2023年09月14日
有漏・無漏
有漏(うろ)の此の身を捨てうでて、無漏(むろ)の身にこそならむずれ、阿彌陀佛(ほとけ)の誓(ちかい)あれば、彌陀に近づきぬるぞかし(梁塵秘抄)、
の、
有漏、
の、
漏、
は煩悩の意、
で、
有漏(うろ、梵語sāsrava)、
は、
煩悩のある状態、
無漏(むろ、梵語anāsrava)、
は、
迷いを離れていること、
つまり、
煩悩のない境地、
の意で、
無漏道、
ともいう(広辞苑)。
漏(ろ、梵語āsrava)、
は、
さまざまな心の汚れを総称して表す言葉で、広い意味で煩悩と同義と考えられる、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%BC%8F)が、仏教(大毘婆沙論)では、
六処の門から流れ出るもの、
迷いの境涯に留めるもの、
輪廻に縛りつけるもの、
などの意味が与えられ(仝上)、
流れ出る、
漏出、
の意に解し(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E6%BC%8F%E3%83%BB%E6%9C%89%E6%BC%8F)、
汚れ・煩悩は六根(視覚・聴覚など五官と心)から流れ出て、心を散乱させるもの、
とした(岩波仏教語辞典)。
漏泄(もれ)ある義、煩悩の意、煩悩は種々の縁に触れて、貪欲、瞋恚の過ちを漏らすこと、極まらぬなり、「諸漏已盡、無復煩悩」と云へり、
とある(大言海)のはその解釈である。
因果不亡曰有、即、色界無色界、見思煩悩也、謂、衆生因此、煩悩不能出離色無色界、故名有漏、
とある(大蔵法數)。
だから、
有漏路、
というと、
煩悩が多い者のいる世界、
つまり、
この世、
をいい、
無漏路、
というと、
煩悩に汚されない清浄の世界、
を指し、
煩悩をもつ人間の世俗的な智慧、
つまり、
世俗智、
の、
有漏智、
に対し、
煩悩を離れた清浄の智慧、
を、
無漏智、
といい、
煩悩をもつ存在である凡夫の行う修行(煩悩の出現を断つことはできるが、煩悩の根本を断つことはできないとする)、
を、
有漏道、
煩悩を離れた清らかな智慧を得た存在である聖者の行う修行(煩悩を根本的に断ち切るために行う)、
を、
無漏道、
という(大辞林)。
煩悩を備えている存在、
を、
有漏法、
といい、
四諦のうち、苦・集の二諦。煩悩に関する教え、
をいい、
煩悩をもたない存在、
つまり、
真如、
を、
無漏法、
といい、
煩悩の消滅と悟りの出現を説明する滅と道の二諦(にたい)、
とする(大辞林)。ただ、
三つの無為法(虚空・択滅(ちゃくめつ=涅槃)・非択滅)と道諦(無漏の智慧等)、
が、
無漏、
であり、それ以外のすべてが、
有漏、
である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%84%A1%E6%BC%8F%E3%83%BB%E6%9C%89%E6%BC%8F・広辞苑)ともある。
因みに、「四諦」は「正行」で触れたように、
四聖諦、
四真諦、
苦集滅道、
ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6)、人間の生存を苦と見定めた釈尊が、そのような人間の真相を四種に分類して説き示したもので、「諦」は、
梵語catur-ārya-satyaの訳、
で、
4つの・聖なる・真理(諦)、
を意味し、すなわち、
①苦諦(くたい、梵語duḥkha satya) 人間の生存が苦であるという真相。苦聖諦ともいう。人間の生存は四苦八苦を伴い、自己の生存は、自己の思いどおりになるものではないことを明かす。
②集諦(じったい、じゅうたい、梵語samudaya satya) 人間の生存が苦であることの原因は、愛にあるという真相。苦集聖諦ともいう。この愛とは、渇愛といわれるもので、ものごとに執着する心であり、様々なものを我が物にしたいと思う強い欲求である。このような欲求に突き動かされて行動することが、苦の原因であることを明かす、
③滅諦(めったい、梵語nirodha satya) 苦の原因である渇愛を滅することにより、苦がなくなるという真相。苦滅聖諦ともいう。渇愛を滅することで、生存に伴う苦しみが止滅し、覚りの境地に至ることを明かす、
④道諦(どうたい、梵: mārga satya) 渇愛を滅するための具体的な実践が八正道であるという真相。苦滅道聖諦ともいう。渇愛を滅し、苦である生存から離れるために行うべきことが、八正道であることを明かす。これが仏道、すなわち仏陀の体得した解脱への道となる、
をさす(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E8%AB%A6))。
そして、
有漏無漏法、
で、
迷いの世界と悟りの世界とのあらゆる存在、
をいう(仝上)で、
道に迷ったり、どうして良いのか判断できずに困って彷徨っている、
様子をいう、
うろうろする、
の、
うろ、
に、
有漏、
を当てる説もあるが、こじつけかもしれない。
うろたふ、
の、
うろ、
とする説(志不可起・大言海)がある。
うろうろ、
は、擬態語のようだから、これが妥当な気がする。
「漏」(漢音ロウ、呉音ル)は、
会意兼形声。屚(ロウ)は、「尸(やね)+雨」からなり、屋根から雨がもることを示す会意文字。漏はさらに水をそえたもの、
とある(漢字源)。別に、
会意形声。屚(ロウ 屋根から雨がもれる)とから成り、水どけいの意を表す。ひいて、「もる」「もれる」意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(氵(水)+屚)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「片開きの戸の象形と雲から水滴がしたたり落ちる象形」(「戸・屋根に穴が開いて雨水がもれる」の意味)から、「もれる」を意味する「漏」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1511.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95