2024年05月20日
日本人の時間感覚
橋本万平『日本の時刻制度』を読む。
本書は、物理学者である著者が、
「国文学とか国史学の方面において、欠く事のできない知識である」
はずの、
「日本における時刻制度の変遷が、殆どわかっておらない」
ということを知って、二十年余、
「余暇を利用して研究し」
た成果が、本書である。初版が出て(1966)、本増補版が出たとき(1978年)でもなお、本書以外の時刻制度に関する著作がない、と「後書き」で歎いているのが現状で、過去の文献上にある「刻限」が正確に現代時刻に置き換えられない、ということは、実は史料の正確な読みが出来ない、ということなのである。
著者が引いている事例は、その深刻さを示している。たとえば、
花山天皇の落飾、退位、
の日付を、「扶桑略記」は、
寛和二年六月二十二日庚申夜半、
「日本紀略」は、
六月二十三日庚申今暁丑刻、
とあることで、どちらかの論争があったらしいのだが、著者は、
「その時代の時刻制度に関する知識がなかった」
ための論争とし、
「当時は日附の境界、即ち日附変更の時刻が寅の刻即ち現在の午前三時であった。従って現行時刻法で、本日の午前零時から午前三時までは、当時の時刻法によると前日に属していたのである。それで花山天皇が皇居を抜出された丑の刻――御前一時から午前三時――は前日であるから、二十二日の夜半と書いた訳で、決して誤りではない。然るに後代、その様な日附変更時刻が使用されないようになると、その用法が全く忘れられてしまい、午前零時を一日の境とする時代では、その時を二十二日の夜半と書いたのでは理解ができないので、その時代の日時表現法に従って二十三日の暁と書き直したのである。」
と結論づける。
時刻が庶民にまで浸透したのは江戸時代だが、それでも赤穂浪士の討ち入り時刻に、ばらつきがある。三宅観瀾「報讐録」では、
夜四更、
と、丑の刻、午前二時とし、宝井其角の手紙では、
丑みつ頃、
としているのに対し、当事者である、原惣右衛門の報告では、
寅の上刻、
と、午前四時とし、小野寺十内の手紙でも、
七つ過ぎ、
とするなど、二時間もの差がついていることについて、著者は、
「江戸中期における時刻表現法は三種類が実用化されていた」
とする。ひとつは、
一昼夜を等分して時刻を定めた、
定時法、
で、現代の時刻法と同じ系列である。いま一つは、
太陽の出入時を、時刻を定める標準とした、
不定時法、
で、最も普通に世間で使用されていたものは、不定時法の、
時の鐘の数に因ったものである。次にそれを十二支にあてはめて、子・丑・寅……で表す、
のだが、
そのあてはめ方に二通り、
あり、たとえば、
「世俗では時の鐘を九つ打つ時を、子の時の始めと考えたが、正式の時の呼称では、九つは子の中刻に当たり、半時、即ち現代時法で約一時間の差」
があり、しかも、民間の時の鐘は、江戸中に数えるほどしかない。
「義士が聞き、上野介が聞き、後に調書を書いた吉良家の隣家の旗本たちが聞いたのも」
本所の鐘で、それによって、
「夜半九つの鐘を合図に行動を起こし」、
定置候三箇所(人々心得之覚書)、
に集合し、吉良家へ向かったのは、
次の八つの鐘、
と考え、
「討ち入ったのが、八つ時から一時間程度の、八つ半と見るのが妥当」
と推測し、当事者である原惣右衛門の、
寅の上刻、
が正確で、
八つ半から七つ、
つまり、
午前三時から四時までの間、
で、
大体三時半、
と推測してみせる。
それにしても、時の鐘にしても、少しずつばらつき、結構アバウトな時間感覚であったことに驚く。多分、日本語が状況依存型であり、その場にいる人と共有できれば良しとした感覚の延長上にあるのだろうと思う。
だとしても、時刻のもとになる暦自体、唐の時代の宣明暦を823年もそのまま使い続けるという無頓着な日本人が、明治以降、時間に厳密になったのは、どういうことなのだろうと不思議でならない。
なお、古代、夜の時間は、
ユウベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ、
という区分をし、昼の時間帯は、
アサ→ヒル→ユウ、
と区分したが、こうした時間感覚については、「あさぼらけ」、「あかつき」、「あさまだき」、「あした」、「朝」、「ひる」、「ゆふ」、「ゆうまぐれ」、「逢魔が時」、「たそがれ」、「夜」、「深更(しんこう)」、「五更」、「初夜」、「夜半」で触れた。
参考文献;
橋本万平『日本の時刻制度』(塙書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95