2024年06月19日

布衣


尚有綈袍贈(尚お綈袍(ていほう)の贈有り)
應憐范叔寒(應(まさ)に范叔(はんしゅく)の寒を憐みしなり)
不知天下士(天下の士たるを知らずして)
猶作布衣看(猶お布衣(ふい)の看(かん)を作(な)せり)(高適・詠史)

の、

范叔、

は、「史記」范睢蔡澤列傳に、

睢者、魏人也、字叔、

とあり、

范睢(はんしょ)、

のこと、

天下士、

とは、

一国一城にとどまらず、天下全体を対象とするほどの才能を持った士、

のことで、ここでは、

范睢、

を指す(前野直彬注解『唐詩選』)。この詩は、「史記」范睢蔡澤列傳の次のような史実をうたっている(仝上)。つまり、

戦国時代の范睢は魏の大夫須賈(しゅこ)に仕えたが、その供をして斉へ行ったとき、斉王が范睢の弁舌に感じて黄金などを与えたのを、須賈は范が斉王に内通したと疑い、帰国後宰相にその旨を告げ、過酷な刑に処した(史記には、「使舍人笞擊睢、折脅摺齒、睢詳死、即卷以簀、置廁中」とある)。范は、辛うじて逃げ出し、変名して秦に仕え、宰相に至った。そこへ須が使者に来たので、范はわざとみすぼらしい身なりをし、会いに行ったところ、須は寒いだろうと同情して、綈袍(綿入れの上着)をめぐんだ。その後、須は宰相を訪問し、范であることを知って驚き、謝罪すると、范は綈袍をくれたのは昔なじみを思う心がまだ残っていた証拠だといって、須を許した、

という(仝上)。このエピソードから、

綈袍恋恋(ていほうれんれん)、

という熟語ができ、

友情のあついこと、また友情の変わらないことのたとえ、

として使う(デジタル大辞泉)。史記には、須賈が范叔に綈袍をめぐむところを、

范叔一寒如此哉、乃取其一綈袍以賜之

と記し、

范叔一寒此の如きか、

といったことが、上記詩の、

應憐范叔寒、

の意味である。なお、「史記」范睢蔡澤列傳は、https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7079に詳しい。

布衣(ふい)、

は、

葛や麻などで織った着物、

をいい(前野直彬注解『唐詩選』)、

これを着るのは無位無官の人、

なので、

布衣、

は、

平民、

を意味する(仝上)。

布衣(フイ・ホイ)、

は(フは呉音、ホは漢音)、

王蠋布衣也(史記・田単傳)、

と、

官位なき人、

の意だが、古えは、

庶人は布を衣る、故に云ふ、

とある(字源)。

布、

は、

綿布、
麻布、

など、植物の繊維にて織りたるもの、

をいう(仝上)。で、

布衣之位、

というと、

賤しき身分、

布衣之友、

というと、

身分地位に関せずして交わる友、

の意味になる(仝上)。

布衣、

より起こって天下を統一した人物として、

漢の高祖、
明の洪武帝、

が例に挙げられるが、「史記」高祖紀に、

高祖之れを嫚罵(まんば)して曰く、吾(われ)布衣を以て、三尺の劍を提げて天下を取る。此れ天命に非ずや。命は乃ち天に在り。扁鵲(へんじやく)と雖も何ぞ益あらんと、

とある(字通)。日本でも、色葉字類抄(1177~81)に、

布衣 ホイ、ホウイ、

とあり、

庶民の着用する麻布製の衣服、

を指し(広辞苑)、

官服、

に対して、

平服、

を言い、

朝服、

に対して、

常着、

を言い、

それを着ている者、
その身分、

を言うので、転じて、

平民、

をさす(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。平安時代以降、

麻布製の狩衣の総称、

として使う(広辞苑)のは、古く、

狩衣、

は、

布製のため、

布衫(ふさん)、

とも言われ、

布衣(ほうい)、

と呼ばれたためである(有職故実図典)。が、次第に、絹・綾・織物の類を用いて、華麗に仕立てられるようになっても、なお、布衣の名は残ったが、江戸時代、上皇が初めて狩衣を着用するのを、

布衣始(ほういはじめ)、

という(とある)。ただ、普通は、地質は絹でも、織模様のある高級な有文ものを、

狩衣、

無地の狩衣を、

布衣、

と区別し(仝上)、後者は、

布衣、

を、

ふい、

と訓ませ(世界大百科事典)、

六位以下の服なれば、転じて、六位以下の官人の称、

ともなり(字源)、武家では、

無位無官の幕臣、諸大名の家士が着用した、

とある(広辞苑)。

布衣.bmp

(布衣 精選版日本国語大辞典より)

「狩衣」は「水干」で触れたように、奈良時代から平安時代初期にかけて用いられた襖(あお)を原型としたものであり、

両腋(わき)のあいた仕立ての闕腋(けってき 両わきの下を縫い合わせないであけておく)であるが、袍(ほう)の身頃(みごろ)が二幅(ふたの)でつくられているのに対して、狩衣は身頃が一幅(ひとの)で身幅が狭いため、袖(そで)を後ろ身頃にわずかに縫い付け、肩から前身頃にかけてあけたままの仕立て方、

となっている(日本大百科全書)。平安時代後期になると絹織物製の狩衣も使われ、布(麻)製のものを、

布衣(ほい)、

と呼ぶようになり、

狩衣は、上皇、親王、諸臣の殿上人(てんじょうびと)以上、

が用い、

地下(じげ 昇殿することを許されていない官人)、

は、

布衣、

を着た。狩衣姿で参内することはできなかったが、院参(院の御所へ勤番)は許されていた(岩波古語辞典)、とある。

ただ、近世では、上述したように、有文の裏打ちを、

狩衣、

とよび、無文の裏無しを、

布衣、

とよんで区別した(デジタル大辞泉・広辞苑)。「襖」は、「束帯」の盤領(まるえり)の上着のうち、武官用の、

闕腋(けってき)の袍、

である、

襴(らん)がなく袖から下両腋を縫わないで開け、動きやすくした袍、

をいう。令義解(718)に、「襖」は、

謂無襴之衣也、

と、

左右の腋を開け拡げているために、

襖、

というが、「襖」を、

狩衣、

の意とするのは、野外狩猟用に際して着用したので、

狩衣が、

狩襖(かりあお)、

といったため、「狩」が略されて、「襖」と呼んだためである(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

狩衣姿.gif

(「狩衣」 1.立烏帽子たてえぼし、2.単ひとえ、3.狩衣かりぎぬ、4.狩衣の当(宛あて)帯おび、5.狩衣の袖括(そでぐくり)の紐、6.指貫(さしぬき 奴袴 ぬばかま)、7.蝙蝠(かわほり 扇) https://costume.iz2.or.jp/costume/295.htmlより)

狩衣姿の構成は、

烏帽子、
狩衣、
当帯(あておび 腰に帯を当てて前に回し、前身(衣服の身頃のうち、前の部分)を繰り上げて結ぶ)、
衣(きぬ 上着と肌着(装束の下に着る白絹の下着)との間に着た、袿(うちき)や衵(あこめ)など)、
単(ひとえ 肌着として用いた裏のない単衣(ひとえぎぬ)の略。平安末期に小袖肌着を着用するようになると、その上に重ねて着た)、
指貫(さしぬき)、
下袴(したばかま)、
扇、
帖紙(じょうし 畳紙(たとうがみ)、懐紙の意)、
浅沓(あさぐつ)、

とされている(有職故実図典)が、晴れの姿ではない通常は、衣、単は省略する(有職故実図典)。色目は自由で好みによるが、当色以外のものを用い、袷の場合は表地と裏地の組合せによる襲(かさね)色目とした。

なお、「素襖」「直垂」「大門」などについては「素襖」で、「水干」「狩衣」については「衣冠束帯」で触れた。

「布」.gif

(「布」 https://kakijun.jp/page/0557200.htmlより)

「布」 金文・西周.png

(「布」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%83より)

「布」(漢音ホ、呉音フ)は、

形声。もと「巾(ぬの)+音符父」で、平らに伸ばして、ぴたりと表面につくぬののこと、

とある(漢字源・角川新字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%83)。別に、

会意兼形声文字です(ナ(父)+巾)。「木づちを手にする」象形と「頭に巻く布にひもをつけて帯にさしこむ」象形から、木づちでたたいてやわらかくした、「ぬの」を意味する「布」という漢字が成り立ちました。また、「敷(フ)」に通じ(同じ読みを持つ「敷」と同じ意味を持つようになって)、「しく」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji799.html。なお、別に、

形声、古い字形は父に従い、父(ふ)声。『説文解字』に「枲(あさ)の織(おりもの)なり」とあって、ぬの。木綿が作られる以前は、麻布・褐布が普通であった。蚕は卜文にみえ、また金文に「毳布(ぜいふ)」の名がみえるが、みな富貴の人の用いるもので、のちの世になっても、布衣とは身分のないものをいう。布衣は粗衣、わが国では「ほい」とよむ。敷(ふ)と通用する、

とある(字通)。

「衣」.gif


「衣」(漢音イ、呉音エ)は、「衣手」で触れたように、

象形。うしろのえりをたて、前野えりもとをあわせて、肌を隠した着物の襟の部分を描いたもの、

とある(漢字源)。別に、

象形。胸元を合わせた上衣を象るhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%A1%A3
象形。衣服のえりもとの形にかたどり、「ころも」の意を表す(角川新字源)、
象形文字です。「身体に着る衣服のえりもと」の象形から「ころも」を意味する「衣」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji616.html

とあり、「えり」を示していたことは共通している。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:35| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする