2023年12月01日

砧(きぬた)


声すみて北斗にひゞく砧哉(芭蕉)、

の、

砧、

は、

碪、

とも当て、

衣板(きぬいた)の約、

とされるように、和名類聚抄(平安中期)には、

岐沼伊太、

と読ませ、

木槌(キヅチ)で布(洗濯した布や麻・楮(コウゾ)・葛(クズ)などで織った布や絹)を打って布地をやわらげ光沢を出すのに用いる、板や石の台、

の意だから(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)、

うちばん、

ともいう(大言海)が、

それで布を打つこと、

もいい、また、さらに、

その音、

にもいう(学研全訳古語辞典)。その「槌」は、

短き丸木に細き棒をつけたる、蒲の穂の如きを用ゐる、

とある(大言海)。歌語としては、

砧を打つ、

は、

白妙の衣うつ砧の音もかすかにこなたかなた聞きわたされ空飛ぶ雁の声取り集めて忍びがたきこと多かり(源氏物語)、

と、

秋、

のものとされ、

砧打ちは女の秋・冬の夜なべ仕事、

とされた(岩波古語辞典)。古くは、

夜になるとあちこちの家で砧の音がした、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7

砧(学研全訳古語辞典).jpg

(砧木 学研国語大辞典より)


砧(和漢三才図絵).jpg

(砧(和漢三才図会) 「枮」は木製のきぬた https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7より)

砧(きぬた)は、

厚布を棒に巻き付け、その上に織物の表を内側にして巻き付け、さらに外側を厚手の綿布で包み、これを木の台に乗せ、平均するように槌(つち)で打つ、

とされる(仝上)。装束に使う絹布などは、

糊をつけ、これを柔らかくし、光沢を出すために砧で打つ、

とされ(仝上・岩波古語辞典)、こうした衣を、

打衣(うちぎぬ)、

といい、

男子の衣(きぬ)・袙(あこめ)、女子の袿(うちき)、

などに使った(仝上)。「袙」は、「いだしあこめ」、「小袿(こうちぎ)」で触れた。

「砧」には、民具として木製のものが普及していたが、表記としては、材質にかかわらず、

砧、

が使われ、木製のものに、

枮、

の字が使われることもあったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7とある。

砧(大辞泉).jpg

(月下砧打ち美人図(應為栄女) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%A7より)

当初は、

布を臼に入れ相対した2名の婦人が米をつくようにして打った、

が、後世には、

布を石板または木板の上に延べ、横杵で交互に打つ、

ようになった(ブリタニカ国際大百科事典)。

「砧」 漢字.gif



「砧」(チン)は、

会意兼形声。「石+音符占(セン・テン 一定の場所に固定する)」、

で、「きぬた」の意で、

布や衣の通夜を出すために、また洗うために使う石の台、

をいう(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(石+占)。「崖の下に落ちている、いし」の象形と「うらないに現れた形の象形と口の象形」(占いは亀の甲羅に特定の点を刻んで行われる事から、特定の点を「しめる」の意味)から、「一定の場所にすえて置く石の台」を意味する「砧」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2613.html

「碪」 漢字.gif


「碪」(漢音・呉音チン、漢音ガン、呉音ゴン)は、

会意兼形声。「石+音符甚(ずっしりと下がる、ずっしりと重みを受ける)」、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年12月02日

南無


南無さん、よいの相談をきいたかしてのいた(狂言記「磁石」)、

の、

南無三、

は、

げに何事も一睡の夢、南無三宝(謡曲「邯鄲」)、

と、

南無三宝(なむさんぼう)の略、

で、

仏に帰依(きえ)を誓って、救いを求めること、

で、転じて、

南無三、しくじった、

などと、

突然起こったことに驚いたり、しくじったりしたときに発する言葉。、

として使ったりする(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

三宝、

は、

仏法僧、

つまり、

仏と仏の教えと教えを広める僧、

のことである(「僧伽」で触れた)。

南無、

は、梵語、

Namas、

の音写、

南摩、
納莫(ノウマク)、
南謨、

とも音写し(デジタル大辞泉)、室町時代の「文明本節用集」には

南無、ナム、帰命語也救我也敬順也又南謨南芒南牟南膜南麽納無南莫南忙曩謨那蒙、

とあるようにいろいろな漢字を当てるが、

Namas、

は、

頭を下げる、
お辞儀をする、

の意味であり、

敬礼(きょうらい)、
帰命(きみょう)、

と訳し、

帰依すること、
信を捧げること、

の意で、翻訳名義集(南宋代の梵漢辞典)には、

南無、或那謨、或南摩、此翻帰命、要律儀、翻恭敬、善見論、翻帰命覚、或翻信徒

とあり、善導が、

「南無」と言うは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義(観経疏)、

と釈すように、

尊いものへの信頼や敬意を表す語、

であり、

南無阿弥陀、
南無帰命頂礼、
南無妙法蓮華経、
南無八幡大菩薩、、

などと、

南無~、

の形で、

~に帰依する、

ことを表すhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%97%E7%84%A1。現代のヒンディー語では、「こんにちは」を、

ナマステー(namaste)、

というが、直訳すると、

「あなたに(te)帰依する(namas)」の意であり、南無(namas)の語が現代インドにおいても息づいている(仝上)とある。

南無阿弥陀仏、

というと、

阿弥陀仏に帰命するの意で、これを唱えるのを、

念仏、

といい、それによって極楽に往生できるという。

六字の名号(みょうごう)、

ともいう(広辞苑)。これを洒落て、

南無阿弥豆腐、

というと、

豆腐の異称、

で、

禅僧が多く豆腐を食べることから、また、その念仏の声のナムオミドウと聞こえる、

ことから南無阿弥陀仏にかけたことばである(仝上)。

南無妙法蓮華経(なむ‐みょうほうれんげきょう)、

は、

妙法蓮華経に帰依する、

意で、これを唱えれば、真理に帰依して成仏するといい、

題目、
本門の題目、
七字の題目、
御題目、

などともいう(仝上・デジタル大辞泉)。

南無帰命、

は、強調した形で、

梵語namas(南無)とその漢訳語「帰命」を重ねた語、

で、

心から帰依する、

意になる。

南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)、

は、

三宝(さんぼう)に帰依して仏足を頭に戴いて礼拝する意を表す、

語になる(仝上)。

「南」 漢字.gif

(「南」 https://kakijun.jp/page/0920200.htmlより)


「南」 甲骨文字・殷.png

(「南」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%97より)

「南」(漢音ダン、呉音ナン、慣用ナ)は、

会意兼形声。原字は、納屋ふうの小屋を描いた象形文字。入の逆形が二線さしこんださまで、入れ込む意を含む。それが音符となり、屮(くさのめ)とかこいのしるしを加えたのが南の字。草木を囲いで囲って、暖かい小屋の中に入れこみ、促成栽培をするさまを示し、囲まれて暖かい意、転じて取り囲む南がわを意味する。北中国の家は北に背を向け、南に面するのが原則、

とあり(漢字源)、

象形。鐘状の楽器を木の枝に掛けた形にかたどる。南方の民族が使っていた楽器であったことから、「みなみ」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「草」の象形と「入り口」の象形(「入る」の意味)と「風をはらむ帆」の象形(「風」の意味)から春、草・木の発芽を促す南からの風の意味を表し、そこから、「みなみ」を意味する「南」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji150.htmlが、

『説文解字』では「𣎵」+「𢆉」と分析されているほか、鐘に類する楽器の象形という説、「屮」+「丹」と分析する説もあるが、いずれも甲骨文字の形とは一致しない誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%97、上記三説は、何れも間違いで、

象形。「同」(祭器のひとつ)に祭品を備えた形を象る。のち仮借して「みなみ」を意味する漢語{南 /*nəəm/}に用いる、

とする(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年12月03日

後朝(きぬぎぬ)


あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり(藤原敦忠)、

は、

後朝(きぬぎぬ)の歌、

とされる。

きぬぎぬ、

は、

衣衣、

と当て、本来は、

風の音も、いとあらましう、霜深き晩に、おのが衣々も冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど(源氏物語)、

と、

衣(きぬ)と、衣と、

の意で、

各自に着て居る衣服、

をいう(大言海)。しかし、

しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき(古今集)、

の、顕昭(1130(大治5)年?~ 1209(承元元)年)注本に、

結句、きるぞかなしき、とあるはぞよろしかるべき、

とし、

きぬぎぬとは、我が衣をば我が着、人の衣をば人に着せて起きわかるるによりて云ふなり、

とあり(古今集註)、

男女互いに衣を脱ぎ、かさねて寝て、起き別るる時、衣が別々になる意、

とし(大言海)。この歌より、

男女相別るる翌朝の意として、

後朝(きぬぎぬ)、

と表記して、

きぬぎぬ、

とした(仝上)とある。平安時代は、

妻問婚(つまどいこん)、

https://mag.japaaan.com/archives/199944、男性が女性の家に通う婚姻スタイルが一般的であり、朝になったら別れなければならなかったが、当時は、

敷布団はなく、貴族の寝具は畳で、その畳の上に、二人の着ていた衣を敷き、逢瀬を重ねます、

とかhttps://www.bou-tou.net/kinuginu/

布団が使われ出したのは、身分の高い人で江戸期、庶民は明治期からで、それ以前は、着ていた衣をかけて寝ていた、

とあるhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054921231796/episodes/1177354055255278737ので、

脱いだ服を重ねて共寝をした、翌朝、めいめいの着物を身に着けること、

の意から、

きぬぎぬになるともきかぬとりだにもあけゆくほどぞこゑもおしまぬ(新勅撰和歌集)、

と、

男女が共寝して過ごした翌朝、

あるいは、

その朝の別れ、

をいい、

きぬぎぬの別れ、
こうちょう(後朝)、
ごちょう(後朝)、

ともいい、さらに転じて、後には、

此ごとくに、きぬぎぬに成とても、互にあきあかれぬ中ぢゃ程に、近ひ所を通らしますならば、必ず寄らしませ(狂言記「箕被(1700)」)、

と、広く、

男女が別れること、

にもいい、さらには、

首と胴とのきぬぎぬさあ只今返事は返事はと(浮世草子「武道伝来記(1687)」)、

と、

別々になること、
はなればなれになること、

でも使った。

後朝の暁を、

きぬぎぬの空、

といい(大言海)、後朝の朝を、

後の朝(のちのあさ・のちのあした)

と言ったが、

暁に帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒もと、結ひかためずともありなむとこそおぼゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ(枕草子)、

とある、

後朝(きぬぎぬ)の別れ、

には、当時のマナーがあり、

翌朝、まだ空が暗いころに男性は家へ帰り、女性に文を送る、

つまり、

後朝の文、

遣わすことが必要であったhttps://mag.japaaan.com/archives/199944。その文の使いを、

後朝の使(きぬぎぬのつかい・ごちょうのつかい)、

といった(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

代表的な、後朝の文の歌に、「百人一首」にも入っている、

あひみてののちのこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり(権中納言敦忠)
君がため惜しからざりしいのちさへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝)
あけぬれば暮るるものとはしりながらなほうらめしき朝ぼらけかな(藤原道信)

があるhttps://flouria001.com/entry/kinuginu-no-fumi/

「朝」 漢字.gif


「朝」 甲骨文字・殷.png

(「朝」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%9Dより)

「朝」 金文・西周.png

(「朝」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%9Dより)

「朝」(①漢音・呉音チョウ、②漢音チョウ、呉音ジョウ)は、

会意→形声。もと「艸+日+水」の会意文字で、草の間から太陽がのぼり、潮がみちてくる時をしめす。のち「幹(はたが上るように日がのぼる)+音符舟」からなる形声文字となり、東方から太陽の抜け出るあさ、

とある(漢字源)。①は、「太陽の出てくるとき」の意の「あさ」に、②は「来朝」のように、「宮中に参内して、天子や身分の高い人のおめにかかる」意の時の音となる(仝上)。同趣旨で、

形声。意符倝(かん 日がのぼるさま。𠦝は省略形)と、音符舟(シウ)→(テウ)(は変わった形)とから成る。日の出時、早朝の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「草原に上がる太陽(日)」の象形から「あさ」を意味する「朝」という漢字が成り立ちました。潮流が岸に至る象形は後で付された物です、

ともhttps://okjiten.jp/kanji152.htmlあるが、

「朝」には今日伝わっている文字とは別に、甲骨文字にも便宜的に「朝」と隷定される文字が存在する、

としてhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%9D

会意文字。「艸」(草)+「日」(太陽)+「月」から構成され、月がまだ出ている間に太陽が昇る明け方の様子を象る。「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}を表す字。この文字は西周の時代に使われなくなり、後世には伝わっていない、

とは別に、

形声。「川」(または「水」)+音符「𠦝 /*TAW/」。「しお」を意味する漢語{潮 /*draw/}を表す字。のち仮借して「あさ」を意味する漢語{朝 /*traw/}に用いる。今日使われている「朝」という漢字はこちらに由来する、

とし、

『説文解字』では「倝」+音符「舟」と説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、「倝」とも「舟」とも関係が無い、

とある(仝上)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2023年12月04日

重陽


はやくさけ九日(くにち)もちかしきくのはな(芭蕉)、

の、

九日(くにち)、

は、

九日の節句、

つまり、五節句の一つである、

九月九日の重陽(ちょうよう)の節句、

である。中国では、一族で丘に登る、

登高、

という行楽の行事がある(広辞苑)。

都城重九後一日宴賞、號小重陽(輦下歳時記)、

と、

重九(ちょうきゅう)、

ともいう(字源)。

歳往月來、忽復九月九日、九為陽數、而日月竝應、故曰重陽(魏文帝、輿鐘繇書)、

と、

陽數である、

九が重なる、

意である。これを吉日として、

茱萸(しゅゆ)を身に着け、菊酒を飲む習俗、

が漢代には定着し、五代以後は朝廷での飲宴の席で、

賦詩、

が行なわれた(精選版日本国語大辞典)。「茱萸」(しゅゆ)は、

ごしゅゆ(呉茱萸)(または、「山茱萸(さんしゅゆ)」)の略、

とされ(精選版日本国語大辞典)、

呉茱萸、

は、古名、

からはじかみ(漢椒)、

結子五、六十顆、……状似山椒、而出于呉地、故名呉茱萸(本草一家言)、

とあり、中国の原産の、

ミカン科の落葉小高木、

で、古くから日本でも栽培。高さ約3メートル。茎・葉に軟毛を密生。葉は羽状複葉、対生。雌雄異株。初夏、緑白色の小花をつける。紫赤色の果実は香気と辛味があり、生薬として漢方で健胃・利尿・駆風・鎮痛剤に用いる、

とある(広辞苑)。

ゴシュユ.jpg


からはじかみ、
川薑(かわはじかみ)、
いたちき、
にせごしゅゆ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)

重陽宴、題云、観群臣佩茱萸(曹植‐浮萍篇)、

と、昔中国で、この日、

人々の髪に茱萸を挿んで邪気を払った、

あるいは、昔、重陽節句に、

呉茱萸の実を入れた赤い袋(茱萸嚢(しゅゆのう)、ぐみぶくろ)を邪気を払うために腕や柱などに懸けた、

ので、

茱萸節、

ともいうように、

茱萸、

を節物とした(大言海)。重陽節の由来は、梁の呉均(ごきん)著『続斉諧記』の、

後漢の有名な方士費長房は弟子の桓景(かんけい)にいった。9月9日、きっとお前の家では災いが生じる。家の者たちに茱萸を入れた袋をさげさせ、高いところに登り(登高)、菊酒を飲めば、この禍は避けることができる、と。桓景はその言葉に従って家族とともに登高し、夕方、家に帰ると、鶏や牛などが身代りに死んでいた、

との記事の逸話をもってするとある(世界大百科事典)。この逸話に、重陽節の。

登高、
茱萸、
菊酒、

の三要素が挙げられている。重陽節は、遅くとも3世紀前半の魏のころと考えられる(仝上)とある。呉茱萸は、重陽節ごろ、芳烈な赤い実が熟し、その一房を髪にさすと、邪気を避け、寒さよけになるという。その実を浮かべた茱萸酒は、菊の花を浮かべた略式の菊酒とともに、唐・宋時代、愛飲された(仝上)とある。呉自牧の『夢粱録』には、

陽九の厄(本来、世界の終末を意味する陰陽家の語)を消す、

とある(仝上)という。

こうした行事が日本にも伝わり、『日本書紀』武天皇十四年(685)九月甲辰朔壬子条に、

天皇宴于旧宮安殿之庭、是日、皇太子以下、至于忍壁皇子、賜布各有差、

とあるのが初見で、嵯峨天皇のときには、神泉苑に文人を召して詩を作り、宴が行われ、淳和天皇のときから紫宸殿で行われた(世界大百科事典)。

菊は霊薬といわれ、延寿の効があると信じられ、

重陽の宴(えん)、

では、

杯に菊花を浮かべた酒(菊酒)を酌みかわし、長寿を祝い、群臣に詩をつくらせた、

とある(精選版日本国語大辞典)。菊花を浸した酒を飲むことで、長命を祝ったので、

菊の節句、

ともいう。

詩宴、

は漢詩文を賦するのが本来であるが、和歌の例も「古今集」に見られ、時代が下るにつれ、菊の着せ綿や菊合わせなどが加わり、菊の節供としての色合いが強調されるようになり(精選版日本国語大辞典)、江戸幕府は、これを最も重視したため、江戸時代には五節供の一つとして最も盛んで、民間でも菊酒を飲み、栗飯(くりめし)をたいた(マイペディア)。

重陽.bmp

(重陽の節会(大和耕作絵抄) 精選版日本国語大辞典より)

山茱萸(さんしゅゆ)、

は、日本へは享保年間(一七一六‐三六)に薬用植物として渡来した、

とある(精選版日本国語大辞典)。

ミズキ科の落葉小高木。幹は高さ三~五メートルになり、樹皮はうろこ状にはげ落ちる。葉は対生し短柄をもち、長卵形で先はとがり、裏面は白緑色で葉脈には褐色の細毛を密生する。早春、葉に先だって、小枝の先に四枚の苞葉に包まれた小さな黄色の四弁花を球状に多数密集してつける、

という(仝上)。果期は秋で、

果実は核果(石果)で、長さ1.2~2 cmの長楕円形で、10月中旬~11月に赤く熟し、グミの果実に似ている、生食はできないが、味は甘く、酸味と渋みがある、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A6。ただ、和名の、

サンシュユ、

は、輸入された当時の学識者が、山茱萸の漢名をそのまま音読したもので、これが現在まで標準和名として伝わっているhttps://www.miyakanken.co.jp/column1/1060ものの、

山茱萸、

という名は、

薬用部分(果実)を指す漢方の生薬名、

なので、中国にもこのような名前の植物は存在しない(仝上)とある。

サンシュユ.jpg



サンシュユの実.jpg

(サンシュユの実 仝上)

なお、

菊花ひらく時則重陽といへるこゝろにより、かつは展重陽のためしなきにしもあらねば、なを秋菊を詠じて人をすゝめられける事になりぬ(芭蕉、真蹟 扇面・許六 宛書 簡)、

とある、

展重陽、

とは、

国忌のために宮中の重陽の宴を延期し、十月に残月の宴として行うこと、

とある(雲英末雄・佐藤勝明訳註『芭蕉全句集』)。

七夕」で触れたように、五節句は、

人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、

である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児白酒については触れた。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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ラベル:重陽 呉茱萸
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2023年12月05日

詩化注釈


大岡信『百人一首』を読む。

百人一首.jpg


本書は、ただ「百人一首」を注釈したのではなく、

「私は、この本でささやかな試みをしてみた。すなわち、通常の注釈書では「通釈」とよばれている部分に、行分けの形にした一種の現代詩訳を置いた」

ということを試みている(はじめに)。それを、

現代詩訳、

あるいは、

百人一首の和歌を「楽譜」とした、現代語 による「演奏」

と言っている。

現代詩、

というほど、言葉が結晶化されているわけではないので、和歌と対比すると、和歌が、

詩、

とすると、

散文詩、

的である。たとえば、第一首は、

秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみわが衣手(ころもで)は露にぬれつつ

が、

稲が実った田のかたすみ
番をするため仮小屋をたてて私は泊る
屋根を葺いた苫は即製 目はあらい
隙間から洩れ落ちる露に
濡れそぼつ袖は 乾くまもない

となる。どうしても、説明的になる。しかし、逆に、だから、和歌の持っている折り畳まれた心情や意味やイメージが、この説明でより分解され、わかりやすくなっている点はある。

『百人一首』は、

恋の歌、

が四十三首と、半数近い。しかも、

雜(ぞう)の部に入っている清少納言の「夜をこめて鳥の空音ははかるとも」や、春の部の周防内侍の「春の夜の夢ばかりなる手枕に」、あるいは秋の部にある後京極摂政前太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさ筵に」など、恋の歌としても通じるものである。

となると(解説)、ますます偏る。一応意識はしないで、選んでは見た。ただ、本書の構成上、どうしても、選び出すとなると、原歌とセットで取り上げることになる。けれども、名にし負う定家が、名歌許りを集めているのだから、その中から、素人が、選ぶのはかなり苦しい。ま、以下の通りではある。

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

山鳥は夜ともなれば 一羽一 羽
べつべつの峰に谷を隔てて眠るという
そのしだれ尾を闇のなかへ長く垂れて─
ああそのようにこのひややかな秋の夜の
長い長い時のまを 添うひともなく
わたしはひっそり寝なくてはならないのか

奥山に紅葉(もみぢ)踏みわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき

秋ふかい奥山に紅葉は散り敷き
妻問いの鹿が踏みわけ踏みわけ
悲しげな声で鳴きながらさまよう
あの声をきくと
秋の愁いはふかまるばかりだ

鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける

七夕の夜 かささぎが羽を連ね
思われ人を向う岸に渡してやった天上の橋よ
今は冬 かの天の橋にも紛う宮中の御階(みはし)に
まっしろな霜が降りている
目に寒いこの霜ゆえに しんしんと夜は深まる

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

春は爛(た)け 我にかえって眺めやれば
花はもう盛りをすぎ 色あせてしまった
ああ この長雨を眺めつくし
思いに屈していたあいだに 月日は過ぎ
花はむなしくあせてしまった そして私も

これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふ坂の関

これがかの 名にし負う逢坂の関
東下りの旅人も 京への人も
知り人も 見知らぬ人も
たとえこの地で東に西に別れようと
きっとまた逢う日もあろう
名にし負う 逢坂の関

みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにしわれならなくに

陸奥の信夫のもじずり
黒髪おどろに乱したようなその乱れ模様
それは今の私のこころだ
あなたは私を疑っておいでなそうな
なさけなや あなたよりほかの誰を思うて
こんなにこころを乱すものか

ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは

ちはやぶる神の御代にも
これほどの景観は未聞のさま
川水をからくれないにしぼり染めて
目もくらむ真紅の帯の
龍田川の秋

わびぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしても遭はむとぞ思ふ

噂がたってからというもの
お逢いではず 心は怏々
お逢いしてもしなくても今となっては同じこと
難波の海の澪標(みおつくし)ではありませんが
この身を尽くし 捨てはてても
お逢いしたい 逢ってください

月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど

秋の月を見あげていると
おもいは千々に乱れ もの悲しさに包まれる
秋はすべての人にやってきていて
私だけの秋というわけでもないのに
なぜかひとり私だけが秋の中にいるようで

心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花

朝まだき 庭一面に ああ今年の初霜
白菊を折ろうと下り立ち 私はとまどう
霜の白菊が菊の白とまざり合って-
折るならば 当て推量に手をのばそうか
霜にまじって所在不明の白菊の花

久方の光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ

ひさかたの天にあふれる日の光
春の日はゆったりとすぎ 暮れるともない
こののどかな日を ただひとり
花だけがあわただしく散る
なぜそのように 花よ おまえばかりが……

たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに

親しい友はみな世を去って
私ひとり老さらばえて息づいている
高砂の松はいのち長く生い茂っているが
松は昔の友ではない みれば寂しさがいやまさる
ああ どこの誰を友と呼んだらいいのだろう

これは、注釈詩が成功している例のひとつに思う。

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

あなたはさあ いかがでしょうか
あなたの心ははかりかねます
でもこの見なれた懐かしいふるさと
さすがに花は心変りもせず
昔ながらに薫って迎えてくれていますね

しらつゆに風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける

夜明けの原いちめんの秋の野草
そのうえにおくいちめんの露
風がしきりに吹き寄せるたび
ばらばらときらめいて散る
まだ糸を通していない 真珠の玉

しのぶれど色にでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで

胸のうちに秘め隠し 忍びに忍んできた恋なのに
あわれ面(おもて)にまで出てしまったのか
「戀わずらいをなさっておいでか」
そう人から興味ありげにたずねられるほどに

戀すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか

この私が 戀わずらいをしているという噂
人の口には戸はたてられぬ とはいうものの
なんということだろう
ひそかに ひそかに あのひとのことを
思いそめたばかり なのに

あひみての後のこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり

思いをとげるまでの苦しさ
あんなつらいことがあっただろうか
それなのに 私は今胸かきむしられている
あなたと一夜をともにしてからというもの
あんなつらさの思い出など
ものの数にもはいらなくなってしまった

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いを

こんなにもこがれていますと
それだけでも伝えたいのにとても言えない
私はまるで息吹のさしも草
火がついて 私は燃える 熱して燃える
でもあなたには この火は見えない

あらざらむこの世のほかの思い出にいまひとたびのあふこともがな

わたしは死ぬかもしれません こんどこそ
死んであの世に ただ魂魄となって生き
この世のことを思い出すばかり―
ああそのとき きっと思い出すために
いまひとたび あなたにお逢いしたいのです

有馬山豬名(ゐな)のささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする

わたしがあなたに「否」などと申したでしょうか
有馬山 豬名のささ原 風吹きわたれば
ささ原はそよぎ それよそれよと頷きます
そうでしょう この私が
なんであなたを忘れたりするものでしょうか

やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな

こんなことを知っていましたら
ためらわず寝てしまえばよかったのに
夜がふけて 人の気も知らぬげな月が
西山にかたぶくまで眺め明かしたことでした
あなたをじっとお待ちしながら

大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

母のいる丹後の国は遥かかなた
私はまだその地を踏みもせず
なつかしい母の文(ふみ)もまだ見ていません
大江山そしてまた生野の道
あまりに遠い 天の橋立

いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

そのかみ
奈良の都に咲きほこった八重桜
京の都の九重の宮居のうちに
今日照り映えて 咲きほこって

恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむなこそ惜しけれ

世間はどうしてこんなにも口さがないのか
さもなくてさえ情(つれ)ない人は恨めしく
わたしは侘しく 袖の乾くひまさえないのに
世間はどうして噂ばかり……この浮名ゆえ
涙に浸かって朽ちはてるのか 哀れ わたしは

さびしさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ

夕暮れ
家にいても身にしみるさびしさ
おもてに出て見渡せば
どちらにも同じ
秋の色

わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波

海原に舟を漕ぎだす
陸地はやや平らに沈み
見はるかす沖合は
白波ばかり……
ひさかたの雲かとばかり

瀬をはやみ岩にせかかる滝川のわれても末に遭はむとぞ思ふ

滝川の瀬は急流だから
岩にあたって激しく割れる 二筋に
けれどふたたび流れは出会う 抱(いだ)き合う
ああ 何としてでも 私はあなたと抱き合う
川瀬のように 今は二つに裂かれていても

長からむ心も知らず黒髪のみだれて今朝はものをこそ思へ

いつまであなたを繋ぎとめておけるでしょう
思うまいとしても思いはそこへ行ってしまう
別してこんなに黒髪も乱れたままに
いとしがり愛しあった夜(よ)の明けは
黒髪の乱れごころは千々のに乱れる

ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる

待ち明したほととぎす
一声鳴いて あとはほのか
空をさぐれば
あの声の あれは残夢か
ただひとつ 有明の月ほのか

ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき

ままよ この捨て果てて悔いないいのち
とは言うものの 生きながらえてみればまた
今この時が恋しくなるのは必定さ
つらかった昔のことがこんなにも懐かしい
人間とはまたなんという奇妙ないきもの

村雨の露もまだひぬまきの葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ

ひとしきり降って過ぎた村雨の露は
まだ真木の葉に光っているのに
はや霧が 万象をしっとり包んで
たちのぼる さわやかに……
秋の夕暮れ

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

わが命よ 玉の緒よ ふっつりと
絶えるならば絶えておくれ
このままこうして永らえていれば
心に固く秘め隠しているこの恋の
忍ぶ力が弱まって 思慕が外に溢れてしまう

人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

詮ないことだが世を思う
世を思えば物を思う
いとしい者がいる 憎い者がいる
つまらない世に
なおこの愛と憎しみのある心のふしぎ

こう取り上げてみると、どれも、どこかで耳にした歌だとわかる。その言葉の調子が、確かに残っている気がするのは、教科書などで何度か読んだからに違いない。

参考文献;
大岡信『百人一首』(講談社文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年12月06日

影待(かげまち)


影待や菊の香のする豆腐串(芭蕉)、

の、

影待(かげまち)、

は、

正月・五月・九月の吉日、飲食しながら夜を徹して日の出を待つ行事、

をいい(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、ここの「影待」は、

九月、

であるらしい(仝上)。

影待、

は、

日待、

に同じ(広辞苑)とある。

日待の、

マチ、

は、

待ち、

と当てているが、

祭りと同源(精選版日本国語大辞典)、
マツリ(祭)の約(志不可起・俚言集覧・三養雑記・桂林漫録・新編常陸風土記-方言=中山信名・綜合日本民俗語彙)、

とあり、その「まつり」は、

奉り、
祭り、

と当て、

神や人に物をさしあげるのが原義。類義語イワヒ(祝)は一定の仕方で謹慎し、呪(まじない)を行う義。イツキ(斎)は畏敬の念をもって守護し仕える義、

とある(岩波古語辞典)。だから、

待つこと、

は、本来、

神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、

という素朴で原初的な意味の、

神祭のありかた、

を示していたものとみられる(日本昔話事典)。当然、そこに集まる者は、

厳重な物忌、精進潔斎、

が要求され、村落にあって近隣同信のものが同じ場所に集まり、

一夜厳重に物忌して夜を明かす、

という行事を、

まちごと(待ちごと)、

と総称した(仝上)。

庚申の日、
甲子の日、
巳の日、
十九夜、
二十三夜、

等々があり、

庚申(こうしん)待ち
甲子(きのえね)待ち、
十九夜講、
二十三夜講、

等々と呼ばれる。この中でも一番普遍的な形のものが、

日待ち、

であり、

日祭の約(大言海)、

とあるように、

「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした、

ともいわれ(精選版日本国語大辞典)、

日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもの、

で(日本史辞典)、

ある決まった日の夕刻より一夜を明かし、翌朝の日の出を拝して解散する、

ものだが、元来、神祭の忌籠(いみごもり)は、

夜明けをもって終了する、

という形があり、「日待」もその例になる(世界大百科事典)とある。その期日は土地によってまちまちで、

正・五・九月の一日と十五日(日本昔話事典)、
1、5、9月の16日とする所や、月の23日を重んずる所もある。なかでも6月23日が愛宕権現(あたごごんげん)や地蔵菩薩(ぼさつ)の縁日で、この日を日待とするのもある。また庚申講(こうしんこう)や二十三夜講の日を日待とする所もある(日本大百科全書)、
一般に正・5・9月の吉日(広辞苑・大辞泉・大辞林)、
正月・五月・九月の三・一三・一七・二三・二七日、または吉日をえらんで行なうというが(日次紀事‐正月)、毎月とも、正月一五日と一〇月一五日に行なうともいい、一定しない(精選版日本国語大辞典)、
1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的(日本史辞典)、
旧暦1・5・9月の15日または農事のひまな日に講員が頭屋(とうや(とうや その準備、執行、後始末などの世話を担当する人))に集まる(百科事典マイペディア)、

等々と、正・五・九月以外は、ばらつく。

江戸初期の京都を中心とする年中行事の解説書『日次紀事』には、

凡良賤、正五九月涓吉日、主人斎戒沐浴、自暮至朝不少寝、其間、親戚朋友聚其家、雜遊、令醒主人睡、或倩僧侶陰陽師、令誦経咒、待朝日出而獻供物、祈所願、是謂日待……待月其式、粗同、凡日待之遊、

とある。これは町家の例だが、村々でも似ていて、

その前夜の夕刻から当番の家に集まる。(中略)当番に当たったものは、一晩中、神前の燈明の消えないように注意し、カマドの灰はすべて取り出して塩で清め、柴でなくて薪を使うとか、家中の女は全部外に出して、男手だけで料理を用意したともいう。集まるものも必ず風呂に入り、清潔な着物で出席した、

とも(日本昔話事典)、あるいは、

講員は米を持参して当番の家に集まり、御神酒(おみき)を持って神社に参詣する。香川県木田(きた)郡では、春と秋の2回、熊野神社の祭日に餅(もち)と酒を持参して本殿で頭屋2人を中心として、天日を描いた掛軸を拝む。土地によっては日待小屋という建物があって、村の各人が費用を持参する例もある。変わったものに鳥取市北西部に「網(あみ)の御日待」というのがあり、9月15日に集まって大漁を祈願するという、

とも(日本大百科全書)、また、

家々で交代に宿をつとめ、各家から主人または主婦が1人ずつ参加する(世界大百科事典)、

ともある。もともとは、

神霊の降臨を待ち、神とともに夜を明かす、

ことが本来の趣旨だったからと思われる(日本昔話事典)。しかし、「待つ」という言葉の含意から、

日の出を待って拝む、

に力点が移った(仝上)とされ、

影待(かげまち)、

以外にも、

御日待(おひまち)、

とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、後には、大勢の男女が寄り集まり徹夜で連歌・音曲・囲碁などをする酒宴遊興的なものとなる(仝上)。だから、

単に仲間の飲食する機会、

を「日待」というところも出てくる。ただ、

マチゴトとして神とともにあったことから、その席には神と人の合歓(ごうかん いっしょに喜ぶこと)をめぐる口承文芸が伝承される場、

となり、やがては夜を徹して眠気を払うための話題が求められ(日本昔話事典)、様々な話を語り、伝え合うことになった(日本昔話事典)。

この「日待ち」と対になるのが、

月待(ち)、

で、

十九夜待、
二十三夜待、
二十六夜待、

は、日待と区別して月待と呼ぶ(世界大百科事典)。「月待」も、

月祭(つきまつり)の約、

とある(大言海)。

マチは待ちうけること(日本昔話事典)、
まち設けて物する意、稲荷待(稲荷祭)なども同じ(大言海)

で、「日待」で、上述の『日次紀事』に、

待月其式、粗同、

とあったように、

神の示現や降臨を願って待ちうけ、これを祭る、

ことは同義だか、「月待」は、

特定の月齢の日を忌籠りの日と定め、同信の講員が集まって飲食をし、月の出を待って拝む行事、

で、「日待」と同様、

原始以来の信仰、

と見られ(日本昔話事典)、實隆公記(室町時代後期)に、

今夜待月看経、暁鐘之後参黑戸、就寝(延徳二年(1490)九月二十三日)、

と、

室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%BE%85%E5%A1%94。待つのは、

十三夜、
十五夜、
十七夜、
十九夜、
二十三夜、

などで(仝上・日本大百科全書)、十五夜の宴や名月をめぐる句会や連歌会などは、「月待」の行事から派生したとみられる。

「影」 漢字.gif

(「影」 https://kakijun.jp/page/1519200.htmlより)

「影」(漢音エイ、呉音ヨウ)は、「影向の松」で触れたように、

会意兼形声。景は「日(太陽)+音符京」からなり、日光に照らされて明暗のついた像のこと。影は「彡(模様)+音符景」で、光によって明暗の境界がついたこと。とくに、その暗い部分、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(景+彡)。「太陽の象形と高い丘の上に建つ家」の象形(「光により生ずるかげ」の意味)と「長く流れる豊かでつややかな髪」の象形(「模様・色どり」の意味)から、「かげ」を意味する「影」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1289.html。「景」(漢音ケイ・エイ、呉音キョウ・ヨウ)は、

形声。京とは、高い丘にたてた家をえがいた象形文字。高く大きい意を含む。景は「日+音符京」で、大きい意に用いた場合は、京と同系。日かげの意に用いるのは、境(けじめ)と同系で、明暗の境界を生じること、

とある(仝上)。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年12月07日

翁草(おきなぐさ)


凡て、諸の山野に在るところの草木は……細辛・白頭公(おきなぐさ)(「出雲風土記(733)」)、

とある、

白頭公、

を、

おきなぐさ、

と訓ませているが、

白頭公(はくとうこう)、

は、和名、

翁草(おきなぐさ)、

の異名、「おきなぐさ」は、もともとの漢名の、

意訳ならむ、

とある(仝上)。ただ、漢名は、

如何青草裏、赤有白頭翁(李白)、

と、

白頭翁(はくとうおう)、

ともある(字源)。これは、消炎・止血・止瀉剤とする、

漢方生薬、

の名でもある(広辞苑)。

赤熊柴胡(しゃぐまさいこ)、

という漢名もある(精選版日本国語大辞典)。

春、宿根より數葉叢生す、春夏の交に、一尺許の茎を出し、頂に、小葉簇り付き、上に、數枝を分ち、枝毎に、一花、倒に垂れて開く、六辨にして紫赤なり、中に、一群の紫絲あり、後に、長ずること二寸許、白色に変じて、飛び去る。絲根に小子を結ぶ、

とある(仝上)。別名、

うなゐこ、
うねこ、
なかくさ、
ぜがいそう(善界草)、
ねこぐさ、
はぐま、
しゃぐま(赤熊)
おばがしら、
うばがしら、
けいせんか(桂仙花)、

と多い(仝上・精選版日本国語大辞典)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)には、

白頭公、於岐奈久佐、一云、奈加久佐、近根處有白茸、似人白頭、

とある。これが、

翁草、

と意訳した理由のようである。

オキナグサ.JPG


キンポウゲ科オキナグサ属の多年草、

だが、

花茎の高さは、花期の頃10cmくらい、花後の種子が付いた白い綿毛がつく頃は30-40cmになる。花期は4-5月で、暗赤紫色の花を花茎の先端に1個つける。開花の頃はうつむいて咲くが、後に上向きに変化する。花弁にみえるのは萼片で6枚あり、長さ2-2.5cmになり、外側は白い毛でおおわれる、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%82%B5

六弁花を開いたのち、白く長い綿毛がある果実の集まった姿、

を、

老人の頭、

にたとえて「翁草」といっている(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

翁草の若い果実.JPG


白く長い綿毛がある果実の集まった翁草.jpg

(白く長い綿毛がある果実の集まった翁草 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%82%B5より)

ヒロハオキナグサ.jpg

(ヒロハオキナグサ https://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_2739.htmより)

様々な異名をもつ、

白頭翁、
翁草、

だが、これは、

日本と中国で生薬白頭翁(ハクトウオウ)として使用されている植物が違う、

からだhttps://www.pharm.or.jp/flowers/post.htmlとある。

オキナグサ、

は、上述したように、キンポウゲ科で、

根を乾燥したものを生薬である、

ハクトウオウ、

として、

赤痢のような熱を伴う下痢や腹痛、痔疾出血に使用します。また、漢方において白頭翁湯の構成生薬であり、オウレン、オウバク、シンビと配合し、下部に熱を帯び不利後重、出血、熱性出血するものを目標にし、急性腸炎や細菌性下痢に使用されます、

とある(仝上)。中国で、

ハクトウオウ、

というと、

ヒロハオキナグサ、

をいい、オキナグサとヒロハオキナグサはどちらも痩果に白い毛が生えるが、

オキナグサは花が下向き、

ヒロハナオキナグサは上向き、

に、花を咲かせる。また、中国最古の薬学書である「神農本草経」(陶弘景)には、

根に近い部分は白茸(はくじょう)があって、その状が白頭老翁のようだから名付けたものだ、

と言っている(仝上)ように、それが中国で名前由来となったが、

オキナグサに毛は無く、ヒロハナオキナグサには白色の絨毛が生えています、

とあり(仝上)、まさにこの様が、

白髪の翁の髪が立っている状態、

を連想させた(仝上)と思われ、漢名と和名は、白頭から混同があったものらしい。だから、語源説も、上述の、

漢名ハクトウコウ(白頭公)の意訳(大言海)、

の他、

根に近いところに白茸があり、それが人の白頭に似ているところから(箋注和名抄)、

も、両者を混同した説である。

白い毛のかたまりから老人の銀髪を連想してできたもの(植物の名前の話=前川文夫)、

が妥当な説になる。

なお、

翁草は、

松の異名、

ともされるが、これは、

今朝見ればさながら霜を載きて翁さびゆく白菊の花(千載集)と云ふ歌に依る(大言海)、
秋のいろの花の弟と聞しかど霜の翁と見ゆる白菊(後九条内大臣)の歌、あるいは、名にしおふ翁が庭の百夜草花咲てこそ白妙になれの、翁の故事による(滑稽雑談)、

とあるが、これらの歌自体が、「重陽」で触れたように、菊に、

延寿の意、

があるからこそ、成りたっているように思える。その延長線上に、たとえば、

白菊よ白菊よ恥(はぢ)長髪よ長髪よ(芭蕉)

の句も成り立つ。

菊は長く咲くので翁草と呼ばれる、

の説(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)の方が、順当に見える。また、

翁草、松、

とある(蔵玉集)ように、

松の異名、

でもあるが、これも、

松は常緑で変わらない、

ところから、

不老長寿、

の象徴とされ、

常盤草(ときわぐさ)、

とも呼ばれ(精選版日本国語大辞典)、「菊」を、「翁草」と呼ぶのと似た発想のようである。

そういえば、宮沢賢治に「おきなぐさ」という作品があり、

うずのしゅげを知っていますか。
 うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼よばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。
 そんならうずのしゅげとはなんのことかと言いわれても私にはわかったようなまたわからないような気がします。

とはじまる。「うずのしゅげ」は、岩手県の方言らしい。

うず(おず)、

は、

おじいさん、

しゅげ、

は、

ひげ、

つまり、

おじいさんのひげ、

であるhttp://www2.kobe-c.ed.jp/shimin/shiraiwa/column/okina/index.html

「翁」 漢字.gif


「翁」(漢音オウ、呉音ウ)は、

形声。「羽+音符公」。もと、羽の名。「おきな(長老)」の意は、公(長老)と同系のことばに当てたもの、

とある(漢字源)。別に、

形声。「羽」+音符「公 /*KONG/」。「鳥の首の毛」を意味する漢語{翁 /*ʔoong/}を表す字。のち仮借して「老人」を意味する漢語{翁 /*ʔoong/}に用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BF%81

形声。羽と、音符公(コウ)→(ヲウ)とから成る。鳥の首の羽毛の意を表す。借りて、老人に対する尊称に用いる、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(公+羽(羽))。「2つに分れているものの象形又は、通路の象形と場所を示す文字」(みなが共にする広場のさまから、「おおやけ」の意味、また「項(コウ)」に通じ(同じ読みを持つ「項」と同じ意味を持つようになって)、「くび」の意味)と「鳥の両翼」の象形から、「老人を尊んで言う、おきな」、「鳥の首筋の羽」を意味する「翁」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1456.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年12月08日

命なりけり


春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集)、

の、

命なりけり、

は、

命があってのことだ、

と注釈する(高田祐彦訳注『古今和歌集』)。

年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山(西行)、
今ははや恋死なましをあひ見むとたのめし事ぞいのちなりける(古今集)、
もみぢばを風にまかせて見るよりもはかなき物はいのちなりけり(仝上)、
年をへてあひみる人の別には惜しき物こそいのちなりけれ(後撰集)、
あふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞいのちなりける(金葉集)、

等々、中古の和歌に詠み込まれた、

いのちなりけり、

という詠嘆表現は、

そのほとんどが恋歌、

である(佐藤雅代「命なりけり」の歌の系譜)とある。これは、

はかない命など恋の成就のためには惜しくない、あるいは逆に、恋しい人に逢うことを期待するから命が惜しくなる、

といった発想によるものである(仝上)。万葉集などでは、

たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思ふ、
君が家(いへ)に我が住坂(すみさか)の家道(いへぢ)をも我は忘れじ命死なずは、
朝霧の凡(おほ)に相見し人故に命死ぬべく恋ひ渡るかも、

等々、

命死なずは、
命死ぬべく、

というのが、

命がけの恋を表現する常套句、

であった(仝上)。

いのちなりけり、

が出てくるのは、古今集あたりのようだ。それでも、八大集(古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集)でも、

八首、

しかない(仝上)、という。上述と重複するが、それを挙げると、

春ごとに花のさかりはありなめどあひ見む事はいのちなりけり(古今集)、
今ははや恋死なましをあひ見むとたのめし事ぞいのちなりける(仝上)、
もみぢばを風にまかせて見るよりもはかなき物はいのちなりけり(仝上)、
年をへてあひみる人の別には惜しき物こそいのちなりけれ(後撰集)、
あふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞいのちなりける(金葉集)、
さりともと思ふ心にはかされて死なれぬものはいのちなりけり(仝上)、
まどろみてさてもやみなばいかがせむ寝覚めぞあらぬ命なりける(千載集)、
としたけて又こゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山(新古今集)
ながらへて世に住むかひはなけれどもうきにかへたる命なりけり(仝上)、

それが、『新古今集』成立後の勅撰集、『新勅撰集』から『新続古今集』までの十三代には、

三五首、

に増え、その二三首が「恋」の部に入れられている(仝上)という。

なりけり、

という表現は、

今初めてその事実に気づいたという詠嘆である(仝上)、

が、新古今以後定着したとするなら、あくまで表現のレトリックとして、

命と均衡、

するほどというメタファなのだろう。いわば、

命がけ、

を訴求していると言えるのだろう。別に、冒頭の、

春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことは命なりけり(古今集)、
年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山(西行)、
もみぢ葉を風にまかせて見るよちもはかなきものは命なりけり(古今集)、

などは、必ずしも恋の歌ではないので、

命があったればこそだの意。寿命を長らえたことに対しての詠嘆のことば、

という意味になる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)が、

年年歳歳花相似
歳歳年年人不同(劉希夷(「代悲白頭翁」)、

と似た、感慨と言ってもいいのかもしれない。

なお、「いのち」、清水博『〈いのち〉の普遍学』については触れた。

「命」 漢字.gif

(「命」 https://kakijun.jp/page/0844200.htmlより)


「命」 甲骨文字・殷.png

(「命」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%BDより)

「命」(漢音メイ、呉音ミョウ)は、「いのち」で触れたが、

会意。「あつめるしるし+人+口」。人々を集めて口で意向を表明し伝えるさまを示す。心意を口や音声で外にあらわす意を含む。特に神や君主が意向を表明すること。転じて命令の意となる、

とあり(漢字源)、「いのち」の意味はあるが、「天命」の意で、天からの使命、運命の意で、「命令」色が強い。

会意文字です(口+令)。「冠」の象形と「口」の象形と「ひざまずく人」の象形から神意を聞く人を表し、「いいつける」、「(神から与えられた)いのち」を意味する「命」という漢字が成り立ちました、

という説明https://okjiten.jp/kanji51.html、あるいは、

会意。「人」(集める)+「口」(神託)+「卩」(人)、人が集まって神託を受けるの意。又は、「令』(人が跪いて聞く)+「口(神器)」の意(白川静)、

という説明https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%91%BDが、その意味からみて、分かりやすい。

参考文献;
佐藤雅代『「命なりけり」の歌の系譜』https://www.jstage.jst.go.jp/article/sanyor/26/0/26_189/_pdf

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ラベル:命なりけり
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2023年12月09日

全貌瞥見


松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』を読む。

芭蕉全句集.jpg


本書は、編者曰く、

芭蕉作と認定できる発句をすべて取り上げ、季語別に配列したもの、

で、

句の配列は、全体を春・夏・秋・冬・雑(無季)、

に分け、

季語別、

にし、各季語の中は、

年代順、

とした(凡例)とある。そのため、編者も指摘する通り、

芭蕉が各語(題)にどう取り組んだか、

はよく分かるが、その分、

芭蕉の起伏に富む生涯や俳風のめまぐるしい変容、

は、知らない者にはほとんどわからない、という難点がある。最終的に、

かるみ、

や、

世俗と風雅の並立、

のような句風らしいが、そんな専門的なことは脇に於いて、一句の、独立した面白さだけで、拾い上げてみた。

本書には、

983句、

があり、芭蕉が生涯に残した発句のほとんどが網羅されている。そのなかから、約九十数句選んでみた。ただ、素人の直観なので、俳句としてどうかの是非は、措いている。

奥の細道 俳諧紀行文集』『幻住庵の記・嵯峨日記』で取り上げた句は、除くつもりだったが、やはり重なってしまうものもある。

るすにきて梅さへよそのかきほかな
梅若菜まりこの宿(しゅく)のとろゝ汁
春もやゝけしきとゝのふ月と梅
むめがゝにのつと日の出る山路(やまぢ)かな
春なれや名もなき山の薄霞
辛崎(からさき)の松は花より朧にて
水とりや氷の僧の沓(くつ)の音
雲雀より空にやすらふ峠哉
てふの羽(は)の幾度越(いくたびこゆ)る塀のやね
君やてふ我や荘子(さうじ)が夢心
古池や蛙(かはず)飛こむ水のおと
山路来て何やらゆかしすみれ草
ほろほろと山吹ちるか滝の音
樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな
はなのくもかねはうへのかあさくさか
しばらくは花の上なる月夜かな
なつちかし其口(そのくち)たばへ花の風
声よくばうたはふものをさくら散(ちる)
行春にわかの浦にて追付(おひつき)たり
入(いり)か ゝる日も程々に春のくれ
一つぬひで後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ
曙はまだむらさきにほとゝぎす
郭公(ほととぎす)声横たふや水の上
卯の花やくらき柳の及(および)ごし
どむみりとあふち(樗)や雨の花曇
五月雨の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりだう)
五月雨をあつめて早し最上川
山のすがた蚤が茶臼の覆(おほひ)かな
蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと
梢(こずゑ)よりあだに落けり蟬のから
閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蟬の声
面白(おもしろう)てやがてかなしき鵜ぶね哉
六月(ろくぐわつ)や峰に雲置(おく)あらし山
暑き日を海にいれたり最上川
飯あふぐかゝが馳走や夕涼(ゆふすずみ)
手をうてば木魂に明(あく)る夏の月
足洗(あらう)てつゐ明安(あけやす)き丸寐(まろね)かな
夏の夜や崩(くづれ)て明(あけ)し冷(ひや)し物
富士の風や扇にのせて江戸土産
夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉
山も庭にうごきいるゝや夏ざしき
別ればや笠手に堤(さげ)て夏羽織
雲の峰幾つ崩て月の山
清滝(きよたき)や波に散込(ちりこむ)青松葉
猿を聞人(きくひと)捨子に秋の風いかに
塚も動け我泣声(なくこえ)は秋の風
あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
物いへば唇(くちびる)寒し秋の風
よるべをいつ一葉(ひとは)に虫の旅ねして
なでしこの暑さわするゝ野菊かな
道のべの木槿は馬にくはれけり
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
荻(おぎ)の声こや秋風の口うつし
蜻蜒(とんぼう)やとりつきかねし草の上
あけゆくや二十七夜も三(み)かの月
三日月や地は朧なる蕎麦畠
馬に寐て残夢月遠し茶のけぶり
そのまゝよ月もたのまじ息吹やま
名月や池をめぐりて夜もすがら
三井寺の門たゝかばやけふの月
やすやすと出ていざよふ月の雲
吹とばす石はあさまの野分哉
鷹の目もいまや暮ぬと啼鶉(うづら)
日にかゝる雲やしばしのわたりどり
菊に出てな良と難波は宵月夜(よひづきよ)
夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿(うが)ツ
秋の夜を打崩したる咄(はなし)かな
入麵(にうめん)の下焼立(したたきたつ)る夜寒かな
手にとらば消(きえ)んなみだぞあつき秋の霜
秋もはやばらつく雨に月の形(なり)
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ
こちらむけ我もさびしき秋の暮
此道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮
秋深き隣は何をする人ぞ
此秋は何で年よる雲に鳥
葛の葉の面(おもて)見せけり今朝の霜
ご(落葉)を焼て手拭(てぬぐひ)あぶる寒さ哉
塩鯛の歯ぐきも寒し魚(うを)の店(たな)
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
寒菊や粉糠(こぬか)のかゝる臼の端(はた)
凩に匂ひやつけし帰花(かへりばな)
埋火(うずみび)や壁には客の影ぼうし
あら何共(なんとも)なやきのふは過て河豚(ふくと)汁
海くれて鴨のこゑほのかに白し
何に此(この)師走の市にゆくからす
中々に心おかしき臘月(しはす)哉
から鮭も空也の瘦も寒の内
節季候(せっきぞろ)の来れば風雅も師走哉
くれくれて餅を木魂(こだま)のわびね哉
年暮ぬ笠きて草鞋はきながら
分別の底たゝきけり年の昏(くれ)
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
冬の日や馬上に氷る影法師

『笈の小文』で、格調高く、

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(通カ)する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ処 月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

と述べたり、元禄五年二月一八日付けの曲水宛書簡における、風雅之道筋、大かた世上三等二相見え候と、

まず下等は点取の勝負にこだわる俳諧。しかしこれも「点者の妻腹をふくらかし、店主の金箱を賑ハし候ヘバ、ひが事せんニハ増りたるべし」、

中等は、同じ点取でも勝負にこだわらないおっとりとした俳諧。少年のよみがるたに等しいが、「料理を調へ、酒を飽迄にして、貧なるものをたすけ、点者を肥しむる事、是又道之建立の一筋なるべきか」、

上等の俳諧は、「志をつとめ情をなぐさめ」「はるかに定家の骨をさぐり、西行の筋をたどり、楽天が腸をあらひ、杜子が方寸に入やから」、

と述べている部分(西田耕三「芭蕉の常識」https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4741955/008_p094.pdf)よりは、

俳諧はなくてもありぬべし。たゞ世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人といふべし(続五論)

とか、ある門人(路通のことらしい)について

かれ、かならずこの道に離れず、取りつきはべるやうにすべし。俳諧はなくてもあるべし。ただ、世情に和せず、人情通ぜざれば、人ととのはず。まして、よろしき友なくてはなりがたし

とか、

予が風雅は夏炉冬扇の如し。衆にさかひて用る所なし(柴門之辞)、

等々というところに、芭蕉の到達した境地があったのではあるまいか。たとえば、

菊の香や庭に切たる履(くつ)の底
から鮭も空也の瘦も寒の内

といった風な。

なお、松尾芭蕉の俳諧紀行文『奥の細道』『幻住庵の記・嵯峨日記』については触れた。

参考文献;
松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)Kindle版)

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2023年12月10日

歌合


戀すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(壬生忠見)

は、

天暦の御時の歌合、

で、

しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで(平兼盛)

とつがえられ、

兼盛、

の勝ちと判定された。判者の右大臣藤原実頼は、

「判定にこまり、(村上)天皇の気色をそっと伺ったところ、天皇も判をくださず、ただ兼盛の歌を低く口ずさまれた」

ので(大岡信『百人一首』)、そう判定したが、

「壬生忠見はこの歌合に敗れ、食事ものどに通らなくなり、それがもとで死んだと言い伝えられている。」

といういわく付きの「歌合」である。

歌合(うたあわせ)、

は、

歌を詠む人が集まって左右に分かれ、一定の題で双方から出した歌を順次つがえて一番ごとに、判者(はんじゃ)が批評、優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯、

で、その単位を、

一番、

といい、小は数番から大は千五百番に上る(広辞苑)という。平安初期以来宮廷や貴族の間で流行した(大辞林・精選版日本国語大辞典)。平安初期には多分に社交的・遊戯的であったが、平安後期頃から歌人の力量を競う真剣なものとなり、歌風・歌論に大きな影響を与えた(大辞林)。

歌競べ、
歌結び、

ともいう。左右に分かれる参加者を、

方人(かたうど)、

優劣の判定を下す人を、

判者(はんじや)、

その判定の語を、

判詞(はんし、はんじ)という(仝上)。これにならって、平安中期、村上天皇の代に始まったのが、

漢詩、

の歌合、

詩合(しあわせ)、

で、

二手に分かれて漢詩を作り、判者がその優劣を判定して勝ち負けを決める競技、

があり、

闘詩、

ともいい、

天徳三年(959)八月一六日清涼殿に行われた十番詩合が最初、

という(精選版日本国語大辞典)。

方人(かたうど)」で触れたように、

当座歌合、
兼日歌合、
撰歌合、
時代不同歌合、
自歌合、
擬人歌合、

等々種々あるが、その構成は、人的構成にのみ限っていうと、王朝晴儀の典型的な歌合にあっては、

方人(かたうど 左右の競技者)、
念人(おもいびと 左右の応援者)、
方人の頭(とう 左右の指導者)、
読師(とくし 左右に属し、各番の歌を順次講師に渡す者)、
講師(こうじ 左右に属し、各番の歌を朗読する者)、
員刺(かずさし 左右に属し、勝点を数える少年)、
歌人(うたよみ 和歌の作者)、
判者(はんじや 左右の歌の優劣を判定する者。当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)、

などのほか、

主催者、
和歌の清書人、
歌題の撰者、

などが含まれる(世界大百科事典)とある。歌が披講されると、

方人は(難陳 相手方の歌を非難)し、味方の歌を弁護する。その後、判者が判定を下し、判定理由を判詞(はんじ)として記す。引分けは持(じ)という、

とある(ブリタニカ国際大百科事典)。

陽成院歌合 冒頭.jpg

(陽成院歌合 冒頭 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%90%88より)

主な「歌合」は、

在民部卿家歌合 仁和元年(885年)頃(記録に残る最古の歌合)<主催者・在原行平>
寛平御時后宮歌合 寛平元年(889年)
亭子院歌合 延喜13年(913年)
天徳内裏歌合 天徳4年(960年)<主催者・村上天皇>
寛和二年内裏歌合 寛和2年(986年)<仝上・花山天皇>
六百番歌合  建久3年(1192年)<仝上・九条良経>
千五百番歌合  建仁元年(1201年)頃<仝上・後鳥羽院>
水無瀬恋十五首歌合 建仁2年(1202年)<仝上後鳥羽院>

等々あるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%90%88が、

歌合、

自体が、中国の、

闘詩、
闘草、

の模倣から、

物合(ものあわせ 草合、前栽(せんざい)合、虫合など)、

が生まれ、その合わせた物に添えられた歌(その物を題にして詠む)が、互いに合わせられるようになり歌合が成立した(日本大百科全書)。現存最古の歌合は9世紀末の、

在民部卿行平家歌合(ざいみんぶのきょうゆきひらのいえのうたあわせ)、

といわれるが、このころは、

物合と歌合は明確に区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴に、神事、仏事の余興として催された、

という(仝上)。したがって、歌合の方式、行事もこれらの式次第が準用され、会衆の多くが、

方人(かとうど 優劣の難陳(なんちん)をする人)、

となり、

読師(とくじ 歌を整理して講師(こうじ)に渡す人)、
講師(歌を読みあげる人)、

によって左右の歌が交互に披講され、判定も和やかな左右の方人の合議によった(衆議判 しゅうぎばん)であった。ただ、勝負意識が強くなると、特定の、

判者(はんじゃ 判定者)が必要となり、初めは遊宴を主催する人(天皇、権門など)またはその代理者が判定したが、論難が激しくなり判定の資に歌学説が用いられるようになると、判者、方人には、

専門歌人、

が選ばれるようになった(仝上)とある。

天徳四(960)年の『内裏(だいり)歌合』に代表される時代は、内裏後宮を主とした、

女房中心の遊宴歌合、

で、長保五(1003)年の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)に至る間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとりながらも歌が純粋に争われ、歌合の内容も、

歌人本位、

となり、平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、

歌の優劣と論難の基準、

のみが争われ、遊宴の意味はまったくなくなって、番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた(仝上)。鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される、

歌学歌論の純粋な論壇、

として、新古今時代にみられる新傾向の文芸の表舞台ともなった(仝上)とある。一応「歌合」自体は、江戸時代まで続いたようだが、この頃がピークで、

六百番歌合(俊成判)、
千五百番歌合(俊成ら十人判)、

が催された(山川日本史小辞典)。

「歌」 漢字.gif

(「歌」 https://kakijun.jp/page/1449200.htmlより)

「歌」(カ)は、「歌占(うたうら)」で触れたように、

会意兼形声。可は「口+⏋型」からなり、のどで声を屈折させて出すこと。訶(カ)・呵(カ のどをかすらせて怒鳴る)と同系。それを二つ合わせたのが哥(カ)。歌は「欠(からだをかがめる)+音符哥」で、のどで声を曲折させ、からだをかがめて節をつけること、

とある(漢字源)。

参考文献;
大岡信『百人一首』(講談社文庫Kindle 版)

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2023年12月11日

忍草


御廟(ごへう)年経て忍(しのぶ)は何をしのぶ草(芭蕉)、

の、

しのぶ草、

は、

山中の樹木や岩肌に生える常緑のシダ類、

を指し、和歌以来、

「偲ぶ」と掛詞、

にして詠まれることが多い(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)とある。

シノブ.jpg


忍草(しのぶぐさ・しのびぐさ)、

は、

シノブ・ノキシノブなどのシダ植物、

を指すが、上述したように、

千鳥(ちどり)鳴くその佐保川(さほがは)に岩に生(お)ふる菅(すが)の根(ね)採(と)りて偲(しの)ふ草祓(はら)へてましを(万葉集)、

しのぶぐさ摘みおきたりけるなるべし(源氏物語)、

などと、

偲(しの)ぶ種(ぐさ)、

の意にかけて、

思い出のよすが、

の意で使い(学研全訳古語辞典)、また、

しのぶ(忍)、

ともいい(「しのぶ草」が「しのぶ(忍)」の異名ともある)、

シダの古名のひとつ、

でもあり、この名を持つシダは多く、代表的なものに、

ノキシノブ・タチシノブ・ホラシノブ、

などがある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%96・精選版日本国語大辞典)。ただ、「しのぶ草」は、

わが宿の忍ぶ草おふる板間あらみ降る春雨のもりやしぬなむ(紀貫之)、

と、

軒忍の古名、

ともされる(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』・精選版日本国語大辞典)。なお、上代は、

しのふくさ、

と清音であった(仝上)。

ノキシノブ.jpg

(ノキシノブ デジタル大辞泉より)

みちのくのしのぶもぢずりたれ故に乱れそめにしわれならなくに(源融)、

の、

しのぶもじずり

は、

忍草の葉を布帛に摺りつけて、捩(もじ)れ乱れたような模様を染め出したもの、

とも、

ねじれ乱れたような文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺りこんで染めたもの、

ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

延喜時代より、信夫郡の産物として、陸奥絹の一種の乱れ模様を捺したるを貢ぎしたり、

とあり(大言海)、平安末期の歌学書「和歌童蒙抄」には、

戻摺とは、陸奥の信夫郡にて摺り出せる布なり、打ちちがへて、乱りがはしく摺れり、

とあり、平安末期の歌学書「袖中抄」(しゅうちゅうしょう)には、著者顕昭の注に、

陸奥の信夫郡に、もぢずりとて髪を乱るやうに摺りたるを、しのぶずりと云ふ、

とある。

なお、

しのぶ草、

は、

わがやどは甍(いらか)しだ草生ひたれど恋忘れ草見るにいまだ生ひず(柿本人麻呂)、

と、

「忘れ草」の別名、

としても使われる(学研全訳古語辞典・https://manyuraku.exblog.jp/24830383/)。「忘れ草」は、

萱草

の意で、和名類聚抄(931~38年)に、

萱草、一名、忘憂、和須禮久佐、俗云、如環藻二音、

とあり、

かんぞう(くわんざう)、
かぞう、
けんぞう、

とも訓むが、

わすれぐさ、

とも訓ませる。

花を一日だけ開く、

ために、

忘れ草、

と呼ばれるらしい。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年12月12日

後の月


木曾(きそ)の瘦(や)せもまだなほらぬにのちのつき(芭蕉)、

の、

のち(後)の月、

は、

よめはつらき茄子(なすび)かるゝや豆名月(芭蕉)、

と、

豆名月、

ともいう。

陰暦九月十三日の月、

をいい、

栗名月
月の名残、

ともいい、

八月十五日とこの日と二度の月見をするのがよいとされる、

日本独自の風習で、

芋に代えて栗や枝豆を供る。この夜の月は和歌でも好まれ(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、

秋の月ちぢに心をくだききてこよひひと夜にたえずもある哉(千載和歌集)、

などと詠われている。

月ごとにあふ夜なれども世を経つゝ今宵にまさる影なかりけり(紀貫之)

と、

旧暦8月15日の、

中秋の名月(十五夜の月)、

を眺める風習は、

中秋三五夜、
名月在前軒(白居易)、

と、

中国から伝わったものだが、

十三夜の月を愛でる風習、

は日本で生まれたものであるhttps://www.sendai-astro.jp/observation/blog/2023/10/20231027.html。延喜十九年(919年)に寛平法皇が、

月見の宴、

を開き、十三夜の月を称賛したことが由来のひとつとされている(仝上)とある。

中秋の名月、

が、里芋を供えることから、

芋名月、

と呼ばれるに対し、

後の月、

では、(この頃に収穫される)、

栗や枝豆、

を供えることから、、

栗名月、
豆名月、

とも呼ばれる(仝上)が、他に、

名残の月、
二夜(ふたよ)の月、
後の今宵、
後の名月、
女名月(おんなめいげつ)、
姥月(うばづき)、

等々さまざまに呼ばれるhttps://kigosai.sub.jp/001/archives/2539

後の月、

は、

満月に二日早い月を見るという、

少し欠けたところをこそ賞するという日本独特の美意識、

とともに、実際的には、

早い時間に昇る月を賞する、

という理由があるhttps://note.com/whitecuctus/n/n0c2faf4acb23としている。

後(のち)の月.png


参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2023年12月13日

の(幅)


行秋や身に引まとふ三布(みの)蒲団(芭蕉)、

の、

三布蒲団、

は、

三幅の大きさの蒲団、

の意。

布(の)、

は、

布などの幅を測る単位、

で、

一布(一幅)は約三六センチ。標準 は敷蒲団が三布で掛蒲団は四~五布。ここは掛蒲団なのでかなり狭い、

と注記(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)がある。

の、

は、

幅、
布、

と当て、和名類聚抄(平安中期)に、

幅、能、

平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、

幅、ノ、

とある。

一幅、

は、普通鯨尺で、

八寸(約三〇センチメートル)ないし一尺(約三八センチメートル)の幅

をいう(精選版日本国語大辞典)とある。「鯨尺」は、もと、鯨のひげで作ったところから、

鯨差(くじらざし)、

ともいい、

一尺が曲尺(かねじゃく)の一尺二寸五分(約三八センチメートル)にあたる長さを規準にしてつくったもの、

で、

布製のものの幅(はば)を数える単位、

として(大辞林)、和裁に用いる(精選版日本国語大辞典)とある。

の、

の語源は、

法(のり)の意(大言海・日本釈名)、
布のひとはたりの義で、ヌノの反(名語記)、
ヌノの略(名言通)、

などとある(大言海・日本語源大辞典)が、

一畐(ヒトノ)の一部(ひとつほ)の綾の羅(うすはた)等(日本書紀)、

とあり、普通に考えれば、

ぬの(布)の略、

ではあるまいか。ただ、「布(ぬの)」は、和名類聚抄(平安中期)に、

布、布能(ぬの)、織麻及紵(いちび)為帛、

とあり、

絹に対し、植物の繊維(麻・苧(からむし)等)で織った織物、

をいい、

延幅(ノビノ)の意と云ふ(大言海)、
縫幅の義(和訓栞)、

では、「の(幅)」を前提にしているので、

のぬ⇔の、

と戻ってしまう。他には、

ヌメリノビ(滑延)の義(名言通・国語の語根とその分類=大島正健)、
ヌハヌ(不縫)の義(日本釈名)、
ナツノソ(夏衣)の反(名語記)、

等々ではっきりしない。考えられるのは、巾の単位である、

幅(の)、

と、その対象である、

布(ぬ)、

が同一視されていたということではあるまいか。

因みに、

一幅、

は、

ひとの、

と訓むと、

布帛類の幅(はば)、

を表わすが、

ひとはば、

というと、

織物の幅、

で、織によって異なるが、

和裁では並幅(鯨尺で九寸五分)、広幅(同一尺九寸)、

があり、錦は、

二尺五寸、金襴二尺四寸、

などがあり(精選版日本国語大辞典)、

いっぷく、

と訓むと、

書画などの掛け軸の一つ、

あるいは、

一つの画題、

を言う(仝上)。
なお、「幅」の語源は、

端端(ハバ)の義、或は、はたばり(機張)の略かと云ふ(大言海)、
端から端までの距離の義(国語の語根とその分類=大島正健)、
羽端の義(和訓栞)、
ハは絹布をいう羽の意、ハマ(羽間)の義(名言通)、
ハタハリ(機張)の義、またハヘ(端方)の義(言元梯)、

とある(日本語源大辞典)。

はたばり(機張)、

は、類聚名義抄(11~12世紀)に、

幅、はたばり、

とあり、

みずうみに秋の山辺をうつしてははたばり広き錦とぞ見る(拾遺集)、

と、

布帛の一幅(ヒトハタ)、幅の広さ、略して、はば、

とある(大言海)ので、

はば、

は、

はたばり(幅員)、

といっていたものの略と考えるのが妥当のようだ。

はたばり、

は、

機張の義か、

とあり(大言海)、機織りと関係があるらしいが、はっきりしない。

「幅」 漢字.gif

(「幅」 https://kakijun.jp/page/1243200.htmlより)


「幅」 『説文解字』(後漢・許慎)・漢.png

(「幅」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B9%85より)

「幅」(フク)は、

形声、畐(フク)は、壺に酒をつめたさま。幅は、それを音符とし、巾(ぬの)を加えた字で、ひざや脛にぴたりと当てるぬの。くっつく意を含む。ひざ当てやすね当ては、織り布の横はばのままの寸法であったので、布地の意となった、

とあり(漢字源)、

織物の横はば、転じて布地、

とあり、

織物の横幅は、普通は、二尺二寸(周代の一尺は22.5センチ)、

とある(仝上)。で、「全幅」というように幅の意で使うが、

一幅(いっぷく)、

というと、

書画や掛け軸の数える単位、

でもある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(巾+畐)。「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)と「神に捧げる酒たる」の象形(「りっぱな財産・ゆたかな」の意味)から、ゆたかな布・幅広い布を意味し、そこから、「(布の)はば」を意味する「幅」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1444.html

「巾」 漢字.gif


なお、「幅」の意で使う、「巾」(漢音キン、呉音コン、慣用コ)は、「巾子(こじ)」で触れたように、

象形文字。三すじ垂れ下がった布きれを描いたもの。布・帛(ハン)・帆などに含まれ、布を表す記号に用いる、

とある(漢字源)。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年12月14日

いさむ


作りなす庭をいさむるしぐれかな(芭蕉)、

の、

いさむ、

は、

戒める意の「諫む」から励ます意の「勇む」が派生した語、

とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。この、

いさむ、

が、

勇む、

であるとは思うが、

諫む(諫める)、
と、
勇む、

と関連があるかどうかは、ちょっと疑問に思える。

勇む、

は、天治字鏡(平安中期)に、

勇、伊佐牟、

とあり、

勢いて進む(臆(おそ)るの反)、
勇気を振るう、

という(大言海)、

伊佐美(イサミ)たる猛き軍卒(いくさ)とねぎたまひまけ(任)のまにまに(万葉集)、

と、

(戦いや争いに臨んで)気持が奮い立つ、

意と共に、

過ぎぬる方よりはいさみさかえて、物をもよく食ひたりければ(今昔物語)、

と、

元気一杯になる、

意で使う(岩波古語辞典・大言海)。後年の、

勇み肌、

の、

勇み

につながるのだろう。この「勇む」は、

息進(イキスサ)むの約なるべし(気噴(イキブ)く、いぶく。息含(イキクク)む、憤(イクク)む)(大言海・国語の語根とその分類=大島正健)、
イサナフ(率)の義(名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
イは息、サはサユル心、ムは向う心(日本声母伝)、
イススム(勢進)の転(言元梯)、
「いさ」は、「いさ」(鯨(イサナ)、俗(クニヒト)、鯨を云ひて伊佐となす(壹岐風土記逸文))、「いさまし」(動詞勇むの形容詞形)の「いさ」と同語源(日本語源大辞典)、

等々の諸説があるが、どうやら、

勢い込む、

にその意味を見ようとしているらしい。この「勇む」の他動詞、

勇む、

は、

吹く風を神やいさめむ手向山折ればかつ散る端の錦に(『夫木(ふぼく)和歌抄(夫木集)』)、

と、

慰む、

と当て、

慰める、

意とする。

神をいさめると云ふも、勇よりでたり(和訓栞)、

とあり、

神楽(かぐら)を、神いさめとも云ふ、

ともある(大言海)。

主体を励ます、勇気づける、

意から、

客体(神)を励ます、勇気づける、

意に転じ、

父の敵を討ち首斬らんと言ひてこそ、多くの人をばいさめしか(曽我物語)、

と使われるに至ったと思える。しかし、

諫む、

は、もともと、

禁む、

と当て、

我が妻に人も言問へ此の山をうしはく神の昔よりいさめぬわざそ日のみはめぐしもな見そ(万葉集)、

と、

戒む、
抑え止む、
禁制する、

意で(大言海)、

強く言ひて止むる意ならむ、叱(いさ)ふと通ず、

とある(仝上)。これが、転じて、

諫む、

と当て、天治字鏡(平安中期)に、

諫、止人非也、伊佐牟、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

諫、イサム、アラソフ、タダス、イマシム、

とあり、

皇后聞悲、興感止之(イサメタマフ)(雄略紀)、

と、

「勇む」の戒め止める意より、改めシムルに移る(大言海)、
相手の行動を拒否し、抑制する意。類義語イマシムは、タブーに触れることを教えて、相手に行動を思いとどまらせるのが原義(岩波古語辞典)、

で、

其の非を告げて、改めしむ、
意見を加ふ、
諫言する、

意で使い、

あさむ、

とも訓ます(大言海)。この「禁む」の語源は、

言進(イヒスサ)むるの約略か(言逆(イヒサカ)ふ、いさかふ。おもひみる、おもみる)(大言海)、
イサ(不知 イサカフ・イサツ・イサフ・イサム(禁)と同根。相手に対する拒否・抑制の気持を表す感嘆詞)を活用させた語。相手の行動を拒否し、抑制する意(岩波古語辞典)、
イサは不知、メはその起こり始める処の意(国語本義)、
禁ずる意のイサフと関係がある語(日本釈名)、
イサム(勇)から転義(和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、
イサム(率)から転義(和語私臆鈔・名言通)、
イは忌、サは然、メは活用語尾(日本古語大辞典=松岡静雄)、

等々と諸説あるが、「いさ」(不知)説は、

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香(か)ににほひける(紀貫之)、

の、

いさ、

で、

「人はいさ心も知らず」や、「いさかひ(諍ひ)」(=口論・喧嘩)に含まれる拒否・抑止系の語「いさ」に「む」を付けて動詞化し、相手の行動に対し否定的に作用する「禁止・忠告」の語義を持たせたもの、

ともありhttps://fusaugatari.com/sample/1500voca/isamu589/

禁む、
諫む、

は、

「いさ」の動詞化、

が妥当な気がする。

以上から考えてみると、「勇む」の、

励ます(主体)→励ます(客体)→慰める、

の流れはあり得るが、「禁む」の、

禁む→戒む→諫む、

から、「勇む」への流れは、語源を異にし、意味が異なり、少し考えにくい気がする。

「諫」 漢字.gif


「諫」 金文・西周.png

(「諫」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%AB%ABより)


「諫(諌)」(漢音カン、呉音ケン)は、

会意兼形声。「言+音符柬(カン よしあしをわける、おさえる)」、

とある(漢字源)。なお、白虎通(後漢、『白虎通義(びゃっこつうぎ』))には、

諫、是非相閒(マジル)、革更(アラタムル)其行也、

とある。

参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

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2023年12月15日

葛の葉


葛の葉の面見せけり今朝の霜(芭蕉)、

の、

葛の葉、

は、

風に白い葉裏を見せることから、

秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほうらめしきかな(古今集)、

と、

「裏見」に「恨み」を掛けて詠むのが和歌の常套(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)とある。

葛.jpg


恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

の歌で名高い、浄瑠璃(『信田森女占』、『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』)などになった、

信田妻(しのだづま)、

の、

摂津国の阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)に住んでいた安倍保名(あべのやすな)が和泉国の信太の森(現在の大阪府和泉市)で狩人に追われていた白狐を助けたが、その時に怪我をしてしまった。その時に保名を介抱したのが葛の葉である。ここから恋仲になり、童子丸という子をもうけた。しかしある時、葛の葉の正体を童子に見られてしまい、保名に助けられた狐であることが保名本人にバレてしまい、上記の一首を残して信太の森に帰っていった、この童子丸は後に安倍晴明として知られることになる、

という物語https://dic.pixiv.net/a/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89がある。この話にはいくつか別系統の話があり、たとえば、

この子三歳の時に姿を消した母を、成人した晴明が信田の森に尋ねゆき、母なる狐と対面し、信田の明神である事を知る(近世初期の『簠簋抄(ほきしょう)』)、

とか、

残された童子が信田の森で白虎と再会後、亀を助けて竜宮城へ行き、9年後に帰ると、都の後涼殿震動騒ぎを聞き、龍王からもらった鳥語を解する二粒の龍仙丸で解決し、道満との奇特比べにも勝ち、安倍晴明として陰陽の頭(かみ)天文博士になった、

とかとある(日本伝奇伝説大辞典)。

きつね
百歳の狐
つかはしめ

などでも触れたように、「狐」は、古くから、

農耕神の示現、
田の神の使い、

として重要視され、それに豊凶の託宣を問う時代があり、「葛の葉」の説話は、

人間との結合が異常な能力を備えた子が生じる、

という説話(日本霊異記など)の流れの中にあるともいえる(日本昔話事典)が、

童子、

は、

大寺に隷属し、力役雑役に携わる寺奴、

の意で、彼らの集落を、

童子村、

と呼んだが、寺社が早くから卜占に従事させるために専属せしめたといい、

陰陽師、

が形成した、

陰陽師村、

もその流れに在り、

阿倍野の里、

は、

阿倍野童子、

と呼ばれ、四天王寺と関係を持ちながら、占い、祈祷に従事した、

陰陽師の集落、

が存在し、

こうした陰陽師が、

信田森の聖神社、もしくは、その末社の葛の葉神社、

の由来を、信田妻の物語として説く自らの本地語りに由来している(仝上)とされている。

信太森神社(葛の葉稲荷).jpg

(信太森神社(葛の葉稲荷) https://izbun.jp/introduction/shinoda/shinodanomorijinja.htmlより)

葛の葉、

の裏面には、

細かな白毛があり、風に吹かれて裏面が見えるのを「恨み(裏見)」に掛けて、

歌に詠んだhttps://www.uekipedia.jp/%E3%81%A4%E3%82%8B%E6%80%A7%E6%A4%8D%E7%89%A9/%E3%82%AF%E3%82%BA/

なお、「野干」、「きつね」、「きつねとたぬき」、「九尾の狐」については触れた。また、「」についても触れた。

「葛」 漢字.gif

(「葛」 https://kakijun.jp/page/kuzu200.htmlより)

「葛」 『説文解字』(後漢・許慎)・漢.png

(「葛」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)・漢 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9Bより)

「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、

会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、

とある(漢字源)。「くず」の意である。また、

会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2110.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B

形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、
形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、

とする説がある。

参考文献;
稲田浩二他編『日本昔話事典』(弘文堂)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

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2023年12月16日


ごを焼て手拭あぶる寒さ哉(芭蕉)、

の、

ご、

は、

松枯葉、

などと当てたりする(大言海)、

美濃・尾張・三河などで松の枯れ落葉をいい、燃料に用いる、

とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)が、

枯れ落ちた松葉を、かき集めて燃料にする時に多く言う、

とあり(日本語源大辞典)、

近世には美濃・尾張・三河地方の方言となる、

とある(仝上)。ただ、古くの用例の、

紅葉折りしきて、松のご、果(くだもの)盛りて、菌(くさびら)などして、尾花色の強飯(こはいひ)など、まゐるほどに(宇津保物語)、

は、

松の小菓子、

とし、

松の葉または実の形を模した菓子、

とする説もある(精選版日本国語大辞典)。「ご」は、

こくば、

ともいう(大言海・精選版日本国語大辞典)。和訓栞に、

四国にて、落葉を称す、コゲハの称にや、サラヒをコクバガキと云ふ(サラヒは、竹杷まなり)、

とあり、

播磨の熊野邊にては、松の落葉に就きて、

こく葉(ば)、
こくばがき、

といい、

甲斐國にては、すべての木の枯落葉を、ゴカと云ひ、ゴカガキニ行クなどと云ふ、

とある(大言海)。江戸中期の国語辞典『俚言集覧』には、

ごくも、甲斐にて、松の落ち葉を云ふ、

とある。

松の枯葉(コエフ)を下略して、松のことを云ひしを、更に上略したる語なるべし、

とある(大言海)が、

三河では、松平を意味する松という語を憚り、松葉をゴ(御)と称していたところからか。散りたるゴ(後)という意味からか(江戸後期の随筆『袂草』)、

とする説もある。ただ、「松平」を憚るのは、江戸時代、三河だけではあるまい。

今では松の落ち葉を燃料にすることもほとんどなくなって、専用の名前自体不要になってしまったために、共通語では単語そのものが存在しなくなった、

ようであるhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13115686703

「松」 漢字.gif


「松」(漢音ショウ、呉音シュ)は、

会意兼形声。「木+音符公(つつぬけ)」。葉が細くて、葉の間がすけて通るまつ、

という(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(木+公)。「大地を覆う木」の象形と「通路の象形と場所を示す文字」(みなが共にする広場のさまから「おおやけ」の意味)から、人の長寿、繁栄などの象徴の木「まつ」を意味する「松」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji576.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2023年12月17日

帰花(かえりばな)


凩に匂ひやつけし帰花(かへりばな)(芭蕉)、

の、

帰(り)花、

は、

返り花、

とも当て、

初冬の少し暖かい小春日和に、草木が時節はずれの開花をすること、

とあり(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)、

冬の季語、

とされ、

返り咲、
狂咲き、
二度咲き、
狂花、
忘花、

などともいう(大言海)。「返り咲」は、

花に云はば、又集る春や、かへり咲き(小町踊)、

と、

人事に、再び栄える、

いわゆる、

カムバック、

の意でも使う(仝上・精選版日本国語大辞典)が、その

復帰・再起・復職・帰任、

といった意味での、限定的な使い方に、

御身はまたまた廓 (くるわ) に帰り花(浮世草子「御前義経記」)、

と、

身請けされた遊女が、二度の勤めに出る、

意や、

歌舞伎役者などが2度目の勤めに出る、

意で使う(広辞苑・大辞林)。

帰花、

は、

信濃櫻のかへり花の枝にさし(飛鳥井雅親)、

という使われ方はあっても、

あはれてふことをあまたにやらじとや春におくれてひとり咲くらむ(古今集)、

とあるのを見かけるくらいで、

和歌や連歌には詠題としてはない、

らしくhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E3%82%8A%E8%8A%B1、俳諧にいたって盛んに作られたらしい。

帰花、

は、

葉腋(ようえき)に花芽が完成したあと、日照量が多くて気温が高く植物の養分や水分の吸収が盛んな時期に、物理的障害や生理的充足を受けることにより生ずる、

とあり(日本大百科全書)、落葉樹では、

とくに気温が高く日照の豊富な9月ごろに、台風や潮風などで葉が傷ついたり落ちたりして葉の役目をなさなくなると、生育途中のため、急激に新葉が伸びると同時に花芽も作動して開花する、

とある(仝上)。秋に多くおこる返り咲きは、春のように満開になることがない。これは、

炭酸同化作用によってつくられたデンプンが十分に糖化していないためであり、春に満開となる植物は、低温が長く続く冬の休眠期間を経過するためである、

という(仝上)。

返り咲き、

のよくみられるのは、

ナシ、リンゴ、ウメ、サクラ、

などバラ科の落葉植物、

フジ、ツツジ、

に多い(仝上)とある。

「花」 漢字.gif

(「花」 https://kakijun.jp/page/hana200.htmlより)

「花」(漢音カ、呉音ケ)は、「はな」でも触れたが、

会意兼形声。化(カ)は、たった人がすわった姿に変化したことをあらわす会意文字。花は「艸(植物)+音符化」で、つぼみが開き、咲いて散るというように、姿を著しく変える植物の部分、

とある(漢字源)。「華」は、

もと別字であったが、後に混用された、

とあり(仝上)、また、

会意兼形声文字です。「木の花や葉が長く垂れ下がる」象形と「弓のそりを正す道具」の象形(「弓なりに曲がる」の意味だが、ここでは、「姱(カ)」などに通じ、「美しい」の意味)から、「美しいはな」を意味する漢字が成り立ちました。その後、六朝時代(184~589)に「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「左右の人が点対称になるような形」の象形(「かわる」の意味)から、草の変化を意味し、そこから、「はな」を意味する「花」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji66.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

としてhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8A%B1

形声。「艸」+音符「化」。「華」の下部を画数の少ない音符に置き換えた略字である、

とされ(仝上)、

形声。艸と、音符(クワ)とから成る。草の「はな」の意を表す。もと、華(クワ)の俗字、

とある(角川新字源)。

「華」 漢字.gif

(「華」 https://kakijun.jp/page/1069200.htmlより)


「華」 金文・西周.png

(「華」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AFより)

「華」(漢音カ、呉音ケ・ゲ)は、「花客」で触れたように、

会意兼形声。于(ウ)は、丨線が=につかえてまるく曲がったさま。それに植物の葉の垂れた形の垂を加えたのが華の原字。「艸+垂(たれる)+音符于」で、くぼんでまるく曲がる意を含む、

とあり(漢字源)、

菊華、

と、

中心のくぼんだ丸い花、

を指し、後に、

広く草木のはな、

の意となった(仝上)とする。ただ、上記の、

会意形声説。「艸」+「垂」+音符「于」。「于」は、ものがつかえて丸くなること。それに花が垂れた様を表す「垂」を加えたものが元の形。丸い花をあらわす、

とする(藤堂明保)説とは別に、

象形説。「はな」を象ったもので、「拝」の旁の形が元の形、音は「花」からの仮借、

とする説もある(字統)。さらに、

会意形声。艸と、𠌶(クワ)とから成り、草木の美しい「はな」の意を表す、

とも(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%8F%AF)、

会意兼形声文字です。「並び生えた草」の象形(「草」の意味)と「木の花や葉が長く垂れ下がる象形と弓のそりを正す道具の象形(「弓なりに曲がる」の意味)」(「垂れ曲がった草・木の花」の意味から、「はな(花)」を意味する「華」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1431.htmlある。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2023年12月18日

炉開(ろびらき)


炉開や左官老行(おいゆく)鬢(びん)の霜(芭蕉)、

の、

炉開(ろびらき)、

は、

茶家で、陰暦10月1日または同月の中の亥の日に、それまで使用していた風炉(ふろ)をしまい、炉をひらくこと、

をいい、

開炉(かいろ)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

爐塞(ろふさぎ)、

に対し(大言海)、11月より翌春5月まで、半年間、

炉による茶の湯がおこなわれる、

とありhttps://www.omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi?id=2201、また、その年の春に摘まれた新茶を使いはじめる口切の茶の頃と重なって、

口切り、

ともいい、

開炉の頃は茶の湯の正月ともよばれる(仝上)。

9月、昨年製の茶の尽くるに催す、

のを、

名残りの茶、

という(大言海)とある。また、広く一般に、

暖をとるために炉を使い始めること、

をも、

炉開、

といい(精選版日本国語大辞典)、

初冬に囲炉裏を使い始めること、

をいう(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)ともある。千利休の頃は、

柚の色づくのを見て炉を開く、

ともいわれたhttps://www.omotesenke.jp/cgi-bin/result.cgi?id=2201とある。季語は、

冬である。

口切に堺の庭ぞなつかしき(芭蕉)、

の、

口切り、

は、これも茶事にともなって、

十月初めに新茶の壺の封を切ること、

をいう(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。炉開きに行なわれ、

葉茶壺に入れ目張りをして保存しておいた新茶を、陰暦10月の初め頃に封を切り、抹茶(まっちゃ)にひいて客に飲ませる、

ものである(精選版日本国語大辞典)。

口切り、

は、

一般には、

今度取て来たらば、汝に口切をさせうぞ(狂言「千鳥(室町末‐近世初)」)、

と、

容器などの口の封を切って初めてあけること。また、そのあけたばかりのもの、

をいい、

くちあけ、
くちびらき、

ともいい、転じて、

糀町の乾物屋より口切して(浮世草子「世間娘容気(1717)」)、

と、

物事をし始めること、

をいい、

てはじめ、
かわきり、
くちあけ、

ともいう(精選版日本国語大辞典)。

風炉(ふろ)、

は、「点前」でも触れたが、

茶釜を火に掛けて湯をわかすための炉、

をいい、

夏を中心に5月初めごろから10月末ごろまで用いる。

爐塞、

は、

茶人の家にて、陰暦3月晦日に、地爐を閉じて、(4月朔日からは)風爐を用いること、

をいう(大言海)。

茶道で使われる風炉(画面奥).jpg

(茶道で使われる風炉(画面奥) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E7%82%89より)

なお、「茶事」、「茶道具」、「」については触れた。

「爐」 漢字.gif

(「爐(炉)」 https://kakijun.jp/page/E0A2200.htmlより)

「爐(炉)」(漢音ロ、呉音ル)は、

会意兼形声。盧(ロ)は「入れ物+皿(さら)+音符虎(コ)の略体」の形声文字で、つぼ型のまるいこんろのこと。のち金属で外側をまいた、または大型のかまどの意ともなる。爐は「火+音符盧(ロ)」で、盧(まるいつぼ、こんろ)の原義をあらわすため、火印を添えた、

とある(漢字源)。常用漢字は俗字による(角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(火+盧)。「燃え立つ炎」の象形(「火」の意味)と「口の小さな亀の象形と食物を盛る皿の象形」(「クルッとろくろ(轆轤)を回して作った飯入れ」の意味)から、「いろり」を意味する「炉」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1569.html

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2023年12月19日

紙子


ためつけて雪見にまかるかみこ哉(芭蕉)、



かみこ、

は、

紙子、

と当て、

和紙で作り柿渋を塗った防寒用の安価な着物。もとは律宗の僧侶が用いたもので、老人や風流人に好まれたほか、浪人の代名詞ともなった、

とある(松尾芭蕉(雲英末雄・佐藤勝明訳註)『芭蕉全句集』)。

紙衣で触れたように、

かみこ、
かみころも、
かみきぬ、

などと訓む、

紙衣、

と同じである。

紙子.jpg

(紙衣 広辞苑より)

紙衣は、

紙製の衣服、

の意で、

生漉(きすき・きずき 楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などを用い、他の物をまぜないで、紙を漉くこと)の腰が強い、

とされる(日本大百科全書)、

かみこ紙と云ふ一種の白き紙、

を(大言海)、糊(のり)で張り合わせ、着物仕立てにした、

保温用の衣服、

で(広辞苑・岩波古語辞典)、

紙を糊で張り合わせて、その上に柿渋を引いたりするため、紙自体がこわばりやすいので、これを柔らかくするために、張り合わせたあと、渋を引いてから天日で乾燥させ、そのあと手でよくもんで夜干しをする。翌日また干して、夕刻に取り込み、再度もむ。これを何回か繰り返して、こわばらないように仕上げ、

て(日本大百科全書)、

渋の臭みを去ってつくった

とある(広辞苑)。もとは、

律宗の僧が用いた、

が、後には一般の貧しいものの、

防寒用、

となり、元禄(1688〜1704)の頃には、

肩・襟などに金襴・緞子などをもちい、種々の染込みなどをした贅沢品も作られ、

遊里などでも流行した(広辞苑・岩波古語辞典)、とある。糊は、

江戸時代にはワラビの根からとったものであり、現在はこんにゃく糊を使用する、

とある(日本大百科全書)。

渋を用いずして白き、

を、

白紙子、

といい、

破れやすい部分には別に、

火打(ひうち)、

という三角形の紙を貼る(大言海)、とある。古代から用いられた僧衣の伝統を引いて今日も、奈良・東大寺の二月堂の修二会(しゅにえ)の際に着用されている(日本大百科全書)。

紙子四十八枚、

という言葉がある。「紙衣」は、

胴の前後に二十枚、左右の袖に四枚、裏に二十四枚の紙を用いて作る、

からである(岩波古語辞典)。もっとも、

身上は紙子四十八枚ばらばらとなつて(西鶴織留)、

というように、紙子を着る貧しさをいう喩えとして言うのだが。

さて、「紙衣」は、漢語で、

しい、

と訓ませると、

紙の衣、死者に用いる、

とあり(字通)、宋史・棲真伝に、

食はざること一月、~十二月二日を以て、紙衣を衣(き)て磚塕(せんたふ)に臥して卒(しゆつ)す。~歳久しきに及んで、形生けるが如し。衆始めてき、傳へて以て尸解(しかい 仙化の一、人がいったん死んだのちに生返り、他の離れた土地で仙人になること)と爲す、

とある(仝上)。ために、古く、

紙衣、

を、訛って、

しえ、

といったhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A1%A3らしい。

「かみこ」は、

紙衣(かみころも)の略か、紙小袖(かみこそで)の略か、

とあり(大言海)、古くは、

かみぎぬ、

といい、中世末から、

かみこ、

と呼ぶようになった(日本語源大辞典)。

古へ、麻布なりしに起こる(大言海)、

という、

布子(ぬのこ)、

綿の入った、

綿子(わたこ)、

などのように「こ」は愛称(日本語源大辞典)と思われる。

紙衣」は、戦国時代になると、

戦陣の衣料として陣羽織、胴服などに作られた、

とあり(世界大百科事典)、

秀吉公、白紙子の御羽折、紅梅の裏御襟(続武家閑談)、

と、豊臣秀吉の小田原出陣の際には、

駿河宇津山にて馬の沓の切れたのを見た石垣忠左衛門という者が沓を献じたところ、秀吉手ずから紙衣の羽織を賜わった、

とあり(一話一言)、必ずしも貧者のみのものではなかったが、

綴り詫びたる素紙子(すがみこ)や、垢に冷たきひとへ物に(宿直草)、

と、

近世以降、安価なところから貧しい人々の間で用いられたもののようである。「素紙子」は、

すかみこ、

とも訓ませ、

柿渋を引かないで作った安価な紙子、

で(デジタル大辞泉)、

白紙子、

ともいい、

安価なところから貧乏人が用いた(精選版日本国語大辞典)。

紙子を仕立てるのに用いる紙、

を、

紙子紙(かみこがみ)、

というが、

白く厚くすいた腰の強い上質の和紙、

で(精選版日本国語大辞典)、

柿渋を引き、揉んで柔らかにしたつぎあわせの厚紙、

である(広辞苑)。

紙衾(かみぶすま・かみふすま)、

というと、

紙子作った粗末な夜具、

で、

槌(う)ちたる藁を綿に充(あ)て、紙を外被(かは)として、蒲団に製せるもの、

で(大言海)。別に、

天徳寺(てんとくじ)、

ともいうが、江戸時代、

江戸西窪、天徳寺門前にて、売りたれば名とす、

とある(仝上)。

日向ぼこりを、天道ぼこりと云ひし如く、日の暖なるを、天徳寺と云ふ、寺にかけて、戯として云ひしかと云ふ。紙衾は隠語とす。戯とは、どうしだもんだ、広徳寺の門だの類、

とある(仝上)。幕末の守貞謾稿には、

天徳寺、江戸困民、及武家奴僕、夏紙張を用ふ者、秋に至りて賣之、是にわらしべを納れて周りを縫ひ、衾として再び賣之、困民奴僕等、賈之て布團に代りて、寒風を禦ぐ也、……享保前は是を賣歩行く、享保以来廃して、今は見世店に賣るのみ、

とある。確かに、

紙子賣、

が居て、

引賣りやもみぢの錦紙子賣(誘心集)、
時なるを紙子賣る聲初時雨(柳亭筆記)、

などと、

初冬の頃、市中を売りて歩くを業とする者、

が居た。また、

紙子頭巾(かみこずきん)、

は、

紙子紙(かみこがみ)で作った頭巾、

で、防寒用であったが、浪人などが多く使用した(精選版日本国語大辞典)。

紙子浪人、

というと、

紙子1枚の貧乏浪人、

をさす(広辞苑)。

紙子羽織(かみこばおり)、

は、紙子の羽織。金襴や緞子などを施した奢侈品もあったが、多くは、

安物で貧乏人が着用した、

とある(仝上)。紙子で作った羽織は、

世之介初雪の朝、紙衣羽織に了佐極の手鑑(好色一代男)、

と、

紙子羽織(かみこばおり)、

という(広辞苑)。なお、「紙子」には、

紙子着て川立ち、
紙子着て川へ陥(はま)る、

などと、

無謀なことのたとえ、

としていう諺もある。また、貧乏なさまのたとえに、

紙子の火打ち膝(ひざ)の皿(さら)、

という言い方もあり、

「火打」は、紙子の袖の付け根のほころびやすい部分にあてる火打金の形をしたもの。「膝の皿」は、貧乏のさまをいう「向脛(むこうずね)から火が出る」の句から、「火打」の「火」と頭韻を合わせていい続けたもの、

という(精選版日本国語大辞典)。

紙子臭い(かんこくさい)、

は、

カミコクサイの音便、

で、

紙・布などのこげるにおいがする、

いで、

こげくさい、きなくさい、

と同義である。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2023年12月20日

頭巾


米買に雪の袋や投頭巾(芭蕉)、

の、

投頭巾(なげずきん)、

は、

四角の袋に縫った頭巾の上端を扁平のまま後ろに折りかけてかぶる、

もので(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

黒船頭巾、

ともいい、

近世、踊りに使われ、また傀儡師(かいらいし)・飴売り・小児などが用いた(広辞苑)とある。

投頭巾.jpg

(投頭巾 広辞苑より)

おさな名やしらぬ翁の丸頭巾(芭蕉)、

の、

丸頭巾、

は、

焙烙頭巾(ほうろくずきん)、

ともいう(広辞苑)、

焙烙の形をした頭巾、

で、

僧侶・老人が用い、

大黒頭巾、
法楽頭巾、
法禄頭巾、
耄碌(もうろく)頭巾、

などともいう(仝上)。

焙烙頭巾.bmp

(焙烙頭巾 精選版日本国語大辞典より)

焙烙、

は、

炮烙、
炮碌、

とも当てる、

素焼きの、平たい土鍋、

をいい(「伝法焼」で触れた)、

茶や豆、塩などを煎るのに用いる(背精選版日本国語大辞典)ので、

炒鍋(いりなべ)、

ともいいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%99%E7%83%99

胡麻ごまや茶をいる専用の器として、縁が内側にめくれて、柄のついた小型のもの、

もある(精選版日本国語大辞典)。

ただ、厳密には、丸形は、

丸頭巾、

といわれ、円形の布をひだをとって袋状とし、頭の大きさに合わせてへりをとる、この丸い袋を大きくしたものが、

焙烙(ほうらく)頭巾、

とある(世界大百科事典)。

頭巾、

は、漢語で、

佩巾、本以拭物、後人著於頭、

とあり(梁代字書『玉篇(543年)』)、宋代の『事物起源』には、

古以皂等裏頭、號頭巾、

とある。「衣冠束帯」で触れたように、

衣服令では、朝服では、

頭巾、

を、

ときん、

と訓ませ、唐風の服装の、

幞頭(ぼくとう)、

の流れをくみ、

一品以下。五位以上。並羅頭巾。衣色同礼服、

と(「令義解(718)」)、

皂羅頭巾、皂縵頭巾、、

などとあり、

礼服の冠は、冠と書し、朝服の冠は頭巾と書す、

とある(大言海)が、

頭巾(ずきん)、

とは関係ない(日本大百科全書)とある。

和名類聚抄(平安中期)に、

頭巾、世尊新剃頭髪、以衣覆頭、頭巾之縁也、

とあり、

僧の被り物、

として、

衣にて製し、頭を包む、

ものを指した(仝上)。宋代の仏教に関する名目、故実の解説書『釋氏要覧』(1019年)には、

僧の頭巾は、褐布にて、背後長さ二尺五寸、前長二尺八寸、

とあり(仝上)、室町時代、

僧侶(そうりょ)の被り物、

として発達しはじめ、中世までは、冠や烏帽子をかぶっていたが、江戸時代初期になると露頂の風習となり、

防寒や防塵のため、

として普及し、

御高祖(おこそ)頭巾・宗匠頭巾・苧屑(ほくそ)頭巾・角(すみ)頭巾・錣(しころ)頭巾・宗十郎頭巾・山岡頭巾、

様々の種類がうまれた。

頭巾のいろいろ.png


なお、山伏の頭に被るものに、

兜巾(ときん)、

というのがある。

頭巾、
頭襟、

とも当てるが、中国の唐の、前述の。

幞頭(ぼくとう)、

を模し、

柔らかい皁羅(そうら)(黒の薄物)で袋状に縫った被(かぶ)り物で、このへりにつけた紐(ひも)をあごの下で結んで用いる(日本大百科全書)。山伏などの被るものには、

山中を遍歴する際に、山の悪気にあうのを防ぐ、

ため、十二因縁を表す12襞(ひだ)がある(仝上)。

と‐きん【頭巾・兜巾・頭襟】.jpg

(ときん(頭巾・兜巾・頭襟) 広辞苑より)

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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