2023年09月15日
摩訶止観
天台宗の畏(かしこ)さは、般若や華厳摩訶止(まかし)観、玄義や釋籤倶視舎頌疏(ずんぞ)、法華経八巻(やまき)が其の論義(梁塵秘抄)、
の、
摩訶止観、
は、
天台摩訶止観、
天台止観、
止観、
ともいい、
法華三大部の一、
で、594年、隋の智顗(ちぎ 561~632)述、灌頂(かんじよう)筆録の、
天台宗の根本的な修行である止観、すなわち瞑想法の体系的な記述、
で、その究極的世界観を明らかにする(大辞林)とある。
天台宗の観心(かんじん)を説き修行の根拠となる、
ともある(広辞苑)。
観心(かんじん)、
とは、
観法の一、
で、
自己の心を対象として観察すること、
をいい、天台宗で修行における中心課題とされる(デジタル大辞泉)。
天台三大部(てんだいさんだいぶ)、
は、
三大部、
法華大三部、
ともいい、中国天台教学の大成者である智顗(ちぎ)が講説した、
『妙法蓮華経文句(もんぐ 法華文句)』一〇巻、
『妙法蓮華経玄義(法華玄義)』一〇巻、
『摩訶止観』一〇巻、
の総称(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E4%B8%89%E5%A4%A7%E9%83%A8)。これらは智顗の講説を門人の章安灌頂が筆録し整理したもので、智顗の法華教学が余すところなく展開され(仝上)、それぞれは、
『法華文句』は『法華経』の経文の解釈、
『法華玄義』は『法華経』の経題の解説、
『摩訶止観』は実践方法を説いている、
とある(仝上)。
摩訶止観、
の、
摩訶、
とは、
梵語mahā、
の音訳、
大・多・勝、
の意で、
摩訶者是梵語也。此翻有三義。一竪横無辺際故云大。二数量過刹塵故云多。三是最勝最上故云勝(「大日経開題(824頃)」)、
と、摩訶迦葉で触れたが、
大きいこと、偉大なこと、すぐれていることを表し、他の語や人名の上について美称として用いることも多い(精選版日本国語大辞典)とある。
止観、
は、
梵語 śamatha-vipaśyanā(シャマタ・ヴィパッサナー)、
の訳、仏教瞑想を構成する、
止は三昧、観は智慧、
を意味する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E6%AD%A2%E8%A6%B3)、
ヨーガ行、
である。サンスクリット語から、
奢摩他、
毘鉢舎那、
とも音写される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E8%A6%B3)。
止(シャマタ 奢摩他)、
は、
心の動揺をとどめて本源の真理に住すること、
観(ヴィパシヤナ 毘鉢舎那)は、
不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察すること、
である(仝上)。
止は禅定、
に当たり、
観は智慧、
に相当し、ブッダは止により、人間の苦の根本原因が無明であることを自覚し、十二因縁を順逆に観想する観によって無明を脱した(仝上)とされる。
摩訶止観、
の、灌頂による序文には、
此の止観は、天台智者、己心中所行の法門を説く、
とあり、
円教教理に立脚した止観(円頓止観)による修行の方軌、
が詳述されている(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%91%A9%E8%A8%B6%E6%AD%A2%E8%A6%B3)とある。
止観、
は、
即空即仮即中、
と言表される、
円融三諦の妙理(諸法実相)に繫念して妄念の流動を止息せしめる「止」、
と、
円融三諦(実相)に即して諸法を観察する「観」、
とを併称した天台独自の実践法であり(仝上)、
独自の発展を遂げた日本の天台宗のみならず、唐代以降の中国仏教、および日本の仏教諸宗派にも多大な影響を与えた(仝上)とある。
三大部の注釈は、唐代の、荊渓湛然(けいけいたんねん)の『玄義釈籤(しゃくせん)』『文句記』『止観輔行伝弘決(ふこうでんぐけつ)』が著名で、末疏(まっしょ)は数多い(日本大百科全書)とある。
「三諦円融」で触れたように、天台宗が説く三つの真理は、
空諦(くうたい 一切存在は空である)、
仮諦(けたい 一切存在は縁起によって仮に存在する)、
中諦(ちゅうたい一切存在は空・仮を超えた絶対のものである)、
とされ、それぞれ、
独立の真理(隔歴(きゃくりゃく)三諦)、
とみるのでなく、
その本体は一つで三者が互いに円満し合い融通し合って一諦がそのままただちに他の二諦である、
として、
即空・即仮・即中、
とする(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)をいう。円融と隔歴の関係は、
無差別と差別、
絶対と相対、
という関係に近い(精選版日本国語大辞典)とある。この、
一切の存在には実体がないと観ずる空観(くうがん)、
と、
一切の存在は仮に現象するものであると観ずる仮観(けがん)、
と、
この空仮の二観を別々のものとしない中観(ちゅうがん)、
との三観を、
一思いの心に同時に観じ取ること、
を、
一心三観(いっしんさんがん)、
という(精選版日本国語大辞典)。一瞬の心のうちに、
空観、仮観(けかん)、中観の三観が成立する、
というのは、
竜樹の思想を実践しようとするもの、
ともされる(百科事典マイペディア)。
「圓融」(えんゆう 「えんにゅう」と連声になることが多い)は、漢語で、
公家之費、敷於民閒者、謂之円融(長編)、
と、
あまねくほどこす、
あるいは、
靈以境生、境因円融(符載銘)、
と、
なだらかにして滞りなし、
の意(字源)だが、天台宗・華厳宗では、
一切存在はそれぞれ個性を発揮しつつ、相互に融和し、完全円満な世界を形成していること、
つまり、
円満融通、
をいう(広辞苑)。
「三諦」(さんたい・さんだい)は、
有諦・無諦・第一義諦、
とも、また、
空諦・色諦・心諦、
ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%AB%A6%E5%86%86%E8%9E%8D)が、この三諦の真理を観ずる智慧として、
空観・仮観・中道観、
の三観を立てる。三諦と三観は、
所観の境、
と、
能観の智、
の関係だが、本来的には三観と三諦は同体であり、不二である(仝上)、とある。これを、
観法の側面、
から見ると、
一切の存在には実体がないとする空観、一切の存在は仮に現象するものであるとする仮観、空観と仮観の二観を別のものではないとする中道観の三観を順序や段階を経ずに一心のなかに同時に観じとること、
を、
一心三観、
といい、観法の究極的な目標とする。これに対して、
真理の側面、
から見ると、
空・仮・中の三諦が究極においてはそれぞれ別のものではなく、相互に障ることなく完全に融けあっているということ、
となる(仝上)。つまり、
相即無礙、
である(仝上)。
摩訶止観、
は、「止観」を、
漸次・不定(ふじょう)・円頓(えんどん)、
の3種でとらえ、
円頓止観、
こそ究極的な真理把握の方法とする(日本大百科全書)。
円頓止観(えんどんしかん)、
とは、天台宗が修行実践法として取る、法華経にのっとった観法で、
修行の階程や能力の差にかかわることなく、初めから実相を対象とし、行(修行)・証(修行の結果としての悟り)ともに円満で頓速な観法、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
一念の心に迷から悟にいたるあらゆるものごとが本来そなわっている、
という、
一念三千の理、
を心に観じる禅観的思惟によって体得されるものであるとして、その過程において突当るいろいろな壁を打開していく周到な用意を、綿密な配慮のもとに述べている(ブリタニカ国際大百科事典)とある。
智顗(ちぎ)、
は、
中国、隋代の僧。天台宗の開祖であるが、慧文(えもん)―慧思(えし)の相承から第三祖ともされ、
智者大師、
天台大師、
と称される。彼の教学思想は、
止観の法門、
として特徴づけられ、
一心三観(いっしんさんかん)、
を修して諸法の実相である、
円融(えんにゅう)の三諦(さんたい)、
を得知すべきことを教える法門であり、十観十境(じっかんじっきょう)の教え、方便(ほうべん)の教説、一念三千(いちねんさんぜん)説、が有機的に関連づけられて成り立つ壮大な法門である(日本大百科全書)とある。
「法華経」は「法華経五の巻」で触れた。
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95