2024年05月01日
涸鱗
早發雲臺仗(早(つと)に雲臺(うんだい)の仗を発し)
恩波起涸鱗(恩波を涸鱗(こりん)に起こさんことを)(杜甫・江陵望幸)
の、
雲臺仗、
の、
雲臺、
は、
後漢の宮中にあった台の名、
で、
明帝のとき、前代の名将二十八人の肖像をここに描かせた。ここでは、そのような名将たちに指揮された儀仗隊の意、
とある(前野直彬注解『唐詩選』)。
涸鱗、
は、
水を離れて、かわいてしまった魚、
の意で、
困窮の状態にある作者自身をたとえたもの、
とあり、これは、「荘子」外物篇の、
車の轍に落ちた鮒が通行人に救いを求め、わずかな水でもよいからすぐに持ってきてほしい、さもなければ自分は乾物になってしまうだろうといった、
という寓話を踏まえる(仝上)とある。
涸鱗、
は、
枯鱗、
とも当てる(精選版日本国語大辞典)。これは、
轍魚、
で触れたように、
義貞が恩顧の軍勢等、病雀花を喰うて飛揚の翅(つばさ)を展(の)べ、轍魚の雨を得て噞喁(げんぐう 魚が水面に口を出して呼吸すること)の唇を湿(うるお)しぬと(太平記)、
と、
困窮に迫られているものの喩え、
に言う(広辞苑)、
轍鮒(てつぷ)、
とも言い、
轍鮒之急、
涸轍之鮒、
とも言うが、これは、『荘子』外物篇に、
莊周家貧、故往貸粟於監河侯、監河侯曰、諾我將得邑金、將貸子三百金、可乎、莊周忿然作色曰、周昨來、有中道而呼者、周顧視、車轍中、有鮒魚焉、周問之曰、鮒魚來、子何為者邪、對曰、我東海之波臣也、君豈有斗升之水而活我哉、周曰、諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、可乎、鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、君乃言此、曾不如早索我於枯魚之肆、
とあるのによる(字源)。常與は水、の意。貧乏な莊周(荘子)が、
貸粟、
を頼んだところ、監河侯が、
諾我將得邑金、將貸子三百金、
と悠長なことを言ったのに対し、轍の鮒を喩えて、莊周が、
昨來、有中道而呼者、
見ると、
車轍中、有鮒魚焉、
その轍の鮒に、
君豈有斗升之水而活我哉、
と、一斗一升の水が欲しいと求められたのに対し、
諾我且南遊子呉越之王、激西江之水而迎子、
と間遠な答えをしたところ、
鮒魚忿然作色曰、吾失我常與、我無所處。吾得斗升之水然活耳、
と鮒が憤然として、そのように言うなら、
枯魚之肆、
つまり干物屋で会おうと言われたといって、監河侯をなじったのに由来する(故事ことわざの辞典)。これは、
籠鳥の雲を戀ひ、涸魚(かくぎょ)の水を求むる如くになって(太平記)、
とある、
涸魚(かくぎょ・こぎょ)、
ともいう、
水がない所にいる魚、
の意で、
今にも死にそうな状態、必死に助けを求めている状態などのたとえ、
として使われ、「轍魚」似た意味であるが、「轍魚」より事態は深刻かもしれない。
涸轍(こてつ)、
涸鮒(こふ)、
ともいい、
涸轍鮒魚(略して涸鮒)、
とも言い、出典は、上記「轍魚」と同じく『荘子』である(字源)。
小水之魚(しょうすいのうお)、
焦眉之急(しょうびのきゅう)、
風前之灯(ふうぜんのともしび)、
釜底游魚(ふていのゆうぎょ)、
も似た意味になる(https://yoji.jitenon.jp/yojii/4389.html)。
後の千金、
で触れたように、『宇治拾遺物語』に、「後ノ千金ノ事」と題して、まるで隣家にちょっと借米に行ったような話に変わっているが、
今はむかし、もろこしに荘子(さうじ)といふ人ありけり。家いみじう貧づしくて、けふの食物たえぬ。隣にかんあとうといふ人ありけり。それがもとへけふ食ふべき料(れふ)の粟(ぞく 玄米)をこふ。あとうがいはく、「今五日ありておはせよ。千両の金を得んとす。それをたてまつらん。いかでか、やんごとなき人に、けふまゐるばかりの粟をばたてまつらん。返々(かへすがへす)おのがはぢなるべし」といへば、荘子のいはく、「昨日道をまかりしに、あとに呼ばふこゑあり。かへりみれば人なし。ただ車の輪のあとのくぼみたる所にたまりたる少水に(せうすい)に、鮒(ふな)一(ひとつ)ふためく。なにぞのふなにかあらんと思ひて、よりてみれば、すこしばかりの水にいみじう大(おほ)きなるふなあり。『なにぞの鮒ぞ』ととへば、鮒のいはく、『我は河伯神(かはくしん)の使(つかい)に、江湖(かうこ)へ行也。それがとびそこなひて、此溝に落入りたるなり。喉(のど)かはき、しなんとす。我をたすけよと思てよびつるなり』といふ。答へて曰く、『我今二三日ありて、江湖(かうこ)といふ所にあそびしにいかんとす。そこにもて行て、放さん』といふに、魚のはく、『さらにそれまで、え待つまじ。ただけふ一提(ひとひさげ)ばかりの水をもて喉をうるへよ』といひしかば、さてなんたすけし。鮒のいひしこと我が身に知りぬ。さらにけふの命、物くはずはいくべからず。後(のち)の千のこがねさらに益(やく)なし。」とぞいひける。それより、「後(のち)の千金」いふ事、名誉せり、
と載せている。「かんあとう」は、監河候(かんかこう)の誤りとされ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、
魏文侯、
とあり、詳しく伝わらないが、
河を監督する役人、
ともあり(https://j-trainer.blogspot.com/2021/04/blog-post_5.html)、
官職、
であるらしい(中島悦次校注『宇治拾遺物語』)。
「うろこ」で触れたように、「鱗」(リン)は、
会意兼形声。粦(リン)は、連なって燃える燐の火(鬼火)を表す会意文字。鱗はそれを音符とし、魚を加えた字で、きれいに並んでつらなるうろこ、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(魚+粦)。「魚」の象形(「魚」の意味)と「燃え立つ炎の象形と両足が反対方向を向く象形」(「左右にゆれる火の玉」)の意味から、「左右にゆれる火の玉のように光る魚のうろこ」を意味する「鱗」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji2354.html)。
参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月02日
入れ紐
よそにして恋ふればくるし入れ紐の同じ心にいざ結びてむ(古今和歌集)、
の、
入れ紐、
は、
玉状に結んだ紐を、もう一本の輪状にした紐に通して結ぶもの。袍、直衣、狩衣などに用いた。しっかりと結びつけられることの喩え、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
入れ紐の、
は、
「同じ」または「結ぶ」にかかる枕詞、
である(広辞苑)。
入れ紐、
は、
袍(ほう)・直衣(のうし)・狩衣(かりぎぬ)などの頚上(くびかみ)の紐の、一方を結び玉にし(雄紐)、他方を輪にして(雌紐)、さしいれてかけておくもの(広辞苑)、
「直衣(なほし)」や「狩衣(かりぎぬ)」「袍(はう)」などの首回りや裾(すそ)についている紐。紐の先が輪になっている側(女紐(めひも))に、結び玉になっている側(男紐(おひも))をかけてとめる(学研全訳古語辞典)、
狩衣(かりぎぬ)、直衣(のうし)、袍(ほう)など、装束の盤領(まるえり)の頸紙(くびかみ)の開閉に用いる紐。結び玉にした雄紐を輪形の雌紐に差し入れて、留める(精選版日本国語大辞典)、
狩衣、直衣、袍などの頚圍(クビカミ)、又裾などに、一方に付きたる、雌紐とて、輪にしたるに、一方に付きたる、雄紐とて、結び玉にしたるを、其輪に差し入れて懸けおくもの(大言海)、
結び玉にしたる紐(雄紐)を、輪にしたる紐(雌紐)にさし入れて、離れないようにしたもの。狩衣・直衣・袍など、装束の首・裾の部分についている紐にいう(岩波古語辞典)、
等々とある。
うへのきぬ、
で触れたように、
袍(ほう)、
は、
束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣、
で、
束帯や衣冠に用いる位階相当の色による、
位袍、
と、位色によらない、
雑袍、
とがあり、束帯の位袍には、
文官の有襴縫腋(ほうえき 衣服の両わきの下を縫い合わせておくこと)、
と
武官の無襴闕腋(けってき)、
の二種がある(精選版日本国語大辞典)。
(縫腋の袍 有職故実図典より)
前身(まえみ)と後身(うしろみ)との間の腋下を縫い合わせた袍、
である、
縫腋袍(ほうえきのほう)、
の、
後身は二幅、前身は一幅半ずつ、右を下前(したまえ)、左を上前(うわまえ)と称して、内側の半幅を裾開きに斜めに仕立てて登(のぼり)と呼んでいる。近世のいわゆる衽(おくみ)である。中央は、丸く刳り、それに沿って下前の端から上前の端まで襟を立てて首上(くびかみ)とし、(中略)首上の上前の端と、肩通りとに紐をつけて入れ紐といい、前者は丸く蜻蛉(とんぼ)結びとし、後者は羂(わな)として掛け解しに用い、それぞれ受緒(うけお)と蜻蛉と呼ぶ。この形式を一般に盤領(まるえり)といっている、
とある(有職故実図典)。
(「蜻蛉結」 精選版日本国語大辞典より)
蜻蛉(とんぼ)結び、
は、
トンボが羽を広げた形に結ぶ、
紐の結び方をいう。
袍、
の語の初見は養老(ようろう)の衣服令(りょう)にみられ、
イラン系唐風の衣、
で、詰め襟式の、
盤領(あげくび)、
で、奈良時代から平安時代初期にかけての袍は、
生地(きじ)の幅が広かったため、身頃(みごろ)が一幅(ひとの 鯨尺八寸(約三〇センチメートル)ないし一尺(約三八センチメートル)のはば)と二幅(ふたの)のもの、袖(そで)が一幅と、それに幅の狭いものを加えた裄(ゆき)の長いものがみられる、
とあり(日本大百科全書)、平安時代中期以後、服装の和様化とともに、
袍の身頃は二幅でゆったりとし身丈が長く、袖は、奥袖とそれよりやや幅の狭い端袖(はたそで 袖幅を広くするため、袖口にもう一幅ひとのまたは半幅つけ加えた袖)を加えた二幅仕立て、袖丈が長い広袖形式となった、
とある(仝上)。
「袍」については、「したうづ」、「襖(あを)」で、「狩衣」については「水干」、「直衣」は「衣冠束帯」で触れた。
「紐」(慣用チュウ、漢音ジュウ、呉音ニュウ)は、「下紐」で触れたように、
会意兼形声。「糸+音符丑(チウ ねじる、ひねって曲げる)」で、柔らかい寝(い)を寝(ぬ)含む、
とあり(漢字源)、
会意兼形声文字です(糸+丑)。「より糸」の象形(「糸」の意味)と「手指に堅く力を入れてひねる」象形(「ひねる」の意味)から、ひねって堅く結ぶ「ひも」を意味する「紐」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2650.html)が、
形声。糸と、音符丑(チウ)→(ヂウ)とから成る(角川新字源)、
と、形声文字とする説もある。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
鈴木敬三『有職故実図典』(吉川弘文館)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月03日
をりはへ
明けたてば蝉のをりはへ鳴きくらし夜は蛍の燃えこそわたれ(古今和歌集)、
の、
をりはへ、
は、
ある事柄の時間がずっとつづくこと、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
をりはへ、
は、
折り延ふ、
と当てる、
をりはふ、
の連用形で、多く、
鶯(うぐひす)ぞをりはへて鳴くにつけて、おぼゆるやう(蜻蛉日記)、
と、
連用形、または、それに「て」を添えた形で、
をりはへて、
と用いる(学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典)とあり、
長く続ける、
いつまでも続ける、
時間を延ばす、
しつづける、
の意である(仝上)。さらに、
おりはふ(折延)、
が、
春がすみしのにころもををりはへていくかほすらむあまのかごやま(「月清集(1204頃)」)、
などと、
「衣」「錦」などの縁語として使われたため、
織り延ふ、
と意識されて、
織り延ふ、
と当てて使うに至り、
織って長くする、
織って長くするように、長く続ける、
意で、
連用形を副詞的に用いることが多い、
とある(精選版日本国語大辞典)。
織延、
は、
おりのぶ、
とも訓み、
女は麻布を織延(ヲリノベ)、足引の大和機(やまとばた)を立て(浮世草子「日本永代蔵(1688)」)、
と、
布の長さや幅に織り詰まりや織り縮みができないように、織り詰まりの割合を定めて、修正しながら規定の丈(たけ)や幅に織り上げる、
意で使う(仝上)。
折る、
は、
鯨魚(いさな)取り海をかしこみ行く船の楫(かぢ)引き折(をり)て(万葉集)、
とか、
手ををりてあひ見し事を数ふればとをといひつつ四つは経にけり(伊勢物語)、
と、
二つに折ったり、指を折ったりする意で、その連用形の名詞化は、
物そのものを折る、
意の、
折り目、
折れ目、
の意になるが、それをメタファに、
時の流れの中で、曲り目、変わり目となる辞典、
の意で(岩波古語辞典)、
季冬(しはすふゆ)の節(ヲリ)にして、風亦烈(はげ)しく寒(さむ)し(日本書紀)、
と、
時節、
季節、
の意や、
さて七度めぐらむをり引きあげて、其をり子安貝はとらせ給へ(竹取物語)、
と、
機会、
場合、
際、
時
の意で使う(精選版日本国語大辞典)。
はふ、
は、
延ふ、
這ふ、
と当て、
谷狭(せば)み峰に波比(はひ)たる玉かづらたえむの心我が思(も)はなくに(万葉集)、
と、
蔓草や綱などが、物にからみついて伝わっていく、
張り渡す、
意や、
神風(かむかぜ)の伊勢の海の大石(おひし)には這(は)ひもとほろふ細螺(しただみ)のい這ひもとほり撃ちてしやまむ(古事記)、
と、
動物が腹部を物の表面につけて伝うように移動する、
意で使う(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。
をりはへ、
は、だから、
ある事柄の時間がずっと引き延ばされる、
意となる。
(「折」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8A%98より)
「折」(漢音セツ、呉音セチ)は、「壺折」でふれたように、
会意。「木を二つに切ったさま+斤(おの)」で、ざくんと中断すること、
とある(漢字源)。別に、
斤と、木が切れたさまを示す象形、
で、扌は誤り伝わった形とある(角川新字源)。また、
会意文字です(扌+斤)。「ばらばらになった草・木」の象形と「曲がった柄の先に刃をつけた手斧」の象形から、草・木をばらばらに「おる」を意味する「折」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji670.html)。
「延」(エン)は、「ふりはへて」で触れたように、
会意文字。「止(あし)+廴(ひく)+ノ印(のばす)」で、長く引きのばして進むこと、
とある(漢字源)。別に、会意文字ながら、
会意。「彳(道路)」+「止 (人の足)」で、長い道のりを連想させる。「のびる」を意味する漢語{延 /*lan/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BB%B6)、
会意文字です(廴+正)。「十字路の左半分を取り出しさらにそれをのばした」象形と「国や村の象形と立ち止まる足の象形」(「まっすぐ進む」の意味)から、道がまっすぐ「のびる」を意味する「延」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1012.html)、
と、構成を異にするが、
形声。意符㢟(てん)(原形は𢓊。ゆく、うつる)と、音符𠂆(エイ)→(エン)とから成る。遠くまで歩く、ひいて、「のびる」意を表す(角川新字源)、
と形声文字とする説もある。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月04日
葛かづら
神奈備の御室の山の葛かづら裏吹き返す秋は來にけり(新古今和歌集)、
の、
神奈備の御室の山、
は、
「神奈備」も「御室」も神の降臨する場所の意だが、ここでは大和の国の枕詞と考えられている、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。
御室、
は、
神の降り来臨する場所、
の意(岩波古語辞典)だが、
三室山(御室山 みむろのやま)、
というと、
我(あ)が衣色取り染めむ味酒(うまさけ)三室山(みむろのやま)は黄葉しにけり(万葉集)、
と、
奈良県桜井市の三輪山(みわやま)、
か、
たつた川もみぢばながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし(古今和歌集)、
と、
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町の神奈備山(かんなびやま)、
をさし、ふもとを龍田川が流れ、紅葉・時雨の名所として知られた(精選版日本国語大辞典)とある。
神奈備、
も、
神をまつる神聖な場所、
神のいらっしゃる場所、
の意で、古代信仰では、
神は山や森に天降(あまくだ)るとされたので、降神、祭祀の場所である神聖な山や森、
をいうところからきている(精選版日本国語大辞典)。もともと固有名詞ではないが、特に、
龍田、
飛鳥、
三輪、
が有名で、《延喜式》の出雲国造神賀詞(かむよごと)には、
大御和乃神奈備、
葛木乃鴨乃神奈備、
飛鳥乃神奈備、
とあり、万葉集にも、
三諸乃かんなび山、
かんなびの三諸(之)山(神)、
かんなびの伊波瀬(磐瀬)之社、
が見える。
葛かづら、
は、
葛の蔓、
とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、
葛はマメ科の蔓性多年草。秋の七草のひとつ、
で、
秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほ恨めしきかな(古今和歌集)、
と、
風に翻る葉裏が目立つところから、「裏」また「怨み」と詠われることが多い、
とある(仝上)。
葛の葉、
で触れたように、
葛の葉、
は、
風に白い葉裏を見せることから、
秋風の吹き裏返す葛の葉のうらみてもなほうらめしきかな(古今集)、
と、
「裏見」に「恨み」を掛けて詠むのが和歌の常套で、
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉、
の歌で名高い、浄瑠璃(『信田森女占』、『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』)などになった、
信田妻(しのだづま)、
の物語(https://dic.pixiv.net/a/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89)がある。
葛、
は、
くず、
かずら、
つづら、
と訓ませるが、
つづら、
と訓ませると、
ツヅラフジなどの野生の蔓植物の総称、
だが、
ツヅラフジの別称、
でもあり(動植物名よみかた辞典)、
かずら、
と訓ませると、
蔓性植物の総称、
とある(仝上)。しかし、
くず、
と訓むと、秋の七草の「くず」である。ここでは、
くず、
と訓ませる「葛」である。
くず、
は、
くずかずら、
ともいうが、むしろ、
くず葛(かづら)と云ふが、正しきなるべし、
とある(大言海)。類聚名義抄(11~12世紀)にも、
葛、カヅラ、クズカヅラ、
とある。だから、冒頭の、
葛かづら、
は、
くず、
のことを言っているのだが、枕詞として、葛の蔓を繰る意から、
くずかづらくる人もなき山里は我こそ人をうらみはてつれ(伊勢大輔集)
と、「来る」に掛かったり、冒頭の、
神なびのみむろの山のくずかづらうら吹きかへす秋は来にけり(新古今和歌集)、
と、葛の葉が風に裏返るので裏・裏見の意から、「うら」「うらみ」にかかる場合、
葛の蔓、
の意ともなる(岩波古語辞典)。ただ、この場合は、
繰る、
ではなく、
うら吹きかへす、
とあるので、
葛の葉、
の意味だと思うが。
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:葛かづら
2024年05月05日
しのぐ
奥山の菅(すが)の根しのぎ降る雪の消(け)ぬとかいはむ恋のしげきに(古今和歌集)、
の、
しのぐ、
は、
覆いかぶさる、おさえつける、
意とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
しのぐ、
は、
凌ぐ、
とあてるが、
ふみつけ、おさえる意が原義(岩波古語辞典)、
物事をおのれの下に押し伏せる意(広辞苑)、
などとあるように、上記の歌のように、
押しふせる、
下に押えるようにする、
おおいかぶせる、
なびかす、
意で、それをメタファに、
宇陀の野の秋萩師弩芸(シノギ)鳴く鹿も妻に恋ふらく我れには益(ま)さじ(万葉集)、
などと、
山、波などの障害物などを押しわけ、かきわけ、押しつけるようにして進む、
意や、さらに、それをメタファに、
よろづのゆゑさはりをしのぎて思ひたち給へる御まゐり(宇津保物語)、
と、
辛抱して困難・障害なことをのりこえる、のりきる、
意で使い、その状態表現から、価値表現へと転じて、
雪しのく庵のつまをさし添へて跡とめて来ん人を止めん(山家集)、
と、
たえる、
我慢する、
また、
たえしのんでもちこたえる、
意や、下に踏みつける意から、
村(ふれ)に君(きみ)あり、長(ひとこのかみ)有りて谷に自(みつか)ら疆(さかひ)を分ちて用(も)て相淩躒(あひシノキきしろふ)(日本書紀)、
と、
あなどる、
見くだす、
圧倒する、
意でも使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。
この由来は、
しのぶ(忍)の他動の意の、しぬぐ(凌)の転(大言海)、
シノビク(忍来)の義(名言通)、
シノビユクの義(和句解)、
と、
しのぶ(忍)、
と関わらせる説がある。ただ、
しぬぐ(凌)、
は、上記歌の万葉仮名は、
宇陀乃野之秋芽子師弩芸鳴鹿毛妻尓恋楽苦我者不益(宇陀の野の秋萩凌ぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく我には益まさじ(万葉集)、
とある、
「しのぐ」の「ノ」当たる甲類の万葉集仮名「怒」「努」「弩」などを江戸時代に「ヌ」と読み誤ってつくられた語、
とあるので、
しぬぐの転訛、
はありえないようだ。他には、
オシノケク(推退来)の義(日本語原学=林甕臣)、
オシノク(推除)の略(和語私臆鈔)、
と、おしのける系、
シノニ、シノノニ(撓)と同源(小学館古語大辞典)、
と、「しのに」系がある。前者は、ちょっとこじつけの気がするが、
しのに、
は、「心もしのに」で触れたように、
秋の穂(ほ)をしのに押しなべ置く露(つゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは(万葉集)、
と、文字通り、
(露などで)しっとりと濡れて、草木のしおれなびくさま、
の意(広辞苑・精選版日本国語大辞典)で、それをメタファに、
淡海(あふみ)の海夕浪千鳥(ゆふなみちどり)汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思(おも)ほゆ(万葉集)、
と、
心のしおれるさまなどを表わす語、
として、
しおれて、
しっとり、しみじみした気分になって、
ぐったりと、
といった意味で使う(仝上)。どうも、「しのに」は、
主体の心理的状態、内的状態、
を言っているのに対して、「しのぐ」は、
主体の物理的状態、外的状態、
を言っているように思え、ちょっと差があるのだが、
主体から客体へ、
と状態表現を転移し、それを価値表現へと転化していくことはありえるのかもしれない。また、
しのに、
も、
しぬに、
と用いるのは、
淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば情毛思努爾(こころモシノニ)古(いにしへ)思ほゆ、
の万葉仮名、
情毛思努爾(こころモシノニ)、
の、
努、
などを、
ヌと読み誤ってつくられた語、
である(岩波古語辞典)。その点でも、
しのに、
と、
しのぐ、
との関連を感じなくもない。
しのぶ、
は、
忍ぶ、
隠ぶ、
と当て、
万代(よろづよ)に心は解けてわが背子がつみし手見つつ志乃備(シノビ)かねつも(万葉集)、
と、気持を抑える、痛切な感情を表わさないようにする意で、
じっとこらえる、
我慢する、
という意味や、動作を目立たないようにする、隠れたりして人目を避ける意で、
凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振り痛き袖を忍(しのび)てあるかも(万葉集)、
と、
隠す、
秘密にする、
という意味で使い、さらに、
辱(はぢ)を忍(しのび)辱を黙(もだ)して事もなく物言はぬさきに我は寄りなむ(万葉集)、
と、
我慢する、
忍耐する、
意でも使うが、この意味は、
感情を抑えてじっと堪える、
意からの転義とも考えられるが、
外部からの働きかけに耐える、
という意味は、和語「しのぶ」には本来なく、「しのぶ」に、漢字、
忍、
の訓として定着したことで、
漢語「忍」のいみが和語「しのぶ」に浸透していき、次第に我慢という意味が色濃くなった、
とあり(日本語源大辞典)、どうも、
しのぶ、
の転義はなさそうに思える。
因みに、
しのぐ、
の連用形の名詞化、
しのぎ、
は、
往生は一人のしのきなり。一人々々仏法を信じて後生をたすかる事なり(蓮如上人御一代記聞書)、
と、
困難なことや苦しみなどをがまんして切りぬけること、
また、
その方法や手段、
の意や、囲碁で、攻められた場合、
最強の抵抗をするか、うまくかわすかして、主力の石を生かしたり、脱出したりすること、
の意があるが(精選版日本国語大辞典)、
ヤクザ・暴力団の収入や収入を得るための手段、
をいう、
シノギ、
も、ここから来たのではないかと疑う。他に、
糊口をしのぐ(飯をのり状の粥にして食いつなぐこと)、
鎬(しのぎ)を削る(両者の刀の鎬が削れるほどの激しい戦いのこと)、
の意からという説もある(日本語俗語辞典)が。
「凌」(リョウ)は、
会意兼形声。夌(リヨウ)は「陸(おか)の略体+夂(あし)」の会意文字で、力をこめて丘の稜線をこえること。力むの力と同系で、その語尾がのびた語。筋骨をすじばらせてがんばる意を含む。凌はそれを音符とし、冫(こおり)を加えた字。氷の筋目の意、
とある(漢字源)が、よく分からない説明だ。別に、
会意兼形声文字です(冫+夌)。「氷の結晶」の象形(「凍る、寒い」の意味)と「片足を上げた人の象形と下向きの足の象形」(「高い地をこえる、丘に登る」の意味)から「(氷が丘のように盛り上がって)凍る」、「氷」、「しのぐ」を意味する「凌」という漢字が成り立ちました、
ともあり(https://www.kanjipedia.jp/kanji/0007160400)、
形声。冫と、音符夌(リヨウ)とから成る、
と、形声文字とする説(角川新字源)もある。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月06日
たぎつ
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす我はせきあへずたぎつ瀬なれば(古今和歌集)、
の、
たぎつ、
は、
水が激しく流れる、
意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
たぎつ、
は、
滾つ、
激つ、
と当て、現代でも使う、
たぎる(滾・沸)、
と同語源とあり(精選版日本国語大辞典)、
たき(滝)と同源、
とある(岩波古語辞典)。
たぎつ、
は、古くは、
たきつ、
と清音で、
高山の石本(いはもと)たぎちゆく水の音には立てじ恋ひて死ぬとも(万葉集)、
と、
水がわきあがり、逆巻き流れる、水があふれるように激しく流れる。
意から、これをメタファに、
嘆きせば人知りぬべみ山川のたぎつ心を(瀧情乎)塞(せ)かへてあるかも(万葉集)、
と、
心がたかまる、
心がわきかえる、
激情がおしよせる、
いらだつ、
といった意で使う(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。万葉仮名で、
滝、
と当てているように、
「滝(たぎ・たき)」「たぎる(滾)」と同根の語で、名詞形は「たぎち」(精選版日本国語大辞典)、
とされ、
たぎつ、
は、
滝の活用(大言海・言元梯)、
とする。他に、
タは勢いを示し、強声、強音を表す語(国語の語根とその分類=大島正健)、
タは当たる意のタギ入義(国語本義)、
ともあるが、
タやすい、
タもとはり、
タ遠み、
などと使う(岩波古語辞典)接頭語とは異なる気がする。
滝の活用、
が、自然な気がするが、どうだろう。なお、「滝」については、
滝川、
で触れた。
動詞「たぎつ」の連用形の名詞化が
たぎち(滾・激)、
で、
川の瀬の激(たぎち)を見れば玉かも散り乱れたる川の常かも(万葉集)
と、
水が激しく流れること、
水などのわきあがること、
激流、
奔流、
の意で使う(精選版日本国語大辞典)。
たぎつ瀬に根ざしとどめぬ浮草の浮たる恋もわれはするかな(古今和歌集)、
の、
たきつ瀬、
たぎつ瀬、
の、
「つ」は「の」の意の格助詞、
で、
水の激しく流れる瀬、
また、
滝、
の意で、枕詞として、「はやし」にかかる(仝上)。
たぎつ、
と同源の、
たぎる、
は、
滾る、
沸る、
は、
わきいづる涙の川はたぎりつつ恋ひしぬべくもおぼほゆるかな(宇津保物語)、
と、
川の水などが勢い激しく流れる、
さかまく、
意や、それをメタファに、
ココロノ taguiru(タギル)(日葡辞書)、
と、
怒り・悲しみ・焦慮などの感情が激しくわきあがる、
また、
心がわきたつ、
意は同じだが、その外、
この水、あつ湯にたぎりぬれば、湯ふてつ(大和物語)、
湯などが煮えたつ、
沸騰してわきかえる、
意や(にえたぎる(煮え滾る)と使う)、それをメタファに、
其の役たぎらぬ人は何時からも役替(やくがへ)してみたがよし(評判「二挺三味線大阪」)、
と、
熱中する、
意でも使う(岩波古語辞典)。この名詞形が、
たぎり(滾・沸)、
になる(精選版日本国語大辞典)。
「滾」(コン)は、
会意兼形声。「水+袞(エン・コン まるい)」、
とある(漢字源)。「滾滾」と、「水がぼこぼこと転がるように流れるさま」の意である。
「袞」(コン)は、
会意文字。もと「衣+公(おおやけ)」で、公式の衣類をあらわす、まるくてゆったりとしている意を含む、
とある(仝上)。
袞袞(コンコン)、
というと、
あとからあとから続いて絶え間ない、
意であり、
不尽長江滾滾来(杜甫・登高)、
の、
滾々(コンコン)、
も、
水が盛んに流れるさま、
をいう(仝上・字源)。
「激」(慣用ゲキ、漢音ケキ、呉音キャク)は、
会意兼形声。敫は「白+放」の会意文字で、水が当たって白いしぶきを放つこと。激はそれを音符として、水印を加えて、原義を明示したもの、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(氵(水)+敫)。「流れる水」の象形(「水」の意味)と「白い骨と柄のある農具:すきの象形と右手の象形とボクッという音を表す擬声語」(「うつ・たたく」の意味)から、水が岩などにあたって、「はげしい」を意味する「激」という漢字が成り立ちました、
と「擬声語」とするもの(https://okjiten.jp/kanji913.html)の他、
「会意形声文字」と解釈する説があるが、誤った分析である、
として、
形声。「水」+音符「敫 /*KEWK/」。「はげしい」を意味する漢語{激 /*keewk/}を表す字、
とか(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BF%80)、
形声。水と、音符敫(ケウ)→(ケキ)とから成る。水が岩などにはげしくあたってしぶきをあげる、ひいて「はげしい」意を表す、
とか(角川新字源)、形声文字とするものがある。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月07日
帰去来
已矣哉(已んぬるかな)
帰去来(かえりなん)(駱賓王・帝京篇)
の、
帰去来、
については、蔡國強展「帰去来」に触れた「帰去来」で取り上げたことがある。
帰去来、
は、陶淵明の、
歸去來兮(かえりなんいざ)
田園 将(まさ)に蕪(あ)れなんとす胡(なん)ぞ帰らざる
既に自ら心を以て形の役と爲(な)す
奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として獨(ひと)り悲しむ
とはじまる、
帰去来辞、
の、
帰去来兮、田園将蕪、胡不帰、
による語。
「去」「来」、
は助辞。
かえりなんいざ、
と訓じ、
さあ帰ろう、
と自らを促す意である。
官職を辞し、郷里に帰るためにその地を去ること。また、それを望む心境、
を意味する(精選版日本国語大辞典)。
きこらい、
とも訓ませる。
詩「帰去来辞」は、四段に分れ、それぞれ異なる脚韻をふむ、
とある。
歸去來辭(陶潜)
は、次のようである(https://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html)。
歸去來兮(帰りなんいざ)
田園將蕪胡不歸(田園将(まさ)に蕪(あ)れなんとす胡(なん)ぞ帰らざる)
既自以心爲形役(既に自ら心を以て形の役と爲(な)す)
奚惆悵而獨悲(奚(なん)ぞ惆悵(ちゅうちょう)として獨(ひと)り悲しむ)
悟已往之不諫(已往(いおう)の諫(いさ)むまじきを悟り)
知來者之可追(来者(らいしゃ)の追ふ可(べ)きを知る)
實迷途其未遠(実に途(みち)に迷ふこと其(そ)れ未だ遠からず)
覺今是而昨非(今の是にして昨の非なるを覚りぬ)
舟遙遙以輕颺(舟は遙遙として以て輕(かろ)く颺(あ)がり)
風飄飄而吹衣(風は飄飄として衣を吹く)
問征夫以前路(征夫(せいふ)に問ふに前路を以てし)
恨晨光之熹微(晨光(しんこう)の熹微(きび)なるを恨む)
乃瞻衡宇(乃(すなわち)衡宇(こうう)を瞻(み)て)
載欣載奔(載(すなわ)ち欣(よろこ)び載(すなわ)ち奔(はし)る)
僮僕歡迎(僮僕(どうぼく)歓(よろこ)び迎(むか)え)
稚子候門(稚子(ちし)門(もん)に候(ま)つ)
三逕就荒(三径(さんけい)荒(こう)に就(つ)くも)
松菊猶存(松菊(しょうきく)猶お存(そん)す)
攜幼入室(幼(よう)を携(たずさ)えて室(しつ)に入(い)れば)
有酒盈罇(酒有(あ)りて罇(たる)に盈(み)つ)
引壺觴以自酌(壺觴(こしょう)を引(ひ)きて以(もっ)て自(みずか)ら酌(く)み)
眄庭柯以怡顏(庭柯(ていか)を眄(み)て以(もっ)て顔を怡(よろこ)ばす)
倚南窗以寄傲(南窓(なんそう)に倚(よ)りて以(もっ)て寄傲(きごう)し)
審容膝之易安(膝を容(い)るるの安(やすん)じ易(やす)きを審(つまび)らかにす)
園日渉以成趣(園(えん)は日に渉(わた)りて以(もっ)て趣(おもむき)を成し)
門雖設而常關(門(もん)は設(もう)くと雖(いえど)も常に関(とざ)せり)
策扶老以流憩(策(つえ)もて老(おい)を扶(たす)けて以(もっ)て流憩(りゅうけい)し)
時矯首而游觀(時に首(こうべ)を矯(あ)げて遐觀(かかん)す)
雲無心以出岫(雲は無心にして以(もっ)て岫(しゅう)を出(い)で)
鳥倦飛而知還(鳥は飛ぶに倦(う)みて還(かえ)るを知る)
景翳翳以將入(景(ひかり)は翳翳(えいえい)として以(もっ)て将に入(い)らんとし)
撫孤松而盤桓(孤松(こしょう)を撫(ぶ)して盤桓(ばんかん)す)
歸去來兮(帰りなんいざ)
請息交以絶遊(請(こ)う交(まじわ)りを息(や)めて以(もっ)て游(ゆう)を絶(た)たん)
世與我以相遺(世と我と相(あい)遺(わ)するに)
復駕言兮焉求(復(また)駕(が)して言(ここ)に焉(なに)をか求もとめん)
悅親戚之情話(親戚の情話(じょうわ)を悦(よろこ)び)
樂琴書以消憂(琴書(きんしょ)を楽しみて以(もっ)て憂(うれ)いを消さん)
農人告余以春及(農人(のうじん)余(われ)に告ぐるに春の及べるを以(もっ)てし)
將有事於西疇(将(まさ)に西疇(せいちゅう)に事(こと)有らんとす)
或命巾車(或は巾車(きんしゃ)を命じ)
或棹孤舟(或は孤舟(こしゅう)に棹(さお)さす)
既窈窕以尋壑(既に窈窕(ようちょう)として以(もっ)て壑(たに)を尋(たず)ね)
亦崎嶇而經丘(亦崎嶇(きく)として丘を経(ふ))
木欣欣以向榮(木は欣欣(きんきん)として以(もっ)て栄(えい)に向(むか)い)
泉涓涓而始流(泉は涓涓(けんけん)として始めて流る)
羨萬物之得時(万物の時を得たるを善(よみ)し)
感吾生之行休(吾が生の行々(ゆくゆく)休(きゅう)するを感ず)
已矣乎(已(やん)ぬるかな)
寓形宇内復幾時(形を宇内(うだい)に寓(ぐう)すること復(また)幾時(いくとき)ぞ)
曷不委心任去留(曷(なん)ぞ心に委(ゆだ)ねて去留(きょりゅう)を任(まか)せざる)
胡爲遑遑欲何之(胡為(なんす)れぞ遑遑(こうこう)として何(いず)くにか之(ゆ)かんと欲(ほっ)する)
富貴非吾願(富貴(ふうき)は吾(わが)願(ねが)いに非(あら)ず)
帝鄕不可期(帝郷(ていきょう)は期す可(べ)からず)
懷良辰以孤往(良辰(りょうしん)を懐(おも)いて以(もっ)て孤(ひと)り往(ゆ)き)
或植杖而耘耔(或は杖(つえ)を植(た)てて耘耔(うんし)す)
登東皋以舒嘯(東皋(とうこう)に登りて以(もっ)て舒嘯(じょしょう)し)
臨淸流而賦詩(清流(せいりゅう)に臨みて詩を賦(ふ)す)
聊乘化以歸盡(聊(いささ)か化(か)に乗(じょう)じて以(もっ)て尽(つ)くるに帰し)
樂夫天命復奚疑(夫(か)の天命を楽しみて復(また)奚(なん)ぞ疑わん)
(陶淵明(『晩笑堂竹荘畫傳』より。絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の「陶淵明伝」に記された故事による) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8Eより)
第1段は、官吏生活をやめ田園に帰る心境を精神の解放として述べ、
第2段は、なつかしい故郷の家に帰り着き、わが子に迎えられた喜び、
第3段は、世俗への絶縁宣言をこめた田園生活の楽しさ、
第4段は、自然の摂理のままに終りの日まで生の道を歩もうという気持、
をうたいあげている(ブリタニカ国際大百科事典)。陶淵明の代表作であると同時に、六朝散文文学の最高傑作の一つとされる(仝上)。
陶淵明(とう えんめい 興寧3年(365)~元嘉4年(427))、
は、中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は、
元亮、
または、名は、
潜、
字が、
淵明、
死後友人からの諡にちなみ、
靖節先生、
または自伝的作品「五柳先生伝」から、
五柳先生、
とも呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E)。
無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだ、
という逸話がある。この「無弦の琴」は、『菜根譚』にも記述があり、
存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできない、
と記し、無弦の琴とは、
中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E)。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
Web漢文大系(https://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html)
漢詩の朗読(https://kanbun.info/syubu/kikyorainoji.html)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月08日
すがる
すがる鳴く秋の萩原朝立ちて旅行く人をいつとか待たむ(古今和歌集)、
の、
すがる、
は、
じが蜂、
のこととある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
腰が細いことから女性の形容となる、
とあり、
梓弓(あづさゆみ)末の珠名(たまな)は胸別(むなわけ)の広き吾妹(わぎも)腰細の須軽娘子(すがるをとめ)のその姿(かほ)の端正(きらきら)しきに(万葉集)
の、
須軽娘子(蜾蠃少女・蜾蠃娘子 すがるをとめ)、
は、
じがばちのように腰細(こしぼそ)でなよやかな美しい少女、
という(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、
細腰の美女、珠名娘子(たまなおとめ)の形容、
だが、平安後期になると、
すがる伏す木(こ)ぐれが下の葛まきを吹き裏反へす秋の初風(山家集)、
と、
鹿、
と理解されてゆく(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。冒頭の歌の、
鳴く、
とあるのは、
蜂の羽音、
で、
珍しい例であり、この例などが「すがる」を鹿と理解させてゆく原因であるかもしれない、
ともある(仝上)。
珠名娘子(たまなのいらつめ)、
は、『万葉集』に登場する女性で、上記歌(高橋虫麻呂)は、
しなが鳥安房に継ぎたる梓弓末の珠名は胸別けの広き我妹(わぎもこ)腰細の蝶嬴娘子(すがるをとめ)のその姿(かほ)のきらきらしきに花のごと笑みて立てれば玉桙の道行く人はおのが行く道は行かずて呼ばなくに門に至りぬさし並ぶ隣の君はあらかじめ己妻(おのづま)離(か)れて乞はなくに鍵さへ奉る人皆のかく惑へればうちしなひ寄りてぞ妹はたはれてありける、
が全文で、珠名は、
豊かな胸とくびれた蜂のような腰を持つ晴れやかな女性、
で、
蝶嬴娘子(すがるおとめ)、
と呼ばれ、
花が咲くように微笑み、立っていれば、道行く人は自分の行べきであった道を行かず、呼ばれもしないのに珠名の家の門に来た。珠名の家の隣の主人は、あらかじめ妻と別れて、頼まれないのに予め自分の家の鍵を珠名に渡すほどであった。男たちが皆自分に惑うので、珠名は、たとえ夜中であっても、身だしなみを気にせずに、男達に寄り添って戯れた、
という伝説を詠んだ歌に登場している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E5%90%8D%E5%A8%98%E5%AD%90)。
すがる、
は、
蜾蠃、
と当て、
じがばち(似我蜂)の古名(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・大言海)、
ジバチの異称(広辞苑)、
また、
はち(蜂)の異名(精選版日本国語大辞典)、
草木の花に睦(むつ)れて、露を吸う虻の類までを云ふ(大言海)、
広く蜂や昆虫の総称(岩波古語辞典)、
ともあり、
すがれ、
ともいう(広辞苑)とある。
すがる、
は、
じがばち科。じがばち。蜂。体長2センチ程の狩人ばち。蝶や蛾の幼虫を捕え地中の穴にたくわえる。黒色。腹部はくびれて細長く、赤色の帯がある。どろで巣をつくる、
とある(https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_yougo&pkey=20072)。
ジバチ、
は、
土中に営巣する、
ので似た生態だが、
昆虫綱膜翅(まくし)目のスズメバチ科に属するクロスズメバチ類の俗称、
で、
女王・雄16mm、働きバチ12mm内外。ややかわいた地中に球形の大きな巣を作り、その中に数段の幼虫室を作る。幼虫はよく肥大し、脂肪に富むため食用にされる、
とある(日本大百科全書・マイペディア)ので、違うのではないかと思うが、日本では地方によって、
ヘボ、
ジバチ、
タカブ、
スガレ、
などと呼ばれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%83%90%E3%83%81)とあるので、
すがる、
と呼ばれる地域もあるようだ。
ジガバチ、
は、
似我蜂、
細腰蜂、
と当て、
雌は幼虫の餌シャクトリムシなどを捕えて地中の穴に貯え、産卵後、穴をふさぐ、
が、
獲物を運ぶとき羽音がじがじがと聞こえ、他の虫を自分の巣に入れて似我似我と言い聞かせて育てると考えた、
ところから、
ジガバチ、
の名がついたという(精選版日本国語大辞典)。
すがる、
以外に
こしぼそばち、
じが、
とも呼ばれ(仝上)、
すがる、
という名の由来も、
鳴く聲を名とせる(大言海)、
とする説がある。
「蜂」(漢音ホウ、呉音フ・フウ)は、
会意兼形声。夆は、△型をなす意を含む。蜂はそれを音符とし、虫を加えた字で、女王蜂を中心に△型の集団をなして移動するハチ、
とある(漢字源)が、他は、
かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%9C%82)、
形声。「虫」+音符「夆 /*PONG/」。「はち」を意味する漢語{蜂 /*ph(r)ong/}を表す字。「蠭」の音符を変更した字である、
と(仝上)、
形声。意符䖵(こん)(多くの虫。虫は省略形)と、音符逢(ホウ)(夆は省略形)とから成る。「はち」の意を表す、
と(角川新字源)、
形声文字です(虫+夆)。「頭が大きくてグロテスクなまむし」の象形(「虫」の意味)と「下向きの足の象形と草木の葉の寄り合い茂る」象形(「足が一点に寄り合っていく、逢う」の意味だが、ここでは、「鋒(ほう)」に通じ、「矛先」の意味)から、矛先のような針のある虫「はち」を意味する「蜂」という漢字が成り立ちました、
と(https://okjiten.jp/kanji331.html)、形声文字とする。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月09日
通ひ路
春霞中し通ひ路なかりせば秋來る雁は帰らざらまし(古今和歌集)、
の、
通ひ路、
は、
空と地上とをつなぐ路、
とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、
春くれば雁かへるなり白雲の道ゆきぶりにことやつてまし(仝上)、
の、
白雲の道、
と同じく、
雁の通り道、
の意である(仝上)。
住の江の岸に寄る波夜さへや夢の通ひ路人目よくらむ(仝上)
の、
夢の通路、
は、
夢の中の想う相手へ通う路、
で、
思いやるさかひははるかになりやするまどふ夢路にあふ人のなき(仝上)
の、
夢路、
に同じで、
夢の中の路が思いを寄せる人へとつながる、
意であり(仝上)、
夏と秋とゆきかふ空のかよひぢはかたへ涼しき風や吹くらむ(仝上)
の、
空のかよひぢ、
は、
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ(仝上)
の、
雲の通ひ路、
と同じ(仝上)とあり、
雲の中を通る天と地上をつなぐ道、
の意となる(仝上)。
通ひ路(かよひぢ)、
は、文字通り、
妹らがりと我が通路の篠すすき我れし通はば靡け篠原(万葉集)、
と、
通う道、
往来する道、
の意で(大言海)、
茲(ここ)より西は浜なり。……通道(かよひぢ)の経るところなり(出雲風土記)、
と、
駅路の公道、
の意などで使うが、それをメタファに、
人知れぬわがかよひぢの関守はよひよひごとにうちも寝ななん(伊勢物語)、
と、
恋人の所へ通う道、
の意となる(精選版日本国語大辞典)。
通路、
を、
つうろ、
と訓ませると、
北無通路(晉書)、
と、
漢語で、日本でも、
阿波国、境土相接、往還甚易。請就此国、以為通路。許之 (続日本紀)
と、
通行のための道路、
の意や、そこから広げて、
然者此谷可有通路事、地下難叶之由可申也(政基公旅引付)、
と、
道を往き来すること、
の意や、それをメタファに、
あすすぐに返弁し向後房とはつうろせぬ(浄瑠璃「心中重井筒」)、
と、
交際すること、
手紙などのやりとりをすること、
等々の意でも使う(精選版日本国語大辞典)。
「通」(漢音ツ・トウ、呉音ツウ)は、
会意兼形声。用(ヨウ)は「卜(棒)+長方形の板」の会意文字で、棒を板にとおしたことを示す。それに人を加えた甬(ヨウ)の字は、人が足でとんと地板をふみとおすこと。通は「辶(足の動作)+音符甬」で、途中でつかえてとまらず、とんとつきとおること、
とある(漢字源)。別に、
形声。「辵」+音符「甬 /*LONG/」。「とおる」を意味する漢語{通 /*hloong/}を表す字、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%80%9A)、
形声。辵(または彳(てき))と、音符甬(ヨウ)→(トウ)とから成る。つきとおる、まっすぐにとおっている、ひいて「かよう」意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(辶(辵)+甬)。「立ち止まる足の象形と十字路の象形」(「行く」の意味)と「甬鐘(ようしょう)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である」の意味)からつつのように空洞で障害物なくよく「とおる」を意味する「通」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji367.html)が、ほぼ趣旨は同じである。
(「路」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B7%AFより)
「路」(漢音ロ、呉音ル)は、
形声。各は「夂(足)+口(かたい石)」からなり、足が石につかえて、ころがしつつ進むことを示す。路は「足+音符各(ラク・カク)で、もと連絡みちのこと、
とあり(漢字源)、別に、
会意兼形声文字です(足+各)。「人の胴体の象形と立ち止まる足の象形」(「足」の意味)と「下向きの足、口の象形」(神霊が降ってくるのを祈る意味から「いたる」の意味)から人が歩きいたる「みち」を意味する「路」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji550.html)。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月10日
さゆ
笹の葉に置く霜よりも一人寝(ぬ)るわが衣手ぞさえまさりける(古今和歌集)、
の、
さゆ、
は、
冷える、凍る、
意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
さやけし、
で触れたことだが、
サユ(冴)は、
さやけしと同根、
であり(岩波古語辞典)、
さやか(分明・亮か)のサヤと同根、
とある(仝上)。
さや、
は、
清、
と当て、
あし原のしけしき小(を)屋に菅畳、いやさや敷きてわが二人寝し(古事記)、
と、
すがすがしいさま、
の意だが、やはり、
日の暮れに碓井の山を越ゆる日は背(せ)なのが袖もさや振らしつ(万葉集)
と、
ものが擦れ合って鳴るさま、
の意もあり(岩波古語辞典)、
冷たい、
凍(冱)る、
意をメタファに、
(光や音が)冷たく澄む、
意でも使う(仝上)。だから、
冴ゆ、
は、
沍(さ)ゆ、
とも当て、
さざ浪や志賀の唐崎さえて比良 (ひら) の高嶺にあられ降るなり(新古今和歌集)、
と、色葉字類抄(1177~81)に、
冴、サユ、凍、サユ、
とあるように、
冷え込む、
冷たく凍る、
意だが、それをメタファに、
山かげや岩もる清水音さえて夏のほかなるひぐらしの声(千載集)、
雪うち散りつつ、いみじく激しくさえ凍る暁がたの月の、ほのかに濃き掻練(かいねり)の袖に映れるも(更科日記)、
浜名の橋を渡り給へば松の梢に風冴えて入江に騒ぐ波の音(平家物語)
等々と、
光、音、色などが、冷たく感じるほど澄む、
また、
まじりけがないものとしてはっきり感じられる、澄みきる、
意で(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、
冴ゆる夜、
冴ゆる月、
冴ゆる星、
冴ゆる風、
声冴ゆる、
影冴ゆ、
等々と使い、さらに、それをメタファに、
万葉はげに代もあがり、人の心もさえて(「毎月抄(1219)」)、
眠られぬ儘に過去(こしかた)将来(ゆくすゑ)を思ひ回らせば回らすほど、尚ほ気が冴(サエ)て眠も合はず(浮雲)、
と、
気持が純粋で澄みきる、
目や頭の働き、神経、気持などがはっきりする、
意で使ったり、
さえた腕の職人だ、
包丁さばきがさえる、
というように、
技術があざやかである、
すぐれている、
意でも使う(仝上・デジタル大辞泉)。
冱、堅凍也、
冴同冱、
とある(宋代の漢字を韻によって分類した韻書『集韻(しゅういん)』)ように、
冴、
は、
冱、
の異字体である。
「冴(冱)」(漢音コ、呉音ゴ)は、
形声文字。「冫(こおり)+音符牙」
とあり(漢字源)、
形声文字です(冫+互(牙))。「氷の結晶」の象形と「木枠を交差させて組んだ縄巻器」の象形(「互いに」の意味だが、ここでは、「固(コ)」に通じ(同じ読みを持つ「固」と同じ意味を持つようになって)、「かたまる」の意味)から、「凍る」、「寒い」、「ふさぐ」、「ふさがる」を意味する「冱」という漢字が成り立ちました。のちに、「互」の形が「牙」に変化して「冴」という漢字が成り立ちました。「冱」は「冴」の旧字(以前に使われていた字)です、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2184.html)。しかし、
形声。声符は互(ご)。〔玉篇〕に「寒(こご)ゆるなり」とみえ、寒さのため冰り、ものが凝り固まることをいう。「荘子」斉物論に、至人の徳を称して「河漢冱るも寒(こご)えしむること能はず」という。わが国では寒さのさえることをいい、冴の字を用いるが、字形を誤ったものであろう。互に連互する意があり、広く結氷してゆく状態をいう、
とあり(字通)、
冱、
が正字とする。同様、
形声。冫と、音符互(ゴ)(牙は誤った形)とから成る、
とする(角川新字源)。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月11日
五節の舞
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ(古今和歌集)、
の詞書(ことばがき)にある、
五節の舞姫をみてよめる、
の、
五節の舞、
とは、
大嘗会・新嘗会で行われる少女舞、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
五節の間にきまって歌われる歌謡の一つで、「びんだたら」と呼ばれていた。びんざさら(楽器)をゆるがしてならせばこそ、おもしろやの意で、元は田楽の歌謡か、
とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)、
鬢だたら、
で触れたが、
五節(ごせち)、
は、その謂れを、
「春秋左伝‐昭公元年」の条に見える、遅・速・本・末・中という音律の五声の節に基づく、
とも(精選版日本国語大辞典・芸能辞典)、
天武天皇が吉野宮で琴を弾じた際、天女が舞い降り、五度歌い、その袖を五度翻しそれぞれ異なる節で歌った、あるいは、天女が五度袖を挙げて五変した故事による、
とも(壒嚢抄・理齋随筆)いわれる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、
新嘗祭(にいなめまつり・しんじょうえ)・大嘗会(おおなめまつり・だいじょうえ)に行われた少女舞の公事、
をいい、毎年、
十一月、中の丑・寅・卯・辰の四日間にわたる、
とされ(岩波古語辞典)、丑の日に、
五節の舞姫の帳台の試み(天皇が直衣・指貫を着て、常寧殿、または官庁に設けられた帳台(大師の局)に出て、舞姫の下稽古を御覧になる)、
があり、寅の日に、
殿上の淵酔(えんずい・えんすい 清涼殿の殿上に天皇が出席し、蔵人頭以下の殿上人が内々に行う酒宴。《建武年中行事》などによると、蔵人頭以下が台盤に着し、六位蔵人の献杯につづいて朗詠、今様、万歳楽(まんざいらく)があったのち装束の紐をとき、上着の片袖をぬぐ肩脱ぎ(袒褐)となる。ついで六位の人々が立ち並び袖をひるがえして舞い、拍子をとってはやす乱舞となる)、
があり、その夜、
舞姫の御前の試み(天皇が五節の舞姫の舞を清涼殿、または官庁の後房の廂(ひさし)に召して練習を御覧になる)、
があり、卯の日の夕刻に、
五節の童女(わらは 舞姫につき添う者)御覧(清涼殿の孫廂に、関白已下大臣両三着座。その後、童女を召す。末々の殿上人、承香殿の戌亥の隅のほとりより受け取りて、仮橋より御前に参るなり。下仕、承香殿の隅の簀子、橋より下りて参る。蔵人これに付く。殿上人の付くこともある)、
があり、辰の日に、
豊明(とよのあかり)節会の宴(豊明は宴会の意で、豊明節会とは大嘗祭、新嘗祭(にいなめさい)ののちに行われる饗宴。新嘗祭は原則として11月の下の卯の日に行われ、大嘗祭では次の辰の日を悠紀(ゆき)の節会、巳の日を主基(すき)の節会とし、3日目の午の日が豊明節会となる。新嘗祭では辰の日に行われ、辰の日の節会として知られた。当日は天皇出席ののち、天皇に新穀の御膳を供進。太子以下群臣も饗饌をたまわる。一献で国栖奏(くずのそう)、二献で御酒勅使(みきのちよくし)が来る。そして三献では五節舞(ごせちのまい)となる)、
があり、正式に、
五節の舞、
が、
吉野の国栖が歌笛を奏し、大歌所(おおうたどころ)の別当が歌人をひきいて五節の歌を歌い、舞姫が参入して庭前の舞台で五度袖をひるがえして舞う(大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4~5人(大嘗祭では5人)の舞姫によって舞われる)、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E・https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki45・大言海・精選版日本国語大辞典)。後世、大嘗会にだけ上演され、さらにそれも廃止された。
豊明(豊の明かり とよのあかり)、
は、
豊は称辞なり、あかりは、御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義と云ふ(大言海)、
夜を日をついてせ酒宴するところから(和訓栞)、
タユノアケリ(寛上)またはタヨナアケリ(手弥鳴挙)の義か(言元梯)、
アカリは供宴に酔いしれて顔がほてっている様子から、トヨはそれを賛美する語(国文学=折口信夫)、
と諸説あるが、素直に、
御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義、
を採りたい。
昨日神ニ手向奉リシ胙(ひもろぎ 神に供える肉)ヲ、君モ聞食(きこしを)シ、臣ニモ賜ハン為ニ、節会ヲ行ハルルナリ(室町時代「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」)、
と、
祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼)、
である、
直会(なおらい 神社における祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒をいただき神饌を食する行事)、
の性格があり、
大嘗祭の祝詞の「千秋五百秋(ちあきのながいほあき)に平らけく安らけく聞食(きこしを)して、豊明に明り坐(ま)さむ」や中臣神寿詞の「赤丹(あかに)の穂に聞食して、豊明に明り御坐(おは)しまして」などの例を引き、「豊明に明り坐す」という慣用句が、宴会の呼称として固定したものであり、「豊は例の称辞、明はもと大御酒を食て、大御顔色の赤らみ坐すを申せる言」と説く本居宣長『古事記伝』の解釈が最も妥当とみられる、
とある(国史大辞典)。
なお、五節句、
は、
重陽でも触れたように、
人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、
である。正月七日の、七種粥、三月三日の、曲水の宴、上巳の日の、天児、白酒については触れた。
「節(節)」(漢音セツ、呉音セチ)は、「折節」で触れたように、
会意。即(ソク)は「ごちそう+膝を折ってひざまずいた人」の会意文字。ここでは「卩」の部分(膝を折ること)に重点がある。節は「竹+膝を折った人」で、膝を節(ふし)として足が区切れるように、一段ずつ区切れる竹の節、
とある(漢字源)。別に、
形声。「竹」+音符「即」(旧字体:卽)、卽の「卩」(膝を折り曲げた姿)をとった会意。同系字、切、膝など、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%AF%80)、
会意兼形声文字です(竹+即(卽))。「竹」の象形と「食べ物の象形とひざまずく人の象形」(人が食事の座につく意味から、「つく」の意味)から、竹についている「ふし(茎にある区切り)・区切り」を意味する
「節」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji554.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月12日
みがくる
川の瀬になびく玉藻のみがくれて人に知られぬ恋もするかな(古今和歌集)、
の、
みがくる、
は、
水隠る、
で、万葉集では、
青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ、
の、
水隠り、
は、
みずこもり、
と訓み、古今集時代には、
みがくる、
と訓んだか (高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、とある。
みがくる、
は、
見隠る、
と当てると、
このむねとの者の行かん方を見んと思ひて、尻にさしさがりて、みがくれみがくれ行くに(古今著聞集)
と、
見えたり隠れたりする、
意となり、
雪ふれば青葉の山もみかくれて常磐の名をや今朝はおるらん(散木奇歌集)、
と、
物陰に身がかくれる、
物の陰にかくれて身が見えなくなる、
意となる。
水隠(みがく)る、
は、
みがくれのほどといふともあやめぐさなほ下刈らん思ひあふやと(蜻蛉日記)
と、
水中に隠れること、
水の中に入って姿が見えなくなること、
の意である(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・大言海)。
「水」(スイ)は、「曲水の宴」で触れたように、
象形。水の流れの姿を描いたもの、
である(漢字源)。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月13日
倭文(しづ)の苧環
いにしへの倭文(しず)の苧環(をだまき)いやしきもよきも盛りはありしものなり(古今和歌集)、
の、
倭文(しづ しず)、
は、
日本古来の織物の一つで、模様を織り出したもの、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。奈良時代は、
ちはやぶる神のやしろに照る鏡しつに取り添へ乞ひ禱(の)みて我(あ)が待つ時に娘子(おとめ)らが夢(いめ)に告(つ)ぐらく(万葉集)、
と、
しつ、
と清音で、後にも、新古今和歌集でも、
それながら昔にもあらぬ秋風にいとどながめをしつのをだまき、
と、
しつ、
と、
詠われる。
苧環、
は、
倭文(しつ)を織るのに用いる苧環、
とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、上記歌では、
「いとど」に糸を掛け、「ながめをしつ」から「糸」の縁語「しつのをだまき」(倭文(しつ)を織るのに用いる苧環)へと続けた、
と注釈される(仝上)。
倭文(しづ)の苧環、
は、「伊勢物語」のなかでも、
古(いにしへ)のしづのおだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな、
とも歌われている。
倭文、
は、
古代の織物の一つ、
で、
穀(かじ)・麻などの緯(よこいと)を青・赤などで染め、乱れ模様に織ったもの(広辞苑)、
梶木(かじのき)、麻などの緯(よこいと)を青、赤などに染め、乱れ模様に織ったもの(精選版日本国語大辞典)、
栲(たへ)、麻、苧(からむし)等、其緯(ヌキ 横糸)を、青、赤などに染めて、乱れたるやうの文(あや)に織りなすものといふ(大言海)、
カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物(デジタル大辞泉)、
等々とあり、多少の差はあるが、
上代、唐から輸入された織物ではなく、それ以前に行われていた織物、
を指している(岩波古語辞典)。で、
異国の文様、
に対する意で、
倭文、
の字を当てた(デジタル大辞泉)といい、
あやぬの(文布・綾布)、
しずはた(機)、
しづり(しつり)、
しずの、
しずぬの、
しとり(しどり)、
しづおり、
等々とも言う。
しづり(しずり)、
は、古くは、
しつり、
で、
しづおり(倭文織)、
の変化した語、
しどり、
は、古くは、
しとり、
で、やはり、
しつおり(倭文織)、
の変化した語、いずれも、
倭文、
と当てる。
しつぬの(倭文布)、
は、
しづぬの(倭文布)、
ともいい、
しづり、
ともいう(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・広辞苑)。後世、
織り目の細かい布の総称、
打って柔らかくしてさらした布、
である、
にきたえ、
に対して、
木の皮の繊維で織った、織り目の粗い布の総称、
として、
あらたえ、
という(仝上)。「藤衣」で触れたように、古え、賎民の着たる粗末なる服を、
和栲(にぎたへ)、
に対し、
麁栲(あらたへ)、
といい(大言海)、
和栲(にぎたへ)、
は、
和妙、
とも当て、平安時代になって濁り、以前は、
片手には木綿(ゆふ)取り持ち片手にはにきたへ奉まつり平けくま幸くいませと天地の神を祈(こ)ひ祷(の)み(万葉集)、
と清音で、
打って柔らかにした布、
をいい、
神に手向ける、
ものであった(岩波古語辞典)。
麁栲(あらたへ)、
は、
荒妙、
粗栲、
とも当て、
木の皮の繊維で織った、織目のごつごつした織物、
をいい、
藤蔓などの繊維で作った(デジタル大辞泉・仝上)。平安時代以降は、
麻織物、
を指した(仝上)。
倭文、
は、
中国大陸から錦(にしき)の技法が導入されるまで、広く使われたわが国の在来織物で、『万葉集』『日本書紀』などによると、
帯、手環(たまき 現在のブレスレット)、鞍覆(くらおおい)、
等々、
装飾的な部分に使われている(日本大百科全書)とあり、生産は物部(もののべ)氏のもとにある倭文部(しずりべ)であり、各地の倭文神社はその分布を伝える。『延喜主計式(えんぎしゅけいしき)』によると、
その生産地は駿河(するが)国と常陸(ひたち)国で、合計してわずか62端(長さ4丈2尺、幅2尺4寸、天平(てんぴょう)尺による)しか献納されておらず、用途は自然神(風・火など)の奉献物に使われている、
と(仝上)、特殊な用途になっていることがわかる。
しず、
の由来は、
沈むの語根、沈(しず)の義なりと云ふ、或は云ふ、線(すぢ)の転なりと(大言海)、
縞織の義か(筆の御霊)、
おもしの意のシズムル(鎮)の略(類聚名物考)、
糸をしずめて文様を織り出すところからシヅミ(沈)の略(名言通)、
等々あるが、織りとの関係でいうと、
しず(沈)、
か、
すじ(線)、
かと思うが、当初、
しつ、
だということを考えると、ちょっといずれも妥当とは思えない。
苧環(おだまき)、
は、
苧手巻、
とも当て(大言海)、
おだま、
ともいい、
糸によった麻を、中を空虚にし、丸く巻きつけたもの、
をいい(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、
績苧(うみを)の巻子(へそ)、其の形、外圓く、内虚にして、環の如くなれば云ふ、
麻手巻の義、
とある(大言海)。
布を織るためには、まず植物の繊維を糸状にする必要がある。古代では材料に麻(あさ)、楮(こうぞ)、苧(お)、苧麻(からむし)などが使われる。つまり、
おだ-まき、
ではなく、
お-たまき(手巻)、
ということのようである(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A7%E7%92%B0)。
苧(お)、
は、
アサ(麻)、
の異名で、また
アサやカラムシの茎皮からとれる繊維、
をいい、
苧環、
とは、
つむいだアサの糸を、中を空洞にして丸く巻子(へそ)に巻き付けたもの、
をいう(日本大百科全書)。
綜麻(へそ)、
ともいい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A7%E7%92%B0)。布を織るのに使う中間材料で、次の糸を使う工程で、糸が解きやすいようになかが中空になっている(仝上)。
因みに、「へそくり」で触れたように、その語源として、
へそは紡いだ麻糸をつなげて巻き付けた糸巻である綜麻(へそ)をいい、『綜麻繰』とする説、
がある。
「苧」(漢音チョ、呉音ジョ)は、
会意兼形声。「艸+音符竚(チョ じっとたつ)の略体」、
とある(漢字源)。麻の一種の「からむし」である。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月14日
澪標
君恋ふる涙の床(とこ)にみちぬればみをつくしとぞわれはなりぬる(古今和歌集)、
の、
みをつくし、
は、
水脈(みを)つ串、
で、
水先案内のため、水脈の標識として立てた杭、
で、
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしてもあはむとぞおもふ(後撰集)、
と、
難波のものがよく知られる、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
みをつくし(みおつくし)、
は、
澪標、
と当て、後世は、
みおづくし、
ともいい、
みおじるし、
とも訓ませる(デジタル大辞泉)。
れいひょう、
とも訓ませると、漢語であり(仝上・字源)、
(水先案内のために)通行する船に水脈や水深を知らせるために目印として立てる杭、
をいい(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)、水深の浅い河口港に設けるが、古来、
凡難波津頭海中立澪標、若有舊標朽折者、捜求抜去(延喜式)、
と、
難波のみおつくし、
が有名である(仝上・岩波古語辞典)。
澪標、
は川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟(船)の航行が不可能な場所が多く座礁の危険性があるため、比較的水深が深く航行可能な場所である澪との境界に並べて設置され、航路を示した、
もので(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99)、同義語に、
澪木(みおぎ)、
水尾坊木(みおぼうぎ)、
などがあり、後世、
ほんぎ、
ともいい、
土砂が堆積する三角洲の河口付近に設置され、満潮時には行き交う舟の運行指標となった、
とある(仝上)。上方の難波に倣い、関東でも、
小間物町の野地豊前が洲崎に水路標を設置し、満潮時の可航水路を漁師に示した、
とあり、江戸時代初期の三浦浄心『慶長見聞集』「江戸河口野地ぼんぎの事」で、
天正19(1591)卯の年事也、洲崎に澪(みを)しるしを立る、是を俗にぼんぎと云ふ、
とあり、
隅田河口を運行する漁師に喜ばれた、
ので、野地の名をとり、
野地ほんぎ、
と通称された(仝上・大言海)とあるように、
ぼんぎ、
ともいうが、これは、
ぼうぎ(棒木)の音便、
で、江戸の川口の
澪弋(ミヲグイ)、
のことを呼ぶ(大言海)。
(みおつくし(江戸時代) 精選版日本国語大辞典より)
(澪標(南粋亭芳雪『浪花百景』「天保山」中の澪標) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%AA%E6%A8%99より)
多く、和歌では、
身を尽くし、
にかけて用いることが多い(仝上)。
みおぎ、
みおぐい、
みおぼうぎ、
みおじるし、
みおのしるし、
みおぐし、
等々ともいう(仝上)。この由来は、
澪の串の意(精選版日本国語大辞典)、
水脈(みを)の串の意(岩波古語辞典・広辞苑)、
「澪(みお)つ串(くし)」で、「つ」は助詞「の」の意(デジタル大辞泉)、
水脈之杙(みをつくし)の義、澪の字は、字鏡(平安後期頃)に、落なりとあり、落潮の尺度を知らしめむための標なり(大言海)、
水尾之材・水尾之杙の義(翁草・閑田次筆・名言通・比古婆衣・日本語原学=林甕臣)、
ミヲ(水尾)ジルシの義(万葉代匠記・万葉集類林)、
などとあるが、
杙、
ないし、
串
とする説が大勢である。因みに、
みを、
は、
澪、
水脈、
水尾、
と当て、
三輪山の山下(やました)響(とよ)みゆく水の水尾(みを)し絶えずは後(のち)も吾が妻(万葉集)、
と、
海や川の中で、水の流れる筋、
をいうが、特に、
堀江よりみを(水脈)さかのぼる楫(かぢ)の音の間なくぞ奈良は恋しかりける(万葉集)、
と、
船の航行できる深い水路、
をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。
みを、
は、
みよ、
ともいい、その由来は、
ミ(水)ヲ(緒)の意(広辞苑・岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、
水緒(ミヲ)にて、流れの筋の意か、或は云ふ水尾の義、尾は引き延べたるを云ふ、山の尾の如し、澪は、水零の合字(大言海)、
と、
水路、
の意味のようである。そこから敷衍して、現代では、
航行する船が背後にのこす長い帯のような航跡(ミオ)を辿るように(死霊)、
と、
航路あとに出来る水の筋、
航跡、
の意でも使う(広辞苑)。
「澪」(漢音レイ、呉音リョウ)は、
会意兼形声。「水+音符零(やせほそる)」、
とあり(漢字源)、別に、
会意兼形声文字です(氵(水)+零)。「流れる水」の象形と「雲から水滴がしたたり落ちる象形と頭上に頂く冠の象形とひざまずく人の象形(「人がひざまずいて神意を聞く」の意味」(神の意志によって「雨が降る」の意味)から「(神の)川」を意味する「澪」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji2566.html)が、
形声。「水」+音符「零」、中国においては地名(河川名)以外の用法はごくまれ、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%BE%AA)。
「標」(ヒョウ)は、
会意兼形声。票は「要(細くしまった腰、細い)の略体+火」の会意文字で、細く小さい火のこと。標は、「木+音符票」で、高くあがったこずえ、
とあり(漢字源)、別に、
会意兼形声文字です(木+票)。「大地を覆う木」の象形と「人の死体の頭を両手でかかげる象形と燃え立つ炎の象形」(「火が高く飛ぶ」の意味)から「木の幹や枝の先端」を意味する「標」という漢字が成り立ちました(転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、高くて目につく「しるし」・「めじるし」の意味も表すようになりました)。「標」は略字です、
とある( https://okjiten.jp/kanji718.html)が、
形声。木と、音符票(ヘウ)とから成る。木の「こずえ」の意を表す。借りて「しるし」の意に用いる、
と(角川新字源)、形声文字とするものもある。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月15日
玉の緒
死ぬる命生きもやするとこころみに玉の緒ばかりあはむといはなむ(古今和歌集)、
の、
玉の緒、
は、
玉に通した緒、
で、
「短い」、「切れやすい」ことから、はかなさの象徴、
ここでは、
ほんのわずかの時間、
の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。
玉の緒(たまのを)、
は、文字通り、
始春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒(たまばはき)手に執(と)るからにゆらく多麻能乎(タマノヲ)(万葉集)、
と、
玉を貫き通した緒、
で、
首飾りの美しい宝玉をつらぬき通す紐、
または、
その宝玉の首飾りそのもの、
をも指し、
玉飾り、
ともいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。中古以後には、転じて、
草木におりた露のたとえ、
として用いられるようになり(精選版日本国語大辞典)、
玉をつなぐ緒が短いところから、
も、
さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと(万葉集)、
逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ(伊勢物語)、
と、
短いことのたとえ、
に用いるようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。さらに、
魂(たま)を身体につないでおく緒、
つまり、
魂の緒、
の意で、
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(新古今和歌集)、
ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に長き契をいかが結ばむ(源氏物語)、
と、
生命。いのち、
の意で使い、枕詞として、
玉の緒の、
は、
玉の緒が切れる、
の意で、
新世(あらたよ)に共にあらむと玉緒乃(たまのをノ)絶えじい妹と結びてし言(こと)は果さず(万葉集)、
と、「絶ゆ」にかかり、また、
玉の緒が長いように、
の意で、
相思はずあるらむ子故玉緒(たまのをの)長き春日を思ひ暮さく(万葉集)、
と、「長し」にかかり、
玉の緒が短いように、
の意で、
伊勢の海の浦のしほ貝拾ひ集め取れりとすれど玉の緒の短き心思ひあへずなほあらたまの(古今和歌集)、
と、「みじかし」にかかり、
玉の緒が乱れる、
の意で、
ちひさす宮路を行くに吾が裳は破(や)れぬ玉緒(たまのを)の思ひ乱れて家にあらましを(万葉集)、
と、「思ひみだる」にかかり、
玉の緒をくくる、
意で、
玉緒之(たまのをの)くくり寄せつつ末(すゑ)つひに行きは別れず同じ緒にあらむ(万葉集)、
と、「くくり寄す」「継ぐ」「間も置かず」にかかり、
緒を縒(よ)る、
の意で、
うつつには逢ふことかたし玉の緒の夜は絶えせず夢に見えなん(拾遺集)、
と、「夜」に続き、
まそ鏡見れども飽かず珠緒之(たまのをの)惜しき盛りに(万葉集)、
と、玉の緒の「緒(を)」と同音を含む「惜し」にかかり、
生命、
の意で、
玉緒之(たまのをの)うつし心や年月(としつき)のゆきかはるまで妹に逢はざらむ(万葉集)、
と、「現(うつ)し心」にかかり、
魂の緒の命、
の意で、
逢ふことも誰がためなればたまのをの命も知らず物思ふらん(続後撰集)、
と、「いのち」にかかる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
「緒」(漢音ショ、呉音ジョ、慣用チョ)は、
会意兼形声。「糸+音符者(シャ 集まる、つめこむ)」。転じて糸巻にたくわえた糸のはみ出た端の意となった、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(糸+者(者))。「より糸」の象形と「台上にしばを集め積んで火をたく」象形(「煮る」の意味)から、繭(まゆ)を煮て糸を引き出す事を意味し、そこから、「いとぐち(糸の先端)」を意味する「緒」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1798.html)が、
形声。糸と、音符者(シヤ)→(シヨ)とから成る。糸のはじめ、「いとぐち」の意を表す。常用漢字は省略形による、
と(角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%B7%92)、形声文字とする説もある。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月16日
白露
金天方粛殺(金天 方(まさ)に粛殺)、
白露始専征(白露(はくろ) 始めて専征す)(陳子昂・送別崔著作東征)
の、
金天(きんてん)、
は、五行思想による、
秋の天、
をさす(前野直彬注解『唐詩選』)。五行思想によれば、
万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水のうち、土を除く四つは、それぞれ四季に配当して考えられ、春は木、夏は火、秋は金、冬は水、
となる(仝上)。
粛殺、
は、
秋の気が草木を枯らすこと、
で、
白露(はくろ)、
は、
陰暦七月に降りる霜。秋の到来を告げるものとされ、前漢の経書『禮記』月令(がつりょう)篇、孟秋の月(初秋)に、
涼風至、白露降、寒蝉鳴(涼風 至り、白露 降り、寒蝉 鳴く)
とあるのにもとづく(仝上)とあり、
陰暦七月、
を指す(仝上)。
白露、
は、文字通り、
蒹葭蒼蒼、白露為霜(詩経・秦風、蒹葭篇)、
と、
しらつゆ、
つまり、
白く光って見える露、
で、
秋草(あきくさ)に置く白露(しらつゆ)の飽(あ)かずのみ相(あい)見るものを月(つき)をし待たむ(万葉集)、
と、
露の美称、
だが(広辞苑・大言海)、
處暑後十五日、斗指庚、為白露節(孝経緯)、
と、
二十四節気のひとつ、
で、
処暑→白露→秋分、
と続く。
太陽の黄経が165度の時、秋分前の15日、すなわち、太陽暦の9月8日(2024年は9月7日)頃に当たり、この頃から秋気がようやく加わる、
とあり(広辞苑)、
夜中に大気が冷え、草花や木に朝露が宿りはじめる頃。降りた露は光り、白い粒のように見える時期、
である(https://www.543life.com/season/hakuro)ので、
白露、
と、名付けられたと見られる(https://koyomigyouji.com/24-haku.htm)。『暦便覧(こよみべんらん)』(寛政10(1798)年)では、
陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也、
としている。
「をざす」で触れたように、
二十四節気をさらに3つに分けた、
七十二侯、
では、白露の間は、略本暦(伊勢神宮)では、
初侯 草露白(くさのつゆしろし)9月7日頃
白露と同じ意味で、草の露が白く輝いて見える頃。
↓
次侯 鶺鴒鳴(せきれいなく)9月12日頃
セキレイが鳴く頃。
↓
末侯 玄鳥去(つばめさる)9月17日頃
春にやってきたツバメが、子育てを終え南へ帰っていく頃
ただ、日本で中世を通じて823年間継続して使用された、唐の「宣明暦」では、
初候 鴻雁来 雁が飛来し始める
↓
次候 玄鳥帰 燕が南へ帰って行く
↓
末候 羣鳥養羞 多くの鳥が食べ物を蓄える
となっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99)。
なお、「秋」については触れた。
「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」で触れたように、
象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、
とある(漢字源)が、
象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、
ともあり(角川新字源)、象形説でも、
親指の爪。親指の形象(加藤道理)、
柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、
頭蓋骨の象形(白川静)、
とわかれ、さらに、
陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、
とする会意説もある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD)。で、
象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、
と並べるものもある(https://okjiten.jp/kanji140.html)。
「露」(漢音ロ、呉音ル、慣用ロウ)は、「つゆけし」で触れたように、
形声。「雨+音符路」で、透明の意を含む。転じて、透明に透けて見えること、
とある(漢字源)。別に、
形声文字です(雨+路)。「雲から水滴が滴(したた)り落ちる」象形と「胴体の象形と立ち止まる足の象形と上から下へ向かう足の象形と口の象形」(人が歩き至る時の「みち」の意味だが、ここでは、「落」に通じ、「おちる」の意味から、落ちてきた雨を意味し、そこから、「つゆ(晴れた朝に草の上などに見られる水滴)」を意味する「露」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji340.html)。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月17日
とけい
俊秀公置斗景計晷。及申刻則先鳴鐘集大衆(室町中期「蔭凉軒日録 (いんりょうけんにちろく)」)
の、
晷(キ)、
は、
日の影、
日の光、
の意味で、
柱の影によって時間をはかる日時計、
の意味があり、
晷刻(きこく)、
は、
時刻、
の意である(字源)。
斗景、
は、今日、
時計、
と当てるが、ここでは、
日時計、
の意味のようである。
時計、
という字を当てたのは、初見は、貞享三年(1686)の、
時計師、
であり(京羽二重)、続いて元禄三年(1690)の「人倫訓蒙図彙」「江戸惣鹿子名所大全」に見える(橋本万平『日本の時刻制度』)とある。ヨーロッパで、一四世紀に機械時計が製作され、それがキリスト教宣教師によって日本にもたらされたのは、天文二〇年(1551)にフランシスコ=ザビエルが大内義隆に献上したのが最初と言われている(精選版日本国語大辞典)。
とけい、
に多く当てるのは、
土圭、
で、中世、
日時計、
の意味で用いた(広辞苑)とある。
土圭(どけい)、
は、
周代の緯度測定器(広辞苑)、
周代に用いられた、立てた棒の影の長さを測る粘土製の緯度測定器(大辞林)、
方角や日影を測るための磁針を指す昔の中国の表現(大辞泉)
土地の方向・寒暑・風雨の多少あるいは時間などを、その日影によって測定する器具(精選版日本国語大辞典)、
古へ、支那にて、方角、日晷を測る磁針を、土圭と云ふ(大言海)、
等々とあるが、「周礼」地官・大司徒に、
土圭の灋(はふ 法)を以て、土深を測り、日景を正し、以て地の中を求む。日南するときは則ち景短く、暑多し、
とあり(字通)、
土圭測景(張衡・東京賦)、
とあるので、
日影を観測する器、
つまりは、
日時計、
のようである。江戸中期の『和漢三才図絵』にも、土圭は、
晷(日影)によって時刻を知るもの也、
とある(橋本・前掲書)。ただ、
土圭と呼ばれた八尺の長さの棒を立て、その影の正午における長さによって一年の長さを知る日晷が用いられていたが、これが日時計の役をしたというはっきりした記録は残っていない、
とある(仝上)ので、むしろ、土地に垂直に立てた棒で、
冬至点、
を知り、その影の長さによって冬至の日やあるいは一年の長さを知るために使用された、
という(仝上)、
周代の緯度測定器(広辞苑)、
というのが正確かもしれない。勿論それによって、時刻を知ることも可能ではあるが。
土圭、
には、
土景、
土計、
の字があてられることもあるが、中国では、時打ち時計である機械時計には、「土圭」ではなく、
自鳴鐘、
が使用され、日本でも江戸時代に「自鳴鐘」が使われたが、和語の「ときはかり」(日葡辞書)の漢字表記と思われる「時計」が広く用いられていた。ただ「時計」が字音的表記でないため、
時器、
時辰儀、
時辰表、
が使用され、
とけい、
と訓ませた(仝上、日本語源大辞典、橋本万平・前掲書)とある。なお機械時計は、
土圭、
とは表記しない。その表記はあくまで「時計」である。ザビエルがもたらしたによって機械式で鐘を鳴らす時計、いわゆる、
時打ち時計、
も、
土圭、
という表記は使われなかった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%9C%AD)。それらは別物だから、「時器」「時辰儀」「時辰表」などが使用された(仝上)とあり、
土圭、
と
時計、
は別物だと考えたほうがよい(仝上)とある。
(「土」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%9Fより)
「土」(慣用ド、漢音ト、呉音ツ)は、
象形文字。土を盛った姿を描いたもの、古代人は土に万物を生み出す充実した力があると認めて土をまつった。このことから、土は充実したの意を含む。また土の字は、社の原字であり、やがて土地の神や氏神の意となる。各地の代表的な樹木を形代(かたしろ)として土盛りにかえた、
とあり(漢字源)、別に、
象形文字です。「土の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形から「つち」を意味する「土」という漢字が成り立ちました。古来から日本人は、土に神が宿っていると信じ、信仰の(崇める)対象としてきました。現在でも「家」を建てる前には、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得る為に地鎮祭が行われています、
ともある(https://okjiten.jp/kanji80.html)。ただ、
土、
の異字体に、
𡈽、
があるが、これは、
指示文字。土と士を区別する為に、一点加えた、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%F0%A1%88%BD)、
象形。土地の神を祭るために設けたつち盛りの形にかたどり、つちの神、ひいて「つち」の意を表す。「社(シヤ)(社)」の原字。俗字は、漢代の石碑で、「士」との混同を避けるために点を付けたもの、
とある(角川新字源)。
(「圭」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%ADより)
「圭」(漢音ケイ、呉音ケ)は、
会意文字。圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授ける時、その土地の土を三角の形に盛り、その上にたって神に領有を告げた。その形をかたちどったのが圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。その形は、また、日影をはかる土圭(どけい 日時計の柱)の形ともなった、
とある(漢字源)が、
楷書の形に基づいて「土」×2と解釈する説があるが、誤った分析である。甲骨文字の形や金文の形を見ればわかるように、「土」とは関係がない。楷書では「封」の偏と同じ形だが、字形変化の結果同じ形に収束したに過ぎず、起源は異なる、
とし、
会意。戈の刃、およびそれをモデルとした玉を象る。古代の玉の一種を指す漢語{珪 /*kwee/}を表す字、
とする(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%AD)。他に、
象形。⌂形の瑞玉(ずいぎよく)の形にかたどる(角川新字源)、
象形文字です。「縦横の線を重ねた幾何学的な製図」の象形から「上が円錐形、下が方形の玉(古代の諸侯が身分の証として天子から受けた玉)」を意味する「圭」という漢字が成り立ちました、
と(https://okjiten.jp/kanji2248.html)、象形文字とする説もある。
参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月18日
時正(じしょう)
はなのさかりは、とうじ(冬至)より百五十日とも、じしゃう(時正)ののち、なぬか(七日)ともいえど、りっしゅん(立春)より七十五日、おおようたがわず(徒然草)、
の、
時正(じしゃう)、
は、
昼夜の時間が正しく同じ、
の意で(岩波古語辞典)、
二月と八月とに、昼も五十刻、夜も五十刻、昼夜単長なきを時正と云ふなり(安土桃山時代の謡曲解説書『謡抄(うたいしょう)』・当麻)、
と、
一日の昼と夜との長さが同じであること、
で、
彼岸の中日、
つまり、
春分・秋分の日、
を言い(精選版日本国語大辞典)、
この日を彼岸の初日とする(岩波古語辞典)、
とある(仝上)。また、
十日晴、時正初日なり、令持斎。……十三日……時正中日、……十六日、晴、時正結願也(応永二五・二『看聞御記』)、
と、
彼岸の七日間、
をもいう(仝上)。この日、
太陽は卯の時の真中に出て、酉の真中に沈む、
が(橋本万平『日本の時刻制度』)、中世の「具注暦」には、その時刻を、それぞれ、
卯時正、
酉時正、
と書いている(仝上)という。
すべての辰刻(「辰」も「刻」も、時(とき)の意で、時刻の意)で、丁度真中に当たる時刻を、其の時の正刻(きっかりその時刻)と言うのであるが、暦の中で、日の出入の時刻を示しているものでは、この彼岸の日だけがこの表現を使っており、特異な日として目立つ、
とし(仝上)、これが、
時正、
の由来としている(仝上)。ただ、「類聚名物考」では、
けふ出る春の半の朝日こそまさしく西の方はさすらめ(爲家「歌林拾葉」)、
を引いて、
彼岸の中日には、太陽は真東より出て真西に入るので、西方浄土の真の方角は、この日でなければ知る事が出来ない。即ち、この日は、正しい西の方向を知るのに大事な日であるから、特に時正の日という、
とある(仝上)。ちょっとこじつけのようである。
(「正」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3より)
(「正」金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3より)
「正」(漢音セイ、呉音ショウ)は、
会意文字。「一+止(あし)」で、足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。征(まっすぐに進む)の原字、
とある(漢字源)が、この説のもとになった、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、
「一」+「止」、
と説明されているが、甲骨文字の形や金文の形を見ればわかるように、この字の上部はかつて円形もしくは長方形で書かれ、それらの部分(すなわち「丁」字)が後に簡略化されて横棒となったに過ぎないことから、「一」+「止」は誤った分析である、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3)、
形声。「止」+音符「丁 /*TENG/」。「討伐する」を意味する漢語{征 /*teng/}を表す字。のち仮借して「ただしい」を意味する漢語{正 /*tengs/}に用いる、
とある(仝上)。別に、
会意。止と、囗(こく)(=国。城壁の形。一は省略形)とから成り、他国に攻めて行く意を表す。「征(セイ)」の原字。ひいて、「ただす」「ただしい」意に用い、また、借りて、まむかいの意に用いる、
と(角川新字源)、
会意文字です(囗+止)。「国や村」の象形と「立ち止まる足」の象形から、国にまっすぐ進撃する意味します(「征」の原字)。それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「ただしい・まっすぐ」を意味する「正」という漢字が成り立ちました、
と(https://okjiten.jp/kanji184.html)、会意文字とする説もある。
参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月19日
王莽時(わうまがとき)
「逢魔が時」で触れたように、
逢魔が時、
は、王莽(おうもう)の故事に付会して、
一説に王莽時(わうもがとき)とかけり。これは王莽前漢の代を簒(うば)ひしかど、程なく後漢の代になりし故、昼夜のさかひを両漢の間に比してかくいふならん、
とある(鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』)。
おうまがとき、
を、
わうまがとき、
と掛けたとも見える。
(逢魔時 鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より)
王莽時、
は、
おうもうどき、
おもうどき、
おもとき、
おまがどき、
等々と呼ばれ(橋本万平『日本の時刻制度』)、
俗に黄昏をわうまがどきと云ふを、或人の曰く、是れ王莽が時と云ふ事也、
とある(志不可起)。和訓栞は、これを、
羅山人(林羅山)の説に倭俗黄昏を称して王莽時といふといへり、前漢後漢の間の閏位正を乱る意を取て名とす、たそがれ時のごとし、
としている(日本語源大辞典)。羅山文集には、
國俗謂黄昏為王莽時、言晝前漢、夜後漢也、以日気已没夜気未萌故也、
とあるが、大言海は、
附會極まれり、羅山の時、此の語ありしを證す、
と付記している。因みに、
正閏(せいじゅん)、
とは、
正と閏、
つまり、
正位・正統とそうでないもの、
の意で、
閏位、
で、正統でない帝位のことになる(精選版日本国語大辞典)。
逢魔が時、
は、
おおまがとき(大禍時)の転。禍いの起きる時刻の意、
とあり(広辞苑)、
夕暮れの薄暗い時、黄昏、
の意とあり、
おまんがとき、
おうまどき、
とも言い、
大魔時、
大禍時、
逢魔時、
等々と当てるが、
おほまが時、
は、
おまんが時の転訛、
で、
おまんが時、
は、
おまんが紅、
と同じで、
あま(尼)が紅、
からきており、日没の頃の夕焼けの色が空を染める時をさす(橋本万平・前掲書)とあり、この「あま」は、
尼、
ではなく、
天、
の転化としている(仝上)。しかし、どうもこの説も違うようだ。
おまんが紅(おまんがべに)、
は、
おまんが紅(ベニ)は夕日をてらし(洒落本「当世爰かしこ(1776)」)、
と、
夕日で空が赤くなること、
をいい、
おまんが紅、
は、
賀の祝おまんが紅をつける也(「柳多留(1815)」)、
と、江戸時代の享保(1716~36)の頃、
江戸の京橋中橋にあったお満稲荷で売っていた紅粉、
をいう(精選版日本国語大辞典)らしい。「嬉遊笑覧(1830)」には、
おまんとは天が紅の時なるを女子の名にとりていへり、或説に中ばしにおまんいなりとて、べにを供へて願がけする社あり、享保の頃はやれりといへり、
と(仝上)、
おまんいなりの紅、
とする。だとすると、どちらにしても、もともとは、この紅から、
夕焼け時、
を、
おまんがとき、
といったところからきて、
「が」が助詞、「ま」が「魔」と意識され、さらに「魔に逢う」の意識も生じて、
大魔時、
逢魔時、
となり、また、漢の王莽(おうもう)に付会して、
王莽時、
とも書かれたという流れになる(仝上)。
(おまんが紅 精選版日本国語大辞典より)
この時刻は、古くは、
暮れ六つ、
酉の刻、
などといい、現在の、
17時~19時頃、
とされる(http://abcd08.biz/usimitudokioumagatokikimon/)。
それにしても、
たそがれ(誰彼時)、
については、類義語が一杯ある。
あれは誰時、
かいくらみ時、
いりあい、
昏鐘鳴(こじみ)、
むつうちどき、
雀色時、
秉燭(へいしょく)、
火点頃、
夕まぐれ、
桑楡(そうゆ)、
等々。
「入相」については「入相の鐘」、夕方については、「ゆふ」、「ゆうまぐれ」、「逢魔が時」、「たそがれ」で、それぞれ触れた。また、王莽については、「挂冠」で触れた。
参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
鳥山石燕『画図百鬼夜行全画集』(角川ソフィア文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
2024年05月20日
日本人の時間感覚
橋本万平『日本の時刻制度』を読む。
本書は、物理学者である著者が、
「国文学とか国史学の方面において、欠く事のできない知識である」
はずの、
「日本における時刻制度の変遷が、殆どわかっておらない」
ということを知って、二十年余、
「余暇を利用して研究し」
た成果が、本書である。初版が出て(1966)、本増補版が出たとき(1978年)でもなお、本書以外の時刻制度に関する著作がない、と「後書き」で歎いているのが現状で、過去の文献上にある「刻限」が正確に現代時刻に置き換えられない、ということは、実は史料の正確な読みが出来ない、ということなのである。
著者が引いている事例は、その深刻さを示している。たとえば、
花山天皇の落飾、退位、
の日付を、「扶桑略記」は、
寛和二年六月二十二日庚申夜半、
「日本紀略」は、
六月二十三日庚申今暁丑刻、
とあることで、どちらかの論争があったらしいのだが、著者は、
「その時代の時刻制度に関する知識がなかった」
ための論争とし、
「当時は日附の境界、即ち日附変更の時刻が寅の刻即ち現在の午前三時であった。従って現行時刻法で、本日の午前零時から午前三時までは、当時の時刻法によると前日に属していたのである。それで花山天皇が皇居を抜出された丑の刻――御前一時から午前三時――は前日であるから、二十二日の夜半と書いた訳で、決して誤りではない。然るに後代、その様な日附変更時刻が使用されないようになると、その用法が全く忘れられてしまい、午前零時を一日の境とする時代では、その時を二十二日の夜半と書いたのでは理解ができないので、その時代の日時表現法に従って二十三日の暁と書き直したのである。」
と結論づける。
時刻が庶民にまで浸透したのは江戸時代だが、それでも赤穂浪士の討ち入り時刻に、ばらつきがある。三宅観瀾「報讐録」では、
夜四更、
と、丑の刻、午前二時とし、宝井其角の手紙では、
丑みつ頃、
としているのに対し、当事者である、原惣右衛門の報告では、
寅の上刻、
と、午前四時とし、小野寺十内の手紙でも、
七つ過ぎ、
とするなど、二時間もの差がついていることについて、著者は、
「江戸中期における時刻表現法は三種類が実用化されていた」
とする。ひとつは、
一昼夜を等分して時刻を定めた、
定時法、
で、現代の時刻法と同じ系列である。いま一つは、
太陽の出入時を、時刻を定める標準とした、
不定時法、
で、最も普通に世間で使用されていたものは、不定時法の、
時の鐘の数に因ったものである。次にそれを十二支にあてはめて、子・丑・寅……で表す、
のだが、
そのあてはめ方に二通り、
あり、たとえば、
「世俗では時の鐘を九つ打つ時を、子の時の始めと考えたが、正式の時の呼称では、九つは子の中刻に当たり、半時、即ち現代時法で約一時間の差」
があり、しかも、民間の時の鐘は、江戸中に数えるほどしかない。
「義士が聞き、上野介が聞き、後に調書を書いた吉良家の隣家の旗本たちが聞いたのも」
本所の鐘で、それによって、
「夜半九つの鐘を合図に行動を起こし」、
定置候三箇所(人々心得之覚書)、
に集合し、吉良家へ向かったのは、
次の八つの鐘、
と考え、
「討ち入ったのが、八つ時から一時間程度の、八つ半と見るのが妥当」
と推測し、当事者である原惣右衛門の、
寅の上刻、
が正確で、
八つ半から七つ、
つまり、
午前三時から四時までの間、
で、
大体三時半、
と推測してみせる。
それにしても、時の鐘にしても、少しずつばらつき、結構アバウトな時間感覚であったことに驚く。多分、日本語が状況依存型であり、その場にいる人と共有できれば良しとした感覚の延長上にあるのだろうと思う。
だとしても、時刻のもとになる暦自体、唐の時代の宣明暦を823年もそのまま使い続けるという無頓着な日本人が、明治以降、時間に厳密になったのは、どういうことなのだろうと不思議でならない。
なお、古代、夜の時間は、
ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、
という区分をし、昼の時間帯は、
アサ→ヒル→ユウ、
と区分したが、こうした時間感覚については、「あさぼらけ」、「あかつき」、「あさまだき」、「あした」、「朝」、「ひる」、「ゆふ」、「ゆうまぐれ」、「逢魔が時」、「たそがれ」、「夜」、「深更(しんこう)」、「五更」、「初夜」、「夜半」で触れた。
参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95