2024年06月15日
蹉跎
宿昔青雲志(宿昔(しゅくせき) 青雲の志)
蹉跎白髪年(蹉跎(さた)たり 白髪の年)
誰知明鏡裏(誰か知らん 明鏡の裏)
形影自相憐(形影(けいえい) 自ら相憐まんとは)(張九齢・照鏡見白髪)
のタイトル、
照鏡、
とは、
鏡に顔をうつしてみること、
とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、
ある日、鏡を見たら、頭のしらがが目についた。わが身の老いの実感と、なすこともなく過ぎ去った生涯への追想をこめた詩、
と注釈がある(仝上)。また、
形影(けいえい)、
は、
形は姿、影はその影、
の意で、ここでは、魏の曹植が、
躬を責むる詩を上(たてまつ)る表、
で、
形影相弔(とむら)い、五情愧赧(きたん)す、
とあるのを踏まえ、
鏡にうつった影、
の意とある(仝上)。
蹉跎(さた・さだ)、
は、
時機を失すること、
むなしく時を過ごしてしまうこと、
とあり(仝上)、
蹉跎歳月(さたさいげつ)、
という四字熟語もある(四字熟語辞典)。
蹉跎、
は、「楚辞」九懐に、
楚辞曰、驥垂雨耳兮、中阪蹉跎、
とあり、西京賦薛綜注に、
廣雅曰。蹉跎、失足也、
とある(和名類聚抄)ように、
顛躓、
と同義で、
つまづく、
足を失ひたふる、
意だが(字源)、転じて、
欲自修而年已蹉跎(晉書・周處傳)、
と、
時機を失う、
意となり、さらに、それを敷衍して、冒頭のように、
蹉跎白髪年、
と、
不幸せにて志を得ず、
の意で使われる(字源)。
蹉跎白髪(さたはくはつ)、
は同義になり、
翫歳愒日(がんさいけいじつ)、
無為徒食(むいとしょく)、
も類似の意味になる(仝上)。
翫歳愒日(がんさいけいじつ)、
の、
「翫」と「愒」はどちらも貪(むさぼ)る、
という意味で、「春秋左氏伝」昭公元年が出典、
歳を翫(むさぼ)り日を愒(むさぼ)る、
とも訓読し、
人々を治める者が行ってはならないことを述べたもの、
とある(仝上)。
無為徒食(むいとしょく)、
の、
「無為」は何もしないこと、「徒食」は働かないで食べること、
で、
何もしないでただ過ごすこと、
の意となり、少し意味がずれる。むしろ、
酔生夢死(すいせいむし)、
飽食終日(ほうしょくしゅうじつ)、
遊生夢死(ゆうせいむし)、
が似た意味になり、
走尸行肉(そうしこうにく)、
というと、
走る屍骸と歩く肉、
という意味で、
生きていても役に立たない人、
と、人を侮蔑するときに使う(仝上)。
「蹉」(サ)は、
会意兼形声。「足+音符差(ちぐはぐ、くいちがう)」
とあり(漢字源)、「蹉跌」というように、躓く意であり、賓客不得蹉(賓客は蹉するを得ず)と、やり過ごす意、である。
「跎」(タ、ダ)は、餘り辞書に載らず、やはり、躓く意である。徒然草に、
日暮れて塗(みち 途)遠し。吾が生已に蹉跎(さだ)たり。諸縁を放下(ほうげ)すべき時なり、
と使われている。この元は、唐書・白居易傳にある詩「念佛偈」らしい。それは、
餘年七十一 不復事吟哦
看經費眼力 作福畏奔波
何以度心眼 一聲阿彌陀
行也阿彌陀 坐也阿彌陀
縱饒忙似箭 不廢阿彌陀
日暮而途遠 吾生已嗟跎
但夕清淨心 但念阿彌陀
達人應笑我 多卻阿彌陀
達又作麼生 不達又如何
普勸法界眾(衆) 同念阿彌陀
とあるものらしいのだが、
日暮れて塗(みち)遠し、
のフレーズは、
年を取ってしまったのに、まだ目的を達するまでには程遠いたとえ、
として、
日暮れて塗(みち)遠し。われ、故に倒行(とうこう)してこれを逆施(ぎゃくし)するのみ
と、「史記」伍子胥伝にある(デジタル大辞泉)。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95