紫陌紅塵拂面來(紫陌(しはく)の紅塵(こうじん) 面を払って来(きた)る)
無人不道看花回(人の花を看て回(かえ)ると道(い)わざるは無し)
玄都觀裏桃千樹(玄都(げんと)観裏(かんり) 桃千樹)
盡是劉郎去後栽(尽(ことごと)く是れ劉郎(りゅうろう)去って後(のち)に栽(う)えしなり)(劉禹錫(りゅう うしゃく)・元和十一年自朗州至京戯贈看花諸君子)
の、
劉郎、
は、「志怪小説」『幽明録』(宋)に、
漢の明帝の永平五年、剡県(せんけん)の劉晨・阮肇、共に天台山に入り穀皮を取り、迷いて返ることを得ず、十三日を経て、糧食乏尽し、饑餒(きだい)して殆ど死せんとす。遥かに山上を望むに一桃樹有りて、大いに子実有り。而るに絶巌(ぜつがん)邃澗(すいかん)ありて、永く登路無し。藤葛を攀援(はんえん)し、乃ち上に至るを得たり。各〻数枚を啖(くら)いて、饑(うえ)止み体充つ。復た山を下り、杯を持ちて水を取り、盥漱(かんそう)せんと欲するに、蕪菁(ぶせい)の葉の山腹より流出するを見る。甚だ鮮新たり。復た一の杯流出し、胡麻飯の糝(つぶ)有り、相謂いて曰く、此れ人の径(みち)を去ること遠からざるを知る、と。便ち共に水に没し、流れに逆いて二三里にして、山を度(わた)りて一大渓に出ずるを得たり。渓辺に二女子有り、姿質妙絶なり。二人の杯を持ちて出ずるを見て、便ち笑いて曰く、劉・阮二郎、向(さき)に流れに失いし所の杯を捉りて来る、と。晨・肇既に之を識らざるも、二女の便ち其の姓を呼ぶや、旧有るに似たるが如きに縁りて、乃ち相見て忻喜す。問う、来ること何ぞ晩(おそ)きや、と。因りて邀(むか)えて家に還る。其の家は銅の瓦屋にして、南壁及び東壁の下に各〻一大床有り。皆絳(あか)き羅帳を施し、帳角に鈴を懸け、金銀交錯す。床頭に各〻十侍婢有り。勅して云う、劉・阮二郎、山岨を経渉し、向(さき)に瓊実を得と雖も、猶尚(なお)虚弊す。速やかに食を作る可し、と。胡麻の飯、山羊の脯、牛肉を食らう。甚だ甘美なり。食畢わりて酒を行う。一群の女の来る有り。各〻五三の桃子を持ち、笑いて言う、汝の婿の来るを賀す、と。酒酣たけなわにして楽を作なす。劉・阮忻怖交〻(こもごも)并(あわ)さる。暮に至りて、各〻をして一帳に就きて宿せしむ。女も往きて之に就き、言声清婉にして、人をして憂いを忘れしむ。十日の後に至り、還り去らんことを求めんと欲す。女云う、君の已に是に来るは、宿福の牽く所なり。何ぞ復た還らんと欲するや、と。遂に停まること半年なり。気候草木は是れ春時、百鳥啼鳴するも、更に悲思を懐き、帰らんことを求むること甚だ苦しきりなり。女曰く、罪君を牽く。当に如何ともす可けんや、と。遂に前に来りし女子を呼ぶに、三四十人有り。集まり会して楽を奏し、共に劉・阮を送り、還る路を指示す。既に出ずるや、親旧零落し、邑屋改異し、復た相識るもの無し。問訊して七世の孫を得たり。伝え聞く、上世山に入り、迷いて帰るを得ずと。晋の太元八年に至り、忽ち復た去り、何れの所なるかを知らず、
とある、
昔、劉晨(りゅうしん)と阮肇(げんちょう)という二人の男が薬を採りに天台山に入り、道に迷って桃の実を食べ、二人の仙女に出逢った。二人は迎えられて、それぞれ仙女と夫婦になって暮らした。そのうち家が恋しくなって別れて帰ったところ、知っている人は皆亡くなっており、そこには七代目の子孫が住んでいた、
という故事をふまえ(https://kanbun.info/syubu/toushisen416.html・前野直彬注解『唐詩選』)、
作者の姓(劉)とを掛けて言ったもの、
とあり(仝上)、
劉郎、
は、
遊女におぼれて夢中になっている男、
放蕩者、
の意で使われる(広辞苑)。
郎、
は、
妻が夫を呼ぶ言葉、
で、転じて、
男子を呼ぶ美称、
とあり、自分で郎の字を使ったところに、詩題の、
元和十一年自朗州至京戯贈看花諸君子(元和十一年(816)、朗州自(よ)り京(けい)に至り、戯(たわむ)れに花を看る諸君子に贈る)、
という、
ふざけた気持ち、
を表している(https://kanbun.info/syubu/toushisen416.html)とある。
(劉禹錫(『晩笑堂竹荘畫傳』より) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%A6%B9%E9%8C%ABより)
作者は、この年、配所の朗州から都へ呼び返され、このとき、都の玄都観(道教の寺)に道士が「仙桃」を植え、その美しさは「紅霞」のごとくであると評判が立ったので、戯れにこの詩をつくり、花見に行く友人に贈った、
という(前野直彬注解『唐詩選』)。ただ、この詩が世間に伝わると、
作者は自分が都を追われたあと、新しい権力者たちが世に栄えるようになったことを、桃の花にたとえ、不満の意を表した、
と言いふらすものが現れ、また連州へ追われた(仝上)という。『本事詩』(孟棨)に、
劉尚書、屯田(とんでん)員外(いんがい)より郎州司馬に左遷せらる。凡およそ十年にして始めて徴(め)し還(かえ)さる。春に方あたりて、花を看る諸君子に贈る詩を作りて曰く、……其の詩一たび出でて都下に伝わる。素より其の名を嫉む者有り、執政に白(もう)し、又其の怨憤(えんふん)有るを誣(し)う。他日、時宰(じさい)に見(まみ)え与(とも)に坐す。慰問すること甚だ厚し。既に辞す。即ち曰く、近者(ちかごろ)の新詩、未だ累を為すを免(まぬか)れず、奈何(いかん)と。数日ならずして出でて連州刺史たり、
とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen416.html)。作者は十数年後にまた都へ戻り、玄都観を訪ね、昔をしのんで、七言絶句(「再び玄都觀に遊ぶ」)をつくった、
百畝庭中半是苔(百畝の庭中 半ばは是れ苔)
桃花淨盡菜花開(桃花は浄(ち)り尽くして菜花開く)
種桃道士今何歸(桃を種えし道士は何処にか帰る)
前度劉郞今又來(前度の劉郎は今又来たる)
の、結句の、
前度の劉郎は今又来たる、
から、
元の土地や地位に舞い戻る、
意の、
前度劉郎、
という諺が出来た(前野直彬注解『唐詩選』)とある。
「劉」(漢音リュウ、呉音ル)は、
会意兼形声。「金+刀+音符卯(リュウ ひらく、はなす)」で、刀でばらばらに切り開くこと、
とある(漢字源・https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8A%89)。別に、
会意形声。刀と、金(金属)と、丣(バウ)→(リウ)(=卯。は変わった形。ころす)とから成る。「ころす」意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(卯(丣)+金+刀(刂))。「同じ形のものを左右対称においた」象形と「金属の象形とすっぽり覆うさまを表した文字と土地の神を祭る為に柱状に固めた土の象形」(土中に含まれる「金属」の意味)と「鋭い刃物」の象形から、「鋭い刃物で2つに切る」、「殺す」を意味する「劉」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji2374.html)ある。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95