2024年07月01日

布帆無恙


霜落荊門江樹空(霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空し)
布帆無恙挂秋風(布帆(ふはん)恙無(つつがな)く 秋風に挂(か)く)
此行不爲鱸魚鱠(此の行(こう) 鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず)
自愛名山入剡中(自(みずか)ら名山(めいざん)を愛して剡中(せんちゅう)に入(い)る)(李白・秋下荊門)

の、

布帆無恙(ぶよう)、

の、

布帆(ふはん)、

は、

布の帆、

で、

布帆無恙、

は、

布の帆に異常がない、

という意、

無事な船旅、

をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。これは、

晋の顧愷之(こがいし)が、江陵の地方官として在任中、休暇をとって江南へ帰ろうとした際、長官は布の帆を貸してくれたが、途中で大風にあい、難破してしまった。そのとき、愷之は長官に手紙を送り、

行人安穏布帆無恙(行人は安穏、布帆も恙無し)、

と書いた故事(「晉書」顧愷之傳)にもとづいている(仝上)。

鱸魚、

は、

すずき、

と訓ずるが、

実はハゼに似て、もっと大きな魚、

とあり、

鱠、

は、

生魚の料理、

で、

さしみのようなもの、

とある(仝上)。これは、

晉の張翰(ちょうかん)が都の洛陽で任官したが、秋風が吹くと、郷里の呉郡(江蘇省呉県、作者の旅行く方角である)の名物、蓴菜(じゅんさい)の羹(あつもの)と鱸魚の鱠(なます)の味を思い出し、官位を捨てて帰った、

という故事を踏まえる(仝上)。

『世説新語』排調篇に、

顧長康作殷荊州佐、請假還東。爾時例不給布颿。顧苦求之、乃得發、至破冢、遭風大敗。作牋與殷云、地名破冢、眞破冢而出。行人安穩、布颿無恙(顧長康、殷荊州の佐(さ)作(た)りしとき、假(か)を請うて東に還る。爾(そ)の時、例として布颿(ふはん)を給せず。顧、苦(ねんごろ)に之を求めて、乃ち発するを得たるも、破冢(はちょう)に至るや、風に遭いて大敗す。牋(せん)を作って殷に与えて云う、地、破冢(はちょう)と名づく、真に冢(ちょう)を破りて出ず。行人安穏、布颿(ふはん)恙(つつが)無し)

とあるhttps://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AA%AA%E6%96%B0%E8%AA%9E/%E6%8E%92%E8%AA%BF。なお、

颿、

は、

帆、

の異字体であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%86

恙無し

で触れたように、

恙、

は、

田野で人をさし、発病させる寄生虫、つつがむし

を指し、

無恙(ブヨウ)、

と言うと、

つつがむしにやられない意のことから、無事で日を過ごすこと、

を意味する(漢字源)が、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、

恙、憂也、

とあり、中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃)釈詁下篇の注には、

今人云無恙謂無憂也(今人無恙と云うは、憂いの無きを謂うなり)、

とある。漢・六朝から、

相手の安否を尋ねる手紙の常套句となった、

という(仝上)。そういえば、『隋書』倭国伝に、

日出いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無なきや(日出處天子致書日沒處天子。無恙)、

とあった(大言海)。

後漢末の志怪書の走りのような『風俗通義』には、

無恙は、俗に疾を説くなり。凡そ人、相見し及び書問する者は、曰く、疾無きや、と。按ずるに上古の時、草居し路宿す。恙は噬(か)む虫なり。人の心を食らう。凡そ相労問(ろうもん)する者は曰く、恙無きや、と。疾と為すに非ざるなり、

とあり(https://kanbun.info/syubu/toushisen322.html・大言海)、易経傳にも、

上古、草居露宿、恙、噬蟲也、善食人心、

とあるが、

人の心を食らう蟲、

とは、

據なきことなり、……其恙を、……蟲の名とするは全く誤れり、

とする見解(大言海)がある。

恙、

には、

病気、やまい、

の意があり、

恙病(ようへい)、

で、

病気、

清恙(せいよう)、

で、

ご病気、

恙憂(ようゆう)、

で、

心配、

微恙(びよう)

で、

輕い病気、

を指した(漢字源・字源・漢辞海)。

なお、「恙無し」、「なます」については触れた。

「帆」.gif

(「帆」 https://kakijun.jp/page/0675200.htmlより)

「帆」(漢音ホ、呉音ボン)は、

会意兼形声。凡(ハン)は、支柱の間に張った帆を描いた象形文字で、帆の原字。帆は「巾(ぬの)+音符凡」で、凡がおよその意に転用されたため、その原義を表すために作られた、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。巾と、風(フウ)→(ハム)(かぜ。凡は省略形)とから成る。風を受ける布、「ほ」の意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(巾+凡)。「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)と「風を受ける帆」の象形から、「ほ(風を受けて舟を走らせる布)」を意味する「帆」という漢字が成り立ちました。(「凡」が「すべて・およそ」の意味で用いられるようになった為、「巾」を付けて区別しました)、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1445.htmlある。

「恙」.gif


「恙」(ヨウ)は、

形声。「心+音符羊」

とあり、

ツツガムシ、

の意とある(漢字源)が、

伝説上の害虫、

とし、

上古より、人の心を食うとされ、これに噛まれることをおそれた、漢代頃から、(上述のように)人をねぎらう語として「無恙」が書簡などに用いられた、

とある(漢辞海)。で、この、

恙、

は、現実の

ツツガムシ、

とは別のものを指していた可能性がある。で、

越後国に、害虫に、つつがと名づくるは、(拠なき説の)誤りを受けたるなり、

とある(大言海)のが正しいようだ。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年07月02日

玉箒(たまはばき)


初春(はつはる)の初子(はつね)のけふの玉箒(たまばはき)手に取るからにゆらぐ玉の緒(読人知らず)、

の、

玉箒、

は、

玉を飾りにつけた箒、

で、

玉箒、

の、

タマ、

は、「玉の緒」の「タマ」と同じく、

魂、

で、

タマを掃き寄せる道具、

の意(岩波古語辞典)、

后が養蚕をする際に用いるものとされ、初子の日に辛鋤とともに飾られた、

という(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

冒頭の新古今和歌集の元歌は、万葉集巻20の、

初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺らく玉の緒(始春乃波都祢乃家布能多麻婆波伎手尓等流可良尓由良久多麻能乎)、

という大伴家持の歌である(仝上)。この歌は、天平勝宝二年(750)正月東大寺から献上した玉箒を詠ったもので、辛鋤とともに、正倉院に現存する(岩波古語辞典)。

辛鋤、

は、多分、「犂牛(りぎゅう)」)で触れた、

唐鋤、
犂、

と当て、

柄が曲がっていて刃が広く、牛馬に引かせて田畑を耕すのに用いる、

もので、

牛鍬(うしぐわ)、

ともいい(精選版日本国語大辞典)、

四辺形の枠組をもつこの種の長床犂は、中国から朝鮮半島を経て由来したものと考えられ、わが国古来から用いられた代表的型式の犂である、

とある(農機具の種類)。

初子(はつね)の日、

は、

その月の最初の子(ね)の日、

を言うが、特に、

正月の最初の子(ね)の日、

を言い、「子の日」で触れたように、正月の初めの子の日には、

若菜生ふる野辺といふ野辺を君がため万代しめて摘まんとぞ思ふ(新古今和歌集)、

と、

野外に出て、小松を引き、若菜をつんだ。中国の風にならって、聖武天皇が内裏で宴を行ったのを初めとし、宇多天皇の頃、北野など郊外にでるようになった、

とあり(岩波古語辞典)、古く、初子の日には、

天皇から親王・諸王・臣下に辛(からすき)と玉箒(たまほうき)を賜る行事、

があり、

辛鋤、

は、

田畑を耕すもの、

玉箒、

は、

蚕の床を掃くものもの、

で、

天子と皇后が率先して農耕蚕織をする、

という中国の制度を取り入れた儀礼で、宮中では宴会が行われ、この宴を、

子の日の宴(ねのひのえん)、

といい、

若菜を供し、羹(あつもの)として供御とす、

とあり(大言海)、

士庶も倣ひて、七種の祝いとす、

とある(仝上)。「七草粥」で触れたように、

羹として食ふ、万病を除くと云ふ。後世七日の朝に(六日の夜)タウトタウトノトリと云ふ語を唱へ言(ごと)して、此七草を打ちはやし、粥に炊きて食ひ、七種粥と云ふ、

とある(大言海)、当初は、粥ではなく、

羹(あつもの)、

であり、七草粥にするようになったのは、室町時代以降だといわれる、

子の日に引く小松、

を、

引きてみる子の日の松は程なきをいかでこもれる千代にかあるらむ(拾遺和歌集)、

と、

子の日の松、

といい(仝上)、

小松引き、

ともいい、

幄(とばり)を設け、檜破子(ひわりご)を供し、和歌を詠じなどす、

という(大言海)。

子の日遊び、

は、

根延(ねのび)の意に寄せて祝ふかと云ふ(大言海)、
「根延(の)び」に通じる(精選版日本国語大辞典)、

とある。また、正月の初めの子の日に、

内蔵寮と内膳司とから天皇に献上した若菜、

を、

子の日の若菜(わかな)、

という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

玉箒、

は、

玉箒刈り来(こ)鎌麻呂(かままろ)室(むろ)の樹と棗が本(もと)とかきはかむため(万葉集)、

と、

ゴウヤボウキ、
または、
ホウキグサ、

の古名、

だが、上代、

正月初子の日に、蚕室を掃くのに用いた箒の称、

である(広辞苑)。

コウヤボウキ.jpg

(コウヤボウキ https://www.tokyo-shoyaku.com/ohana.php?hana=577より)


ホウキギ(ホウキグサ).jpg

(ホウキギ(別名ホウキグサ) 日本大百科全書)

コウヤボウキ(高野箒)、

の和名は、かつて高野山で竹などの有用植物を植えることを禁じたため、落葉したコウヤボウキの枝を集めて箒をつくったことに由来する、

とありhttps://www.tokyo-shoyaku.com/ohana.php?hana=577

キク科 コウヤボウキ属、

で、

里山や山地の林内、林縁などの乾いた場所に多く生育する落葉小低木で、樹高は50cm程度、日本特産と考えられています。茎は細いながらも木化して固くなり、同一の茎が2年間生きるので、樹木(木本植物)に分類されます、

とある(仝上)。

1年目の茎には葉が互生するが、2年目の茎には1年目の葉がついていた場所に数枚の葉が出るので、大きく印象が異なってしまう。2年目の茎は秋に枯死する。花は1年目の枝の咲きに付き、白~淡紅色。開花期は10月ころで、13個前後の小花からなる、

とあるhttp://www1.ous.ac.jp/garden/hada/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/compositae/kouyabouki/kouyabouki.htm

ホウキグサ、

は、

ほうきぎ(箒木)、

といい、古名、

ハハキギ、

アカザ科の一年草、中国原産。茎は直立して高さ約1メートルとなり、下部から著しく分枝し、枝は開出する。これで草箒(くさぼうき)をつくるのでホウキギの名がある。葉は互生し、倒披針(とうひしん)形または狭披針形で長さ2~4.5センチメートル、幅3~7センチメートル、基部はしだいに狭まり、3脈が目だち、両面に褐色の絹毛がある。雌雄同株。10~11月、葉腋(ようえき)に淡緑色で無柄の花を1~3個束生し、大きな円錐(えんすい)花序をつくる。花被(かひ)は扁球(へんきゅう)形の壺(つぼ)状で5裂し、裂片は三角形、果実期には、花被片の背部に各1個の水平な翼ができて星形となる。種子は扁平(へんぺい)な広卵形で、長さ1.5ミリメートル、

とある(日本大百科全書)。

玉箒(たまばはき)、

は、

たまばわき、

とも訓ませ(デジタル大辞泉)、上述のように、古代、正月の子(ね)の日に、蚕室を掃くのに用いた、

繭(まゆだま)やガラス玉などの玉を飾りつけた箒(ほうき)

を言うが、中国の制に倣い、

帝王が耕作をするのに用いる「辛鋤(からすき)」、

に対し、

皇妃が養蚕をする意味を表すもの、

として、正月の初子(はつね)の日に飾ったのち、臣下に賜い、宴を開いた(日本大百科全書)。また、

箒をつくる草の名、

ということで、

コウヤボウキ、
ホウキグサ、
タムラソウ、
ハコネグサ、

等々の植物の別名としても使われる(仝上・デジタル大辞泉)。

憂いを払うタマバワキ、

といい、憂いを掃き除く意から酒の異名でもある(仝上)。室町時代の意義分類体の辞書『下學集』にも、

掃愁帚、酒異名也、

とあるが、

これは、蘇東坡の、

應呼釣詩鈎、亦號掃愁帚(飲酒詩)、

からきている(大言海)。

玉箒.bmp

(玉箒 精選版日本国語大辞典より)

のちには、

うつくしき玉箒をもち木陰をきよめ給ひ候は(光悦本謡曲「田村(1428頃)」)、

と、

たまを美称、

と見なして、

美しいほうき、

の意に転じる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

なお、「ほうき」で触れたように、「ほうき」は、

帚、

とも当てる。

ほうき、

は、玉箒(たまはばき)の、

ハハキの転、

で、

語形としては「十巻本和名抄-四」「色葉字類抄」「観知院本名義抄」などには「ハハキ」とある。節用集や下學集の中には「ハハキ」「ハワキ」とするものがあるが、室町時代には「ハウキ」が優勢となっていた。「日葡辞書」では、「Foqi(ハウキ)」となっている一方、「fauaqigui(ハウキギ)」「tambauaqi」(タマバワキ)などハワキの形も見られる、

とあり(日本語源大辞典)、

ハハキ→ハワキ→ハウキ→ホウキ、

といった変化になろうか。

ははき、

は、

羽掃きあるいは葉掃きか(岩波古語辞典)、
ハハキ(羽掃)の義(箋注和名抄・俚言集覧・和訓栞)、
羽掃(ハハキ)の義、羽箒(ハバウキ)を元とす(大言海)、
落葉を掃き寄せる道具をハハキ(葉掃き)といったのがホホキ・ホフキ・ホウキ(箒)になった(日本語の語源)、

等々とあり、

羽掃き、

葉掃き、

に由来するようだ。

玉箒、

の用途から考えても、

古くは実用的なお掃除道具ということ以上に、神聖なものとして考えられており、箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると言われていました。日本最古の書物『古事記』には、「玉箒」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現されており、実用的な道具としてではなく、祭祀用の道具であった、

と考えられるhttp://azumahouki.com/know/history/

「帚」.gif


「帚」 甲骨文字・殷.png

(「帚」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%9Aより)


「箒」.gif


「帚」(慣用ソウ、漢音シュウ、呉音ス)は、

象形、柄つきのほうきうを描いたもので、巾(ぬの)には関係がない。巾印は柄の部分が変形したもの。掃(ソウ はく)・婦(ほうきをもつ嫁)の字の右側に含まれる、

とある(漢字源)。「箒」(慣用ソウ、漢音シュウ、呉音ス)は、帚の異体字である。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年07月03日

白眼


綠樹重陰蓋四鄰(緑樹(りょくじゅ)重陰(ちょういん) 四隣(しりん)を蓋(おお)う)
青苔日厚自無塵(青苔(せいたい) 日に厚うして自(おの)ずから塵(ちり)無し)
科頭箕踞長松下(科頭(かとう)にして箕踞(ききょ)す 長松(ちょうしょう)の下(もと))
白眼看他世上人(白眼(はくがん)もて看る 他の世上の人)(王維・与盧員外象過崔処士興宗林亭)

の、

崔処士、

の、

処士、

は、

士大夫の階層に属しながら、官職につかずにいる人、

をいい(前野直彬注解『唐詩選』)、

科頭、

は、

かぶりものをつけないこと、

で、

髪を結わず、うずまき形に巻いて止めただけのあたまをもいう。寝るとき以外は、冠か頭巾をかぶるのが、当時の士大夫の習慣であり、それをつけないのは、身分だの礼節だのにこだわらない、野人の風格を示す、

とある(仝上)。

箕踞、

は、

両足を投げ出した形ですわること、

で、

無作法な座り方、

であり、

これも野人の風格である、

とある(仝上)。

白眼、

は、

しろめ、

の意たが、晋の阮籍(げんせき)は、

俗士の訪問を受けると白眼で応対した、

という。

目の白い部分を多く出して、にらむようにした、

とある(仝上)。ここから、

軽蔑・冷淡・不快などの感情をもって人に接すること、

を、

白眼で見る、

というようになる(仝上)。

「晋書」阮籍傳には、

籍又能為青白眼、見禮俗之士、以白眼對之。及嵇喜來弔、籍作白眼、喜不懌而退。喜弟康聞之、乃齎酒挾琴造焉、籍大悅、乃見青眼、

とあり、嵇喜(けいき)に対しては、

白眼を作(な)し、

喜の弟嵇康(けいこう)が、酒を齎し琴を携えていくと、

阮籍大いに悦び乃ち青眼を見(あらわ)す、

とあるところを見ると、単なる酒好きとしか思えないが、この前後は、

籍雖不拘禮教、然發言玄遠、口不臧否人物。性至孝、母終、正與人圍棊、對者求止、籍留與決賭。既而飲酒二斗、舉聲一號、吐血數升。及將葬、食一蒸肫、飲二斗酒、然後臨訣、直言窮矣、舉聲一號、因又吐血數升。毀瘠骨立、殆致滅性。裴楷往弔之、籍散髮箕踞、醉而直視、楷弔喭畢便去。或問楷、「凡弔者、主哭、客乃為禮。籍既不哭、君何為哭」。楷曰、「阮籍既方外之士、故不崇禮典。我俗中之士、故以軌儀自居」。時人歎為兩得。籍又能為青白眼、見禮俗之士、以白眼對之。及嵇喜來弔、籍作白眼、喜不懌而退。喜弟康聞之、乃齎酒挾琴造焉、籍大悅、乃見青眼。由是禮法之士疾之若讐、而帝每保護之(籍禮教に拘はらざると雖も、然れども發言は玄遠にして、口に人物を臧否せず。性は至孝にして、母の終に、正に人と棊を圍むに、對ふ者止むることを求むれども、籍留めて與に決賭す。既にして酒二斗を飲み、聲一號を舉げ、數升を吐血す。將に葬せんとするに及び、一蒸の肫を食べ、二斗の酒を飲み、然る後に訣に臨み、直だ窮まれると言ひ、聲一號を舉げ、因りて又吐血すること數升。毀瘠して骨立し、殆ど性を滅するに致る。裴楷 往きて之を弔し、籍髮を散して箕踞し、醉ひて直視す。楷弔喭し畢はりて便ち去る。或ひと楷に問ふ、「凡そ弔ふ者は、主は哭し、客は乃ち禮を為す。籍 既に哭さず、君何為れぞ哭くか」と。楷曰く、「阮籍 既に方外の士にして、故に禮典を崇ばず。我俗中の士して、故に軌儀を以て自ら居る」と。時人歎じて兩りもて得たりと為す。籍又能く青白眼を為し、禮俗の士を見るに、白眼を以て之に對ふ。嵇喜來たりて弔するに及び、籍白眼を作し、喜懌ばずして退く。喜の弟の康 之を聞き、乃ち酒を齎し琴を挾して焉に造るに、籍大いに悅び、乃ち青眼を見す。是に由り禮法の士之を疾むこと讐が若く、而して帝每に之を保護す)

とある(http://3guozhi.net/sy/m049.html)。阮籍は、

210~263(建安15~景元4)年、中国魏晋時代の人で竹林七賢の一人である。名家に生まれたが、権謀術数と下克上の政官界を厭い世俗を離れて生活した。彼には本来、世を済わんとする志があったが、魏晋交代の乱世において政治生命の全きを保ち得ない名士が多いのをみて、ついに世事に関与するのを避けて飲酒を常とし、嘯や弾琴を好んだという。彼の思想の根幹には、当時の作為と欺瞞におおわれてしまった儒教的礼法が自由な人間性を抑圧する事への極度な嫌悪があり、彼は自信をもって礼法に従わなかった。まさに「任誕=やりたい放題」そのものであった、

といいhttps://www.happycampus.co.jp/doc/226/#google_vignette、その礼法を嫌う阮籍の人となりをよく表すエピソードとして、上述の、

白眼視、

を挙げられる(仝上)という。

竹林の七賢、

とは、魏で、249年に司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したと混乱期、

貴族の中でそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れて、権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んだ、

という、

阮籍(げんせき)、
嵆康(けいこう)、
山濤(さんとう)、
向秀(しょうしゅう)、
劉怜(りゅうれい)、
阮咸(げんかん)、
王戎(おうじゅう)、

をさすhttps://www.y-history.net/appendix/wh0301-072.html。彼らの議論は、

清談、

とい、以後の、

六朝の文化人の理想、

とされたが、党派をつくったわけでも、七人が同時に集まっていたということではなく、この七人を、

竹林の七賢、

とまとめたのは、5世紀中頃編纂された『世説新語』からという(仝上)。『世説新語』は南朝宋の劉義慶の著で、学者・文人・芸術家・僧侶など、魏・晋時代の名士たちの言行・逸話を集めたものである。

「白」.gif

(「白」 https://kakijun.jp/page/0595200.htmlより)

「白」(漢音ハク、呉音ビャク)は、「白毫」で触れたように

象形。どんぐり状の実を描いたもので、下の部分は実の台座。上半は、その実。柏科の木の実のしろい中身を示す。柏(ハク このてがしわ)の原字、

とある(漢字源)が、

象形。白骨化した頭骨の形にかたどる。もと、されこうべの意を表した。転じて「しろい」、借りて、あきらか、「もうす」意に用いる、

ともあり(角川新字源)、象形説でも、

親指の爪。親指の形象(加藤道理)、
柏類の樹木のどんぐり状の木の実の形で、白の顔料をとるのに用いた(藤堂明保)、
頭蓋骨の象形(白川静)、

とわかれ、さらに、

陰を表わす「入」と陽を表わす「二」の組み合わせ、

とする会意説もあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%99%BD。で、

象形文字です。「頭の白い骨とも、日光とも、どんぐりの実」とも言われる象形から、「しろい」を意味する「白」という漢字が成り立ちました。どんぐりの色は「茶色」になる前は「白っぽい色」をしてます、

と並べるものもあるhttps://okjiten.jp/kanji140.html

「眼」.gif


「眼」(漢音ガン、呉音ゲン)は、「一翳眼にあれば」で触れたように、

会意兼形声。艮(コン)は「目+匕首(ヒシュ)の匕(小刀)」の会意文字で、小刀でくまどった目。または、小刀で彫ったような穴にはまった目。一定の座にはまって動かない意を含む。眼は「目+音符艮」で、艮の原義をあらわす、

とあり(漢字源)、「まなこ」、ひいて、目全体の意を表す(角川新字源)。別に、

会意形声。「目」+音符「艮」、「艮」は「匕」(小刀)で目の周りに入墨をする様で、そのように入墨を入れた目、または、小刀でくりぬいた眼窩https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%BC

会意兼形声文字です(目+艮)。「人の目」の象形と「人の目を強調した」象形から「眼」という漢字が成り立ちました。「人の目」の象形は、「め」の意味を明らかにする為、のちにつけられましたhttps://okjiten.jp/kanji12.html

などともある。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年07月04日

小忌衣(をみごろも)


ゆふだすき千歳をかけて足引の山藍の色は変らざりけり(新古今和歌集)、

の、

ゆふだすき、

は、

木綿でつくった襷、

で、

神事をおこなうときにかける、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

山藍の色、

は、

神事に着る小忌衣を染める山藍の青い色、

を言い、

青摺(あをずり)、

というとある(仝上)。

青摺、

は、

萩又は露草の花にて衣に色を摺り出す、

という、

宮城野の野守が庵に打つ衣萩が花摺露や染むらむ(壬生集)、

の、

花摺

に対する語(大言海)とされ、

藍摺、

ともいう(仝上)。

山藍を以て、種々なる模様を摺りつけ染めたる衣、

で、上代は、

服著紅紐青摺衣(古事記)、
百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服(仝上)、

と、

朝服として、右肩に紅紐(あかひも)を着けた、

とある(仝上)。「朝服」については、「衣冠束帯」で触れた。

後には、

近衛の官人、臨時祭の舞人などの服にせり、

とあり、但し舞人は赤紐を左肩につく(大言海)という。さらに、上述のように、

小忌衣も青摺なり、

とある(仝上)。

山藍、

は、略して、

やまゐ、

ともいい、

トウダイグサ科の多年草、丈40センチ、山野の陰地に自生。葉は長楕円形、雌雄異株。春上部の葉の付け根に緑白色の小花を穂状につける、

とあり(広辞苑)、古は、

此生葉の緑汁を以て、青色を染む、

とあり、これが、小忌衣の、

青摺、

である(大言海)。

山藍摺.png

(山藍摺 https://irocore.com/yamaaizuri/より)


山藍.jpg

(山藍 https://irocore.com/yamaaizuri/より)

紅の赤裳すそひきて山藍もて摺れる衣着てただ独りい渡らす子は若草の夫かあるらむ(万葉集)、

とある古い染色法だが、

色落ちが早く、蓼藍(たであい)を使った藍染(あいぞめ)が平安期以降に普及したこともあり、徐々にすたれていきました、

とあるhttps://irocore.com/yamaaizuri/が、日本古来の純潔な染料植物として今でも神事に使用され、大切にされている(仝上)とある。

その「青摺」で模様を染めつけた、

小忌衣、

は、

をみのころも、
をみ、

ともいい、

小忌人(をみびと)が神事に奉仕するため、装束の上から着る一重の衣、

で、

形は狩衣に似ており、束帯(そくたい)の袍(ほう)の上、または女房装束の唐衣(からぎぬ)の上に着装する白の麻布製で、身頃(みごろ)には春草、梅、柳、鳥、領(えり)に蝶(ちょう)、鳥などを山藍摺(やまあいずり 青摺)で表す。右肩には赤黒二筋の紐を垂らす。冠には日陰蔓をつける、

とある(岩波古語辞典・日本大百科全書)。「肩衣」については「法被と半纏」で、「袍」については、「衣冠束帯」、「日陰蔓(ひかげのかずら)」については、「さがりごけ」で触れた。

小忌人(をみびと)、

は、

小忌人の木綿(ゆふ)かたかけて行く道を同じ心に誰ながむらむ(公任集)、

と、

小忌の役をする人、

で、

小忌、

とは、

大嘗会(だいじやうゑ)、新嘗祭(しんじやうゑ)などの大祀のとき、とくに厳重に行う斎戒(ものいみ)、

をいい、小忌の役を務める、

をみびと、

も、「をみびと」の着る、

衣、

も、

小忌、

といい(岩波古語辞典)、で、「青摺」は、

小忌摺(おみずり)、

ともいう。

小忌衣.jpg

(小忌衣 デジタル大辞泉より)

なお、各種の小忌衣については、次のようになっているようであるhttps://www.japanesewiki.com/jp/Shinto/%E5%B0%8F%E5%BF%8C%E8%A1%A3.html

諸司小忌.gif

(諸司小忌(しょしのおみ) 神事に参加する摂政・大臣・公卿・殿上人が束帯の袍の上に着用しました。現代ではこの形式のみ用いられます http://www.kariginu.jp/kikata/1-7.htmより)


出納小忌.gif

(出納小忌(すいのうのおみ) 神事で神殿伺候・御服奉仕などをする近臣が着用。青摺り文様のないものを「如形小忌」と称して神事従事の実務官人が着用しました http://www.kariginu.jp/kikata/1-7.htmより)


私小忌.gif

(私小忌(わたくしのおみ) 衛府、神祇官、内膳職、主水司などの官人が神事奉仕に着用しました。
私財で誂えるものなのでこの名称があります http://www.kariginu.jp/kikata/1-7.htmより)


現代の略式小忌衣.jpg

(現代の略式小忌衣(袖無型) https://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/7/137/より)

なお、現代では神社の参拝者が「ちゃんちゃんこ」のような白い衣を服の上にはおり、これを「小忌衣」と呼んでいるようであるhttp://www.kariginu.jp/kikata/1-7.htm

「忌」.gif


「忌」(漢音キ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。己(き)は、はっと目立って注意を引く目じるしの形で、起(はっと立つ)の原字。忌は「心+音符己」で、心中にはっと抵抗が起きて、すなおに受け入れないこと、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(己+心)。「三本の横の平行線を持つ糸すじを整える糸巻き」の象形(「糸すじを整える」の意味)と「心臓」の象形から、心を整える事を意味し、そこから、「かしこまる」、「いむ」を意味する「忌」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1499.html

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2024年07月05日

罟師(こし)


楊柳渡頭行客稀(楊柳(ようりゅう)の渡頭(ととう) 行客(こうかく)稀なり)
罟師盪槳向臨圻(罟師(こし) 槳(かい)を盪(うご)かして臨圻(りんき)に向う)
唯有相思似春色(唯だ相思(そうし)の春色(しゅんしょく)に似たる有りて)
江南江北送君歸(江南(こうなん)江北(こうほく) 君が帰るを送る)(王維・送沈子福之江南)

の、

楊柳渡頭、

は、

楊柳の渡し場のほとり、

という意味だが、

楊柳、

は、「折楊柳(せつようりゅう)」で触れたように、唐詩では、

楊柳の枝を折る、

というと、

別離には楊柳の枝を折って贈る風習があった、

ので、この詩の場面には、

楊柳、

はふさわしい(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

罟師(こし)、

の、

罟、

は、

魚をとる網、

で、

罟師、

は、

漁師、

を指す(仝上)。

「罟」.gif


「罟」(漢音コ、呉音ク)は、

会意兼形声「网(あみ)+音符古(胡 かぶさる)」

とあり(漢字源)、

魚を捕るための網、

だが、

うえからかぶせる仕掛け網、

とあり(漢字源)、

あみの総称、

ともある(仝上・漢辞海)。

網罟(もうこ)、「罟師」等々と使い、メタファとして、

天罟(てんこ)、

と、

犯罪を防ぐため、張り巡らした法網(漢字源)、
おきて(字源)、

の意でも使う(仝上)。

「あみ」に当てる漢字は、かなりの数があり、辞書で拾えるだけでも、

网、罔、網、羅、汕、罘、罟、罨、罦、畢、罼、罝、罥、罤、罨、罿、罾、罛、罜、

等々とある(字源・漢辞海・漢字源)。

「网」.gif



「罔」.gif


「网」(漢音ボウ、呉音モウ)は、

象形、両脇の支柱の間に、×型にあみを張ったさまを描いたもの。のち音符亡を加えて、罔の字となった、

とあり(漢字源)、「罔」は、「网」の異字体(漢辞海)、

会意兼形声、「网(あみ)+音符亡(みえない)」

で、

網、

の古字とある(字源)。

糸やひもを編んで作った鳥獣や魚をかぶせて捕らえるあみ、

である(仝上・漢字源)。

「網」.gif

(「網」 https://kakijun.jp/page/1489200.htmlより)

「網」(漢音ボウ、呉音モウ)は、

会意兼形声。罔はもと、あみを描いた象形文字、網は「糸+音符罔(モウ)」で、被せて見えなくするあみ、また目には見えにくくてかぶさるあみ、罔と同じ、

とある(漢字源)。

糸や紐を編んで作った鳥獣や魚をとらえるあみ、

の意で、

网、
罔、
罟、
羅、

と同義である(仝上)。

「羅」.gif

(「羅」 https://kakijun.jp/page/1906200.htmlより)

「羅」(ラ)は、「綾羅」で触れたように、

会意文字。「网(あみ)+維(ひも、つなぐ)」

とある(漢字源)。あみを張りめぐらす意を表である(角川新字源)。別に、

形声。「糸」+音符「䍜 /*RAJ/」。「あみ」を意味する漢語{羅 /*raaj/}を表す字。もと「网」が{羅}を表す字であったが、「隹」を加えて「䍜」となり、さらに「糸」を加えて「羅」となった、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%85

会意文字です(罒(网)+維)。「網」の象形と「より糸の象形と尾の短いずんぐりした小鳥と木の棒を手にした象形(のちに省略)」(「鳥をつなぐ」、「一定の道筋につなぎ止める」の意味)から、「鳥を捕える網」を意味する「羅」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2007.html

鳥罟謂之羅(中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃))、

と、

鳥をとらえるあみ、

の意である(字源・漢辞海)

「汕」.gif


「汕」(サン)、

は、

魚の泳ぐさま、

をいい、魚をすくいとる、

すくいあみ、

とあるhttps://kanjitisiki.com/jis2/2-2/535.html

「罘」.gif


「罘」(漢音フウ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「网(あみ)+音符不(ふっくら、ふくれる)」

とあり(漢字源)、

うさぎをとらえるあみ、

の意であり(仝上・漢辞海)、また、ひろく、

鳥獣などを狩るのに用いるあみ、

の意でもある。

「罦」.gif


「罦」(フ・フウ)、

は、

雉離于罦(王風)、

と、

車上に設けて鳥を捕らえるあみ、

である(字源)。

「畢」.gif


「畢」(漢音ヒツ、呉音ヒチ)は、

象形。もと鳥獣をとりおさえる柄付の網を描いたもの。ぴたりと隙間なく抑える意から、もれなくおさえてケリをつける意となる、

とある(漢字源)。別に、

象形。鳥をとらえるための、大きなあみの形にかたどる。借りて「おわる」意に用いる(角川新字源)、

会意兼形声文字です。「区画された狩猟地・耕地」の象形と「かも猟に用いられる柄のついた網の象形」から「あみ」を意味する「畢」という漢字が成り立ちました。また、「閉」に通じ(「閉」と同じ意味を持つようになって)、「おわる」の意味も表すようになりましたhttps://okjiten.jp/kanji2604.html

ともあり、

鳥獣をとりおさえるための柄つきのあみ、

の意である(漢字源・漢辞海)。

「罼」.gif


「罼」(ヒツ)は、「畢」とつながり、

長い柄の先に網をつけて、鳥などを捕らえるあみ、

の意で、

うさぎあみ、
さであみ(叉手網 魚を大きな袋網を用いて. すくいとる)、

の意もある(字源)。

「罝」.gif


「罝」(シャ・ショ)は、

「罝罘」(シャフ)、

と、

兎などの獣を捕らえるあみ、

の意(字源)。

「罥」.gif


「罥」(ケン)は、

鳥獣を捕らえるための網、

の意である(字源・漢辞海)。

「罤」.gif


「罤」(コン)は、

兎を捕らえる網、

であるhttps://kanji.jitenon.jp/kanjis/9178.html

「罨」.gif


「罨」(慣用アン、漢音呉音エン)は、

会意兼形声。「网(あみ)+音符奄(エン かぶせる)」、

で、

うえからかぶせて魚を捕らえるあみ、

の意である(漢字源・字源)。

「罿」.gif


「罿」(ショウ・トウ)は、

車上に張りて鳥を捕らえるあみ(字源)、

とも、

ウサギ用の捕獲あみ(漢辞海)、

ともある。

「罾」.gif


「罾」(ソウ)は、

置人所罾魚腹中(漢書・陳勝傳)、

と、

方形の阿見の四隅を竹にて張り柄をつけ、少時、水に沈め、急に引き上げて魚を取る、

いわゆる、

四つ手網、

の意である(字源)。

「罛」.gif


「罛」(コ)は、

魚罛(ぎょこ)、

と、

魚を捕らえる大きな網、

である(字源)。

「罜」.gif


「罜」(シュ)は、

魚罟(ぎょこ)、

の意で、

魚を捕らえる小さな網、

こあみ、

の意である(字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2024年07月06日

轅門(えんもん)


日落轅門鼓角鳴(日落ちて轅門(えんもん) 鼓角(こかく)鳴り)
千群面縛出蕃城(千群(せんぐん)面縛(めんばく)して蕃城を出(い)ず)
洗兵魚海雲迎陣(兵を魚海に洗えば 雲 陣を迎え)
秣馬龍堆月照營(馬を竜堆(りようたい)に秣(まぐさか)えば 月 営を照らす)(岑参・封大夫破播仙凱歌二)

の、

面縛、

とは、

後ろ手にしばること、

をいい、特に、

自分から縛ること、

をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。つまり、

降服のしるし、

である。

面、

とは、

顔だけが突き出ること、

ともいい、

背後に、

の意味だともいう(仝上)とある。

轅門、

の、

轅、

は、

車のながえ、

をいい、

天子や将軍などが野外に宿営するときは、周囲に車を並べて垣を作り、入口には二台の車を、車輪を向き合わせた形に立てるので、ながえ門のように見える、

ので、これを、

轅門、

という(仝上)が、ここでは、必ずしも車を用いたとは限らず、

駐屯地の軍門、

を意味する(仝上)とある。春秋穀梁伝に、

置旃以爲轅門(旃(せん)を置き以て轅門と為す)、

とあり、その注に、

轅門卬車、以其轅表門(轅門は車を卬けて、其の轅を以て門を表あらわす、

とし、その疏に、

以車爲營、舉轅爲門(車を以て営と為し、轅を挙て門と為す)、

とある。

ながえ」で触れたように、

轅門(えんもん)、

は、

陣営の門、
軍門、

の意でも使う(広辞苑)のだから、ここでの、

車、

は、「周禮」天官篇に、

謂仰両乗車轅相向表門、故名轅門、

とあり、

護衛の兵車を仰向けて並べる、

のだから、当然、

軍用車両、

である、

兵車、

である。

兵車、

は、

戦争に用いる車、

で、

戎車(じゅうしゃ)、

ともいう(広辞苑)。代表的なものは、

戦車(いくさぐるま)、

で、

輕車(けいしゃ)、
馳車、

という(https://three-kingdoms.net/12471)とある。春秋時代、

兵車戦、

が主な戦い方で、趙の武霊王が紀元前307年に胡服騎射を取り入れるまで、騎兵が用いられることは少なかったとされる。また兵車1台あたり、周では75人、楚では150人が付き従ったとされる。また、兵車のみでは戦力にならないため、戈などの近接戦闘具が併用された、

とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2

戦車.png


戦車には、他の車(馬車)のように垂たれ幕や車蓋(しゃがい)はなく、輿(よ 人が乗る部分)と車輪は紅色べにいろに塗ぬられています、

とありhttps://three-kingdoms.net/12471

矛(ぼう 矛(ほこ))、
戟(げき)、
幢(どう)・麾(き)(共に指揮をするための旗)、
弩(ど)の箙(えびら 矢筒)、

が装備され、牽引4頭の馬には馬甲(ばこう)を着用していた(仝上)とある。乗員は3名で、

で、

主人と馬を御す御者と主人を護る右(車右)です。 おそらく主人と右が長手の武器を持って、相手の戦車とすれ違いざまに攻撃をして相手を倒したり、 車上から落としたりしたのでしょう、

とある(https://chinahistory3000.web.fc2.com/point170.html)。その戦車には歩兵が従う。歩兵部隊の最小ユニットは5人で、

伍、

と呼ばれ、伍が5つ集まって両を編成します。両は5行5列の方陣が基本隊形でした。この両3つが1輛の戦車に付き従い、その後ろに25人のメンテナンス後続部隊が続きました、

とある(仝上)。

春秋時代の兵車の図解.jpg


「史記」項羽紀に、

侯將を召見す。轅門に入り、膝行して前(すす)まざる無く、敢て仰ぎ視るもの莫(な)し、

とある(字通)。

「轅」.gif

(「轅」 https://kakijun.jp/page/E776200.htmlより)

「轅」(漢音オン、呉音エン)は、

会意兼形声。「車+音符袁(エン =遠、遠回り、ゆるい曲線を描く)」

とある(漢字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2024年07月07日

大幣(おほぬさ)


大幣の引く手あまたになりぬれば思へどえこそたのまざりけれ(古今和歌集)、

の、

え、

は、

打消しの表現と呼応して、

とても……できない、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

大幣、

は、

国の大奴佐(おほヌサ)を取りて生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)……牛婚(うしたはけ)・鶏婚(とりたはけ)・犬婚(いぬたはけ)の罪の類を国の大祓(おほはらへ)を為て(古事記)、

と、

祓えの行事の折に用いられた大串に下げた長い布。祓えが終った後、人々が争ってそれを身体にあて、罪を拭う、

とあり、

祓えが終ると川に流される、

とある(仝上)。

大麻、

ともいう(広辞苑)。

幣の大きなる串にさすので、小さき、

切幣(きりぬさ)、

に対していう(大言海)。類聚名義抄(11~12世紀)に、

御麻、オホヌサ、

色葉字類抄(1177~81)に、

御祓麻、オホヌサ、

とある。

冒頭の、

大幣で浮気心を喩えた歌、

から、

大幣、

で、

我をのみ思ふと言はばあるべきをいでや心は大幣にして(古今和歌集)、

と、

心があちこちにひかれる、

意や、

大幣になりぬる人のかなしきは(大和物語)、

と、

引く手あまたであること、
ひっぱりだこ、

の意で使われた(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。

ただ、

大幣、

を、

たいへい、
おおみてぐら、

と訓ませると、

在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴験。冝入大幣及月次幣例(「続日本紀」大宝二年(702)七月己巳)、
献るうづの大幣帛(おほみてぐら)を、安幣帛の足幣帛と、平らけく安らけく聞し食せと(延喜式(927)祝詞)、

と、

践祚大嘗祭にあたり、伊勢神宮以下一定の神社に奉る幣帛、

の意となり、

大奉幣、

ともいう(デジタル大辞泉・精選版日本国語大辞典)。

ぬさ

は、

麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つもの、

の意で、

みてぐら、
にぎて、

ともいい、共に、

幣、

とも当て、

祈總(ねぎふさ)の約略なれと云ふ、總は麻なり、或は云ふ、抜麻(ぬきそ)の略轉かと、

とあり(大言海)、「ねぎふさ」に、

祈總(ねぎふさ)を当てるもの(国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、

抜麻(ねぎふさ)を当てるもの(雅言考)、

があり、「抜麻」を、

抜麻(ねぎあさ)と訓ませるもの(日本語源広辞典・河海抄・槻の落葉信濃漫録・名言通・和訓栞・本朝辞源=宇田甘冥)、

があり、その由来から、「ぬさ」が、元々、

神に祈る時に捧げる供え物、

の意であり、また、

祓(ハラエ)の料とするもの、

の意、古くは、

麻・木綿(ユウ)などを用い、のちには織った布や帛(はく)も用い、或は紙に代えても用いた、

とあり(大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、

旅に出る時は、種々の絹布、麻、あるいは紙を四角に細かく切ってぬさぶくろに入れて持参し、道祖神の神前でまき散らしてたむけた、

とある(精選版日本国語大辞典)。後世、

紙を切って棒につけたもの、

を用いるようになる(仝上)。この、

神に捧げる供物、

をいう「ぬさ」と、本来は、供物の意味をもたない、

しで(四手)、
みてぐら、

と混同が起こったと考えられている(精選版日本国語大辞典)。

「にぎて」は、

下枝に白丹寸手(にきて)、青丹寸手を取り垂(し)でて(古事記)、

と、

にきて、

と清音、

平安以降ニギテと濁音、

とあり(岩波古語辞典)、

和幣、
幣帛、
幣、

と当て(広辞苑・大言海)、

にきたへ(和栲・和布・和妙)の約(広辞苑・大言海・和訓栞・神遊考)、
テは接尾語で、手で添える物の意、あるいはタヘ(栲)の転か(岩波古語辞典)、
ニキは和の意。テはアサテ・ヒラデ・クボデなどのテと同じく「……なるもの」の意(小学館古語大辞典)、
ニキは和の義、テは、是を執って神に見せる義(東雅)、
ニギは和、テは手の義(日本語源=賀茂百樹)、

などとある。「にきたへ」(和栲)は、

片手には木綿(ゆふ)取り持ち、片手には和栲(にきたへ)まつり平(たひら)けくま幸(さき)くいませと天地(あめつち)の神を祈(こ)ひ祷(の)みまつり(万葉集)、

と、

「荒稲(あらしね)」の対、平安時代以後はニギタヘと濁音、

打って柔らかくした布、神に手向ける、

意である(岩波古語辞典)が

たへ→て、

の音韻変化は考えにくく、

「くぼて」「ながて」の「て」と同様に「……なるもの」の意、

と見るべきとされ(日本語源大辞典)、「にき」は、

和魂(にきたま)、

の、

やわらかい、
おだやか、

という意になる(広辞苑)。斎部(いんべ)氏の由緒記『古語拾遺』(807)に、

和幣、古語、爾伎底、
神衣、所謂和衣、古語、爾伎多倍、

と別けて記している(大言海)。「にぎて」は、

木綿(ゆふ)の布、麻の布を神に供ふる時の称、後に、絹、又、後に布の代わりに紙を用ゐる。

とあり(仝上・岩波古語辞典)、

白和幣(しらにぎて 白幣)は木綿の糸似て作り、色白ければ云ひ、青和幣(あをにぎて 青幣)は麻の糸にて作り、稍、青みれば云ふ、古語拾遺に穀(カヂ)を植えて白和幣を造り、麻を植えて青和幣を作る、

とある(仝上)。「にきて」は、神代紀に、

枝下懸青和幣、

とある注に、

和幣此云、尼枳底、

とあるように、

榊の枝などに取り懸けて神をまつるしるしとする、

とあり(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、

棒につけたものを用いるようになる、

と、「ぬさ」と変わらなくなる。

「みてぐら」は、

幣、
幣帛、

などと当てる。古くは、

みてくら、

と清音、その由来は、

御手座の意(本居宣長・広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉・日本釈名・東雅・日本語源=賀茂百樹・日本の祭=柳田國男)、
御手座の義、置座(おきぐら)に手向ける義、或は云ふ、御栲座(みたへぐら)の約、或は云ふ、充座の義とか、いかがか(大言海)、
ミテ(充)クラ(座)、たくさんの供物を案上に置いて献上すること。クラとは、物をのせたり、物をつける台となるものをいう(賀茂真淵)、
ミ(御)タヘ(栲)クラ(台)の約、ミは接頭語、タヘは古代に用いられた織物の総称で、タヘがテとなった(敷田年治)、
御手向クラの義(箋注和名抄)、
マテクラ(真手座)の義(類聚名物考・名言通)、
ミテは天王の御手の意、クラは神にクレ(遣)るの意(雅言考)、

等々とされ、

元来は神が宿る依代(よりしろ)として手に持つ採物(とりもの)、

を指し(百科事典マイペディア)、

祭人が手に持って舞うことにより、神がそこに降臨すると信ぜられた神座をいう。それが祭場に常に用意されるところから、神への供物と考えられるようになった、

とあり(岩波古語辞典)、

神に奉納する物の総称、

として、

布帛・紙・玉・兵器・貨幣・器物・獣類、

のちには、

御幣(ごへい)、

をもいうようになる(岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。それは、「みてぐら」に、

幣の字を当てたため、幣帛(にぎて)と混用される、

に至ったもののようである。だから、「みてぐら」は、

絹布などを串に挟みて奉るを云ふ、後には、紙にも代ふ、木綿(ゆふ)の布の遺なるべし。今は、紙を長く段々に切りたるを、みてぐら、又、幣帛(へいはく)と云ひ、紙をたたみて、水竹に挟みたるを、幣束(へいそく)、又御幣(ごへい)とも云ふ、切りたるは御衣(みけし)に裁ちたる意、切らぬは裁たず、たたみながら獻ずる意と云ふ、

とあり(大言海)、これでは、

ぬさ、

にぎて、
も、
幣帛(へいはく)、

幣束、
も、
御幣、
も、

ほぼ同義になってしまっている。なお、

「木綿・麻」の代わりに、細長く折り下げた紙を両側に垂らす形式、

が見られるようにもなるのは中世(13世紀末頃)。これが、

紙垂(しで)、

である。

榊(玉串・真榊)の他、神前に御幣を捧げる形、

が普及・定着化したのは、室町時代から江戸時代にかけて、中世以降の御幣は、

捧げ物本体である「幣紙」(へいし)

神聖性を示す「紙垂」(しで)、

それらを挿む「幣串」(へいぐし)、

から成るようになるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B9%A3。なお、長い棒や竹の先端に幣束を何本か取付けたもののことを、特に、

梵天(ぼんてん)、

という(仝上)らしい。

「ぬさ」については、布や帛を細かく切ったもので、旅人が道の神の前でこれを撒く「ぬさ」と、麻・木綿・帛または紙などでつくって、神に祈る時に供え、または祓(はらえ)にささげ持つ「ぬさ」については、それぞれ触れた。

「幣」.gif

(「幣」 https://kakijun.jp/page/1517200.htmlより)

「幣」(漢音ヘイ、呉音ベ)は、「ぬさ」で触れたように、

会意兼形声。敝の左側は「巾(ぬの)+八印二つ」の会意文字で、八印は左右両側に分ける意を含む。切り分けた布のこと。敝(ヘイ)は、破って切り分ける意。幣は「巾(ぬの)+音符敝」で、所用に応じて左右にわけて垂らし、または、二枚に切り分けた布のこと、

とある(漢字源)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年07月08日

竜鐘(りゅうしょう)


故園東望路漫漫(故園 東望(とうぼう)すれば路(みち)漫漫(まんまん)たり)
雙袖龍鍾淚不乾(双袖(そうしゅう)竜鍾(りゅうしょう)として涙乾かず)
馬上相逢無紙筆(馬上相逢(お)うて紙筆(しひつ)無し)
憑君傳語報平安(君に憑(よ)って伝語(でんご)して平安を報ぜん)(岑参・逢入京使)

の、

故園、

は、

故郷のわが家、

で、

作者の郷里は河南省南陽であるが、ここでは長安にあった住居をさす、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

漫漫、

は、

遠く果てしないこと、

である。『楚辞』の「離騒」に、

路(みち)曼曼として其れ脩遠(しゅうえん)なり、吾(われ)将(まさ)に上下して求索(きゅうさく)せんとす(路曼曼其脩遠兮、吾將上下而求索)、

とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen358.html

竜鐘、

は、

老いてつかれ病む貌、

とある(字源)が、これは、

龍と鐘の二字の音を合わせれば、

癃、

となるため(字源)とある。

「癃」.gif


「癃」(漢音リュウ、呉音ル)は、

会意兼形声。「疒+音符隆(リュウ 一部盛り上がる)」、

で(漢字源)、

疲癃、

で、

疲れ病む、

意、

罷癃、
老癃、

老いて病む、

というように、

疲れ病む、

意で(字源)、

龍鐘、

は、

潦倒龍鐘百疾叢體(李華・臥疾舟中贈別序)、
今日道旁扶一枴、乃公安得不龍鐘(劉克荘・老奴)、

などと、

衰弱の状、

をいい(大言海)、また、

敗絮龍鐘擁病身、十分寒事在湘濱(劉克荘・湘潭道中即事)、

と、

しおたれること、

の意などで使い(大言海)、

老人の形容・失意の形容に用いる、

が(前野直彬注解『唐詩選』)、ここでは、

漢の蔡邕(さいよう)または晋の孔衍(こうえん)の撰と伝えられる『琴操』の中の「退怨の歌」に、

空山歔欷、涕龍鍾兮(空山(くうざん)歔欷(きょき すすり泣く)して、涕(なみだ)竜鍾(りゅうしょう)たり)

とあるのに基づき、

涙があふれ出ることの形容、

とある(仝上)。

故園東望路漫漫、雙袖龍鐘涙不乾(岑参・逢入京使)、

にも、

涙の垂れること、

の意で用いている(大言海)。

「龍」.gif

(「龍」 https://kakijun.jp/page/ryuu200.htmlより)


「竜」.gif


「竜」(漢音リョウ、呉音リュウ、慣用ロウ)は、「亢龍悔い有り」で触れたように、

象形。もと、頭に冠をかぶり、胴をくねらせた大蛇の形を描いたもの。それにいろいろな模様を添えて、龍の字となった、

とある(漢字源)。

竜、

が古字(字源)とある。別に、

象形。もとは、冠をかぶった蛇の姿で、「竜」が原字に近い。揚子江近辺の鰐を象ったものとも言われる。さまざまな模様・装飾を加えられ、「龍」となった。意符としての基本義は「うねる」。同系字は「瀧」、「壟」。古声母は pl- だった。pが残ったものは「龐」などになった、

ともあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%BE%8D

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

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2024年07月09日

山かづら


すべらぎをときはかきはにもる山の山人ならし山かづらせり(新古今和歌集)、

の、

ときはかきはに、

は、

永久不変に、

の意、

山かづら、

は、

山鬘、
山蔓、

と当て、

ヒカゲノカズラで結ったカズラ、

をいい、

神事に用いた、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。ただ、

マサキノカヅラ(真拆葛)にて結ひたるかづら、

ともある(大言海)。

かづら、

は、

鬘、

とあて、

カミ(髪)ツラ(蔓)の約(ツラはツル(蔓)と同根)、

で、

蔓草で作った髪飾り、

をいい(岩波古語辞典)、上代、

蔓草を採りて、髪に挿して飾りとしたるもの、又、種々の植物の花枝などをも用ゐたり、後の髻華(ウズ)、挿頭花(かざし)も、是れの移りたるなり、

とある(大言海)。

髻華(うず)、

は、

巫女の頭飾りのルーツ、

で、

山の植物の霊的なパワーを得るため髪や冠に草花や木の枝を挿す、

ものとされ、現在の巫女の頭飾りに用いる花もこれを踏襲しているhttps://gejideji.exblog.jp/31187471/し、

挿頭、
挿頭華、

とも当てる、

秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(万葉集)、

の、

かざし、

は、上代、

草木の花や枝などを髪に挿したこと。また、挿した花や枝、

をいい、平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた(デジタル大辞泉)とあり、やはり、

幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったもの、

とある(仝上)。古墳時代には、これを、

髻華(うず)、

といい、飛鳥時代には、髪に挿すばかりではなく、冠に金属製の造花や鳥の尾、豹(ひょう)の尾を挿して飾りとし、平安時代になって、冠に挿す季節の花の折り枝や造花を、

挿頭華(かざし)、

とよぶようになった。造花には絹糸でつくった糸花のほか金や銀製のものがあった。その挿し方は、

冠の巾子(こじ)の根元につけられている上緒(あげお)に挿すが、官位、儀式により用いる花の種類が相違し、大嘗会(だいじょうえ)には、

天皇菊花、
親王紅梅、
大臣藤花、
納言(なごん)桜花、
参議山吹、

と決められた。祭りの使(つかい)および列見(れっけん)(朝廷で2月11日に六位以下の官吏を位階昇進の手続のため閲見、点呼する儀式)などの行事に参列する大臣以下も同じで、非参議以下はその時の花を用いる(日本大百科全書)とある。

やまかづら、

に、

ヒゲノカヅラ、

以外に、

マサキノカヅラ、

に当てる説がある(岩波古語辞典・大言海)が、

マサキノカヅラ、

は、

深山(みやま)にき霰降るらし外山(とやま)なるまさきのかづらいろづきにけり(神楽歌)、

とあり、

真栄の葛、

と当て、今日の、

テイカカヅラ、

の古名で、

ツルマサキの古名、

ともされ、やはり、

神事に用いた、

とある(仝上)。

さがりごけ」で触れたように、

ヒカゲノカズラ、

は、

践祚の大嘗祭、凡そ斎服には……親王以下女孺(にょじゅ、めのわらわ 下級女官)以上、皆蘿葛(延喜式)、

と、

新嘗(にいなめ)祭・大嘗(だいじょう)祭などの神事に、物忌のしるしとして冠の笄(こうがい)の左右に結んで垂れた青色または白色の組糸、

を呼ぶ(岩波古語辞典・広辞苑)。もと、

植物のヒカゲノカズラを用いた、

ための称である(仝上)。

ヒカゲノカズラ(植物).jpg


ヒカゲノカズラ、

は、

ヒカゲカズラ、

ともいい、

キツネノタスキ、
カミダスキ、

とも呼び、

日陰鬘、
日陰蔓、
蘿葛、

と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、

山葛蘿(ヤマカズラカゲ)、

の別名を持ち、

漢名は、

石松、

で(広辞苑)、

蘿(かげ)、

という別称もあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AB%E3%82%B2%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A9

シダ類ヒカゲノカズラ科の常緑多年草、

で、各地の山麓に生える。高さ八~一五センチメートル。茎はひも状で地上をはい長さ二メートルに達する。葉はスギの葉に似てごく小さく輪生状またはらせん状に密生する。夏、茎から直立した枝先に淡黄色で長さ三~五センチメートルの円柱形の子嚢穂をつける、

とある(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。茎は、正月の飾りにし、胞子は、

石松子、

という丸薬の衣に用い、また皮膚のただれに効くという(仝上)。

なお、

山蔓(やまかづら)、

には、

あら玉の年の明行山かつら霞をかけて春はきにけり(続千載和歌集)、

と、

明け方、山の端にかかる雲、夜明けに山の稜線にたなびいて見える雲、

の意で使われ、さらに、転じて、

あらばへと背中をたたく暁雲(ヤマカツラ)(雑俳「ぎんかなめ(1729)」)、

と、

明け方、
早朝、

の意でも使われる(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

ヒカゲノカズラ.jpg

(ひげのかずら デジタル大辞泉より)

巾子(こじ)」については触れたし、「日陰蔓(ひかげのかずら)」については、「さがりごけ」で触れた。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

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2024年07月10日

月草


いで人は言のみぞよき月草のうつし心は色ことにして(古今和歌集)、

の、

月草、

は、

露草、

のこと(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

月草で染めた衣は色変わりしやすいので、「うつし心」などの枕詞となる、

とある(仝上)。

ツユクサ.jpg


つきくさ、

は、

鴨跖草、
鴨頭草、

とも当て(大言海)、

つきぐさ、

ともいう(仝上・広辞苑・日本語源大辞典)。和名類聚抄(931~38年)に、

鴨頭草、都岐久佐、押赤草(鴨跖草の假字)、

本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、

鴨頭草、都岐久佐、

平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)に、

豆支草(つきくさ)、

とあり、万葉集で、

鴨頭草(つきくさ)に衣色取り摺らめども移(うつろ)ふ色と言ふがくるしさ、

と詠われる。

月草、

の他、

うつしばな、
うつしぐさ、
アオバナ(青花)、
アイバナ、
カマツカ、
ホタルグサ(蛍草)、
アキバナ、
ボウシバナ(帽子花)、
チンチログサ、
トンボグサ、
メグスリバナ、
ハマグリグサ、
ツケバナ、

等々の名もある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%A6%E3%82%AF%E3%82%B5・岩波古語辞典・大言海・広辞苑)、

露草、

は、

ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物。畑地・路傍などに見かける雑草である。高さ30センチ余、鮮やかな青色の花は朝に咲き、昼にはしぼむ。葉柄は鞘状、夏から秋にかけて左右対称の花をつける。他のツユクサ属の植物と同様、雄しべは6本あり、上側の3本、下側中央の1本、下側左右の2本で形態が異なる、

とあり(広辞苑・https://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=32150)、古来、この花で布を摺り染める。若葉は食用、乾燥して、利尿剤としても使う(仝上)。この花が、

すぐに萎れて色が変わる、

し、

花汁で摺りつけた藍色は水で落ちやすい、

ために、

つき草のうつろいやすく思へかも我(あ)が思ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ(万葉集)、
朝(あした)咲き夕(ゆうべ)は消(け)ぬるつき草の消(け)ぬべき戀(こひ)も吾(あれ)はするかも(万葉集)、

などと、

人の心のうつろいやすいたとえ、

に使うことが多い(岩波古語辞典)。

露草、

の由来は、

善く露をたもては云ふ(大言海)、
露を帯びた草の義(牧野新日本植物図鑑)、
朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることからと名付けられたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%A6%E3%82%AF%E3%82%B5

と、「露」と関わらせる説が多いが、

月草、

の由来は、

月影を浴びて咲くところから月草の義(万葉集抄・古今集注・和訓栞)、
花、朝開き、昼に萎む、碧色にして、採りて衣に摺る、善く染み着けば着草(つきくさ)と云ふ、月影に開けば月草と云ふと云ふは、非なり(大言海)、
臼でついて染料にしたからいう(広辞苑)、
衣に摺るとよく染み着くところから着草の義(冠辞考続貂・箋注和名抄・言元梯・名言通)、

等々とあるが、上代特殊仮名遣いでいうと、

「つきくさ」のキは乙類、

「月草」のキは乙類、

「着草」のキは甲類、

であり、「着草」には妥当性はない(日本語源大辞典)とある。

なお、襲(かさね)の色目でいう、

月草、

は、

表は(はなだ)、裏は舂縹または表に同じ、

で、秋に用いるという(広辞苑・デジタル大辞泉)。

また、枕詞の、

月草の、

は、

つき草の假(か)れる命にある人をいかに知りてか後もあはむといふ(万葉集)、
百(もも)に千(ち)に人はいふともつき草の移ろふこころ吾(われ)持ためやも (万葉集)、

と、

月草の花で染めたものは色がおちやすい、

ので、

「うつる」「け(消)ぬ」「かり(仮)」などにかかる(広辞苑)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
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2024年07月11日

姑射山(こやのやま)


羨爾城頭姑射山(羨(うらや)む 爾が城頭(じょうとう)姑射(こや)の山)(李頎・寄韓鵬)

の、

姑射(こや)の山、

は、

今の山西省臨汾・襄陵のあたりにそびえる山。「荘子」逍遥遊篇に、

藐姑射(はこや)の山に仙人が住むとあり、この山がそれだと言い伝えられる、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

藐姑射」で触れたことだが、

藐姑射(はこや)、

は、

藐姑射之山、有神人居焉、肌膚若冰雪、淖約若處子、不食五穀、吸風飲露、乘雲氣、御飛龍、而游乎四海之外(『荘子』逍遥遊篇)、

により(字源)、

バクコヤ、

と訓ませ、『列子』第三にも、

藐姑射山在海河洲中、山上有神人焉、吸風飲露、不食五穀、心如淵泉、形如処女、不偎不愛、……、

とあるhttp://www.arc.ritsumei.ac.jp/opengadaiwiki/index.php/%E8%97%90%E5%A7%91%E5%B0%84%E7%A5%9E%E4%BA%BA。ただ、「藐姑射」の、

藐、

は、

邈、

と同じで、

遙か遠い、

意、

姑射、

は、

山名、

なので、もともとは、

はるかなる姑射の山、

の意であるが、「荘子」の例によって、

一つの山名のように用いられるようになった、

とある(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

我が国にも、古くから伝わっていたらしく、

心をし無何有(ムカウ)の郷に置きたらば藐姑射能山(はこやのやま)を見まく近けむ、

と万葉集にも歌われている(「藐孤射能山」を「まこやのやま」とも訓ませるとする説もある)。この、

無何有(ムカウ)の郷、

も、

出六極之外、遊無何有(ムカイウ)之郷、

と(字源)、荘子由来で、

ムカユウ、

と訓み、

何物もなき郷、造化の自然楽しむべき地にいふ、

とある(仝上)、

自然のままで、なんらの人為もない楽土、

という、

荘子の唱えた理想郷、

の謂いである(広辞苑)。

ムカユウ、

を、

ムカウ、

と訛って訓ませる。因みに、「六極」とは、

天地四方、
上下四方、

のこと、つまり、

宇宙、

をいう(精選版日本国語大辞典)。『荘子』逍遥遊篇には、

今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之郷、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下(今、子、大樹有りて、其の用無きを患(うれ)ふ、何ぞ之を無何有の郷、広莫の野に樹て、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側に為す無く、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(しんが)せざる)、

とある(故事ことわざの辞典)。

「藐」.gif


「藐」(漢音バク・ビョウ、呉音マク、ミョウ)は、

会意兼形声。「艸+音符貌(ボウ おぼろげな形、かすかな)」で、細い、かすかなの意を含む、

とある(漢字源)。「藐小」(バクショウ ちいさくてかすかな)、「藐然」(バクゼン 遠くにあっておぼろげなさま)などと使う。

「邈」.png


「邈」(漢音バク、呉音マク、ミャク)は、

はるかに遠い、

という意味である(漢辞海・字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
尚学図書編『故事ことわざの辞典』(小学館)

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2024年07月12日

蓬(ほう)


薊庭蕭瑟故人稀(薊庭(けいてい)蕭瑟(しょうしつ)として故人稀なり)
何處登高且送歸(何れの処(ところ)か高きに登りて且(しばら)く帰るを送らん)
今日暫同芳菊酒(今日(こんにち)暫(しばら)く同(とも)にす 芳菊(ほうぎく)の酒)
明朝應作斷蓬飛(明朝(みょうちょう)は応(まさ)に断蓬(だんぽう)と作(な)って飛ぶべし)(王之渙・九日送別)

の、

断蓬、

の、

蓬、

は、

北方に生える蓬(よもぎ)は、冬になって枯れると、根が切れ、球形のかたまりとなって、風の吹くままに転げて行く、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。これを、

斷蓬、
飛蓬、
轉蓬、

などといい、

行方をさだめぬ旅人の身の上にたとえられる、

とある(仝上)。たとえば、

平沙歴亂撒蓬根(平沙歴亂として蓬根(ほうこん)撒く)(張仲素・塞下曲二)

では、

枯れた蓬の根、

を、

蓬根、

といい、それが、

撒く、

とは、

飛蓬、

となることをいう(仝上)。

凄凄遊子若飄蓬(凄凄(せいせい)たる遊子(ゆうし) 飄蓬(ひょうほう)を苦しむ)
明月清樽祗暫同(明月清樽(せいそん) 祗(た)だ暫くは同(とも)にせん)
南望千山如黛色(南のかた千山(せんざん)を望めば黛色(たいしょく)の如し)
愁君客路在其中(愁(うれ)う 君が客路(かくろ)の其の中(うち)に在るを)(皇甫冉・曾山送別)

では、

風に吹き飛ばされる蓬、



飄蓬、

と表現し、

落ちぶれた流浪の身、

に譬えている(https://kanbun.info/syubu/toushisen398.html)。曹植は、

轉蓬離本根(転蓬(てんぽう)は本根(ほんこん)より離れ)、
飄颻隨長風(飄颻(ひょうよう)として長風(ちょうふう)に随う)(雑詩六首 其の二)

と、

轉蓬、

を使い、張正見は、

顏如花落槿(顔は花の如く落槿(らくきん)し)
鬢似雪飄蓬(鬢(びん)は雪に似て飄蓬(ひょうほう)す)(白頭吟)

と、

飄蓬、

を使っている(仝上)。

よもぎ」で触れたように、「よもぎ」に当てる漢字は、

蓬、
艾、
蒿、
萩、
苹、
蕭、
薛、

等々とある(字源)が、「よもぎ」の漢字表記は、

現在日本において、ヨモギは漢字で「蓬」と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは「艾」あるいは「艾蒿」である。(中略)艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ、

とあるhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm

「艾」.gif

(「艾」 https://kakijun.jp/page/E488200.htmlより)

「艾」(漢音ガイ、呉音ゲ)は、

会意兼形声。「艸+音符乂(ガイ、ゲ ハサミで刈り取る)」、

とあり、

よもぎ、もぐさ、

の意である(漢字源)。字源には、

よもぎ(醫草)、

と載る。

ヨモギの若葉.jpg

(よもぎ(艾)の若葉 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AEより)

よもぎ(艾)、

の由来は、

善燃草(よもぎ)の義(大言海)、
ヨモキ(彌燃草)の義(言元梯)、
ヨはヨクの義、モはモユルの義、キは木の義(和句解)、
ヨクモエグサ(佳萌草)の義(日本語原学=林甕臣)、
弥茂く生える草の意(日本語源=賀茂百樹)、
ヨリモヤシキ(捻燃草)の義、灸に用いるところから、生は草の意(名言通)、

等々とされるが、どうもその使用法からきているようだ。

本州・四国。九州の山野にある多年草で、春に新葉をとって草餅の材料にする。モチグサと呼ぶ。よく乾いた葉を揉むと葉肉は粉になって葉の裏の白い綿毛が残るから、これを集めて灸のモグサともする(たべもの語源辞典)、

山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ。倭名抄「蓬、一名蓽、艾也。與毛木」、本草和名「艾葉、一名醫草、與毛岐」(大言海)、

などとあり、

モグサ、

は、

モエグサ(燃草)の略、

であり(仝上)、

ヤイトグサ、

の別名あり、地方により、

エモギ、
サシモグサ(さしも草)、
サセモグサ、
サセモ、
タレハグサ(垂れ葉草)、
ヤキクサ(焼き草)、
ヤイグサ(焼い草)、

などの方言名があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE

「蓬」.gif


しかし、

よもぎ、

に当てる、

蓬(漢音ホウ、呉音ブ・ブウ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符逢(△型にであう)」で、穂が三角形になった草、

とあり(漢字源・漢辞海)、

よもぎ(艾)の一種、

とある(字源)が、

葉は一尺ばかり、柳に似て細長く、周囲は細かい鋸状である。淡黄の小さい花を着け、後に絮(わた)になって飛ぶ。冬に枯れると根が切れ、茎や枝部は風に吹かれて球状にまとまって地面を転がる(漢辞海・字源)、
葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりた飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄「蓬、ヨモキ」(大言海)、

などとあり、

よもぎ(艾)とは違った植物である、

とある(たべもの語源辞典)。

「蒿」.gif

(「蒿」 https://kakijun.jp/page/E4E4200.htmlより)


「蒿」 甲骨文字・殷.png

(「蒿」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%92%BFより)

蒿(コウ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符(高く伸びる、乾いて白い))」、

とあり(漢字源)、よもぎ、くさよもぎ、艾の一種、

とある(字源・たべもの語源辞典)。

「萩」.gif

(「萩」 https://kakijun.jp/page/1255200.htmlより)

萩(漢音シュウ、呉音シュ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符秋」、

で、

秋の草、

とあり、日本では「はぎ」に当てる。

よもぎ、くさよもぎ(蕭)の一種、

とある(字源)

「蕭」.gif


蕭(ショウ)、

は、

会意兼形声。「艸+音符肅(ショウ 細く引き締まる)」、

とあり(漢字源)、

よもぎ(艾蒿)、

の意とある(字源)。

「苹」.gif

(「苹」 https://kakijun.jp/page/E499200.htmlより)

苹(漢音ヘイ、呉音ビョウ)、

は、

会意兼形声。平は、屮型のうきくさが水面に平らに浮かんだ姿を描いた象形文字。苹は「艸+音符平(ヘイ)」で、平らのもとの意味をあらわす、

とある(漢字源)。浮草のようであるが、

よもぎ、蒿の一種、

ともある(字源)。

「薛」.gif

(「薛」 https://kakijun.jp/page/E54C200.htmlより)

薛(漢音セツ、呉音セチ)、

は、

会意。「艸+阜の字の上部(つみかさねる)+辛(刃物で切る)」。束ね重ねて着るよもぎをありらわす、

とあり(漢字源)、

かわらよもぎ(仝上)、
よもぎ(蒿)(字源)、

とあり、「よもぎ」のようである。どうやら、

艾、
蒿、
艾蒿、

が、本来の「よもぎ」のようである。

蒿(かう)もヨモギで、艾の一種。苹(へい)またはビョウとよむが、これもヨモギで、蒿の一種、蕭(ショウ)もヨモギで、蒿と同じである。漢名には、蒿艾(コウガイ)、蕭艾(シュウガイ)、指艾(シガイ)、荻蒿(テキコウ)、氷台、夏台、福徳草、肚裏屏風などがある、

とある(たべもの語源辞典)。しかし、色葉字類抄(1177~81)に、

蓬、よもぎ、

とあるように、また、

あやめ草誰しのべとか植ゑおきて蓬(よもぎ)がもとの露と消えけむ(新古今和歌集)、

と詠われるように、

「蓬」の字を当ててきた。その理由はわからない。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
清水桂一『たべもの語源辞典』(東京堂出版)

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2024年07月13日

玉鉾


玉鉾(たまほこ)の道は常にもまどはなむ人をとふともわれかと思はむ(古今和歌集)、

の、

玉鉾(たまほこ)、

は、

道にかかる枕詞、

で、一般に、

たまぼこ、

と訓まれるが、この時代は、まだ、

たまほこ、

であろう(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。

たまほこ、

は、

玉鉾、
玉桙、
玉矛、

等々と当て、

たまは美称、

とあるが(大言海)、そのわけを、

タマ(霊)ホコ(桙)で、陽石(陽物の形の石)、

とあり(岩波古語辞典)、

上古、矛を携ふればなり、此語道に續くは、出征に矛を賜はるに因る。後に、節刀を賜はることとなれり。又、常の出行くの道にも手矛など持ち行きたるならむ。門の両旁の木をほこだちと云ふも、それを立ておきたる故の名なるべし、

とある(大言海)のは、

三叉路や村里の入口に玉桙の類を立てた、

ことによる(岩波古語辞典)とみられる。「ちぶりの神」で触れたように、これは、


行く今日も帰らぬ時も玉鉾のちぶりの神を祈れとぞ思ふ(袖中抄)、

とある、

旅の安全を守る神、

つまり、

道祖神、

に対する信仰で、「さえの神」で触れたように、

塞(斎 さえ)の神、
道陸神(どうろくじん)、

ともいい、

塞大神(さえのおおかみ)、
衢神(ちまたのかみ)、
岐神(くなどのかみ)、
道神(みちのかみ)、

などとも表記される(日本大百科全書)。

障(さ)への神の意で、外から侵入してくる邪霊を防ぎ止める神(岩波古語辞典)
路に邪魅を遮る神の意(大言海)、
邪霊の侵入を防ぐ神、行路の安全を守る神(広辞苑)、
さへ(塞)は遮断妨害の意(道の神境の神=折口信夫・神樹篇=柳田國男)、

等々という由来とされ、近世には、

集落から村外へ出ていく人の安全を願う、
悪疫の進入を防ぎ、村人を守る神、

としてだけでなく、

五穀豊穣、
夫婦和合・子孫繁栄、
生殖の神、
縁結び、

等々、

性の神、

としても信仰を集めた。

わたつみのちふりのかみにたむけするぬさのおひかぜやまずふかなん(土佐日記)

と、

陸路または海路を守護する神、

として、

旅行の時、たむけして行路の安全を祈った、

とされ、

たまほこ、

は、一種の祓いの意味を持っていたからではないかという気がする。いまひとつ、「たま(魂・魄)」で触れたように、

たま、

は、

魂、
魄、
霊、

と当て、「たま(玉・珠)」が、

タマ(魂)と同根。人間を見守りたすける働きを持つ精霊の憑代となる、丸い石などの物体が原義、

とある(岩波古語辞典)。依り代の「たま(珠)」と依る「たま(魂)」とが同一視されたということであろうか。

未開社会の宗教意識の一。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離靈の一種で、人間の体内から脱け出て自由に動き回り、他人のタマとも逢うこともできる。人間の死後も活動して人を守る。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力をよびさます、

ともある(仝上)。だから、いわゆる、

たましい、

の意であるが、

物の精霊(書紀「倉稲魂、此れをば宇介能美柂麿(うかのみたま)といふ」)、

人を見守り助ける、人間の精霊(万葉集「天地の神あひうづなひ、皇神祖(すめろき)のみ助けて」)、

人の体内から脱け出して行動する遊離靈(万葉集「たま合はば相寝むものを小山田の鹿田(ししだ)禁(も)るごと母し守(も)らすも」)、

死後もこの世にとどまって見守る精霊(源氏「うしろめたげにのみ思しおくめりし亡き御霊にさへ疵やつけ奉らんと」)、

と変化していくようである。そこで、

生活の原動力。生きてある時は、體中に宿りてあり、死ぬれば、肉體と離れて、不滅の生をつづくるもの。古くは、死者の魂は、人に災いするもの、又、生きてある閒にても、睡り、又は、思なやみたる時は、身より遊離して、思ふものの方へゆくと、思はれて居たり。生霊などと云ふ、是なり。故に鎮魂(みたままつり)を行ふ。又、魂のあくがれ出づることありと、

ということになる(大言海)。

たまほこ、

の、

たま、

には、

ほこ、

自体のもつ霊力に期するところがあり、だからこそ、

美称、

でもあったのではないか。

枕詞としての、

たまほこの、

は、前述のように、「たまほこ」を、

三叉路や村里の入口に玉桙の類を立てた、

ところから、

我が立ち聞けば玉たすき畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず玉桙の道行く人もひとりだに似てし行かねば(万葉集)、

と、

道、里、

などに掛かるが、そこから転じて、

この程はしるもしらぬもたまほこの行きかふ袖は花の香ぞする(新古今和歌集)」、

と、

道、

そのものの意でも使われる(岩波古語辞典)。

ところで、

ほこ、

と訓ませる漢字は、

矛、鉾、桙、戈、鋒、戟、鋒・殳、鉈、戛(戞)、桙、戞、鉾、槊鉈(釶)、槍、棘、戣、鎩、槊、鏦、欑、戊、

等々と多数あり(漢辞海・字源)、我が国で、

ほこ、

に当てる漢字も、

矛、鉾、桙、戈、鋒、戟、鋒、殳、鉈、戛(戞)、桙、戞、鉾、

等々とある(精選版日本国語大辞典・広辞苑)。

ほこ、

は、

長い柄を装着する刺突用の武器のうち、柄を挿入する袋状の装置(銎 きよう)があるもの、

を指す(ブリタニカ国際大百科事典)とあり、銅矛すなわち青銅製の矛はまず中国で用いられるようになり、後に朝鮮・日本に伝わった。大別すると、

長さによって、

長鋒(ちょうぼう)、
短鋒、

の別、

刃の幅によって、

広鋒、
狭鋒、

に分けられ、厳密には、

戈、

は枝のあるもの、

戟、

は2つの枝のあるもの、

鉾、

は袋穂のあるもの、などの種類があり、その他飾りのついたもの、祭礼、儀式用のものなどがある(世界大百科事典)。

まず、

たまほこ、

の当てる、

矛、桙、鉾、

から見てみいくと――。

「矛」.gif

(「矛」 https://kakijun.jp/page/0599200.htmlより)

「矛」 金文・西周.png

(「矛」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%9Bより)

「矛」(漢音ボウ、呉音ム)、

は、

やりのような形の武器を描いたもの。鉾(ボウ 金+音符牟(ボウ))とまったく同じ言葉をあらわす、

とある(漢字源)。

するどいほこ先に、長い柄がついた「ほこ」の形にかたどる(角川新字源)、
「長い柄の頭に鋭い刃をつけた武器」の象形https://okjiten.jp/kanji1055.html
長い柄の先に両刃の剣をつけたもの(漢辞海)、

などとあり、後述する、

戈(カ)、

とは異なるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9F%9B

柄の長さ周尺で二丈のものを酋矛、二丈四尺のものを夷矛といふ、

とあり(字源)、古え、

蚩尤の創作せしもの、

とある(仝上)。「蚩尤」については、「一葉の舟」で触れた。

「鉾」.gif


「鉾」(漢音ボウ、呉音ム)は、

形声。「金+音符牟(ボウ)」で、障害をおかして、むりに突きかかる意を含む、

とある(漢字源)。

先のとがったほこ、

とある(漢字源)。

「鋒(ほう)なり」(集韻)とあって、鋒と同義、

とある(字通)。中国ではほとんど用例がなく、わが国では山鉾などの意に用いる。山車(だし)の上に高い鉾木を樹(た)てるのは、もと神を迎えるためのものであった。金文の図象に、禾(か)形のものを屋上に樹てる形のものがあり、その禾は軍門の左右に立て、両禾軍門という。のちの華表(宮城など前に建てる柱)の原型をなすものである(仝上)。

「桙」.gif


「桙」(①漢音呉音ウ、②漢音ボウ、呉音ム)は、

形声、「木+音符牟」、

とあり(漢字源)、

ほこ、

に当てるのはわが国だけで、

湯や水を飲む器、

の意(①の発音)、

器の一種、

の意(②の発音)である(漢字源)。

「戈」.gif


「戈」 甲骨文字・殷.png

(「戈」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%88より)

「戈」(カ)は、

象形。とび口型の刃を縦に絵をつけた古代のほこを描いたもので、かぎ型にえぐれて、敵を引っかけるのに用いる武器。のち、古代の作り方とまったく違った、ふたまたのやりをも戈と称する、

とあり(漢字源)、

両刃のある実の部分に直角に長い柄をつけ、敵を引っかけた。全体がとび口のような形で、柄の先にも後にも敵を突きさす刺(し)がない、

とある(仝上)。

ほこ(戟)の古の兵器、枝の旁出せる両刃の剣を長き柄の先につけたるもの、單枝なるを戈と為し、雙枝なるを戟と為す、

とある(字源)。

「戟」.gif


「戟」(慣用ゲキ、漢音ケキ、呉音キャク)は、

会意。「幹(カン 太い棒)の左側+戈(ほこ)」で、柄でゆわえつけたわ個をしめす。ケキは格(カク 固くひっかかる)と同系のことば、

とある(漢字源)。別に、同趣旨で、

会意。戈と、榦(かん)(倝・𠦝は省略形。長い木の棒)とから成る(角川新字源)、
会意文字です(幹の省略形+戈)。「旗ざおの象形(大地を覆う木の象形は省略されている)」(「よく伸びた木の幹(みき)」の意味)と「握りのついた柄の先端に刃のついた矛」の象形から、木の幹と枝のように「両刃の刃が二股になっている武器」を意味する「戟」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2457.html

ともある。

戈(カ)の柄の先に敵を突きさす刺(シ)のついた武器。つまり、敵をひっかけたり、突いたりすることができる。刺を別に鋳たものと、同時に鋳たものとがある(漢字源)、
長い柄の先端に戈の刃先をつけたもの、戈の刃先の数は一ないし三が多く、柄の先に刺(シ 矛)のあるものとないものがある(漢辞海)、

とも、

両旁に枝のでたるほこ(字源)、

ともある。「戈」の先に剣が着いたものという感じだろうか。

「鋒」.gif


「鋒」(漢音ホウ、呉音フ・フウ)は、

会意兼形声。丰(ホウ)は、作物の穂が三角に尖ったさまを描いた象形文字。夆は逢の原字で、三角形の頂点で出会うこと。鋒は、「金+音符夆」で、△型に尖った刃物の先、

とあり(漢字源)、

ほこさき、

の意であり(仝上)、

転じて、

ほこ、

の意でもある(漢辞海)。別に、

会意兼形声文字です(金+夆)。「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土の中に含まれる「金属」の意味)と「下向きの足の象形と草・木の葉が寄り合い茂る象形」(「足が1点に寄り集まる」の意味)から刃物の刃と背(峰)が寄り集まる部分「きっさき」を意味する「鋒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2767.html

「戊」.gif

(「戊」 https://kakijun.jp/page/bo05200.htmlより)


「戊」 甲骨文字・殷.png

(「戊」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%8Aより)

「戊」(慣用ボ、漢音ボウ、呉音ム)は、

象形。戉(エツ まさかり)に似た武器を描いたもので、その根元の穴が柄に被さるので、ボウ(冒)という。のち、十干の序数に当てたため、原義は忘れられた。戈の一種で、矛(ボウ 突く武器)とは形が異なる、

とある(漢字源)。

まさかりに似た武器https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%88%8A
おの形の刃が付いたほこ(矛)の形にかたどる(角川新字源)、
斧のような刃のついた矛https://okjiten.jp/kanji2455.html

などとある。

「殳」.gif



「殳」 甲骨文字・殷.png

(「殳」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AE%B3より)

「殳」(漢音シュ、呉音ズ)は、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、

形声。「又+音符几」

と分析されているが、甲骨文字の形や金文の形を見ればわかるように、これは誤った分析である、

とし、

象形。ハンマー・枹のようなものを持った手を象る。漢語{殳 /*do/}を表す字、

とするhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AE%B3。別に、

象形文字です。「手に木の杖を持つ」象形から「矛(ほこ)、木の杖」を意味する「殳」という漢字が成り立ちました、

とある(https://okjiten.jp/kanji2886.html)

殳、

は、

束ねた竹で作り、八角の長さは一丈二尺、兵車(戦車)の上に立てて、兵車の先頭がそれをもって先駆けする、

とあり(漢辞海)、

殳は殊である、長さは一丈二尺で刃がなく、車上で撞いたり、斬ったりしたものを殊(絶)ち離させるのである、

ともある(仝上)。

「鉈」.gif

(「鉈」 https://kakijun.jp/page/E7EB200.htmlより)


「釶」.gif

(「釶」 https://kakijun.jp/page/E7DF200.htmlより)

「鉈」(漢音シ・呉音セ、漢音シャ・呉音ジャ)は、

会意兼形声。「金+音符它(タ 長く伸びる)」。刃を長くたたきのばした刃物、

とあり(漢字源)、「釶」は「鉈」の異字体である。

柄の短いほこ、

の意である(仝上)。我が国では、薪割りなどに使う、片手で持つ、

なた、

に当てている(漢辞海)。

「戛」.gif



「戞」.gif


「戛」(カツ)は、

会意。戈+首、

で(漢辞海)、

枝刃のあるほこ(漢辞海)、
長いほこ(戟)、長矛(字源)、

の意である。

「槊」.gif


「槊」(サク)は、

形声。木+音符朔、

で(漢辞海)、

柄の長い矛(仝上)、

とあり、

周尺にて、一丈八尺ある矛(字源)、

とある。

「棘」.gif


「棘」(漢音キョク、呉音コク)は、

会意。刺の字の左側の朿(とげでさす)を二つ並べたもので、とげで人をひやひやさせるばらの木、

とある(漢字源)。

槍の刃の部分に敵を引っかけるための突起がついているほこ、

で、

戟、

の類義語である。

「戣」.gif


「戣」(漢音キ、呉音ギ)は、

会意兼形声.癸(キ)は、刃が三方または四方に張りだして、どちらでも突けるほこを描いた象形文字。癸が十干の名に専用されたため、戣でその原義を表した。戣は「戈(ほこ)+音符癸(キ)」、

とあり(漢字源)、

三方、または四方に刃の張りだしたほこ、

で、漢代の、

三鋒戟(さんぼうげき 鋒先が三つ)、

はその変化したもの(仝上)とある、

「矟」.gif


「矟」(サク)は、

会意兼形声。「矛+音符肖(ショウ 補足尖る)」、

とあり、

長さ一丈八尺で、崎の尖ったほこ、

とあり(漢字源)、

槊、

と同義になる(仝上)が、

矟、

は、

馬上で所持するもので、矟矟(ほっそりながいさま)としていて刺しやすい、

とある(漢辞海・字源)。

「鎩」.gif


「鎩」(サツ)は、

形声。金+音符殺、

で、

長い穂先のついたほこ、

とある(漢辞海)。

「鏦」.gif


「鏦」(ショウ・ソウ)

形声。金+音符従、

で、

小形のほこ、

の意である(漢字源)。

「欑」.gif


「欑」(サン)は、

細い竹を束ねて作ったつえぼこ、

とある(漢辞海)。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
簡野道明『字源』(角川書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年07月14日

何せむに


逢ふまでの形見もわれは何せむに見ても心のなぐさまなくに(古今和歌集)、

の、

何せむに、

は、もともとは、

何せむに命継(つ)ぎけむ我妹子(わぎもこ)に恋ひざる先(さき)に死なましものを(万葉集)、

と、

何をするために、

の意。そこから、

何せむに命をかけて誓ひけむいかばやと思ふ折もありけり(拾遺集)、

と、

何になろうか、
何の役にも立たない、

の意となった。

何せむに命をもとな長く欲(ほ)りせむ生(い)けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに(万葉集)、

と、

万葉集には多く見られるが、古今和歌集には少なくなった表現、

とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。

何せむに、

は、

玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば(仝上)、

の、

何せむ、

を、

銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(万葉集)、

と、強めた言い方でもある(デジタル大辞泉)。

何せむに、

は、

何をしようとして、
何のために、

の意味の、

ナニセムタメニ(何為むために)、

が省略されて、

ナニセムニ、

になった(日本語の語源)のだが、上述のように、疑問の副詞として、

何せむに我を召すらめや明けく我が知ることを歌人(うたひと)と我を召すらめや笛吹きと我を召すらめや琴弾きと我を召すらめやかもかくも(万葉集)、

や、反語の副詞として、上述の、

何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに(万葉集)、

と使われ、さらに転じ、

ナニシニ、

に変化し(仝上)、

まうとはなにしに此処にはたびたび参るぞ(源氏物語)、

や、

わが心よなにしにゆづり聞こえけむ(仝上)、

と、

理由を問う形で、そんなことをしなくてよかったのにの気持を含め、

どうして、
なぜ、

の意や、

なにしに悲しきに見送りたてまつらむ(竹取物語)、

と、反語の意で、

どうして、

の意で使うに至る(仝上・岩波古語辞典・広辞苑)。

「何」.gif

(「何」 https://kakijun.jp/page/nani200.htmlより)

「何」 甲骨文字・殷.png

(「何」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%95より)

「何」(漢音カ、呉音ガ)は、

象形。人が肩に荷を担ぐさまを描いたもので、後世の負荷の荷(になう)の原字。しかし普通、一喝するの喝と同系の言葉に当て、のどをかすらせてあっとどなって、いく人を押し止めるの意に用いる。「誰何(スイカ)する」という用例が原義に近い。転じて、広く相手に尋問する意になった、

とある(漢字源)。しかし、別に、

象形。物を担いだ人を象ったもの(甲骨文字の形)。周代に形声文字「人」+音符「可 /*KAJ/」として再解釈された。「になう」「かつぐ」を意味する漢語{荷 /*gaajʔ/}を表す字。のち仮借して疑問詞の{何 /*ɡaaj/}に用いる、

ともhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BD%95

形声。人と、音符可(カ)とから成る。背に荷物を負う意を表す。もと、「荷(カ)(になう)」の原字。借りて、疑問詞「なに」の意に用いる、

とも(角川新字源)ある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

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2024年07月15日

寒食


春城無處不飛花(春城(しゅんじょう) 処(ところ)として花を飛ばさざるは無し)
寒食東風御柳斜(寒食(かんしょく)東風(とうふう) 御柳(ぎょりゅう)斜めなり)
日暮漢宮傳蠟燭(日暮(にちぼ) 漢宮(かんきゅう) 蠟燭を伝え)
靑煙散入五侯家(青煙(せいえん)散じて五侯(ごこう)の家に入(い)る)(韓翃・寒食)

で、

寒食、

は、

春のおとずれをつげるもので、この詩は、その時節の長安の風物を描いている(前野直彬注解『唐詩選』)とあり、

かんしょく、

以外に、

かんじき、

とも訓ます(世界大百科事典)。

陽暦の四月九日または六日を、

清明節、

といい、

その前の二日間を、

寒食、

といい、この期間、

いっさい火を用いない、

という風習があった(仝上)。伝説によれば、

春秋時代の介之推(介子推 かいしすい)は、晋の文公が不遇時代の忠臣であったが、文公が君主の位につくと、山の中に隠れてしまった。文公は召し出して高祿を与えようとしたが、承知しないため、山を焼き払って、無理やり介之推をひきだそうとした。しかし彼は、山中の立木を抱いたまま焼け死んでいた。これがちょうど寒食のころだったから、彼の霊をなぐさめるために、火を禁ずる習慣が生まれた、

という(仝上)。その詳細は、

春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。彼に従がっていた者たちは、その苦しさに堪えかねて、大方は自分たちの活路を求めて離れていった。ただ介子推とその他五、六人の者が、忠義の心厚く、苦しみを恐れずにずっと彼に従っていた。重耳が肉を食べたいというと、介子推はひそかに自分の腕の肉を切りとって、煮て彼に食べさせた。のちに重耳は秦国の国王・穆公の助けをえて、晋国の国王になった。重耳はずっと自分に従って亡命していた者たちに論功行賞を行い、それぞれ諸侯に封じてやった。介子推は母親と相談して、富貴を求めない決心を固め、綿山に入って隠居した。その後、晋の文公・重耳は彼のことを思い出し、自ら車に乗って捜しにいったが、なん日捜しても介子推母子の行方はわからなかった。晋の文公は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親をたずさえて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山ぜんたいを焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。文公はこの母子の死を心からいたみ、綿山に厚く葬り、廟を建立し、介山と改名した。そして介子推の自分に対する情誼を永遠に記念するために、その柳の木を切りとって持ち帰り、木のくつを作らせ、毎日眺めては悲嘆にくれた。「悲しきかな、足下よ!」。のちに人々は、自分に親しい友人に手紙を送る時、「××足下」と書いて、厚い友情を示すようになった。晋の文公は、介子推の生前「士は甘んじて焚死しても公候にならず」という志を通した高尚な人となりをたたえて、この日には家ごとに火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国に命令をくだした。長いあいだにこれが次第に風習と化し、独特な「寒食節」となって受けつがれた、

とあるhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htm。南宋の曾先之編の歴史書『十八史略』にも、

公(文公)曰、噫、寡人之過也。使人求之。不得。隱綿上山中。焚其山。子推死焉。後人爲之寒食(公曰く、噫、寡人(かじん)の過ちなり、と。人をして之を求めしむ。得ず。綿上(めんじょう)の山中に隠る。其山を焚く。子推死す。後人之が為めに寒食す、

とある。ただ、漢代の「風俗通(風俗通義)」(応邵撰)には、

冬至後、百四、五日、六日、有疾風暴雨、為寒食、

とあり、大言海は、

介子推ガ焚死ノ爲ニ、火ヲ禁スゲルト云フハ、妄説ナリト云フ、禁火ハ周の舊制ナルガ如シ、

と注記している。なお、

傳蠟燭、

とは、清明の日には、どこの家でも新しく火を起こし始めるのだが、宮中では、

柳の枝に火をつけ、百官に賜る、

風習があり、

宮中から火をつけた蝋燭が下賜され、使者が高官の家に伝達した、

という(仝上)。

蝋燭を伝え、

とは、

そのことを言い、

青煙、

とは、

伝達された蝋燭から立つ煙、

をいう(仝上)。

寒食、

は、

火食、

に対して言い、

冷食、即ち、冷ややかなる食、

の意で、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』に、

寒食、カンショク、自冬至至一百五日也、

とあるように、

冬至より百五日目に当たる日(陰暦の清明節)の節日、

で(漢辞海・大言海)、昔の人はみな寒食を、

百五、

といったhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htmともある。

晋代史書の『鄴中記』(陸翽撰)に、

幷州之俗、冷食三日、作乾粥食之、中國以為寒食、

とあるように、この、

前後三日間、

は(漢辞海)、

疾風、甚雨のあるべき節として、火を焚くことをせず、前日に調へおきたるものを食ふ、食物に、寒具(かんぐ)と云ふものあるも、これより起これるなりと云ふ、

とある(大言海)。

寒食、

の日にばらつきがあるのは、古代では一つの、

独立した祭日、

であったが、隋・唐の時代には、多くの寒食を、

清明の二日前、

に固定し、宋代には、

三日前と定めていたhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htmからのようである。この、

寒食節、

が終わると清明節になる。

周書に、

司烜氏、仲春以木鐸、循火禁國中、

とあるのに対する註に、

為春将出火也、今寒食準節気、是仲春之末、清明、是三月之初、

とあり、荊楚地方(長江中流域)の年中行事を記した、南朝梁の『荊楚歳時記』(宗懍(そうりん)著、隋・杜公瞻(とこうせん)注釈)には、

去冬節一百五日、即有疾風甚雨、謂之寒食。禁火三日、造餳大麥粥(冬節を去ること一百五日、即ち疾風甚雨有り、之を寒食と謂う。火を禁ずること三日、餳(とう 澱粉を加工して作った飴)と大麦の粥を造る)、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen399.html

寒食、

の起源は、介子推の伝説はともかく、

古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く、
火災防止(暴風雨の多い季節がら)、

などが考えられている(世界大百科事典)とある。漢代は、

山西省太原付近の一地方習俗、

にすぎなかったが、六朝末には、南方まで伝わり、唐・宋時代、

全国的な行事、

となった。

冷たい物ばかり食べるので、麦芽などで作った餳(あめ)や餳湯(あめゆ)などが好まれた、

といい、明・清以後、その苦しさから、廃止された、とあり(仝上)、

寒食節は清明節(107日目)の同義語、

となったようだ(仝上)。

清明節(せいめいせつ)、

は、元来は、

中国の先祖祭、

で、旧暦3月、

春分から15日目にあたる節日に、家中こぞって先祖の墓参りに出かけ、鶏、豚肉、揚げ豆腐、米飯、酒、茶あるいは香燭や紙銭などを供える、

とある(精選版日本国語大辞典)。

田家復近臣(田家にして復た近臣)
行楽不違親(行楽して親(しん)に違(たが)わず)
霽日園林好(霽日 園林好く)
清明煙火新(清明 煙火(えんか)新たなり)(祖詠・清明宴司勲劉郎中別業)

に、

清明清明煙火新、

とあるのは、清明の直前の、

寒食、

が終わって、どの家もまたむ火を起こし始めたから、「新」といったのである、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。明代の「煕朝樂事」(田汝成)に、

清明、

は、文字通り、

清く明らかなこと、

で、礼記に、

清明在躬、志気如神、

とある(字源)。

清明、

は、

清く明るい気が満ちる、

意で、

二十四節気のひとつ、

で(広辞苑)で、

春分の次の気節、

太陽の黄経が15度の時、春分後15日目、

三月の節(せつ)、

で、太陽暦の、

四月四日頃に当たる(字源・広辞苑)。

「寒」.gif

(「寒」 https://kakijun.jp/page/1235200.htmlより)

「寒」 金文・西周.png

(「寒」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%92より)

「寒」(漢音カン、呉音ガン)は、

会意文字。「塞(サイ・ソク)の字の上部+冫(こおり)」で、やね(宀)の下にレンガや石(I印)を積み重ね、手で穴をふさいで、氷の冷たさを防ぐさまを示す。乾燥して物の乏しい北方のさむさ、

とあり(漢字源)、また、

会意文字です。「家屋・屋根」の象形と「人」の象形と「枯れ草」の象形と「氷」の象形から、寒さに凍え、枯れ草に身をまるくする人、すなわち「こごえる・さむい」を意味する「寒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji332.htmlが、

「寒」の下側に存在する2つの点について、『説文解字』では「冫」(氷の象形)に由来すると説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、これは羨符(意味のない余剰な筆画)で、「冫」とは関係がない。楷書では「塞」の上部と同じ部品を共有しているが、字形変化の結果同じ形に収束したに過ぎず、起源は異なる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%92

会意。「宀」(家屋)+「茻」(多くの草)+「人」から構成され、屋内で人が草を被って寒さをしのぐさまを象る。「さむい」を意味する漢語{寒 /*gaan/}を表す字、

とある(仝上)。また同趣旨で、

会意。宀と、人(ひと)と、茻(ぼう)(は変わった形。草のむしろ)と、冫(ひよう)(さむい)とから成る。家の中で人がむしろにくるまって寝ていることから、「さむい」意を表す、

とある(角川新字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
簡野道明『字源』(角川書店)

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2024年07月16日

ひさかたの


ひさかたの天つ空にも住まなくに人はよそにぞ思うべらなく(古今和歌集)、

の、

天つ空、

は、

遠く離れた場所、

の意(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、

ひさかたの、

は、

「あめ(天)」「あま(天)」「そら(空)」にかかる枕詞、

だが、転じて、

さよふけてまなかばたけゆくひさかたの月吹きかへせ秋の山風(古今和歌集)、
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ(仝上)、

と、天空に関わる、

「月」「日」「雨」「雪」「雲」「霞」「星」「光」「夜」、

等々にかかる枕詞である(仝上・広辞苑)。

ひさかたの、

は、

久方の、
久堅の、

と当て、その由来は、

日射方(ひさすかた)の義(大言海)、
「日射す方」の約(精選版日本国語大辞典)、
天先ず成れば、地より久しき意にて、久堅の義(大言海)、
天は虚なれば、丸くうつろな形を、匏(ひさご)形の義(仝上・精選版日本国語大辞典)、
「久方・久堅」から、天を永久に確かなものとする(デジタル大辞泉)、
万葉集に「久堅」とあるので、永く堅い意が込められていた(岩波古語辞典)、

等々諸説あるが、

皆、牽強ならむ、

とあり(大言海)、未詳(精選版日本国語大辞典)というのが妥当かもしれない。

ひさかたの、

は、

比佐迦多能(ひさかたの)阿米能迦具夜麻(あめのかぐやま)斗迦麻邇(とかまに)佐和多流久毘(さわたるくび)比波煩曽(ひはぼそ)ひさかたの天(あめ)の香具山(かぐやま)とかまにさ渡る鵠(くび)ひほぼそ(万葉集)、

と、

天(あま・あめ)、

にかかり、さらに、主に上代(奈良時代)に、

妹(いも)が門(かど)行き過ぎかねつ久方乃(ひさかたノ)雨も降らぬか其(そ)を因(よし)にせむ(万葉集)、

と、

天(あめ)、

と同音の、

雨、

にかかり、中古以降に。

ひさかたのそらに心の出づといへば影はそこにもとまるべきかな(蜻蛉日記)、

と、

天、

と類義の、

空、

にかかり、さらに、

久方乃(ひさかたノ)月夜を清み梅の花心ひらけて吾が思(も)へる君(万葉集)、

と、天空にあるものとしての、

月、
また
月夜、

にかかるに至る。その用例から転じて、

ひさかたのつきげそこより渡るとも天(あま)のかはらげ影とどめてむ(康保三年順馬毛名歌合)、

と、

時間としての「月」や色の名「月毛」、

にかかり、さらに、

久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(古今和歌集)、

と、天空にあるものとして、天体の、

日、

に、天体に関係あるものとして、

光、

にかかり、転じて、時間としての「日」、「日」と同音を含む語や「昼」にもかかる。さらに、天空に関係のあるものとして、

久方の雲の上にて見る菊は天つ星とぞあやまたれける(古今和歌集)、

と、

雲、
雪、
霰(あられ)、

にかかり、どんどん広がって、天上のものとして、

ひさかたの岩戸の関もあけなくに夜半に吹きしく秋の初風(曾丹集)、

と、

岩戸、
織女(たなばたつめ)、

などにかかり、さらには、月の中の、

ひさかたの桂にかくるあふひ草空の光にいくよなるらん(新勅撰和歌集)、

と、月の中に桂(かつら)の木があるという伝説から、

桂、

および、それと同音の地名「桂」にかかり、

久堅之(ひさかたの)都を置きて草枕旅ゆく君を何時とか待たむ(万葉集)、

と、

都、

にかかる(精選版日本国語大辞典・大言海)。

最後は、天(あま)、空、月などにかかるところから、

久方のなかにおひたる里なれば光をのみぞたのむべらなる(古今和歌集)、

と、

天、
空、
月、

そのものの意でも使うに至る(岩波古語辞典)。

「久」.gif

(「久」 https://kakijun.jp/page/0309200.htmlより)


「镹」.gif



「乆」.gif


「久」(漢音キュウ、呉音ク)は、

会意。背の曲がった老人と、その背の所に、引っ張るしるしを加えたもので、曲がって長いの意も含む。灸(キュウ もぐさで長い間火を燃やす)、柩(キュウ 長い間死体を保存するひつぎ)の字の音符となる、

とある(漢字源)。「镹」「乆」は異字体とある(仝上・漢辞海)。別に、

不詳。一説に、「氒」の略体に由来する。『説文解字』では灸を当てている人のさまを象ると分析されているが、信頼できる記述ではない(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B9%85)

指事。人と、乀(後ろから引き止めるさまを示す)とから成る。とまる、おくれる、ひいて「ひさしい」意を表す(角川新字源)、

象形文字です。「病気で横たわる人の背後から灸をすえる」象形から、灸の意味を表しましたが、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「時間が長い」、「ひさしい」を意味する「久」という漢字が成り立ちました(久は灸の原字です)https://okjiten.jp/kanji883.html

と、異説がある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

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2024年07月17日

騂弓(せいきゅう)


三戍漁陽再度遼(三たび漁陽(ぎょよう)を戍(まも)って再び遼(りょう)を度(わた)る)
騂弓在臂箭橫腰(騂弓(せいきゅう)は臂(ひじ)に在り 剣(つるぎ)は腰に横たわる)
匈奴似欲知名姓(匈奴は名姓(めいせい)を知れるが若(ごと)きに似たり)
休傍陰山更射鵰(陰山(いんざん)に傍(そう)て更に鵰(ちょう)を射るを休(や)めよ)(張仲素・塞下曲一)

の、

騂弓、

は、

正しく張った弓、

の意(前野直彬注解『唐詩選』)とあるが、

調子よく張った弓、一説に赤色をいう、

ともあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen422.html

「詩経」小雅・角弓の詩に、

騂騂角弓、翩其反矣(騂騂(せいせい)たる角弓(かくきゅう)は、翩(へん)として其(それ)反(はん)す)

とあるのにもとづく(仝上・前野直彬注解『唐詩選』)。

「騂」.gif


騂弓、

を、

赤い弓、

とするのは、

「騂」(漢音セイ、呉音ショウ)は、

形声。「馬+音符辛(シン)」、あるいは辛(刃物で切る)と同系で、切った血のように赤い意か、

とあり(漢字源)、

あかうま、
やや黄色がかったあかい毛色の馬、

の意で、

騂顔(せいがん)、

というと、

渉筆騂我顔((公文書を書いては)我が顔を騂(あこ)うす)、

と、

顔を赤らめる、

意であるからと思われる。

騂騂(せいせい)、

というと、

弓の調子のいいさま(漢字源)、
弓の工合よく調和させる(字源)、

をいうとあるので、「赤い」という意味は消えているかもしれない。

射鵰、

の、

鵰、

は、

わし、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)が、

おおわし、

とあり(字源・漢字源)、

タカ科の大形の猛禽の総称、

ともある(漢辞海)が、

青鵰最俊者、謂之海東青(張融・海賦)、

と、

くまたか、胡地に産する鷲鳥の一。両翼を張れば八九尺に至る。全体羽毛暗褐色、頸後暗赤色、嘴は強大にして鉤の如く曲がり、性鷹よりも猛く、よく犬羊を捕え食う、

とある(字源)。

「鵰」.gif



「雕」.gif

(「雕」 https://kakijun.jp/page/E8B8200.htmlより)

「鵰」(チョウ)は、

会意兼形声。「鳥+音符周(全体にいきわたる)」。全身に羽毛が生えていること、あるいは、全身に力がいきわたることからきた名称、

とある(漢字源)。「鵰」の異字体https://kanji.jitenon.jp/kanjio/7170.html

「雕」(チョウ)は、

中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、

形声。「隹(とり)+音符周」、

とある(漢辞海)。

射鵰、

の詩句は、

漢の飛将軍李広が匈奴の鵰を射る射手と遭遇し、大激戦を演じた故事を指す、

とする説、

北斉の将軍斛律光(こくりっこう)が大鵰を射落として弓の上手とうたわれた故事にもとづく、

とする説があり、

匈奴似欲知名姓
休傍陰山更射鵰

の意味も、

匈奴に向かい、鵰を射てまわるような勝手な振舞いをするな、

と解する説、

こちらが鵰を射ると、武芸のほどか敵に知られて警戒されるから、やめるように、

とする説とにわかれるといい、この注釈者は、後者を採り、

全体に李広の故事から発想されたもの、

と見ておく、としている(前野直彬注解『唐詩選』)。『史記』李広伝には、

匈奴大入上郡。天子使中貴人從廣勒習兵擊匈奴。中貴人將騎數十縱、見匈奴三人、與戰。三人還射、傷中貴人、殺其騎且盡。中貴人走廣。廣曰、是必射雕者也。廣乃遂從百騎往馳三人。三人亡馬歩行、行數十里。廣令其騎張左右翼、而廣身自射彼三人者、殺其二人、生得一人。果匈奴射雕者也(匈奴大いに上郡に入る。天子、中貴人(ちゅうきじん)をして広に従い勒(ろく)して兵を習い匈奴を撃たしむ。中貴人、騎数十を将(ひき)いて縦(しょう)し、匈奴三人を見るや、与に戦う。三人還り射て、中貴人を傷つけ、其の騎を殺して且(まさ)に尽きんとす。中貴人、広に走る。広曰く、是れ必ず射雕者(せきちょうしゃ)ならん、と。広乃ち遂に百騎を従え往きて三人に馳(は)す。三人、馬を亡(うしな)い歩行し、行くこと数十里。広、其の騎をして左右の翼(よく)を張らしめ、而うして広身自(みみずか)ら彼の三人の者を射て、其の二人を殺し、一人を生得(せいとく)す。果たして匈奴の射雕者(せきちょうしや)なり)、

とあるので、

漢の将軍李広が匈奴を征伐したとき、鵰を射る名手と遭遇し、二人を殺し一人を生け捕りにした、

という故事を踏まえるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen422.htmlというのが正確かもしれない。

李広将軍については、「桃李蹊」、「禿筆」(とくひつ)で触れた。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
簡野道明『字源』(角川書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
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2024年07月18日

劉郎(りゅうろう)


紫陌紅塵拂面來(紫陌(しはく)の紅塵(こうじん) 面を払って来(きた)る)
無人不道看花回(人の花を看て回(かえ)ると道(い)わざるは無し)
玄都觀裏桃千樹(玄都(げんと)観裏(かんり) 桃千樹)
盡是劉郎去後栽(尽(ことごと)く是れ劉郎(りゅうろう)去って後(のち)に栽(う)えしなり)(劉禹錫(りゅう うしゃく)・元和十一年自朗州至京戯贈看花諸君子)

の、

劉郎、

は、「志怪小説」『幽明録』(宋)に、

漢の明帝の永平五年、剡県(せんけん)の劉晨・阮肇、共に天台山に入り穀皮を取り、迷いて返ることを得ず、十三日を経て、糧食乏尽し、饑餒(きだい)して殆ど死せんとす。遥かに山上を望むに一桃樹有りて、大いに子実有り。而るに絶巌(ぜつがん)邃澗(すいかん)ありて、永く登路無し。藤葛を攀援(はんえん)し、乃ち上に至るを得たり。各〻数枚を啖(くら)いて、饑(うえ)止み体充つ。復た山を下り、杯を持ちて水を取り、盥漱(かんそう)せんと欲するに、蕪菁(ぶせい)の葉の山腹より流出するを見る。甚だ鮮新たり。復た一の杯流出し、胡麻飯の糝(つぶ)有り、相謂いて曰く、此れ人の径(みち)を去ること遠からざるを知る、と。便ち共に水に没し、流れに逆いて二三里にして、山を度(わた)りて一大渓に出ずるを得たり。渓辺に二女子有り、姿質妙絶なり。二人の杯を持ちて出ずるを見て、便ち笑いて曰く、劉・阮二郎、向(さき)に流れに失いし所の杯を捉りて来る、と。晨・肇既に之を識らざるも、二女の便ち其の姓を呼ぶや、旧有るに似たるが如きに縁りて、乃ち相見て忻喜す。問う、来ること何ぞ晩(おそ)きや、と。因りて邀(むか)えて家に還る。其の家は銅の瓦屋にして、南壁及び東壁の下に各〻一大床有り。皆絳(あか)き羅帳を施し、帳角に鈴を懸け、金銀交錯す。床頭に各〻十侍婢有り。勅して云う、劉・阮二郎、山岨を経渉し、向(さき)に瓊実を得と雖も、猶尚(なお)虚弊す。速やかに食を作る可し、と。胡麻の飯、山羊の脯、牛肉を食らう。甚だ甘美なり。食畢わりて酒を行う。一群の女の来る有り。各〻五三の桃子を持ち、笑いて言う、汝の婿の来るを賀す、と。酒酣たけなわにして楽を作なす。劉・阮忻怖交〻(こもごも)并(あわ)さる。暮に至りて、各〻をして一帳に就きて宿せしむ。女も往きて之に就き、言声清婉にして、人をして憂いを忘れしむ。十日の後に至り、還り去らんことを求めんと欲す。女云う、君の已に是に来るは、宿福の牽く所なり。何ぞ復た還らんと欲するや、と。遂に停まること半年なり。気候草木は是れ春時、百鳥啼鳴するも、更に悲思を懐き、帰らんことを求むること甚だ苦しきりなり。女曰く、罪君を牽く。当に如何ともす可けんや、と。遂に前に来りし女子を呼ぶに、三四十人有り。集まり会して楽を奏し、共に劉・阮を送り、還る路を指示す。既に出ずるや、親旧零落し、邑屋改異し、復た相識るもの無し。問訊して七世の孫を得たり。伝え聞く、上世山に入り、迷いて帰るを得ずと。晋の太元八年に至り、忽ち復た去り、何れの所なるかを知らず、

とある、

昔、劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)という二人の男が薬を採りに天台山に入り、道に迷って桃の実を食べ、二人の仙女に出逢った。二人は迎えられて、それぞれ仙女と夫婦になって暮らした。そのうち家が恋しくなって別れて帰ったところ、知っている人は皆亡くなっており、そこには七代目の子孫が住んでいた、

という故事をふまえ(https://kanbun.info/syubu/toushisen416.html・前野直彬注解『唐詩選』)、

作者の姓(劉)とを掛けて言ったもの、

とあり(仝上)、

劉郎、

は、

遊女におぼれて夢中になっている男、
放蕩者、

の意で使われる(広辞苑)。

郎、

は、

妻が夫を呼ぶ言葉、

で、転じて、

男子を呼ぶ美称、

とあり、自分で郎の字を使ったところに、詩題の、

元和十一年自朗州至京戯贈看花諸君子(元和十一年(816)、朗州自(よ)り京(けい)に至り、戯(たわむ)れに花を看る諸君子に贈る)、

という、

ふざけた気持ち、

を表しているhttps://kanbun.info/syubu/toushisen416.html)とある。

劉禹錫.jpg

(劉禹錫(『晩笑堂竹荘畫傳』より) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%A6%B9%E9%8C%ABより)

作者は、この年、配所の朗州から都へ呼び返され、このとき、都の玄都観(道教の寺)に道士が「仙桃」を植え、その美しさは「紅霞」のごとくであると評判が立ったので、戯れにこの詩をつくり、花見に行く友人に贈った、

という(前野直彬注解『唐詩選』)。ただ、この詩が世間に伝わると、

作者は自分が都を追われたあと、新しい権力者たちが世に栄えるようになったことを、桃の花にたとえ、不満の意を表した、

と言いふらすものが現れ、また連州へ追われた(仝上)という。『本事詩』(孟棨)に、

劉尚書、屯田(とんでん)員外(いんがい)より郎州司馬に左遷せらる。凡およそ十年にして始めて徴(め)し還(かえ)さる。春に方あたりて、花を看る諸君子に贈る詩を作りて曰く、……其の詩一たび出でて都下に伝わる。素より其の名を嫉む者有り、執政に白(もう)し、又其の怨憤(えんふん)有るを誣(し)う。他日、時宰(じさい)に見(まみ)え与(とも)に坐す。慰問すること甚だ厚し。既に辞す。即ち曰く、近者(ちかごろ)の新詩、未だ累を為すを免(まぬか)れず、奈何(いかん)と。数日ならずして出でて連州刺史たり、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen416.html。作者は十数年後にまた都へ戻り、玄都観を訪ね、昔をしのんで、七言絶句(「再び玄都觀に遊ぶ」)をつくった、

百畝庭中半是苔(百畝の庭中 半ばは是れ苔)
桃花淨盡菜花開(桃花は浄(ち)り尽くして菜花開く)
種桃道士今何歸(桃を種えし道士は何処にか帰る)
前度劉郞今又來(前度の劉郎は今又来たる)

の、結句の、

前度の劉郎は今又来たる、

から、

元の土地や地位に舞い戻る、

意の、

前度劉郎、

という諺が出来た(前野直彬注解『唐詩選』)とある。

「劉」.gif


「劉」(漢音リュウ、呉音ル)は、

会意兼形声。「金+刀+音符卯(リュウ ひらく、はなす)」で、刀でばらばらに切り開くこと、

とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8A%89)。別に、

会意形声。刀と、金(金属)と、丣(バウ)→(リウ)(=卯。は変わった形。ころす)とから成る。「ころす」意を表す、

とも(角川新字源)、

会意兼形声文字です(卯(丣)+金+刀(刂))。「同じ形のものを左右対称においた」象形と「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土中に含まれる「金属」の意味)と「鋭い刃物」の象形から、「鋭い刃物で2つに切る」、「殺す」を意味する「劉」という漢字が成り立ちました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji2374.htmlある。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
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2024年07月19日

日本的感性のモデル


前野直彬注解『唐詩選』を読む。

唐詩選上.jpg


唐詩選は、

五言古詩14首、
七言古詩32種、
五言律詩7首、
五言背律40首、
七言律詩73首、
五言絶句74首、
七言絶句165首、

の、計465首を選んでいる。しかし、

偽書、

とされる。編者の、

李攀竜、

ではなく、彼の名を騙った真っ赤な偽物、とされる。にもかかわらず、日本では、江戸時代の、

荻生徂徠、

の評価によって、中国では、

寺子屋の教科書、

にまで墜ちた本書が、

門人に詩を教える際の教科書、

とされ、中国にない大流行をし、

唐詩、

ひいては中国詩への入門書としての役割を果たしている(前野直彬・解題)とある。そこで、漢詩の門外漢なので、自分の琴線に触れた、ほんの断片、フレーズを、注解者の訓み下し文で、拾い上げてみた。

高橋睦郎『漢詩百首』で触れたことだが、漢詩を通して、日本人的といわれる感性が育てられてきたところがある。その意味では、育てられた(日本的)感性から選んだ、(その感性の)祖型探索のきらいがなくもない。


孤生易爲感(孤生 感を為し易く)
失路少所宜(失路 宜しき所を少(か)く)
索寞竟何事(索莫 竟(つい)に何をか事とせん)
徘徊祇自知(徘徊 祇(た)だ自(みず)から知るのみ)
誰爲後來者(誰か後来の者と為(な)り)
當與此心期(当(まさ)に此の心と期すべき)(柳宗元・南礀中題)


杪冬正三五(杪冬(びょうとう 十二月) 正に三五)
日月遙相望(日月遥かに相望む)
肅肅過潁上(粛粛として潁上(えいじょう)を過ぎれば)
朧朧辨少陽(朧朧として夕陽(せきよう)を弁ず)(崔曙・早發交崖山還太室作)


洛陽城東桃李花(洛陽城東 桃李(とうり)の花)
飛來飛去落誰家(飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落(お)つる)
洛陽女兒好顏色(洛陽の女児 顔色好し)
行逢落花長歎息(行くゆく落花に逢(お)うて長歎息(ちょうたんそく)す)
今年花落顏色改(今年(こんねん)花落ちて顔色改まり)
明年花開復誰在(明年(みょうねん)花開くも復(ま)た誰(たれ)か在(あ)る)
已見松柏摧爲薪(已(すで)に見る 松柏摧(くだ)けて薪(たきぎ)と為(な)るを)
更聞桑田變成海(更に聞く 桑田(そうでん)の変じて海と成るを)
古人無復洛城東(古人復(ま)た洛城の東に無く)
今人還對落花風(今人(こんじん)還(ま)た対す 落花の風)
年年歳歳花相似(年年歳歳 花相似たり)
歳歳年年人不同(歳歳年年 人同じからず)
寄言全盛紅顏子(言(げん)を寄(よ)す 全盛の紅顔の子)
應憐半死白頭翁(応(まさ)に憐むべし 半死の白頭翁(はくとうおう))(劉廷芝・代悲白頭翁)


今年人日空相憶(今年(こんねん)の人日(じんじつ) 空しく相憶(おも)う)
明年人日知何處(明年(みょうねん)の人日(じんじつ) 知(し)んぬ何(いず)れの処(ところ)ぞ)
一臥東山三十春(一たび東山に臥して三十春(しゅん))
豈知書劍老風塵(豈(あに)知らんや 書剣の風塵に老いんとは)(高適・人日寄杜二拾遺)


今年花似去年好(今年(こんねん)の花は去年(きょねん)に似て好(よ)し)
去年人到今年老(去年の人は今年に到たりて老ゆ)
始知人老不如花(初めて知る 人は老いて花に如かざるを)
可惜落花君莫掃(惜おしむ可し 落花 君掃(はら)うこと莫(な)かれ)(岑参・韋員外家花樹歌


江天一色無繊塵(江天一色 繊塵無く)
皎皎空中孤月輪(皎皎として空中に月輪孤なり)
江畔何人初見月(江畔 何人か初めて月を見し)
江月何年初照人(江月 何年か初めて人人を照らせる)
人生代代無窮已(人生代代 窮已(きゅうい)する無く)
江月年年祇相似(江月年年 祇(た)だ相似(あいに)たり)
不知江月待何人(知らず 江月(こうげつ) 何人をか待つ)
但見長江送流水(但(た)だ見る 長江の流水を送るを)
(中略)
江水流春去欲盡(江水 春を流して去って盡きんと欲し)
江潭落月復西斜(江潭の落月 復た西斜せり)
斜月沈沈蔵海霧(斜月沈沈として海霧に蔵(かく)る)
楬石瀟湘無限路(楬石(かっせき) 瀟湘(しょうしょう) 無限の路(みち))
不知乗月幾人帰(知らず 月に乗じて幾人か帰る)
落月揺情満江樹(落月 情を揺るがして江樹に満つ)(張若虚・春江花月夜)


且論三萬六千是(且(しば)らく論ぜん 三萬六千の是なるを)
寧知四十九年非(寧(いずく)んぞ知らん 四十九年の非なるを)
古来名利若浮雲(古来 名利は浮雲(ふうん)の若(ごと)く)
人生倚伏信難分(人生の倚伏(いふく)信(まこと)に分ち難く)
(中略)
相顧百齢皆有待(相顧みるに百齢皆待つ有り)
居然萬化咸應改(居然として萬化咸(みな)應(まさ)に改(あらた)まるべし)
(中略)
春去春來苦自馳(春去り春來るも苦(ねんご)ろに自(みずか)ら馳せ)
争名争利徒爾為(名を争い利を争って徒らに爾為(しかな)す)(駱賓王・帝京篇)


樹樹皆秋色(樹樹(じゅじゅ) 皆秋色)
山山惟落暉(山山(さんさん) 惟(た)だ落暉)(王績・野望)


雲霞出海曙(雲霞 海を出でて曙(あ)け)
梅柳渡江春(梅柳 江(こう)を渡り春なり)
淑氣催黄鳥(淑氣 黄鳥(こうちょう ウグイス)を催(うなが)し)
晴光轉緑蘋(晴光 緑蘋(りょくひん)に轉ず)(杜審言・和晋陵陸丞早春遊望)


暫将弓竝曲(暫(しばら)く弓と竝(とも)に曲りしも)
翻與扇倶團(翻(かえり)て扇と倶(とも)に團(まど)かなり)
露濯清輝苦(露は清輝(せいき)を濯(あら)いて苦(さ)え)
風飄素影寒(風は素影(そえい)を飄(ひるがえ)して寒し)(杜審言・和晋陵陸丞早春遊望)


往来皆此路(往来 皆此の路なるに)
生死不同歸(生死 歸るを同(とも)にせず)(張説(ちょうえつ)・還至端州駅前与高六別処)


升沈應已定(升沈 應(まさ)に已(すで)に定まれるべし)
不必問君平(君平に問うを必せじ)(李白・送友人入燭)


八月湖水平(八月 湖水平かなり)
涵虛混太清(虛を涵(ひた)して太清(たせい)に混ず)(孟浩然・臨洞庭上張丞相)


白髪老閒事(白髪 閒事(かんじ)に老い)
青雲在目前(青雲 目前に在り)(高適・酔後贈張九旭)


竹批雙耳峻(竹批(そ)ぎて雙耳峻(さか)しく)
風入四蹄輕(風入りて四蹄輕(かろ)し)
所向無空闊(向かう所空闊(くうかつ)無し)
真堪託死生(真に死生を託すに堪えたり)(杜甫・房兵曹胡馬)


飄飄何所似(飄飄(ひょうひょう) 何の似たる所ぞ)
天地一沙鷗(天地の一沙鷗)(杜甫・旅夜書懷)


清晨入古寺(清晨 古寺(こじ)に入(い)れば)
初日照高林(初日 高林(こうりん)を照らす)
竹徑通幽處(竹徑 幽處(ゆうしょ)に通じ)
禪房花木深(禪房 花木深し)
山光悦鳥性(山光 鳥の性(さが)を悦(よろこ)ばしめ)
潭影空人心(潭影 人の心を空しゅうす)
萬籟此倶寂(萬籟(ばんらい) 此(ここ)に倶に寂(じゃく)たり)
惟聞鐘聲音(惟だ鐘聲の音を聞くのみ)(常建・破山寺後禅院)


山色遠含空(山色 遠く空を含む)
蒼茫澤國東(蒼茫たり 澤國の東)
海明先見日(海は明けて先ず日を見る)
江白迴聞風(江は白くして迴(はる)かに風を聞く)
鳥道高原去(鳥道 高原に去り)
人烟小徑通(人烟 小徑(しょうけい)通ず)(張祜・題松汀駅)


路自中峰上(路(みち)は中峰(ちゅうほう)自(よ)り上り)
盤囘出薜蘿(盤囘して薜蘿(へいら)を出ず)
到江呉地盡(江に到りて呉地盡き)
隔岸越山多(岸を隔てて越山多し)
古木叢青靄(古木 青靄(せいあい)に叢(むらが)り)
遥天浸白波(遥天(ようてん) 白波を浸す)(釋処黙・聖果寺)


巻幔天河入(幔(とばり)を巻けば天河入り)
開窓月露微(窓を開けば月露微(び)なり)
小池殘暑退(小池(しょうち) 残暑退き)
高樹早涼歸(高樹(こうじゅ) 早涼(そうりょう)帰る)(沈佺期(ちんせんき)・酬蘇員外味道夏晩寓直省中見贈)


萬壑樹聲満(萬壑(まんがく) 樹聲満ち)
千崖秋気高(千崖(せんがい) 秋気高し)
浮舟出郡郭(浮舟 郡郭出で)
別酒寄江濤(別酒 江濤に寄す)
良會不復久(良會 復(ま)た久しからず)
此生何太勞(此生 何ぞ太(はなは)だ勞する)
窮愁但有骨(窮愁 但(た)だ骨のみ有りて)
群盗尚如毛(群盗 尚お毛の如し)
吾舅惜分手(吾舅(きゅう) 手を分つを惜しみ)
使君寒贈袍(使君(しくん) 寒に袍(ほう)を贈る)
沙頭暮黄鶴(沙頭 暮(くれ)の黄鶴(こうかく))
失侶亦哀號(侶を失いて亦た哀號(あいごう)す)(杜甫・王閬(おうろう)州筵奉酬十一舅惜別之作)


世路雖多梗(世路 梗(ふさ)ぐこと多しと雖も)
吾生亦有涯(吾生 亦涯(かぎ)り有り)
此身醒復醉(此身 醒め復た醉う)
乗興卽為家(興に乗じては即ち家と為さん)(杜甫・春歸)


白波吹粉壁(白波(はくは) 粉壁(ふんぺき)を吹き)
青嶂雕梁挿(青嶂(せいしょう) 雕梁(ちょうりょう)に挿(さしはさ)む)
直訝杉松冷(直(た)だ訝(いぶか)る 杉松(さんしょう)の冷やかなるを)
兼疑菱荇香(兼ねて疑う 菱荇(りょうこう)の香るを)
雪雲虚點綴(雪雲(せつうん) 虚しく點綴(てんてつ)し)
沙草得微茫(沙草(さそう) 微茫(びぼう)たるを得たり)
嶺雁随毫末(嶺雁(れいがん)は毫末(ごうまつ)に随い)
川霓飲練光(川霓(せんげい)は練光(れんこう)を飲む)
霏紅洲蕊亂(紅を霏(ち)らせば洲蕊(しゅうずい)は亂れ)
拂黛石蘿長(黛(たい)を払えば石蘿(せきら)は長し)(杜甫・奉観嚴鄭公庁事岷山沲江画図十韻)


亭高出鳥外(亭高くして鳥外に出で)
客到與雲斉(客到れば雲と斉(ひと)し)
樹點千家小(樹(き)は点じて千家小さく)
天圍萬嶺低(天は囲みて万嶺低し)
残虹挂陜北(残虹 陜北(せんぼく)に挂(かか)り)
急雨過關西(急雨 関西を過(よぎ)る)(岑參・早秋与諸子登虢州西亭観眺)


昔人已乗白雲去(昔人(せきじん)已に白雲に乗じて去り)
此地空余黄鶴楼(此の地空しく余す 黄鶴楼)
黄鶴一去不復返(黄鶴(こうかく)一たび去って復た返らず)
白雲千載空悠悠(白雲千載 空しく悠悠たり)
晴川歴歴漢陽樹(晴川(せいせん)歴歴たり漢陽の樹)
芳草萋萋鸚鵡洲(芳草(ほうそう)萋萋(せいせい)たり鸚鵡(おうむ)洲)
日暮郷関何処是(日暮(にちぼ) 郷関 何れの処か是なる)
煙波江上使人愁(煙波(えんぱ) 江上 人をして愁(うれ)えしむ)(崔顥(さいこう)・黄鶴楼)


高館張燈酒復清(高館燈を張り 酒復た清し)
夜鐘残月雁歸聲(夜鐘(やしょう)残月 雁歸る聲)
只言啼鳥堪求侶(只だ言う 啼鳥(ていちょう)の侶(とも)を求むるに堪えたりと)
無那春風欲送行(那(いか)んともする無し 春風の行(こう)を送らんと欲するを)(高適・夜別韋司士得城字)


到來函谷愁中月(到り来たれば 函谷 愁中(しゅうちゅう)の月)
歸去磻谿夢裏山(帰り去らば 磻谿(はんけい) 夢裏(むり)の山)
簾前春色應須惜(簾前(れんぜん)の春色 応(まさ)に須(すべか)らく惜しむべし)
世上浮名好是閒(世上の浮名(ふめい) 好く是れ閒(かん)なり)(岑參・暮春虢(かく)州東亭送李司馬歸扶風別廬)


年年喜見山長在(年年喜んで見る 山の長(つね)に在るを)
日日悲看水獨流(日日(にちにち)悲しんで看る 水の獨り流るるを)(王昌齢・万歳楼)


玉露凋傷楓樹林(玉露凋傷(ちょうしょう)す楓樹(ふうじゅ)の林)
巫山巫峽氣蕭森(巫山巫峽 氣 蕭森(しょうしん))
江間波浪兼天湧(江間の波浪 天を兼ねて湧き)
塞上風雲接地陰(塞上の風雲 地に接して陰る)
叢菊兩開他日涙(叢菊(そうきく)兩(ふた)たび開く 他日の涙)
孤舟一繋故園心(孤舟一(ひと)えにに繋ぐ 故園の心)
寒衣處處催刀尺(寒衣 處處 刀尺(とうせき)を催(うなが)す)
白帝城高急暮砧(白帝 城高くして暮砧(ぼてい)急(きゅう)なり)(杜甫・秋興)


吹笛秋山風月淸(笛を吹く 秋山 風月の清きに)
誰家功作斷腸聲(誰家(たれ)か功みに作(な)す 断腸の声)
風飄律呂相和切(風は律呂(りつりょ)を飄(ひるがえ)して相和(あいわ)すること切に)
月傍關山幾処明(月は関山に傍(そ)うて幾処(いくしょ)か明らかなる)
胡騎中宵堪北走(胡騎(こき) 中宵(ちゅうしょう) 北走するに堪(た)えたり)
武陵一曲想南征(武陵(ぶりょう)の一曲 南征(なんせい)を想う)
故園楊柳今揺落(故園の楊柳(ようりゅう) 今揺落(ようらく)す)
何得愁中卻盡生(何ぞ愁中(しゅうちゅう)に卻(かえ)って尽(ことごと)く生ずるを得し)(杜甫・吹笛)


歳暮陰陽催短景(歳暮(さいぼ) 陰陽(いんよう) 短景(たんけい)を催し)
天涯霜雪霽寒宵(天涯(てんがい)の霜雪(そうせつ) 寒宵(かんしょう)に霽(は)る)
五更鼓角聲悲壯(五更の鼓角(こかく) 声悲壮)
三峽星河影動搖(三峡の星河(せいか) 影動揺)(杜甫・閣夜)


楚王宮北正黄昏(楚王宮北(そおうきゅうほく) 正に黄昏(こうこん))
白帝城西過雨痕(白帝城西(はくていじょうせい) 過雨(かう)の痕)
返照入江翻石壁(返照(はんしょう)は江(こう)に入(い)って石壁に翻(ひるがえ)り)
歸雲擁樹失山村(帰雲(きうん)は樹(き)を擁して山村(さんそん)を失う)(杜甫・反照)


風急天高猿嘯哀(風は急に天は高くして猿嘯(えんしょう)哀(かな)し)
渚清沙白鳥飛廻(渚は清く沙(すな)は白くして鳥飛び廻(めぐ)る)
無邊落木蕭蕭下(無辺の落木(らくぼく) 蕭蕭(しょうしょう)として下(お)ち)
不盡長江滾滾來(不尽(ふじん)の長江 滾滾(こんこん)として来(きた)る)(杜甫・登高)


夾水蒼山路向東(水を夾(さしはさ)む蒼山 路(みち)東に向い)
東南山豁大河通(東南 山豁(ひら)けて大河通ず)
寒樹依微遠天外(寒樹依微(いび)たり 遠天(えんてん)の外)
夕陽明滅亂流中(夕陽(せきよう)明滅す 亂流の中)
孤村幾歳臨伊岸(孤村幾歳(いくとせ)か伊岸(いがん)に臨む)
一雁初晴下朔風(一雁初めて晴れて朔風(さくふう)に下る)
爲報洛橋遊宦侶(爲(ため)に報ぜよ 洛橋(らくきにょう)遊宦(ゆうかん)の侶(とも))
扁舟不繫與心同(扁舟繫がず 心と同じ)(韋応物・自鞏洛舟行入黄河即事寄府県僚友)


東風吹雨過青山(東風 雨を吹いて青山を過ぐ)
郤望千門草色閑(郤(かえ)って千門を望めば草色閑(かん)なり)
家在夢中何日到(家は夢中在って何(いず)れの日にか到らん)
春來江上幾人還(春は江上に来たって幾人か還(かえ)る)
川原繚繞浮雲外(川原(せんげん)繚繞(りょうじょう)たり 浮雲(ふうん)の外)
宮闕參差落照間(宮闕參差(しんし)たり 落照(らくしょう)の間(かん))
誰念爲儒逢世難(誰か念(おも)わん儒と為(な)りて世難(せいなん)に遇い)
獨將衰鬢客秦關(獨り衰鬢(すいびん)を將(もっ)て秦關に客(かく)たらんとは)(蘆綸・長安春望)


宿昔青雲志(宿昔(しゅくせき) 青雲の志)
蹉跎白髪年(蹉跎(さた)たり 白髪の年)
誰知明鏡裏(誰か知らん 明鏡の裏)
形影自相憐(形影(けいえい) 自ら相憐まんとは)(張九齢・照鏡見白髪)


春眠不覺曉(春眠 暁を覚えず)
處處聞啼鳥(処々に啼鳥(ていちょう)を聞く)
夜來風雨聲(夜来 風の声)
花落知多少(花落つること知んぬ多少ぞ)(孟浩然・春暁)


渭水東流去(渭水東流し去る)
何時到雍州(何れの時か雍州に到らん)
憑添兩行淚(憑(たの)むらくは両行の涙を添え)
寄向故園流(寄せて故園に向かって流さんことを)(岑参・見渭水思秦川)


白日依山盡(白日 山に依って尽き)
黄河入海流(黄河 海に入って流る)
欲窮千里目(千里の目を窮(きわ)めんと欲し)
更上一層樓(更に上る 一層の楼)(王之渙・登鸛鵲樓)


終南陰嶺秀(終南 陰嶺秀(ひい)で)
積雪浮雲端(積雪 雲端に浮かぶ)
林表明霽色(林表(りんぴょう) 霽色(せいしょく)明らかに)
城中増暮寒(城中 暮寒(ぼかん)を増す)(祖詠・終南望余雪)


故園眇何處(故園 眇(びょう)として何処(いずこ)ぞ)
歸思方悠哉(帰思(きし) 方(まさ)に悠(ゆう)なるかな)
淮南秋雨夜(淮南(わいなん) 秋雨(しゅうう)の夜)
高齋聞雁來(高斎(こうさい) 雁の来(きた)るを聞く)(韋応物・聞雁)


返照入閭巷(返照(はんしょう) 閭巷(りょこう)に入(い)る)
憂來誰共語(憂え来たるも 誰(たれ)と共にか語らん)
古道少人行(古道 人の行くこと少(まれ)に)
秋風動禾黍(秋風 禾黍(かしょ)を動かす)(耿湋(こうい)・秋日)


何處秋風至(何処(いずく)よりか秋風至る)
蕭蕭送雁羣(蕭蕭(しょうしょう)として雁群(がんぐん)を送る)
朝來入庭樹(朝来(ちょうらい) 庭樹(ていじゅ)に入るを)
孤客最先聞(孤客(こかく) 最も先んじて聞く)(劉禹錫・秋風引)


醉別江樓橘柚香(酔うて江楼(こうろう)に別れんとすれば橘柚(きつゆう)香る)
江風引雨入舟涼(江風(こうふう)雨を引き 舟に入(い)って涼し)
憶君遙在湘山月(君を憶(おも)うて遥かに湘山(しょうざん)の月に在り)
愁聽清猿夢裏長(愁(うれ)えて聴かん 清猿(せいえん)の夢裏(むり)に長きを)(王昌齢・送別魏二)


千里黃雲白日曛(千里の黄雲(こううん) 白日曛(あわ)し)
北風吹雁雪紛紛(北風(ほくふう) 雁を吹いて雪紛紛(ふんぷん))
莫愁前路無知己(愁うる莫(な)かれ 前路 知己無きを)
天下誰人不識君(天下 誰人(たれびと)か君を識(し)らざらん)(高適・別董大)


宜陽城下草萋萋(宜陽(ぎよう)城下 草萋萋(せいせい))
澗水東流復向西(澗水(かんすい)東流(とうりゅう)し復た西に向う)
芳樹無人花自落(芳樹(ほうじゅ)人無く花自ずから落ち)
春山一路鳥空啼(春山(しゅんざん)一路 鳥空しく啼(な)く)(李華・春行寄興)


江春不肯畱行客(江春(こうしゅん)は肯(あえ)て行客(こうかく)を留(とど)めず)
草色靑靑送馬蹄(草色(そうしょく)青青(せいせい)として馬蹄(ばてい)を送る)(劉長卿・送李判官之潤州行営)


楚雲滄海思無窮(楚雲(そうん)滄海(そうかい) 思い窮(きわ)まらず)
數家砧杵秋山下(数家(すうか)の砧杵(ちんしょ) 秋山(しゅうざん)の下(もと))
一郡荊榛寒雨中(一郡の荊榛(けいしん) 寒雨(かんう)の中(うち))(韋応物・登楼寄王卿)


月落烏啼霜滿天(月落ち烏啼いて 霜天に満つ)
江楓漁火對愁眠(江楓(こうふう) 漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対す)
姑蘇城外寒山寺(姑蘇城外 寒山寺)
夜半鐘聲到客船(夜半の鐘声 客船(かくせん)に到る)(張継・楓橋夜泊)


亭亭孤月照行舟(亭亭(ていてい)たる孤月 行舟(こうしゅう)を照らし)
寂寂長江萬里流(寂寂(せきせき)たる長江 万里に流る)
郷里國不知何處是(郷国(きょうこく)は知らず 何処(いずく)にか是(これ)なる)
雲山漫漫使人愁(雲山(うんざん)漫漫 人をして愁えしむ)(張祜・胡渭州)


琪樹西風枕簟秋(琪樹(きじゅ)の西風(せいふう) 枕簟(ちんてん)秋なり)
楚雲湘水憶同遊(楚雲(そうん) 湘水(しょうすい) 同遊(どうゆう)を憶(おも)う)
高歌一曲掩明鏡(高歌(こうか)一曲 明鏡(めいきょう)を掩(おお)う)
昨日少年今白頭(昨日(さくじつ)の少年 今は白頭(はくとう))(許渾・秋思)


草遮囘磴絕鳴鸞(草は囘磴(かいとう)を遮って鳴鸞(めいらん)を絶つ)
雲樹深深碧殿寒(雲樹(うんじゅ)深深(しんしん)として碧殿(へきでん)寒し)
明月自來還自去(明月(めいげつ)自(おの)ずから来たり還(ま)た自から去る)
更無人倚玉欄干(更に人の玉欄干(ぎょくらんかん)に倚(よ)る無し)(崔魯・華清宮)


無定河邊暮笛聲(無定河(むていか)辺 暮笛(ぼてき)の声)
赫連臺畔旅人情(赫連台(かくれんだい)畔(はん) 旅人(りょじん)の情)
函關歸路千餘里(函関(かんかん)の帰路 千余里)
一夕秋風白髮生(一夕(いっせき) 秋風(しゅうふう) 白髪(はくはつ)生ず)(陳祐・雑詩)


孤城夕對戍樓閑(孤城 夕べに戍楼(じゅろう)に対して閑しず)かなり)
廻合靑冥萬仞山(廻合(かいごう)す 青冥(せいめい) 万仞(ばんじん)の山)
明鏡不須生白髮(明鏡 須(ま)たず 白髪生ぜしを)
風沙自解老紅顏(風沙(ふうさ) 自(みずか)ら解(かい)す 紅顔(こうがん)老ゆるを)(王烈・塞上曲二)


秋染棠梨葉半紅(秋は棠梨(とうり)を染めて葉は半ば紅 (くれない)に)
荊州東望草平空(荊州 東に望めば 草は空に平らかなり)
誰知孤宦天涯意(誰か知らん 天涯(てんがい)に孤宦(こかん)たるの意)
微雨瀟瀟古驛中(微雨(びう)瀟瀟(しょうしょう)たり 古駅(こえき)の中(うち))(王周・宿疎陂駅)


高橋睦郎(『漢詩百首』)はいう、

「日本語は、固有の大和言葉と外来の漢語・欧米語から成っている。とくに漢語の来歴は古く、大和言葉と分かちがたく、外来語と意識することがないまでに日本語の血肉となっている。」

と。例えば、敗戦時に多くの日本人の脳裏に浮かんだのは、

国破れて山河在り

という杜甫の漢詩の一行だったのではないか、という。この、

国破山河在
城春草木深

を、千数百年前のわれわれの祖先が、送り仮名や返り点を付けることで、日本語で読もうとした。そして、

国破れて山河在り
城春にして草木深し

と読んだ。だから、

「この驚異的な、あえていえばアクロバティックナ発明によって、漢詩という外国の詩はなかば日本の歌に、いや、ほとんど日本の歌になった。」

と。漢語を自家薬籠中のものとすることで、

「自分たち固有の文芸や詩歌を豊かにしていったわけです。…たとえば明治維新に欧米の文明を受け入れて自分のものにしたのも、かつて漢字を通して中国の文明を受け入れて血肉化した経験があったからでしょう。ついでにいえば、現在中国で使われている漢字熟語60パーセントが明治維新に欧米語を受け入れるに当たって日本人が作った和製漢語だとききました。」

というところへ至る。漢字へのそういう意識が、真名としての漢字に対して、漢字を借りることで作り出した、

かな、

を、

仮名

と呼ぶところに現れている。

「日本人は中国から文字の読み書きを教わると同時に、花鳥風月を賞でることも学んだ。花に関してはとくに梅を愛することを学んだが、そのうち自前の花が欲しくなり桜を賞でるようになった。梅に較べて桜は花期が短いので、いきおいはかなさの感覚が養われる。その成果が漢詩にも現れた典型」

として、島田忠臣の、

宿昔は猶し枯木のごとかりしに
迎晨一半紅
国香異(け)しこと有るを知り
凡樹同じきことなきを見たり(桜花を惜しむ)

を挙げる。これは、同時代の、

世のなかにたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

と歌う在原業平と同じ感性・心性の表現になっている、と。その意味では、血肉化した漢詩のマインドで、選んだ漢詩は、一種先祖返りなのかもしれない。

漢詩については、下定雅弘『精選 漢詩集』でも触れた。

唐詩選中.jpg


唐詩選下.jpg


参考文献;
前野直彬注解『唐詩選(全三冊)』(岩波文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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2024年07月20日

琪樹


琪樹西風枕簟秋(琪樹(きじゅ)の西風(せいふう) 枕簟(ちんてん)秋なり)
楚雲湘水憶同遊(楚雲(そうん) 湘水(しょうすい) 同遊(どうゆう)を憶(おも)う)
高歌一曲掩明鏡(高歌(こうか)一曲 明鏡(めいきょう)を掩(おお)う)
昨日少年今白頭(昨日(さくじつ)の少年 今は白頭(はくとう))(許渾・秋思)

の、

枕簟(ちんてん)、

は、

簟(てん)は竹を編んで作ったむしろ、夏にはこれを敷いて、その上に寝る。楚の地方では、ことに多く産したらしい。枕とあわせて、寝具を意味する、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。

琪樹(きじゅ)、

は、

崑崙山の北に生えると伝えられる、玉のなる木、

である(仝上)。ここでは、

庭前の樹木を、美しく言ったもの、

と注釈がある(仝上)。

琪樹、

の、

琪、

は、

玉(ぎょく)の名、

で、

琪樹、

は、

寶林寺有琪樹、在法堂前、即本草之南天燭(六朝事迹)、

と、

南天、

を指すらしいが、

珠樹、
玉樹、

に同じとあり(字源・https://kanbun.info/syubu/toushisen438.html)、

東方之美者、有醫無閭之珣玕琪焉(中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃)・釋地)、

とあり(字源)、

建木滅景於千尋(建木(けんぼく)景(かげ)を千尋(せんじん)に滅めし)
琪樹璀璨而垂珠(琪樹(きじゅ)璀璨(さいさん)として珠(たま)を垂る)(孫綽・遊天台山賦)

と詠われる(https://kanbun.info/syubu/toushisen438.html)

「琪」.gif


「琪」(漢音キ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。「玉+音符其(キ 四角い)、

とあり(漢字源)、

四角い玉、
形の整った玉、

の意である(仝上)。

珠樹玲瓏隔翠微(珠樹(しゅじゅ)玲瓏(れいろう)として翠微(すいび)を隔(へだ)つ)
病來方外事多違(病来(びょうらい) 方外(ほうがい) 事(こと)多く違(たが)えり)
仙山不屬分符客(仙山(せんざん)属せず 符(ふ)を分(わか)の客)
一任凌空錫杖飛(一えに任(まか)す 空(くう)を凌(しの)いで錫杖(しゃくじょう)の飛ぶに)(柳宗元・浩初上人見貽絶句欲登仙人山因以酬之)

の、

珠樹(しゅじゅ)、

も同義で、

中国の南にあるといわれる伝説的な木、

を指し、

葉はすべて真珠だという、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。『淮南子』墬形訓に、

闔四海之內、東西二萬八千里、南北二萬六千里、水道八千里、通穀其名川六百、陸徑三千里。禹乃使太章步自東極、至於西極、二億三萬三千五百里七十五步。使豎亥步自北極、至於南極、二億三萬三千五百里七十五步。凡鴻水淵藪、自三百仞以上、二億三萬三千五百五十裏、有九淵。禹乃以息土填洪水以為名山、掘昆侖虛以下地、中有增城九重、其高萬一千里百一十四步二尺六寸。上有木禾、其修五尋、珠樹、玉樹、琁樹、不死樹在其西、沙棠、琅玕在其東、絳樹在其南、碧樹、瑤樹在其北。旁有四百四十門、門間四裏、里間九純、純丈五尺。旁有九井玉橫、維其西北之隅、北門開以內不周之風、傾宮、旋室、縣圃、涼風、樊桐在昆侖閶闔之中、是其疏圃。疏圃之池、浸之黃水、黃水三周複其原、是謂丹水、飲之不死。河水出昆侖東北陬、貫渤海、入禹所導積石山、赤水出其東南陬、西南注南海丹澤之東。赤水之東、弱水出自窮石、至於合黎、餘波入於流沙、絕流沙南至南海。洋水出其西北陬、入於南海羽民之南。凡四水者、帝之神泉、以和百藥、以潤萬物。

(https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%B7%AE%E5%8D%97%E5%AD%90/%E5%A2%9C%E5%BD%A2%E8%A8%93)

禹乃以息土塡洪水、以爲名山、掘崑崙虛、以下地。中有增城九重。……珠樹、玉樹、琁樹、不死樹、在其西(禹乃ち息土を以て洪水を塡(うず)めて、以て名山と為し、崑崙の虚を掘りて、以て地に下す。中に増城の九重なる有り。……珠樹・玉樹・琁樹(せんじゅ)・不死樹、其の西に在り)、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen427.html

なお、崑崙山は、

中国の古代信仰では、

神霊は聖山によって天にのぼる、

と信じられ、崑崙山は最も神聖な山で、大地の両極にあるとされた(仝上)。中国北魏代の水系に関する地理書『水経(すいけい)』(515年)註に、

山在西北、……高、萬一千里、

とあり、中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、

崑崙……高萬仞、面有九井、以玉為檻、

とあり、その位置は、

瑶水(ようすい)という河の西南へ四百里(山海経)、

とか、

西海の南、流沙(りゅうさ)のほとりにある(大荒西経)、

とか、

貊国(はくこく)の西北にある(海内西経)、

と諸説あり、

その広さは八百里四方あり、高さは一万仞(約1万5千メートル)、

あり、

山の上に木禾(ぼっか)という穀物の仲間の木があり、その高さは五尋(ひろ)、太さは五抱えある。欄干が翡翠(ひすい)で作られた9個の井戸がある。ほかに、9個の門があり、そのうちの一つは「開明門(かいめいもん)」といい、開明獣(かいめいじゅう)が守っている。開明獣は9個の人間の頭を持った虎である。崑崙山の八方には峻厳な岩山があり、英雄である羿(げい)のような人間以外は誰も登ることはできない。また、崑崙山からはここを水源とする赤水(せきすい)、黄河(こうが)、洋水、黒水、弱水(じゃくすい)、青水という河が流れ出ている、

とあるhttp://flamboyant.jp/prcmini/prcplace/prcplace075/prcplace075.html。『淮南子(えなんじ)』(紀元前2世紀)にも、

崑崙山には九重の楼閣があり、その高さはおよそ一万一千里(4千4百万キロ)もある。山の上には木禾があり、西に珠樹(しゅじゅ)、玉樹、琁樹(せんじゅ)、不死樹という木があり、東には沙棠(さとう)、琅玕(ろうかん)、南には絳樹(こうじゅ)、北には碧樹(へきじゅ)、瑶樹(ようじゅ)が生えている。四方の城壁には約1600mおきに幅3mの門が四十ある。門のそばには9つの井戸があり、玉の器が置かれている。崑崙山には天の宮殿に通じる天門があり、その中に県圃(けんぽ)、涼風(りょうふう)、樊桐(はんとう)という山があり、黄水という川がこれらの山を三回巡って水源に戻ってくる。これが丹水(たんすい)で、この水を飲めば不死になる。崑崙山には倍の高さのところに涼風山があり、これに昇ると不死になれる。さらに倍の高さのところに県圃があり、これに登ると風雨を自在に操れる神通力が手に入る。さらにこの倍のところはもはや天帝の住む上天であり、ここまで登ると神になれる、

とある(仝上)。

宋代の『湘山野録』には、

崑崙山産玉、麗水生金、

中国の西方に位置して玉を産し、黄河の源はこの山に発すると考えられた、

とあり(日本大百科全書)、

美麗なる玉(ぎょく)を出すを以て、名あり、崑玉と云ふ、

ともある(大言海)。後漢書・孔融傳では、

與琭玉秋霜、比質可也、

とあり、その、

人格の高尚なる、

のに準えられている(大言海)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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