2023年10月01日
惣持
我等ぞ思へば頼もしき、きけむ経を聞きし故、三昧惣持(そうぢ)を得てこそは、佛に多くは仕へしか(梁塵秘抄)、
の、
惣持(そうじ)、
は、
総持、
とも当て、梵語、
dhāraṇī、
の音写、
陀羅尼(だらに)、
の訳語で、
周匝蘭楯者、譬総持、四面懸鈴者、譬四弁(「法華義疏(7C前)」)、
と、
よく総(すべ)てのものをおさめ持(たも)って忘れ去らないもの、
という意(精選版日本国語大辞典)とある。
悪法を捨てて善法を持する、
という意味から、
仏の説くところをよく記憶して忘れない、
ということである(デジタル大辞泉)。
「千手の呪い」、「加持」で触れたように、「陀羅尼」は、
で、
陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、
とも書き、
保持すること、
保持するもの、
の意で、
総持、
の他、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、
と意訳し、
能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、
をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる、
呪文、
の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、
サンスクリット語原文を音読して唱える、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC)。
其の用、聲音にあり。これ佛、菩薩の説ける呪語にして、萬徳を包蔵す。呪は、如来真言の語なれば真言と云ひ、呪語なれば、誦すべく解すべからず、故に翻訳せず、
とある(大言海)。ダーラニーとは、
記憶して忘れない、
意味なので、本来は、
仏教修行者が覚えるべき教えや作法、
などを指したが、これが転じて、
暗記されるべき呪文、
と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、
一種の記憶術、
であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、
暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、
を目的とし(仝上)、
種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、
と称したもので、
術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった
とある(精選版日本国語大辞典)のは、
原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、
真言 mantra、
といわれたからで、普通には、
長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)
と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、
これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、
とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、
初に那謨(なも)、或は唵(おん)の如き、敬礼を表す語を置き、諸仏の名號を列ね、二三の秘密語を繰返し、末に婆縛訶(そはか)の語を以て結ぶを常とす、又、阿鎫覧唅欠(アバンランガンケン)の五字は、大日如来の真言にて、五字陀羅尼とも云ひ、この五字は阿鼻羅吽欠(アビラウンケン)の如く、地、水、火、風、空、の五大にして、大日如来の自体となす(大言海)、
とか、
仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる(日本大百科全書)、
とかとある。因みに、「阿毘羅吽欠蘇婆訶」(あびらうんけんそわか)となると、
阿毘羅吽欠、
は、
梵語a、vi、ra、hūṃ、khaṃ、
の音写で、
地水火風空、
を表し、
大日如来に祈るときの呪文、
である(デジタル大辞泉)。
蘇婆訶、
は、
梵語svāhā、
の音写で、
成就の意を表す(仝上)。『大智度論(だいちどろん)』には、
聞持(もんじ)陀羅尼(耳に聞いたことすべてを忘れない)、
分別知(ふんべつち)陀羅尼(あらゆるものを正しく分別する)、
入音声(にゅうおんじょう)陀羅尼(あらゆる音声によっても左右されることがない)、
の三種の陀羅尼を説き、
略説すれば五百陀羅尼門、
広説すれば無量の陀羅尼門、
があり、『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』は、
法陀羅尼、
義陀羅尼、
呪(じゅ)陀羅尼、
能得菩薩忍(のうとくぼさつにん)陀羅尼(忍)、
の四種陀羅尼があり、『総釈陀羅尼義讃(そうしゃくだらにぎさん)』には、
法持(ほうじ)、
義持(ぎじ)、
三摩地持(さんまじじ)、
文持(もんじ)、
の四種の持が説かれている(仝上)。しかし、日本における「陀羅尼」は、
原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経たために発音が相当に変化し、また意味自体も不明なものが多い、
とある(精選版日本国語大辞典)。
なお、「陀羅尼」は、訛って、
寺に咲藤の花もやまんたらり(俳諧「阿波手集(1664)」)、
と、
だらり、
ともいう。
陀羅尼、
は、結句、
すべてのことを心に記憶して忘れない力、または修行者を守護する力のある章句、
をいい(日本国語大辞典)、特に、
密教では一般に長文の梵語を訳さないで梵文の呪文を翻訳しないで、原語のまま音写されたものを、そのまま読誦するので(仝上)、
一字一句に無辺の意味を蔵し、これを誦すればもろもろの障害を除いて種々の功徳を受ける、
とされ(仝上)、
秘密語、
密呪、
呪、
明呪、
ともいい(広辞苑)。
呪、
を、
陀羅尼、
と名づけるところから、呪を集めたものを、
陀羅尼蔵、
明呪蔵(みょうじゅぞう)、
秘蔵(ひぞう)、
等々といい、経蔵、律蔵、論蔵、般若(はんにゃ)蔵とともに、
五蔵、
の一つとされる。密教では、
祖師の供養(くよう)や亡者の冥福(めいふく)を祈るために尊勝(そんしょう)陀羅尼を誦持するが、その法会(ほうえ)を、
陀羅尼会(だらにえ)、
といい(日本大百科全書)、
陀羅尼を誦する時につく鐘、特に、京都建仁寺の
百八陀羅尼鐘、
を、
陀羅尼鐘、
といい、陀羅尼のこと、また、密教の呪文を、
陀羅尼呪(だらにじゅ)、
また、吉野・大峰・高野山などで製造する、
もと陀羅尼を誦する時、睡魔を防ぐために僧侶が口に含んだ苦味薬で、ミカン科のキハダの生皮やリンドウ科のセンブリの根などを煮つめて作る黒い塊、
を、
陀羅尼助(だらにすけ)、
という(仝上)。
苦味が強く腹痛・健胃整腸剤、
に用いる(日本国語大辞典)。訛って、
だらすけ、
ともいう(仝上)。真言密教の「求聞持法」については触れた。
もと、「才+怱」を書き誤ったもの、
とあり(漢字源)、
「揔」の書き誤り、
で、
「総」の異体、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%83%A3)。
形声。手(て。牛は誤った形)と、音符怱(ソウ 忽は誤り変わった形)とから成る。もと、揔(ソウ)、(摠(ソウあつめたばねる意)の俗字)の誤字、
なのである(角川新字源)が、
形声文字です(物+心)。「角のある牛の象形と、弓の両端にはる糸をはじく」象形(「悪い物を払い清める」の意味)」(「清められたいけにえの牛」、「もの」の意味)と「心臓」の象形(「心」の意味)だが、ここでは、「総(ソウ)」に通じ(同じ読みを持つ「総」と同じ意味を持つようになって)、「すべる」、「すべて」を意味する「惣」という漢字が成り立ちました、
誤った「牛」説から説くものもある(https://okjiten.jp/kanji2453.html)。
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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年10月02日
轉法輪
法華のまします所には、諸佛神力拝みつつ、皆是佛の菩提處、轉法輪の所なり(梁塵秘抄)、
の、
転法輪(てんぼうりん)、
は、
仏が教えを説くこと、
つまり、
説法、
の謂いで、
法輪、
は、梵語、
dharma-cakra、
の訳で、
仏法が人間の迷いや悪を打ち破り追い払うのを、古代インドの戦車のような武器(輪)にたとえていったもの、
で、
転、
は説くこと、
とある(デジタル大辞泉)。
(輪宝 精選版日本国語大辞典より)
「輪宝」は、
輪鋒、
とも当て、
りんぽう、
りんぼう、
と訓み、もと、
インドの兵器で、車輪の形をして八方に鋒端を出すもの、
で、
金輪宝、銀輪宝、銅輪宝、鉄輪宝の4種、
があり、
仏教に取り入れられて、
理想の国王とされる転輪王が所持する七宝の一つ、
とされる。転輪王が出現する時、王の行くところ、
これが先行して四方を制するとされる、
という(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。この、
輪宝を転じて敵軍を摧破(さいは)するとされること、
になぞらえて、
仏の説く法が世の人びとの煩悩ぼんのうや邪説を打ち破って世に広まること、
に喩えたのである(http://www.shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=syotenbourinn)。また、
仏の教えが1ヵ所に止まることなく、あらゆる地方のあらゆる人々にゆきわたることを、車輪のどこにでも行く自由な動き、
にも喩えた(世界大百科事典)とある。さらに、仏の偉大な特徴を表す、
三十二相、
の中の一つ、
千輻輪相(せんぷくりんそう)、
つまり、
足の裏もしくは掌にあるという車輪形の文様、
も、
仏の偉大なはたらきである説法(転法輪)を象徴するもの(法輪)、
とみる(仝上)ともある。
初転法輪(しょてんぼうりん)、
というと、
釈尊(しゃくそん)の最初の説法(せっぽう)、
をいう(仝上)が、これも、
教えを説くことを車輪を転がすこと、
になぞらえた言い方のようでである(仝上)。
釈尊はこの説法の聞き手である聴衆(ちょうじゅ)として、かつて一緒に苦行をしていた五人を選んだ。釈尊は、彼らが釈尊と決別した後も苦行を続けていた鹿野苑(ろくやおん 梵語ムリガダーヴァMṛgadāva)に赴き最初の説法を行った、
という(http://www.shinshu-hondana.net/knowledge/show.php?file_name=syotenbourinn)。この五人が釈尊に帰依し出家したことにより、
仏教教団、
が始ったとされ、釈尊の一生における八つの重大事件、
八相成道(はっそうじょうどう)、
の一つとされる(仝上)。八相成道は、「降魔(がま)の相(そう)」で触れたように、一般に、
降兜率(ごうとそつ 兜率天から下ったこと)、
託胎(母胎に入ったこと)、
降誕(母胎から出生したこと)、
出家、
降魔(ごうま 菩提樹下で悪魔を降伏させたこと)、
成道(じょうどう 悟りを得たこと)、
転法輪(てんぽうりん 説法・教化したこと)、
入滅(にゅうめつ 涅槃に入ったこと)、
の称とされる(精選版日本国語大辞典)。
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2023年10月03日
五種法師(ごしゅほっし)
妙法連華経、書き読み持(たも)てる人は皆、五種法師と名づけつつ、終には六根清しとか(梁塵秘抄)、
の、
五種法師(ごしゅほっし)、
は、『法華経』法師品(妙法蓮華経法師功徳品)第十九に、
若し善男子・善女人是の法華経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。是の人は当に八百の眼の功徳・千二百の耳の功徳・八百の鼻の功徳・千二百の舌の功徳・八百の身の功徳・千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て六根を荘厳して皆清浄ならしめん、
とある(https://temple.nichiren.or.jp/nagasaki_hokekyo/page.html?file=HK19kun)ように、
五種の行者のあり方、
つまり、
5種類の修行を行う者、
をいい(広辞苑)、
受持法師(教えを信心受持する人)、
読経法師(経文を読む人)、
誦経(じゅきょう)法師(経文を見ず暗誦する人)、
解説(げせつ)法師(経の文句を解釈する人)、
書写法師(写経する人)、
の五種類をさす(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E7%A8%AE%E6%B3%95%E5%B8%AB)。ただ、これは『法華経』に、
読誦、
と説く部分を、
読と誦に分けて理解するもの、
とある(仝上)。そのえられる功徳を、
八百の眼の功徳・千二百の耳の功徳・八百の鼻の功徳・千二百の舌の功徳・八百の身の功徳・千二百の意の功徳、
としている(https://temple.nichiren.or.jp/nagasaki_hokekyo/page.html?file=HK19kun)のは、
眼の功徳 先入観なく物事が正しく見える、
耳の功徳 微妙なところまではっきりと捉えられ真意が分かる、
鼻の功徳 さまざまな香りをかぎ分けることができる、
舌の功徳 食事がすべておいしく感じられる。また言葉が人を感動させる、
身の功徳 清らかな身のために、美しく健康になる、
意の功徳 清らかな心のために、多くの人が会うことを願うようになる、
と(http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/6kon.html)、
六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)、
をさし、
以是功徳、荘厳六根、皆令清浄(法華経)、
六根清徹、無諸悩患(無量寿経)、
と、
以て六根を荘厳して皆清浄ならしめん(https://temple.nichiren.or.jp/nagasaki_hokekyo/page.html?file=HK19kun)、
の、
六根清浄、
をもたらす、と。
「六根」については「六根五内」で触れたが、
外界の対象をとらえて、心の中に認識作用をおこさせる感覚器官としての、
目、耳、鼻、舌、身、
の、
五根(ごこん)、
に、
意根(心)を加えると、
六根、
となる(精選版日本国語大辞典)。仏語で、
六識(ろくとき)、
つまり、
六根をよりどころとする六種の認識の作用、
すなわち、
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、
の総称、
つまり、
六界、
による認識のはたらきの六つの対象となる、
六境(ろっきょう)、
つまり、
色境(色や形)、
声境(しょうきょう=言語や音声)、
香境(香り)、
味境(味)、
触境(そっきょう=堅さ・しめりけ・あたたかさなど)、
法境(意識の対象となる一切のものを含む。または上の五境を除いた残りの思想など)、
で、別に、
六塵(ろくじん)、
ともいう対象に対して認識作用のはたらきをおこす場合、その拠り所となる、
六つの認識器官、
である。だから、
眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根、
といい、
六情、
ともいう(仝上)。
(法華経は梵語サッダルマ・プンダリーカ・スートラ、「正しい・法・白蓮・経」である。白い蓮の花。蓮は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)
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ラベル:五種法師
2023年10月04日
陀羅尼菩薩
須臾の間も聴く人は、陀羅尼菩薩を友として、一つの蓮(はちす)に入りてこそ、衆生教化弘むなれ(梁塵秘抄)、
の、
陀羅尼菩薩、
は、
三十日秘仏の十六日仏、
とあり、
陀羅尼の言葉の力で仏法を保持して悪法を防ぎます、
とある(http://tobifudo.jp/butuzo/25bosatu/06.html)。
陀羅尼、
は、「加持」で触れたように、
サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、
で、
陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、
とも書き、
保持すること、
保持するもの、
の意で、
総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、
と意訳し、
能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、
をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、
サンスクリット語原文を音読して唱える、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC)。ダーラニーとは、
記憶して忘れない、
意味なので、本来は、
仏教修行者が覚えるべき教えや作法、
などを指したが、これが転じて、
暗記されるべき呪文、
と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、
一種の記憶術、
であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、
暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、
を目的とし(仝上)、
種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、
と称したもので、
術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった
とある(精選版日本国語大辞典)のは、
原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、
真言 mantra、
といわれたからだが、普通には、
長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)
と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、
これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、
とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、
仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる、
とある(仝上)。梵語の音写「陀羅尼」の訳は、
「総持」
ともいうので、
陀羅尼菩薩、
は、
総持菩薩、
ともいい(http://tobifudo.jp/butuzo/25bosatu/06.html)。
舞いながら両手とも袖を持っています、
とある(仝上)。
三十日秘仏の十六日仏、
の、
三十日秘仏、
というのは、
一か月三十日に日替わりで仏菩薩を割り当てることによってその日を縁日とし、特別な御利益が得られるとされる暦のこと、
で(https://yasurakaan.com/shingonshyu/sanjyunichihibutsu/)、
甲子の日=大黒天、
寅の日=毘沙門天、
巳の日=弁財天、
庚申の日=帝釈天、
午の日=稲荷明神、
亥の日=摩利支天、
というように、
十二支で定めたもの、
と、
日にち、
で定め、
1日 定光仏(じょうこうぶつ)
2日 燈明仏(とうみょうぶつ)
3日 多宝仏(たほうぶつ)
4日 阿閦如来(あしゅくにょらい)
5日 弥勒仏(みろくぶつ)
6日 二萬燈明仏(にまんとうみょうぶつ)
7日 三萬燈明仏(さんまんとうみょうぶつ)
8日 薬師如来(やくしにょらい)
9日 大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)
10日 日月燈明仏(にちがつとうみょうぶつ)
11日 歓喜仏(かんぎぶつ)
12日 難勝仏(なんしょうぶつ)
13日 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
14日 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
15日 阿弥陀仏(あみだぶつ)
16日 陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)
17日 龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)
18日 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)
19日 光菩薩(にっこうぼさつ)
20日 月光菩薩(がっこうぼさつ)
21日 無盡意菩薩(むじんいぼさつ)
22日 施無畏菩薩(せむいぼさつ)
23日 大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)
24日 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
25日 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
26日 薬上菩薩(やくじょうぼさつ)
27日 盧遮那仏(るしゃなぶつ)
28日 大日如来(だいにちにょらい)
29日 薬王菩薩(やくおうぼさつ)
30日 釈迦如来(しゃかにょらい)
となっている(https://yasurakaan.com/shingonshyu/sanjyunichihibutsu/)が、
特に身近な、お不動さま、お地蔵さま、観音さま、
等々は、
本来の縁日以外に下一桁の同じ日も縁日となっている、
とある(http://tobifudo.jp/newmon/gyoji/ennichi.html)。この由来は、西暦900年代、
中国の五台の頃に五祖山戒禅師が始めた、
とされ、
一日定光仏、二日燃灯仏、三日多宝仏、
等々の仏を毎日供養することで罪障消滅と祖先の冥福を祈ったことによる(仝上)とある。
十六日仏、
というのは、
陀羅尼菩薩、
が、
十六日目、
の縁日だからである。また、
陀羅尼菩薩、
は、
「来迎引接(らいごういんじょう)」で触れた、阿彌陀如来が従える25菩薩のひとりである。
来迎図、
は、観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の説く、
阿弥陀四十八願の一つ、
である、
浄土に生まれることを願う人の臨終に、阿弥陀仏が西方浄土から迎えにくる姿を描いたもの、
で、平安中期以後、浄土教の発達にともなって描かれた(旺文社日本史事典)。高野山の《阿弥陀聖衆(しょうじゅ)来迎図》など阿弥陀如来が聖衆を従えて飛来する図柄が多いが、迎えてから帰るさまを描いた帰り来迎図や《山越阿弥陀図》等もある(マイペディア)。
阿弥陀仏が従えている、
二十五菩薩、
は、
観世音(かんぜおん)菩薩、大勢至(だいせいし)菩薩、薬王(やくおう)菩薩、薬上(やくしょう)菩薩、普賢(ふげん)菩薩、法自在王(ほうじざいおう)菩薩、獅子吼(ししく)菩薩、陀羅尼(だらに)菩薩、虚空蔵(こくうぞう)菩薩、徳蔵(とくぞう)菩薩、宝蔵(ほうぞう)菩薩、金蔵(こんぞう)菩薩、金剛蔵(こんごうぞう)菩薩、光明王(こうみょうおう)菩薩、山海慧(さんかいえ)菩薩、華厳王(けごんおう)菩薩、衆宝王(しゅうほうおう)菩薩、月光王(がっこうおう)菩薩、日照王(にっしょうおう)菩薩、三昧王(さんまいおう)菩薩、定自在王(じょうじざいおう)菩薩、大自在王(だいじざいおう)菩薩、白象王(びゃくぞうおう)菩薩、大威徳王(だいいとくおう)菩薩、無辺身(むへんしん)菩薩、
とされる(https://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=136)。
(阿弥陀二十五菩薩来迎図(京都国立博物館 阿弥陀如来と二十五菩薩が急峻な山頂ごしに飛雲に乗って降下するさまを描いた来迎図、早来迎(はやらいごう)とも) https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/butsuga/item06/より)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月05日
五十展転(ごじゅうてんでん)
法華経説かるる所にて、語り伝ふる聞く人の、功徳の量(はかり)を尋(たづ)ぬれば、五十隨喜(ずいき)ぞ量(はかり)なき(梁塵秘抄)、
の、
五十隨喜(ずいき)、
とあるのは、法華経(随喜功徳品)の、
亦随喜転教、如是展転、至第五十(亦隨喜して転教せん、是の如く展転して第五十に至らん)、
とあるところから、
五十展転(ごじゅうてんてん・ごじゅうてんでん)、
といわれる、
人から人へと説き伝え、50人目にいたっても同じ功徳がある、
という、
法華経の功徳、
をいう語のことではないかと思う(広辞苑・大辞林)。
五十展転、
は、
随喜五十展転(ずいきごじゅうてんでん)、
ともいい(http://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=bfefb4eeb8debdbdc5b8c5be)、
五十展転の随喜、
または
五十展転随喜の功徳、
ともいう(http://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=bfefb4eeb8f9c6c1c9ca)。
法華経を聞いて随喜した人が、その喜びを人に伝え、その人がまた別の人に伝えるというようにして、第50人に至ったとして、その第50人の随喜の功徳ですら、莫大なものである、
との意である(仝上)。だから、
是の如く第五十人の展転して法華経を聞いて隨喜せん功徳、尚お無量無辺阿僧祇なり。何に況んや、最初、会中に於て聞いて隨喜せん者をや。其の福復勝れたること無量無辺阿僧祇にして、比ぶること得べからず(随喜功徳品)、
と、
最初に随喜した衆生の功特は更に大きく測り知ることができない、
として、
一念随喜(初随喜)、
を説く(仝上)。
一念信解の功徳は五波羅蜜の行に越へ、五十展転の随喜は八十年の布施に勝れたり(日蓮遺文・「持妙法華問答鈔(1263)」)、
ともあり、日蓮は、
50人とば特定の人に限られるのではなく、妙法を聞いて随喜する一切衆生をさす、
としている(仝上)。
(鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)
「妙法蓮華経」随喜功徳品第十八には、
爾の時に仏、弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、
阿逸多、如来の滅後に、若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷及び余の智者、若しは長若しは幼、是の経を聞いて隨喜し已って、法会より出でて余処に至らん。若しは僧坊にあり、若しは空閑の地、若しは城邑・巷陌・聚落・田里にして、其の所聞の如く、父母・宗親・善友・知識の為に、力に隨って演説せん。是の諸人等聞き已って隨喜して復行いて転教せん、余の人聞き已って亦隨喜して転教せん、是の如く展転して第五十に至らん。阿逸多、其の第五十の善男子・善女人の隨喜の功徳を我今之を説かん、汝当に善く聴くべし、
とあり、さらに、
其の教を受けて乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に一処に生ずることを得ん。利根にして智慧あらん。百千万世終に瘖唖ならず。口の気臭からず。舌に常に病なく、口にも亦病なけん。歯は垢黒ならず、黄ならず、疎かず、亦欠落せず、差わず、曲らず。唇下垂せず、亦褰縮ならず、麤渋ならず、瘡胗ならず、亦欠壊ならず、亦喎邪ならず、厚からず、大ならず、亦黧黒ならず、諸の悪むべきことなけん、
ともある。
陀羅尼菩薩、
は、
三十日秘仏の十六日仏、
とあり、
陀羅尼の言葉の力で仏法を保持して悪法を防ぎます、
とある(http://tobifudo.jp/butuzo/25bosatu/06.html)。梵語の音写「陀羅尼」の訳は、
総持、
ともいうので、
陀羅尼菩薩、
は、
総持菩薩、
ともいう(http://tobifudo.jp/butuzo/25bosatu/06.html)。
陀羅尼、
は、「加持」で触れたように、
サンスクリット語ダーラニーdhāraīの音写、
で、
陀憐尼(だりんに)、
陀隣尼(だりんに)、
とも書き、
保持すること、
保持するもの、
の意で、
総持、
能持(のうじ)、
能遮(のうしゃ)、
と意訳し、
能(よ)く総(すべ)ての物事を摂取して保持し、忘失させない念慧(ねんえ)の力、
をいい(日本大百科全書)、仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せず、
サンスクリット語原文を音読して唱える、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC)。ダーラニーとは、
記憶して忘れない、
意味なので、本来は、
仏教修行者が覚えるべき教えや作法、
などを指したが、これが転じて、
暗記されるべき呪文、
と解釈され、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった(仝上)。だから、
一種の記憶術、
であり、一つの事柄を記憶することによってあらゆる事柄を連想して忘れぬようにすることをいい、それは、
暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事、
を目的とし(仝上)、
種々な善法を能く持つから能持、
種々な悪法を能く遮するから能遮、
と称したもので、
術としての「陀羅尼」の形式が呪文を唱えることに似ているところから、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった
とある(精選版日本国語大辞典)のは、
原始仏教教団では、呪術は禁じられていたが、大乗仏教では経典のなかにも取入れられた。『孔雀明王経』『護諸童子陀羅尼経』などは呪文だけによる経典で、これらの呪文は、
真言 mantra、
といわれたからだが、普通には、
長句のものを陀羅尼、
数句からなる短いものを真言(しんごん)、
一字二字などのものを種子(しゅじ)
と区別する(日本大百科全書)。この呪文語句が連呼相槌的表現をする言葉なのは、
これが本来無念無想の境地に至る事を目的としていたためで、具体的な意味のある言葉を使用すれば雑念を呼び起こしてしまうという発想が浮かぶ為にこうなった、
とする説が主流となっている(仝上)とか。その構成は、多く、
仏や三宝などに帰依する事を宣言する句で始まり、次に、タド・ヤター(「この尊の肝心の句を示せば以下の通り」の意味、「哆地夜他」(タニャター、トニヤト、トジトなどと訓む)と漢字音写)と続き、本文に入る。本文は、神や仏、菩薩や仏頂尊などへの呼びかけや賛嘆、願い事を意味する動詞の命令形等で、最後に成功を祈る聖句「スヴァーハー」(「薩婆訶」(ソワカ、ソモコなどと訓む)と漢字音写)で終わる、
とある(仝上)。
法華経については「法華経五の巻」で触れた。
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2023年10月06日
空目
沙羅林にたつ煙(けぶり)、上(のぼ)ると見しは空目なり、釋迦は常にましまして、霊鷲山(りょうじゅせん)にて法(のり)ぞ説く(梁塵秘抄)、
の、
空目、
は、
あきめ、
と訓ますと、
明目、
とも当て、
双六(すごろく)で、むだ目のこと、
や、
賭け事で、だれも張らないところや、だれもかけていない賽の目、
の意で使うが、
そらめ、
と訓ませると、
いみじうも、物言ふものかな。わいても、里人を褒むるぞ、空目なる。藤壺の御方まかで給はば、必ず見せ給へ(宇津保物語)、
そらめをぞ君はみたらし川の水あさしやふかしそれは我かは(拾遺和歌集)、
と、
見まちがえること、
ありもしないものを見たように思うこと、
めがね違い、
といった意や、
遠山田穂波うち過ぎ出でにけりいまは見守もそらめすらしも(「為相本曾丹集(11C初)」)、
と、
見て見ないふりをすること、
目をそらすこと、
また、
わき見、
の意や、近代になっては、
もんは安心して横になり、そら眼をして、ちょっといい男ぢゃないの母さんと云った(室生犀星「あにいもうと」)、
と、
ひとみを上にあげて見ること、
つまり、
うわめ、
の意や、
返す返す、例のそらめのみしつつ過ぐす(「成尋母集(1073頃)」)、
と、
遠く空に目をやること、
うつろであること、
放心状態であること、
また、
その目、
の意で使う(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。
空目遣い、
というと、だから、
見て見ないふりをする。
うわめづかいをする、
うつろな目つきをする、
と、「空目」の意味に重なり、
空目を使(つか)う、
という言い方も、
見て見ないふりをする、
うわめづかいをする、
うつろな目つきをする、
と同義である(デジタル大辞泉)。
空耳、
の、
そらみみかけさふくかぜのおときけばわれおもはるるこゑのするかな(「一条摂政集(961~92頃)」)、
と、
音がしないのに、音が聞こえたように感じること、
や、
夕つかた夜など、しのびたる郭公の、遠う空みみかとおぼゆるまでたどたどしきを聞きつけたらん(「能因本枕(10C)」)、
と、
聞いているのに聞かないふりをすること、
の、
空(そら)、
と重なる。「空がらくる」で触れたように、「空」は、
天と地との間の空漠とした広がり、空間、
の意だが(岩波古語辞典)、
アマ・アメ(天)が天界を指し、神々の国という意味を込めていたのに対し、何にも属さず、何ものもうちに含まない部分の意、転じて、虚脱した感情、さらに転じて、実意のない、あてにならぬ、いつわりの意、
とあり(仝上)、
虚、
とも当てる(大言海)。で、由来については、
反りて見る義、内に対して外か、「ら」は添えたる辞(大言海・俚言集覧・名言通・和句解)、
上空が穹窿状をなして反っていることから(広辞苑)、
梵語に、修羅(スラ Sura)、訳して、非天、旧訳、阿修羅、新訳、阿蘇羅(大言海・日本声母伝・嘉良喜随筆)、
ソトの延長であるところから、ソトのトをラに変えて名とした(国語の語根とその分類=大島正健)、
ソラ(虚)の義(言元梯)、
間隙の意のスの転ソに、語尾ラをつけたもの(神代史の新研究=白鳥庫吉)、
等々諸説あるが、どうも、意味の転化をみると、
ソラ(虚)
ではないかという気がする。漢字では、
空は有の反、
虚は實また盈の反、
曠はひろくしてむなしい、
と使い分けている(字源)。これを接頭語にした「そら」は、
空おそろしい、
空だのみ、
空耳、
空似、
空言(そらごと)、
等々、
何となく、
~しても効果のない、
偽りの、
真実の関係のない、
かいのないこと、
根拠のないこと、
あてにならないこと、
徒なること、
などと言った意味で使っている(広辞苑・岩波古語辞典・大言海)。
(太刀 大辞林より)
(江戸時代以降の柄部分、目貫と目釘の位置が違う https://www.touken-collection-kuwana.jp/touken-basic-information/about-tousougu-menuki/より)
なお、
空目貫、
という言葉がある。
目貫、
は、
「め」は孔(あな)、
の意で、
太刀・刀の身が柄(ツカ)から抜けないように柄と茎(ナカゴ)の穴にさし止める釘、
つまり、
目釘、
のことである(精選版日本国語大辞典)が、鎌倉以降、頭と座の飾りと釘の部分を離して別の位置につけるようになり、釘の部分を、
真目貫(まことめぬき)、
目釘、
といい、飾りの金物を目につく箇所につけるのを、
空目貫(そらめぬき)、
飾目貫(かざりめぬき)、
という(仝上・広辞苑)。近世には普通、
空目貫、
を「目貫」をいう(仝上)。もともと、
目貫は「茎」(なかご)に設けられた穴に挿し通し、刀身が柄から抜け出ないように固定するための「目釘」(めくぎ)の両端を留める役割を果たしていました。それが江戸時代頃より、釘部分と装飾部分が分離し、釘部分が目釘、装飾部分が目貫へと独立。目釘はそのままに、目貫のみ柄の中ほどに配置が変わることになります。このような流れから目貫は、刀身を固定する役割から開放され、より装飾性を強めていくこととなるのです、
とある(https://www.touken-collection-kuwana.jp/touken-basic-information/about-tousougu-menuki/)。
「空」(漢音コウ、呉音クウ)は、「空がらくる」で触れたように、
会意兼形声。工は、尽きぬく意を含む。「穴+音符工(コウ・クウ)」で、突き抜けて穴があき、中に何もないことを示す、
とある(漢字源)。転じて、「そら」の意を表す(角川新字源)。別に、
会意兼形声文字です(穴+工)。「穴ぐら」の象形(「穴」の意味)と「のみ・さしがね」の象形(「のみなどの工具で貫く」の意味)から「貫いた穴」を意味し、そこから、「むなしい」、「そら」を意味する「空」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji99.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
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2023年10月07日
沙羅林
沙羅林にたつ煙(けぶり)、上(のぼ)ると見しは空目なり、釋迦は常にましまして、霊鷲山(りょうじゅせん)にて法(のり)ぞ説く(梁塵秘抄)、
の、
沙羅林(しゃらりん・さらりん)、
は、
娑羅の木の茂った林、
をいう(精選版日本国語大辞典)が、特に、
娑羅林に赴き給にし後より遺し置き給へる舎利を拝み奉り(「観智院本三宝絵(984)」)、
と、
釈尊の入滅した娑羅の林、
をいう(仝上)とある。
沙羅樹(サラジュ)、
は、
インド原産の常緑大高木、
であり、
サラソウジュの別称、
とある(動植物名よみかた辞典)。
(フタバガキ科Hopea ponga の葉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%90%E3%82%AC%E3%82%AD%E7%A7%91より)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす(平家物語)、
の、
サラソウジュ、
は、
沙羅双樹、
娑羅双樹、
と当て、学名、
Shorea robusta、
の、
フタバガキ科サラノキ属の常緑高木、
で、
シャラソウジュ、
サラノキ、
シャラノキ、
ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%A5)、ラワンの一種レッドラワン(S.negrosensis)と同属とある(仝上)。ただ、本来の沙羅双樹(フタバガキ科のShorea robusta)は、
幹高は30mにも達する。春に白い花を咲かせ、ジャスミンにも似た香りを放つ、
が(仝上)、
温暖な地域でしか育たないため、仮託してツバキ科のナツツバキを沙羅双樹または沙羅の木と呼んでいます、
とある(https://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/nikko-old/5_jokyo/today%27s_flowers/2010_Jun_2nd.html)。つまり、
沙羅双樹、
の名で呼ばれ、日本の寺院に聖樹として植わっている木のほとんどは、本種ではなく、
ナツツバキ、
であるらしい(仝上)。
(ナツツバキ(夏椿、別名:シャラノキ) https://www.bg.s.u-tokyo.ac.jp/nikko-old/5_jokyo/today%27s_flowers/2010_Jun_2nd.htmlより)
(ナツツバキ 仝上)
沙羅樹、
は、神話学的には、
復活・再生・若返りの象徴、
とされ、
生命の木、
に分類される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%A5)とあり、仏教では、
二本並んだ沙羅の木の下で釈尊が入滅した、
故に、
般涅槃の象徴、
とされ、
沙羅双樹、
と呼ばれる(仝上)。
佛在鳩戸那城、跋提河邊、沙羅雙樹下、入涅槃(地蔵経)、
世尊、沙羅樹下、寝臥寶林、……其樹、卽時惨然變白、猶如白鶴、……漸漸枯悴(涅槃経)、
と、
釋迦入滅セムトスル時、沙羅樹、二株ノ閒ニ、臨終臥床ヲ敷ケリ、入滅シタル時、二樹、時ナラヌ白花ヲ開キテ、臥床ヲ垂レ覆ヒ、暫クシテ、枯レタリ、
と云ふ(大言海)とある。
此白花ノ、白鶴ノ如クナリシニ因リテ、釋迦ノ入滅ヲ、鶴林ト云ヒ、鶴の林ナドト云フ、
ともある(仝上)。
梵語śāla、
は、
高遠の義、
とあり(大言海)、
其樹、類槲(カシハ)、而皮、青白、葉甚光潤(西域記)、
翻為高遠、其林森聳出於餘樹(華厳音義)、
と、
喬木にして、高く余樹を凌ぐ、皮は、青白に、葉は、橢圓にして、光沢あり、花は白色なりと云ふ、此の樹の林を沙羅林と云ふ、
とある(仝上)。
和名、
ナツツバキ、
の由来は、花や葉の形がツバキに似ており、夏に花が咲く、
ことによる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%84%E3%83%84%E3%83%90%E3%82%AD)。別名は、
シャラノキ(沙羅木)、
サラノキ、
シャラ、
サルナメ、
シャラソウジュ、
サラソウジュ(娑羅樹、沙羅双樹)、
等々、
幹肌が次々と剥がれてすべすべしている、
ところから、
サルスベリの異名、
もある(仝上)。江戸時代中期に、仏教の聖樹である、
沙羅双樹、
を、
ナツツバキ、
にあてるようになった(仝上)とある。
羅樹(しゃらじゅ)、
の、
シャラは、
沙羅双樹、
の、
サラから転じたといわれるが(仝上)、別に、
別名、サルスベリ、
を下略して、音を転じたる語かと云ふ(御旅所(オタビショ)、おたび。三味線、しゃみ。するする、すらすら)、
ともある(大言海)。
サルと云ふ樹名を取りて、白花を開くに因りて、僧侶が、寺院に移植し、神聖なるものとして、印度の沙羅樹に付会して、其字を充てたるなるべし、
とあり(仝上)、名は、
さるすべり、
の、
さる、
に付会したものとするのは、
樹幹、裸にして、滑らかなること、百日紅(さるすべり)の如し、
というによるもので、
ナツツバキ、
を当てたものらしい(仝上)。その経緯は、
沙羅樹、山茶花科に属す、日光、中禅寺湖畔、伊豆の天城山中に、多く野生す、夏時、椿に似たる白花を開く、ナツツバキとも云ふ、樹幹、極めて滑らかなれば、日光邊にて、サルスベリと名づく、印度の沙羅双樹とは、甚だ異なり、比叡山、及び、ところどころの寺院に在りて、沙羅樹と云ふもの、混同せしものか(仏教大辞典)、
ともある。
比叡山云々、
とあるのは、和漢三才図絵に、
沙羅双樹、比叡山有之、其花白單辨、状、似山茶花、
とあるのによると見える。
なお、
仏教三大聖樹、
というのがあり、
無憂樹(マメ科)、
は、
釈迦が生まれた所にあった木、
印度菩提樹(クワ科)、
は、
釈迦が悟りを開いた所にあった木、
娑羅樹(フタバガキ科)、
は、
釈迦が亡くなった所にあった樹木、
をいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%A5)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
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2023年10月08日
壽量品
法華経八巻(やまき)は一部なり、廿八品其の中に、あの、よまれ給ふ、説かれ給ふ、壽量品ばかり、あはれに尊(たうと)きものはなし(梁塵秘抄)、
の、
壽量品(じゅりょうぼん)、
は、法華経二十八品中の第十六品、
「如来寿量品」の略、
で、
如是我成仏已来(是の如く我成仏してより已来)
甚大久遠
寿命無量
阿僧祇劫
常住不滅
と(阿僧祇劫(あそうぎこう)は、梵語asaṃkhyeya 無限に長い時間の意 10の56乗とも10の64乗とも)、
釈迦の寿命や無量を説いたもの、
とある(精選版日本国語大辞典・https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/6/16.htm)。
如来寿量品、
の後半に、
自我得仏来(我仏を得てより来)
所経諸劫数(経たる所の諸の劫数)
無量百千万(無量百千万)
億載阿僧祇(億載阿僧祇なり)
と(仝上)始まる、5文字で1句となる詩の形で書かれた、
偈頌、
があり、
自我得仏来、
とはじまるため、これは、
自我偈(妙法蓮華如来寿量品偈)、
と呼ばれ、
釈迦牟尼仏の命は永遠であることが語られ、仏は迷い苦しむ人びとに死を示して人びとの心を目覚めさせることにより仏の道を歩むよう説いている。また、いっさいの人びとを仏にするのが、仏の誓願であることがしめされている、
とある(http://www.kujhoji.or.jp/youten/sub14_2_07.htm)。
自我偈、
は、
如来寿量品の前半で説かれた教えと同じ意味を、
詩の形、
で繰り返し説いている(https://temple.nichiren.or.jp/1081018-shoboji/2019/12/id379/)ものになる。
我時語衆生(我時に衆生に語る)
常在此不滅(常に此にあって滅せず)
以方便力故(方便力を以ての故に)
現有滅不滅(滅不滅ありと現ず)
余国有衆生(余国に衆生の)
恭敬信楽者(恭敬し信楽する者あれば)
我復於彼中(我復彼の中に於て)
為説無上法(為に無上の法を説く)
汝等不聞此(汝等此れを聞かずして)
但謂我滅度(但我滅度すと謂えり)
等々と、人として生まれて悟りを開いて佛となったとされているが、
実は久遠実成(くおんじつじょう 今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である)の釈迦牟尼佛、
であった(http://tendoji.sakura.ne.jp/nyoraijuryouhonge.html)とし、
もともと永遠の仏である、
として、
我々も釈尊と同じ仏性(仏としての本性)をもっており、衆生も本来悟っている仏である、
とし、
釈尊も我々も大いなるもの、宇宙のもともとの実在の絶対者(慈悲の当体である神的な存在)と本来同じ、
と説く(仝上)、
大乗仏教、
そのものを示している。『妙法蓮華経』の第16「如来寿量品」が、
法華経の最大のテーマの部分、
とされる(仝上)ゆえんである。
法華経、
については、「法華経五の巻」で触れたが、法華経の原本は、
紀元1世紀以降にインドで編纂された、
という説が有力(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C)とされ、サンスクリット原典は、
サッダルマ・プンダリーカ・スートラSaddharmapundarīka-sūtra、
といい、
妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の略称、
だが、原題は、
「サッ」(sad)は「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)は「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)は「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)は「たて糸:経」の意、
で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C)、
白蓮華のごとき正しい教え、
の意となる(世界大百科事典)。この漢訳は、
竺法護(じくほうご)訳『正(しょう)法華経』10巻(286)、
鳩摩羅什(くまらじゅう)訳『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』7巻(406)、
闍那崛多(じゃなくった)他訳『添品(てんぼん)妙法蓮華経』7巻(601)、
三種が存在する。『妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』が最も有名で、通常は同訳をさす。詩や譬喩・象徴を主とした文学的な表現で、一乗の立場を明らかにし、永遠の仏を説く(日本大百科全書)とある。
「法華経」以外は、
随他意のお経、
といい、相手に合わせて説かれたお経で、「法華経」だけは、
随自意のお経、
として説かれた(http://tendoji.sakura.ne.jp/nyoraijuryouhonge.html)とされ、
釈尊の悟りそのものを相手に合わせるのではなく、釈尊の御心のままに説かれた、
ものとされる(仝上)。
(『法華自我偈絵抄』(1814年) 江戸時代、一般大衆向けの法華経の解説書も多数刊行された https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月09日
無上道
我が身は夢に劣らねど、無上道(だう)をぞ惜しむべき、命は譬(たとひ)の如くなり、如来付属はあやまたじ(梁塵秘抄)、
の、
無上道、
は、
此れを以て仏像を供養せむには、無上道を成ぜむ(日本霊異記)、
と、
この上もなくすぐれたさとり、
完全な究極のさとり、またその、智慧、
の意で、
仏道、
を指す(精選版日本国語大辞典)。当然、妙法蓮華経序品第一の、
若有仏子(若し仏子有って)
修種種行(種々の行を修し)
求無上慧(無上慧を求むるには)
為説浄道(為に浄道を説きたもう)、
とあるように(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/01.htm)、それがもたらす、
最高の教え、
の含意もある(仝上)。妙法蓮華経勧持品第十三勧持品(かんじほん)の偈頌(げじゅ gāthā の音訳の「偈」と意訳の「頌」を合わせたもの)に、
為説是経故(是の経を説かんが為の故に)
忍此諸難事(此の諸の難事を忍ばん)
我不愛身命(我身命を愛せず)
但惜無上道(但無上道を惜む)
とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/5/13.htm)。
この、
無上、
は、
無上の光栄、
とか、
無上の喜び、
というように、
この上もないこと、
最もすぐれたこと、
最上、
の意で使うが、
お釈迦様が魂をこめられた最上の教えのことであり、それを実践していくことです。そして、それを実践し、弘めていくためであるならば、自分の身命(しんみょう)も惜しまないということです、
とあり(https://sumo7.hatenadiary.jp/entry/2017/06/12/101120)、
その道が成就されたありさま、
をいっており、
この上はない、
意味と見られる。
無上正覚、
無上尊、
無上菩提、
等々とも使い、
無上正覚(むじょうしょうがく)、
とは、
最上の正しい覚知。仏の悟り、
を指し、
無上正等覚、
無上等正覚、
ともいい、
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、
は、
阿耨菩提(あのくぼだい)、
ともいい、梵語、
anuttara-samyak- saṃbodhi、
の音訳、
アヌッタラー(無上の)・サムヤク(正しい、完全な)・サンボーディ(悟り)、
の意で(日本大百科全書)、
無上正等正覚(むじょうしょうとうしょうがく すべての段階の菩提を越えて、最高にして正しく、遍(あまね)き正覚)、
無上正真道(しょうしんどう)、
無上正遍知(しょうへんち)
とも訳し(仝上)、
仏の悟り、
つまり、
真理を悟った境地。この上なくすぐれ正しく平等である悟りの境地、
をいう(精選版日本国語大辞典)。
縁覚(えんがく)、声聞(しょうもん)がそれぞれ得る悟りの智慧のなかで、仏のそれ(菩提)は、このうえない究極のものを示す、
という意味である(日本大百科全書)。
この境地へ至ったことを、
無上道、
というのであろう。因みに「声聞」で触れたように、
声聞(しょうもん)、
縁覚(えんがく)、
菩薩(ぼさつ)、
は、
三乗、
とされる。「声聞」は、
梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、
の訳語、
声を聞くもの、
の意で、
弟子、
とも訳し(精選版日本国語大辞典)、
釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、
であるのに対し、「縁覚」(えんがく)は、
梵語pratyeka-buddhaの訳語、
で、
各自にさとった者、
の意、
独覚(どっかく)、
とも訳し、
辟支仏(びゃくしぶつ)
ともいい(辟支はpratyeka の略音写、仏はbuddha の音訳)、
仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、
をいう(仝上・日本大百科全書)。「菩薩」は、
サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、
の音訳、
菩提薩埵(ぼだいさった)、
の省略語であり、
bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、
より、
悟りを求める人、
の意であり、元来は、
釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、
をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。
部派仏教(小乗仏教)では、
菩薩はつねに単数で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、
だけを意味する。そして他の修行者は、
釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。「阿羅漢」とは、
サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、
で、
尊敬を受けるに値する者、
の意。
究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、
をいう。部派仏教(小乗仏教)では、
仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、
をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、
無学(むがく)、
ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教の立場からは、
個人的な解脱を目的とする者、
とみなされ、
声聞を独覚(縁覚)と並べて、この2つを二乗・小乗として貶している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。ちなみに、「乗」とは、
乗物
の意で、
世のすべてのものを救って、悟りにと運んでいく教え、
を指し、「三乗」とは、
悟りに至るに3種の方法、
をいい、
声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、
の三つをいう(仝上)。大乗仏教では、
菩薩、
を、
修行を経た未来に仏になる者、
の意で用いている。
悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、
また、仏の後継者としての、
観世音、
彌勒、
地蔵、
等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、
小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、
とされた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。『大智度論』(大乗仏教中観派の祖・龍樹『摩訶般若波羅蜜経』(大品般若経、二万五千頌般若経)の注釈書)は、3種の菩提や5種の菩提を説き、
小乗の声聞の菩提と縁覚の菩提は執着や煩悩を滅尽しているけれども、真の菩提ということはできず、大乗の仏と菩薩の菩提のみが阿耨多羅三藐(あのくたらさんみやく)三菩提anuttarasamyak‐saṃbodhiである、
としている(世界大百科事典)。
菩提、
は、梵語
ボーディ(bodhi)、
の音写、
仏の正覚の智、さとり、
仏の悟りの境地、
極楽往生して成仏すること、
悟りの智慧、
などを意味し(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90)、
智、道、覚、
等々と漢訳され(仝上)、菩提を得た者が仏であり、
声聞菩提、
独覚菩提、
仏菩提、
といい、これを目指す衆生を、
菩薩、
という。3種の菩提のうち、仏菩提は至高であるため、
無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)、
と呼ばれることになる(仝上)。なお、『大智度論』の説く、
五種の菩提、
とは、
菩薩がさとりを求める心を発すのを、その心は菩提の果に至る因であるとの意から発心菩提、
煩悩をおさえて諸波羅蜜を行うのを伏心菩提、
諸法実相をさとった般若波羅蜜の相を明心菩提、
般若波羅蜜において方便力を得て、般若波羅蜜に捉われず煩悩を滅して、一切智(薩婆若)に到るのを出到菩提、
仏果の覚智を無上菩提、
と名づけている(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BC%E3%81%A0%E3%81%84)。ついでに、、
四諦(したい)、
は、「声聞」で触れたように、
「諦」はsatyaの訳。真理の意、
で、迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理、
苦諦、
集諦(じったい)、
滅諦、
道諦、
の四つで、
四聖諦(ししょうたい)、
ともよばれる。苦諦(くたい)は、
人生の現実は自己を含めて自己の思うとおりにはならず、苦であるという真実、
集諦(じったい)は、
その苦はすべて自己の煩悩(ぼんのウ)や妄執など広義の欲望から生ずるという真実、
滅諦(めったい)は、
それらの欲望を断じ滅して、それから解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん ニルバーナ)の安らぎに達して悟りが開かれるという真実、
道諦(どうたい)は、
この悟りに導く実践を示す真実で、つねに八正道(はっしょうどう 正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょうじょう))による、
とするもの(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)とある。
(涅槃図(19世紀の仏教画) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月10日
一乗妙法
氷(こほり)を敲(たた)きて水掬(むす)び、霜をへ拂ひて薪(たきぎ)採り、千歳(ちとせ)の春秋(はるあき)を過(すぐ)してぞ、一乗妙法聞きそめし(梁塵秘抄)、
の、
一乗妙法、
とは、
妙法一乗、
といい、
法華経(ほけきょう)に説かれている一乗の教えのこと、
をいい(新明解四字熟語辞典)、
妙法、
は、
仏法、
と同義、とりわけ、
妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)、
を指す(仝上)。
法華経だけが悟りを得られる唯一のものと説いたもの、
という意味になる(https://yoji.jitenon.jp/yoji/192.html)。
一乗、
の、
一とは、唯一無二の義、乗とは、乗物の舟車などにて、如来の教法、衆生を載運して、生死界を去らしむる意となると云ふ、
とある(大言海)、
衆生の成仏すべき、最上の教法、
の意だが、普通、
妙法蓮華経の法門、
をいい、妙法蓮華経提婆達多品(だいばだったぼん)第十二に、
大智徳勇健(大智徳勇健にして)
化度無量衆(無量の衆を化度せり)
今此諸大会(今此の諸の大会)
及我皆已見(及び我皆已に見つ)
演暢実相義(実相の義を演暢し)
開闡一乗法(一乗の法を開闡して)
広導諸群生(広く諸の群生を導いて)
令速成菩提(速かに菩提を成ぜしむ)
とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/5/12.htm)ように、
一乗経、
一乗妙典、
という(大言海)。
法華一乗(ほっけいちじょう)、
とは、
法華経に説かれる一乗の教え、
をいい、
一乗には、声聞(しょうもん)・縁覚(えんが)くの二乗および菩薩(ぼさつ)を加えた三乗(声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょう)・菩薩乗(ぼさつじょう))の実践法がいずれも融合されているということ、
をいう(デジタル大辞泉)。
一仏乗(いちぶつじょう)、
仏乗(ぶつじょう)、
ともいう。法華経を中心に置く天台宗で特に強調するが、
法華一乗、
の他、
華厳一乗、
本願一乗、
等々とも用いられる(精選版日本国語大辞典)。
一乗、
とは、つまり、
仏の真実の教えは一つであり、すべての衆生が平等に仏になれると説く教え、
であるのに対して、
声聞・縁覚・菩薩のそれぞれに、固有な三種の覚りへの道があるとするのが、
三乗、
である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E4%B9%97)。上述のように、
天台宗、
や、また、
華厳宗、
では、
一乗が真実であり三乗は方便である、
と主張したが、
法相宗、
では、
三乗真実・一乗方便、
と主張した(仝上)とある。この場合、
一乗、
と、
三乗、
の中の、
菩薩乗、
が同一か否かという点でも見解が分かれる(仝上)とある。
「声聞」で触れたように、
声聞(しょうもん)、
縁覚(えんがく)、
菩薩(ぼだい)、
は、
三乗、
とされる。「声聞」は、
梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、
の訳語、
声を聞くもの、
の意で、
弟子、
とも訳し(精選版日本国語大辞典)、
釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、
であるのに対し、「縁覚」(えんがく)は、
梵語pratyeka-buddhaの訳語、
で、
各自にさとった者、
の意、
独覚(どっかく)、
とも訳し、
辟支仏(びゃくしぶつ)
ともいい(辟支はpratyeka の略音写、仏はbuddha の音訳)、
仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、
をいう(仝上・日本大百科全書)。「菩薩」は、
サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、
の音訳、
菩提薩埵(ぼだいさった)、
の省略語であり、
bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、
より、
悟りを求める人、
の意であり、元来は、
釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、
をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。
部派仏教(小乗仏教)では、
菩薩はつねに単数で示され、成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、
だけを意味する。そして他の修行者は、
釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。「阿羅漢」とは、
サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、
で、
尊敬を受けるに値する者、
の意。
究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、
をいう。部派仏教では、
仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、
をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、
無学(むがく)、
ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教の立場からは、
個人的な解脱を目的とする者、
とみなされ、
声聞を独覚(縁覚)と並べて、この2つを二乗・小乗として貶している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。ちなみに、「乗」とは、
「乗」は乗物
の意で、
世のすべてのものを救って、悟りにと運んでいく教え、
を指し、「三乗」とは、
悟りに至るに3種の方法、
をいい、
声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、
の三つをいう(仝上)。大乗仏教では、
菩薩、
を、
修行を経た未来に仏になる者、
の意で用いている。
悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、
また、仏の後継者としての、
観世音、
彌勒、
地蔵、
等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、
小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、
とされた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E8%81%9E)。だから、
一乗、
と
三乗、
の中の、
菩薩乗、
が、同じなのかどうかが、問題になるのではある。なお、
四乗(しじょう)、
という場合、
声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩乗・仏乗、
をいい(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%B9%97)、
五乗(ごじょう)、
という場合、
仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、
あるいは、
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗(人乗)、天上乗(天乗)、
の五種の教法の総称をいう(精選版日本国語大辞典)。宗派によって異なるらしいが、天台宗の教学では、人間の心の境涯を、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏、
の十の世界(十界)に分け、
声聞と縁覚、
を小乗の教法として、
二乗、
と呼び、
菩薩・仏、
の大乗の教法と分け、
声聞・縁覚・菩薩、
を、
三乗、
人間界から菩薩界までを、
五乗、
と呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97)とある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月11日
阿私仙
達多五逆の悪人と、名には負へどもまことには、釋迦の法華経ならひける、阿私(あし)仙人これぞかし(梁塵秘抄)、
の、
阿私仙人、
は、
阿私陀(あしだ)、
とも、
阿私、
とも、
阿私仙、
とも、
阿斯陀、
とも表記する、梵語、
Asita、
の音写、
古代インドの聖仙。釈尊誕生の時にその相好を拝し、出家すれば大慈悲の聖師となり、王となれば転輪王となると予言した仙人、
とされ、また、
釈迦が前世で法華経を聞くために仕えたという仙人、
でもある。いずれも、
法華経提婆達多品、
による(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。妙法蓮華経提婆達多品(だいばだったぼん)第十二に、
時有阿私仙(時に阿私仙あり)
来白於大王(来って大王に白さく)
我有微妙法(我微妙の法を有てり)
世間所希有(世間に希有なる所なり)
若能修行者(若し能く修行せば)
吾当為汝説(吾当に汝が為に説くべし)
とあり(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/5/12.htm)、提婆達多品は、
提婆達多や龍女の成仏を説くことにより、法華経の中でも功徳の勝れた一章として重視されている、
とある(精選版日本国語大辞典)。冒頭、
達多五逆の悪、
とあるのは、
提婆達多、
を指す。
提婆達多品、
の由来は、前段が、
提婆達多と釈尊を中心人物として説かれている、
から(http://www.hokkeshu.jp/hokkeshu/2_20.html)とある。前段で、
悪人提婆達多の成仏、
を記し、後段で、
畜身竜女の成仏、
を説いて、法華経の功徳力の大なることを証明している(仝上)とある。
「法華経五の巻」で触れたように、
「五の巻」は、
第五の巻(だいごのまき)、
五巻(ごのまき)、
とも表記し、この巻には、
悪逆な提婆達多(だいばだった)の成仏の予言や八歳の龍女が成仏することを説いて、法華経の広大な功徳を讚える提婆品、
が収められ(精選版日本国語大辞典)、この「提婆品(だいばぼん)」は、
悪人成仏、
女人成仏、
の根拠となる(岩波古語辞典)ので、
わづかに請じ寄せ給し法師してもよみ講せさせ給し提婆品、最勝王経、ここにして日々にかの御ためによません(宇津保物語970~999頃)」)、
などと、
特に重視され、法華八講などには第五巻を講ずる日は、
五巻日(ごかんのひ)、
といって薪行道(たきぎのぎょうどう)が行なわれる(精選版日本国語大辞典)とある。この日は、
法華八講では3日目、
三十講では13日目、
にあたり、悪人成仏、女人成仏を説く提婆品(だいばぼん)が講説され、特別な供養が行われる(デジタル大辞泉)。
(『法華経』主要部を抜粋した『法華経要品(ようほん)』目次 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8Cより)
提婆達多(だいばだった、梵語Devadatta、デーヴァダッタ、略称:提婆、音写:調達、訳:天授)、
は、
釈迦仏の弟子で、後に違背したとされる人物、
である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%90%E5%A9%86%E9%81%94%E5%A4%9A)。
釈迦の弟子の一人、
で、釈迦の従兄弟に当たるといわれ、多聞第一で有名な、
阿難の兄、
または、
耶輸陀羅(釈迦の后)の兄弟、
とする説が一般的とある(仝上)。彼は、
分派して新しい教団をつくった、とされる。
現在の仏教学においては疑問視されているらしいが、『増一阿含経』で、
提婆達多は三逆罪を犯した後、自身の爪に毒を塗り釈迦を殺さんとするも、地中から炎の暴風が巻き起こり巻き込まれる。この刹那に提婆達多は悔いて「南無仏」と言おうとしたが焼き尽くされ、地獄の最下層である阿鼻地獄へと堕ちていった。彼は現在、賢劫中は阿鼻地獄に堕しているが、その後四天王に生まれ、幾度か転生を繰り返し天界を次第に昇り、最後に人間界に戻ってくる
とある(仝上)。
(釈迦の命令をうけた目連が、地獄で提婆達多を救う図(葛飾北斎『釈迦御一代記図会』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%90%E5%A9%86%E9%81%94%E5%A4%9Aより)
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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月12日
二人の佛
霊山界の大空に、寶塔(ほうたう)扉(とばそ)を押し開き、二人の佛を一たびに、喜び拝み奉る(梁塵秘抄)、
の、
霊山界(りょうぜんかい)
とあるのは、
霊山会(りょうぜんえ)、
ともいい、
霊山会上にして即身成仏せし龍女(日蓮遺文・「祈祷鈔(1272)」)、
と、
霊鷲山(りょうじゅせん)の集会、
の意で、
釈尊がしばしば説法された霊鷲山(りょうじゅせん)の会座(えざ)、
をいい、
法華経が説かれたところ、
である(精選版日本国語大辞典)。
「霊鷲山」(りょうじゅせん)は、梵語、
グリドラクータ(Gŗdhrakūţa)、
の音写、
「耆闍崛山」(きじゃくっせん)、
ともいい、
釈尊が『大経』や『法華経』を説かれた山、
として有名である(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%9C%8A%E5%B1%B1%E4%BC%9A%E4%B8%8A)。
二人の佛、
とあるのは、妙法蓮華経見宝塔品第十一に、
此宝塔中 有如来全身(此の宝塔の中に如来の全身います)
乃往過去(乃往過去に)
東方無量千万億 阿僧祇世界(東方の無量千万億阿僧祇の世界に)
国名宝浄(国を宝浄と名く)
彼中有仏(彼の中に仏います)
号曰多宝(号を多宝という)
其仏本行菩薩道時(其の仏本菩薩の道を行ぜし時)
作大誓願(大誓願を作したまわく)
若我成仏 滅度之後(若し我成仏して滅度の後)
於十方国土 有説法華経処(十方の国土に於て法華経を説く処あらば)
我之塔廟 為聴是経故(我が塔廟是の経を聴かんが為の故に)
涌現其前(其の前に涌現して)
為作証明(為に証明と作って)
讃言善哉(讃めて善哉といわん)
とあり(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/4/11.htm)、
多宝佛、
と、
釈迦牟尼、
を、
二仏並坐、
といい、これ指すと思われる。その先に、
爾時多宝仏(爾の時に多宝仏)
於宝塔中(宝塔に中に於て)
分半座与 釈迦牟尼仏(半座を分ち釈迦牟尼仏に与えて)
而作是言(是の言をなしたまわく)
釈迦牟尼仏 可就此座(釈迦牟尼仏此の座に就きたもうべし)
即時釈迦牟尼仏 入其塔中(即時に釈迦牟尼仏其の塔中に入り)
坐其半座 結跏趺坐(其の半座に坐して結跏趺坐したもう)
とある(仝上)。さらに、
若我宝塔(若し我が宝塔)
為聴法華経故 出於諸仏前時(法華経聴かんが為の故に諸仏の前に出でん時)
其有欲以我身 示四衆者(其れ我が身を以て四衆に示さんと欲することあらば)
彼仏分身諸仏 在於十方世界説法(彼の仏の分身の諸仏十方世界に在して説法したもうを)、
尽還集一処(尽く一処に還し集めて)
然後我身 乃出現耳(然して後に我が身乃ち出現せんのみ)
大楽説(菩薩) 我分身諸仏 在於十方世界 説法者(大楽説、我が分身の諸仏十方世界に在って説法する者を)
今於当集(今当に集むべし)、
とあり(仝上)、
十方諸仏 皆悉来集(十方の諸仏皆悉く来集して)
坐於八方(八方に坐したもう)
爾時一一方 四百万億 那由他国土(爾の時に一一方の四百万億那由他の国土に)
諸仏如来[]満其中(諸仏如来其の中に遍満したまえり)、
とある、
釈迦、
多宝如来、
十方分身(釈迦の分身の諸仏)、
の一堂に会するを、
三仏(さんぶつ)の来集、
というらしい(https://www.nichiren.or.jp/hokekyo/id25/)。
(池上本門寺宝塔 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%A1%94より)
多宝塔(たほうとう)、
とは、
仏塔の一種、
で、
円筒状の塔身に宝形(ほうぎょう)の屋根をのせた宝塔の周囲に裳層(もこし)をつけた形式の建物、
をいう(日本大百科全書)。裳層内部に円形の塔身部が認められるものは、
大塔(だいとう)ともいう(仝上)らしい。平安時代に密教が最澄・空海によって伝えられてから出現した建築である(仝上)。
多宝塔、
の名の由来は、
多宝如来を安置した塔。釈迦が法華経を説いたとき、空中に七宝の塔が現われ、塔中の多宝仏が釈迦を讚嘆して半座を分けたと説かれることに基づいて作られた、
とする説(精選版日本国語大辞典)と、
重層宝塔から、
とする説(日本大百科全書)があるようだ(仝上)。
(多宝塔 精選版日本国語大辞典より)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月13日
忍辱衣
慈悲の御室(みむろ)に住みながら、忍辱衣(にんにくころも)を身にかけて、忍辱衣は色深く、慈悲の室(むろ)には風吹かず、諸空法を御(み)座として、人には教え持(たも)たしむ(梁塵秘抄)、
の、
忍辱衣、
は、
忍辱の衣、
忍辱慈悲の衣、
忍辱の鎧、
ともいい、
忍辱衣(え)、
とも訓まし、
忍辱の心はいっさいの害難を防ぐというところから、忍辱の心を身を護る衣にたとえていう、
とあり、それを、
袈裟、
にたとえて、
忍辱の袈裟(にんにくのけさ)
ともいい、のち、転じて、
袈裟、
をもいうようになる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。
忍辱、
は、
菩薩の六種の修行、
をいう、
六波羅蜜(ろくはらみつ)、
の一つ、
六波羅蜜の第三、
で、
外からの種々の侮辱や迫害を耐えしのんで心を動かさないこと
をいい、
忍辱波羅蜜、
という(仝上)。「波羅蜜」は、「禅定」で触れたように、サンスクリット語、
パーラミター pāramitā、
の音写、
六波羅蜜(ろくはらみつ)、
は、
大乗仏教の求道者が実践すべき六種の完全な徳目、
をいい、即ち、
布施波羅蜜(施しという完全な徳)、
持戒波羅蜜(戒律を守るという完全な徳)、
忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ 忍耐という完全な徳)、
精進波羅蜜(努力を行うという完全な徳)、
禅定波羅蜜(精神統一という完全な徳)、
般若波羅蜜(仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳)、
を指し、
般若波羅蜜、
が、
他の波羅蜜のよりどころとなるもの、
とされる(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)とある。
妙法蓮華経法師品第十に、
若人説此経(若し人此の経を説かば)
応入如来室(如来の室に入り)
著於如来衣(如来の衣を著)
而坐如来座(而も如来の座に坐して)
処衆無畏所(衆に処して畏るる所なく)
広為分別説(広く為に分別し説くべし)
大慈悲為室(大慈悲を室とし)
柔和忍辱衣(柔和忍辱を衣とし)
諸法空為座(諸法空を座とす)
処此為説法(此れに処して為に法を説け)
若説此経時(若し此の経を説かん時)
有人悪口罵(人あって悪口し罵り)
加刀杖瓦石(刀杖瓦石を加うとも)
念仏故応忍(仏を念ずるが故に忍ぶべし)
とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/4/10.htm)、
柔和忍辱衣(え)、
は、
衣座室(えざしつ)の三軌(さんき)、
とあり(http://okigaruni01.okoshi-yasu.com/yougo%20kaisetu/nyuwa-ninnikue/01.html)、衣座室の三軌は、
釈尊が薬王菩薩に釈尊滅後(めつご)に法華経を弘通(ぐずう)するための三種の心得(こころえ)を説いたもの
で、
弘経(ぐきょう)の三軌、
ともいう(仝上)とある。
衣座室(えざしつ)、
とは、
如来の滅後、法師が『法華経』を弘通するために守るべき、大慈悲心・柔和忍辱の心・一切法の空という三種の規則を、仏衣・仏座・仏室の比喩に寄せたもの、
とあり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A1%A3%E5%BA%A7%E5%AE%A4)、
衣座室の三軌、
衣座室の三誡、
弘経の三軌、
ともいう(仝上)とある。『法華経』法師品では、衣・座・室の三軌を、
薬王
若善男子 善女人(若し善男子・善女人あって)。
如来滅後 欲為四衆 説是法華経者(如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば)
云何応説(云何してか説くべき)
是善男子 善女人(是の善男子・善女人は)、
入如来室 著如来衣 坐如来座(如来の室に入り如来の衣を著如来の座に坐して)
爾乃応為四衆 広説斯経(爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし)
如来室者 一切衆生中 慈悲心是(如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり)
如来衣者 柔和忍辱心是(如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり)
如来座者 一切法空是(如来の座とは一切法空是れなり)
安住是中(是の中に安住して)
然後以不懈怠心(然して後に不懈怠の心を以て)
為諸菩薩 及四衆(諸の菩薩及び四衆の為に)
広説是法華経(広く是の法華経を説くべし)
と(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/4/10.htm)、
如来の室に入り、
如来の衣を著し、
如来の座に坐して、
としている。上述引用の「梁塵秘抄」の、
慈悲の御室(みむろ)、
は、これを指していると思われる。智顗(ちぎ)は、法師品に、
受持。読誦。解説。書写。妙法華経。乃至一偈。於此経巻。敬視如仏、
とあるのを受けて、法華経を、読誦と書写すれば、
これ外行にして即ち如来の衣、
法華経を、受持すれば、
これ内行にして即ち如来の座、
法華経を解説して他を益すれば、
これ如来の室なり、
と記し(法華文句)、三軌を、『法華経』法師品にいう
五種法師(五種類の修行を行う者。受持・読・誦・解説(げせつ)・書写の五種)、
に対応させて解釈した(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%A1%A3%E5%BA%A7%E5%AE%A4)とある。なお、薬王については、「浄蔵浄眼」で触れた。
また、
法華経を行ふ人は皆、忍辱鎧(にんにくよろひ)を身に着つつ、露の命を愛せずして、蓮(はちす)の上にのぼるべし(梁塵秘抄)、
と、
忍辱鎧、
という言い方もあるが、
忍辱の心がいっさいの害難を防ぐというところから、忍辱の心を身を護る鎧にたとえていう、
もので、
忍辱の衣、
と同義、転じて、
袈裟、
のことをいうのも同じ(精選版日本国語大辞典)。妙法蓮華経勧持品第十三に、
我等敬仏故(我等仏を敬うが故に)
悉忍是諸悪(悉く是の諸悪を忍ばん)
謂斯所軽言(斯れに軽しめて)
汝等皆是仏(汝等は皆是れ仏なりと謂われん)
如此軽慢言(此の如き軽慢の言を)
皆当忍受之(皆当に忍んで之を受くべし)
濁劫悪世中(濁劫悪世の中には)
多有諸恐怖(多くの諸の恐怖あらん)
悪鬼入其身(悪鬼其の身に入って)
罵詈毀辱我(我を罵詈毀辱せん)
我等敬信仏(我等仏を敬信して)
当著忍辱鎧(当に忍辱の鎧を著るべし)
為説是経故(是の経を説かんが為の故に)
忍此諸難事(此の諸の難事を忍ばん)
我不愛身命(我身命を愛せず)
但惜無上道(但無上道を惜む)
我等於来世(我等来世に於て)
護持仏所嘱(仏の所嘱を護持せん)
世尊自当知(世尊自ら当に知しめすべし)
濁世悪比丘(濁世の悪比丘は)
不知仏方便 随宜所説法(仏の方便 随宜所説の法を知らず)
悪口而顰蹙 数数見擯出(悪口して・蹙し 数数擯出せられ)
遠離於塔寺(塔寺を遠離せん)
如是等衆悪(是の如き等の衆悪をも)
念仏告勅故(仏の告勅を念うが故に)
皆当忍是事(皆当に是の事を忍べし)
とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/5/13.htm)。
「忍」(漢音ジン、呉音ニン)は、「しのぶもじずり」で触れたように、
会意兼形声。刃(ニン・ジン)は、刀の刃のある方を、ヽ印で示した指示文字で、粘り強くきたえた刀の刃。忍は「心+音符刃」で、粘り強くこらえる心、
とあり(漢字源)、「忍耐」「堅忍不抜」と、「つらいことをねばり強くもちこたえる」意の「しのぶ」の意や、「有不忍人之心」(人に忍びざる之心有り)など、堪える意の「しのぶ」の意で、
人に目立たないようにする、
意の「しのぶ」の意は、わが国だけの用例である。当然「忍者」「忍術」という意味も、本来ない。
「辱」(漢音ジョク、呉音ノク・ニク)は、
会意文字。「辰(柔らかい貝の肉)+寸(手、動詞の記号)」で、強さをくじいて、ぐったりと柔らかくさせること、
とある(漢字源)が、別に、
会意。「辰(除草に用いる石器)」+「又(石器を持つ手)」、農地を除草する様子。「除草する」「たがやす」を意味する漢語{耨 /*nooks/}を表す字。のち仮借して「はじる」「はずかしめる」を意味する漢語{辱 /*nok/}に用いる、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%BE%B1)、また、
会意。辰(大きな貝がら。農具として用いる)と、寸(手)とから成り、貝がらで草をかる意を表す。「耨(ドウ、ジヨク)」の原字。借りて「はずかしめ」の意に用いる、
ともある(角川新字源)。同趣旨だが、
会意文字です(辰+寸)。「2枚貝が殻から足を出している」象形(「たつ」の意味だが、ここでは、「大きなはまぐりのからで作られた草かりの道具」の意味)と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形(「手」の意味)から、草刈り具で草を刈るの意味を表し、そこから、「芽生えをつみとる」、「はずかしめる(恥をかかせる)」を意味する「辱」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1687.html)。
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年10月14日
知的遊戯
与謝蕪村(玉城司訳注)『蕪村句集』を読む。
蕪村の発句 約2850句のうち千句を選んだもの。
芭蕉の、
田一枚植ゑて立ち去る柳かな(奥の細道)、
にゆかりのの遊行柳は、西行の、
道のべに清水流るゝ柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ(新古今集)、
からきているが、その場所を50年後訪ねて、
柳散(ちり)清水涸れ石処々(ところどころ)
と、蕪村は詠んだ。この、良くも悪くも、
けれんみ、
が身上にに見える。もうひとつ、
しら梅のかれ木に戻る月夜哉
寝た人に眠る人あり春の雨
熊谷も夕日まばゆき雲雀哉
帰る雁有楽の筆の余り哉
等々のように、何といったらいいか、
理屈っぽい、
というか、
観念的というか、
これも、特徴に見える。ま、いくつか選んだのは、
おし鳥に美をつくしてや冬木立
老武者と大根(だいこ)あなどる若菜哉
みじか夜や六里の松に更(ふけ)たらず
とかくして一把(いちは)に折(をり)ぬ女郎花(をみなへし)
秋かぜのうごかして行(ゆく)案山子(かがし)哉
一雨(ひとあめ)の一升泣やほとゝぎす
夏河(なつかは)を越すうれしさよ手に草履(ざうり)
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
きぬきせぬ家中(かちゅう)ゆゝしき衣更(ころもがへ)
狩ぎぬの袖の裏這ふほたる哉
手すさびの団画(うちはゑがか)ん草の汁
大粒な雨はいのりの奇特(きどく)哉
秋来ぬと合点させたる嚔(くさめ)かな
稲妻や波もてゆへる秋津しま
月天心貧しき町を通りけり
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
遠近(をちこち)おちこちと打つきぬた哉
火桶(ひをけ)炭団(たどん)を喰(くらふ)事夜ごとにひとつづゝ
凩や広野にどうと吹起る
大鼾(おほいびき)そしれば動く生海鼠(なまこ)かな
足袋はいて寝る夜物うき夢見哉
極楽のちか道いくつ寒念仏
寝ごゝろやいづちともなく春は来ぬ
雛見世(ひなみせ)の灯(ひ)を引くころや春の雨
牡丹散(ちり)て打(うち)かさなりぬ二三片
蚊屋の内にほたるはなしてア丶楽や
欠ケ欠ケて月もなくなる夜寒哉
草枯て狐の飛脚通りけり
みどり子の頭巾眉深(まぶか)きいとおしみ
寒梅やほくちにうつる二三輪
いなづまや二折(ふたをれ)三折(みをれ)剣沢(つるぎざわ)
蓑笠之助殿(みのかさのすけどの)の田の案山子(かがし)哉
鷺ぬれて鶴に日の照時雨哉
らうそくの泪(なみだ)氷るや夜の鶴
出る杭(くひ)を打うとしたりや柳哉
喰ふて寝て牛にならばや桃の花
うすぎぬに君が朧(おぼろ)や峨眉の月
明やすき夜や稲妻の鞘走り
学問は尻からぬけるほたる哉
みのむしのぶらと世にふる時雨哉
みのむしの得たりかしこし初しぐれ
古傘の婆裟(ばさ)と月夜のしぐれ哉
なの花や月は東に日は西に
夕風や水青鷺の脛をうつ
霜百里舟中(しうちゆう)に我(われ)月を領ス
居眠(いねぶ)りて我にかくれん冬ごもり
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
さし汐に雨のほそ江のほたる哉
暮まだき星のかゝやくかれの哉
こもり居て雨うたがふや蝸牛(かたつぶり)
方(ほう)百里雨雲(あまぐも)よせぬぼたむ哉
涼しさや鐘をはなるゝかねの声
脱すてゝ我ゆかしさよ薄羽折
百日紅(さるすべり)やゝちりがての小町寺
松明(まつ)消(きえ)て海少し見(みゆ)る花野かな
人は何に化(ばく)るかもしらじ秋のくれ
破(わ)レぬべき年も有(あり)しを古火桶(ふるひをけ)
蒲公(たんぽぽ)のわすれ花有(あり)路(みち)の霜
絶々(たえだえ)の雲しのびずよ初しぐれ
虹を吐(はひ)てひらかんとする牡丹哉
きのふ暮けふ又くれてゆく春や
摑(つか)みとりて心の闇(やみ)のほたる哉
春雨や暮なんとしてけふも有(あり)
雲を呑で花を吐(はく)なるよしの山
後の月鴫(しぎ)たつあとの水の中
山暮れて紅葉の朱(あけ)を奪ひけり
いさゝかな価(おひめ)乞はれぬ暮の秋
箱を出る皃(かお)わすれめや雛二対
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
帰る雁田ごとの月の曇る夜に
色も香もうしろ姿や弥生尽
己が身の闇より吼(ほえ)て夜半の秋
朝皃(あさがお)にうすきゆかりの木槿(むくげ)哉
蕭条(せうでう)として石に日の入(いる)枯野かな
寒月や鋸岩(のこぎりいは)のあからさま
等々だが、蕪村の句は、確かに、一方で、
稲妻や波もてゆへる秋津しま
雲の峰に肘する酒呑童子かな
というように、スケールが大きいか、
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
栗飯や根来法師の五器折敷(をしき)
いもが子は鰒喰ふほどと成にけり
といった歴史的背景、歴物語風、あるいは、
梨の園に人彳めり宵の月
熊野路や三日の粮(かて)の今年米(ことしまい)
ふく汁の君よ我等よ子期(しき)伯牙(はくが)
宿老の紙子の肩や朱陳村(しゆちんそん)
木(こ)の下が蹄(ひずめ)のかぜや散さくら
温公(をんこう)の岩越す音や落し水
と、中国の典籍、古典をバックにした句が目立つ。一種、
知的遊び、
といった高尚趣味があり、悪くすると、
既得し鯨や迯(にげ)て月ひとり、
宿かせと刀投出す雪吹哉
兀山(はげやま)や何にかくれてきじの声
春雨にぬれつゝ屋根の毬(てまり)哉
春雨や人住ミてけぶり壁を洩(も)る
島原の草履(ざうり)にちかき小蝶(こてふ)哉
伏勢(ふせぜい)の錣(しひろ)にとまる胡蝶(こてふ)哉
みじか夜や毛むしの上に露の玉
秋風におくれて吹や秋の風
戸に犬の寝がへる音や冬籠
物書いて鴨に換けり夜の雪
御手打の夫婦(めうと)なりしを更衣
雪舟の不二雪信(ゆきのぶ)が佐野いづれ歟(か)寒き
飯盗む狐追うつ麦の秋
名月や神泉苑の魚躍る
と、
作為的、
だったり、
不二ひとつうづみのこして若葉哉
閻王の口や牡丹を吐んとす
みじか夜や地蔵を切て戻りけり
見うしなふ鵜の出所や鼻の先
時鳥(ほととぎす)柩(ひつぎ)をつかむ雲間より
狐火や髑髏に雨のたまる夜に
ところてん逆(さか)しまに銀河三千尺
と、
虚仮縅(こけおど)し的、
だったり、
変化すむやしき貰ふて冬籠
売喰(うりぐひ)の調度のこりて冬ごもり
はるさめや綱が袂(たもと)に小でうちん(提灯)
瓜小家の月にやおはす隠君子
雪信が蠅打払硯かな
夕顔や行燈(あんど)さげたる君は誰
石に詩を題して過る枯野哉
西行は死そこなふて袷かな
と、
衒学的、
な感じがして、俳句には素人だが、俳句を、
知的操作、
知的遊戯、
の道具としているように感じ、個人的には、あまり好きになれなかった。蕪村自身、句評で、
「春雨や椿の花の落る音」という句を「あまた聞たる趣向也(常套的な趣向)」と批判、
したというから、
ありきたり、
を嫌い、どうしても、
さくら狩美人の腹や減却す、
というような、
奇を衒う、
形にならざるを得ないのかもしれないが。
こうした印象を裏付けるかのように、蕪村は、俳諧とは、
俗語を用いて俗を離るゝを尚ぶ、
といい、その捷径を、
多く書を読めば則書巻之気上升し、市俗の気下降す… それ画の俗を去だも筆を投じて書を読しむ、
という。つまり、
漢詩を多読して俗気を去り、其角・嵐雪・素堂・鬼貫に親しみ、俗世を離れた林園や山水に遊び、酒を酌み交わして談笑し、不用意に詠むことで、オリジナルな句を得ることができる、
と(編者解説)。だから、
衒学的、
と感じてしまうのではないか。
参考文献;
与謝蕪村(玉城司訳注)『蕪村句集』(角川ソフィア文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月15日
弘誓
忍辱衣を身に着れば、戒香(かいかう)涼しく身に匂ひ、弘誓瓔珞(やうらく)かけつれば、五智の光ぞ輝ける(梁塵秘抄)、
の、
弘誓(ぐぜい)、
は、
弘大の誓願、
の意(大言海)、
で、
「ぐ」は「弘」の呉音、
になる(精選版日本国語大辞典)。
佛の、あらゆる衆生を済はむとの誓、
の意(仝上)で、「妙法蓮華経」観世音菩薩普門品第二十五に、
弘誓深如海(弘誓の深きこと海の如し)
歴劫不思議(劫を歴とも思議せじ)
侍多千億仏(多千億の仏に侍えて)
発大清浄願(大清浄の願を発せり)
と(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/8/25.htm)、
其誓の深廣なるを、海に譬へて、
弘誓の海、
または、
ちかひのうみ、
と云ひ、
衆生をして、生死の苦海を渡りて、涅槃の彼岸に到らしむるを、
弘誓の船、
または、
ちかひのふね、
という(大言海)。また、
衆生の為の故に、弘誓の鎧を被きて、徳本を積累し、一切を度脱し(無量寿経・二十二願)、
と、
弘誓の堅固なことを鎧、
にたとえて、
弘誓(ぐぜい)の鎧、
また、
弘誓の広大で衆生をもれなく救うことを網、
にたとえて、
弘誓(ぐぜい)の網、
などともいう(広辞苑)。
仏菩薩のひろく衆生を済度して仏果を得させようとする広大な誓願、
をいう、
弘誓、
には、
すべての仏や菩薩が共通して持っている四個の誓願、
四弘誓願(しぐぜいがん・しぐうぜいがん・しくせいがん)、
があり、
四弘誓、
四弘願行、
四弘行願、
四弘願、
四弘、
ともいう、
衆生無辺誓願度(誓ってすべての人を悟らせようという願い)
煩悩無量誓願断(誓ってすべての迷いを断とうという願い)
法門無尽誓願学(誓願知 誓って仏の教えをすべて学び知ろうという願い)
仏道無上誓願成(誓ってこのうえない悟りにいたろうという願い)
があり(精選版日本国語大辞典・ブリタニカ国際大百科事典)、さらに、浄土宗・真宗では、
阿弥陀仏が、因位であった法蔵菩薩としての修行中に、世自在王仏により二百一十億の諸仏国土を見せられ、その中からとくに勝れたものを選び取って建てた四八の誓願、
六八(ろくはち)の弘誓(ぐぜい)、
ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98)、
阿弥陀の四十八願、
特に、
設我得仏
十方衆生
至心信楽
欲生我国
乃至十念
若不生者
不取正覚
唯除五逆
誹謗正法
とある(大無量寿経)、
第十八願、
至心信楽の願(衆生を浄土へ往生させて、さとりを得させようと誓う)、
という、
念仏往生、
をさす(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98・大辞林)ことが多いとされる。
普賢菩薩は、
十大誓願、
を立て、
一切の菩薩の行願の旗幟、
とされ(デジタル大辞泉)、
應修十種廣大行願。何等爲十。一者禮敬諸佛。二者稱讃如來。三者廣修供養。四者懺悔業障。五者隨喜功徳。六者請轉法輪。七者請佛住世。八者常隨佛學。九者恒順衆生。十者普皆迴向。
とあり、十種の広大の行願を、
一には、諸仏を礼敬す、
二には如来を称讃す、
三には広く供養を修す、
四には業障を懺悔す、
五には功徳に随喜す、
六には転法輪を請す、
七には仏住世を請う、
八には常に仏の学に随う、
九には衆生に恒に順ず、
十には普くみな廻向す、
とある(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%99%AE%E8%B3%A2%E3%81%AE%E9%A1%98)。
また、「観音勢至」で触れたように、
観音菩薩、
は、
法華経「観世音菩薩普門品」(観音経)に、
衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ、
とある(観音経・普門品偈文)ように、観世音菩薩(観音菩薩)が、衆生済度のために相手に応じて化身するという、
三十三種の異形(いぎょう)、
すなわち、
辟支仏(びゃくしぶつ)・声聞(しょうもん)・梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天・小王・長者・居士(こじ)・宰官(さいかん)・婆羅門(ばらもん)・比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男・童女・天・龍・夜叉・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩睺羅迦(まごらか)・執金剛、
をいう(精選版日本国語大辞典)。それを、
三十三観音、
といい、西国三十三所の観音霊場はその例になるが、その形の異なるに従い、
千手(せんじゅ)、十一面、如意輪(にょいりん)、准胝(じゅんてい)、馬頭(ばとう)、聖(しょう)、
を、
六観音、
不空羂索(ふくうけんさく・ふくうけんじゃく)、
を含めて、
七観音、
というなど様々の異称がある(マイペディア)。また、薬師如来にも、
十二の本願(誓願・大願)、
があり、即ち、
自身の光明照耀(こうみょうしょうよう)に依って、一切衆生をして三十二相八十随形(ずいぎょう)を具せしむるの願(衆生をことごとく薬師如来のごとくにすること)、
衆生の意に随うて光明を以て種々の事業を成弁せしむること(迷いの衆生をすべて開暁(かいぎょう)させること)、
衆生をして欠乏を感ぜしめず、無尽の受用を得せしむること(衆生の欲するものを得させること)、
邪道を行ずる者を誘引して皆な菩提道に入らしめ、大乗の悟りを開かしむること(衆生をすべて大乗に安立させること)、
衆生をして梵行を修して清浄なることを得、決して悪趣に堕せしめざること(三聚戒(さんじゅかい)を備えさせること)、
六根具足して醜陋(しゅうろう)ならず、身相端正(しんそうたんせい)にして諸の病苦なからしむること(いっさいの障害者に諸根を完具させること)、
諸病悉除(いっさいの衆生の病を除くこと)、
女(にょ)を転じて男(なん)と成し、丈夫の相を具して成仏せしむること(転女成男(てんにょじょうなん)させること)、
外道の邪見に捕らえられて居る者を正見に復(ふく)せしめ、無上菩提を得せしむること(正しい見解を備えさせること)、
もろもろの災難(さいなん)刑罰(けいばつ)を免れしめ、一切の憂苦を解脱せしむること(獄にある衆生を解脱(げだつ)させること)、
飢渇(きかつ)に悩まされ、食を求むる者には、飯食(ばんじき)を飽満せしめ、又、法味(ほうみ)を授けて安楽を得せしむること(飢渇(きかつ)の衆生に上食を得させること)、
所求満足の誓いで、衆生の欲するに任せて衣服珍宝等一切の宝荘厳(ほうしょうごん)を得せしめんとすること(衣服に事欠く衆生に妙衣を得させること)、
であり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5・日本大百科全書)、
薬師如来の名号を聞いて仏教に帰依し、薬師経を受持する者や読誦する者を守護し、願いを遂げさせるという12の大将、
宮毘羅(くびら)、
伐折羅(ばさら)、
迷企羅(めいきら)、
安底羅(あんちら)、
摩儞羅(まにら)、
珊底羅(さんちら)、
因陀羅(いんだら)、
婆夷羅(ばいら)、
摩虎羅(まこら)、
真達羅(しんだら)、
招杜羅(しょうとら)、
毘羯羅(びから)
が、いずれも憤怒形で12の大願に順応して現れるという(日本大百科全書)。
なお、「瓔珞」については触れた。
「弘」(漢音こう、呉音グ)は、
会意兼形声。厶(コウ)は、ひじをひろく張り出したさま。肱(コウ)の原字。弘は「弓+音符厶」で、弓をじゅうぶんに張ることを示す、
とある(漢字源)。別に、
形声。弓と、音符厷(コウ 厶は省略形)とから成る。弦を張るために弓を大きく反らせる意を表す。ひいて、おおきい意に用いる、
とも(角川新字源)、
形声。音符「弓 /*WƏNG/」+羨符「口」(区別のための記号)。仮借して「ひろい」を意味する漢語{ひろい /*wəəng/}を表す字、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BC%98)、
形声文字です(弓+ム)。「弓」の象形と「小さく取り囲む」象形(「私有する・わたくし」の意味だが、ここでは、「宏(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「宏」と同じ意味を持つようになって)、「ひろい」の意味、または、「弓を強くはじいた時の擬声語」)から、弓の音響が広まる事を意味し、そこから、「ひろい」、「ひろまる」を意味する「弘」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1649.html)。
「誓」(漢音セイ、呉音ゼ、慣用ゼイ)は、
会意兼形声。「言+音符折(きっぱりとおる)」。きっぱりと言い切ること、
とある(漢字源)。別に、
形声。言と、音符折(セツ→セイ)とから成る。とりきめのことば、「ちかい」の意を表す、
とも(漢字源)、
会意兼形声文字です(折+言)。「ばらばらになった草・木の象形と曲がった柄の先に刃をつけた手斧の象形」(「斧で草・木をばらばらにする」の意味だが、ここでは、「明らかにする」の意味)と「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)から、神や人前で明らかにした言葉「約束」、「ちかい」を意味する「誓」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1814.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月16日
阿弥陀仏
親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかて念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめて荒涼(無遠慮)のことなり(歎異抄)、
とある、
彌陀、
は、
阿弥陀仏、
阿弥陀、
の意で、
阿弥陀如来、
無量光仏、
無量寿仏、
ともいい、
弥陀、
弥陀如来、
弥陀善逝(ぜんぜい)、
とも略称されるが、
阿彌陀、
は、梵語
Amitāyus(アミターユス)、
あるいは
Amitābha(アミターバ 阿彌陀婆)
の略、
Amita、
の音訳、阿は、
無の義、
彌陀は、
量の義、
とあり(大言海・日本国語大辞典)、
アミターバ(阿彌陀婆)、
は、
量はかりしれない光を持つ者、
アミターユス、
は、
量りしれない寿命を持つ者、
の意で(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5)、
Amitābha、
は、
無量光、
と漢訳、
Amitāyus、
は、
無量寿、
と漢訳される(仝上・大辞林・広辞苑)。翻訳名義集(南宋代の梵漢辞典)に、
清浄平等覚經、翻無量清浄佛、無量寿経、翻無量寿佛、称讃浄土経、世尊名無量寿、及無量光、
とあり、
壽は、寿命にて、體徳に就きて云ひ、光は、光明にて、徳用に就きて云ふ、
とある(大言海)。
阿弥陀仏、
は、
極楽化主(けしゅ)、
とも呼ばれ、
従是西方過十万億佛土有世界、名曰極楽、其土有佛、號阿彌陀、……彼佛、光明無量、照十方國(仏説阿弥陀経)、
と、
西方極楽浄土を建て、そこに住する他方仏、
つまり、
西方極楽浄土の教主、
であり、
浄土宗、浄土真宗など浄土教諸宗において本尊とされる仏、
である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F)。
(阿弥陀仏 広辞苑より)
(木造阿弥陀如来坐像 (平等院・鳳凰堂) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5より)
浄土教系の仏教、
とは、
阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く大乗仏教の一派、
であり、
浄土門、
浄土思想、
ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99)。「薬師如来」で触れたように、
阿弥陀如来の西方極楽浄土、
に対して、東方にあるのが、
薬師如来の東方浄瑠璃浄土、
になる。
阿彌陀、
は、法蔵菩薩として修行していた過去久遠の昔、衆生救済のため、
四十八願、
を発し、成就して、
阿弥陀仏、
なった(広辞苑)という。その、
第十八願、
は、
念仏を修する衆生は極楽浄土に往生できる、
と説く(仝上)が、「弘誓」で触れたように、
阿弥陀の四十八願、
特に、
設我得仏
十方衆生
至心信楽
欲生我国
乃至十念
若不生者
不取正覚
唯除五逆
誹謗正法
とある(大無量寿経)、
第十八願、
至心信楽の願(衆生を浄土へ往生させて、さとりを得させようと誓う)、
で(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98・大辞林)、
自力で成仏できない人も、念仏を唱えればその救済力によって、極楽に往生する、
いわゆる、
念仏往生
を説き(大辞林)、平安中期、源信の「往生要集」の前後から、この仏の信仰が流行し、
浄土宗・浄土真宗の本尊、
となった(仝上)。
(阿弥陀三尊(三千院) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%83%E9%99%A2より)
阿弥陀仏、
は、
脇士として、
観世音菩薩、
勢至菩薩、
を従え(http://ppnetwork.seesaa.net/article/500452968.html)、
阿弥陀三尊、
と呼ばれる。
(絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(京都国立博物館) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5より)
また、
九品の定印、
をもち、
九体仏、
四十九仏、
などの造像が行なわれた(精選版日本国語大辞典)。
九品印(くほんいん)、
とは、
九品の印相、
をいう。「九品往生」で触れたように、
九品往生(くほんおうじよう)、
とは、
阿弥陀如来の住む極楽浄土に生れたいと願う者の9段階(九品)の往生の仕方、
をいい(ブリタニカ国際大百科事典)、
九品浄土に往生しようと願って念仏すること、
を、
九品念仏(くほんねんぶつ)、
その、往生する者の機根に応じて九等の差別がある浄土を、
十方仏土の中には西方を以て望とす九品蓮台の間には下品といふとも足んぬべし(和漢朗詠集)、
と、
九品浄土、
あるいは、
九品安養界(あんにょうかい)、
九品の浄刹(じょうせつ)、
阿弥陀の西方浄土、
極楽浄土、
ともいい、その極楽浄土にある往生した者が座す蓮の台(うてな)、
を、
九品蓮台(くほんれんだい)、
という。それも、生前の功徳によって九等の差別があるので、
九品のうてな。
九品の蓮(はちす)、
といい、
阿弥陀仏が九品ごとに異なる来迎をするさまを描いた仏画、
の、印相の異なる9体の阿弥陀如来像を、
九品来迎図(くほんらいごうず)、
という。その阿弥陀仏を、九品浄土の教主という意味で、
九品の教主(くほんのきょうしゅ)、
という(広辞苑)。たとえば、上品上生の阿弥陀仏は、
両掌を上に向けて重ね、両手の親指と人差指の先端をつけた印をなし、これを妙観察智印、弥陀の定印、
をとる(ブリタニカ国際大百科事典)とある。阿弥陀二十五菩薩については「来迎引接(らいごういんじょう)」触れた。
(銅造阿弥陀如来坐像(高徳院・鎌倉大仏) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5より)
阿弥陀仏の本願、
といわれる、
四十八願(しじゅうはちがん)、
は、「弘誓」でも少し触れたが、
因位であった法蔵菩薩としての修行中に、世自在王仏により二百一十億の諸仏国土を見せられ、その中からとくに勝れたものを選び取って建てた四八の誓願、
をいい、
六八(ろくはち)の弘誓(ぐぜい)、
ともいう(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98)が、本願の数は、
『無量寿経』では四八、
『大阿弥陀経』『平等覚経』では二十四願、
『無量寿如来会』では四十八願、
『無量寿荘厳経』では三十六願、
梵文では四十七願、
蔵訳では四十九願、
必ずしも同一ではない(仝上)。浄土宗では、四十八願を、次のように解釈している。
①無三悪趣(むさんなくしゅ)
②不更悪趣(ふきょうあくしゅ)
③悉皆金色(しっかいこんじき)
④無有好醜(むうこうしゅう)
⑤宿命智通(しゅくみょうちつう)
⑥天眼智通()てんげんちつう
⑦天耳智通(てんにちつう)
⑧他心智通(たしんちつう)
⑨神境智通(じんきょうちつう)
⑩速得漏尽(そくとくろじん)
⑪住正定聚(じゅうしょうじょうじゅ)
⑫光明無量(こうみょうむりょう)
⑬寿命無量(じゅみょうむりょう)
⑭声聞無数(しょうもんむしゅ)
⑮眷属長寿(けんぞくちょうじゅ)
⑯無諸不善(むしょふぜん)
⑰諸仏称揚(しょぶつしょうよう)
⑱念仏往生(ねんぶつおうじょう)
⑲来迎引接(らいこういんじょう)
⑳係念定生(けねんじょうしょう)
㉑三十二相(さんじゅうにそう)
㉒必至補処(ひっしふしょ)
㉓供養諸仏(くようしょぶつ)
㉔供具如意(くぐにょい)
㉕説一切智(せついっさいち)
㉖那羅延身(ならえんじん)
㉗所須厳浄(しょしゅごんじょう)
㉘見道場樹(けんどうじょうじゅ)
㉙得弁才智(とくべんざいち)
㉚智弁無窮(ちべんむぐう)
㉛国土清浄(こくどしょうじょう)
㉜国土厳飾(こくどごんじき)
㉝触光柔軟(そっこうにゅうなん)
㉞聞名得忍(もんみょうとくにん)
㉟女人往生(にょにんおうじょう)
㊱常修梵行(じょうしゅうぼんぎょう)
㊲人天致敬(にんでんちきょう)
㊳衣服随念(えぶくずいねん)
㊴受楽無染(じゅらくむぜん)
㊵見諸仏土(けんしょぶつど)
㊶諸根具足(しょこんぐそく)
㊷住定供仏(じゅうじょうくぶつ)
㊸生尊貴家(しょうそんきけ)
㊹具足徳本(ぐそくとくほん)
㊺住定見仏(じゅうじょうけんぶつ)
㊻随意聞法(ずいいもんぼう)
㊼得不退転(とくふたいてん)
㊽得三法忍(とくさんぼうにん)
この十八番目の
往生念仏の願、
あるいは、
至心信楽(ししんしんぎょう)の願、
とも、
念仏往生の願、
選択本願、
本願三心の願、
至心信楽の願、
往相信心の願、
などともいうが、
衆生を浄土へ往生させて、さとりを得させようと誓う、
第十八願である。浄土教は、
この第十八願を基底とし立脚し、さとりをめざす仏教、
である(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E9%A1%98)。親鸞は、これへの「信」を、
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願(「至心」「心楽」「欲生」)と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し、
いっている(仝上)とか。
ところで、
阿彌陀、
に絡んだ言葉は多種多様で、特に近世以降は、阿彌陀仏の絵や像にある放射状の光背から、さまざまな意を派生した(精選版日本国語大辞典)。
阿弥陀笠、
は、
阿弥陀像の光背(こうはい)を負うように、笠をうしろ下がりにあおむけぎみにかぶること、また、その笠、
をいう。
笠の内側の骨が仏像の光背の形に見えることからいう
とある(大辞林)。そういう、
帽子などを後頭部に傾けてかぶる、
被り方を、
阿弥陀被り、
ともいう(仝上)。
阿弥陀籤、
は、
籤の線の引き方が、阿弥陀の光背に似て放射状であった、
のにより、
人数分引いた線の一端に金額を記して籤とし、各自が引き当てた額の銭を出し、菓子を買ったり飲食したりなどするもの、
だが、近年は、
平行線に梯子はしご状の横線を書き加えたものが普通、
になっている。
あみだ、
あみだのひかり(阿弥陀の光)
くものすごこう、
などともいう(広辞苑)。
阿弥陀号、
は、
阿号、
ともいい、
鎌倉時代以降、浄土宗各派や時宗の僧・信者の法号の一種で、下部に「阿弥陀仏」やその略である「阿弥陀」「阿弥」「阿」を含むもの。仏師・画工・能役者の名にも使われ、中世に特に多くみられる。頓阿・世阿弥など、
をいう(デジタル大辞泉)。
阿弥陀割(あみだわり)、
は、
道路の配置を阿弥陀の後光に似せて、中心点から放射状に配する地割りの方法、
阿弥陀聖(あみだひじり)、
は、平安中期の、
空也くうやの俗称、
だが、
平安末期から鎌倉時代にかけて、空也にならって皮衣をつけて鹿角の杖をつき、金鼓こんくを叩きながら阿弥陀の名号を唱えて民衆を勧化して遊行した法師、
また、
踊念仏の信徒、
広くは、
念仏行者の称、
としても使われた(広辞苑)。
あみだの光も金次第、
というと、
阿弥陀も寄進した金の多寡で利益(りやく)を与える、
意で、
すべての事は金次第で決まる、
ということで、
阿弥陀も銭(ぜに)ほど光る、
ともいい、
地獄の沙汰も金次第、
と同義になる(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月17日
三身礼(さんじんらい)
阿彌陀佛については触れたが、そこで、浄土系でいわれる、
三身礼(さんじんらい)、
が、
日常勤行式の中で「総仏偈」の前に称える「三身礼」、
とか(http://www.hounen.jp/blog-h3.html)、
日常勤行式の三宝礼と対応させたようなお経ですが、三法礼は「仏法僧」を敬うのに対し、三身礼は阿弥陀様の三種類のお姿を敬うお経です、
とか(https://seigan-ji.jp)、
「三唱礼」は抑揚(節)をつけて阿弥陀さまの名をおとなえし、「三身礼」は阿弥陀さまの大きな三つの特徴を讃えます、
とか(https://jodo.or.jp/newspaper/special/6569/)、
「総願偈」の次に唱える文で、この偈文の代わりに「三唱礼」または「三帰礼」のいずれかを唱えることもある、
とか(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%BA%AB%E7%A4%BC)、
まさに「三身礼」に説くごとく、(阿弥陀如来は)本願成就・光明摂取・来迎引摂の仏ということになる、
とか(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F)と、よく出てくるので気になったので、調べてみた。
三身礼、
は、
阿弥陀仏の三つの功徳を讃歎して帰依する文、
とされ(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%BA%AB%E7%A4%BC)、
南無西方極楽世界本願成就身阿弥陀(なむさいほうごくらくせかいほんがんじょうじゅしんあみだぶ)
南無西方極楽世界光明摂取身阿弥陀仏(なむさいほうごくらくせかいこうみょうせっしゅしんあみだぶつ)
南無西方極楽世界来迎引接身阿弥陀仏(なむさいほうごくらくせかいらいこういんじょうしんあみだ)
と、
本願成就、
光明摂取、
来迎引摂、
に集約される、
阿弥陀仏の三つの徳身、
を五体投地(ごたいとうじ 初めに両膝、つぎに両肘を地につけて、合掌して頭を地につけるというの五体を地に投げ出して行う最敬礼)して敬礼する文、
とある(仝上)。
出典不明、
とされる(仝上・https://seigan-ji.jp/)が、四十八願のなかで、とくに、
第十八念仏往生願・第十二光明無量願・第十九来迎引接願、
を成就した阿弥陀仏を帰依する文、
とある(仝上)。それは、阿弥陀仏が、
四十八願(本願)を建てて修行を積み、その本願を成就して悟りを得た酬因感果の報身の仏で、今も極楽にあって、衆生(特に凡夫)を救おうと常に光明を発しており、臨終には自ら来迎引摂(らいこういんじょう)する、そのような仏と理解する、
ゆえとある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F)。
三身礼、
は、
総願偈、
の次に唱える文で、この偈文の代わりに「三唱礼」または「三帰礼」のいずれかを唱えることもある、
とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E8%BA%AB%E7%A4%BC)ように、関西ではお念仏3度ずつを3回節をつけて称える、
三唱礼、
を用いることが多いが、関東では、
3度にそれぞれの意味を表す、
三身礼、
称える(http://www.hounen.jp/blog-h3.htm)とある。
ちなみに、
三唱礼、
とは、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
と(https://jodo.or.jp/newspaper/special/6569/)、
阿弥陀の名をとなえるものである。
三帰礼(さんきらい)、
は、
仏法僧に帰依する功徳を往生極楽へ振り向ける、
偈文で、善導『往生礼讃』により、
帰仏得菩提(きぶっとくぼだい)
道心恒不退(どうしんごうふたい)
願共諸衆生(がんぐしょしゅじょう)
回願往生(えがんおうじょう)
無量寿国(むりょうじゅこく)
帰法薩婆若(きほうさはにゃ)
得大総持門(とくだいそうじもん)
願共諸衆生(がんぐしょしゅじょう)
回願往生(えがんおうじょう)
無量寿国(むりょうじゅこく)
帰僧息諍論(きそうそくじょうろん)
同入和合海(どうにゅうわごうかい)
願共諸衆生(がんぐしょしゅじょう)
回願往生(えがんおうじょう)
無量寿国(むりょうじゅこく)
とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%B8%B0%E7%A4%BC)。
悟りを得た仏に帰依し仏道を進める心が退かないように、一切を知る智慧の法に帰依し、悪を抑え、善を勧める大いなる法門を得、論争をやめた僧に帰依し和合する、その功徳を振り向けてもろともに極楽へ往生せん、
との意(仝上)で、
三唱礼、
あるいは、
三身礼、
の代用偈文として用いられる(仝上)とある。
三身礼、
の次に唱える、
送仏偈(そうぶつげ)、
は、
奉請した仏をその本国へ送る偈文で、勤行・法要等で最後に唱える、
偈文で、
請仏随縁還本国(しょうぶつずいえんげんぽんごく)
普散香華心送仏(ふさんこうけしんそうぶつ)
願仏慈心遥護念(がんぶつじしんようごねん)
同生相勧尽須来(どうしょうそうかんじんしゅらい)
は、
香を焚き、華を撒いて仏を送り、本国に還られた後も大悲の心で遥かに護念したまえと願い、またすでに浄土に往生した人も、勧め来たりて護念せよと念じる、
との意味(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%80%81%E4%BB%8F%E5%81%88)で、善導(中国浄土教の僧。「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した)『法事讃』によるとされる(仝上)。最後に、
五体投地(ごたいとうじ・ごたいとうち)、
がなされる場合もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%81%E4%BB%8F%E5%81%88)とある。
三身礼、
の前に唱えられる、
総願偈(そうがんげ)、
は、
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無辺誓願断(ぼんのうむへんせいがんだん)
法門無尽誓願知(ほうもんむじんせいがんち)
無上菩提誓願証(むじょうぼだいせいがんしょう)
自他法界同利益(じたほうかいどうりやく)
共生極楽成仏道(ぐしょうごくらくじょうぶつどう)
という偈文で、源信『往生要集』により、
菩薩の度・断・知・証の四つの誓願を立て、自分と衆生と共に極楽に生まれ、この四弘誓願を成就しようと願う、
意とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E7%B7%8F%E9%A1%98%E5%81%88)。
三宝礼(さんぼうらい)、
は、
一心敬礼十方法界常住仏(いっしんきょうらいじっぽうほうかいじょうじゅうぶ)
一心敬礼十方法界常住法(ほう)
一心敬礼十方法界常住僧(そう)、
と、
仏・法・僧の三宝を心から敬い礼拝する文、
である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E7%A4%BC)。遵式(じゅんしき)『往生浄土懺願儀(さんがんぎ)』による。
勤行式などでは「香偈」の次に唱える文で上品礼をし、三宝帰依を表明する。心を一つにして敬って、あらゆる世界にまします仏(仏の教え、仏の教えを持たもつ僧)に礼拝します、
の意とある(仝上)。
(絹本著色山越阿弥陀図 (京都・禅林寺) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5より)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月18日
五智
忍辱衣(ころも)を身に着れば、戒香(かいこう)涼しく身に匂ひ、弘誓(ぐぜい)瓔珞(やうらく)かけつれば、五智の光ぞ輝ける(梁塵秘抄)、
の、
五智(ごち)、
は、密教で、
大日如来の智を五種に分けて説いたもの、
をいい、大日の智の総体の、
法界体性(ほっかいたいしょう)智(法界の本性を明らかにする智慧 宇宙に存在するすべての智慧)、
と、
大円鏡智(大円鏡のようにあらゆるものを顕現する智慧 鏡のようにすべてのものを本当の照し出す智慧)、
平等性智(すべての事象と自他の平等を観ずる智慧 すべてのものが平等であることを知る智慧)、
妙観察智(すべての事象の差別相を正しく観ずる智慧 すべての真実を正しく認識する智慧)、
成所作(じょうしょさ)智(自他のために為すべきことを成就する智慧 すべてのものを完成させる智慧)、
の、
四智をいう(ブリタニカ国際大百科事典・http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E6%99%BA)。浄土教では、
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智、
の五つを、
阿弥陀仏、
の智とする(仝上)。密教では、この五智を、
五大(地・水・火・風・空)
と
金剛界の五智如来(大日・阿閦(あしゅく)・宝生・阿弥陀・不空成就)
に配し(仝上)、
五智如来(五大如来)、
あるいは、
五智五佛、
として(大言海)、
五体の如来にあてはめ、
法界体性智 大日如来(だいにちにょらい)
大円鏡智 阿閦如来(あしゅくにょらい 薬師如来と同一視される)
平等性智 宝生如来(ほうしょうにょらい)
妙観察智 観自在王如来(かんじざいおうにょらい 阿弥陀如来と同一視される)
成所作智 不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい 釈迦如来と同一視される)
としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%99%BA%E5%A6%82%E6%9D%A5)。
大日如来、
が、
智慧そのものであり、他の仏は大日如来の智慧の一部を取り出したもの
で、この、
五智、
は、
存在するすべての智慧を5種類に分類したもの、
ともある(https://note.com/hotokudo/n/n313452de0709)。
(五智如来像(和歌山・金剛三昧院多宝塔) 中央は大日如来、向かって右手前は不空成就如来。以下時計回りに、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%99%BA%E5%A6%82%E6%9D%A5より)
大日如来の戴く冠は、五角形にて、五方面に、五仏の像あり、これを、五智の宝冠、又、五仏の宝冠と云ふ、是れは、大日如来の五智、五仏の総体なることを表示するなりと云ふ、
とある(大言海)。なお、
戒香(かいこう)、
は、
戒律を堅く守る功徳が広まることを香の匂いが広まることに例えたもの、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%92%E9%A6%99)、
未来生処、聞上妙香、常以戒香、為身瓔珞(「往生要集(984~85)」)、
と、
持戒の人の徳を、芳香のかおるのにたとえていう語、
あるいは、
忍辱(にんにく)の衣を著きつれば、戒香匂ひにしみ薫かほりて(栄花物語)、
と、
持戒の人の徳が四方に影響することを、芳香の遠くまで香ることにたとえていう語、
とも使われるが、中国語では、
仏戒の功徳のたとえ、
とあるので、原意は、前者のようである。
「持戒」は、
持律、
ともいい、
仏教の戒律を堅く守ること、
である(精選版日本国語大辞典)。
智慧によって欲望を制御して、悪を行わないように自覚的に実践すること、
である(ブリタニカ国際大百科事典)。「四衆」で触れたように、世俗人が実践すべき戒としては、
不殺生、
不邪淫、
不偸盗、
不妄語、
不飲酒、
の、
五戒、
があるが、出家者(比丘、比丘尼)は、『四分律』で、
男性の修行者は250戒、女性は348戒、
あるとされる(精選版日本国語大辞典)。ただ、「戒」は、
サンスクリット語のシーラśīla、
の訳語で、
自ら心に誓って順守する、
徳目であるとされる(日本大百科全書)が、「シーラ」は、
習慣性、
を意味し、
自分にとって良い習慣を身につける、
というのが持戒の意味(https://www.nichiren.or.jp/glossary/id57/)とある。これによって悟りの彼岸に至ることを、
持戒波羅蜜、
という(百科事典マイペディア)とある。
六波羅蜜、
のひとつである。「六波羅蜜」については、「禅定」で触れたが、
波羅蜜(はらみつ)、
は、
サンスクリット語のパーラミター pāramitāの音写、
で、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」は、
大乗仏教の求道者が実践すべき六種の完全な徳目、
布施波羅蜜(施しという完全な徳)、
持戒波羅蜜(戒律を守るという完全な徳)、
忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ 忍耐という完全な徳)、
精進波羅蜜(努力を行うという完全な徳)、
禅定波羅蜜(精神統一という完全な徳)、
般若波羅蜜(仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳)、
を指し、般若波羅蜜は、他の波羅蜜のよりどころとなるもの、とされる(仝上)。
持戒の対語が、
破戒、
である。その、
持戒の人の徳が四方に影響することを、香の遠く匂うのにたとえた、
のが、
戒香(かいこう)、
である(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。
ところで、焼香の時に唱える偈文(げもん)に、華厳経の、
戒香定香解脱香(かいこうじょうこうげだっこう)、
光明雲台遍法界(こうみょううんたいへんほっかい)
供養十方無量仏
供養十方無量法
供養十方無量僧
見聞普薫証寂滅(けんもんふくんしょうじゃくめつ)
がある(https://kougetsuin.com/blog/%E3%81%8A%E9%A6%99/6368)。このお香も、
戒定慧(かいじょうえ)香
と、
仏教修行の三学
にたとえている(仝上)、とある。この辺りも、「香」に、喩えとしての意味がありそうである。ちなみに、
三学(さんがく、
は、「禅定」で触れたように、
仏道修行者が修すべき三つの基本的な道、
つまり、
戒学(戒学は戒律を護持すること)、
定学(精神を集中して心を散乱させないこと)、
慧学(煩悩を離れ真実を知る智慧を獲得するように努めること)
をいう。この戒、定、慧の三学は互いに補い合って修すべきものであるとし、
戒あれば慧あり、慧あれば戒あり、
などという(仝上・ブリタニカ国際大百科事典)。この三学が、大乗仏教では、基本的実践道である六波羅蜜に発展する。なお、浄土宗では、「日常勤行式」は、
願我身淨如香炉(がんがしんじょうにょこうろ)
願我心如智慧火(がんがじんにょちえか)
念念焚焼戒定香(ねんねんぼんじょうかいじょうこう)
供養十方三世仏(くようじっぽうさんぜぶ)
という、
香偈、
という偈文(げもん)で始まる(http://www13.plala.or.jp/houkaiji/kouge.html)とされ、
私はこの体が、香炉のように浄らかであることを願います。私はこの心が、あらゆる煩悩を焼き尽くす(仏の)智慧の火のようであることを願います。私は一瞬一瞬の想いの中で、仏弟子として守るべき戒と求めるべき心の静寂という香を、(私の体という香炉の中で静かに)焚き上げ(実践し)、あらゆる世界の、あらゆるみ仏に供養を捧げます、
との意(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E9%A6%99%E5%81%88)で、ここでも、
香、
は、象徴的な意味を対している。ちなみに、
定香(じょうこう)、
は、
事の善し悪しや好き嫌いという感情によって動揺する心をなくすこと、
をいう(http://www13.plala.or.jp/houkaiji/kouge.html)らしい。
(金剛界大日如来像(ホノルル美術館蔵) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5より)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月19日
情と景の格闘
正岡子規(高浜虚子編)『子規句集』を読む。
本書は、
明治十八年~三十四年
の間の、
寒山落木(巻一~巻五)、
俳句稿(巻一~巻二)、
の七冊から、編者の高浜虚子が、
凡そ二万句足らずある中から見るものの便をはかって、二千三百六句を選んだ、
ものである。ただ、現在は、
判明している子規の俳句は二万三千を越す、
という(坪内稔典「解説」)。
個人的な好みだけで、以下、
梅雨晴やところどころに蟻の道
朝顔にわれ恙(つつが)なきあした哉
山〻は萌黄浅黄やほとゝぎす
涼しさや行燈(あんどん)消えて水の音
死はいやぞ其きさらぎの二日灸
さらさらと竹に音あり夜の雪
猫老て鼠もとらず置火燵(おきごたつ)
手をちゞめ足をちゞめて冬籠
埋火(うずみび)の夢やはかなき事許り
人もなし野中の杭(くい)の凧(いかのぼり)
故郷(ふるさと)やどちらを見ても山笑ふ
鶯の覚束なくも初音哉
雉鳴くや庭の中なる東山
白魚や椀の中にも角田川
ひらひらと風に流れて蝶一つ
蛤(はまぐり)の荷よりこぼるゝうしほ哉
くたびれを養ひかぬる暑さかな
猶熱し骨と皮とになりてさへ
つり橋に乱れて涼し雨のあし
経の声はるかにすゞし杉木立
山を出てはじめて高し雲の峰
命には何事もなし秋のくれ
木の末に遠くの花火開きけり
稲妻に人見かけたる野道哉
夕月のおもて過行(すぎゆく)しぐれ哉
大木の雲に聳ゆる枯野哉
行く人の霞(かすみ)になつてしまひけり
大桜只一もとのさかり哉
向きあふて何を二つの案山子(かがし)哉
名月の波に浮ぶや大八洲(おおやしま)
しぐるゝや雞頭黒く菊白し
冬木立五重の塔の聳えけり
春の夜のそこ行くは誰(た)そ行くは誰 そ
雉鳴くや雲裂けて山あらはるゝ
山吹の花の雫やよべの雨
横雲に夏の夜あける入江哉
世の中の重荷おろして昼寐哉
御仏(ほとけ)も扉をあけて涼みかな
夕暮の小雨に似たり水すまし
蝸牛(ででむし)や雨雲さそふ角(つの)のさき
うつむいて何を思案の百合の花
撫子(なでしこ)に蝶〻白し誰の魂(たま)
行く秋をしぐれかけたり法隆寺
月暗し一筋白き海の上
すごすごと月さし上る野分哉
二つ三つ木の実の落つる音淋し
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
道の辺や荊(いばら)がくれに野菊咲く
切売の西瓜くふなり市の月
稲の秋命拾ふて戻りけり
牛蒡肥えて鎮守の祭近よりぬ
菊の香や月夜ながらに冬に入る
大木のすつくと高し冬の門
雪ながら山紫の夕かな
湖や渺〻(びょうびょう)として鳰(にお)一つ
帰り咲く八重の桜や法隆寺
朝顔の一輪咲きし熱さかな
人すがる屋根も浮巣(うきす)のたぐひ哉
藻の花に鷺彳(たたず)んで昼永し
長き夜や千年の後を考へる
竹竿のさきに夕日の蜻蛉(とんぼ)かな
何ともな芒がもとの吾亦香(われもこう)
蠟燭の泪を流す寒さ哉
夕烏一羽おくれてしぐれけり
一筋の夕日に蟬の飛んで行
静かさに雪積りけり三四尺
めでたさも一茶位や雑煮餅
我病んで花の発句もなかりけり
琵琶一曲月は鴨居に隠れけり
蘭の花我に鄙吝(ひりん)の心あり
結びおきて結ぶの神は旅立ちぬ
初曾我(はつそが)や団十菊五左団小団
春雨や裏戸明け来る傘は誰
和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男
鐘の音の輪をなして来る夜長哉
と、75句を選んでみた。「鶏頭論争」だの「写生」観だのがあるようだが、ただストレートに写生した、
鶏頭の十四五本もありぬべし
という句がいいとは思えない。
撫子(なでしこ)に蝶〻白し誰の魂(たま)
琵琶一曲月は鴨居に隠れけり
など、情景と心情との葛藤というか格闘が面白い。
参考文献;
正岡子規(高浜虚子編)『子規句集』(岩波文庫Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年10月20日
大日如来
もし大日如来をうちたてまつれる人をば蓮花の座にすゑて讚む(「観智院本三宝絵(984)」)、
とある、
大日如来(だいにちにょらい)、
は、「五智」でも触れたが、梵語、
Mahāvairocana、
の音写は、
摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)、
と音写し、
梵音、毘盧遮那者、是日之別名、即除暗遍明之義也(大日経疏)、
と、
大日、
は、その訳、
大遍照、
大日遍照、
遍一切処、
遍照(へんじょう)王如来、
などとも漢訳、
摩訶毘盧遮那如来、
大光明遍照(だいこうみょうへんじょう)、
とも呼ばれる(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)。
その光明が遍(あまね)く照らす、
ところから、
遍照(へんじょう)
または、
大日、
という(広辞苑)。大日とは、
「偉大な輝くもの」(サンスクリット語マハーバイローチャナMahāvairocana)、
の訳、つまり、元は、
太陽の光照のことであったが、のちに、
宇宙の根本の仏、
の呼称となった(日本大百科全書)とある。この意味は、真言密教では、
法界、いわゆる森羅万象あるいは全宇宙は、六大(地・水・火・風・空という物質的要素と、識という本源的な精神的要素)を本体、
と考え、この六大が法身大日如来を象徴するという。つまり、
森羅万象・全宇宙に遍満し、森羅万象・全宇宙は大日如来の活動の顕現、
であり、大日如来そのもののありよう(自性法身)とする。さらに大日如来には、
法(ダルマ)を法として受け止めるありよう(自受用法身)と、また他にそれを受け取らせようとするありようがあり、
阿閦(あしゅく)・宝生(ほうしょう)・弥陀・不空成就の四仏、あるいは他の仏・菩薩、
として顕現するありよう(他受用法身)があり、さらに変化(へんげ)法身、等流(とうる)法身というありようから、
いかなる他者にも対応した姿をとって顕現する、
という。こうした点において大日如来は、
仏・菩薩をはじめ教化者すべてを包括する総体、
とも言われる(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)からにほかならない。
大日経(『大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)』)・金剛頂経((こんごうちょうぎょう、こんごうちょうきょう)の中心尊格、
で、日本密教では、
両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)、
の主尊とされ、さらには虚空にあまねく存在するという真言密教の教主とされ、
「万物の慈母」とされる汎神論的な仏、
で(広辞苑)、
声字実相を突き詰めると全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出している、
とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)、
大日経系の胎蔵界、
と、
金剛頂経系の金剛界、
との二種の像がある(広辞苑)。
(胎蔵界大日如来 広辞苑より)
(金剛界大日如来 広辞苑より)
大日如来の「智」の面を表したのが、
金剛界の大日如来、
「理」の面を表したのが、
胎蔵界の大日如来、
とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)。金剛界の大日如来は、
智拳印を結んで周囲に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四仏、
を置き(金剛界五仏)、胎蔵界の大日如来は、
中台八葉院の中央に位して法界定印を結ぶ(仝上)。つまり、金剛界大日は、
胸の前にあげた左拳の人差し指をのばし、右の拳をもって握る「智拳印(ちけんいん)」、
を結び、胎蔵大日は、
膝上で左の掌を仰けておき、その上に右の掌をかさね左右の親指の先を合わせ支える「法界定印」、
を結ぶ(https://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/nyorai/dainichi.html)形となる。いずれも、
宝蓮華座上、
にすわる(精選版日本国語大辞典)。
この両部曼荼羅に描かれている大日如来の姿は、
釈迦如来や阿弥陀如来のような出家の姿の、
如来形(にょらいぎょう)、
ではなく、うず高く髪を結(ゆ)うなど、
菩薩形((ぼさつぎょう))、
の姿をしているのが特徴となる(https://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/nyorai/dainichi.html)。
(金剛界曼荼羅 仝上)
この、
菩薩形の姿である大日如来、
は、宇宙の神格化とも考えられる密教観から、宇宙の真理そのものを現す絶対的中心の本尊として王者の姿をされている、
といわれ、その姿は帝王にふさわしく、
五仏を現した宝冠(ほうかん)をつけ、菩薩よりもさらにきらびやかな装身具を身にまとい、背に負う光背は円く大きなもので日輪を表し、諸仏諸尊を統一する最高の地位を象徴するにふさわしい威厳のある姿、
となっている(仝上)。密教においては、
一切の諸仏菩薩の本地、
とされ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)、神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされている(仝上)とある。なお、
東密(空海を開祖とする真言宗)では、顕教の釈迦如来と大日を別体としているが、台密(最澄を開祖とする天台宗)では同体としている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5)。
密教においては大日如来と同一視される、
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、
は、梵語、
Vairocana(ヴァイローチャナ)、
の音訳、
で、
光明遍照(こうみょうへんじょう)、
を意味し(大言海)、
毘盧舎那仏、
とも表記され、略して、
盧遮那仏(るしゃなぶつ)、
遮那仏(しゃなぶつ)、
とも表され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F)、華厳経において、
中心的な存在として扱われる尊格、
である。
法身如來名毘盧、此翻徧一切處、報身如来名盧遮那、此翻淨満、応身如来名釈迦(法華文句會本)、
境妙究竟顯名毘盧舎那、智妙究竟満名盧遮那、行妙究竟満名釈迦牟尼(法華玄義)、
と、天台宗においては、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を、
法身仏、
とし、
遍一切處、
と訳す。盧遮那仏(るしゃなぶつ)を、
報身仏、
とし、
浄満、
と訳す、而して、釋迦を、
応身仏、
とす(大言海)とある。これは、「三身仏性」で触れたように、大乗仏教で、
真如そのものである法身(ホツシン)、
修行をして成仏した報身(ホウジン)、
人々の前に出現してくる応身(オウジン)、
の総称(大辞林)を、
三仏身、
三身仏、
ともいい、
仏の一体に具備する所を、三相に別ちて云ふ、
とあり(大言海)、
法身、
とは、
真如(一切存在の真実のすがた。この世界の普遍的な真理)の理解、如来(仏の尊称。「かくの如く行ける人」、すなわち修行を完成し、悟りを開いた人)自證の妙理にして、諸法の本体、萬法の所依となる仏身、
なり、
報身、
とは、
福徳、智慧の勝因に酬報して、佛の感得する相好円満なる色身、
なり、
応身、
とは、
衆生の機類(根機(機根とも 仏の教化を受けるとき発動することができる能力または資質)に隨応して、三業(さんごう 身業・口業(くごう)・意業)の化用を施す化身、
なり(仝上)とある。『撮壌集(さつじようしゆう)』(飯尾永祥(享徳三(1454)年)に、佛名について、
毘盧遮那仏、法身、廬舎那仏、報身、釈迦牟尼仏、応身、
とある。
しかし、『華厳経』では、
毘盧遮那者日也、如世閒之日、能除一切暗冥、而生一切万物、成一切衆生事業、今法身如来亦復如是、故以為喩也(大日経疏)、
毘盧遮那、此翻最高顯廣眼蔵、毘者最高顯也、盧遮那者廣眼也、先有、翻為徧照王如来、又有翻大日如来(即身成仏義冠註)、
と、
毘盧遮那、
盧遮那、
を、梵名
Vairocana(ヴァイローチャナ)、
の具略とし、
報身仏、
の称号として、
光明遍照、
略して、
遍照、
或いは、
最高顯廣眼蔵、
と訳す(大言海)とある。
仏身論の上では諸宗によって、法相宗では、毘盧遮那と盧舎那を区別し、、
毘盧遮那を自性身(じしょうしん)とみなし、盧舎那を受用身とし、また変化身(へんげしん)としての釈迦を立てる、
天台宗では、
毘盧遮那を法身とみなし、盧舎那を報身、釈迦を応身とするが、究極的には毘盧遮那に帰着するとする、
華厳宗では、
毘盧遮那を十身具足の身とし、三身を立てないで、毘盧遮那も盧舎那も釈迦も同一仏身の異称とする、
のに対し、前述したように、密教では、
法身とみなし、大日如来に同じとする、
等々、解釈を異にしてしいる(精選版日本国語大辞典)。
大日如来と毘盧遮那如来の関係について、
大日如来、
は、思想史的には『華厳経(けごんきょう)』の、
毘盧遮那如来、
が大日如来に昇格したものと推定される(日本大百科全書)とあり、
毘盧遮那如来、
が、経中で終始沈黙しているのに対し、
大日如来、
は教主であるとともに説主でもある。普通、仏の悟りそのものの境地は法身(ほっしん)といわれ、法身は色も形もないから説法もしないとされる。けれども大日如来は法身であるにもかかわらず説法し、その説法の内容が真言(語)、印契(いんげい 身)、曼荼羅(まんだら 意)である。法身大日如来がこのような身・語・意の様相において現れているのが、
三密加持、
であり、これが秘密といわれるのは、この境地は凡夫(ぼんぶ)はもちろんのこと十地(じゅうじ 菩薩(ぼさつ)修行の段階を52に分け、そのなかの第41から第50位をいう)の菩薩もうかがい知ることができないからであるとされる(仝上)。しかし真言行者は瑜伽観行(ゆがかんぎょう)によってこの生においてこの境地に至るとされ、これは大日如来と一体になることを意味する(仝上)。ゆえに、
大日如来は究極の仏でありながら衆生(しゅじょう)のうちに内在する、
とされる(仝上)。
胎蔵界(たいぞうかい)
と、
金剛界(こんごうかい)
は、前者は、『大日経(だいにちきょう)』、後者は、『金剛頂経』(こんごうちょうぎょう、こんごうちょうきょう)の説く仏の世界で、
「胎蔵界」の胎蔵とは梵語
garbha-kośa
の漢訳で、
一切を含蔵する意義を有し、また母胎中に男女の諸子を守り育てる意義、
があり(ブリタニカ国際大百科事典)、
大悲胎蔵生、
ともいい、
仏の菩提ぼだい心が一切を包み育成することを、母胎にたとえ(デジタル大辞泉)、
胎児が母胎の中で成育してゆく不思議な力にたとえて、大日如来の菩提心があらゆる生成の可能性を蔵していることを示したもの、
とされ(精選版日本国語大辞典)、
大日如来の理性の面、
をいい、
蓮華、
によって表象する(デジタル大辞泉)。それを図示したのが、
胎蔵界曼荼羅(詳しくは大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)曼荼羅Mahākaru ágarbha-sabhava-maala)、
で、
大日如来の一切の衆生に対する慈悲(大悲)によって、その悟りの内奥(胎蔵)から生起した(生)諸仏・諸尊の世界で、毘盧遮那仏が、その無数劫(こう)の過去世に蓄積した経験を現世に生きる衆生に対応した形に変化させ(神変)、その上に付加して(加持)、衆生に仏の真実の世界の内実(荘厳(しょうごん))としての意味づけを与えた、その総体(マンダラ)
である(日本大百科全書)、とされる。
金剛界(こんごうかい)、
は、梵語、
バジラダートゥvajradhātu、
の訳。金剛(バジラ)は、
もともとは武器をさす、
語であるが、ここでは大日如来(だいにちにょらい)の真実の智慧を意味し、それが堅固で壊れないことに例えられて、
金剛、
といい(仝上)、
大日如来を智徳の方面、
をいう(デジタル大辞泉)。これを図示したものを、
金剛界曼荼羅(まんだら)、
という(仝上)。
界(ダートゥ)、
は多義あるが、空海の『金剛頂経開題』によると、
体・界・身・差別、
の義をあわせもつという(日本大百科全書)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95