申すのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、

となり、

一心に阿弥陀如来を頼むこと、

に通じていくhttp://www.vows.jp/tanni/tanni29.htm

正念、

は、「正念場」で触れたように、

八正道(はっしょうどう)、

の一つとされ、

八聖道、

とも書き、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目、

正見(しょうけん 正しい見解、人生観、世界観)、
正思(しょうし 正しい思惟、意欲)、
正語(しょうご 正しいことば)、
正業(しょうごう 正しい行い、責任負担、主体的行為)、
正命(しょうみょう 正しい生活)、
正精進(しょうしょうじん 正しい努力、修養)、
正念(しょうねん 正しい気遣い、思慮)、
正定(しょうじょう 正しい精神統一、集注、禅定)、

の1つで(日本大百科全書)、釈迦は、

それまでインドで行われていた苦行を否定し、苦行主義にも快楽主義にも走らない、中なる生き方、すなわち中道を主張したが、その具体的内容として説かれたのがこの八正道である、

とされ(世界大百科事典)、釈迦の教説のうち、おそらく最初にこの、

八正道、

が確立し、それに基づいて、

四諦(したい)、

が成立し、その第四の、

道諦(どうたい 苦の滅を実現する道に関する真理)、

はかならず「八正道」を内容とした。逆にいえば、八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、

とある(日本大百科全書)。「四諦(したい)」は、

四聖諦(ししょうたい)、

ともよばれ、「諦(たい) サティヤsatya、サッチャsacca)」は真理、真実をいい、

迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、

とされ(精選版日本国語大辞典)、

苦諦(くたい 人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実)、
集諦(じったい その苦はすべて自己の煩悩や妄執など広義の欲望から生ずるという真実)、
滅諦(めったい それらの欲望を断じ滅して、それから解脱し、涅槃の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)、
道諦(どうたい この悟りに導く実践を示す真実)

で、この、

苦集滅道(くじゅうめつどう)、

の四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、その代表的教説とされた(日本大百科全書)、とある。要は、

正念、

は、

四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

意識が常に注がれている状態、

である。しかし、他力本願では、

自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、

ではなく、

一心に阿弥陀如来を頼み、命の終わる最後まで、怠ることなく念仏し続けること、

を指すと思われる。

来迎図、

は、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説く、

阿弥陀四十八願の一つ、

である、

浄土に生まれることを願う人の臨終に、阿弥陀仏が西方浄土から迎えにくる姿を描いたもの、

で、平安中期以後、浄土教の発達にともなって描かれた(旺文社日本史事典)。高野山の《阿弥陀聖衆(しょうじゅ)来迎図》など阿弥陀如来が聖衆を従えて飛来する図柄が多いが、迎えてから帰るさまを描いた帰り来迎図や《山越阿弥陀図》等もある(マイペディア)。

阿弥陀仏が従えている、

二十五菩薩、

は、

観世音(かんぜおん)菩薩、大勢至(だいせいし)菩薩、薬王(やくおう)菩薩、薬上(やくしょう)菩薩、普賢(ふげん)菩薩、法自在王(ほうじざいおう)菩薩、獅子吼(ししく)菩薩、陀羅尼(だらに)菩薩、虚空蔵(こくうぞう)菩薩、徳蔵(とくぞう)菩薩、宝蔵(ほうぞう)菩薩、金蔵(こんぞう)菩薩、金剛蔵(こんごうぞう)菩薩、光明王(こうみょうおう)菩薩、山海慧(さんかいえ)菩薩、華厳王(けごんおう)菩薩、衆宝王(しゅうほうおう)菩薩、月光王(がっこうおう)菩薩、日照王(にっしょうおう)菩薩、三昧王(さんまいおう)菩薩、定自在王(じょうじざいおう)菩薩、大自在王(だいじざいおう)菩薩、白象王(びゃくぞうおう)菩薩、大威徳王(だいいとくおう)菩薩、無辺身(むへんしん)菩薩、

とされるhttps://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=136。「来迎図」については、「九品往生」でも触れた。

当麻曼荼羅に描かれた九品来迎図.jpg


参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月06日

摩訶迦葉


三会の暁を待つ人は、所を占めてぞおはします、雞足山(けいそくさん)には摩訶迦葉(まかかせう)や、高野の山には大師とか(梁塵秘抄)、

の、

雞足山、

は、梵語、

Kukkuṭapādagiri、

の訳、

鶏足山(けいそくざん、グルパ・ギリ)、

とも当て、

ククタパダ山、
狼跡山、
尊足山、

ともいい、

古代インドのマガダ国の山。伽耶(がや)城の南東にあり、釈迦の弟子迦葉(かしょう)が入寂したと伝えられる鶏足洞がある、

とある(デジタル大辞泉)。玄奘三蔵の大唐西域記に、

念深於鶏足之洞。降煩悩之魔軍、

とあり、迦葉が、

鶏足山の洞で彌勒の出世を待つ、

との故事から、

彌勒下生(げしょう)への待望、

をもいう(精選版日本国語大辞典)。古代中国人は、雲南省の「鶏足山(けいそくさん)を、仏典にある山と考え、

釈尊が摩訶迦葉(まかかしょう)に衣鉢して弥勒菩薩が成仏して現れるのを待ち、入定した場所である、

と考えた。言い伝えでは、摩訶迦葉は華首門のそばにある石の中に寝泊りしたという。そのため、鶏足山は仏教の聖地となり、

摩訶迦葉の道場、

として、中国仏教、チベット仏教、上座部仏教の交わる場所として重視されている。また仏教の禅宗の発祥の地https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%B6%B3%E5%B1%B1_%28%E9%9B%B2%E5%8D%97%E7%9C%81%29とも言われている、とある。もともと、

青巓山、
九曲山、

などと呼ばれていたが、山頂の峰が鳥の爪に似ていることからこの名がつけられた(仝上)という。

鶏足山.jpg


三蔵法師記した、

鶏足山(けいそくざん 現地では「グルッパ・ギリ」と呼ぶ)、

は、日蓮宗の僧侶「故椎野能敬師」が調査(アサヒグラフ1981年5月29日号、通巻3030号で発表)し、

インド国鉄ガヤ駅の東、グルッパ駅の南1キロほどにそびえ、ニワトリの様な形をした岩の山頂を望む事が出来ます、

とありhttps://tsunagaru-india.com/knowledge/

インド領チベット・ラダック地方出身のチベット僧により登山道が整備され、山頂には金色に輝く宿泊も可能なパゴダ(仏塔)が建設されております、

とある(仝上)。

摩訶迦葉、

は、

「摩訶」は美称、偉大な迦葉の意、

で(精選版日本国語大辞典)、

富楼那(ふるな)の弁」で触れた、

十大弟子、

つまり、

舎利弗(しゃりほつ 智慧第一)、
目犍連(もくけんれん 略して目連 神通力(じんずうりき)第一)、
摩訶迦葉(まかかしょう 頭陀(ずだ(苦行による清貧の実践)第一)、
須菩提(しゅぼだい 解空(げくう すべて空であると理解する)第一)、
富楼那(ふるな 説法第一)、
迦旃延(かせんねん 摩訶迦旃延(まかかせんねん)とも大迦旃延(だいかせんねん)とも、論議(釈迦の教えを分かりやすく解説)第一)、
阿那律(あなりつ 天眼(てんげん 超自然的眼力)第一)、
優婆(波)離(うばり 持律(じりつ 戒律の実践)第一)、
羅睺羅(らごら 羅睺羅(らふら) (密行(戒の微細なものまで守ること)第一)、
阿難(あなん 阿難陀 多聞(たもん 釈迦の教えをもっとも多く聞き記憶すること)第一)、

の(日本大百科全書・https://true-buddhism.com/founder/ananda/他)ひとりで、

仏教教団における釈迦の後継(仏教第二祖)、

とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集、経典の編纂事業)の座長を務め、

頭陀第一、

といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BF%A6%E8%91%89とある。

摩訶迦葉.jpg


原名は、パーリ語で、

マハーカッサパMahā-Kassapa、

で、

大迦葉(だいかしょう)、

といい(仝上・日本大百科全書)、

摩訶迦葉波、
迦葉、
迦葉波、

とも呼ばれる(仝上)。

北インド、マガダ国の首都、王舎城(おうしゃじょう)の付近の富裕なバラモン(婆羅門)の家に生まれ、釈尊開教の初期のころ弟子となり、その1週間後には悟りを開いて阿羅漢(あらかん 供養を受けるに値する者の意)となったとされる。そのとき自身の新しい袈裟(けさ)を釈尊にさしあげ、釈尊の古い袈裟をもらい受けて、その後つねにこれを着用し、そのうえ頭陀行(ずだぎょう 厳しい苦行的な生活)を守り続けたので、

頭陀第一、

とたたえられた(日本大百科全書)。釈尊生存中にすでに彼の代理を務め、釈迦は、

我に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教外別伝、今、摩訶迦葉に付す、

と言ったとされ(世界大百科事典)、滅後は事実上その後継者として教団を統括し、とくに釈尊の遺教を整理統合した第一結集(けつじゅう 経典編纂会議)においては、議長役を務めた、

とある(日本大百科全書)。

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2023年09月07日

三身仏性


仏も昔は人なりき、我等も終(つゐ)には仏なり、三身仏性具せる身と、知らざりけるこそあはれなれ(梁塵秘抄)、

の、

三身仏性(さんじんぶっしょう)、

の、

三身(さんしん・さんじん)、

は、色葉字類抄(平安末期)に、

三身、法身、報身、応身、

とあり、大乗仏教で、

真如そのものである法身(ホツシン)、
修行をして成仏した報身(ホウジン)、
人々の前に出現してくる応身(オウジン)、

の総称(大辞林)、

三仏身、
三身仏、

ともいい、

仏の一体に具備する所を、三相に別ちて云ふ、

とあり(大言海)、

法身、

とは、

真如(一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理)の理解、如来(仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち修行を完成し、悟りを開いた人)自證の妙理にして、諸法の本体、萬法の所依となる仏身、

なり、

報身、

とは、

福徳、智慧の勝因に酬報して、佛の感得する相好円満なる色身、

なり、

応身、

とは、

衆生の機類(根機(機根とも 仏の教化を受けるとき発動することができる能力または資質)に隨応して、三業(さんごう 身業・口業(くごう)・意業)の化用を施す化身、

なり(仝上)とある。『撮壌集(さつじようしゆう)』(飯尾永祥(享徳三(1454)年)に、佛名について、

毘盧遮那仏、法身、廬舎那仏、報身、釈迦牟尼仏、応身、

とある。

法身(ほっしん)・報身・応身、

という言い方が、最も一般的であるが、

法身・応身・化身(合部金光明経)、
法身・解脱身・化身(解深密経)、
自性身・受用身・変化身(仏地経論)、
法身・報身・化身、
法身・智身・大悲身、
真身・報身・応身、

等々もあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB・広辞苑)、法相宗では、

自性身・受用身・変化身、

といい、天台宗では、

衆生の心中に具足する正因・了因(報身因)・縁因(応身因)、

の、

三種の仏性、

をいう(精選版日本国語大辞典)。

三身円満の覚王なり(平家物語)、

と、

法・報・応の三身を完全に具有していること、



三身円満(さんじんえんまん)、

という(広辞苑)。

「身」 漢字.gif


「身」 甲骨文字・殷.png

(「身」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BA%ABより)

「身」(シン)は、

象形。女性が腹に赤子をはらんださまを描いたもの。充実する、いっぱいつまるの意を含み、重く筋骨のつまったからだのこと、

とあり(漢字源)、同趣旨で、

象形。女性がみごもったさまにかたどり、みごもる意を表す。転じて、からだの意に用いる(角川新字源)、

象形文字です。「人がみごもった(妊娠した)」象形から「みごもる」を意味する「身」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji17.html

等々とする説が多いが、

かつて妊婦を象る象形文字と解釈する説があったが、信頼できない説である、

と否定し、

腹部を強調して描かれた人の象形文字、
あるいは、
人の腹部に○印を加えた指事文字、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BA%AB

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月08日

閻浮(えんぶ)


夜ふけて長夜に至る程、洲鶴(しうかく)眠(ねぶ)りて春の水、娑婆の故(ふる)き郷(さと)に同じ、塞鴻(さいこう)なきては秋の風、閻浮(えんぶ)の昔の日に似たり(梁塵秘抄)、

の、

閻浮、

は、

「えんぶ(閻浮)」の撥音「ん」の無表記形、

で、

えぶ、

とも訓ますが、

閻浮樹(えんぶじゅ)の略、

もしくは、

閻浮提(えんぶだい)」の略、

である(精選版日本国語大辞典)。

閻浮提、

は、「三千世界」で触れたように、「須弥山」をとりまいて、

七つの金の山、

と、それを囲む、

鉄囲山(てっちせん)、

があり、その間に八つの海があり、これを、

九山八海(くせんはっかい)、

という。周囲の鉄囲山(てっちせん)にたたえた海水に須弥山に向かって、東には半月形の、

毘提訶洲(びだいかしゅう、あるいは勝身洲 ビデーハ・ドゥビーパvideha-dvīpa)、

南に、

三角形の贍部洲(南洲あるいは閻浮提)、

西に満月形の、

牛貨洲(ごけしゅう ゴーダーニーヤ・ドゥビーパgodānīya-dvīpa)、

北に方座形の、

倶盧洲(くるしゅう クル・ドゥビーパkuru-dvīpa)、

があり(『倶舎論(くしゃろん)』)、

贍部洲(せんぶしゅう)、

は、

閻浮提、

と同じで、

贍部(せんぶ)、

ともいい、須弥山の南にあるので、

南閻浮提(なんえんぶだい)、
南閻浮洲(なんえんぶしゅう)、

ともいうが、金輪際で触れたように、ここが、古代インドの世界観における人間が住む大陸に当たるとされ、ひいては人間界のことをさす(広辞苑・大辞林・大辞泉・日本大百科全書・精選版日本国語大辞典)。インド亜大陸を示している、とされる。

須弥山の概念図.jpg


閻浮提、

は、サンスクリット語の、

ジャンブ・ドゥビーパJambu-dvīpa、

に相当する俗語形からの音写語なので、他に、

剡浮洲(えんぶしゅう)、

とも音訳されるが、文字通りには、

ジャンブ(ムラサキフトモモ)の島、

を意味https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E6%B5%AE%E6%8F%90し、

ジャンブ樹jambuすなわちフトモモの木rose-apple treeの繁茂する島(ドゥビーパdvīpa)、

の意である(日本大百科全書)。

閻浮提、

は、

三辺がおのおの2000由旬(ゆじゅん ヨージャナ。1ヨージャナは約7キロメートル)、

残りの1辺がわずかに、

3.5由旬、

で、車のような形をしており、インド亜大陸に比していると見られるのはその形からのようである。

なお、この中央には、金剛座がし、そこで菩薩たちが、

金剛喩定(ゆじょう すべての煩悩を断ち切る堅固な心)、

を修習すると説かれている(仝上・倶舎論)。

閻浮提、

には、

大国16、
中国500、
小国10万、

が存在するといわれている(ブリタニカ国際大百科事典)。

閻浮樹(えんぶじゅ)、

というのは、

閻浮提(えんぶだい)の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)のほとりに大森林をなすという想像上の大樹、

で(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

常緑樹で、高さ百由旬(ゆじゅん)ある、

とされる(精選版日本国語大辞典)。

由旬(ゆじゅん)、

は、

Yojana、

の音訳、古代インドで用いた距離の単位の一つで、

約七マイル(約11.2キロ)あるいは九マイル、

という。

牛車の1日の行程、

をさし、

帝王の軍隊が一日に進む行程、

といわれ、中国では、六町を一里として四〇里(一里は約405m)または三〇里、あるいは一六里にあたる、

とされる(仝上・デジタル大辞泉)。

閻浮提図附日宮図 (2).jpg


閻浮提図附日宮図(1808年)というものが残っているが、これは、

ヨーロッパから新たな知識がもたらされるにしたがって、それまで浄土宗の学僧であった存統によって仏教系の世界観を示す世界図三部作が作られた一つで、上部に日宮を、中央に世界図を、下部に自然現象についての説明を載せている。世界図には新阿蘭陀(オーストラリア)やタスマニアが描かれており、当時としては最新の世界地理情報が取り入れられているhttps://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0011521000.html。世界図はその多くを高橋景保の「新訂万国全図」の西半球図に依拠しているといわれる。

なお、「三界」、「三千世界」、「金輪際」、「須弥山」、「佉羅陀山(からだせん)」、「鐵圍山(てちゐせん)」、については触れた。

「閻」 漢字.gif



「閻」(エン)は、

会意兼形声。臽(エン・カン)は、「人+臼(あな)」の会意文字で、くぼんだ穴をあらわす。閻はそれを音符とし、門を加えた字で、入り口となる穴のあいた門のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年09月09日

崑崙山


崑崙山(こんろんさん)に石も無し、玉してこそは鳥は抵(う)て、玉に馴れたる鳥なれば、驚くけしきぞ更になき(梁塵秘抄)、

の、

崑崙山、

は、

こんろんざん、

とも訓ませ、

中国古代の伝説上の山、

で、「崑崙」は、

昆侖、

とも書き、

霊魂の山、

の意で、

崑崙山(こんろんさん、クンルンシャン)、
崑崙丘(きゅう)、
崑崙虚(きょ)、
崑山、

ともいい(大言海・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99・ブリタニカ国際大百科事典)、中国の古代信仰では、

神霊は聖山によって天にのぼる、

と信じられ、崑崙山は最も神聖な山で、大地の両極にあるとされた(仝上)。中国北魏代の水系に関する地理書『水経(すいけい)』(515年)註に、

山在西北、……高、萬一千里、

とあり、中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、

崑崙……高萬仞、面有九井、以玉為檻、

とあり、その位置は、

瑶水(ようすい)という河の西南へ四百里(山海経)、

とか、
西海の南、流沙(りゅうさ)のほとりにある(大荒西経)、

とか、

貊国(はくこく)の西北にある(海内西経)、

と諸説あり、

その広さは八百里四方あり、高さは一万仞(約1万5千メートル)、

あり、

山の上に木禾(ぼっか)という穀物の仲間の木があり、その高さは五尋(ひろ)、太さは五抱えある。欄干が翡翠(ひすい)で作られた9個の井戸がある。ほかに、9個の門があり、そのうちの一つは「開明門(かいめいもん)」といい、開明獣(かいめいじゅう)が守っている。開明獣は9個の人間の頭を持った虎である。崑崙山の八方には峻厳な岩山があり、英雄である羿(げい)のような人間以外は誰も登ることはできない。また、崑崙山からはここを水源とする赤水(せきすい)、黄河(こうが)、洋水、黒水、弱水(じゃくすい)、青水という河が流れ出ている、

とあるhttp://flamboyant.jp/prcmini/prcplace/prcplace075/prcplace075.html。『淮南子(えなんじ)』(紀元前2世紀)にも、

崑崙山には九重の楼閣があり、その高さはおよそ一万一千里(4千4百万キロ)もある。山の上には木禾があり、西に珠樹(しゅじゅ)、玉樹、琁樹(せんじゅ)、不死樹という木があり、東には沙棠(さとう)、琅玕(ろうかん)、南には絳樹(こうじゅ)、北には碧樹(へきじゅ)、瑶樹(ようじゅ)が生えている。四方の城壁には約1600mおきに幅3mの門が四十ある。門のそばには9つの井戸があり、玉の器が置かれている。崑崙山には天の宮殿に通じる天門があり、その中に県圃(けんぽ)、涼風(りょうふう)、樊桐(はんとう)という山があり、黄水という川がこれらの山を三回巡って水源に戻ってくる。これが丹水(たんすい)で、この水を飲めば不死になる。崑崙山には倍の高さのところに涼風山があり、これに昇ると不死になれる。さらに倍の高さのところに県圃があり、これに登ると風雨を自在に操れる神通力が手に入る。さらにこの倍のところはもはや天帝の住む上天であり、ここまで登ると神になれる、

とある(仝上)とか。

宋代の『湘山野録』には、

崑崙山産玉、麗水生金、

中国の西方に位置して玉を産し、黄河の源はこの山に発すると考えられた、

とあり(日本大百科全書)、

美麗なる玉(ぎょく)を出すを以て、名あり、崑玉と云ふ、

ともある(大言海)。後漢書・孔融傳では、

與琭玉秋霜、比質可也、

とあり、その、

人格の高尚なる、

のに準えられている(大言海)。初めは、

天上に住む天帝の下界における都、

とされ、

諸神が集り、四季の循環を促す「気」が吹渡る、

とされていたが、のちに神仙思想の強い影響から、古代中国人にとっての、

理想的な他界、

とされ、女仙の、

西王母(せいおうぼ)、

が居を構え、その水を飲めば不死になるという川がそこの周りを巡っているという、

地上の楽土、

とされた。黄帝の崑崙登山や、西周(せいしゅう)の穆(ぼく)王が、この山上に西王母を訪ねた伝説がある(日本大百科全書)。

なお、

崑崙奴(こんろんど)、

は、アフリカ系黒人に対しての呼び名であるが、伎楽の、

崑崙(くろん)面、

の名称も、そもそもは黒人のことをさしたhttps://dic.pixiv.net/a/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1とある。

崑崙山脈.jpg

(崑崙山脈 古くは西域の西南方に見える山脈を崑崙山といった https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%91%E5%B4%99%E5%B1%B1%E8%84%88より)

現在の、

崑崙山脈、

は、

中国西部の山脈。チベット高原とタリム盆地の間を東西に走る山地。全長2400㎞で、西部、中部、南部に大別され、狭義には西部崑崙をさす、

とあり(日本国語大辞典)、

クンルン山脈、

を指し、

黄河・長江の水源、

である(仝上)。

『山海経』の西王母の挿絵(清代).jpg

(『山海経』の西王母の挿絵 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8Dより)

西王母(せいおうぼ)、

というのは、山海経では、

西方の崑崙山に住む神女、

の名で、

人面・虎歯・豹尾・蓬髪、

の(精選版日本国語大辞典)、

半人半獣、

で、

不老長寿、

をもって知られ(デジタル大辞泉)、

三青鳥が食物を運ぶ、

とある(マイペディア)が、のち神仙説の流行から仙女化し、淮南子では、

不死の薬をもった仙女、

とされ、さらに周の穆王(ぼくおう)が西征してともに瑤池で遊んだといい(列子・周穆王)、長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、漢代には、

西王母信仰、

が広く行なわれた(精選版日本国語大辞典)とある。「王母」は、

祖母や女王のような聖母、

といった意味合いであり、「西王母」とは、

西方にある崑崙山上の天界を統べる母なる女王、

の尊称で、

天界にある瑶池と蟠桃園の女主人でもあり、すべての女仙を支配する最上位の女神とされ、東王父に対応する、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8D

西王母像(漢代の素焼き像).png

(西王母像(漢代の素焼き像) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8Dより)

虎もしくはライオンに乗った西王母の画像(明代).jpg

(虎もしくはライオンに乗った西王母の画像(明代) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%8E%8B%E6%AF%8Dより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年09月10日

四句の偈


摩耶の胎(なか)から生(むま)れ出て、寶の蓮(はちす)足をうけ、十方七度(ななたび)歩みつつ、四句の偈(げ)をぞ説(と)いたまふ(梁塵秘抄)、

十方(じっぽう)

とは、

東・西・南・北の四方、

と、

艮(うしとら=北東)、巽(たつみ=東南)、坤(ひつじさる=南西)、乾(いぬい=西北)の四隅(四維(しゆい・しい)とも)、

と、さらに、

上・下を合わせた称(精選版日本国語大辞典)をいい、

あらゆる方角、場所、

つまり、

あらゆる世界

の意で、

十方世界、

という。仏教で、

十方三世(じっぽうさんぜ)とは、

過去、現在、未来にわたるあらゆる時間とあらゆる空間、

を意味し、大乗仏教では、われわれの住む、

娑婆(しゃば)世界、

のほかに、十方に無量の世界、すなわち、

十方世界、

があり、そこには一世界に一仏の割合で三世にわたって無数の仏が出現すると説き(日本大百科全書)、

十方三世の諸仏、

という(仝上)とか。まるで今日の多次元宇宙のようでもある。

四句(しく)の偈(げ)、

は、

四句の文(しくのもん)、

ともいい、

諸行無常、
是生滅法、
生滅滅已、
寂滅為楽、

といった、

四句からなる偈の文句、

をいう(精選版日本国語大辞典)。「是生滅法」(ぜしょうめっぽう)で触れたように、

諸行無常(しょぎょうむじょう 諸行は無常なり)、
是生滅法(ぜしょうめっぽう 是れ生滅の法なり)、
生滅滅已(しょうめつめつい 生滅を滅し已(お)わりて)、
寂滅為楽(じゃくめついらく 寂滅を楽となす)、

は、涅槃経の、「雪山童子」の説話で、

釈尊は過去世に雪山で修行していたので雪山童子(せっせんどうじ 雪山大士)と呼ばれるが、雪山に住していたとき帝釈天が羅刹(ラークシャサ)の形をして現れてこの偈の前半を説いたとき、さらに後半を教えてもらうために身を捨てた、

という伝説があるので(自分の身命を施す菩薩行の代表例として引用されることが多い)、

雪山偈(せっせんげ)、

と呼び(「雪山」はヒマラヤを指すとされる)、

諸行無常偈、
無常偈、

ともいいhttp://www.joukyouji.com/houwa0604.htm、偈の全体の意味は、三法印(仏教の根本にある三つの概念)の、

諸行無常(あらゆる物事(現象)は変化している。変化しない、固定的な物事は存在しない)、
諸法無我(あらゆる存在(ダルマ 法)の中には我(アートマン)は無い)、
涅槃寂静(煩悩の炎の吹き消されたさとりの境地(ニルヴァーナ 涅槃)は心が安らかに落ちついた(至福の)状態である)、

に近いとされ、法然は、

かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはする、

と詠い、俗説に、

いろはにほへとちりぬるを(色は匂えど散りぬるを)、
わかよたれそつねならむ(我が世誰ぞ常ならむ)、
うゐのおくやまけふこえて(有為の奥山今日越えて)、
あさきゆめみしゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)、

の、

いろはうた、

がこれを訳したものと言われ(仝上)、「無上偈」は、

諸行无常、是生滅法と云ふ音(こゑ)風のかに聞こゆ(「観智院本三宝絵(984)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり(光悦本謡曲「三井寺(1464頃)」)、
とか、
初夜の鐘を撞く時は諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は是生滅法と響くなり、晨朝(しんちょう)の響きは生滅滅已、入相(いりあい)は寂滅為楽と響くなり(長唄「娘道成寺」)、

等々と使われる(仝上・精選版日本国語大辞典)、

偈(げ)、

は、

サンスクリット語ガーターgāthā、

の音写の省略形、

で、漢語では、

頌(じゅ)、
あるいは、
讃(さん)、

とも翻訳される、

仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、

をいい、

偈陀(げだ)、
伽陀(かだ)、

とも音写し、意訳して、

偈頌(げじゅ)、

ともいい、対して散文部分を、

長行、

という(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%88)とある。古来インド人は詩を好み、仏典においても、詩句でもって思想・感情を表現したものがすこぶる多い。漢語では、これを三言四言あるいは五言などの四句よりなる詩句で訳出される。たとえば、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)で、

諸悪莫作(しょあくまくさ)、
諸善(しょぜん 衆善)奉行(ぶぎょう)、
自浄其意(じじょうごい)、
是諸仏教(ぜしょぶっきょう)、

とか、法身偈(ほっしんげ)で、

諸法従縁生(しょほうじゅうえんしょう)、
如来説是因(にょらいせつぜいん)、
是法従縁滅(ぜほうじゅうえんめつ)、
是大沙門説(ぜだいしゃもんせつ)、

と共に、「雪山偈」も仏教の根本思想を簡潔に表現したもの(日本大百科全書)とされる。四句から成るものが多いため、単に、

四句、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

四句の偈、

は、

要偈(ようげ)、
伝法要偈(でんぼうようげ)、

ともいい、

聖光(しょうこう)の『授手印』の袖書に、

究竟大乗浄土門(くきょうだいじょうじょうどもん)
諸行往生称名勝(しょぎょうおうじょうしょうみょうしょう)
我閣万行選仏名(がかくまんぎょうせんぶつみょう)
往生浄土見尊体(おうじょうじょうどけんぞんたい)

のことhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A6%81%E5%81%88とあり、

究竟大乗浄土門、

は、

大乗仏教の究極の教えは浄土門である、

との意味で、『無量寿経』の本旨を要約した一句であるとともに、阿弥陀仏の選択を意味する内容でもある(仝上)。

諸行往生称名勝、

は、

様々な実践行においても回向さえできれば極楽世界に往生することは可能ではある、

との意味で、しかし、

末代の凡夫にそのような回向は極めて困難である。末代の凡夫はただ選択本願称名念仏一行のみで極楽世界に往生するのだ。選択本願称名念仏一行こそが、あらゆる実践行の中で最も勝れているのだ、

という趣旨で、『観経』の総意をまとめた一句となっており、釈尊の選択を意味する内容でもある。

我閣万行選仏名、

は、

私は一切の他の実践行を捨てて、ただ称名念仏一行のみを選び取る、

という意味で、『阿弥陀経』の総意をまとめた内容であり、また諸仏の選択を意図した内容でもある(仝上)。この「私」とあるのは、

称名念仏一行を選択した阿弥陀仏であり、また阿弥陀仏の救済と念仏の教えこそが真実の教えであるとした釈尊であり、また念仏一行のみを絶讃した諸仏であり、そして阿弥陀仏が人の姿としてこの世界に現れ本願念仏を説いた善導でもある、

とある(仝上)。

往生浄土見尊体、

は、

阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、阿弥陀仏と相見あいまみえる、

という意味で、「浄土三部経」の総意であると共に、阿弥陀仏と釈尊と諸仏の選択を意図した内容でもある(仝上)。

「偈」 漢字.gif

(「偈」 https://kakijun.jp/page/ge11200.htmlより)

「偈」(漢音ケイ・ケツ、呉音ゲ・ゲチ)は、「是生滅法」で触れたように、

会意兼形声。「人+音符曷(カツ 声をからしてどなる)」、

とある(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2023年09月11日

浄名居士


毘舎離(びさり)城に住(おう)せりし、淨名居士(こじ)の御室(みむろ)には、三萬二千の床立てて、それにぞや、十方の佛は居たまひし(梁塵秘抄)、

十方(じっぽう)、

は、「四句の偈」で触れたように、

東・西・南・北の四方、

と、

艮(うしとら=北東)、巽(たつみ=東南)、坤(ひつじさる=南西)、乾(いぬい=西北)の四隅(四維(しゆい・しい)とも)、

と、さらに、

上・下を合わせた称(精選版日本国語大辞典)をいい、

あらゆる方角、場所、

つまり、

あらゆる世界

の意で、

十方世界、

という。仏教で、

十方三世(じっぽうさんぜ)とは、

過去、現在、未来にわたるあらゆる時間とあらゆる空間、

を意味し、大乗仏教では、われわれの住む、

娑婆(しゃば)世界、

のほかに、十方に無量の世界、すなわち、

十方世界、

があり、そこには一世界に一仏の割合で三世にわたって無数の仏が出現すると説き(日本大百科全書)、

十方三世の諸仏、

という(仝上)。

維摩居士.jpg


浄名(じょうみょう)居士、

は、

Vimala-kīrtiビマラキールティ)の訳語、

「浄」は清浄、「名」は名声、

の意で、音訳、

維摩詰(ゆいまきつ)、
維摩羅詰、
毘摩羅詰利帝、

の意訳名、

浄名、
無垢称(むくしょう)、

とも漢訳される(仝上)。「居士」は、中国では、

学徳高くして仕官していない人(処士)、

をいうが、仏教では、

サンスクリット語のグリハ・パティgha-pati、

の訳、

迦羅越(からおつ)、
疑叨賀鉢底(げとうがぱってい)、

と音写し、

家主、
長者、
在家、

と訳す。また、

クラ・パティKula-pati(家族の長)、

の訳でもあり、

在家(ざいけ)の男子で仏教に帰依(きえ)して受戒し仏法を求める徳行ある者、

をいう。インドでは、とくに四姓のなかでは商工を業とする、

毘舎(バイシャVaiśya。第三の庶民階級)の富豪、

をいう(日本大百科全書)。『今昔物語』巻3第1話「天竺毗舎離城浄名居士語」で、

今昔、天竺の毗舎離((びしゃり)城の中に浄名居士と申す翁在ましけり。此の人の居給へる室は、広さ方丈也。而るに、其の室の内に、十方の諸仏来り集り給て、為に法を説き給へり。各、無量無数の菩薩、聖衆を引具し給て、彼の方丈の室に、各微妙に荘厳せる床を立てて、三万二千の仏、各其の床に坐し給て、法を説き給ふ。無量無数の聖衆、各皆随へり。
亦、居士も御まして、法を聞き給ふ。而るに、室の内に猶所有り。此れ、浄名居士の不思議の神通の力也。然れば、仏(釈迦)の、室をば、「十方の浄土に勝たる、甚深不思議の浄土也」と説き給ひけり。
亦、此の居士は、常に病の筵に臥して病給ふ。其の時に、文殊、居士の室に来り給て、居士に申し給はく、「我れ聞けば、居士、常に病の筵に臥して、悩給ふと。然らば、其れ何なる病ぞ」と。居士、答て宣はく、「我が病は、此れ一切の諸の衆生の煩悩を病也。我れ、更に外の病無し」と。文殊、此の事を聞き給て、歓喜して還り給ひぬ。
亦、居士、年八十有余に在して、行歩に安からずと云へども、「仏の法を説き給へる所に詣でむ」と思て、詣で給へり。其の道の間、四十里也。既に、居士、仏の御許に歩み詣で給て、仏に申して言さく、「我れ、年老て、歩みを運ぶに堪へずと云へども、法を聞かむが為めに、四十里の道を歩び詣たり。其の功徳は何許(いかばかり)ぞ」と。
仏、居士に答へて宣はく、「汝、法を聞むが為に来れり。其の功徳、無量無辺ならむ。汝が歩む足の跡との土を取りて、塵と成して、其の塵の数に随へて、一の塵に一劫を宛てて、其の罪を滅せむ。亦、命の永からむ事、其の塵と同じからむ。亦、仏に成らむ事、疑ひ無からむ。凡そ、此の功徳、量無し」と説き給ければ、居士、此の事を聞き給て、歓喜して還り給ひぬ。法を聞かむが為に詣でたる功徳、此の如き也となむ、語り伝へたるとや。

とあるように、維摩は、

バイシャーリーの富裕な在家(ざいけ)の仏教信者(居士)で、すでに菩薩(ぼさつ)としての実践を完成していた。釈迦が近くに滞在し説法をしていたが、彼は病にかかり参席できなかった。釈迦は弟子たちに見舞いに行くようにいったが、みんな維摩に議論を吹きかけられて負かされた経験があるため辞退した。結局智慧の優れた文殊菩薩が見舞いの代表となり、維摩の居室(方丈)を訪ね、病気の問題などを発端として仏教の真理について議論が闘わされる。そのとき、文殊は垢(よごれ)と浄(きよ)らかさは究極的に不二(ふに)、無言無説であるとことばで表現したのに、維摩は沈黙でもってそれを示したとされる、

とあり(日本大百科全書)、これを、

維摩の一黙、

という(仝上)とか。維摩は在家者でありながら、

空(くう)思想を実践する理想的な菩薩、

として、中国・日本の禅宗においてとくに重要視されている(仝上)。で、中国では、禅が盛んになると、

居士、

と称する人が増え、白居易などもその一人とされ、中国では、

仕官を求めない、
裕福、
無欲で徳を積む、
道を守り自ら悟る、

の4項目を満足する人を、

居士、

としたhttp://tobifudo.jp/newmon/name/koji.htmlとある。

木造維摩居士坐像.jpg

(木造維摩居士坐像(興福寺東金堂) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%91%A9%E5%B1%85%E5%A3%ABより)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月12日

四向四果(しこうしか)


鷲のおこなふ深山(みやま)より、聖徳太子ぞ出(い)でたまふ、鹿(かせぎ)が苑(その)なる岩屋より、四果の聖(ひじり)ぞ出でたまふ(梁塵秘抄)、

の、

四果、

とは、

四向四果(しこうしか)、



四果、

だと思われる。

四向四果、

は、

四双八輩(しそうはっぱい)、
四向四得、

ともいい、

「向」は修行の目標、「果」は到達した境地、

の意で、部派仏教(小乗仏教)において、

阿羅漢果(あらかんか)に至る修行の階位、

をいい(広辞苑)、

修行していく段階を意味する「向」と、それによって到達した境地を意味する「果」、

とを総称したもの(ブリタニカ国際大百科事典)で、大乗仏教の立場からは、

小乗の修行階位、

とされるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C。具体的には、

①預流(よる 梵語srotāpanna、パーリ語sotāpanna)
②一来(いちらい 梵語sakṛd-āgāmin、パーリ語sakad-āgāmin)
③不還(ふげんanāgāmin)、
④阿羅漢(あらかん 梵語arhat、パーリ語arahanta)、

のそれぞれに向(こう 向かって修行する段階)と果(か 到達した境地)をたて(仝上)、
預流(よる)、

は、梵語、

スロータアーパンナ(須陀洹 しゅだおん)、

の訳で、

聖道の流れに入った者で、天界と人間界とを七度往来する間に修行が進み悟りを得る者、

の意(日本大百科全書)、

一来(いちらい)、

は、梵語、

アーガーミン(斯陀含 しだごん)、

の訳で、

天界と人間界とを一度だけ往復して悟りを得る者、

の意、

不還(ふげん)、

は、梵語、

アナーガーミン(阿那含 あなごん)、

の訳で、

ふたたびこの世に還(かえ)らないで天界で悟りを得る者、

の意、

阿羅漢(あらかん)、

は、

アルハトの主格アルハン、

の音写で、

この世で煩悩(ぼんのう)を滅尽し悟りを得る者、

に分け(仝上)、

四向四果、

は、

預流向、
預流果、
一来向、
一来果、
不還向、
不還果、
阿羅漢向、
阿羅漢果、

となり、四つの果を合わせて、

四沙門果(ししゃもんか)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C

預流向は、

四諦(したい)を観察する段階である見道で、欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつある間、

をいい(ブリタニカ国際大百科事典)、

三界の見惑(八十八使)を断じ、一五心まで、

をいい、この境地を、

見道、

というhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C

預流果は、

見道のそれらの煩悩を断じ終ってもはや地獄、餓鬼、畜生の三悪道には堕することがなくなる状態、

をいい、

三界の見惑(八十八使)を断じ、一五心までをいい、第一六心で修道に入り預流果となる。ここに達すれば、もはや三悪趣に堕ちることがない(ブリタニカ国際大百科事典)。

一来向は、

四諦を観察することを繰返していく修道の段階で、欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつある間をいい、

一来果は、

その6種の煩悩を断じ終った位、

不還向は、

一来果で断じきれなかった残りの3種の煩悩を断じつつある間をいい、

不還果は、

その3種の煩悩を断じ終った位、

阿羅漢向は、

不還果を得た聖者がすべての煩悩を断じつつある間をいい、

阿羅漢果は、

すべての煩悩を断じ終って涅槃(ねはん)に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位、

をいう(ブリタニカ国際大百科事典)とある。

ここまでの境地を、

修道、

といい、

阿羅漢果、

は、

見惑、修惑をすべて断じた涅槃の境地、

で、この境地を、

無学道、

というhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9Cとある。因みに、「四諦(したい)」は、「声聞」で触れたように、

「諦」はsatyaの訳。真理の意、

で、迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、

苦諦、
集諦(じったい)、
滅諦、
道諦、

の四つで、

四聖諦(ししょうたい)、

ともよばれる。苦諦(くたい)は、

人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、

集諦(じったい)は、

その苦はすべて自己の煩悩(ぼんのう)や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、

滅諦(めったい)は、

それらの欲望を断じ滅して、それから解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、

道諦(どうたい)は、

この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道(はっしょうどう 正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう))による、

とするもの(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

阿羅漢.bmp

(阿羅漢 精選版日本国語大辞典より)

阿羅漢、

は、「声聞」、「一乗」で触れたように、

サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、

で、

尊敬を受けるに値する者、

の意。

究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、

をいう。部派仏教(小乗仏教)では、

仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、

を指し、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、

無学(むがく)、

ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教の立場からは、

個人的な解脱を目的とする者、

とみなされ、

声聞、

を、

独覚(縁覚)、

と並べて、この二つを、

二乗・小乗、

として貶している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E。ちなみに、「乗」とは、

「乗」は乗物、

の意で、

世のすべてのものを救って、悟りにと運んでいく教え、

を指し、「三乗」とは、

悟りに至るに3種の方法、

をいい、

声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、

の三つをいう(仝上)。大乗仏教では、

菩薩、

を、

修行を経た未来に仏になる者、

の意で用いている。

悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、

また、仏の後継者としての、

観世音
彌勒
地蔵

等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、

小乗の聖者、

をさし、大乗の、

求道者(菩薩)、

には及ばないとされた。つまり、「声聞」の意味は、

縁覚・菩薩と並べて二乗や三乗の一つに数える、

ときには、

仏陀の教えを聞く者、

という本来の意ではなく、

仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者のことを指し、四諦の教えによって修行し四沙門果を悟って身も心も滅した無余涅槃(むよねはん 生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。)に入ることを目的とする人、

のことを意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E

だからか、大乗の『法華経』随喜功徳品や『アヴァダーナシャタカ』によると、

一瞬にして四向四果のいずれかに達する、

というhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C

十六羅漢像(第十四尊者).jpg

(十六羅漢像(第十四尊者) https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5721より)

なお、

羅漢、

は略称で、

十六羅漢、
五百羅漢、

などが知られている。

十六羅漢、

は、釈尊が般涅槃のとき、

一六の阿羅漢とその眷属に無上の法を付属した、

と言われ、釈迦の弟子でとくに優れた16人、

賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ 跋羅駄闍 ばらだしゃ)、
迦諾迦伐蹉(かにゃかばっさ)、
迦諾迦跋釐墮闍(かにゃかばりだじゃ、諾迦跋釐駄 だかはりだ)、
蘇頻陀(そびんだ)、
諾距羅(なくら 諾矩羅 なくら)、
跋陀羅(ばっだら)、
迦理迦(かりか、迦哩 かり)、
伐闍羅弗多羅(ばっじゃらほつたら、弗多羅 ほつたら)、
戍博迦(じゅばくか)、
半託迦(はんだか、半諾迦 はんだか)、
囉怙羅(らごら、羅怙羅 みらごら)、
那伽犀那(ながさいな)、
因掲陀(いんかだ)、
伐那婆斯(ばつなばし)、
阿氏多(あした)、
注荼半託迦(ちゅうだはんたか)、

をいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%BE%85%E6%BC%A2

十八羅漢、

というときは、

慶友と賓頭盧(びんずる)、

あるいは、

迦葉(かしょう)と軍徒鉢歎(ぐんとはつたん、屠鉢歎)、

を加えた一八人の阿羅漢をいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%BE%85%E6%BC%A2

五百羅漢、

は、

釈迦の直弟子たち500人、

をいい、

釈迦が死んだ後に十大弟子を含む500人の阿羅漢が集まり、

第一結集、

という仏教の会議が開いたとされるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%BE%85%E6%BC%A2。後に中国や日本で信仰された(仝上)。

喜多院の五百羅漢.jpg

(喜多院の五百羅漢 日本大百科全書より)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月13日

耆闍崛山(ぎじゃくっせん)


浄飯王帚を持ち、耆(き)闍崛山(せん)には聖者(そうじゃ)居りとかやな、五臺山の深きより、一乗となつて出でたまふ(梁塵秘抄)、

の、

耆闍崛山、

は、

きじゃくっせん、

とも訓ませ、

サンスクリット語 Gṛdhrakūṭa、

の音写

祇闍崛山、

とも移されるが、

霊鷲山(りょうじゅせん)、
鷲峰山(じゅほうせん・じゅぶせん)、
鷲山(じゅせん)、
霊頭山、
鷲頭山、
鷲台、

等々と訳され、

霊山(りょうぜん)、

と略すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E9%B7%B2%E5%B1%B1

霊鷲山の山頂.jpg


霊鷲山で触れたように、

禿鷲の頂という山、

という意(原語のグリドラはハゲワシのこと)で、

耆闍崛山、此翻靈鷲、亦曰鷲頭(法華文句)、

とあるように、

この山のかたちが、空に斜めに突き出すようになっており、しかも頂上部がわずかに平らになっていてハゲワシの首から上の部分(頭)によく似た形をしているので、

山の頂が羽を拡げた鷲の形に見えるところから、

とも、

山形が鷲の頭に似るから、

とも、あるいは、

鷲が多くすむから、

ともいわれる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%80%86%E9%97%8D%E5%B4%9B%E5%B1%B1・ブリタニカ国際大百科事典)。

インド古代マガダ国の主都王舎城を囲む五山の一つチャッター山の南面にある山、

で、

釈迦が法華経や無量寿経などを説いた所、

として著名である(仝上)。『無量寿経』上の序分に、

我れ聞ききかくの如きを。一時、仏、王舎城の耆闍崛山の中に住して、大比丘衆万二千人と俱なりき、

とあり、『観経』『大品般若経』『法華経』『金光明経』などの多くの大乗諸経典がこの山で説かれ(仝上)、

妙法蓮華經(卷第一序品第一)では、

如是我聞。一時佛住王舍城耆闍崛山、

妙法蓮華經如來壽量品(第十六)では、

時我及衆僧 倶出靈鷲山 我時語衆生……於阿僧祇劫 常在靈鷲山 及餘諸住處、

などとあるhttp://tobifudo.jp/newmon/seichi/ryoju.html

ビンビサーラ王が釈尊の説法を聞くために登ったとされる小路が今も用いられている、

とありhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%80%86%E9%97%8D%E5%B4%9B%E5%B1%B1

灌木がとりまく中腹には、出家者が修行にはげんだ多くの洞窟が残る、

とある(仝上)。

仏典上、

摩掲陀國、

とされる、

マガダ国、

は、古代インドにおける十六大国の一つ。ナンダ朝のもとでガンジス川流域の諸王国を平定し、マウリヤ朝のもとでインド初の統一帝国を築いた。王都はパータリプトラ(現パトナ)、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%83%80%E5%9B%BD

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年09月14日

有漏・無漏


有漏(うろ)の此の身を捨てうでて、無漏(むろ)の身にこそならむずれ、阿彌陀佛(ほとけ)の誓(ちかい)あれば、彌陀に近づきぬるぞかし(梁塵秘抄)、

の、

有漏、

の、

漏、

は煩悩の意、

で、

有漏(うろ、梵語sāsrava)、

は、

煩悩のある状態、

無漏(むろ、梵語anāsrava)、

は、

迷いを離れていること、

つまり、

煩悩のない境地、

の意で、

無漏道、

ともいう(広辞苑)。

漏(ろ、梵語āsrava)、

は、

さまざまな心の汚れを総称して表す言葉で、広い意味で煩悩と同義と考えられる、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%BC%8Fが、仏教(大毘婆沙論)では、

六処の門から流れ出るもの、
迷いの境涯に留めるもの、
輪廻に縛りつけるもの、

などの意味が与えられ(仝上)、

流れ出る、
漏出、

の意に解しhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E6%BC%8F%E3%83%BB%E6%9C%89%E6%BC%8F

汚れ・煩悩は六根(視覚・聴覚など五官と心)から流れ出て、心を散乱させるもの、

とした(岩波仏教語辞典)。

漏泄(もれ)ある義、煩悩の意、煩悩は種々の縁に触れて、貪欲、瞋恚の過ちを漏らすこと、極まらぬなり、「諸漏已盡、無復煩悩」と云へり、

とある(大言海)のはその解釈である。

因果不亡曰有、即、色界無色界、見思煩悩也、謂、衆生因此、煩悩不能出離色無色界、故名有漏、

とある(大蔵法數)。

だから、

有漏路、

というと、

煩悩が多い者のいる世界、

つまり、

この世、

をいい、

無漏路、

というと、

煩悩に汚されない清浄の世界、

を指し、

煩悩をもつ人間の世俗的な智慧、

つまり、

世俗智、

の、

有漏智、

に対し、

煩悩を離れた清浄の智慧、

を、

無漏智、

といい、

煩悩をもつ存在である凡夫の行う修行(煩悩の出現を断つことはできるが、煩悩の根本を断つことはできないとする)、

を、

有漏道、

煩悩を離れた清らかな智慧を得た存在である聖者の行う修行(煩悩を根本的に断ち切るために行う)、

を、

無漏道、

という(大辞林)。

煩悩を備えている存在、

を、

有漏法、

といい、

四諦のうち、苦・集の二諦。煩悩に関する教え、

をいい、

煩悩をもたない存在、

つまり、

真如、

を、

無漏法、

といい、

煩悩の消滅と悟りの出現を説明する滅と道の二諦(にたい)、

とする(大辞林)。ただ、

三つの無為法(虚空・択滅(ちゃくめつ=涅槃)・非択滅)と道諦(無漏の智慧等)、

が、

無漏、

であり、それ以外のすべてが、

有漏、

である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E6%BC%8F%E3%83%BB%E6%9C%89%E6%BC%8F・広辞苑)ともある。

因みに、「四諦」は「正行」で触れたように、

四聖諦、
四真諦、
苦集滅道、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6、人間の生存を苦と見定めた釈尊が、そのような人間の真相を四種に分類して説き示したもので、「諦」は、

梵語catur-ārya-satyaの訳、

で、

4つの・聖なる・真理(諦)、

を意味し、すなわち、

①苦諦(くたい、梵語duḥkha satya) 人間の生存が苦であるという真相。苦聖諦ともいう。人間の生存は四苦八苦を伴い、自己の生存は、自己の思いどおりになるものではないことを明かす。
②集諦(じったい、じゅうたい、梵語samudaya satya) 人間の生存が苦であることの原因は、愛にあるという真相。苦集聖諦ともいう。この愛とは、渇愛といわれるもので、ものごとに執着する心であり、様々なものを我が物にしたいと思う強い欲求である。このような欲求に突き動かされて行動することが、苦の原因であることを明かす、
③滅諦(めったい、梵語nirodha satya) 苦の原因である渇愛を滅することにより、苦がなくなるという真相。苦滅聖諦ともいう。渇愛を滅することで、生存に伴う苦しみが止滅し、覚りの境地に至ることを明かす、
④道諦(どうたい、梵: mārga satya) 渇愛を滅するための具体的な実践が八正道であるという真相。苦滅道聖諦ともいう。渇愛を滅し、苦である生存から離れるために行うべきことが、八正道であることを明かす。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道となる、

をさすhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E8%AB%A6))

そして、

有漏無漏法、

で、

迷いの世界と悟りの世界とのあらゆる存在、

をいう(仝上)で、

道に迷ったり、どうして良いのか判断できずに困って彷徨っている、

様子をいう、

うろうろする、

の、

うろ、

に、

有漏、

を当てる説もあるが、こじつけかもしれない。

うろたふ、

の、

うろ、

とする説(志不可起・大言海)がある。

うろうろ、

は、擬態語のようだから、これが妥当な気がする。

「漏」 漢字.gif

(「漏」 https://kakijun.jp/page/1461200.htmlより)

「漏」(漢音ロウ、呉音ル)は、

会意兼形声。屚(ロウ)は、「尸(やね)+雨」からなり、屋根から雨がもることを示す会意文字。漏はさらに水をそえたもの、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。屚(ロウ 屋根から雨がもれる)とから成り、水どけいの意を表す。ひいて、「もる」「もれる」意に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(氵(水)+屚)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「片開きの戸の象形と雲から水滴がしたたり落ちる象形」(「戸・屋根に穴が開いて雨水がもれる」の意味)から、「もれる」を意味する「漏」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1511.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:有漏 無漏
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2023年09月15日

摩訶止観


天台宗の畏(かしこ)さは、般若や華厳摩訶止(まかし)観、玄義や釋籤倶視舎頌疏(ずんぞ)、法華経八巻(やまき)が其の論義(梁塵秘抄)、

の、

摩訶止観、

は、

天台摩訶止観、
天台止観、
止観、

ともいい、

法華三大部の一、

で、594年、隋の智顗(ちぎ 561~632)述、灌頂(かんじよう)筆録の、

天台宗の根本的な修行である止観、すなわち瞑想法の体系的な記述、

で、その究極的世界観を明らかにする(大辞林)とある。

天台宗の観心(かんじん)を説き修行の根拠となる、

ともある(広辞苑)。

観心(かんじん)、

とは、

観法の一、

で、

自己の心を対象として観察すること、

をいい、天台宗で修行における中心課題とされる(デジタル大辞泉)。

天台三大部(てんだいさんだいぶ)、

は、

三大部、
法華大三部、

ともいい、中国天台教学の大成者である智顗(ちぎ)が講説した、

『妙法蓮華経文句(もんぐ 法華文句)』一〇巻、
『妙法蓮華経玄義(法華玄義)』一〇巻、
『摩訶止観』一〇巻、

の総称http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E4%B8%89%E5%A4%A7%E9%83%A8。これらは智顗の講説を門人の章安灌頂が筆録し整理したもので、智顗の法華教学が余すところなく展開され(仝上)、それぞれは、

『法華文句』は『法華経』の経文の解釈、
『法華玄義』は『法華経』の経題の解説、
『摩訶止観』は実践方法を説いている、

とある(仝上)。

摩訶止観、

の、

摩訶、

とは、

梵語mahā、

の音訳、

大・多・勝、

の意で、

摩訶者是梵語也。此翻有三義。一竪横無辺際故云大。二数量過刹塵故云多。三是最勝最上故云勝(「大日経開題(824頃)」)、

と、摩訶迦葉で触れたが、

大きいこと、偉大なこと、すぐれていることを表し、他の語や人名の上について美称として用いることも多い(精選版日本国語大辞典)とある。

止観、

は、

梵語 śamatha-vipaśyanā(シャマタ・ヴィパッサナー)、

の訳、仏教瞑想を構成する、

止は三昧、観は智慧、

を意味するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E6%AD%A2%E8%A6%B3

ヨーガ行、

である。サンスクリット語から、

奢摩他、
毘鉢舎那、

とも音写されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3)。

止(シャマタ 奢摩他)、

は、

心の動揺をとどめて本源の真理に住すること、

観(ヴィパシヤナ 毘鉢舎那)は、

不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察すること、

である(仝上)。

止は禅定

に当たり、

観は智慧、

に相当し、ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱した(仝上)とされる。

摩訶止観、

の、灌頂による序文には、

此の止観は、天台智者、己心中所行の法門を説く、

とあり、

円教教理に立脚した止観(円頓止観)による修行の方軌、

が詳述されているhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E6%AD%A2%E8%A6%B3とある。

止観、

は、

即空即仮即中、

と言表される、

円融三諦の妙理(諸法実相)に繫念して妄念の流動を止息せしめる「止」、
と、

円融三諦(実相)に即して諸法を観察する「観」、

とを併称した天台独自の実践法であり(仝上)、

独自の発展を遂げた日本の天台宗のみならず、唐代以降の中国仏教、および日本の仏教諸宗派にも多大な影響を与えた(仝上)とある。

三大部の注釈は、唐代の、荊渓湛然(けいけいたんねん)の『玄義釈籤(しゃくせん)』『文句記』『止観輔行伝弘決(ふこうでんぐけつ)』が著名で、末疏(まっしょ)は数多い(日本大百科全書)とある。

三諦円融」で触れたように、天台宗が説く三つの真理は、

空諦(くうたい 一切存在は空である)、
仮諦(けたい 一切存在は縁起によって仮に存在する)、
中諦(ちゅうたい一切存在は空・仮を超えた絶対のものである)、

とされ、それぞれ、

独立の真理(隔歴(きゃくりゃく)三諦)、

とみるのでなく、

その本体は一つで三者が互いに円満し合い融通し合って一諦がそのままただちに他の二諦である、

として、

即空・即仮・即中、

とする(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)をいう。円融と隔歴の関係は、

無差別と差別、
絶対と相対、

という関係に近い(精選版日本国語大辞典)とある。この、

一切の存在には実体がないと観ずる空観(くうがん)、

と、

一切の存在は仮に現象するものであると観ずる仮観(けがん)、

と、

この空仮の二観を別々のものとしない中観(ちゅうがん)、

との三観を、

一思いの心に同時に観じ取ること、

を、

一心三観(いっしんさんがん)、

という(精選版日本国語大辞典)。一瞬の心のうちに、

空観、仮観(けかん)、中観の三観が成立する、

というのは、

竜樹の思想を実践しようとするもの、

ともされる(百科事典マイペディア)。

「圓融」(えんゆう 「えんにゅう」と連声になることが多い)は、漢語で、

公家之費、敷於民閒者、謂之円融(長編)、

と、

あまねくほどこす、

あるいは、

靈以境生、境因円融(符載銘)、

と、

なだらかにして滞りなし、

の意(字源)だが、天台宗・華厳宗では、

一切存在はそれぞれ個性を発揮しつつ、相互に融和し、完全円満な世界を形成していること、

つまり、

円満融通、

をいう(広辞苑)。

「三諦」(さんたい・さんだい)は、

有諦・無諦・第一義諦、

とも、また、

空諦・色諦・心諦、

ともいうhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%AB%A6%E5%86%86%E8%9E%8Dが、この三諦の真理を観ずる智慧として、

空観・仮観・中道観、

の三観を立てる。三諦と三観は、

所観の境、

と、

能観の智、

の関係だが、本来的には三観と三諦は同体であり、不二である(仝上)、とある。これを、

観法の側面、

から見ると、

一切の存在には実体がないとする空観、一切の存在は仮に現象するものであるとする仮観、空観と仮観の二観を別のものではないとする中道観の三観を順序や段階を経ずに一心のなかに同時に観じとること、

を、

一心三観、

といい、観法の究極的な目標とする。これに対して、

真理の側面、

から見ると、

空・仮・中の三諦が究極においてはそれぞれ別のものではなく、相互に障ることなく完全に融けあっているということ、

となる(仝上)。つまり、

相即無礙、

である(仝上)。

摩訶止観、

は、「止観」を、

漸次・不定(ふじょう)・円頓(えんどん)、

の3種でとらえ、

円頓止観、

こそ究極的な真理把握の方法とする(日本大百科全書)。

円頓止観(えんどんしかん)、

とは、天台宗が修行実践法として取る、法華経にのっとった観法で、

修行の階程や能力の差にかかわることなく、初めから実相を対象とし、行(修行)・証(修行の結果としての悟り)ともに円満で頓速な観法、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

一念の心に迷から悟にいたるあらゆるものごとが本来そなわっている、

という、

一念三千の理、

を心に観じる禅観的思惟によって体得されるものであるとして、その過程において突当るいろいろな壁を打開していく周到な用意を、綿密な配慮のもとに述べている(ブリタニカ国際大百科事典)とある。

智顗.jpg


智顗(ちぎ)、

は、

中国、隋代の僧。天台宗の開祖であるが、慧文(えもん)―慧思(えし)の相承から第三祖ともされ、

智者大師、
天台大師、

と称される。彼の教学思想は、

止観の法門、

として特徴づけられ、

一心三観(いっしんさんかん)、

を修して諸法の実相である、

円融(えんにゅう)の三諦(さんたい)、

を得知すべきことを教える法門であり、十観十境(じっかんじっきょう)の教え、方便(ほうべん)の教説、一念三千(いちねんさんぜん)説、が有機的に関連づけられて成り立つ壮大な法門である(日本大百科全書)とある。

「法華経」は「法華経五の巻」で触れた。

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2023年09月16日

犍陟駒(こんでいこま)


太子の御幸(みゆき)には、犍陟駒(こんでいこま)に乘りたまひ、車匿(しゃのく)舎人に口とらせ、檀特山(だんとくせん)にぞ入りたまふ、

の、

犍陟駒、

とは、

Kaṇṭhaka、

の音訳、

金泥駒、

とも当て、

悉達太子(しったたいし)が王宮を去って出家した時に乗った馬の名(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

とある。

悉達、

は、

Siddhãrtha、

の音訳。

悉達多(しったるた)、

とも当て、

目的を完成している者、

の意で、

一切事成、

等々とも訳す、

釈尊、

の名である(仝上)。

インド・ネパール国境沿いの小国カピラバストゥKapilavastuを支配していた釈迦(シャーキャ)族の王シュッドーダナŚuddhodana(浄飯(じようぼん)王)とその妃マーヤーMāyā(麻耶)の子としてルンビニー園で生まれた。姓はゴータマGotama(釈迦族全体の姓)、名はシッダールタSiddhārtha(悉達多)、

生後、占相によって命名された、

とされる(仝上・世界大百科事典)。

仏伝図 .jpg

(仏伝図(唐時代(8~9世紀 大英博物館蔵) 三つの挿話から成る。上段は、山中で太子が車匿と犍陟に訣別する場面、犍陟は前脚を屈し、車匿は袖で顔を覆って、別離の悲しみを表わしている。中段は太子の剃髪の場面、下段は太子の苦行の場面。本図は、現在ニューデリー国立博物館に所蔵される幡(太子の出城とそれに続く王の詮議などを表わす)と本来対のものである) http://abc0120.net/words03/abc2009121202.htmlより)

車匿(しゃのく)舎人、

の、

車匿(しゃのく・さのく)、

は、

Chandaka、

の音訳、

車匿舎人(しゃのくとねり)、

ともいい、

釈迦が出家のため王城を去ったとき、御者として従い、後に出家した人の名。傲慢(ごうまん)で他の僧と和合することがなかったが、釈迦入滅後は、阿難について学び、阿羅漢果を証した、

という(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。「阿羅漢果」の「果」については、「四向四果」で触れた。

舎人(とねり)、

は、ここでは、

貴人に従う雜人(ぞうにん)、

をいい、

牛車(ぎっしゃ)の牛飼い、乗馬の口取、

を指す(広辞苑)。

檀特山、

の「檀特」は、梵語、

Daṇḍaka、

の音訳、

だんどくせん、

とも訓ませ、

北インド(現在のアフガニスタン)ガンダーラ地方にある、

とされ、

弾太落迦(だんだらか)、


とも称する。

釈迦の前身、須太拏(しゅたぬ)太子が菩薩の修行をした所、

といい(精選版日本国語大辞典)、釈迦も師事した、

アーラーラ・カーラーマ、

が住んでいたというhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E7%89%B9%E5%B1%B1。日本では、平安中期から、

悉達(しった)太子が苦行した場所、

とする俗説が行なわれ(精選版日本国語大辞典)、『うつほ物語』『梁塵秘抄』『平家物語』などにも登場する(仝上)。

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年09月17日

健児(こんでい)


今聞く、大日本国(おおやまとのくに)の救将(すくいのきみ)廬原君臣(いおはらのきみおみ)、健児(こんでい)万余(よろづあまり)を率(い)て、正に海を越えて至らむ(日本書紀)、

の、

健児、

は、

けんじ、

と訓むと、

快馬健児、不如老嫗吹篪(洛陽伽藍記)、

と、

壮士、

と同義で、

血気盛んな若者、

の意であり、さらに、漢語では、

天下諸軍有健児(六典)、

と、

軍卒の職名、

として使われる(字源)が、我が国では、古く、

ちからひと、

と訓ませ、

乃ち健児に命(ことおお)せて、翹岐(ぎょうき)が前に相撲(すまひ)とらしむ(日本書紀・皇極天皇元年(641年)7月22日)、
今聞く、大日本国(おおやまとのくに)の救将(すくいのきみ)廬原君臣(いおはらのきみおみ)、健児万余(よろづあまり)を率(い)て、正に海を越えて至らむ(同・天智天皇2年8月13日)、

等々、

武勇者、
兵士、

の意味で用いられているhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%85%90が、後の、軍制に組み込まれた健児(こんでい)制度の謂いではない(日本大百科全書)。

こんでい、

と訓ませるのは、

奈良時代中期以降現れた兵士の一種、

の、

健児制度、

を指し、

一般の兵士の中から強健で武芸に秀でた300人を選んだもの、

をいい、

田租と雑徭(ぞうよう)が半分免除され、中男(ちゅうなん 17~20歳男子)二人が馬子として付けられた、

とあり、

こんに、

とも訓ませ、天平宝字六年(762)には、

郡司の子弟、および良民の20~40歳の中から選ぶこととした(精選版日本国語大辞典)とある。

健児(こんでい)、

は、

騎馬を自弁し、弓馬の術に長じた者が選抜され、騎馬の世話をする馬丁が国から支給された、

とあり、後世の武士の原型をなす(日本大百科全書)とされる。これは、

唐で府兵制の変質過程で募兵の一形式として軍鎮(ぐんちん)勤務のものとして「健児」が現れる、

とあるのを模倣した用語とみられる(仝上)。健児制度の初見は、近江国(滋賀県)志賀郡の大友吉備麻呂(きびまろ)で、725年(神亀2)から734年(天平6)まで健児であった。この間、735年には、

兵士300人を健児としたことや、翌年、健児、儲士(ちょし)、選士に対して田租(でんそ)、雑徭(ぞうよう)のなかばが免除となった、

という記事が残っている(仝上)。その後738年5月に、

東海、東山、山陰、山陽、西海諸道の健児を停止、

したとあり、約10年間の存在であった(仝上)。

軍団が私物化され農民の疲弊を招いた、
軍団の兵士は弓馬の心得あるものが少ない、

などが原因で、延暦11年(792)に軍団の制度が一部を除いて廃止されると、代わりに、質の向上を図るため、その代わりに設けた兵制をも、

健児(こんでい)、

という(精選版日本国語大辞典)。

郡司や富裕者、有位者の子弟を採用して健児とし、軍団の兵士と同様の任務につけ、国府におかれた健児所が彼らを統率した、

とあり(ブリタニカ国際大百科事典)、国衙(こくが)に健児所(こんでいどころ)を置いて所属させ、

各国の国府、兵庫、鈴蔵などを警備した、

という(精選版日本国語大辞典)。のち、

勲位を持つ者、さらには白丁(はくてい 無位無官の良民。口分田を支給されて租を納め課役を負担する者)、

をも採用し、その数は国の大きさによって違い、

約 20~200人、

全国で、

3155人、

延喜式には、

3964人、

とあった。彼らは 60日交代で勤務し、徭役は免除された。その費用には健児田(こんでいでん 健児の食料にあてるため国衙で営作した田。不輸租田であった)からの収入があてられた(仝上)。健児所は平安末まで存続した。

健児、

という用語の採用は、農民兵士の義務制を否定し、郡司子弟からのみ募兵するという理念を表現するものであったと考えられる(日本大百科全書)とあり、

後世の武士の原型をなす、

とはその意味であろう。そのためか、

健児(こんでい)、

には、武家隆盛の、中世には、

健児童(こんでいわらわ)、

ともいい、

こんてい童(わらは)もしは格勤者(かくごしや)なんどにて召し使はれけるが(平家物語)、

と、

中間(ちゅうげん)、足軽などをさしていう語、

になっていく。なお、

健児、

を、

こんでい、
こんに、

と訓ませることについては、

和訓栞は、「コンデイ」は、

健児の転音、

とある。

コン、

は、

健の呉音、

ニ、

と訓むのは、

児の呉音、

で、

尼の字の漢音はヂ、デイ、呉音はニ、相通じるものか、

とある(大言海)。これだと、

コンニ、

と訓む理由はわかるが、

コンデイ、

と転じた理由ははっきりしない。

「健」  漢字.gif

(「健」 https://kakijun.jp/page/1104200.htmlより)

「健」(漢音ケン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。建は「聿(筆の原字で、筆を手で立てて持つさま)+廴(歩く)」の会意文字で、すっくとたつ、からだをたてて歩くの意を含む。健は「人+音符建」。建が単に、たつのいとなったため、健の字でからだを高く立てて行動するの原義をあらわすようになった、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(人+建)。「横から見た人」の象形と「十字路の左半分を取り出し、それを延ばした」象形(「のびる」の意味)と「手で筆記用具を持つ」象形(「ふで」の意味)から、のびやかに立つ人を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「元気・健全」を意味する「健」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji570.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年09月18日

喜見の城


忉利(たうり)は尊き處なり、善法堂には未申(ひつじさる)、圓生樹より丑寅(うしとら)に、中には喜見(きげん)の城(じやう)立てり(梁塵秘抄)、

の、

喜見城(きけんじょう)、

は、梵語、

Sudarśana、

の訳語、

帝釈天(たいしゃくてん)の居城、

とされ、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、七宝で飾られ、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊び戯れるというので、楽園などのたとえにされる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑・デジタル大辞泉)。

善見城(ぜんけんじょう)、
喜見、
喜見宮、
喜見城宮、

等々とも呼ばれる(仝上)。

忉利天.jpg


善法堂(ぜんぽうどう)、

とは、

善法、

ともいい、

忉利天(とうりてん)の中にあるといわれる、帝釈天(たいしゃくてん)の善見城外の堂。三十三天がここに集まる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

圓生樹、

は、

在忉利天善見城之東北(俱舍論)、

とあり、

城外東北有圓生樹、是三十三天受欲樂所也。其圓生樹盤根、深廣五十踰繕那、聳乾上昇、枝葉傍布、高廣量、等百由繕那、挺葉開花、妙香芬馥、順風熏滿百由繕那、逆風時猶徧五十、

ともある(仏学大辞典)。

忉利天」は、

梵語、多羅夜登陵舎(トラーヤストリンシャ Trāyastriſśa)の音写、

で、また、

怛利耶怛利奢、

に作り、

三十三天、

と漢訳する(大言海・デジタル大辞泉)。唐代の『慧苑音義』(慧苑・撰述 22年)には、

忉利、訛言、正云怛利耶怛利奢、言怛利耶者此云三也、怛利舎十三也、謂須弥山頂、四方各有八天城、當中有一天城、帝釈所居、総数有三十三處、

とあり、

忉利天者……住蘇迷蘆山(Sumeru の音訳、須彌山)頂、山頂有宮、名善見白、亦名喜見城、……更加是帝釈所住、喜見城成三十三天也(天台宗の僧源信(恵心僧都942~1017)「三界義(11C初)」)、

ともある。つまり、原意は、

三十三、

つまり、

三十三種の天(または天神)からなる世界、

を意味するので、

三十三天、

と意訳された(日本大百科全書)。

欲界、

の、

六欲天、

は、上から、

他化自在天(たけじざいてん) 欲界の最高位。六欲天の第6天、天魔波旬の住処、
化楽天(けらくてん、楽変化天=らくへんげてん) 六欲天の第5天。この天に住む者は、自己の対境(五境)を変化して娯楽の境とする、
兜率天(とそつてん、覩史多天=としたてん) 六欲天の第4天。須弥山の頂上、12由旬の処にある。菩薩がいる場所、
夜摩天(やまてん、焔摩天=えんまてん) 六欲天の第3天。時に随って快楽を受くる世界、
忉利天(とうりてん、三十三天=さんじゅうさんてん) 六欲天の第2天。須弥山の頂上、閻浮提の上、8万由旬の処にある。帝釈天のいる場所、
四大王衆天(しだいおうしゅてん) 六欲天の第1天。持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる場所、

となる(精選版日本国語大辞典・http://yuusen.g1.xrea.com/index_272.html)が、

忉利天、

は、

欲界の六天のうちの第二、

須弥山(しゅみせん)の頂上にあり、

帝釈天は、

中央の喜見城(きけんじょう)の、

殊勝殿(しゅしょうでん)、

に住み、四方の峰に八天があるので、

三十三天、

ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉・日本大百科全書)。『慧苑音義』には、

この天、須弥山の頂に在り、四方に各八天の住処あり中央の善見城を加ふるゆゑに三十三天となる、帝釈天王の居所である、

に続いて、

往昔迦葉仏入滅の時一女人あり発心して塔を修す、また三十二人ありてこれを助修す、この功徳によりて女人は忉利天王に転生し、其助修者は皆輔臣となつたと、三十三天ある所以である、

とある(仏教辞典)。ちなみに、三十三天は、中央の、

喜見城(きけんじょう)天(善見城天)、

のほか、

善法堂天(ぜんぽうどう 善見城の南西に善法堂があり、ここに天人が定期的に集まり会議を開く)、
山峯天(さんぽうてん 北東の外側にある)、
山頂天(さんちょうてん 北西の外側にある)、
鉢私地天(はっしちてん 北西にある)、
倶吒天(くたてん 北東にある)、
雑殿天(ぞうでんてん 北西の外側にある)、
歓喜園天(かんぎえんてん 北方にある。ここには善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ歓喜園と如意池がある。ここへ入ると自然に歓喜の心が生じるとされる。「かんぎおん」とも)、
光明天(こうみょうてん 北東の外側にある)、
波利耶多天(はりやたてん 北東の外側にある)、
離険岸天(りけんがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
谷崖岸天(こくがいがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
摩尼蔵天(まにぞうてん 北東の外側にある)、
旋行天(せんぎょうてん 北東にある)、
金殿天(こんでんてん 北東の外側にある)、
鬘影天(まんえいてん 南東にある)、
柔軟天(じゅうなんてん 南東の外側にある)、
雑荘厳天(ぞうしょうごんてん南東の外側にある)、
如意天(にょいてん 南東にある)、
微細行天(びさいぎょうてん 南東の外側にある)、
歌音喜楽天(かおんきらくてん 南の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ粗悪園(悪口園)と如意池がある)、
威徳輪天(いとくりんてん 南西の外側にある)、
月行天(げっこうてん 南西にある)、
閻摩那娑羅天(えんまやさらてん 南西の外側にある)、
速行天(そっこうてん 南西の外側にある)、
影照天(えいしょうてん 西の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ雑林園と如意池がある)、
智慧行天(ちえぎょうてん 西の外側にある)、
衆分天(しゅうぶんてん 西の外側にある)、
曼陀羅天(まんだらてん 北西にある)、
上行天(じょうぎょうてん 北西にある)、
威徳顔天(いとくがんてん 北西の外側にある)、
威徳燄輪光天(いとくえんりんこうてん 北西にある)、
清浄天(しょうじょうてん 北西の外側にある)、

とあるhttps://jiincenter.net/toriten-33ten/

須弥山図.jpg

(須弥山圖 広辞苑より)

須弥山」については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月19日

帝釈天


梵天」で触れたように、

帝釈天は梵天と並んで諸天の最高位を占め、仏法の守護神とされる(広辞苑)。

密教では十二天の一つとされるが、「大梵天」で触れたように、

十二天、

は、

仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種の総称、

で、十二天のうち、特に八方、

東西南北の四方と東北・東南・西北・西南、

を護る諸尊を、

八方天、

あるいは、

護世八方天といい、更に、

天地を護る諸尊、

を加えて、

十天、

ともいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%A4%A9。すなわち、

東方の帝釈天(たいしゃくてん インドラIndra)、
南方の焔魔天(えんまてん ヤマYama)、
西方の水天(バルナVaruna)、
北方の毘沙門天(びしゃもんてん バイシュラバナVaiśravaa、クベーラKuvera)、
東南方の火天(アグニAgni)、
西南方の羅刹天(らせつてん ラークシャサRākasa)、
西北方の風天(バーユVāyu)、
東北方の伊舎那天(いしゃなてん イーシャーナĪśāna)、
上方の梵天(ぼんてん ブラフマーBrahmā)、
下方の地天(ちてん プリティビーPthivī)、
日天(にってん スーリヤSūrya)、
月天(がってん チャンドラCandra)、

をいう(日本大百科全書)。

帝釈天、

は、梵語。

Śakro devānām Indraḥ、

の音写、

釈迦提桓因陀羅(釈迦提婆因達羅)、

の訳語、

梵天帝釋の略、

とあり(大言海)、

天帝釈、
釈提桓因、
帝釈、
帝釈天王、

などともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

梵云、釋迦提婆因達羅、釋迦姓也、此飜為能、提婆天也、因達羅帝也、正云能天帝、……此在妙高山(須弥山)頂而住、三十三天之帝主也(『妙法蓮華経玄贊(唐の慈恩大師窺基著)』)、

とある。

帝釈天(広辞苑).jpg

(帝釈天 広辞苑より)

四天王」で触れたように、もとはバラモン教の神で、インド最古の聖典『リグ・ベーダ』のなかでは、

雷霆神(らいていしん)、

であり、

武神、

である。ベーダ神話に著名な、

インドラIndra、

が原名、天衆をひきいて阿修羅(あしゅら)を征服し、密教では、

十二天の一つで、また八方天の一つ、

として東方を守り、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の善見城(ぜんけんじょう)に住し、四天王を統率し、人間界をも監視する、

とされる(日本大百科全書)。「是生滅法」で触れた、『大乗涅槃経(だいじょうねはんぎょう)』聖行品(しょうぎょうぼん)にある、

雪山童子(せっさんどうじ)、

の説話で、帝釈天が羅刹(らせつ 鬼)に身を変じて童子の修行を試し励ます役割を演じている(仝上)。

帝釈天.bmp

(帝釈天 精選版日本国語大辞典より)

善見城(ぜんけんじょう)、

は、喜見の城でも触れたように、

喜見城(きけんじょう)、

ともいい、梵語、

Sudarśana、

の訳語、

帝釈天(たいしゃくてん)の居城、

とされ、

須弥山(しゅみせん)の頂上にある忉利天(とうりてん)の中央に位置し、七宝で飾られ、城の四門に四大庭園があって諸天人が遊び戯れるというので、楽園などのたとえにされる、

とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑・デジタル大辞泉)。

善見城(ぜんけんじょう)、
喜見、
喜見宮、
喜見城宮、

等々とも呼ばれる(仝上)。帝釈天は、

殊勝殿(しゅしょうでん)、

に住み、忉利天は、四方の峰に八天があるので、

三十三天、

ともいう(広辞苑・デジタル大辞泉・日本大百科全書)。『慧苑音義』には、

この天、須弥山の頂に在り、四方に各八天の住処あり中央の善見城を加ふるゆゑに三十三天となる、帝釈天王の居所である、

に続いて、

往昔迦葉仏入滅の時一女人あり発心して塔を修す、また三十二人ありてこれを助修す、この功徳によりて女人は忉利天王に転生し、其助修者は皆輔臣となつたと、三十三天ある所以である、

とある(仏教辞)。ちなみに、三十三天は、中央の、

喜見城(きけんじょう)天(善見城天)、

のほか、

善法堂天(ぜんぽうどう 善見城の南西に善法堂があり、ここに天人が定期的に集まり会議を開く)、
山峯天(さんぽうてん 北東の外側にある)、
山頂天(さんちょうてん 北西の外側にある)、
鉢私地天(はっしちてん 北西にある)、
倶吒天(くたてん 北東にある)、
雑殿天(ぞうでんてん 北西の外側にある)、
歓喜園天(かんぎえんてん 北方にある。ここには善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ歓喜園と如意池がある。ここへ入ると自然に歓喜の心が生じるとされる。「かんぎおん」とも)、
光明天(こうみょうてん 北東の外側にある)、
波利耶多天(はりやたてん 北東の外側にある)、
離険岸天(りけんがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
谷崖岸天(こくがいがんてん 東にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ衆車園と如意池がある)、
摩尼蔵天(まにぞうてん 北東の外側にある)、
旋行天(せんぎょうてん 北東にある)、
金殿天(こんでんてん 北東の外側にある)、
鬘影天(まんえいてん 南東にある)、
柔軟天(じゅうなんてん 南東の外側にある)、
雑荘厳天(ぞうしょうごんてん南東の外側にある)、
如意天(にょいてん 南東にある)、
微細行天(びさいぎょうてん 南東の外側にある)、
歌音喜楽天(かおんきらくてん 南の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ粗悪園(悪口園)と如意池がある)、
威徳輪天(いとくりんてん 南西の外側にある)、
月行天(げっこうてん 南西にある)、
閻摩那娑羅天(えんまやさらてん 南西の外側にある)、
速行天(そっこうてん 南西の外側にある)、
影照天(えいしょうてん 西の外側にある。その内側には善見城の周囲にある4つの庭園のうちの1つ雑林園と如意池がある)、
智慧行天(ちえぎょうてん 西の外側にある)、
衆分天(しゅうぶんてん 西の外側にある)、
曼陀羅天(まんだらてん 北西にある)、
上行天(じょうぎょうてん 北西にある)、
威徳顔天(いとくがんてん 北西の外側にある)、
威徳燄輪光天(いとくえんりんこうてん 北西にある)、
清浄天(しょうじょうてん 北西の外側にある)、

とあるhttps://jiincenter.net/toriten-33ten/

帝釈天の像形は一定でないが、古くは、

高髻で、唐時代の貴顕の服飾を着け、また外衣の下に鎧を着けるもの、

もあるが、平安初期以降は密教とともに、

天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)を持ち、象に乗る姿、

が普及した(精選版日本国語大辞典)。

帝釈天半跏像。.jpg

(帝釈天半跏像(東寺講堂) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9より)

帝釈天に仕える、

四天王(してんのう 梵語Caturmahārāja)、

は、「深沙大王」で触れたように、

六欲天の第1天、
四大王衆天(しだいおうしゅてん、四王天)の主、
大王(しだいおう)、

もいい、

東方の持国天(じこくてん)、
南方の増長天(ぞうちょうてん)、
西方の広目天(こうもくてん)、
北方の多聞天(たもんてん)、

の四神をいい、帝釈天に仕え、それぞれ須弥山・中腹に在る四天王天の四方にて仏法僧を守護し、八部鬼衆を所属支配し、その中腹で共に仏法を守護するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B

八部鬼衆、

は、

四天王に仕え仏法を守護する8種族の鬼神です。乾闥婆(けんだつば)、毘舎闍(びしゃじゃ)、鳩槃荼(くばんだ) 、薜茘多(へいれいた)、那伽(ナーガ、龍神)、富單那(ふたんな) 、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)、

をいいhttps://jiincenter.net/8bukishu/

もとは古代インドの鬼神でしたが、仏教に帰依して仏法の守護神となりました。また、どれも集団の名であり、個別の神をさすものではありません、

とある(仝上)。『仁王経合疏』によると、

乾闥婆(けんだつば 古代インドのガンダルヴァ。香陰と訳す。酒や肉を食さず、ただ香をもってその陰身を保つ。東方を守護する持国天の眷属。
毘舎闍(びしゃじゃ 啖精気と訳す。人および五穀の精気を食す。東方を守護する持国天の眷属)、
鳩槃荼(くばんだ 形と訳す。その陰茎甕形に似た厭魅鬼である。南方を守護する増長天の眷属)、
薜茘多(へいれいた 餓鬼と訳す。常に飢餓・涸渇に切迫せられた鬼神である。南方を守護する増長天の眷属)、
那伽(ナーガ、龍 水属の王とされる。西方を守護する広目天の眷属)、
富單那(ふたんな 臭餓鬼と訳す。これ主熱の病鬼である。西方を守護する広目天の眷属)、
夜叉(やしゃ 勇健鬼と訳す。地行夜叉・虚空夜叉・天夜叉の3種類がある。北方を守護する多聞天の眷属)、
羅刹(らせつ 捷疾鬼と訳す。北方を守護する多聞天の眷属)、

とあるhttps://jiincenter.net/8bukishu/

八部衆、

と名称が似ており、また鬼神名も一部重複するため間違われやすい。八部衆も八部鬼衆も天部に位置し仏法を守護する護法善神に属するという点では同じであるが、八部鬼神は四天王の配下とされる点で異なる(仝上)。

「八部衆」については、「妙見(めうけん)大悲者」でも触れたが、

天部、

とは、

仏教の尊像の4区分、

如来、菩薩、明王、天、

の第4番目にあたるのを、

天部、

といい、

諸天部、

ともいい、

インド古来の神が天と訳されて仏教に取入れられ、護法神となったもの、

で、

貴顕天部と武人天部、

があり、前者は、

梵天王、帝釈天、吉祥天、弁財天、伎芸天、鬼子母神(訶梨帝母)、大黒天、

後者は、

毘沙門天(多聞天)などの四天王や仁王、韋駄天、深沙大将、八部衆、十二神将、二十八部衆、

等々である(精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)。

帝釈天、

は、天部の最高位に属するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9。なお、

八部衆、

とは、

八つの種族、

という意味で、『舎利弗問経』を基本に、『法華経』や『金光明最勝王経』などの説により、

天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆、

の八つを指すhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%83%A8%E8%A1%86

天(Deva、てん 梵天、帝釈天を初めとする、いわゆる「天部」の神格の総称。欲界の六天、色界の四禅天、無色界の四空処天のこと。光明・自然・清浄・自在・最勝の義を有す。古代インドにおける諸天の総称。天地万物の主宰者、
龍(Naga、りゅう 「竜」、「竜王」などと称される種族の総称。蛇を神格化したもので、水中に棲み、雲や雨をもたらすとされる。また、釈尊の誕生の際、灌水したのも竜王であった。人面人形で冠上に龍形を表す)、
夜叉(Yaksa、やしゃ 古代インドの悪鬼神の類を指すが、仏法に帰依して護法善神となったもの)、
乾闥婆(Gandharva、けんだつば 香を食べるとされ、神々の酒ソーマの守り神とも言う。仏教では帝釈天の眷属の音楽神とされている。インド神話におけるガンダルヴァである)、
阿修羅(Asura、あしゅら 古代インドの戦闘神であるが、インド・イラン共通時代における中央アジア、イラン方面の太陽神が起源とも言われる。通常、三面六臂に表す)、
迦楼羅(Garuda、かるら ガルダを前身とする、竜を好んで常食するという伝説上の鳥である。鳥類の一種を神格化したもの)、
緊那羅(Kimnara、きんなら 音楽神であり、また半身半獣の人非人ともいう。人にも畜生にも鳥にも該当しない。仏教では乾闥婆と同様に帝釈天の眷属とされ、美しい声で歌うという)、
摩睺羅伽(Mahoraga、まごらが 緊那羅とともに帝釈天の眷属の音楽神ともいう。または廟神ともいわれる。身体は人間であるが首は蛇である。大蛇(ニシキヘビとも)を神格化したもの)、

とある(仝上)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年09月20日

僧伽


摩犂山(まれいさん)のこねにこそ、かうふてゐる蒔き直し、僧伽(そうぎや)の種(たね)に生(お)いにけり、やうれ香(かう)とぞ匂ふなる(梁塵秘抄)、

の、

僧伽、

は、

そうが、

とも訓ませ、梵語、

saṃgha(サンガ)、

の音訳、

集団・会合。

の意(デジタル大辞泉)で、

和合衆、
衆、

と訳し(広辞苑・大辞林)、

和合僧、
僧祇(そうぎ)、

ともいい、

僧といふは略言なり。つぶさには僧伽といふ。梵言の僧伽、ここには衆和合といふ(「十善法語(1775)」)、

と、略して、

僧、

ともいう。普通は、

仏教修行者の集団、
僧侶の集団、

の意で、

四人以上の和合体、

をさすが、広義には、

在家を含む仏教教団全体、

をいうこともある(精選版日本国語大辞典)。

saṃgha(サンガ)、

は、政治史の上では、

古代インドの部族共和制国家、

の呼称として用いられる。

部族共和制国家、

とは、

専制王をもたず、部族集会で選出された首長や代表者に行政権がゆだねられる国家をいう。同じく集団を意味するガナgaṇaの名でも呼ばれ、英語ではリパブリックrepublicと訳される。仏教成立時代のリッチャビ族や釈迦(シャーキヤ)族の国家は、この種の国家を代表するものである、

とある(世界大百科事典)が、インドで古く、

商工業者たちの組合団体、

を意味し(世界大百科事典)、それが、

仏教教団、

をさす名称となった。厳密な意味での「サンガ(僧伽)」は、

仏法を信じ、仏道を実践する、少なくとも4人以上、

で構成される、

男子出家集団(比丘(びく)僧伽)、
女性出家集団(比丘尼(びくに)僧伽)、

であり、男女在家(ざいけ)信者を含む教団全体、

パリシャド(四衆)、

と区別されてきたが、明治以後の日本では、在俗の男女信者を含んだ仏教集団全体も「僧伽」と呼ばれるようになっている(山川世界史小辞典)とある。「サンガ」は元来、

集団、共同体、

の意味で、

修行者の集り、教団、

を指すが、中国では転じて、

個々の修行者、

を、

僧、

とよぶにいたり、その、

複数形をあらわす僧侶、

が、日本では個人を指す語に転化した(世界大百科事典)とある。いわゆる、

仏法僧、

と訳される、

三宝(さんぼう 仏(ほとけ)・法(ほとけの教え)と僧(ほとけに従う弟子たちの集団))、

の、

僧、

は、

僧伽の略、

であるから、個々の僧を指していたのではない(仝上)。

因みに、

仏陀(釈迦)と法(ダルマ)と僧伽(そうぎゃ、さんが)、

を指す、

三宝(さんぽう)、

は、梵語、

tri-ratna、
あるいは
ratna-traya、

の訳語、、『宝性論』では、この三つが、

①世の中に稀有なものであり、②清らかで、③力を備え、④出世間を荘厳し、⑤最上の存在であり、⑥移り変わらないという六点を具える、

から宝とすると説き、大乗の『涅槃経』、『南本涅槃経』、や『維摩経』などは、

仏は、すなわち是れ法、法はすなわち是れ僧なり、

と、

仏・法・僧が実は本性として等しい、

と主張するhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%AE%9D

「僧」 漢字.gif

(「僧」 https://kakijun.jp/page/1306200.htmlより)

「僧」(ソウ)は、

形声。「人+音符曾(ソウ 曽)で、梵語を音訳するために作られた字。後漢には「桑門」と書き、三国時代以後には、「僧」と書く、

とある(漢字源)。

「伽」 漢字.gif

(「伽」 https://kakijun.jp/page/0707200.htmlより)

「伽」(慣用カ・ガ、漢音キャ、呉音ギャ)は、

形声。「人+音符加」、梵語のガの音を、音訳するために作られた字。「伽藍」「伽羅」などに使う、

とある(漢字源)。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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