2024年07月15日

寒食


春城無處不飛花(春城(しゅんじょう) 処(ところ)として花を飛ばさざるは無し)
寒食東風御柳斜(寒食(かんしょく)東風(とうふう) 御柳(ぎょりゅう)斜めなり)
日暮漢宮傳蠟燭(日暮(にちぼ) 漢宮(かんきゅう) 蠟燭を伝え)
靑煙散入五侯家(青煙(せいえん)散じて五侯(ごこう)の家に入(い)る)(韓翃・寒食)

で、

寒食、

は、

春のおとずれをつげるもので、この詩は、その時節の長安の風物を描いている(前野直彬注解『唐詩選』)とあり、

かんしょく、

以外に、

かんじき、

とも訓ます(世界大百科事典)。

陽暦の四月九日または六日を、

清明節、

といい、

その前の二日間を、

寒食、

といい、この期間、

いっさい火を用いない、

という風習があった(仝上)。伝説によれば、

春秋時代の介之推(介子推 かいしすい)は、晋の文公が不遇時代の忠臣であったが、文公が君主の位につくと、山の中に隠れてしまった。文公は召し出して高祿を与えようとしたが、承知しないため、山を焼き払って、無理やり介之推をひきだそうとした。しかし彼は、山中の立木を抱いたまま焼け死んでいた。これがちょうど寒食のころだったから、彼の霊をなぐさめるために、火を禁ずる習慣が生まれた、

という(仝上)。その詳細は、

春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。彼に従がっていた者たちは、その苦しさに堪えかねて、大方は自分たちの活路を求めて離れていった。ただ介子推とその他五、六人の者が、忠義の心厚く、苦しみを恐れずにずっと彼に従っていた。重耳が肉を食べたいというと、介子推はひそかに自分の腕の肉を切りとって、煮て彼に食べさせた。のちに重耳は秦国の国王・穆公の助けをえて、晋国の国王になった。重耳はずっと自分に従って亡命していた者たちに論功行賞を行い、それぞれ諸侯に封じてやった。介子推は母親と相談して、富貴を求めない決心を固め、綿山に入って隠居した。その後、晋の文公・重耳は彼のことを思い出し、自ら車に乗って捜しにいったが、なん日捜しても介子推母子の行方はわからなかった。晋の文公は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親をたずさえて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山ぜんたいを焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。文公はこの母子の死を心からいたみ、綿山に厚く葬り、廟を建立し、介山と改名した。そして介子推の自分に対する情誼を永遠に記念するために、その柳の木を切りとって持ち帰り、木のくつを作らせ、毎日眺めては悲嘆にくれた。「悲しきかな、足下よ!」。のちに人々は、自分に親しい友人に手紙を送る時、「××足下」と書いて、厚い友情を示すようになった。晋の文公は、介子推の生前「士は甘んじて焚死しても公候にならず」という志を通した高尚な人となりをたたえて、この日には家ごとに火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国に命令をくだした。長いあいだにこれが次第に風習と化し、独特な「寒食節」となって受けつがれた、

とあるhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htm。南宋の曾先之編の歴史書『十八史略』にも、

公(文公)曰、噫、寡人之過也。使人求之。不得。隱綿上山中。焚其山。子推死焉。後人爲之寒食(公曰く、噫、寡人(かじん)の過ちなり、と。人をして之を求めしむ。得ず。綿上(めんじょう)の山中に隠る。其山を焚く。子推死す。後人之が為めに寒食す、

とある。ただ、漢代の「風俗通(風俗通義)」(応邵撰)には、

冬至後、百四、五日、六日、有疾風暴雨、為寒食、

とあり、大言海は、

介子推ガ焚死ノ爲ニ、火ヲ禁スゲルト云フハ、妄説ナリト云フ、禁火ハ周の舊制ナルガ如シ、

と注記している。なお、

傳蠟燭、

とは、清明の日には、どこの家でも新しく火を起こし始めるのだが、宮中では、

柳の枝に火をつけ、百官に賜る、

風習があり、

宮中から火をつけた蝋燭が下賜され、使者が高官の家に伝達した、

という(仝上)。

蝋燭を伝え、

とは、

そのことを言い、

青煙、

とは、

伝達された蝋燭から立つ煙、

をいう(仝上)。

寒食、

は、

火食、

に対して言い、

冷食、即ち、冷ややかなる食、

の意で、室町時代編纂のいろは引きの国語辞典『運歩色葉集(うんぽいろはしゅう)』に、

寒食、カンショク、自冬至至一百五日也、

とあるように、

冬至より百五日目に当たる日(陰暦の清明節)の節日、

で(漢辞海・大言海)、昔の人はみな寒食を、

百五、

といったhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htmともある。

晋代史書の『鄴中記』(陸翽撰)に、

幷州之俗、冷食三日、作乾粥食之、中國以為寒食、

とあるように、この、

前後三日間、

は(漢辞海)、

疾風、甚雨のあるべき節として、火を焚くことをせず、前日に調へおきたるものを食ふ、食物に、寒具(かんぐ)と云ふものあるも、これより起これるなりと云ふ、

とある(大言海)。

寒食、

の日にばらつきがあるのは、古代では一つの、

独立した祭日、

であったが、隋・唐の時代には、多くの寒食を、

清明の二日前、

に固定し、宋代には、

三日前と定めていたhttp://japanese.china.org.cn/archive2006/txt/2002-04/18/content_2029595.htmからのようである。この、

寒食節、

が終わると清明節になる。

周書に、

司烜氏、仲春以木鐸、循火禁國中、

とあるのに対する註に、

為春将出火也、今寒食準節気、是仲春之末、清明、是三月之初、

とあり、荊楚地方(長江中流域)の年中行事を記した、南朝梁の『荊楚歳時記』(宗懍(そうりん)著、隋・杜公瞻(とこうせん)注釈)には、

去冬節一百五日、即有疾風甚雨、謂之寒食。禁火三日、造餳大麥粥(冬節を去ること一百五日、即ち疾風甚雨有り、之を寒食と謂う。火を禁ずること三日、餳(とう 澱粉を加工して作った飴)と大麦の粥を造る)、

とあるhttps://kanbun.info/syubu/toushisen399.html

寒食、

の起源は、介子推の伝説はともかく、

古代の改火儀礼(新しい火の陽火で春の陽気を招く、
火災防止(暴風雨の多い季節がら)、

などが考えられている(世界大百科事典)とある。漢代は、

山西省太原付近の一地方習俗、

にすぎなかったが、六朝末には、南方まで伝わり、唐・宋時代、

全国的な行事、

となった。

冷たい物ばかり食べるので、麦芽などで作った餳(あめ)や餳湯(あめゆ)などが好まれた、

といい、明・清以後、その苦しさから、廃止された、とあり(仝上)、

寒食節は清明節(107日目)の同義語、

となったようだ(仝上)。

清明節(せいめいせつ)、

は、元来は、

中国の先祖祭、

で、旧暦3月、

春分から15日目にあたる節日に、家中こぞって先祖の墓参りに出かけ、鶏、豚肉、揚げ豆腐、米飯、酒、茶あるいは香燭や紙銭などを供える、

とある(精選版日本国語大辞典)。

田家復近臣(田家にして復た近臣)
行楽不違親(行楽して親(しん)に違(たが)わず)
霽日園林好(霽日 園林好く)
清明煙火新(清明 煙火(えんか)新たなり)(祖詠・清明宴司勲劉郎中別業)

に、

清明清明煙火新、

とあるのは、清明の直前の、

寒食、

が終わって、どの家もまたむ火を起こし始めたから、「新」といったのである、

とある(前野直彬注解『唐詩選』)。明代の「煕朝樂事」(田汝成)に、

清明、

は、文字通り、

清く明らかなこと、

で、礼記に、

清明在躬、志気如神、

とある(字源)。

清明、

は、

清く明るい気が満ちる、

意で、

二十四節気のひとつ、

で(広辞苑)で、

春分の次の気節、

太陽の黄経が15度の時、春分後15日目、

三月の節(せつ)、

で、太陽暦の、

四月四日頃に当たる(字源・広辞苑)。

「寒」.gif

(「寒」 https://kakijun.jp/page/1235200.htmlより)

「寒」 金文・西周.png

(「寒」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%92より)

「寒」(漢音カン、呉音ガン)は、

会意文字。「塞(サイ・ソク)の字の上部+冫(こおり)」で、やね(宀)の下にレンガや石(I印)を積み重ね、手で穴をふさいで、氷の冷たさを防ぐさまを示す。乾燥して物の乏しい北方のさむさ、

とあり(漢字源)、また、

会意文字です。「家屋・屋根」の象形と「人」の象形と「枯れ草」の象形と「氷」の象形から、寒さに凍え、枯れ草に身をまるくする人、すなわち「こごえる・さむい」を意味する「寒」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji332.htmlが、

「寒」の下側に存在する2つの点について、『説文解字』では「冫」(氷の象形)に由来すると説明されているが、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように、これは羨符(意味のない余剰な筆画)で、「冫」とは関係がない。楷書では「塞」の上部と同じ部品を共有しているが、字形変化の結果同じ形に収束したに過ぎず、起源は異なる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%AF%92

会意。「宀」(家屋)+「茻」(多くの草)+「人」から構成され、屋内で人が草を被って寒さをしのぐさまを象る。「さむい」を意味する漢語{寒 /*gaan/}を表す字、

とある(仝上)。また同趣旨で、

会意。宀と、人(ひと)と、茻(ぼう)(は変わった形。草のむしろ)と、冫(ひよう)(さむい)とから成る。家の中で人がむしろにくるまって寝ていることから、「さむい」意を表す、

とある(角川新字源)。

参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
戸川芳郎監修『漢辞海』(三省堂)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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