戀すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか(壬生忠見)
は、
天暦の御時の歌合、
で、
しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで(平兼盛)
とつがえられ、
兼盛、
の勝ちと判定された。判者の右大臣藤原実頼は、
「判定にこまり、(村上)天皇の気色をそっと伺ったところ、天皇も判をくださず、ただ兼盛の歌を低く口ずさまれた」
ので(大岡信『百人一首』)、そう判定したが、
「壬生忠見はこの歌合に敗れ、食事ものどに通らなくなり、それがもとで死んだと言い伝えられている。」
といういわく付きの「歌合」である。
歌合(うたあわせ)、
は、
歌を詠む人が集まって左右に分かれ、一定の題で双方から出した歌を順次つがえて一番ごとに、判者(はんじゃ)が批評、優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯、
で、その単位を、
一番、
といい、小は数番から大は千五百番に上る(広辞苑)という。平安初期以来宮廷や貴族の間で流行した(大辞林・精選版日本国語大辞典)。平安初期には多分に社交的・遊戯的であったが、平安後期頃から歌人の力量を競う真剣なものとなり、歌風・歌論に大きな影響を与えた(大辞林)。
歌競べ、
歌結び、
ともいう。左右に分かれる参加者を、
方人(かたうど)、
優劣の判定を下す人を、
判者(はんじや)、
その判定の語を、
判詞(はんし、はんじ)という(仝上)。これにならって、平安中期、村上天皇の代に始まったのが、
漢詩、
の歌合、
詩合(しあわせ)、
で、
二手に分かれて漢詩を作り、判者がその優劣を判定して勝ち負けを決める競技、
があり、
闘詩、
ともいい、
天徳三年(959)八月一六日清涼殿に行われた十番詩合が最初、
という(精選版日本国語大辞典)。
「方人(かたうど)」で触れたように、
当座歌合、
兼日歌合、
撰歌合、
時代不同歌合、
自歌合、
擬人歌合、
等々種々あるが、その構成は、人的構成にのみ限っていうと、王朝晴儀の典型的な歌合にあっては、
方人(かたうど 左右の競技者)、
念人(おもいびと 左右の応援者)、
方人の頭(とう 左右の指導者)、
読師(とくし 左右に属し、各番の歌を順次講師に渡す者)、
講師(こうじ 左右に属し、各番の歌を朗読する者)、
員刺(かずさし 左右に属し、勝点を数える少年)、
歌人(うたよみ 和歌の作者)、
判者(はんじや 左右の歌の優劣を判定する者。当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)、
などのほか、
主催者、
和歌の清書人、
歌題の撰者、
などが含まれる(世界大百科事典)とある。歌が披講されると、
方人は(難陳 相手方の歌を非難)し、味方の歌を弁護する。その後、判者が判定を下し、判定理由を判詞(はんじ)として記す。引分けは持(じ)という、
とある(ブリタニカ国際大百科事典)。
(陽成院歌合 冒頭 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%90%88より)
主な「歌合」は、
在民部卿家歌合 仁和元年(885年)頃(記録に残る最古の歌合)<主催者・在原行平>
寛平御時后宮歌合 寛平元年(889年)
亭子院歌合 延喜13年(913年)
天徳内裏歌合 天徳4年(960年)<主催者・村上天皇>
寛和二年内裏歌合 寛和2年(986年)<仝上・花山天皇>
六百番歌合 建久3年(1192年)<仝上・九条良経>
千五百番歌合 建仁元年(1201年)頃<仝上・後鳥羽院>
水無瀬恋十五首歌合 建仁2年(1202年)<仝上後鳥羽院>
等々ある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%90%88)が、
歌合、
自体が、中国の、
闘詩、
闘草、
の模倣から、
物合(ものあわせ 草合、前栽(せんざい)合、虫合など)、
が生まれ、その合わせた物に添えられた歌(その物を題にして詠む)が、互いに合わせられるようになり歌合が成立した(日本大百科全書)。現存最古の歌合は9世紀末の、
在民部卿行平家歌合(ざいみんぶのきょうゆきひらのいえのうたあわせ)、
といわれるが、このころは、
物合と歌合は明確に区分されず、節日(せちにち)、観月などの後宴に、神事、仏事の余興として催された、
という(仝上)。したがって、歌合の方式、行事もこれらの式次第が準用され、会衆の多くが、
方人(かとうど 優劣の難陳(なんちん)をする人)、
となり、
読師(とくじ 歌を整理して講師(こうじ)に渡す人)、
講師(歌を読みあげる人)、
によって左右の歌が交互に披講され、判定も和やかな左右の方人の合議によった(衆議判 しゅうぎばん)であった。ただ、勝負意識が強くなると、特定の、
判者(はんじゃ 判定者)が必要となり、初めは遊宴を主催する人(天皇、権門など)またはその代理者が判定したが、論難が激しくなり判定の資に歌学説が用いられるようになると、判者、方人には、
専門歌人、
が選ばれるようになった(仝上)とある。
天徳四(960)年の『内裏(だいり)歌合』に代表される時代は、内裏後宮を主とした、
女房中心の遊宴歌合、
で、長保五(1003)年の『御堂(みどう)七番歌合』から『承暦(じょうりゃく)内裏歌合』(1078)に至る間は、管絃(かんげん)を伴う遊宴の形をとりながらも歌が純粋に争われ、歌合の内容も、
歌人本位、
となり、平安末期までは、源経信(つねのぶ)・俊頼(としより)、藤原基俊(もととし)・顕季(あきすえ)・顕輔(あきすけ)・清輔(きよすけ)らの著名歌人が作者、判者となり、
歌の優劣と論難の基準、
のみが争われ、遊宴の意味はまったくなくなって、番数も増加し、二人判、追判などの新しい評論形式が生まれた(仝上)。鎌倉期に入ると、御子左(みこひだり)(俊成(しゅんぜい)、定家(ていか))、六条(顕昭(けんしょう)、季経(すえつね))両家学に代表される、
歌学歌論の純粋な論壇、
として、新古今時代にみられる新傾向の文芸の表舞台ともなった(仝上)とある。一応「歌合」自体は、江戸時代まで続いたようだが、この頃がピークで、
六百番歌合(俊成判)、
千五百番歌合(俊成ら十人判)、
が催された(山川日本史小辞典)。
「歌」(カ)は、「歌占(うたうら)」で触れたように、
会意兼形声。可は「口+⏋型」からなり、のどで声を屈折させて出すこと。訶(カ)・呵(カ のどをかすらせて怒鳴る)と同系。それを二つ合わせたのが哥(カ)。歌は「欠(からだをかがめる)+音符哥」で、のどで声を曲折させ、からだをかがめて節をつけること、
とある(漢字源)。
参考文献;
大岡信『百人一首』(講談社文庫Kindle 版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95