夕月夜(ゆふづくよ)おぼつかなきを玉くしげふたみの浦はあけてこそ見め(古今和歌集)
玉くしげ、
は、
櫛などを入れる箱、
で、
蓋にかかる枕詞、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
玉櫛笥、
とも当て、
たま、
は、接頭語、歌語として使われ、
をとめらが珠篋(たまくしげ)なる玉櫛の神さびけむも妹(いも)に逢はずあれば(万葉集)、
ふた方に言ひもてゆけば玉くしけ我が身離れぬかけごなりけり(源氏物語)、
など、
美称、
として使われ、
櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱、
の意(学研全訳古語辞典)で、
くしばこ、
ともいう、
くしげ、
の美称ということになる(広辞苑)が、
玉飾りのある櫛笥(くしげ)、
の意が転じて、
女の持つ手箱の美称、
となった(岩波古語辞典)ともあり、
たま、
は、
霊魂を意味し、神仙としての霊性とかかわりのある箱の意、
ともある(仝上)。
「たま(魂・魄)」で触れたように、
「たま」は、
魂、
魄、
霊、
と当てるが、「たま(玉・珠)」で触れたように、
玉、
球、
珠、
とも当て、
球体・楕円体、またはそれに類した形のもの、
をいうが、もともと、
たま(玉・珠)、
は、
タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、
とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」というが同一視されたということであろうか。
呪術・装飾などに用いる美しい石、宝石、
であり、
特に真珠、
を指し、転じて、
美しいもの、
球形をしたもの、
と意味が広がったと見られる。
なお、形の丸については「まる」で触れたように、「まる」「まどか」という言葉が別にあり、
中世期までは「丸」は一般に「まろ」と読んだが、中世後期以降、「まる」が一般化した。それでも『万葉-二〇・四四一六』の防人歌には「丸寝」の意で「麻流禰」とあり、『塵袋-二〇』には「下臈は円(まろき)をばまるうてなんどと云ふ」とあるなど、方言や俗語としては「まる」が用いられていたようである。本来は、「球状のさま」という立体としての形状を指すことが多い、
とあり(日本語源大辞典)、更に、
平面としての「円形のさま」は、上代は「まと」、中古以降は加えて、「まどか」「まとか」が用いられた。「まと」「まどか」の使用が減る中世には、「丸」が平面の意をも表すことが多くなる、
と(仝上)、本来、
「まろ(丸)」は球状、
「まどか(円)」は平面の円形、
と使い分けていた。やがて、「まどか」の使用が減り、「まろ」は「まる」へと転訛した「まる」にとってかわられた。『岩波古語辞典』の「まろ」が球形であるのに対して、「まどか(まとか)」の項には、
ものの輪郭が真円であるさま。欠けた所なく円いさま、
とある。平面は、「円」であり、球形は、「丸」と表記していたということなのだろう。漢字をもたないときは、「まどか」と「まる」の区別が必要であったが、「円」「丸」で表記するようになれば、区別は次第に薄れていく。いずれも「まる」で済ませた。
とすると、本来「たま」は「魂」で、形を指さなかった。魂に形をイメージしなかったのではないか。それが、
丸い石、
を精霊の憑代とすることから、その憑代が「魂」となり、その石をも「たま」と呼んだことから、その形を「たま」と呼んだと、いうことのように思える。その「たま」は、単なる球形という意味以上に、特別の意味があったのではないか。
たま、
は、
魂、
でもあり、
依代、
でもある。何やら、
神の居る山そのものがご神体、
となったのに似ているように思われる。しかし憑代としての面影が消えて、形としては、「たま」は、「丸」とも「円」とも差のない「玉」となった。しかし、
掌中の珠、
とは言うが、
掌中の丸、
とは言わない。かすかにかつての含意の翳が残っている。
さて、そうした陰影のある「たま」の美称をもつ、
玉匣(たまくしげ)、
は、
枕詞、
に転じ、
くしげを開く、
意から、
吾が思ひを人に知るれや玉匣(たまくしげ)開きあけつと夢(いめ)にし見ゆる(万葉集)、
と、
「ひらく」「あく」に、
珠匣(たまくしげ)蘆城の河を今日見ては万代(よろづよ)までに忘らえめやも(万葉集)、
と、
「開(あく)」の「あ」と同音を含む地名「あしき」に、
かかり、
くしげの蓋(ふた)をする、
意から、
玉匣(たまくしげ)覆ふをやすみ明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも(万葉集)、
と、
「おほふ」に、
かかり、
くしげの蓋、
の意から、「ふた」と同音の、
ぬばたまの夜はふけぬらし多末久之気(タマクシゲ)二上山に月傾きぬ(万葉集)、
と、
地名「二上山」「二見」「二村山」、
ほととぎす鳴くや五月(さつき)のたまくしげ二声聞きて明くる夜もがな(新勅撰和歌集)、
と、
「二年(ふたとせ)」「二声」「二尋(ふたひろ)」「二つ」、
などを含む語にかかり、
くしげの身の、
意から、
玉匣(たまくしげ)みもろの山のさなかづらさ寝ずは遂にありかつましじ(万葉集)、
と、
「身」と同音を含む「三諸(みもろ)」「三室戸(みむろと)」「恨み」に、
かかる。一説に、くしげを開けて見る意で、「見」と同音を含む語にかかるともいう。また、
くしげの箱、
の意から、
たまくしげ箱の浦波立たぬ日は海を鏡と誰か見ざらん(土佐日記)、
と、
「箱」と同音または同音を含む地名「箱根」、または「箱」、
などにかかり、
たまくしげかけごに塵もすゑざりし二親ながらなき身とを知れ(金葉集)、
と、
くしげと縁の深いものとして「掛子(かけご)」にかかり、また、鏡と同音の地名「鏡の山」、
にかかり、
大切なもの、
の意で、
あきづはの袖振る妹を珠匣(たまくしげ)奥に思ふを見給へ吾が君(万葉集)、
と、
奥に思ふ、
にかかり、
くしげが美しい、
の意から、
玉匣かがやく国、苫枕(こもまくら)宝ある国(播磨風土記逸文)、
と、
「輝く」にかかる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。
なお、
玉匣、
を、
ぎょっこう、
と読むと、漢語で、
宝玉で装飾した箱、
をいい、
玉手箱、
鏡箱(かがみばこ)、
ともいう(精選版日本国語大辞典)。
「匣」(漢音コウ、呉音ギョウ、慣用ゴウ)は、「筥」で触れたように、
会意兼形声。甲(コウ)は、ぴったりと蓋、または覆いのかぶさる意を含む。からだにかぶせるよろいを甲といい、水路にかぶせて流れを塞ぐ水門を閘(コウ)という。匣は、「匚(かごい)+音符甲」で、ふたをかぶせるはこ、
とある(漢字源)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:玉匣(たまくしげ)