2024年07月01日
布帆無恙
霜落荊門江樹空(霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空し)
布帆無恙挂秋風(布帆(ふはん)恙無(つつがな)く 秋風に挂(か)く)
此行不爲鱸魚鱠(此の行(こう) 鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず)
自愛名山入剡中(自(みずか)ら名山(めいざん)を愛して剡中(せんちゅう)に入(い)る)(李白・秋下荊門)
の、
布帆無恙(ぶよう)、
の、
布帆(ふはん)、
は、
布の帆、
で、
布帆無恙、
は、
布の帆に異常がない、
という意、
無事な船旅、
をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。これは、
晋の顧愷之(こがいし)が、江陵の地方官として在任中、休暇をとって江南へ帰ろうとした際、長官は布の帆を貸してくれたが、途中で大風にあい、難破してしまった。そのとき、愷之は長官に手紙を送り、
行人安穏布帆無恙(行人は安穏、布帆も恙無し)、
と書いた故事(「晉書」顧愷之傳)にもとづいている(仝上)。
鱸魚、
は、
すずき、
と訓ずるが、
実はハゼに似て、もっと大きな魚、
とあり、
鱠、
は、
生魚の料理、
で、
さしみのようなもの、
とある(仝上)。これは、
晉の張翰(ちょうかん)が都の洛陽で任官したが、秋風が吹くと、郷里の呉郡(江蘇省呉県、作者の旅行く方角である)の名物、蓴菜(じゅんさい)の羹(あつもの)と鱸魚の鱠(なます)の味を思い出し、官位を捨てて帰った、
という故事を踏まえる(仝上)。
『世説新語』排調篇に、
顧長康作殷荊州佐、請假還東。爾時例不給布颿。顧苦求之、乃得發、至破冢、遭風大敗。作牋與殷云、地名破冢、眞破冢而出。行人安穩、布颿無恙(顧長康、殷荊州の佐(さ)作(た)りしとき、假(か)を請うて東に還る。爾(そ)の時、例として布颿(ふはん)を給せず。顧、苦(ねんごろ)に之を求めて、乃ち発するを得たるも、破冢(はちょう)に至るや、風に遭いて大敗す。牋(せん)を作って殷に与えて云う、地、破冢(はちょう)と名づく、真に冢(ちょう)を破りて出ず。行人安穏、布颿(ふはん)恙(つつが)無し)
とある(https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%96%E8%AA%AA%E6%96%B0%E8%AA%9E/%E6%8E%92%E8%AA%BF)。なお、
颿、
は、
帆、
の異字体である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B8%86)。
恙無し、
で触れたように、
恙、
は、
田野で人をさし、発病させる寄生虫、つつがむし
を指し、
無恙(ブヨウ)、
と言うと、
つつがむしにやられない意のことから、無事で日を過ごすこと、
を意味する(漢字源)が、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に、
恙、憂也、
とあり、中国最古の字書『爾雅』(秦・漢初頃)釈詁下篇の注には、
今人云無恙謂無憂也(今人無恙と云うは、憂いの無きを謂うなり)、
とある。漢・六朝から、
相手の安否を尋ねる手紙の常套句となった、
という(仝上)。そういえば、『隋書』倭国伝に、
日出いづる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無なきや(日出處天子致書日沒處天子。無恙)、
とあった(大言海)。
後漢末の志怪書の走りのような『風俗通義』には、
無恙は、俗に疾を説くなり。凡そ人、相見し及び書問する者は、曰く、疾無きや、と。按ずるに上古の時、草居し路宿す。恙は噬(か)む虫なり。人の心を食らう。凡そ相労問(ろうもん)する者は曰く、恙無きや、と。疾と為すに非ざるなり、
とあり(https://kanbun.info/syubu/toushisen322.html・大言海)、易経傳にも、
上古、草居露宿、恙、噬蟲也、善食人心、
とあるが、
人の心を食らう蟲、
とは、
據なきことなり、……其恙を、……蟲の名とするは全く誤れり、
とする見解(大言海)がある。
恙、
には、
病気、やまい、
の意があり、
恙病(ようへい)、
で、
病気、
清恙(せいよう)、
で、
ご病気、
恙憂(ようゆう)、
で、
心配、
微恙(びよう)
で、
輕い病気、
を指した(漢字源・字源・漢辞海)。
なお、「恙無し」、「なます」については触れた。
「帆」(漢音ホ、呉音ボン)は、
会意兼形声。凡(ハン)は、支柱の間に張った帆を描いた象形文字で、帆の原字。帆は「巾(ぬの)+音符凡」で、凡がおよその意に転用されたため、その原義を表すために作られた、
とある(漢字源)。別に、
会意形声。巾と、風(フウ)→(ハム)(かぜ。凡は省略形)とから成る。風を受ける布、「ほ」の意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(巾+凡)。「頭に巻く布きれにひもをつけて帯にさしこむ」象形(「布きれ」の意味)と「風を受ける帆」の象形から、「ほ(風を受けて舟を走らせる布)」を意味する「帆」という漢字が成り立ちました。(「凡」が「すべて・およそ」の意味で用いられるようになった為、「巾」を付けて区別しました)、
とも( https://okjiten.jp/kanji1445.html)ある。
「恙」(ヨウ)は、
形声。「心+音符羊」
とあり、
ツツガムシ、
の意とある(漢字源)が、
伝説上の害虫、
とし、
上古より、人の心を食うとされ、これに噛まれることをおそれた、漢代頃から、(上述のように)人をねぎらう語として「無恙」が書簡などに用いられた、
とある(漢辞海)。で、この、
恙、
は、現実の
ツツガムシ、
とは別のものを指していた可能性がある。で、
越後国に、害虫に、つつがと名づくるは、(拠なき説の)誤りを受けたるなり、
とある(大言海)のが正しいようだ。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95