2023年11月21日
五乗
出家して、五天竺修行して、五乗の道を定めて、達摩掬多師として定給(梁塵秘抄口伝集11)、
の、
五天竺、
とは、
古代インドを東・西・南・北・中の五つに分けた総称、
で(精選版日本国語大辞典)、
五天、
五印度、
五竺、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。また、
達摩掬多(だるまきくた)、
とは、
六世紀末頃、インド那爛陀寺の僧。善無畏の師。宋高僧伝によると、定門の秘鑰を掌り、如来の密印を佩びており、顔は40歳位だが実は800歳であったといわれている。善無畏に密教の奥義を伝授し、神通力で善無畏を助け、中国に密教を弘めさせたといわれる、
とある(https://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=c3a3cbe1b5c5c2bf)。
真言密教は、「龍樹」でも触れたが、
大日如来、
が法門(おしえ)、を、灌頂(かんじょう)という儀式を通して、
金剛薩多(こんごうさった)、
に授け、
金剛薩多、
から、
龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)→金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)→不空三蔵(ふくうさんぞう)→善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)→一行禅師(いちぎょうぜんじ)→恵果和尚(けいかかしょう)→弘法大師、
と、真言の、
伝持の八祖(でんじのはっそ)、
とされ、日本に真言密教がつたわったとされる(https://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/hasso%20sousyou.html)が、この中の、インドのマカダ国の生まれの、
善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)、
が、密教を学んだのが、
達磨掬多(だるまきくた)、
とされ、80才のときに唐の長安に渡り、大日経(だいにちきょう)をはじめとする真言宗にとって重要な経典を翻訳したとされる(仝上)。
五乗(ごじょう)、
の、
「乗」はのりもの。衆生を彼岸に運載する教え、
の意で、五種の教法の総称。一般に、
人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、
をいう(広辞苑)が、
仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、
あるいは、
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗、天上乗、
と、宗派により名称、説き方が異なる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。
「一乗」は、サンスクリット語、
エーカ・ヤーナeka-yāna(一つの乗り物)、
の訳語、
「一」は唯一無二の義、
「乗」は乗物、
の意、
開闡一乗法、導諸群生、令速成菩提(法華経)、
と、
乗物の舟車などにて、如来の教法、衆生を載運して、生死を去らしむる、
とあり(大言海)、乗(乗り物)は、
人々を乗せて仏教の悟りに赴かせる教え、
をたとえていったもので、
真の教えはただ一つであり、その教えによってすべてのものが等しく仏になる、
と説くことをいう(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)とある。「声聞」で触れたように、
悟りに至るに三種の方法、
には、
声聞乗(しょうもんじょう 仏弟子の乗り物)、
縁覚乗(えんがくじょう ひとりで覚(さと)った者の乗り物)、
菩薩乗(ぼさつじょう 大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)、
の三つがあり、
三乗、
といい、『法華経』では、この三乗は、
一乗(仏乗ともいう)、
に導くための方便(ほうべん)にすぎず、究極的にはすべて真実なる一乗に帰す、
と説き(仝上)、
三乗方便・一乗真実、
といい、それを、
一乗の法、
といい、主として、
法華経、
をさす(仝上)。
「声聞」は、
梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、
の訳語、
声を聞くもの、
の意で、
釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、
である(精選版日本国語大辞典)のに対して、
縁覚(えんがく)、
は、
梵語pratyeka-buddhaの訳語、
で、
各自にさとった者、
の意、
独覚(どっかく)、
とも訳し、
仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、
をいう(仝上・日本大百科全書)。
菩薩、
は、
サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、
の音訳、
菩提薩埵(ぼだいさった)、
の省略語であり、
bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、
より、
悟りを求める人、
の意であり、元来は、
釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、
をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、菩薩はつねに単数で示され、
成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、
だけを意味する。そして他の修行者は、
釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。
阿羅漢、
とは、
サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、
で、
尊敬を受けるに値する者、
の意。
究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、
をいう。部派仏教(小乗仏教)では、
仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、
をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、
無学(むがく)、
ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教では、
個人的な解脱を目的とする者、
とみなされ、
声聞、
独覚(縁覚)、
を並べて、二乗・小乗として貶しており、
悟りに至るに三種の方法、
である、
三乗、
を、
声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、
とし、大乗仏教では、
菩薩、
を、
修行を経た未来に仏になる者、
の意で用いている。
悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、
また、仏の後継者としての、
観世音、
彌勒、
地蔵、
等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。で、大乗仏教では、「阿羅漢」も、
小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、
とされた。
「一乗妙法」で触れたように、
仏の真実の教えは一つであり、すべての衆生が平等に仏になれると説く教え、
であるとするのが、
一乗、
であるのに対して、
声聞・縁覚・菩薩のそれぞれに、固有な三種の覚りへの道があるとするのが、
三乗、
である(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%80%E4%B9%97)。上述のように、
天台宗、
華厳宗、
では、
一乗が真実であり三乗は方便である、
と主張したが、
法相宗、
では、
三乗真実・一乗方便、
と主張した(仝上)とある。この場合、
一乗、
と、
三乗、
の中の、
菩薩乗、
が同一か否かという点でも見解が分かれる(仝上)とある。
四乗(しじょう)、
という場合、
声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩乗・仏乗、
をいい(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%B9%97)、
五乗(ごじょう)、
という場合、
仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、
あるいは、
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗(人乗)、天上乗(天乗)、
の五種の教法の総称をいう(精選版日本国語大辞典)。
宗派によって異なるが、天台宗の教学では、人間の心の境涯を、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏、
の十の世界(十界)に分け、
声聞と縁覚、
を小乗の教法として、
二乗、
と呼び、
菩薩・仏、
の大乗の教法と分け、
声聞・縁覚・菩薩、
を、
三乗、
人間界から菩薩界までを、
五乗、
と呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97)とある。
「乘(乗)」(漢音ショウ、呉音ジョウ)は、「一乗」で触れたように、
会意文字。「人+舛(左右の足の部分)+木」で、人が両足で木の上にのぼった姿を示す。剩(ジョウ 剰 水準より上にのほける→あまり)の音符となる、
とある(漢字源)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年11月22日
衣冠束帯
太神宮の祭主神宮寺に衣冠束帯を被下(「神道集(1358頃)」)、
とある、
衣冠束帯(いかんそくたい)、
は、
天皇以下、公家くげの正装、
を指すが、朝廷での公事・儀式などでの正装である、
束帯(そくたい)、
と、その略装である、
衣冠(いかん、いくわん)
の違いが意識されなくなった江戸時代中期に民間で呼ばれ始めたとされる(精選版日本国語大辞典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E5%86%A0%E6%9D%9F%E5%B8%AF)が、別に、平安時代末期以降、
宮中での束帯の着用機会が減少し、衣冠や直衣(のうし・なおし・なほし)の着用が拡大した結果、参内(内裏に参上すること)するにあたって束帯の代用とする衣冠を指して、
衣冠束帯(いくわんのそくたい)、
束帯の代用とする直衣を指して、
「直衣束帯(なほしのそくたい)、
というようになったことに始まるという説もある(仝上)。
もともと、大宝令を改修した養老令(718)の衣服令では、即位・朝賀などの朝廷の儀式に際して着用する、五位以上の、
礼服(らいふく)、
と、
諸臣の参朝の際に着用する、
朝服(ちょうふく)、
が定められ、
すべて唐風をそのままに採用、
した(有職故実図典)とされる。
礼服、
は、
即位式、大嘗会、元日節会などの大儀に着用せし正装、
で(大言海)、文官の礼服は、
礼冠(らいかん)、衣(大袖と小袖)、褶(ひらみ)、白袴(しろのはかま)、絛帯(くみのおび)、綬(じゅ)、玉佩(ぎょくはい)、牙(げ)の笏(しゃく)、襪(しとうず)、せきのくつ、
武官の礼服は、
礼冠、位襖(いおう)、裲襠(りょうとう)、白袴、行縢(むかばき)、大刀(たち)、腰帯、靴(かのくつ)、
女官の礼服は、
宝髻(ほうけい)、衣、紕帯(そえのおび)、褶および裙(うわも)、錦の襪(しとうず)、せきのくつ、
からなり(「したうづ」「せきのくつ」は「したうづ」で触れた)、
天子の礼服は、
冕服(べんぷく)、
といい、
袞衣 (こんえ) と冕冠 (べんかん) 、
とからなる礼服(デジタル大辞泉)で、聖武天皇の天平四年(732)正月から用いられた(有職故実図典)。
袞冕(こんべん)、
ともいい、袞衣は、
袞龍御衣(こんりょうのぎょい)の略、
で、龍のぬいとりをつけた礼服で、中国皇帝の
冕服や袞服、
に相当する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%9E%E8%A1%A3)。「冕冠」の、
冕(べん)とは、もと中国に由来する冠の一種で、冠の前後に旒(りゅう)と呼ばれる玉飾りを垂らしたものを指す、
とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%95%E5%86%A0)、和名類聚抄(平安中期)に、
冕 続漢書輿服志云冕 音免和名玉乃冠 冠之前後垂旒者也、
とあり、
五彩の玉を貫いた糸縄を垂れた冕板(べんばん)をつけていた、
ので、
袞冕(こんべん)、
と呼ばれる。なお、衣服令では、
礼服の冠は、冠と書し、朝服の冠は頭巾と書す、
とある(大言海)。礼服の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BC%E6%9C%8D_(%E5%AE%AE%E4%B8%ADに譲る。
(冕冠 デジタル大辞泉より)
唐風模倣の礼服は、平安時代以降の和風化に伴い、使用範囲を減じて、
即位の大礼、
だけの使用となった(有職故実図典)。なお、鎌倉、室町時代には、武家は、
直垂(ひたたれ)、
をもって正装とし、「素襖」で触れたように、江戸時代には、侍従以上は直垂、四品は狩衣、大夫は大紋、重役は布衣、無位無官の士は素襖を以て礼服と定む、
とある(大言海)。なお、「直垂」「大紋」については「素襖」で、「狩衣」「布衣」については「水干」で触れた。
朝服、
は、参朝して事務に当たる一般官人が着用した衣服、
で、飛鳥時代から平安時代にかけて着用された装束を、特に、
朝服、
といい、和風化に伴って変化した朝服を、
束帯(そくたい)、
という(有職故実図典・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9C%8D)。
(朝服 山川 日本史小辞典より)
朝服、
は、上着には官位相当の色(当色 とうじき)の区別があり、形式はイラン系唐風服装の影響が強い(日本大百科全書)もので、文官は、
頭巾(ときん)、衣(きぬ)、笏(しゃく)、白袴(しろばかま)、腰帯(ようたい)、白襪(しろしとうず)、烏皮履(くりかわのくつ)、
で、
頭巾は天武朝の漆紗冠(しっしゃかん 針金の芯に漆紗を貼り、幞頭の垂紐も漆で固めたもの)と同じ、後世の冠の前身で、五位以上の者は黒羅(くろら)、六位以下は黒縵(かとり)(平絹)でつくられたもの。衣は裾(すそ)に襴(らん)という部分を加えた上着で、当色が定められている。笏は五位以上は象牙(ぞうげ)、六位以下は木製を用いる。腰帯は黒革製で、鉸具(かこ)といわれるバックルで留め、その飾りは五位以上が金銀装、六位以下が烏油(くろづくり)、
とある(日本大百科全書)。「襪(したうづ)」は靴下のことで白絹製、烏皮履は黒革製の沓(くつ)。
武官は、
頭巾、位襖(いおう)、笏、白袴、腰帯、横刀(たち)、白襪、脛巾(はばき)、履、
という構成で、
頭巾は、五位以上の者が黒羅製を、六位以下の者が黒縵製を用い、黒の緌(おいかけ)を顔の両側にかける。位襖は無襴衣で両脇(わき)を縫わずにあけた上着で、位によって色を異にしている。笏、白袴、腰帯は文官のものと同じ。横刀は平組(ひらぐみ)の紐(ひも)で帯びる太刀(たち)で、五位以上の者が金銀装、六位以下の者が烏装(くろづくり)。集会のときには、身分によって錦(にしき)の裲襠(りょうとう)を着け、赤脛巾を巻き、弓箭(ゆみや)を帯び、あるいは挂甲(けいこう)という鎧(よろい)を着け、槍(やり)を持つ。このときに、衛士(えじ)は位襖ではなく、桃染衫(あらぞめのさん)を着て白布帯、白脛巾を用い、草鞋(そうかい)を履き、横刀に弓箭または槍を持つ、
とあり、女子は、五位以上の者が、礼服の構成から宝髻(ほうけい)、褶(ひらみ)、舃(せきのくつ)を省き、
衣、紕帯(そえのおび)、纈裙(ゆはたのも)は礼服と同じで、そのほか白襪、烏皮履、
とし、六位以下の者が、
義髻(ぎけい毛)、衣、紕帯、纈紕裙(ゆはたのそえのも)、白襪、烏皮履、
の構成である。衣は文官と同様、色が礼服と同じという意で、形は異なったと思われる。紕帯は縁どりをした帯で、纈裙は絞り染めのロングスカート。帯も裙も身分により配色が異なる。義髻はかもじのことで、纈紕裙は緑色と縹(はなだ)色の絞り染めの絹を細く裁ち、縦にはぎ合わせた裙。初位の者の裙には絞り染めをしない、
とある(仝上・有職故実図典)。衣服令によると、文官の袍(表衣 うえのきぬ))が、
衣、
と呼ばれるのに対し、武官の袍は、
襖、
と呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9C%8D)。この「襖」が闕腋袍(けってきのほう わきあけ)であったとみられる(仝上)。
朝服が、唐風を脱して、わが国独自の服装である、
束帯、
へと変じていく。現在、飛鳥時代から平安時代にかけて着用された装束を特に、
朝服、
といい、これ以降、国風文化発達に伴って変化した朝服を、
束帯(そくたい)、
と称する(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%9C%8D)。
「束帯」は「したうづ」で触れたように、
飾りの座を据えた革の帯で腰を束ねた装束、
の意(有職故実図典)で、『論語』の公冶長篇の、公西華(字は赤)についての孔子の、
赤也何如(赤や何如)、
子曰、赤也、
束帯立於朝(赤(せき)は束帯して朝に立ち)、
可使與賓客言也(賓客と言(ものい)わしむべし)、
の言葉にある、
束帯立於朝、
に由来するとされ(仝上)、
公家(くげ)男子の正装。朝廷の公事に位を有する者が着用する。養老(ようろう)の衣服令(りょう)に規定された礼服(らいふく)は、儀式のときに着用するものとされたが、平安時代になると即位式にのみ用いられ、参朝のときに着る朝服が礼服に代わって儀式にも用いられ、束帯とよばれるようになった、
とある(有職故実図典・日本大百科全書)。
(束帯装束の武官と文官 日本大百科全書より)
その構成は、下から、
単(ひとえ 肌着として用いた裏のない衣。地質は主に綾や平絹)・袙(あこめ 「あいこめ」の略。下襲(したがさね)と単(ひとえ)との間に着用)・下襲(したがさね 内着で、半臂(はんぴ)または袍(ほう)の下に着用する衣。裾を背後に長く引いて歩く。位階に応じて長短の制がある)・半臂(はんぴ 内衣で、袖幅が狭く、丈の短い、裾に襴(らん)をつけたもの)・袍(ほう 上着。「うえのきぬ」)を着用、袍の上から腰の部位に革製のベルトである石帯(せきたい)を当てる。袴(はかま)は大口袴・表袴の2種類あり、大口を履き、その上に表袴を重ねて履く。冠を被り、足には襪(しとうず)を履く。帖紙(たとう)と檜扇(ひおうぎ)を懐中し、笏(しゃく)を持つ。公卿、殿上人は魚袋(ぎょたい)と呼ばれる装飾物を腰に提げた、
とあり、武家も五位以上の者は大儀に際して着用した。その構成は、
冠、袍、半臂、下襲(したがさね)、袙(あこめ)、単(ひとえ)、表袴、大口(おおぐち)、石帯(せきたい)、魚袋(ぎょたい)、襪(したうづ)、履(くつ)、笏(しゃく)、檜扇(ひおうぎ)、帖紙(たとう)、
よりなる。文官用と武官用、および童形用の区別がある。文官は、
有襴(うらん 両脇が縫いふさがり、裾に襴(らん 縫腋(ほうえき)の裾に足さばきのよいようにつける横ぎれ。両脇にひだを設ける)がついた)の袍または縫腋の袍とよばれる上着を着て、通常は飾太刀(かざりたち)を佩(は)かぬが、勅許を得た高位の者は儀仗(ぎじょう)の太刀(たち)を平緒(ひらお)によって帯び、
武官は、
冠の纓(えい)を巻き上げて、いわゆる巻纓(けんえい)とし、緌(おいかけ)をつけた緒を冠にかけてあごの下で結んで留める。そして無襴の袍または闕腋(けってき)の袍といわれる、両脇(わき)を縫い合わせずにあけた上着を着て、毛抜形(柄(鉄製)と刀身とが接合され一体となるよう作られている)と称される衛府(えふ)の剣〈たち〉を佩く。弓箭(きゅうせん)を携え、箭(や)を収める具として胡籙(やなぐい)を後ろ腰に帯びる、
とある(仝上・日本大百科全書)。
「衣冠」は、
略式の朝服、
の称で、
束帯、
を、
晝装束(ヒノサウゾク)、
というのに対して、
宿直(とのゐ)装束、
という(大言海)。「宿直」で触れたように、
宿装束
宿直衣(とのいぎぬ)、
ともいい、その姿を、
宿直姿、
といい(仝上・日本大百科全書)、枕草子に、
うへのきぬの色いときよらにて革の帯のかたつきたるを宿直姿にひきはこえて紫の指貫(さしぬき)も雪に冴え映えて、
とあるように、文官も武官も、
縫腋(ほうえき)の袍(ほう)のはこえ(後ろ腰の袋状にたくし上げた部分)を外に出して着る、すなわち、
衣冠(いかん)姿、
であった(仝上)。ただ、平安時代末期の仮名文の平安装束の有職故実書『雅亮(まさすけ)装束抄』(源雅亮)には、
とのゐそうぞくといふは、つねのいくはんなり、さしぬきしたはかまつねのことし、そのうへにわきあけをきて、かりぎぬのをびをするなり、
とあって闕腋(けってき 衣服の両わきの下を縫い合わせないであけておくこと)の袍も用いたようである。
「袍(ほう)」は、「したうづ」で触れたように、
束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、
で、
束帯や衣冠に用いる位階相当の色による、
位袍、
と、位色によらない、
雑袍、
とがあり、束帯の位袍には、文官の有襴縫腋(ほうえき 衣服の両わきの下を縫い合わせておくこと)と武官の無襴闕腋(けってき)の二種がある(精選版日本国語大辞典)。
(石帯 精選版日本国語大辞典より)
束帯、
は、
石帯で体を締め付けるなどして窮屈であったため、宿直(とのい)には不向きであったので、宿直装束が生まれた。「石帯」は、「したうづ」で触れたように、
袍(ほう)の腰に締める帯。牛革を黒漆で塗り、銙(か)とよぶ方形または円形の玉や石の飾りを並べてつける。三位以上は玉、四位・五位は瑪瑙(めのう)、六位は烏犀角(うさいかく)を用いた、
ものである。「衣冠」の構成は、束帯と同じであるが、束帯の下着類を大幅に省いて、共布のくけ紐で袍を締め、袴もゆったりとした指貫とした。 着用するには、まず下着を着て指貫をはき、単、袍を着る。垂纓の冠をかぶり、扇を持つ。神詣以外の衣冠着用時に笏は持たない。また、太刀を佩用する場合でも平緒は用いない、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E5%86%A0)。
「指貫」は「袴」で触れたように、
裾を紐で指し貫いて絞れるようにした袴、
で、「いだしあこめ」で触れたように、
袴の一種。八幅(やの)のゆるやかで長大な袴で、裾口に紐を指し貫いて着用の際に裾をくくって足首に結ぶもの。朝儀の束帯の際に略儀として用いる布製の袴ということから布袴(ほうこ)ともいうが、次第に絹製となり、地質・色目・文様・構造なども位階・官職・年齢・季節によって異なった、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
横開き式の袴で前後に腰(紐)がつけられ、前腰を後ろで、後ろ腰を前で、もろわなに結ぶ。裾口(すそぐち)に通した緒でくくり、すぼめるようにしてある、
もので(日本大百科全書)、
衣冠、または直衣、狩衣の時に着用する、
とある(広辞苑)。なお、
衣冠、
が、
宿直衣(とのいぎぬ)、
であるのに対して、普段着を、
直(ただ)の衣、
という意味で、
直衣(のうし)、
という。「いだしあこめ」で触れたように、「直衣(なほし)」は、
衣冠が宿衣(とのいぎぬ)なのに対して、直(ただ)の衣の意で、平常の服であることからきた名、
である。束帯、衣冠のように当色(とうじき 位階に相当する服色)ではなく、好みの色目を用いたことにより、
雜袍(ざつぽう)、
と呼ばれた。ただ、
雜袍聴許、
を蒙っての参内、あるいは院参などの場合は、一定の先例にしたがった(有職故実図典)、とある。その場合の
直衣姿、
は、
冠、
直衣付当帯、
衣(きぬ)、
指貫、
下袴、
檜扇(ひおうぎ)、
浅沓、
となっている(仝上)。
「狩衣」は「水干」で触れたように、
「狩衣」は、奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖(あお)を原型としたものであり、
両腋(わき)のあいた仕立ての闕腋(けってき 両わきの下を縫い合わせないであけておく)であるが、袍(ほう)の身頃(みごろ)が二幅(ふたの)でつくられているのに対して、狩衣は身頃が一幅(ひとの)で身幅が狭いため、袖(そで)を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方、
となっている(日本大百科全書)。平安時代後期になると絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを、
布衣(ほい)、
と呼ぶようになり、
狩衣は、上皇、親王、諸臣の殿上人(てんじょうびと)以上、
が用い、
地下(じげ 昇殿することを許されていない官人)は布衣を着た。狩衣姿で参内することはできなかったが、院参(院の御所へ勤番)は許されていた(岩波古語辞典)、とある。ただ、近世では、有文の裏打ちを、
狩衣、
とよび、無文の裏無しを、
布衣、
とよんで区別した(デジタル大辞泉・広辞苑)。「襖」は、「束帯」の盤領(まるえり)の上着のうち、武官用の、
闕腋(けってき)の袍、
である、
襴(らん)がなく袖から下両腋を縫わないで開け、動きやすくした袍、
をいう。令義解(718)に、「襖」は、
謂無襴之衣也、
と、
左右の腋を開け拡げているために、
襖、
というが、「襖」を、
狩衣、
の意とするのは、野外狩猟用に際して着用したので、
狩衣が、
狩襖(かりあお)、
といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。狩衣姿の構成は、
烏帽子、
狩衣、
当帯(あておび 腰に帯を当てて前に回し、前身(衣服の身頃のうち、前の部分)を繰り上げて結ぶ)、
衣(きぬ 上着と肌着(装束の下に着る白絹の下着)との間に着た、袿(うちき)や衵(あこめ)など)、
単(ひとえ 肌着として用いた裏のない単衣(ひとえぎぬ)の略。平安末期に小袖肌着を着用するようになると、その上に重ねて着た)、
指貫(さしぬき)、
下袴(したばかま)、
扇、
帖紙(じょうし 畳紙(たとうがみ)、懐紙の意)、
浅沓(あさぐつ)、
とされている(有職故実図典)が、晴れの姿ではない通常は、衣、単は省略する(有職故実図典)。色目は自由で好みによるが、当色以外のものを用い、袷の場合は表地と裏地の組合せによる襲(かさね)色目とした。
(狩衣(法然上人絵伝) 有職故実図典より)
礼服、束帯については、「したうづ」で、「衣冠」は「宿直」で、「直衣」は「いだしあこめ」で、「狩衣」は「水干」)で、それぞれ触れた。
参考文献;
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年11月23日
催馬楽
蓮華王院寶蔵にひしてとめおくところの催馬楽を、あらあらこのふみにしるしおきぬ(梁塵秘抄口伝集第11)、
の、
催馬楽、
は、古代歌謡の一種で、
奈良時代に民謡であったものを、歌詞をとって、平安時代に至って外来楽である宮廷の唐楽(とうがく)風の雅楽の曲調にあてはめて歌曲としたもの、唐楽の音調で、笏拍子(しゃくびやうし)・和琴(わごん)・竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しやう)・箏(そう)・琵琶などの楽器を伴奏とし、歌のリーダー (句頭)が曲の冒頭部分を独唱し、次に全員の拍節的な斉唱となる声楽曲、
とあり(岩波古語辞典・広辞苑・ブリタニカ国際大百科事典)、冒頭部を除き、曲全体は、
拍節的なリズムをもち、おなじ雅楽歌謡の朗詠に比べると躍動感のある曲趣を感じさせる。歌詞の中に種々の軽妙なはやしことばを伴う、
のが特色と(世界大百科事典)ある。歌の内容は、
恋愛歌、祝儀歌などさまざまで、饗宴の性格により歌われる歌が決っていて、のちには一種の故実として固定化した、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。中古の初め、
少なくとも貞観元年(八五九)以前に譜が選定され、宮廷、貴族の宴遊や寺院の法会(ほうえ)などに歌われた。笏拍子(しゃくびょうし)を打って歌い、和琴(わごん)、笛などを伴奏に用い、旋律の違いで、律と呂(りょ)とに分かれる、
とあり、六国史(りっこくし)の一つ、勅撰歴史書『三代実録』(清和(せいわ)(在位858~876)、陽成(ようぜい)(在位876~884)、光孝 (こうこう)(在位884~887)の時代30年を収めた編年体の実録)貞観(じょうがん)元年(859)10月23日のくだりに、
(八十余歳で薨去した尚侍の)広井少修徳操、挙動有礼、以能歌見称、特善催馬楽、諸大夫、及少年好事者、多就而習之(広井女王少(わか)くして徳操を修む。挙動礼り、歌を能くするを以て称せらる。特に催馬楽歌を善くす、諸大夫及び少年好事者、多く就きて習ふ)、
とあるのが文献上の初見とされ、その20~30年前の仁明(にんみょう)天皇のころが催馬楽流行の一頂点であったらしい(日本大百科全書)。源家と藤家との二流派を生じたが、応仁の乱後廃絶し、歌詞は律は『我が駒』『沢田川』など25首、呂(りょ)は『あな尊と』『新しき年』など36首が残る。寛永三年(一六二六)に再興され、明治時代には「伊勢海(いせのうみ)」「更衣(ころもがえ)」など六曲が行なわれ、大正以後数曲が復興された(精選版日本国語大辞典)という。
催馬楽、
の語源については、梁塵秘抄口伝集一に、
催馬楽は、大蔵の省(つかさ)の国々の貢物納めける民の口遊(くちずさ)みに起これり。……催馬楽は、公私(おほやけわたくし)のうるはしき楽(あそび)の琴の音、琵琶の緒、笛の音につけて、我が国の調べともなせり、
とあり、類聚名義抄(11~12世紀)には、
催馬楽、律我駒曲、是也、
とあり、郢曲秘抄(梁塵秘抄口伝集第11)には、
催馬楽、本、路頭巷里之謡謌也、然而後、好事之士女、取以為弾琴歌曲、故其歌因來、其有古代、有中世……遂翫之於宮中已久矣、
とあり、
室町時代の音楽暑「體源抄」は、
催馬楽と云ふは、催馬楽と云ふ楽あり、それより事起り、此楽の唱歌に、こまをもよほすと云ふ琴のりける、やがて、歌になして、國國より歌ひ出したり、我駒(わがこま)と云ふ催馬楽、是なり、故に馬を催す、と書きたるなり、
等々とある。ために、
催馬と云ふは、律歌の第一曲の題を、我駒(わがこま)と云ひ、その歌に、「いで我が駒、早く行きこせ」(早く打ちて得させよ)とありて、馬を催す心なるをとりて、数曲の題名としたるなりと云ふ(大言海)、
譜本の律旋冒頭にある『我が駒(こま)』の歌詞「いで我が駒早く行きこそ」によったとする(日本大百科全書)、
と、
諸国から朝廷に貢物を運搬するときにうたった歌で、馬をかり催す、
意とした「梁塵愚案抄」説に依拠したもの、さらに、そこから、
名称は馬子歌の意、あるいは前張さいばりの転などといわれるが定説はない(広辞苑)
諸国から貢物を大蔵省に納める際、貢物を負わせた馬を駆り催すために口ずさんだ歌であったからとする説(日本大百科全書)、
馬子歌に起因するという説(世界大百科事典)、
大嘗会に神馬を牽(ひ)くさいにうたった歌(和訓栞)
神馬を奉る時、神が馬に乗って影向するよう催し歌ったところから(河社かわやしろ)、
と、少し広く馬子歌ないし、馬に関わるとした説があるが、「催馬楽」の文字から「馬」と絡めているようにも見えるものもある。他に、
唐楽曲の催馬楽(さいばらく、あるいは催花楽)の曲調に唱ったから(岩波古語辞典・日本語の語源)、
催神楽(かぐら)歌の「さきはりに衣は染めん」という詞からサイハリ(前張)が出て、それがカグラ(神楽)のラに引かれてサイバラとなり、催馬楽の字を当てるようになった(折口信夫=催馬楽考)、
神楽の前張を好事家が催馬楽と書いたことによる(賀茂真淵=催馬楽考)、
薩摩に催馬楽村があり、その付近では都曇答蝋、鼓川、轟小路などの地名があり、ここに住んでいた楽人がうたいはじめた歌謡(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AC%E9%A6%AC%E6%A5%BD)、
ラは「楽」の字音、サイバはサルメ(猿女)の訛。神楽(かみあそび)に対してサルメ-ラ(楽)といった(日本古語大辞典=松岡静雄)、
等々諸説あるが、確かなところは不明である。しかし、平安末期の「梁塵秘抄口伝集一」の説が、時代的には近く、妥当なのではあるまいか。その意味で、は駒歌とするのも適切に思えるのだが。
「郢曲」、「梁塵秘抄」については触れた。
(催馬楽曲譜(鍋島本) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%AC%E9%A6%AC%E6%A5%BDより)
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
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ラベル:催馬楽
2023年11月24日
律呂
諸呂・律にうつされるは、寛平の御時に催馬楽を調子定給とかや(梁塵秘抄口伝集第12)、
にある、
律呂(りつりょ)、
は、
雅楽の十二律の律の音と呂の音、
をいい、転じて、
音律(音高の相対的な関係の規定)、
楽律(楽音を音律の高低に従って並べた音列、十二律や平均律など)、
さらに、
律旋と呂旋、
すなわち、
施法(せんぽう 音の配列、主音の位置などから区別される旋律の法則、モード)、
の意で使う(精選版日本国語大辞典)が、
呂律(りょりつ)、
ともいい、訛って、
ろれつ、
とも訓む。「呂律(ろれつ)」は、
呂律(ろれつ)が回らない、
で言う、
ろれつ、
である。「呂律が回らない」は、
酒に酔いなどして言語がはっきりしないさま、
にいう(広辞苑)が、
リョリツの転、
で、
ことばの調子。物を言うときの調子、
の意とあり、「リョリツ(呂律)」が、
具体的な呂の音、律の音という音階を言っていたものが、
音階一般、
に転じ、さらに、「ろれつ」と転じて、
ことばの調子、言い方、
にまで変じた、ということらしい。
(十二律 精選版日本国語大辞典より)
(十二律 広辞苑より)
十二調子、
つまり、
十二律、
は、
中国や日本の雅楽に用いられた一二の音、
をいい、
一オクターブ間を一律(約半音)の差で一二に分けたもの、
で、一二のそれぞれの名は、中国では、
黄鐘(こうしょう)・大呂(たいりょ)・太簇(たいそう)・夾鐘(きょうしょう)・姑洗(こせん)・仲呂(ちゅうりょ)・蕤賓(すいひん)・林鐘(りんしょう)・夷則(いそく)・南呂(なんりょ)・無射(ぶえき)・応鐘(おうしょう)、
日本では、
壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひょうじょう)・勝絶(しょうせつ)・下無(しもむ)・双調(そうじょう)・鳧鐘(ふしょう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・上無(かみむ)、
その基音(黄鐘および壱越)は、
長さ九寸の律管が発する音、
とされた(精選版日本国語大辞典)。
「十二調子」で触れたように、日本・中国の音楽で、低音から、
宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)、
の5音を、
五音(ごいん)、
と言い、また、その構成する音階をも指す(広辞苑)。五音に、
変徴(へんち 徴の低半音)・変宮(へんきゅう 宮の低半音)、
を加えた7音を、
七音(しちいん)、
または、
七声(しちせい)、
という(仝上)。西洋音楽の階名で、宮をドとすると、商はレ、角はミ、徴はソ、羽はラ、変宮はシ、変徴はファ#に相当し、
宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮はファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに相当、
し
西洋の教会旋法のリディアの7音に対応する、
とあり(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A3%B0)、
日本の雅楽や声明(しょうみょう)も使用する、
とする(仝上)。なお、「五声」は、
三分損益法(さんぶんそんえきほう)、
に基づいている(仝上)とある。『史記』に、
律數 九九八十一以為宮 三分去一 五十四以為徵 三分益一 七十二以為商 三分去一 四十八以為羽 三分益一 六十四以為角、
とあるが、これは、
完全5度の音程は振動比2:3で振動管の長さは2/3となる。すなわち、律管の3分の1を削除すると5度上の音ができ、加えると5度下の音ができる。前者を三分損一(去一)法、後者を三分益一法と称し、両者を交互に用いるのが三分損益法である、
とあり(日本大百科全書)、
5度上の音を次々に求めるピタゴラス定律法と同じ原理、
で、日本では、
損一の法を順八、益一の法を逆六、
といい、別名、
順八逆六の法、
と称する(仝上)とある。つまり、古代ギリシャでも古代中国でも音楽は盛んだったが、二つの異なる文化が、
周波数比が2:3である二つの音はよく調和する、
という全く同じ現象に到達していたのである(https://www.phonim.com/post/what-is-temperament)。現代では周波数が2:3であるような音は、
完全5度、
と呼ばれている(仝上)。
日本へは奈良時代にこの中国の五声が移入されたが、平安時代になると日本式の五声が生まれ、中国の五声の第五度(徴)を宮に読み替えた音階で、西洋音階のド・レ・ファ・ソ・ラに相当する。中国の五声を、
呂(りょ)、
日本式の五声を、
律(りつ)、
とよぶのが習わしとなった(仝上)。なお、日本では、
律呂、
が、音程(二つの音の高さの隔たり)の意味の他に、
音律(音の高さのこと)、
の意味や、
音階(一定の音程(音の間隔)で高さの順に配列した音の階段)、
の名称としてつかわれたりしているのでややこしい。
十二律呂、
という場合は、
十二律を六つずつに分けたもの、
をいい(世界大百科事典)、
音律の意味では、十二律の、奇数番目の六つの音律を、陽の音のとして、雅楽では、
律、
といい、
壱越(いちこつ)、平調(ひょうじょう)、下無(しもむ)、鳧鐘(ふしょう)、鸞鏡(らんけい)、神仙(しんせん)、
の、
六音を、
六律、
偶数番目の六つの音律を、陰に属する音として、
呂、
といい、
断金(たんぎん)、勝絶(しょうせつ)、双調(そうじょう)、黄鐘(おうしき)、盤渉(ばんしき)、上無(かみむ)、
の六音を、
六呂、
といい、併せて、
六律六呂、
という。その両者をあわせたものを、
十二律呂、
とよび、
律呂、
は、
その略称で、
楽律、
ともいう(日本大百科全書)。
また、旋法または音階を二分類するための用語としては、時代によって内容の規定は異なるが、現在では、
壱越調(いちこつちょう)、双調(そうぢょう)、太食調(たいしきちょう)の3調子、
が、
第一音宮から商・角・嬰角・徴(ち)・羽(う)・嬰羽・宮の順で、各音の間隔が一音・一音・半音・一音・一音・半音・一音となるもの、
で、
洋楽のソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソに当たる、
呂旋(りょせん)、
呂旋法、
また、
平調(ひょうぢょう)、黄鐘調(おうしきちょう)、盤渉調(ばんしきちょう)、
の3調子が、
第一音宮から商、嬰商、角、徴(ち)、羽(う)、嬰羽、宮の順で、各音の間隔が、一音、半音、一音、一音、一音、半音、一音となるもの、
で、洋楽のレ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レに当たる、
律旋(りっせん)、
律旋法、
に分類されている(仝上・精選版日本国語大辞典)。この場合、
十二律の個々の音を二分類する律呂とは意味が異なる、
ので、たとえば、
壱越調は呂旋、
に属し、
壱越の音は律、
ということになる(仝上)。
「律」(漢音リツ、呉音リチ)は、
会意文字。聿(イツ)は「手の形+筆の形」の会意文字。律は「彳(おこない)+聿(ふで)」で、人間の行いの基準を、筆で箇条書きにするさまを示す。リツということばはきちんとそろえて秩序だてる意を含む、
とある(漢字源)。別に、
字源
形声。「彳」+音符「聿 /*RUT/」。「道理」「きまり」を意味する漢語{律 /*rut/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BE%8B)、
形声。彳と、音符聿(イツ、ヒツ)→(リツ)とから成る。均一にならす、ひいて、おきての意を表す(角川新字源)、
会意文字です(彳+聿)。「十字路の左半分」の象形(「道を行く」の意味)と「手で筆記用具を持つ」象形から、人が行くべき道として刻みつけられている言葉を意味し、そこから、「おきて」を意味する「律」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji966.html)、
等々ともある。
「呂」(漢音リョ、呉音ロ)は、
象形。一連に連なった背骨を描いたもの。似たものが一線上に幷意を含む。また、転じて、並んだ音階をも呂という、
とある(漢字源・角川新字源・https://okjiten.jp/kanji2079.html)が、
象形。金属のインゴッドを2つ重ねたさまを象る。ある種の金属を指す単語漢語{鑪 /*raa/}を表す字。[字源 1]
『説文解字』では背骨の形を象ると解釈されているが、これは誤った分析である、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%82)。
参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年11月25日
朗詠
朗詠のことを、とりどり語り侍りき(梁塵秘抄口伝集第十二)、
の、
朗詠、
は、漢語で、
朗詠長川(孫綽、遊天台山賦)、
と、
朗吟、
と同義で、
清くほがらかに歌う、
意(字源)だから、和語でも、
和歌を朗詠する、
というように、
詩歌を声高くうたう、
意でも使う(広辞苑)が、特に、
漢詩文の秀句を訓読みに和げて歌ひし節、
をいい(字源)、平安中期以降、管弦の遊びの折などに、
漢詩文の二節一連のものに曲節をつけてうたう自由なリズムの謡物、
をいう(大辞林)。元来、
嵯峨天皇(九世紀)以来、詩文専ら行われて、詩を朗詠せしが、醍醐天皇(十世紀)の頃より、和歌大いに起りて、歌をも朗詠せり、
と(大言海)、和歌もその対象となり(岩波古語辞典)、中世以降、
雅楽化、
された(デジタル大辞泉)。
竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・笙(しょう)の伴奏で、数人が旋律をつけて独唱・斉唱、
し(「竜笛」・「篳篥」・「笙」については、「篳篥」で触れた)、
拍節がないこと、音高が固定していないこと、
が特徴とある(広辞苑)。朗吟するための詩歌、歌曲を集めたものに、藤原公任の、
和漢朗詠集、
藤原基俊の、
新撰朗詠集、
などがある(広辞苑)。なお、催馬楽・今様などを含めて、広義には、「郢曲(えいきょく)」に含まれる(学研古語辞典・日本大百科全書)。地方の民謡を詞章とした拍節的(一定の時間単位で繰り返されるアクセントの周期的反復)な、
催馬楽、
に対して、
朗詠、
は二節一連の漢詩を用い、自由拍子で拍節はない。
漢詩を一ノ句から三ノ句に分け、各句の初めを独唱、「付所(つけどころ)」の指示がある箇所からは笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・竜笛(りゅうてき)(各一管)の付奏により斉唱で謡われる、
とある(仝上)。
源雅信が一定の曲節をつけたという『極楽尊』『徳是北辰(とくはこれほくしん)』などを、
根本七首、
と称し、のちに曲目が増え、藤原宗忠・忠実(ただざね)らの『朗詠九十首抄』、藤原公任(きんとう)の『和漢朗詠集』につながる(仝上)。宇多天皇の孫にあたる源雅信(920~93)が、そのうたいぶりのスタイルを定め、一派を確立し、雅信を流祖とする源家(げんけ)と、《和漢朗詠集》《新撰朗詠集》の撰者藤原公任、藤原基俊などの流派である藤家(とうけ)の2流により、それぞれのうたいぶりや譜本を伝えた(世界大百科事典)が、藤家(とうけ)は絶えた(日本大百科全書)とある。
210種の詞章があったというが、現在は14種、
とされる(山川日本史小辞典)。
2の句の音域が高くて困難なことから、
二の句がつげぬ、
という言回しがうまれたともいう(仝上)とある。
二の句、
とは、雅楽の朗詠で三段階あるうちの二段目の句、
のことで、
一段目は低音域、二段目は高音域、三段目は中音域で、二の句は高音域である。高音のまま詠じ続けて、息切れしやすく難しいことから、声に出せないさまを「二の句が継げない」と言うようになった、
とある(語源由来辞典)。
「朗」(ロウ)は、
会意兼形声。良は、きれいに精白したこめをもたらすことを示す会意文字。清らかで曇りがない意を含む。粮(リョウ)の原字。朗は「月+音符良」で、月が澄んでいること、
とある(漢字源)。
形声。月と、音符良(リヤウ、ラウ)とから成る。月光が明るい、ひいて「あきらか」「ほがらか」の意を表す(角川新字源)、
会意兼形声文字です(良+月)。「穀物の中から特に良いものだけを選び出す器具」の象形(「よい」の意味)と「欠けた月」の象形から、良い月を意味し、そこから、「あかるい」を意味する「朗」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1073.html)、
ともある。
「詠(漢音エイ、呉音ヨウ)は、
会意兼形声。「言+音符永(ながい)」、
とあり(漢字源)、
会意形声。言と、永(ヱイ)(ながい)とから成り、声を長く引いて「うたう」意を表す(角川新字源)、
会意兼形声文字です(言+永)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「支流を引き込む長い流域を持つ川」の象形(「いつまでも長く続く・はるか」の意味)から、口から声を長く引いて「(詩歌を)うたう」を意味する「詠」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1238.html)、
ともある。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
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2023年11月26日
神遊
神遊の歌に、唐神楽拍子唱こと申はべりき(梁塵秘抄口伝集第14)、
の、
神遊(かみあそび)、
は、
神々が集まって楽を奏し、歌舞すること、
を言うが、転じて、
神前で歌舞を奏して神の心を慰めること。また、その歌舞、
の意となる(精選版日本国語大辞典)。
神楽(かぐら)、
と同じ意味である(仝上)。
神楽、
は、
神前に奏される歌舞、
で、
神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形、
とされ、古くは、
神遊(かみあそび)、
とも称した(https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1389)。「古今集」には、
神がきのみむろの山のさかき葉は神のみまへにしげりあひにけり
ちはやぶる賀茂のやしろの姫小松よろづ世ふとも色はかはらじ
等々(http://www.milord-club.com/Kokin/kan/kan20.htm)、
神あそびのうた、
が十余首収められている(精選版日本国語大辞典)。
「神楽」で触れたように、本質的には、
招魂の鎮魂(たましずめ)作法、
であり、文字通り、
神前に奏される歌舞、
つまり、
手に榊などの採物(とりもの)を持ち、そこへ神を招き、歌舞を捧げて、神を楽しませて、天に送る舞楽、
で(岩波古語辞典)、
神座(かむくら・かみくら)の転、
とされる(広辞苑・大言海・岩波古語辞典)。
カミ(ム)クラ→カングラ→カグラと転じたる語、
とある(大言海)。「座(くら)」は、
神おろしをするところ。この舞楽に使う榊や篠などに神が降下するので、その榊・篠・杖・弓などをカミクラと称したのが、後にこの舞楽全体の名となった、
とある(岩波古語辞典)。「採物」(とりもの)とは、
神楽の時、舞人が手に持って舞うもの。本来、神の降臨する場所、すなわち神座(かぐら)としての意味を持ち、森の代用としての木から、木製品その他の清浄なものにも広がった。榊葉(さかきば)・幣(みてぐら)・笹・弓・剣・ひさごなどが使われる、
とある(仝上)。かつては、
神が降臨した際に身を宿す「依り代」としての巨石や樹木、高い峰を祭祀の対象物、
とし、やがて、人の手が加えられた、
神座、
が設けられ(http://www.tohoku21.net/kagura/history/kigen.html)、神座に、神を迎え、祈祷の祭祀を行うことになる。さらにそれが「採物」に代用されるようになる、ということになる。で、「神楽」は、
神座遊(かみくらあそび)の略にて、神座の音楽、
意となる(岩波古語辞典)。
神座を設けて神々を勧請(かんじょう)して招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の古い形で、古くは、だから、
神遊(かみあそび)、
とも称した(日本大百科全書)。「遊ぶ」は、
楽しきわざをして、神の御心を和み奉ること、
とあり、「あそび」に、
神楽、
を当て(大言海)、
瑞垣の神の御代よりささの葉を手(た)ぶさに取り手遊びけらしも(神楽歌)、
とあるように、
神楽を演ずる、
意でもある(岩波古語辞典)。本来神楽は、
招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだった、
のはその意味である。この起源は、
天照大御神の、天岩屋戸に隠(こも)りたまひし時、神々集まりて、岩屋の前に、榊・幣など種種の設けをして、天鈿女(うずめの)命、桙(ほこ)と篠とを採り、わざをぎの態をしなどして、慰め奉り、遂に、大神を出し奉りし事、
に始まる、とされる(大言海)。「わざをぎ」は、
伎楽(大言海)、
俳優(岩波古語辞典・広辞苑)、
と当てるが、古くは、
ワザヲキ、
と清音(広辞苑)、
ワザヲキ(業招)が原義(岩波古語辞典)、
神為痴態(ワザヲコ)の転と云ふ、ワザは神わざ(為)、わざ歌(童謡)のワザなり。ヲコは可笑(おか)しと通ず(大言海)、
とその由来の解釈は少し異なる(大言海は「俳優」と当てるのは、「俳優侏儒、戯於前」(孔子家語)、神代紀に、ワザヲキに俳優の字を充てたるに因りて誤用せる語、としている)が、
天鈿女命、則ち手に茅纏(ちまき)の矟(ほこ)を持ち、天の石窟戸(いわやど)の前に立たして、巧みに俳優(わざをき)す(日本書紀)、
とあるような、岩戸隠れで天鈿女命が神懸りして舞った舞い、
に淵源する、
手振り、足踏みなどの面白くおかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませること、またその人、
とあり(広辞苑)、
役者、
の意味にもなる(嬉遊笑覧)ので、
俳優、
と当てる方が妥当に思える。ほぼ、
神遊び、
と意味は重なる。考えれば、「あそぶ」で触れたように、「あそぶ」自体が、
神楽(かみあそび)→神楽(あそび)→奏楽(あそび)→遊び、
と転じてきたものなのであり、そもそも、「あそぶ」は、
天照大御神が、思ず、顔をのぞかせたり、
死者が帰ってきたいと思ったり、
するほど、楽しいことであるのに違いはない。神事由来だが、天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑(かみがか)りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊ったことに淵源するように、厳かさよりは、底抜けの楽しさがある気配である。だから、「あそぶ」の語源は、
足+ぶ(動詞化)(日本語源広辞典)
アシ(足)の轉呼アソをバ行に活用したもの(日本古語大辞典=松岡静雄)、
辺りなのではないか。
「神(神)」(漢音シン、呉音ジン)は、「神さびる」で触れたように、
会意兼形声。申は、稲妻の伸びる姿を描いた象形文字。神は「示(祭壇)+音符申」で、稲妻のように不可知な自然の力のこと、のち、不思議な力や、目に見えぬ心のはたらきをもいう、
とある(漢字源)。日・月・風・雨・雷など自然界の不思議な力をもつもの、
天のかみ、
で、
祇(ギ 地の神)、鬼(人の魂)に対することば、
とある(仝上)。「申」(シン)は、
会意文字。稲妻(電光)を描いた象形文字で、電(=雷)の原字、のち、「臼(両手)+丨印(まっすぐ)」のかたちとなり、手でまっすぐのばすこと、伸(のばす)の原字、
とある(仝上)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年11月27日
鎮魂(たましずめ)
鎮魂、
は、
生者の肉体から離れようとする霊魂を肉体に、また、死者の場合は肉体以外のあるべき場所に戻すことにより、生者は活力を取り戻し、死者は災いをなさないようにする、
という、
日本古来の呪術、
をいう(広辞苑・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9A%E3%82%81)とあるが、特に、
鎮魂の祭、
の略ともある(仝上)。
鎮魂(たましずめ)、ちんこんさいのことなり、
とある(梁塵秘抄口伝集第14)のは、その意味である。元々、
鎮魂(ちんこん、たましずめ)、
の語は、
(み)たましずめ、
と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式、
を指すものであった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82)とあり、広義には、
魂振(たまふり)、
を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では、
鎮魂(たましずめ)、
魂振(たまふり)、
の二つの儀が行われている(仝上)。「魂鎮」は、職員令義解の「鎮魂祭」註に、
招離遊之運魂、鎮身體之中府、
とあるように、
魂を身体の中府に鎮めること、
であり、「魂振」は、
衰弱した魂を呪物や体の震動によって励起すること、
をいう(https://www.miyajidake.or.jp/gokitou/shintou)。
鎮魂祭(ちんこんさい)、
は、
みたまふり、
または、
みたましずめ、
と訓ませ、
おほむたまふり、
ともいう(大言海)、
古代宮廷祭祀の一つ、
で、宮中で、
新嘗祭の前日夕刻、
に天皇の鎮魂を行う儀式である(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82%E7%A5%AD)。宮中三殿に近い綾綺殿にて、
神祇官八神殿(はっしんでん)の神々と大直日神(おおなおびのかみ)の神座を設けて執行する、
とある(https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=689)。初見は、天武紀十四年(685)十一月に、
是日、為天皇招魂之(ミタマフリシキ)
とある(大言海は、「人の魂は、遊離すると信ぜられて、然り」と付記している)。かつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた。
この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある、
とあり(仝上)、一般に、
天皇の魂を体内に安鎮せしめ、健康を祈る呪法、
と考えられている(仝上)。この神事には、
神座の前に天皇の御衣の箱、
を安置し、
御巫(みかんなぎ)・猿女(さるめ)ら神祇官の巫女たちが神楽舞をし、次に御巫が宇気槽(うきふね・うけふね)を伏せた上に立ち、琴の音に合わせて桙(ほこ)で槽を撞く。一撞きごとに神祇伯(じんぎはく)が木綿(ゆう)の糸を結ぶ所作を十回くり返す。同時に女蔵人が御衣の箱を開いて振り動かす行為もあった、
とあり(仝上)、御巫・猿女らが、神祇伯の結んだ御玉緒の糸は、
斎瓮(いわいべ)に収めて神祇官斎院の斎戸(いわいど)の神殿(祝部殿・斎部殿)に収められ、毎年十二月にそこで祭りがあった、
とある(仝上)。またこの神事の御巫らの行う、
宇気槽撞き、
や
神楽舞、
は、その共通要素から、『古語拾遺』(807年)に、
凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺趾(あと)なり、
とあるように、日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命(あめのうずめのみこと)が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされ、かつては、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、、
猿女の鎮魂、
とも呼ばれていた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82%E7%A5%AD)とあり、天岩戸神話における、
天宇受売命の舞、
との関連が言われている(仝上)。
魂振(たまふり)、
は、
招魂(たまふり)、
とも当て(日本書紀)、
たましずめは、鎮むる方に付て云ひ、たまふりは振動(ふるひうご)かして、勢いあらしむるに云ふ(遊離せぬやうに力をつくるなり)、
とある(大言海)ように、鎮魂の儀の後、
天皇の衣を左右に10回振る魂振の儀、
が行われる。これは饒速日命が天津神より下された、
十種の神宝を用いた呪法、
に由来するとされる。平安初期の『先代旧事本紀』には、
饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈った、
との記述があり、
所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり、
としている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E9%AD%82%E7%A5%AD)。
神輿(みこし)を激しく揺さぶること、
や、
神社の拝殿で手を打つこと、
なども、
魂振、
の一種(https://www.homemate-research-religious-building.com/useful/glossary/religious-building/2047901/)と考えられるとある。
十種神宝(とくさのかんだから)、
は、『先代旧事本紀』(九世紀頃成立、『旧事紀』(くじき)あるいは『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう)に、
天璽瑞宝十種(あまつしるし・みずたから・とくさ)、
と称して登場する、霊力を宿した十種類の宝をいい、
沖津鏡(おきつかがみ)、
辺津鏡(へつかがみ)、
生玉(いくたま)、
死返玉(まかる・かへしのたま)、
足玉(たるたま)、
道返玉(ち・かへしのたま)、
蛇比礼(へひのひれ)、
蜂比礼(はちのひれ)、
品々物之比礼(くさぐさのもののひれ)、
八握剣(やつかのつるぎ)、
とされる(https://dic.pixiv.net/a/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D)らしい。
「たま(魂・魄)」で触れたように、
「魂」(漢音コン、無呉音ゴン)の字は、
会意兼形声。「鬼+音符云(雲。もやもや)、
とあり、
たましい、
人の生命のもととなる、もやもやとして、決まった形のないもの、死ぬと、肉体から離れて天にのぼる、と考えられていた、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(云+鬼)。「雲が立ち上る」象形(「(雲が)めぐる」の意味)と「グロテスクな頭部を持つ人」の象形(「死者のたましい」の意味)から、休まずにめぐる「たましい」を意味する「魂」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1545.html)。
「鎮」(チン)は、
会意兼形声。眞(真)は「人+音符鼎(テイ・テン)」からなり、穴の中に人を生き埋めにしてつめること。填(テン つめる)の原字。鎮は「金+音符眞」で、欠けめなくつまった金属の重し、
とある(漢字源)。別に、
形声。「金」+音符「真 /*TIN/」。「おもり」「おさえる」を意味する漢語{鎮 /*trins/}を表す字、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%8E%AE)、
形声。金と、音符眞(シン)→(チン)とから成る。金属製のおもしの意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(金+真(眞))。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「金属」の意味)と「さじの象形と鼎(かなえ)-中国の土器の象形」(「つめる」の意味)から、いっぱいに詰め込まれた金属「おもし」、「おさえ」を意味する「鎮」という漢字が成り立ちました。転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「しずめる」の意味も表すようになりました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1732.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年11月28日
葎(むぐら)
むぐらさへ若葉はやさし破レ家(いえ)(芭蕉)、
の、
むぐら、
は、
葎、
と当て、
うぐら、
もぐら、
とも訛り、
カナムグラ・ヤエムグラなど、蔦でからむ雑草の総称、
とあり、蓬(よもぎ)や浅茅(あさぢ)とともに、
貧しい家、荒廃した家の形容に使われることが多い、
とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
荒れ地や野原に繁る雑草の総称、
なので、
葎生(むぐらふ)、
というと、
いかならむ時にか妹を牟具良布(ムグラフ)のきたなき屋戸(やど)に入れいませてむ(万葉集)、
と、
葎が生い茂っていること、また、その場所、
の意で使い、
葎の門(むぐらのかど)、
というと、
訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重葎にもさはらざりけり(紀貫之)、
と、
葎が這いまつわった門、
の意で、
荒れた家や貧しい家のさま、
の意となる(広辞苑)
葎の宿、
も同じ意味で使う(仝上)。ただ、歌語としては、「葎の門」「葎の宿」は、
葎の門に住む女、
荒廃した屋敷に美女がひっそりと隠れ住む、
というようなロマン的な場面が、『伊勢物語』、『大和物語』、『うつほ物語』等々の物語によって形成され、類型化された(日本大百科全書)とある。
茂(も)く闇(くら)き儀、
が由来とある(大言海)が、他に、
繁茂しているところから、茂らの義、ラは助辞。またクラは木闇のクレの転で、草の暗く茂っている意(日本語源=賀茂百樹)、
一株で草むらのように生い茂った状態から(https://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/yaso/yurai/yas_yur_yaemugura.html)、
ムグリツタ(潜蔦)の義(日本語原学=林甕臣)、
モレクグリ(漏潜)の義(名言通)、
世捨て人がとじこもっている室は、この草が茂って暗いことから、ムロクラキ(室暗)の義(和句解)、
と諸説あるが、どうもはっきりしないが、その状態をいう、
一株で草むらのように生い茂った状態、
を示しているとするのが、自然な気がする。なお、万葉集で、
思ふ人来むと知りせば八重葎おほへる庭に珠敷かましを(作者不詳)、
と歌われる、
やえむぐら(八重葎)、
は、
カナムグラ(鉄葎)、
を指している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9)とされる。ヤエムグラ属は、
アカネ科、
に属し、カナムグラは、
アサ科カラハナソウ属、
とされる。「鉄葎」の、
カナは、鐵にて、此蔓、堅き墻(かきね)をも穿ち生ふると云ふ、
とあり(大言海)、
強靭な蔓を鉄に例え、「葎」は草が繁茂して絡み合った様を表すように、繁茂した本種の叢は強靭に絡み合っており、切ったり引き剥がしたりすることは困難である、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9)。「八重葎」は、
彌重葎、
の意で、
茎は直立、斜上し、またはつる性になり、4稜がある。葉は節ごとに対生する本来の2個の葉と、2~8個からなる葉と同形の托葉からなり、4個~多数個の葉が輪生しているように見える。花序は散集花序になり、茎先や葉腋につけて、ふつう多数の花をつける、
ためかと思われる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%A8%E3%83%A0%E3%82%B0%E3%83%A9%E5%B1%9E)。
『万葉集』から「八重(やへ)葎」「葎生(ふ)」などと用いられているが、平安時代以後は、歌語としては「八重葎」に固定して、
八重葎茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり(恵慶(えぎょう)法師)、
などと詠まれた(日本大百科全書)。
「葎」(漢音リツ、呉音リチ)は、
会意兼形声。「艸+音符律(ならぶ)」、
とあり(漢字源)、つるくさの名である。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年11月29日
くいな
水鶏(くいな)啼と人のいへばや佐屋泊(さやどまり)(芭蕉)、
の、
水鶏、
は、
秧鶏、
とも当て、
ツル目クイナ科の鳥の総称、
で、
クイナ・ヒクイナなどの類、
をいい、
世界に約130種、鳥類の中で絶滅種が最も多く、1600年以降、世界の島嶼(とうしょ)に生息するクイナのうち14種以上が絶滅した、
とある(広辞苑)。詩歌に詠まれるのは、夏に飛来する、
緋水鶏、
で、和歌以来、もっぱら鳴き声が詠まれ、
人が戸をたたく音、
に比されて、
たたく、
と表現される(仝上・雲英末雄・佐藤勝明訳註『芭蕉全句集』)。
ヒクイナ、
は、
緋水鶏、
緋秧鶏、
と当て、
ナツクイナ、
とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、
ツル目 クイナ科 ヒメクイナ属、
に分類される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)。古くは単に、
水鶏(くひな)、
と呼ばれ、その独特の鳴き声は古くから、
たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深く尋ねては来む(更級日記)、
と、
水鶏たたく、
と言いならわされてきた(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)。その連想から
「く(来)」といいかけて用いる、
など、古くから詩歌にとりあげられてきた(日本国語大辞典)。
全長20センチ程、上面の羽衣は褐色や暗緑褐色、喉の羽衣は白や汚白色、胸部や体側面の羽衣は赤褐色、腹部の羽衣は汚白色で、淡褐色の縞模様が入る、
とあり(仝上)、湿原、河川、水田などに生息する。
「くいな」は、
水雉、
とも当て、
ツル目 クイナ科 クイナ属に分類され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)、全長30センチ程度、体形はシギに似る。くちばしは黄色、背面が褐色で黒斑があり、顔は灰鼠色、腹には顕著な白色横斑がある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。秋、北方から渡来、湿原、湖沼、水辺の竹やぶ、水田などに生息する(仝上)。また、
薮の中にいることが多いので姿を見ることは少ない鳥、
ともある(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1515.html)。
くいな、
の和名は、
ヒクイナの鳴き声(「クヒ」と「な」く)に由来(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%8A)、
鳴きはじめは、クヒクヒと聞ゆと云ふ、ナは鳴くの語根(ひひ鳴き、ひひな。馬塞(うませき)、うませ)(大言海)、
と、鳴き声説があるが、「ひくいな」を「くいな」と呼んでいたとすると、
「クッ クッ」あるいは「クリュッ クリュッ」と聞こえる声、
を出しているのは、
くいな、
の方で(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1515.html)、
ヒクイナ、
は、
「コン コン コン」あるいは「クォン クォン クォン ‥‥コココ‥」と聞こえ、次第に早口になります、
とある(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1527.html)。この声が、夕方から夜にかけてよく聞くことが出来るので、夜間の訪問者を意識して、
戸を叩く、
と言ったと見られる(仝上)。とすると、「ひくいな」と「くいな」を区別していなかったとしても、鳴き声からは、「くいな」の鳴き声を「たたく」といったのとは矛盾してくる。他には、
キクナ(來鳴)の義(日本釈名)、
クヒナ(食菜)の義(名語記)、
や、
クヒナキ(食鳴)の義、夜中に田に鳴く蛙を食いながら啼くから(名言通)、
クヒア(喰蛙)の義(言元梯)、
がある(日本国語大辞典)。たしかに、本草和名には、
鼃鳥、久比奈(鼃(蛙)を食ふと云ふ)、
とあるのだが。
(クイナ 広辞苑より)
参考文献;
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2023年11月30日
とぼそ
此宿は水鶏(くいな)もしらぬ扉(とぼそ)かな(芭蕉)、
の、
とぼそ、
は、
枢、
扃、
と当て、
ト(戸)とホゾ(臍)との複合、
で(岩波古語辞典)、
ボソは、ホゾの清濁の倒語、
とあり(大言海)、
開き戸の上下の端に設けた回転軸である「とまら(枢)」を差し込むために、梁(はり)と敷居とにあける穴、
をいい(学研全訳古語辞典)、俗に、
とまら、
ともいう(広辞苑)。
楣(まぐさ 目草、窓や出入り口など、開口部のすぐ上に取り付けられた横材)と蹴放し(けはなし 門・戸口の扉の下にあって内外を仕切る、溝のない敷居)とに穿ちたる孔、
をいい(大言海)、
扉の軸元框(かまち)の上下に突出せる部分をトマラ(戸牡)と云ひ、それを戸臍に差し込みて樞(くるる)となす、
とある(大言海)。そこから転じて、広く、
扉、
または、
戸、
の称としてもつかう。和名類聚抄(平安中期)には、
樞、度保曾、俗云、度萬良、門戸之樞(くるる)也、
とあるが、天治字鏡(平安中期)には、
扃、扉、止保曾、
とある。「樞(くるる)」は、
回転(くるくる)の約(きらきら、きらら。きりきり、きりり)、クルル木と云ふが成語なるべし、
とある、
戸を回転させる機(しかけ)、
をいい、
くりり、
くろろ、
くる、
ともいう(仝上)。ややこしいのは、通常、
さる、
という、
戸の桟、
をもいう(仝上)。
(とぼそ https://togetter.com/li/1460596より)
「樞」の字は、
梁(ハリ)と敷居とにあけた小さい穴、
の意の、
とぼそ、
に当てるが、その穴に差し込む、
開き戸の上下にある突き出た部分、
つまり、
とまら(「と」は戸、「まら」は男根の意)、
にも、
樞、
を当てる(仝上・デジタル大辞泉)。その、
扉の端の上下につけた突起(とまら)をかまちの穴(とぼそ)にさし込んで開閉させるための装置、
を、
くるる、
というが、これにも、上述したように、
樞、
を当て(仝上)、
樞木(くるるぎ)、
ともいい、その扉を、
樞戸(くるるど)、
という。
「樞(枢)」(慣用スウ、漢音シュ、呉音ス)は、
会意兼形声。區は、曲がった囲いとそれに入り組んだ三つのものからなる会意文字。こまごまと入り組んださまを現わす。樞は「木+音符區」で、細かく細工をして穴にはめ込んだとびらの回転軸をあらわす、
とある(漢字源)。つまり、
形声。木と、音符區(ク)→(シユ)とから成る。「とぼそ」の意を表す。とぼそがとびらの開閉に重要なところから、転じて、かなめの意に用いる(角川新字源)、
会意兼形声文字です(木+区(區))。「大地を覆う木」の象形と「四角な物入れの象形と品(器物)の象形」(「区切って囲う」の意味だが、ここでは、「クルッとまわる」の意味)から、「とぼそ・くるる(開き戸を開閉する軸となる所)」を意味する「枢」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1676.html)、
である。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95