2024年03月23日

方丈


方丈渾連水(方丈 渾(す)べて水に連なり)
天台総映雲(天台 総べて雲に映ず)(杜甫・観李固請司馬弟山水図)

の、

方丈、

は、

方壺、

ともいい、

蓬莱と同じく、東方の海中にあるといわれた仙山、

であり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

天台、

は、

浙江省の東部にある山、

で、

昔は仙人の住む霊山と考えられた、

とある(仝上)。

方丈、
天台、

ともに、孫綽(そんじゃく)「天台山に遊ぶ賦」に、

海を渉れば則ち方丈・蓬莱有り、陸に登れば則ち四明・天台有り、皆玄聖の遊化する所、霊仙の窟宅する所なり、

とあるのをふまえる(仝上)とある。

方丈、

は、文字通り、

丈(約三・〇三メートル)四方、

つまり、方丈記の、

広さは僅かに方丈、高さは七尺が内なり、

とある、

畳たたみ四畳半のひろさの部屋、

を言うが、

維摩居士宅……躬以手板、縦横量之、得十笏(尺)、故號方丈(釋氏要覧)、

とあるように、維摩経の、

天竺の維摩居士の居室が方一丈であった、

という故事から、禅宗などの寺院建築で、本堂・客殿を兼ねる、

長老・住持の居所、

の意で使い、転じて、

住持、
住職、

また、

師への敬称、

としても用いる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)ようになる。また、

食前方丈、侍妾数百人、我得志弗為也(孟子)、

で、

一丈四方の広さにならべられた食物、

つまり、

ぜいたくな食事、

の意でも使うが、上述のように、

方丈、

は、

此れの地ところは即ち方丈(懐風藻)、

と、

三神山(さんしんざん)、

の一つである、

神仙の住むという、東方絶海の中央にある想像上の島、

を指す。これについては、「蓬莱」で触れたように、

蓬萊、方丈、瀛洲、此三神山者、其傅在勃海中、去人不遠、患且至、則船風引而去、蓋嘗有至者、諸僊人(仙人)及不死之藥皆在焉、物禽獸盡白、而黃金銀為宮闕、未至、望之如雲、及到、三神山反居水下、臨之、風輒引去、終莫能至云、世主莫不甘心焉(史記・封禅書)
使人入海求蓬莱・方丈・瀛洲、此三山者相傳在渤海(漢書・郊祀志)、
海中有三山、曰蓬莱、曰方丈、曰瀛洲、謂之三島(神仙傳)、

などと、

渤海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされ、不老不死の神薬があると信じられた霊山、

で、

三壺海中三山也、一曰方壺、則方丈也、二曰、蓬壺則蓬莱也、三曰瀛壺洲也(拾遺記)、

と、

蓬莱(ほうらい)山、
方丈(ほうじょう)山、
瀛洲(えいしゅう)山、

と、

三神山(三壺山)、

とされ(仝上・日本大百科全書)、前二世紀頃になると、

南に下って、現在の黄海の中にも想定されていたらしい、

と位置が変わった(仝上)が、

伝説によると、三神山は海岸から遠く離れてはいないが、人が近づくと風や波をおこして船を寄せつけず、建物はことごとく黄金や銀でできており、すむ鳥獣はすべて白色である、

という(仝上)。

仙人」で触れたように、戦国時代から漢代にかけて、燕(えん)、斉(せい)の国の方士(ほうし 神仙の術を行う人)によって説かれ、

(仙人の住むという東方の三神山の)蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)に金銀の宮殿と不老不死の妙薬とそれを授ける者がいる、

と信ぜられ、それを渇仰する、

神仙説、

が盛んになり、『史記』秦始皇本紀に、

斉人徐市(じょふつ 徐福)、上書していう、海中に三神山あり、名づけて蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)という。僊人(せんにん 仙人)これにいる。請(こ)う斎戒(さいかい)して童男女とともにこれを求むることを得ん、と。ここにおいて徐をして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ、

と、この薬を手に入れようとして、秦の始皇帝は方士の徐福(じょふく)を遣わした。後世、この三神山に、

岱輿(たいよ)、
員嶠(えんきよう)、

を加えた、

五神山説、

も唱えられたが、蓬莱・方丈・瀛州の三山は

蓬壺、
方壺(ほうこ)、
瀛壺、

とも称し、あわせて、

三壺、

ともいう。「壺」については、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

にある、

壺中天(こちゅうてん)、

で、

仙人壺公の故事によりて別世界の義に用ふ、

とあり(字源)、また、

壺中天地乾坤外、夢裏身名且暮閒(元稹・幽栖詩)、

と、

壺中之天、

ともいい、さらに、

壺天、

ともいう(仝上)。「壺公(ここう)」とは、上記、

費長房者、汝南人也、曾為市掾、市中有、老翁賣薬、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中、市人莫之見、唯長房於楼上覩、異焉、因往再拝、翁乃與倶入壺中、唯見玉堂厳麗、旨酒甘肴盈衍其中、共飲畢而出(漢書・方術傳)、

で、後漢の時代、汝南(じょなん)の市場で薬を売る老人が、

店先に1個の壺(つぼ)をぶら下げておき、日が暮れるとともにその壺の中に入り、そこを住まいとしていた。これが壺公で、彼は天界で罪を犯した罰として、俗界に落とされていたのである。市場の役人費長房(ひちょうぼう)は、彼に誘われて壺の中に入ったが、そこは宮殿や何重もの門が建ち並ぶ別世界であり、費長房はこの壺公に仕えて仙人の道を学んだ、

とある(日本大百科全書)のを指す。

天台山.jpg


天台山、

は、

天上の三台星に応ずる地、

であるところから名づけられたとされる中国の名山で、

浙江省天台県の北にある。仙霞嶺山脈中の一高峰。赤城・仏隴・桐柏・瀑布などの諸峰を擁し八葉覆蓮の形をなしている。昔から道教の秘境とされた、

が、陳の太建七年(五七五)、天台宗の始祖智者大師智顗(ちぎ)がこの山にはいって天台宗を開き、天台教学の根本道場となった、

とされる(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)。

天台山、

は、

中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)、

の一つとされ、

中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)、

の一つでもあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%A8%E7%9C%89%E5%B1%B1。なお、「天台宗」については、「三諦円融(さんたいえんにゅう)」で、「智顗」については「摩訶止観」でそれぞれ触れた。

四明山、

も、この山脈中の、

天台山から北東方に連なる山一帯、

をいい、

日月星辰(せいしん)に光を通ずる義、

から四明山とよばれる(日本大百科全書)、古くからの霊山で、

山中には雪竇(せっちょう)山資聖(ししょう)寺、天童(てんどう)山景徳(けいとく)寺、阿育王山(あいくおうさん)寺など有名な仏寺があるが、道教でもこの山は第九洞天と称して尊ぶ、

が、10世紀末、阿育王山寺義寂(ぎじゃく)に天台を受けた知礼(ちれい)は明州延慶(えんけい)寺に住して山家(さんげ)派と称した。わが国の比叡(ひえい)山頂を四明ヶ岳(しめいがたけ)と称するのはこの山名にちなむ(仝上)とある。

「壺」.gif

(「壺」 https://kakijun.jp/page/ko12200.htmlより)

「壺」(漢音コ、呉音グ・ゴ)は、「つぼ折」で触れたが、

象形。壺を描いたもの。上部の士は蓋の形、腹が丸くふくれて、瓠(コ うり)と同じ形をしているので、コという、

とあり、壼(コン)は別字、

とある(漢字源)。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:07| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする