花嚴経は春の花、七所八會(ゑ)の苑(その)ごとに、法界唯心色深く、三草二木法(のり)ぞ説く(梁塵秘抄)。
の、
花嚴経(けごんきょう)、
は、
華厳経、
とも当て、大乗仏教の仏典の一つ、
大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)、
のことで(精選版日本国語大辞典)、梵語、
Buddhāvataṃsaka-nāma-mahāvaipulya-sūtra(ブッダーヴァタンサカ・ナーマ・マハーヴァイプリヤ・スートラ)、
は、
大方広仏の、華で飾られた(アヴァタンサカ)教え、
の意で、
大方広仏、
つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた創作経典、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C)。元来は、
雑華経(ぞうけきょう、梵語Gaṇḍavyūha Sūtra、 ガンダヴィユーハ・スートラ)、
すなわち、
様々な華で飾られた・荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え、
とも呼ばれていた、
インドで伝えられてきた様々な独立した仏典が、4世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものである、
と推定されている(仝上)。
釈迦が悟りを開いて後二七日目に、海印三昧に入って毘盧遮那法界身(びるしゃなほっかいしん)を現じ、蓮華蔵世界に住して、文殊(もんじゅ)などすぐれた菩薩に対して仏の悟りの内容を示した、
もので、
一切の世界を毘盧遮那仏の顕現とし、どんな小さな微塵も全世界を映し、一瞬の中に永遠を含むと説き、一即一切、一切即一の世界観を展開している、
とある(精選版日本国語大辞典)。
(西夏文字による華厳経 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8Cより)
「大日如来」で触れたように、密教においては大日如来と同一視される、
毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、
は、梵語、
Vairocana(ヴァイローチャナ)、
の音訳、
で、
光明遍照(こうみょうへんじょう)、
を意味し(大言海)、
毘盧舎那仏、
とも表記され、略して、
盧遮那仏(るしゃなぶつ)、
遮那仏(しゃなぶつ)、
とも表され(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E7%9B%A7%E9%81%AE%E9%82%A3%E4%BB%8F)、華厳経において、
中心的な存在として扱われる尊格、
である。華厳経には、
東晉の仏駄跋陀羅訳の六十巻本(六十華厳経、旧訳華厳経とも)、
唐の実叉難陀訳の八十巻本(八十華厳経、新訳華厳経とも)、
唐の般若訳の四十巻本(四十華厳経、貞元経とも)、
の三つがある(精選版日本国語大辞典)。
七所八會、
は、
七処八会(しちしょはちえ)、
と表記し、華厳経の、
説法の場所と会座の数、
をいい、
釈迦は寂滅道場菩提樹下で正覚を成じて後、三七日(即ち21日間。ただし華厳宗では二七日即ち14日間とする)にわたって華厳経の説法をした、
とされているが、これが、7つの場所で合計8回行なわれたので、
七処八会、
という(http://gmate.org/V03/lib/comp_gosyo_210.cgi?a=bcb7bde8c8acb2f1)。
釈尊が説法を行った場、
を、
会座(えざ)、
といい、転じて、
説法や法会の行われる場所や聴衆の座る席、
をいうが、経典の説かれる場所と会合とを区別する場合、説法の場所を、
処、
会合を、
会、
という(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BC%9A%E5%BA%A7)とある。『法華経』は、
霊鷲山と虚空との二処で三度説かれているから二処三会、
『六十華厳』(東晉の仏駄跋陀羅訳の六十巻本)は、
寂滅道場から重閣講堂までの七処で八度説かれているから七処八会、
『無量寿経』の会座は王舎城耆闍崛山(ぎじゃくっせん)、『阿弥陀経』は舎衛国祇樹給孤独園(ぎじゅきっこどくおん)、『観経』は王宮会(おうぐうえ)と耆闍会(ぎじゃえ)という二つの会座をもち、
一経二会、
といわれる(仝上)とある。
法界(ほっかい)、
は、梵語、
dharma-dhātu、
の訳(dhātuは本来「要素・成分」を意味する語だが、仏教用語としては、これに「界」や「性」の意味が付加された)、初期仏教では、
十八界、
の一つ、
あるいは、
六境、
のひとつ、
法境、
十二処、
のひとつ、
法処(ほっしょ)、
のことで、
意識の対象となるものすべてをいう、
とある(精選版日本国語大辞典)。しかし、大乗仏教ではと、
単なる意識の対象ではなく、宗教的な本源を意味する、
つまり、
この全宇宙の存在を法(真理)、
とみなし、
真如、
と同じ意味で使われるようになり(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%B3%95%E7%95%8C・精選版日本国語大辞典)、華厳教学では、
事法界(相対・差別の現象界)、理法界(絶対・平等の実体界)、
理法界(絶対・平等の実体界)、
理事無礙法界(現象界と実体界が本来一如で差別のないこと)、
事事無礙法界(現象界と実体界が本来一如であるから、現象界の個々の事象も互いに差別はなく、相即無礙であること)、
という四種を立てて、世界のあり方を説明する(仝上)。したがって、「法界」は、
万物を包含する全世界・全宇宙、
の意味でも使用される(仝上)とある。
因みに、「六境」とは「六根五内」で触れたように、
六根(目、耳、鼻、舌、身、心)をよりどころとする六種の認識の作用、
すなわち、
六識(ろくしき 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、
の総称、
つまり、
六界、
による認識のはたらきの六つの対象となる、
色境(色や形)、
声境(しょうきょう=言語や音声)、
香境(香り)、
味境(味)、
触境(そっきょう=堅さ・しめりけ・あたたかさなど)、
法境(意識の対象となる一切のものを含む。または上の五境を除いた残りの思想など)、
を、
六境(ろっきょう)、
という。
十二処(じゅうにしょ)、
は、
十二入、
ともいい、
六根と六境をあわせた一二の法、
のことをいい(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%87%A6)、
十八界(じゅうはっかい)、
は、
六根・六境・六識の一八種の法、
のこと(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%8C)をいう。
三草二木(さんそうにもく)、
は、「一味の雨」で触れたように、『法華経』薬草喩品の、
上草・中草・小草と大樹・小樹が等しく慈雨の潤沢を受けるように、機根の異なる衆生(しゅじょう)が等しく仏陀の教えを受けて悟りを開く、
のをたとえた語である(広辞苑)。また、
仏陀の教えはただ一つ、すなわち雨は同じであるが、それを受けて育つ植物が種々あるように、衆生の受け取り方はさまざまである、
のにたとえたともいう(精選版日本国語大辞典)。「三草」は、
上草・中草・下草の三、
「二木」は、
大樹・小樹、
を指す(仝上)。妙法蓮華経薬草喩品第五には、
譬如三千大千世界 山川渓谷土地(譬えば三千大千世界の山川・渓谷・土地に)
所生卉木叢林 及諸薬草 種類若干 名色各異(生いたる所の卉木・叢林及び諸の薬草、種類若干にして名色各異り)
密雲弥布。徧覆三千大千世界(密雲弥布して徧く三千大千世界に覆い)
一時等 (一時に等しくそそぐ)
其沢普洽 卉木叢林 及諸薬草(其の沢遍く卉木・叢林及び諸の薬草の)
小根小茎 小枝小葉 中根中茎 中枝中葉 大根大茎大枝大葉(小根・小茎・小枝・小葉・中根・中茎・中枝・中葉・大根・大茎・大枝・大葉に洽う)
諸樹大小 随上中下 各有所受(諸樹の大小、上中下に随って各受くる所あり)
一雲所雨。称其種性。而得生長。華果敷実(一雲の雨らす所、其の種性に称うて生長することを得て、華果敷け実なる)
とある(https://www.nichiren.or.jp/glossary/id156/)。この、
三草二木の喩え、
は、「窮子」で触れたように、
法華七喩(ほっけしちゆ)、
の一つである。「七喩」とは、法華経に説く、
七つのたとえ話、
で、
法華七譬(しちひ)、
ともいい、三草二木(さんそうにもく)の他、
三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品 「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)
がある(http://www2.odn.ne.jp/nehan/page024.html・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95