2023年09月30日
不軽大士
不軽大士(ふし)のかまへには、逃るるひとこそ無かりけれ、誹(そし)る縁(えん)をも縁として、終(つい)には佛になしたまふ(梁塵秘抄)、
の、
大士、
は、
だいし、
だいじ、
と訓ませ、梵語、
Mahāsattva、
の訳、
摩訶薩(まかさつ)、
摩訶薩埵(まかさった)、
と音写され、
すぐれた人、
偉大な人、
立派な人、
を意味し(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E5%A3%AB)、
大士、ダイシ、
とある「書言字考節用集(1717)」の註に、
法華文句、稱菩薩為大士、亦曰開士、出智度論、
とあり、また、
正士、
とも訳され、
菩薩の異称、
とされる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。特に『般若経』では、
自利利他のために菩提を求める姿勢が理想とされ、無執着(智慧)、輪廻を厭わない救済行・不住涅槃(方便)が尊重され(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E5%A3%AB)、自利のために菩提を求める、
小乗仏教者、
あるいは、
外教者、
と区別するために、
菩薩大士、
菩薩摩訶薩、
と呼ばれる(仝上)とある。「菩薩」については「薩埵」で触れたが、自利よりも利他を優先させ、
菩薩乗、
ともいわれる大乗仏教では、
覚りを求める心を起こせば、あらゆる衆生が菩薩となることができる、
とし、
菩薩、
は覚りを求める心を起こし、さらに自分以外のあらゆる衆生を救い導き、覚りを開かせようと誓った存在であり、覚りと衆生をともに気にかける存在である(とする)。だから、
大乗の菩薩、
は、観音菩薩など高位の菩薩が多数存在する。このような菩薩は仏になれるにもかかわらず、あらゆる衆生を救い導こうという誓いのもと、自ら地獄等の悪趣に赴き教化活動をなす(仝上)存在とされる。
不軽大士(ふきょうだいじ)、
つまり、
不軽菩薩(ふきょうぼさつ)、
は、
是仏滅後、法欲尽時、有一菩薩、常名不軽、時諸四衆 計著於法、
と、「法華経」常不軽菩薩品第二十に説く、
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)、
のことである(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/20.htm)。
於像法中。増上慢比丘。有大勢力。爾時有一菩薩比丘。名常不軽、
とある、「像法」は、「闘争堅固」、「正法・像法・末法」で触れたように、仏滅後二千五百年を五百年毎に区切った、
五五百歳(ごごひゃくさい)、
を、
大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん(大集経)、
とあり、順に、
①解脱堅固(げだつけんご 仏道修行する多くの人々が解脱する、すなわち生死の苦悩から解放されて平安な境地に至る時代)、
②禅定堅固(ぜんじょうけんご 人々が瞑想修行に励む時代)、
③読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご 多くの経典の読誦とそれを聞くことが盛んに行われる時代)、
④多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご 多くの塔や寺院が造営される時代)、
⑤闘諍言訟(とうじょうごんしょう 仏教がおとろえ、互いに自説に固執して他と争うことのみ盛んである時代)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)=闘諍堅固、
とし(大集経)、
解脱・禅定堅固は正法時代、
読誦多聞・多造塔寺堅固は像法時代、
闘諍堅固は末法、
といい、これを、
正法、
像法、
末法、
の、
三時説、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AB%E6%B3%95)。「像法」とは、
仏法と修行者は存在するが、それらの結果としての証が滅するため、悟りを開く者は存在しない、
とされ、民衆の仏法に対する素養(機根)は正法時代より劣るが、仏法を盛んに修行する姿は正法時代に似ており、形式化されて仏法が伝えられ利益をもたらす時代(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8F%E6%B3%95)で、
読誦多聞堅固、
多造塔寺堅固、
の二つの五百年を指す(仝上)。そういう時代、
不軽菩薩、
は、
得大勢。以何因縁。名常不軽。是比丘。凡有所見。若比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。皆悉礼拝讃歎。而作是言。我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。而是比丘。不専読誦経典。但行礼拝。乃至遠見四衆。亦復故往。礼拝讃歎。而作是言。我不敢軽。於汝等。皆当作仏。
とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/20.htm)、
我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作(我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)、
の、
二十四文字は、
万人成仏という法華経の教理が略説されていることから、
二十四文字の法華経、
という(https://www.nichiren.or.jp/hokekyo/id44/)らしい。だから、
四衆之中。有生瞋恚。心不浄者。悪口罵詈言。是無知比丘。従何所来。自言我不軽汝。而与我等授記。当得作仏。我等不用。如是虚妄授記。如此経歴多年。常被罵詈。不生瞋恚。常作是言。汝等当作仏。説是語時。衆人或以。杖木瓦石。而打擲之。避走遠住。猶高声唱言。我不敢軽於汝等。汝等皆当作仏。以其常作是語故。増上慢。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。号之為常不軽、
と(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/20.htm)、
常にこの二十四の文字を発し常に相手を軽んじないということから、増上慢の四衆たちは、、
常不軽、
という名付けた(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/20.htm)とある。是比丘、臨欲終時に、
於虚空中。具聞威音王仏。先所説法華経。二十千万億偈。悉能受持。即得如上。眼根清浄。耳鼻舌身意根清浄。得是六根清浄已。更増寿命。二百万億。那由他歳。広為人説。是法華経。於時増上慢四衆。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。軽賎是人。為作不軽名者。見其得大神通力。楽説弁力。大善寂力。聞其所説。皆信伏随従。是菩薩。復化千万億衆。令住阿耨多羅三藐三菩提。命終之後。得値二千億仏。皆号日月燈明。於其法中。説是法華経。以是因縁。復値二千億仏。同号雲自在燈王。於此諸仏法中。受持読誦。為諸四衆。説此経典故。得是常眼清浄。耳鼻舌身意。諸根清浄。於四衆中説法。心無所畏。得大勢。是常不軽菩薩摩訶薩。供養如是。若干諸仏。恭敬尊重讃歎。種諸善根。於後復値。千万億仏。亦於諸仏法中。説是経典。功徳成就。当得作仏、
と、
諸仏の法の中に於て是の経典を説いて、功徳成就して当に作仏することを得たり、
とあり、さらに、最後に、
得大勢。於意云何。爾時常不軽菩薩。豈異人乎。則我身是、
と、それが釋迦自身の、
過去世、
であったとする(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/7/20.htm)。
なお、法華経については、「法華経五の巻」で触れた。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95