今年人日空相憶(今年(こんねん)の人日 空しく相憶(おも)う)
明年人日知何處(明年(みょうねん)の人日 知んぬ何れの處ぞ)(高適・人日寄杜二拾遺)
の、
人日(じんじつ)、
は、
陰暦の正月七日、
をいい、民間の風習で、
正月元日を鶏の日、
二日を狗(いぬ)の日、
三日を豚の日、
四日を羊の日、
五日を牛の日、
六日を馬の日、
七日を人の日、
とし、それぞれ該当するものの一年中の豊凶を占う。人日には七種の菜を羹(あつもの)にして食べたり(七草粥のもとであろう)、布や金箔で人形を切り抜いて飾ったり、親しい間で宴会をひらき、贈物をするなどの行事があった、
とある(前野直彬注解『唐詩選』)。
人日、
は、
にんにち、
と訓むと、
作業量の単位の一つ、
の、
person-day、
の意で、
1人が1日働いた作業量を1としたもの、
をいい、
投入する人員の数と、1人あたりの作業への従事日数の積、
を表し、
1人で1日かかる仕事の量が「1人日」で、10人で5日かかれば50人日(10×5)、100人で半日かかっても50人日(100×0.5)、
となり(https://e-words.jp/w/%E4%BA%BA%E6%97%A5.html)、
業務や事業の工数を測ったり見積もる際に用いられる、
とあり、分野や業界によっては、
人工(にんく)、
とも呼ばれる(仝上)。
じんじつ、
と訓むと、五節供の一つ、
陰暦正月七日の称、
である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
(東方朔(『晩笑堂竹荘畫傳』) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%9C%94より)
東方朔占書曰、歳正月一日占雞、二日占狗、三日占羊、四日占猪、五日占牛、六日占馬、七日占人、八日占穀、皆晴明温和為蕃息安泰之兆、陰寒惨烈為疾病衰耗(宋代類書(事物を天文・地理・生物・風俗などに分類、名称や縁起の由来を古書に求めたもの)『事物紀原』)、
と(字源)、東方朔(前漢の武帝時代の政治家)の、
占書、
に見える中国の古い習俗で、
正月の一日から六日までは獣畜を占い、七日に人を占う、
ところから、
陰暦正月七日の称、
とされ(精選版日本国語大辞典)、
ひとのひ(人の日)、
ともいい(仝上)、また、
霊辰(れいしん)、
元七(がんしち)、
人勝節(じんしょうせつ)、
ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%97%A5)、
「人日吉兆、幸甚々々」(「看聞御記」応永二六年(1419)正月七日) 、
とある、
五節供の一つ、
で、
正月七日為人日、以七種菜為羹(南朝梁「荊楚歳時記(宗懍)」)、
と、
七種(ななくさ)の羹(あつもの)、
を祝うのが慣例である(仝上)。
(七草粥(ななくさがゆ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%97%A5より)
この日には、
一年の無病息災を願って、また正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為、7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食する、
のだとされたが、これが日本に伝わって、
七草粥、
となった(仝上)。
「七種粥」は、
七種粥、
とも当て、正月七日に、春の七草を入れて炊いた粥の意だが、
菜粥、
ともいう。
七種の節句(七日の節句)の日に邪気を払い万病を除くために、羹として食した、
とも(岩波古語辞典)、
羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、
とも(大言海)あるので、当初は、粥ではなく、中国式の、
羹(あつもの)、
であったらしい。「羊羹」で触れたように、「羹」は、
古くから使われている熱い汁物という意味の言葉で、のちに精進料理が発展して『植物性』の材料を使った汁物をさすようになりました。また、植物に対して「動物性」の熱い汁物を「臛(かく)」といい、2つに分けて用いました、
とある(https://nimono.oisiiryouri.com/atsumono-gogen-yurai/)。
中国の、
七種菜羹、
は、少なくとも平安時代初期には、無病長寿を願って若菜をとって食べることが貴族や女房たちの間で行われていた。ただ、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、
とある(日本大百科全書)。偽書とされる「四季物語」には、
七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E8%8D%89)。なお、平安時代の後期の文献に、
君がため夜越しにつめる七草のなづなの花を見てしのびませ、
の歌がある(http://www.geocities.jp/tama9midorijii/ptop/kogop/kohakobe.html)ので、七草を摘むという風習は平安時代には既にあった(仝上)ようである。
人日、
に、
七種類の若菜で羹(あつもの)を頂く、
ということが習慣化したために、
子の日の祝い(ねのひのいわい)、
という前々にあった行事がまじりあってしまった(https://plus.chunichi.co.jp/blog/oonishi/article/672/9881/)とあるが、「子の日」については触れたように、
正月の初めの子の日に、野外に出て、小松を引き、若菜をつんだ。中国の風にならって、聖武天皇が内裏で宴を行ったのを初めとし、宇多天皇の頃、北野など郊外にでるようになった、
とあり(岩波古語辞典)、この宴を、
子の日の宴(ねのひのえん)、
といい、
若菜を供し、羹(あつもの)として供御とす、
とあり(大言海)、
士庶も倣ひて、七種の祝いとす、
とある(仝上)。また、
子の日に引く小松、
を、
引きてみる子の日の松は程なきをいかでこもれる千代にかあるらむ(拾遺和歌集)、
と、
子の日の松、
といい(仝上)、
小松引き、
ともいい、
幄(とばり)を設け、檜破子(ひわりご)を供し、和歌を詠じなどす、
という(大言海)。
子の日遊び、
は、
根延(ねのび)の意に寄せて祝ふかと云ふ(大言海)、
「根延(の)び」に通じる(精選版日本国語大辞典)、
とある。また、正月の初めの子の日に、
内蔵寮と内膳司とから天皇に献上した若菜、
を、
子の日の若菜(わかな)、
という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。どうやら、これも中国由来のところがあり、まじりあってしまうのはもっともだと思われる。
なお、
1月7日、
は、
白馬(あをうま)の節(せち)、
と呼ばれる節供行事を行う日でもあった。
白馬(あをうま)の節、
は、
白馬の節会、
白馬の宴、
ともいい、
あおうま、
あおばのせちえ、
ともいい(精選版日本国語大辞典)。
正月七日、左右馬寮(めりょう)から白馬(あおうま)を庭に引き出して、天皇が紫宸(ししん)殿で御覧になり、その後で群臣に宴を賜わった。この日、青馬を見れば年中の邪気を除くという中国の故事によったもので、葦毛の馬あるいは灰色系統の馬を引いたと思われる、
とあり(仝上)、文字は「白馬」と書くが習慣により、
あおうま、
という(仝上)とある。まず、
青馬御覧の儀式、
があり、
馬寮(めりょう)の御覧より馬の毛付(けづき)を奏聞し(あをうまの奏)、
ついで、
左右の馬寮(めりょう)の官人、あをうまの陣(春華門(しゅんかもん)内)に並び、
順次、
七匹ずつ、三度、
牽きわたす、それを、主上、
正殿に出御ありて、御覧ぜられる、
といい、
春の陽気を助くるなり、
とされる。その後、
節会、
となる、という次第のようである(大言海)。
なお、五節句、
は、
重陽でも触れたように、
人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、
である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児、白酒については触れた。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95