彌陀の誓(ちかひ)ぞ頼もしき、十惡五逆の人なれど、一たび御名(みな)を唱ふれば、来迎引接(らいがういむぜう)疑はず(梁塵秘抄)、
の、
来迎引接(らいごういんじょう)、
は、
引接(摂)、
迎接(ごうしょう)、
ともいい(精選版日本国語大辞典)、四字熟語にもなっていて、
南無阿弥陀仏を唱えている人が死ぬときには、阿弥陀仏が菩薩を引き連れて迎えに来て、極楽浄土へ導いてくれる、
という意味である(四字熟語辞典)。
来迎、
は念仏を唱えている人の元へ、阿弥陀仏や菩薩が迎えに来ること、
引接、
は阿弥陀仏や菩薩が、念仏を唱えている人を極楽浄土へ導くこと、とある(仝上)。なお、
十惡五逆、
は、「業障(ごうしょう)」で触れたが、
身(しん)・口(く)・意の「三業(さんごふ)」から生ずる十種の罪悪、
つまり、
殺生(せつしよう)・偸盗(ちゆうとう)・邪淫(じやいん)・妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あつく)・両舌(りようぜつ)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見(じやけん)、
を、
十惡、
といい、
五逆、
は、
五逆罪、
ともいい、この重罪を犯すと、もっとも恐ろしい無間地獄(むけんじごく)に落ちるとされるので、
五無間業(ごむけんごう)、
ともいう。異説が多いが、代表的には、
母を殺すこと、父を殺すこと、悟りを開いた聖者(阿羅漢)を殺すこと、仏の身体を傷つけて出血させること、仏教教団を破壊し分裂させること、
で、前二者は、
恩田(おんでん 恩に報いなければならないもの)、
に背き、後三者は、
福田(ふくでん 福徳を生み出すもの)に背くので、あわせて、
五逆、
という(日本大百科全書)。
(阿弥陀二十五菩薩来迎図(京都国立博物館) https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/butsuga/item06/より)
この、
来迎引接(摂)、
を絵画化したのが、「九品往生」でも触れた、
来迎図、
であり、儀礼化したのが、
迎講、
や
来迎会、
である(世界大百科事典)。
阿弥陀仏の来迎、
は、
阿弥陀仏の救済の三様態(本願成就・光明摂取・来迎引接)の一つ、
で、阿弥陀仏四十八願のうちの第十九願が、
来迎引接の願、
になる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9D%A5%E8%BF%8E%E5%BC%95%E6%8E%A5)。法然は、
然れば則ち深く往生極楽の志有らん人は、来迎引接の形像を造り奉りて、則ち来迎引接の誓願を仰ぎたてまつるべきものなり(逆修説法一七日)、
と述べ、また、
いわゆる疾苦身に逼せまりてまさに死なんと欲する時、必ず境界・自体・当生の三種の愛心起るなり。しかるに阿弥陀如来大光明を放ちて行者の前に現じたまう時、未曽有の事なる故に、帰敬の心の外には他念無し。しかれば三種愛心を亡ぼして更に起こること無し…しかれば臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明らかなり、
ともあり、
然れば則ち、来迎引接は、魔障を対治せんがためなり、
とし、阿弥陀仏の来迎は衆生の三種の愛心や魔障を滅し、正念に導き浄土に往生させるため(来迎正念)であるとしている(仝上)。
四十八願(しじゅうはちがん)、
は、浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分(しょうしゅうぶん)」に説かれる、
法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位の時(修行時)の名)が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと、
であり、http://shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=shijyuuhachiganに詳しい。
臨終正念(りんじゅうしょうねん)、
については、「正念に往生す」で触れたように、
臨終のときに心が乱れることなく、執着心に苛まれることのない状態のこと、
で、『阿弥陀経』には、念仏衆生の命終について、
その人命終の時に臨んで、阿弥陀仏、諸(もろ)もろの聖衆とともに、現にその前に在(ましま)す。この人終わる時、心顚倒(てんどう)せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得、
とあり、善導は、
願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せず、身心に諸の苦痛なく、身心快楽(けらく)にして禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ、
と述べている(『往生礼讃』発願文)のが、臨終正念のありさまを示したものとされる(仝上)。これは、
臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明(あきらか)なり、
とある(法然『逆修説法』)ことや、
念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし(歎異抄)、
という、
他力本願、
からいえば、
念仏申す毎に罪を滅ぼして下さると信じて「念仏」申すのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、
となり、
一心に阿弥陀如来を頼むこと、
に通じていく(http://www.vows.jp/tanni/tanni29.htm)。
正念、
は、「正念場」で触れたように、
八正道(はっしょうどう)、
の一つとされ、
八聖道、
とも書き、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目、
正見(しょうけん 正しい見解、人生観、世界観)、
正思(しょうし 正しい思惟、意欲)、
正語(しょうご 正しいことば)、
正業(しょうごう 正しい行い、責任負担、主体的行為)、
正命(しょうみょう 正しい生活)、
正精進(しょうしょうじん 正しい努力、修養)、
正念(しょうねん 正しい気遣い、思慮)、
正定(しょうじょう 正しい精神統一、集注、禅定)、
の1つで(日本大百科全書)、釈迦は、
それまでインドで行われていた苦行を否定し、苦行主義にも快楽主義にも走らない、中なる生き方、すなわち中道を主張したが、その具体的内容として説かれたのがこの八正道である、
とされ(世界大百科事典)、釈迦の教説のうち、おそらく最初にこの、
八正道、
が確立し、それに基づいて、
四諦(したい)、
が成立し、その第四の、
道諦(どうたい 苦の滅を実現する道に関する真理)、
はかならず「八正道」を内容とした。逆にいえば、八正道から道諦へ、そして四諦説が導かれた、
とある(日本大百科全書)。「四諦(したい)」は、
四聖諦(ししょうたい)、
ともよばれ、「諦(たい) サティヤsatya、サッチャsacca)」は真理、真実をいい、
迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、
とされ(精選版日本国語大辞典)、
苦諦(くたい 人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実)、
集諦(じったい その苦はすべて自己の煩悩や妄執など広義の欲望から生ずるという真実)、
滅諦(めったい それらの欲望を断じ滅して、それから解脱し、涅槃の安らぎに達して悟りが開かれるという真実)、
道諦(どうたい この悟りに導く実践を示す真実)
で、この、
苦集滅道(くじゅうめつどう)、
の四諦は原始仏教経典にかなり古くから説かれ、とくに初期から中期にかけてのインド仏教において、もっとも重要視されており、その代表的教説とされた(日本大百科全書)、とある。要は、
正念、
は、
四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93)。
意識が常に注がれている状態、
である。しかし、他力本願では、
自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、
ではなく、
一心に阿弥陀如来を頼み、命の終わる最後まで、怠ることなく念仏し続けること、
を指すと思われる。
来迎図、
は、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説く、
阿弥陀四十八願の一つ、
である、
浄土に生まれることを願う人の臨終に、阿弥陀仏が西方浄土から迎えにくる姿を描いたもの、
で、平安中期以後、浄土教の発達にともなって描かれた(旺文社日本史事典)。高野山の《阿弥陀聖衆(しょうじゅ)来迎図》など阿弥陀如来が聖衆を従えて飛来する図柄が多いが、迎えてから帰るさまを描いた帰り来迎図や《山越阿弥陀図》等もある(マイペディア)。
阿弥陀仏が従えている、
二十五菩薩、
は、
観世音(かんぜおん)菩薩、大勢至(だいせいし)菩薩、薬王(やくおう)菩薩、薬上(やくしょう)菩薩、普賢(ふげん)菩薩、法自在王(ほうじざいおう)菩薩、獅子吼(ししく)菩薩、陀羅尼(だらに)菩薩、虚空蔵(こくうぞう)菩薩、徳蔵(とくぞう)菩薩、宝蔵(ほうぞう)菩薩、金蔵(こんぞう)菩薩、金剛蔵(こんごうぞう)菩薩、光明王(こうみょうおう)菩薩、山海慧(さんかいえ)菩薩、華厳王(けごんおう)菩薩、衆宝王(しゅうほうおう)菩薩、月光王(がっこうおう)菩薩、日照王(にっしょうおう)菩薩、三昧王(さんまいおう)菩薩、定自在王(じょうじざいおう)菩薩、大自在王(だいじざいおう)菩薩、白象王(びゃくぞうおう)菩薩、大威徳王(だいいとくおう)菩薩、無辺身(むへんしん)菩薩、
とされる(https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=136)。「来迎図」については、「九品往生」でも触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95