2024年07月06日
轅門(えんもん)
日落轅門鼓角鳴(日落ちて轅門(えんもん) 鼓角(こかく)鳴り)
千群面縛出蕃城(千群(せんぐん)面縛(めんばく)して蕃城を出(い)ず)
洗兵魚海雲迎陣(兵を魚海に洗えば 雲 陣を迎え)
秣馬龍堆月照營(馬を竜堆(りようたい)に秣(まぐさか)えば 月 営を照らす)(岑参・封大夫破播仙凱歌二)
の、
面縛、
とは、
後ろ手にしばること、
をいい、特に、
自分から縛ること、
をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。つまり、
降服のしるし、
である。
面、
とは、
顔だけが突き出ること、
ともいい、
背後に、
の意味だともいう(仝上)とある。
轅門、
の、
轅、
は、
車のながえ、
をいい、
天子や将軍などが野外に宿営するときは、周囲に車を並べて垣を作り、入口には二台の車を、車輪を向き合わせた形に立てるので、ながえ門のように見える、
ので、これを、
轅門、
という(仝上)が、ここでは、必ずしも車を用いたとは限らず、
駐屯地の軍門、
を意味する(仝上)とある。春秋穀梁伝に、
置旃以爲轅門(旃(せん)を置き以て轅門と為す)、
とあり、その注に、
轅門卬車、以其轅表門(轅門は車を卬けて、其の轅を以て門を表あらわす、
とし、その疏に、
以車爲營、舉轅爲門(車を以て営と為し、轅を挙て門と為す)、
とある。
「ながえ」で触れたように、
轅門(えんもん)、
は、
陣営の門、
軍門、
の意でも使う(広辞苑)のだから、ここでの、
車、
は、「周禮」天官篇に、
謂仰両乗車轅相向表門、故名轅門、
とあり、
護衛の兵車を仰向けて並べる、
のだから、当然、
軍用車両、
である、
兵車、
である。
兵車、
は、
戦争に用いる車、
で、
戎車(じゅうしゃ)、
ともいう(広辞苑)。代表的なものは、
戦車(いくさぐるま)、
で、
輕車(けいしゃ)、
馳車、
という(https://three-kingdoms.net/12471)とある。春秋時代、
兵車戦、
が主な戦い方で、趙の武霊王が紀元前307年に胡服騎射を取り入れるまで、騎兵が用いられることは少なかったとされる。また兵車1台あたり、周では75人、楚では150人が付き従ったとされる。また、兵車のみでは戦力にならないため、戈などの近接戦闘具が併用された、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2)。
戦車には、他の車(馬車)のように垂たれ幕や車蓋(しゃがい)はなく、輿(よ 人が乗る部分)と車輪は紅色べにいろに塗ぬられています、
とあり(https://three-kingdoms.net/12471)、
矛(ぼう 矛(ほこ))、
戟(げき)、
幢(どう)・麾(き)(共に指揮をするための旗)、
弩(ど)の箙(えびら 矢筒)、
が装備され、牽引4頭の馬には馬甲(ばこう)を着用していた(仝上)とある。乗員は3名で、
で、
主人と馬を御す御者と主人を護る右(車右)です。 おそらく主人と右が長手の武器を持って、相手の戦車とすれ違いざまに攻撃をして相手を倒したり、 車上から落としたりしたのでしょう、
とある(https://chinahistory3000.web.fc2.com/point170.html)。その戦車には歩兵が従う。歩兵部隊の最小ユニットは5人で、
伍、
と呼ばれ、伍が5つ集まって両を編成します。両は5行5列の方陣が基本隊形でした。この両3つが1輛の戦車に付き従い、その後ろに25人のメンテナンス後続部隊が続きました、
とある(仝上)。
「史記」項羽紀に、
侯將を召見す。轅門に入り、膝行して前(すす)まざる無く、敢て仰ぎ視るもの莫(な)し、
とある(字通)。
「轅」(漢音オン、呉音エン)は、
会意兼形声。「車+音符袁(エン =遠、遠回り、ゆるい曲線を描く)」
とある(漢字源)。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95