鷲のおこなふ深山(みやま)より、聖徳太子ぞ出(い)でたまふ、鹿(かせぎ)が苑(その)なる岩屋より、四果の聖(ひじり)ぞ出でたまふ(梁塵秘抄)、
の、
四果、
とは、
四向四果(しこうしか)、
の
四果、
だと思われる。
四向四果、
は、
四双八輩(しそうはっぱい)、
四向四得、
ともいい、
「向」は修行の目標、「果」は到達した境地、
の意で、部派仏教(小乗仏教)において、
阿羅漢果(あらかんか)に至る修行の階位、
をいい(広辞苑)、
修行していく段階を意味する「向」と、それによって到達した境地を意味する「果」、
とを総称したもの(ブリタニカ国際大百科事典)で、大乗仏教の立場からは、
小乗の修行階位、
とされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C)。具体的には、
①預流(よる 梵語srotāpanna、パーリ語sotāpanna)
②一来(いちらい 梵語sakṛd-āgāmin、パーリ語sakad-āgāmin)
③不還(ふげんanāgāmin)、
④阿羅漢(あらかん 梵語arhat、パーリ語arahanta)、
のそれぞれに向(こう 向かって修行する段階)と果(か 到達した境地)をたて(仝上)、
預流(よる)、
は、梵語、
スロータアーパンナ(須陀洹 しゅだおん)、
の訳で、
聖道の流れに入った者で、天界と人間界とを七度往来する間に修行が進み悟りを得る者、
の意(日本大百科全書)、
一来(いちらい)、
は、梵語、
アーガーミン(斯陀含 しだごん)、
の訳で、
天界と人間界とを一度だけ往復して悟りを得る者、
の意、
不還(ふげん)、
は、梵語、
アナーガーミン(阿那含 あなごん)、
の訳で、
ふたたびこの世に還(かえ)らないで天界で悟りを得る者、
の意、
阿羅漢(あらかん)、
は、
アルハトの主格アルハン、
の音写で、
この世で煩悩(ぼんのう)を滅尽し悟りを得る者、
に分け(仝上)、
四向四果、
は、
預流向、
預流果、
一来向、
一来果、
不還向、
不還果、
阿羅漢向、
阿羅漢果、
となり、四つの果を合わせて、
四沙門果(ししゃもんか)、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C)。
預流向は、
四諦(したい)を観察する段階である見道で、欲界、色界、無色界の三界の煩悩を断じつつある間、
をいい(ブリタニカ国際大百科事典)、
三界の見惑(八十八使)を断じ、一五心まで、
をいい、この境地を、
見道、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C)。
預流果は、
見道のそれらの煩悩を断じ終ってもはや地獄、餓鬼、畜生の三悪道には堕することがなくなる状態、
をいい、
三界の見惑(八十八使)を断じ、一五心までをいい、第一六心で修道に入り預流果となる。ここに達すれば、もはや三悪趣に堕ちることがない(ブリタニカ国際大百科事典)。
一来向は、
四諦を観察することを繰返していく修道の段階で、欲界の修道の煩悩を9種に分類したうちの6種の煩悩を断じつつある間をいい、
一来果は、
その6種の煩悩を断じ終った位、
不還向は、
一来果で断じきれなかった残りの3種の煩悩を断じつつある間をいい、
不還果は、
その3種の煩悩を断じ終った位、
阿羅漢向は、
不還果を得た聖者がすべての煩悩を断じつつある間をいい、
阿羅漢果は、
すべての煩悩を断じ終って涅槃(ねはん)に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位、
をいう(ブリタニカ国際大百科事典)とある。
ここまでの境地を、
修道、
といい、
阿羅漢果、
は、
見惑、修惑をすべて断じた涅槃の境地、
で、この境地を、
無学道、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C)とある。因みに、「四諦(したい)」は、「声聞」で触れたように、
「諦」はsatyaの訳。真理の意、
で、迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、
苦諦、
集諦(じったい)、
滅諦、
道諦、
の四つで、
四聖諦(ししょうたい)、
ともよばれる。苦諦(くたい)は、
人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、
集諦(じったい)は、
その苦はすべて自己の煩悩(ぼんのう)や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、
滅諦(めったい)は、
それらの欲望を断じ滅して、それから解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、
道諦(どうたい)は、
この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道(はっしょうどう 正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう))による、
とするもの(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。
(阿羅漢 精選版日本国語大辞典より)
阿羅漢、
は、「声聞」、「一乗」で触れたように、
サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、
で、
尊敬を受けるに値する者、
の意。
究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、
をいう。部派仏教(小乗仏教)では、
仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、
を指し、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、
無学(むがく)、
ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教の立場からは、
個人的な解脱を目的とする者、
とみなされ、
声聞、
を、
独覚(縁覚)、
と並べて、この二つを、
二乗・小乗、
として貶している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。ちなみに、「乗」とは、
「乗」は乗物、
の意で、
世のすべてのものを救って、悟りにと運んでいく教え、
を指し、「三乗」とは、
悟りに至るに3種の方法、
をいい、
声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、
の三つをいう(仝上)。大乗仏教では、
菩薩、
を、
修行を経た未来に仏になる者、
の意で用いている。
悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、
また、仏の後継者としての、
観世音、
彌勒、
地蔵、
等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、
小乗の聖者、
をさし、大乗の、
求道者(菩薩)、
には及ばないとされた。つまり、「声聞」の意味は、
縁覚・菩薩と並べて二乗や三乗の一つに数える、
ときには、
仏陀の教えを聞く者、
という本来の意ではなく、
仏の教説に従って修行しても自己の解脱のみを目的とする出家の聖者のことを指し、四諦の教えによって修行し四沙門果を悟って身も心も滅した無余涅槃(むよねはん 生理的欲求さえも完全になくしてしまうこと、つまり肉体を滅してしまって心身ともに全ての束縛を離れた状態。)に入ることを目的とする人、
のことを意味する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。
だからか、大乗の『法華経』随喜功徳品や『アヴァダーナシャタカ』によると、
一瞬にして四向四果のいずれかに達する、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C)。
なお、
羅漢、
は略称で、
十六羅漢、
五百羅漢、
などが知られている。
十六羅漢、
は、釈尊が般涅槃のとき、
一六の阿羅漢とその眷属に無上の法を付属した、
と言われ、釈迦の弟子でとくに優れた16人、
賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ 跋羅駄闍 ばらだしゃ)、
迦諾迦伐蹉(かにゃかばっさ)、
迦諾迦跋釐墮闍(かにゃかばりだじゃ、諾迦跋釐駄 だかはりだ)、
蘇頻陀(そびんだ)、
諾距羅(なくら 諾矩羅 なくら)、
跋陀羅(ばっだら)、
迦理迦(かりか、迦哩 かり)、
伐闍羅弗多羅(ばっじゃらほつたら、弗多羅 ほつたら)、
戍博迦(じゅばくか)、
半託迦(はんだか、半諾迦 はんだか)、
囉怙羅(らごら、羅怙羅 みらごら)、
那伽犀那(ながさいな)、
因掲陀(いんかだ)、
伐那婆斯(ばつなばし)、
阿氏多(あした)、
注荼半託迦(ちゅうだはんたか)、
をいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AD%E7%BE%85%E6%BC%A2)。
十八羅漢、
というときは、
慶友と賓頭盧(びんずる)、
あるいは、
迦葉(かしょう)と軍徒鉢歎(ぐんとはつたん、屠鉢歎)、
を加えた一八人の阿羅漢をいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%BE%85%E6%BC%A2)。
五百羅漢、
は、
釈迦の直弟子たち500人、
をいい、
釈迦が死んだ後に十大弟子を含む500人の阿羅漢が集まり、
第一結集、
という仏教の会議が開いたとされる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%BE%85%E6%BC%A2)。後に中国や日本で信仰された(仝上)。
(喜多院の五百羅漢 日本大百科全書より)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95