2023年09月23日

可能態としてのヒト


M・ハイデガー(熊野純彦訳)『存在と時間』を読む。

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昔読んだとき、自分の中では、

人は死ぬまで可能性の中にある、

というフレーズが残った。しかし、そういうシンプルなフレーズを、ハイデガーは何処にも記していないので、僕のまったくの勝手読みで、記憶したもののようである。しかし、

死までの時間、

が人の生きる期間だとすると、その間をどう生きるか、が問われている。ハイデガーは、人間存在を、

現存在、

と呼ぶ。それは、存在について、

問う者、

でもある。そして、

自分という存在を自分のものとして存在させる、

ものである人間存在のあり方を、

実存(エクシステンツ)、

と呼ぶ。それは、

いつも、自分みずからを、自分みずからであるのか、あるいは自分みずからでないのかの、いずれかの、自分みずからの可能性から了解している、

のであり、このどちらかの可能性を、

みずから選んだのか、あるいは……その可能性のなかに這入りこんだのか、あるいはすでにそのなかで成長しているのか、

だという。それを自分で把握しているかどうかは別として、

そのつどの現存在自身によって決定、

している者でもある。これを勝手読みすれば、人は、

その可能性を拾うも捨てるも、おのが手の中に持つ、

ということになる。

現存在というものは、

自分があるということが分かっている、

一方、

自分の存在に関わりをもっている存在、

とはそういう意味になる。現存在とは、第一義的に、

可能存在、

であり、

自分の可能性そのもの、

であるともいう。それを、現存在は、

かれの存在において、そのつどすでにかれ自身に先立って在る、ということです。現存在はつねにすでに「自分を超えでて」在り、しかも……現存在自身である存在可能への存在として、自分を超えでて在るのです。

そして、この存在構造を、

現存在の自分に=先だって=存在すること、

ともいう。ただサルトル(『存在と無』)も確か批判していたと思うが、死を、

現存在の終り、

とするのはいいとして、

追い越すことのできない可能性、

というのは如何なものか。これは可能性と表現すべきものではない気がするのだが、

自分に先立つ、

存在という意味では、死は、

終わりへの存在、

となり、ちょうど

世界史と救済史、

ではない(O・クルマン『キリストと時』)が、終末から「今」をみるキリスト教的なものの見方の反映と見ると、ある意味、

可能性、

という表現を使っている意味が見えてくる気がする。この、

死のもつ有限性、

を、

自分の所まで[到来する]ということであって、……追い越し得ない可能性として実存しながら、自分へということなのです。

という言い方は、終末から今を見ている視点を感じ、キリスト教的と感じるのは、僻目だろうか。

時間性は、現存在の歴史性として露われます、

とはそういう意味に見えて仕方がない。誕生と死の、

「あいだ」に在る、

現存在の、

死はあくまで現存在の「終わり」にすぎず、形式的にいえば、現存在の全体性をとり囲んでいるひとつの終りにすぎません、

とは、ちょっと納得しがたい言い方である。

それにしても、個人的には、

良心、

という言葉が出てきた瞬間に、鼻白む。カント(『純粋理性批判』)が言っていた「良心」に比べると、ぼくには、唐突感が否めない。これも僻目だろうか。

存在と時間中.jpg


存在と時間下.jpg


参考文献;
M・ハイデガー(熊野純彦訳)『存在と時間』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:54| Comment(0) | カテゴリ無し | 更新情報をチェックする