2023年11月09日
恒沙(ごうしゃ)
法華経此のたび弘めむと、佛に申せど許されず、地より出でたる菩薩たち、其の數六萬恒沙(ごうしゃ)なり(梁塵秘抄)、
の、
恒沙、
は、
ごうじゃ、
とも訓ますが、
恒河沙(ごうがしゃ)、
の略、
恒河(ガンジス川)の砂、
の意で、
無限の数量のたとえ、
として使われ、
諸仏の数は、恒河沙のごとく多い、
といわれたりし、
恒河、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
恒沙、
は、数の単位として、
10の52乗(一説に10の56乗)、
ともされる(デジタル大辞泉)。上述の引用の、
其の數六萬恒沙なり、
は、その意味のようである。ただ、
恒河沙を単位としてとらえるのは日本・中国においてであり、インド撰述の文献においては比喩として理解するのが妥当であろう、
ともある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%81%92%E6%B2%B3%E6%B2%99)。
恒沙、
には、別に、
毎日恒沙の定に入(い)り、三途の扉を押しひらき、猛火の炎(ほのを)をかきわけて、地蔵のとこそ訪(と)ふたまへ(梁塵秘抄)、
と使われる。この場合は、天台宗で説く、
三惑、
の一つ、
塵沙(じんじゃ)の惑の異称、
のことではないかと思う。
無数の一々の事理に迷い、他の教化をさえぎる煩悩、
の意である(仝上)。
三惑(さんわく)、
は、連声(れんじょう)で、
さんなく、
さんまく、
とも訓ますが、天台大師智顗が、
一切の惑(迷い・煩悩)、
を三種に立て分けたもので、
見思惑(けんじわく=見惑と思惑)、
塵沙惑(じんじゃわく)、
無明惑(むみょうわく)、
を総称していう(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。
見思惑、
は、
見惑と思惑のこと、
で、見惑は、
後天的に形成される思想・信条のうえでの迷い、
思惑は、
生まれながらにもつ感覚・感情の迷い、
をいい、
この見思惑を断じて声聞・縁覚の二乗の境地に至る、
とされるという(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%8F%E3%81%8F)。
塵沙惑、
は、
菩薩が人々を教え導くのに障害となる無数の迷い。菩薩が衆生を教化するためには、無数の惑を断じなければならない故にこういう、
とある(仝上)。塵沙は無量無数の意である。
無明惑、
は、
仏法の根本の真理に暗い根源的な無知。別教では十二品、円教では四十二品に立て分けて、最後の一品を「元品の無明」とし、これを断ずれば成仏の境地を得るとしている、
とある(仝上)。
見思惑、
は、
声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して伏すべき迷いであるゆえに、
通惑、
ともいい、
塵沙・無明、
の二惑は別して菩薩のみが断ずる惑なので、
別惑、
ともいう(仝上)。小乗では、
見惑を断じて聖者となり、思惑を断じて阿羅漢果に達する、
としているが、大乗では、
菩薩のみがさらに塵沙・無明の二惑を次第に断じていくとする(仝上)。天台宗では、三惑は、
即空・即仮・即中、
の円融三観によって断ずることができると説いているとある。
即空・即仮・即中、
については、円融三観で触れた。
上述の、
恒沙の定
とある、
定(じょう)、
は、
「禅定」で触れたように、
もとsamādhi の訳語で、心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめること、
であり(精選版日本国語大辞典)。「定」と訳す、
Samādhi、
は、
三昧、
とも訳されたりし、
如来。無礙力無畏禅定解脱三昧諸法皆深成就故。云広大甚深無量(法華義疏)、
と、
散乱する心を統一し、煩悩の境界を離れて、静かに真理を考えること、
である(岩波古語辞典)。
入定(にゅうじょう)三昧、
ともいう(大言海)。なお、
三惑、
には、
我に三不惑有り、酒・色・財なり(後漢書・楊秉伝)、
に由来する、
われに三惑あり、一には酒にまどひ、二は色にまどひ、三はたからにまどふ(「蒙求和歌(1204)」)、
と、
酒・色・財、
をも指す(精選版日本国語大辞典・字通)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95