2024年10月01日

べらなり


風吹けば波越す磯の磯馴(そなれ)松ねにあらわれて泣きぬべらなり(古今和歌集)、
見てもまたまたも見まくのほしければなるるを人はいとふべらなり(仝上)、

の、

べらなり、

は、

助動詞「べし」の語幹「べ」に接続辞(接尾語)「ら」が接し、さらに指定の助動詞「なり」の接続したもの、平安初期には訓点語として用いられ、中期には歌語として盛んに用いられた、

とあり(広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)、「古今集」など、平安初期の和歌文学作品で、男性歌人が多く使っているため、

当時の男性が口頭語で用いた、

とする説もあるが、定かでない(精選版日本国語大辞典)とある。平安中期以降は古語化していったようで、「俊頼髄脳」に、

「べらなり」といふことは、げに昔のことばなれば、世の末には、聞きつかぬやうに聞こゆ、

とある(仝上)。

○・べらに・べらなり・べらなる・べらなれ・○、

と活用し、

活用語の終止形、ラ変型活用は連体形に付く、

形で使われ、

可(べ)うあらむなりの約という、

とされ(大言海)、

……する様子だ、
……らしい、
……するそうな、
……ように思われる、

といった意味で使われる(仝上)。

成立については、

べし、

と関係づける解釈が一般的で、「清し」から「清らなり」が派生したのと同様に、「べし」から派生したとされる。形態、意味、接続、上接語の傾向などの点で「べし」との類似性が認められる、

とある(精選版日本国語大辞典)。

べし、

は、

bësi、

とあり(岩波古語辞典)、奈良時代は、

べく・べし・べき、

と、未然形がなかったが、平安時代以後、已然形、

べけれ(べき+ありの已然形あれ)、

が発達した(岩波古語辞典)とある。

べし、

の意味の基本は、

物事の動作・状態を必然・当然の理として納得する外はない状態にある、

と判断を下す点にあり、そこから、古人の好き嫌い・希望などを超えた必然的な状態と判断することであるから、

食(を)す國天下の政は平けく安く仕え奉るべしとなも思ほしめす(続日本紀)

と、

道理から当然であること、
……すべきであると義務を表す、

場合があり、さらに、

世の中は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば(万葉集)、

と、

運命であること、

を示し、また、自己の意思を示す場合は、

磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど見すべき君がありといはなくに(万葉集)、

と、

強い意志、

を表わし、相手に対しては、

わが祭る神にはあらず大夫につきたる神そよく祀るべし(万葉集)、

と、

拒否を許さない命令、

を示し、第三人称の動作についた推量の場合も、

わが宿に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも(万葉集)、

と、

まさに……しそうである、
かならずそうなる、……に相違ない、

という強い確信を表す(岩波古語辞典)。で、

べらなり、

にも、推量の、

べし、

のもつ、

強い確信、

が含意としてある。

べし、

は、

「宜(うべな)うべし」の音変化、

とする説が有力(デジタル大辞泉)とあるが、もともとは、

漢字にべしと訓じたるもの、

にて(大言海)、その意味の差は、当てた字によって、

可の字は、可能の意、當の字は、當然の意、應の字は、相應の意、宜の字は、是非とも然べき意、須の字は、必ず然すべき意、合の字は、為すことの事情に合ふ意、容の字は、為すことの、容(ゆる)さる意なり、

とある(仝上)。

べらなり、

の、

ら、

は、

さかしら、
あから、

など、

擬態語・形容詞語幹などを承けて、その状態表現を表す接尾語、

である(岩波古語辞典)。

助動詞、

なり、

は、

雁くれば萩は散りぬとさをしかの鳴くなる声もうらぶれにけり(万葉集)、

の、

伝聞・推定のなり、

ではなく、奈良時代から見え、

汝たちもろもろは、吾が近き姪なり(続日本紀)、

と、

……である、

という指定する意味を表す助動詞である(仝上)。ふるくは、

にあり、

であったものが、

niari→nari、

と音韻変化したものである(仝上)。

「可」.gif

(「可」 https://kakijun.jp/page/ka200.htmlより)

「可」 甲骨文字・殷.png

(「可」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%AFより)

「可」(カ)は、

会意文字。「屈曲したかぎ型+口」。訶(カ)や呵(カ)の原字で、のどを屈曲させ声をかすらせること。屈曲をへてやっと声を出す意から、転じて、さまざまの曲折を経て、どうにか認める意に用いる、

とあり(漢字源)、同趣旨で、

会意文字です。「口」の象形と「口の奥」の象形から、口の奥から大きな声を出す事を意味し、それが転じて(派生して・新しい意味が分かれ出て)、「よい」を意味する「可」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji778.htmlが、

象形。原字(『説文解字』では「𠀀」と説明されている)は、「斤」の刃の部分の筆画を取り除き、斧の柄の部分のみを象ったもの。「斧の柄」を意味する漢語{柯 /*kaaj/}を表す字。のち仮借して「能力がある」を意味する漢語{可 /*khaajʔ/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8F%AF

形声。口と、音符𠀀(カ)(丁は変わった形)とから成る。同意する意を表す。また、許可・可能などの意を表す助字に用いる(角川新字源)、

と、全く異なる説もある。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:べらなり
posted by Toshi at 04:02| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月02日

二乗の人


そのかみの玉のかづらをうち返し今は衣の裏をたのまむ(東三條院)

の、

衣の裏、

は、

法華経巻第四・五百弟子受記品第八に説く、衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬喩(酔い臥していたために、親友が衣服の裏に宝珠を付けてくれたのも知らず、苦労を重ねたのち、その友に逢って宝珠の存在を告げられた人のように、二乗の人は仏が教化したことを無知ゆえに悟らず、しかも悟ったと考えていたこと)をさす、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、

二乗の人、

とは、

声聞乗(しょうもんじょう)と縁覚乗(えんかくじょう)、

をさし、

菩薩乗(ぼさつじょう)、

に対して言う(広辞苑)。

五乗

で触れたように、

乗、

は、

のりもの。衆生を彼岸に運載する教え、

の意で、五種の教法の総称を、

五乗(ごじょう)、

といい、

人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、

をいう(広辞苑)が、

仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、

あるいは、

声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗、天上乗、

と、宗派により名称、説き方が異なる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。

一乗

は、サンスクリット語、

エーカ・ヤーナeka-yāna(一つの乗り物)、

の訳語、

「一」は唯一無二の義、
「乗」は乗物、

の意、

開闡(かいせん ひらき広める)一乗法、導諸群生、令速成菩提(法華経)、

と、

乗物の舟車などにて、如来の教法、衆生を載運して、生死を去らしむる、

とあり(大言海)、乗(乗り物)は、

人々を乗せて仏教の悟りに赴かせる教え、

をたとえていったもので、

真の教えはただ一つであり、その教えによってすべてのものが等しく仏になる、

と説くことをいう(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)とある。「声聞」で触れたように、

悟りに至るに三種の方法、

には、

声聞乗(しょうもんじょう 仏弟子の乗り物)、
縁覚乗(えんがくじょう ひとりで覚(さと)った者の乗り物)、
菩薩乗(ぼさつじょう 大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)、

の三つがあり、これを、

三乗、

といい、『法華経』では、この三乗は、

一乗(仏乗ともいう)、

に導くための方便(ほうべん)にすぎず、究極的にはすべて真実なる一乗に帰す、

と説き(仝上)、

三乗方便・一乗真実、

といい、それを、

一乗の法、

といい、主として、

法華経、

をさす(仝上)。「一乗妙法」については触れた。

声聞

は、

梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、

の訳語、

声を聞くもの、

の意で、

釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、

である(精選版日本国語大辞典)のに対して、

縁覚(えんがく)、

は、

梵語pratyeka-buddhaの訳語、

で、

各自にさとった者、

の意、

独覚(どっかく)、

とも訳し、

仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、

をいう(仝上・日本大百科全書)。

菩薩、

は、

サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、

の音訳、

菩提薩埵(ぼだいさった)、

の省略語であり、

bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、

より、

悟りを求める人、

の意であり、元来は、

釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、

をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、菩薩はつねに単数で示され、

成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、

だけを意味する。そして他の修行者は、

釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。

阿羅漢、

とは、

サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、

で、

尊敬を受けるに値する者、

の意。

究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、

をいう。部派仏教(小乗仏教)では、

仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、

をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、

無学(むがく)、

ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教では、

個人的な解脱を目的とする者、

とみなされ、

声聞、
独覚(縁覚)、

を並べて、二乗・小乗として貶しており、

悟りに至るに三種の方法、

である、

三乗、

を、

声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、

とし、大乗仏教では、

菩薩、

を、

修行を経た未来に仏になる者、

の意で用いている。

悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、

また、仏の後継者としての、

観世音、
彌勒、
地蔵、

等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。だから、大乗仏教では、「阿羅漢」も、

小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、

とされた。

四乗(しじょう)、

という場合、

声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩乗・仏乗、

をいいhttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%B9%97

五乗(ごじょう)、

という場合、

仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、

あるいは、

声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗(人乗)、天上乗(天乗)、

の五種の教法の総称をいう(精選版日本国語大辞典)。

宗派によって異なるが、天台宗の教学では、人間の心の境涯を、

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏、

の十の世界(十界)に分け、

声聞と縁覚、

を小乗の教法として、

二乗、

と呼び、

菩薩・仏、

の大乗の教法と分け、

声聞・縁覚・菩薩、

を、

三乗、

人間界から菩薩界までを、

五乗、

と呼ぶhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97とある。

さて、

衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬喩、

は、

貧人繋珠(びんにんけいじゅ)の譬え、

ともいいhttp://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-2390.html

法華七喩(ほっけしちゆ)、
法華七譬(しちひ)、

といわれる、

法華経に説かれる7つのたとえ話の一つである。上述したように、五百弟子受記品の、

ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。この物語の金持ちである親友とは仏で、貧乏な男は声聞であり、二乗の教えで悟ったと満足している声聞が、再び仏に見え、宝珠である真実一乗の教えをはじめて知ったことを表している、

という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

妙法蓮華経五百弟子受記品第八には、

貧人酔酒譬(貧人の酔酒)、

として、

世尊。譬如有人。至親友家。酒酔而臥。是時親友。官事当行。以無価宝珠。繋其衣裏。与之而去。其人酔臥。都不覚知。起已遊行。到於他国。為衣食故。勤力求索。甚大艱難。若少有所得。便以為足(世尊、譬えば人あり、親友の家に至って酒に酔うて臥せり。是の時に親友官事の当に行くべきあって、無価の宝珠を以て其の衣の裏に繋け之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して都て覚知せず。起き已って遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索すること甚だ大に艱難なり。若し少し得る所あれば便ち以て足りぬと為す)、

とあり、

親友覚悟譬(親友の覚悟)

於後親友。会遇見之。而作是言。咄哉丈夫。何為衣食。乃至如是。我昔欲令。汝得安楽。五欲自恣。於某年月日。以無価宝珠。繋汝衣裏。今故現在。而汝不知。勤苦憂悩。以求自活。甚為痴也。汝今可以此宝。貿易所須。常可如意。無所乏短(後に親友会い遇うて之を見て、是の言を作さく、咄哉丈夫、何ぞ衣食の為に乃ち是の如くなるに至る。我昔汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、某の年月日に於て無価の宝珠を以て汝が衣の裏に繋けぬ。今故お現にあり。而るを汝知らずして、勤苦憂悩して以て自活を求むること、甚だこれ痴なり。汝今此の宝を以て所須に貿易すべし。常に意の如く乏短なる所なかるべしといわんが如く)、

とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/4/08.htm。なお、

法華七譬(しちひ)、

は、

衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)、

の他、

三界火宅(さんしゃかたく、譬喩品「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)、
三草二木(さんそうにもく)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)、
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品 「初地」で触れた)、
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

とされる。

髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)、

は、

転輪聖王(武力でなく仏法によって世界を治める理想の王)は、兵士に対してその手柄に従って城や衣服、財宝などを与えていた。しかし髻(まげ、もとどり)の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので容易に人に授与しなかった。しかし、最も困難な事柄を果たした者には歓喜して明珠を与えた。この物語の転輪聖王とは仏で、兵士たちは弟子、種々の手柄により与えられた宝とは爾前経(にぜんきょう=法華経以前の様々な教え)、髻中の明珠とは法華経であることを表している。より正しくは、転輪聖王と同じように如来も法華教を教えることを最後まで慎重に控えていたのだ、と説明している、

とあり、

良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)、

は、

ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは毒気が軽減だったのか父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。この物語の良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している、

とあるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9

なお、法華経については、「法華経五の巻」で触れた。

「珠」.gif


「珠」(漢音シュ、呉音ス)は、

会意兼形声。「玉+音符朱」。朱(あかい)色の玉の意、あるいは主・住と同系で、貝の中にじっととどまっている真珠の玉のことか、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(王(玉)+朱)。「3つの玉を縦のヒモで貫いた」象形(「玉」の意味)と「木の中心に一線引いた」象形(「「木の切り口のしんが美しい赤」の意味)から、「美しい玉」、「真珠」を意味する「珠」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1316.htmlが、

形声。「玉」+音符「朱 /*TO/」。漢語{珠 /*to/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8F%A0

も、

形声。玉と、音符朱(シユ)とから成る。真珠の意を表す(角川新字源)、

も、形声文字とする。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:13| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月03日

ひたぶる


憂しといひて世をひたぶるに背かねば物思ひ知らぬ身とやなりなむ(新古今和歌集)

の、

ひたぶる、

は、

頓、
一向、

とあて、

一途なさま、

を言い、

もっぱら、
ひたすら、
すっかり、

といった意味である(広辞苑)。古くは、

「ひたふる」か、

ともある(精選版日本国語大辞典)。

態度が一途で、しゃにむに積極的に、あたりかまわず振る舞うさまをいうのが原義、

とあり(岩波古語辞典)、後に、広く使われて、

一途に、

の意(仝上)、平安時代に、

「獫狁(けんいん)」(中国で野蛮人とされた匈奴)や「敢死」をヒタフルと訓むのは、原義をよく伝えるものであろう。平安女流文学でも、「捨つ」「逃ぐ」「否ぶ」「……し果つ」などの強い動作を形容するのに使う。類義語ヒタスラは、古くは、すっかり亡くなり失せる意の動詞を形容したが、後に一般化して、一途にの意になり、ヒタブルと接近した、

とある。色葉字類抄(1177~81)には、

頓、ヒタフル、敢死、ヒタフル、獫狁、ヒタフル、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

永、ひたふる、

とある。意味の幅は、

海賊のひたふるならむよりもかのおそろしき人の追ひ来るにやと(源氏物語)、

と、

一方的で、乱暴な性質、利乱暴な人、
無理を冒して強引なさま、粗暴で配慮に欠けるさま、

と、原義に近いとされる意から、

ひたふるなる御心なつかはせ給そ(源氏物語)、

と、

向こう見ずで、無茶なさま、

といった意、

思ふ心の程を宣ひつづけたる言の葉、大人大人しく、ひたぶるにすきすぎしくあらで、いとけはひことなり(源氏物語)、

と、

むやみなさま、

の意と、どちらかというとマイナス面の意味から、

親ののたまふことをひたふるにいなび申さむ事のいとほしさに(竹取物語)、
人はよろづをさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり(徒然草)、

と、

ただ一つの方向に強く片寄るさま、もっぱらそのことに集中するさま、いちず、ひたすら、

の意、

さりとて、ひたぶるには打ち解けず、故ありてもてなし給へり(源氏物語)、

と、

完全にその状態であるさま、すっかり、まったく、

といった意と、抽象度を高めた価値表現でも使う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

この由来は、

ヒタは、直(ヒタ)、ブルは、あらぶる、ちはやぶるのブルと同趣で、強く励む意(大言海)、
ヒタはヒト(一)の転でヒタムキ、ヒタスラなどのヒタ、ブルは状態が顕現するような意を表す接尾語(小学館古語大辞典)、
ヒタフル(常経)の義(和訓栞)、
ヒタフル(直経)の義、またヒタウフル(非道振)の義(言元梯)、

等々あり、

ヒタ、

について、

直、

一、

に別れるが、「ひたむき」で触れたように、

ひたむき、

は、

直向き、

と当て、

ヒタ(いちず)+ムキ(向き)、

である(日本語源広辞典)。類語、

ひたすら、

は、

頓、
一向、
只管、

と当て、

ヒチはヒト(一)と同源(広辞苑)、
ヒタスラ(直向)の義(大言海)、
ヒタはヒトに同じ、スラはツル(弦)と同源。一すじの意(日本語の年輪=大野晋)、
ヒタは直、スはサ変動詞終止形、ラは動詞終止形について情態言を作る接尾辞(古代日本語文法の成立の研究=山口佳紀)、

等々とある。ここでも、

ひた、

は、

一、
と、
直、

が対立するが、

ヒタ(直)、

は、

ヒト(一)の母音交替形(岩波古語辞典)、

とされるのが有力(日本語源大辞典)とされており、何れを当てても、

直道、
ひた騒ぎ、
ひた照り、

等々、

名詞。またこれに準ずる語、まれに動詞について、それに徹したさま、

を表し(日本語源大辞典)、

いちず、
一面、
直接、
ただちに、

等々の意を表す(岩波古語辞典)。

なお、「ちはやぶる」で触れたように、

ぶる、

には、

ブルは様子をする意(岩波古語辞典・広辞苑)、
「ぶる」は「振る舞う」を意味するhttps://zatsuneta.com/archives/005742.html
「学者ぶる」「えらぶる」など、そのようにふるまう、そのふりをよそおう、の意を表わす(精選版日本国語大辞典)、
(振ると当て)他の語について其の容子を云ひ表す語(大言海)、

等々の説があるが、

その様子を表す、

とするのが妥当なのだろう。

「頓」.gif


「頓」(トン)は、「頓に」で触れたように、

会意兼形声。屯(トン チュン)は、草の芽が出ようとして、ずっしりと地中に根をはるさま。頓は「頁(あたま)+音符屯」で、ずしんと重く頭を地につけること、

とあり(漢字源)、別に、

会意兼形声文字です(屯+頁)。「幼児が髪を束ね飾った」象形(「集まる、集める」の意味)と「人の頭部を強調した」象形(「かしら、頭」の意味)から、頭を下げてきた勢いが地面で一時中断されて、力が集中する事から、「ぬかずく(頭を下げて地につける)」を意味する「頓」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2197.htmlが、

形声。「頁」+音符「屯 /*TUN/」。頭を下げる敬礼を意味する漢語{頓 /*tuuns/}を表す字、

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A0%93

形声。頁と、音符屯(トン)とから成る。「ぬかずく」意を表す、

も(角川新字源)、形声文字とする。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:ひたぶる 一向
posted by Toshi at 04:12| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月04日

例ならず


かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰か偲ばむ(周防内侍)

の詞書に、

例ならで太秦に籠りて侍りけるに、心細く覚えければ、

とある、

例ならで、

は、

病気になって、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

例ならず、

の、

ず、

は、

ず・ず・ぬ・ね、

と活用し、

動詞・助動詞の未然形を承けて、承ける語の動作・作用・状態を否定する意を表す助動詞、

で(岩波古語辞典)、連体形で、

例ならぬ、

などとも言う。

例ならず、

は、

この女、れいならぬけしきをみていと心うしと思て(宇津保物語)、
すべて例ならぬ所の、只つかふ人の(枕草子)、

などと、

いつもと違っている様子、
ふつうと変わって、様子が違う、
いつものようでない、

という意で使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、さらに、

あやしく、などか御様のれいならずおはします(宇津保物語)、
れいならぬさまに悩ましくし給ふ事もありけり(源氏物語)、

などと、

身体が普通の状態でない、
病気である、
あるいは、
妊娠している、

意に特定して使う(仝上)。これは、

病気や妊娠など身体の不調など好ましくない状態を直接的にいうのを避けた婉曲表現、

で(精選版日本国語大辞典)、

ふれい重くすべかりし女人は、旅の空にかくれましにしかば(宇津保物語)、

などと、

不例(ふれい)、

という言い方もする。これは、

不例(例ならず)、

の漢文表記を音読してできた語である。漢語、

不例、

は、

常と変わる、
常ならず、

の意味でしかない(字源)が、その、

例でない、

の意から

貴人の病むこと、

に使う(広辞苑)のはわが国だけの用例である(字源)。日葡辞書(1603~04)には、

ゴフレイデゴザル

とあるように、さらに接頭語「ご」をつけて、

御病気、

の意で、

就寝之後、或人云、俄上皇御不例、殊以重御……(玉葉和歌集)、

と、

貴人を敬って、その人の体の状態が通常でないこと、

をいったりする(仝上)。江戸期の『書言字考節用集』には、

不例、フレイ、違例、義仝、

とある(大言海)。

違例、

は、

いつもの霊と違うこと、
常態と違うこと、病気、不例、

の意である(広辞苑)。江戸後期の『類聚名物考』では、

不例、フレイ、思フニ、コノ詞、古ヘハ貴賤上下ノワカチナクイヘリ、今ハ、大貴人ナラデハ申サヌコトトナレリ、

とある。

「例」.gif

(「例」 https://kakijun.jp/page/0816200.htmlより)

「例」(漢音レイ、呉音レ)は、

会意兼形声。列は「歹(ほね)+刀」の会意文字で、裂(レツ いくつにも切りさく)の原字。例は「人+音符列」で、いくつにも裂けば、同類の物が並ぶことになるから、列や裂と同系。また列と例とは意味が近い、

とある(漢字源)。別に、

会意形声。人と、列(レツ)→(レイ)(ならび)とから成り、人の「たぐい」の意を表す。ひいて、ならわしの意に用いる、

ともある(角川新字源)が、この両説は、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とされhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%8B

形声。「人」+音符「列 /*RAT/」、

と(仝上)、形声文字としている。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:49| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月05日

真木


さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ(新古今和歌集)、

の、

真木、

は。

杉や檜などの常緑針葉樹、

で、

真木立つ、

は、萬葉集に、

み吉野の真木立つ山ゆ見降(おろ)せば川の瀬ごとに明(あ)け来れば、

と、

しばしば見える句、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

真木、

は、

ま、

は、

美称の接続詞、

で(日本語源大辞典)、

立派な木(広辞苑)、
すぐれた木(日本語源大辞典・精選版日本国語大辞典)、

の意である。

真木、

は、

槙、
柀、

とも当て(大言海・岩波古語辞典)、

檜・杉・松・槇など、堅いので建築に適する材をいう

と(岩波古語辞典)、

常緑の針葉樹の総称、

とされる(学研全訳古語辞典)が、

特に、檜にいう(動植物名よみかた辞典)、
多くは、檜の美称(広辞苑)、
杉の古名(広辞苑)、
柀は杉の一名、古書のマキは杉なり、槙は真木の俗用(大言海)、
檜の異名、檜を褒めて云ふ語(大言海)、

とあり、様々な、用途やら材質やらで、対象が異なるようだが、新撰字鏡(898~901)には、

槙、万木、

とあり、和名類聚抄(931~38年)には、

柀、木名、作柱埋之、能不腐者也、末木、……又杉一名也、

とある。

真木柱作る杣人(そまびと)いささめに仮廬(かりほ)のためと作りけめやも(万葉集)、

と、

真木柱(まきばしら)、

というと、

杉や檜などの材で作った柱、

をいう(精選版日本国語大辞典)ので、

杉、
や、
檜、

など、建築材としてのすぐれた材をいったものだと思われる。ただ、

真木、

には、

又、胸の毛を抜き散つ。是れ、檜(ひのき)に成る。尻の毛は是れ、柀(マキ)に成る(日本書紀)、

の、

一位科の山地自生の常緑喬木、高さ六十尺に達す。樹皮灰黒色にして、浅く縦裂す。葉は狭長にして、厚く尖り、表は緑色、裏は青白色にて、互生す。花期は五月、雌雄同株、果実は楕円形にて括れり、下部は肉質にて赤く、上部は緑色なり。材は建築用、又は器具用となる、

とある(大言海)、

こうやまき(高野槇)、
いぬまき(犬槇)、
らかんまき(羅漢槇)、

の異名(仝上・精選版日本国語大辞典・動植物名よみかた辞典)でもある。

推定樹齢約400年のコウヤマキ.jpg

(推定樹齢約400年の高野槇(コウヤマキ) https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page000478.htmlより)

さまざまな樹木の異名である、

真木、

の由来には、

圓木(マルキ)の約、柀は、皮木の合字、皮つきのままにて用ゐる意ならむ。或は、埋木(ウメキ)の約轉と云ふはいかがか(大言海)、
メハリキ(芽張木)の義(日本語原学=林甕臣)、

等々の異説もあるが、

マキ(真木)の義(名語記・和句解・東雅・袂草・言元梯・名言通・和訓栞・言葉の根しらべの=鈴木潔子)、

つまり、

マは美称、木の中の第一の物である(蒹葭堂雜録)、
ほめことばで佳い木という意(語源辞典・植物篇=吉田金彦)、

というところなのだろう(日本語源大辞典)。

「眞」.gif

(「眞(真)」 https://kakijun.jp/page/shin10200.htmlより)

「眞(真)」(シン)は、「真如」で触れたように、

会意文字。「匕(さじ)+鼎(かなえ)」で、匙(さじ)で容器に物をみたすさまを示す。充填の填(欠け目なくいっぱいつめる)の原字。実はその語尾が入声に転じたことば、

とあり(漢字源)、

会意。匕(ひ)(さじ)と、鼎(てい)(かなえ)とから成り、さじでかなえに物をつめる意を表す。「塡(テン)」の原字。借りて、「まこと」の意に用いる(角川新字源)、

会意文字です(匕+鼎)。「さじ」の象形と「鼎(かなえ)-中国の土器」の象形から鼎に物を詰め、その中身が一杯になって「ほんもの・まこと」を意味する「真」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji505.html

等々と同趣旨が大勢だが、

形声。当初の字体は「𧴦」で、「貝」+音符「𠂈 /*TIN/」。「𧴦」にさらに音符「丁 /*TENG/」と羨符(意味を持たない装飾的な筆画)「八」を加えて「眞(真)」の字体となる。もと「めずらしい」を意味する漢語{珍 /*trin/}を表す字。のち仮借して「まこと」「本当」を意味する漢語{真 /*tin/}に用いる、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%9C%9F

甲骨文字や金文にある「匕」(さじ)+「鼎」からなる字と混同されることがあるが、この文字は「煮」の異体字で「真」とは別字である。「真」は「匕」とも「鼎」とも関係がない、

とある(仝上)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:58| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月06日

もろかづら


見ればまづいとどいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけ離れけむ(鴨長明)、

の、

もろかづら、

は、

桂の枝に賀茂葵を付けた鬘、また、賀茂葵そのものをもいう、

とあり、ここでは、

その意で形容詞「もろき」を掛ける、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

かけ離れけむ、

の、

「かけ」は「かづら」の縁語、

とあり、

源氏物語・蓬生の巻で末摘花が詠んだ「絶ゆまじき筋を頼みし玉鬘思ひのほかにかけ離れぬる」を念頭に置くか、

とある(仝上)。

もろかづら、

は、

諸鬘、
諸葛、

と当て、

もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらん(大鏡)、

と、

賀茂の祭の時、桂の枝に葵(二重葵)をつけて、簾にかけ、また頭などにかざしたもの、

とあり(広辞苑)、

葵のみかけるのを、

片かづら、

といい、また、その葵のことをいう(仝上)とある。

かづら、

は、「山かづら」で触れたように、

鬘、

とあて、

カミ(髪)ツラ(蔓)の約(ツラはツル(蔓)と同根)、

で、

蔓草で作った髪飾り、

をいい(岩波古語辞典)、上代、

蔓草を採りて、髪に挿して飾りとしたるもの、又、種々の植物の花枝などをも用ゐたり、後の髻華(ウズ)、挿頭花(かざし)も、是れの移りたるなり、

とある(大言海)。

髻華(うず)、

は、

巫女の頭飾りのルーツ、

で、

山の植物の霊的なパワーを得るため髪や冠に草花や木の枝を挿す、

ものとされ、現在の巫女の頭飾りに用いる花もこれを踏襲しているhttps://gejideji.exblog.jp/31187471/し、

挿頭、
挿頭華、

とも当てる、

秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(万葉集)、

の、

かざし、

は、上代、

草木の花や枝などを髪に挿したこと。また、挿した花や枝、

をいい、平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた(デジタル大辞泉)とあり、やはり、

幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったもの、

とある(仝上)。古墳時代には、これを、

髻華(うず)、

といい、飛鳥時代には、髪に挿すばかりではなく、冠に金属製の造花や鳥の尾、豹(ひょう)の尾を挿して飾りとし、平安時代になって、冠に挿す季節の花の折り枝や造花を、

挿頭華(かざし)、

とよぶようになった。造花には絹糸でつくった糸花のほか金や銀製のものがあった。

なお、「かづら」、「挿頭(かざし)」については触れた。

もろかずら、

は、

葵鬘・葵桂(あふひかづら)、

ともいい(精選版日本国語大辞典・大言海・岩波古語辞典)、

諸葉(もろは)葵、即ち、賀茂葵と、桂とを組み合わせたもの、

をいい、

賀茂祭の時、祭に加わる人々、皆、烏帽子に挿して、飾りとしたり、其外、参加の牛車(ぎっしゃ)の簾などにも懸け、禁中にても、諸所に懸けられたり、これによりて、賀茂祭を葵祭とも云ふ、

とある(大言海)。平安中期の『親信卿記』(天延元年(974)四月十四日)に、

祭也、十五日、葵桂、各二折櫃、

とあり、注に、

上御社二櫃、下御社二櫃、……結付畫御帳犀角邊、結付南殿御帳、

とある。上記の、

葵(フタバアオイ)の葉と桂の枝を組み合わせたもの、

を、

諸鬘(もろかずら)、

葵だけのもの、

を、

片鬘(かたかずら)、

というのは、この故である。

元来は、

もろかづら、

は、

葛を匍ふにつきて云ふ語、或は云ふ、楓(かつら)と葵(あふひ)とをかねて云ふ語、

とあり(大言海)、

二葉の葵、

を言い、

ふたばあおい(双葉葵)の異名、

でもあり(精選版日本国語大辞典)、

もろはぐさ(諸葉草)、

といい、

賀茂葵、

ともいう(大言海)。

双葉葵.jpg

(双葉葵 https://www.hana300.com/futaba1.htmlより)

ふたばあふひ(二葉葵)、

は、

かざしぐさ、
ふたばぐさ、
あふひ、

ともいう(大言海)が、

ウマノスズクサ科の夏緑多年草。カモアオイともいう。根茎は太く、地表をはい、先端から名前のように通常は2枚の葉を出す。葉は長い葉柄を有し、円心形で、質は薄く、縁にはまばらな毛がある。春、葉の展開とともに葉間から葉柄よりも短い花梗を出し、その先に1筒の花をうつむきかげんにつける。萼片は汚黄白色で紫褐色を帯びる。基部は筒状となり、先端の裂片は完全に反り返るので、花の全形は椀状に見える。花被は花後も宿存し、果実の成熟とともにくずれ、種子を散布する、

とあり(世界大百科事典)、徳川家の家紋は3枚のフタバアオイの葉を図案化したものである。

賀茂祭、

については、「返さの日」、「齋院」でも触れたが、

京都の賀茂別雷神社(上社)・賀茂御祖神社(下社)の例祭、

で、

葵祭、

とも、また石清水八幡宮の祭(南祭)に対して、

北祭、

ともいった(仝上)。古代には、

単に祭といえばこの祭を指した、

とされ、

欽明朝、気候不順、天下凶作のため卜部伊吉若日子をして占わしめたところ、賀茂神の祟とわかったので神託により馬に鈴をかけ人には猪頭を被せて馳せしめたのが祭の起りである、

と社伝はいう。

和銅四年(711)四月詔して以後毎年祭日には国司の検察を定められ、大同元年(806)四月、中酉日をもって官祭を始め、嵯峨天皇弘仁元年(810)斎院をおき、皇女有智子内親王を斎王として祭に奉仕させて以来、後鳥羽天皇に及び、歴代の内親王が斎王となる慣例とされた。祭の始まる前の午または未の日、斎王の御禊が賀茂川で行われる。当日は斎王の行列はまず下社、ついで上社に向かうが、これに勅使や東宮・中宮などの御使も加わり、その服装・車など華麗を極めるので、貴賤を問わず観衆が雑踏する、

とある(国史大辞典)。行列は、江戸時代前期の神社由来書『賀茂注進雑記』に、

歩兵左右に各四十人、騎兵左右に各六十人、郡司八人、健児左右各十人、検非違使十人、史生・さかん(目)・掾各一人、山城守(または介)一人、内蔵寮の官幣、中宮・東宮の御幣、宮主、東宮・中宮の走馬各二疋、馬寮の走馬左右各六疋、東宮の御使、中宮の使、馬寮の吏、近衛使、内蔵寮吏、中宮の女蔵人、内蔵人、中宮の命婦、左右の衛門・兵衛・近衛各二人、斎長官御輿駕輿丁前後二十人、御輿の長(おさ)左右各五人、女孺(はしりわらわ)各十人、執物十人、腰輿、供膳の唐櫃三荷、雑器の物二荷、膳部六人、陰陽寮漏刻、騎女十二人、童女四人、院司二人、唐櫃十荷(神宝)、蔵人所陪従六人、御車、内侍車、女別当車、宣旨車、女房車、馬寮車、

の順とあり、下社では宣命の奏上、奉幣、ついで東遊・走馬が行われる。上社も同様である。翌日は還立(かえりだち)の儀がある(仝上)という。

「諸」.gif

(「諸」 https://kakijun.jp/page/1595200.htmlより)


「諸」.gif


「諸(諸)」(ショ)は、

会意兼形声。者(シャ 者)は、こんろに薪をいっぱいつめこんで火気を充満させているさまを描いた象形文字で、その原義は暑(暑)・煮󠄀などにあらわれている。諸は「言+音符者で、ひとところに多くのものがあつまること、転じて、多くの、さまざまな、の意を示す、

とある(漢字源)。別に、

会意兼形声文字です(言+者(者))。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「台上にしばを集め火をたく象形」(「集まって多い」の意味)から、「もろもろ(多くの)」を意味する「諸」という漢字が成り立ちました。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「これ」の意味も表すようになりました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji920.html

「葛」.gif

(「葛」 https://kakijun.jp/page/kuzu200.htmlより)

「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、「葛の葉」で触れたように、

会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、

とある(漢字源)。「くず」の意である。また、

会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji2110.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B

形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、
形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、

とする説がある。

「鬘」.gif


「鬘」(慣用マン、漢音バン、呉音メン)は、「玉かづら」で触れたように、

会意兼形声。「髟(かみの毛)+音符曼(かぶせてたらす)」、

とあり(漢字源)、「髪がふさふさと垂れさがるさま」「インドふうの、花を連ねて首や体を飾る飾り」(仝上)の意である。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:17| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月07日

しきみ


しきみ摘む山路の露に濡れにけり暁おきの墨染の袖(小侍従)

の、

しきみ、

は、

モクレン科の常緑低木、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。『和名類聚抄』(931~38年)木類に、

樒、之岐美、香木也、

同『和名類聚抄』木類に、

莽草、之木美、可以毒魚者也、

『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)にも、

莽草、之岐美乃木、

とある。。この、

莽草、

の、

莽、

は「罔」と音通で、本来食すると「迷罔(=正気を失う)」するような有毒な草を意味したが、後に毒のある木に転用され、八角茴香と同種で有毒な木(即ちシキミ)を指すようになった、

とある(精選版日本国語大辞典)。

シキミ.jpg


しきみ、

樒、
櫁、
梻、

と当てるが、

梻、

は、もっぱら、仏前に供えたところから、

榊(さかき)、

に対して、

梻、

という国字が作られた(岩波古語辞典)。

モクレン科の常緑小高木(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・日本語源大辞典)、
シキミ科の常緑小高木(動植物名よみかた辞典・世界大百科事典)、

とされたりするが、現在は、

マツブサ科(旧キシミ科)の常緑小高木、

とされ(広辞苑・デジタル大辞泉)、

各地の山林に生え、墓地などにも植えられる。高さ三~五メートル。葉は互生するが枝先に密につくため輪生状に見え、革質の倒卵状狭長楕円形で長さ約七センチメートル。分枝も葉と同様やや輪生状に出る。春、葉腋(ようえき)に淡黄白色の花被をもつ径約二・五センチメートルの花をつける。果実は有毒で径約二センチメートルの扁平な球形。熟すと星形に裂け、黄色の種子をはじき出す。全体に香気があり、枝を仏前にそなえ、葉から抹香(まっこう)や線香をつくる。材は数珠(じゅず)などとする。材は有用で、緻密(ちみつ)で粘り強く、割れにくいといわれている、

などとある(精選版日本国語大辞典・広辞苑・世界大百科事典)。また、

シキミは果実に毒があり、香りも強いため、新しい墓や山の畑に植えて、害獣の被害を防ぐことも行われる、

ともある(仝上)。なお、シキミとしばしば混同された、

トウシキミ(八角茴香(ういきよう)または大茴香)、

の果実は、香辛料として有名で、欧米ではスター・アニスstar-aniseとして珍重されたが、シキミは全木有毒で、果実はとくに毒性が強く、甘いが食べると死亡することすらある。殺虫剤としても使われる、

という(仝上)。

しきみ、

は、別に、

キシビ、
コウシバ、
木密、
仏前草、
はなのき、
こうのき、
まっこうぎ、
樒(きしみ)の木、
莽草(もうそう)、
花柴(はなしば)、
花榊(はなさかき)、

などともいう(仝上・デジタル大辞泉)。

シキミの花.jpg


奥山の之伎美(シキミ)が花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ(万葉集)、

と、

しきみの花、

も詠まれている。

きしみ、

の由来は、

重實(シキミ)の義、實、重(しげ)くつく故かと云ふ。神武紀の長歌「イチサカキ、ミノ多ケク(しきみナリト)」と見えたり、字も、木蜜を二合して作れり、多く佛に供すれば、木佛の二合字もあり(大言海)、
実が多くつくところから、シキミ(繁子)の義(万葉考)、
実に毒があるところから、アシキミ(惡実)の上略(日本釈名・滑稽雑誌所引和訓義解・塩尻拾遺・日本語の語源)、
花が咲かずに実がなるところから、イヤシキ実か(和句解)、

などと、

「しきみ」の「み」を「実」の意、

とする説は、

上代では「実」が乙類の仮名で記されているのに対し、「しきみ」の「み」は甲類の仮名で表記されているから別語、

とある(精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)。

シキミの種.jpg


その他、

シキは、その葉のシゲキ(茂)ところから、ミは助詞(東雅)、
動詞シク(瀕・重)の派生形シキム・シキブの連用形からか(語源辞典・植物篇=吉田金彦)
シはクシ(臭)の約(松屋筆記)、
シキメキ(繁芽木)の義(日本語原学=林甕臣)、
シゲモリ(茂守)の義(名言通)、
「敷き+満つ」、匂いの敷き満つ木の音韻変化(日本語源広辞典)、

等々とあるが、はっきりしない。ただ、

しきみ、

の異名、

花柴(はなしば)、

については、

「Fanna Skiba」は「花がたくさん咲く臭き葉しきば」であり、「くしきは」が 「Skiba シキバ」になった、

とする説(廻国奇観)があり、

それとの類比で、

木全体に芳香があるため、「臭き木、臭き実」の意味から、「臭実 :くしきみ」という名が起こり、それが「シキミ」となった、

とするhttps://warpal.sakura.ne.jp/kbg/shikimi/shikimi.html。上述のように、「実」の音韻上の難点があるので、賛同しかねるが、この「匂い」との関連に、語源がありそうではある。なお、

榊、

が神事に使われるのに対し、

しきみ、

は花柴(はなしば)、花榊(はなさかき)とも呼ばれるように、仏前に供えたり棺に入れるなど、おもに仏事や葬式に用いられ、墓などによく植えられるし、葉や樹皮からは抹香や線香も作られる。しかし、平安中期の神楽歌の中に、

榊葉の香をかぐわしみ求めくれば八十氏人ぞ圓居せりける 圓居せりける、

とあるように、シキミも古くは、

神事用の常盤木(ときわぎ)であるサカキの一つ、

として、

神仏両用に使われ、独特の香りをもつために、香の木、香の花、香柴とも呼ばれた。中世に入ると、シキミはもっぱら仏事に使用されるようになったが、京都の愛宕(あたご)神社ではシキミを神木としており、また愛知県北設楽郡などでは門松にシキミを使うように、少数ながら仏事以外に用いる例もある、

とある(世界大百科事典)。

「樒」.gif



「櫁」.gif


「樒(櫁)」(漢音ビツ、呉音ミツ・ミチ)は、

会意兼形声。「木+音符密(びっしり茂る)」、

とある(漢字源)。なお、

「樒」と「櫁」は同字、

とありhttps://kakijun.jp/page/mitb18200.html

「樒」が正字、「櫁」が異字体、

であるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AB%81。なお、字通には、

形声。声符は密(みつ)。〔玉篇〕に「香木なり。香を取るときは、皆當(まさ)に豫(あらかじ)め之れを斫(き)るべし。久しくして乃ち香出づ」とあり、字は蜜に従う。空海の〔篆隷万象名義〕には字を樒に作り、「香水、朽腐するもの」とする。中国では〔明史〕に「朱睦樒」という人名がみえる。〔和名抄〕に「之岐美(しきみ)」と訓するが、〔本草和名〕には莽草を「之岐美乃木(しきみのき)」と訓している。

「梻」.gif


「梻」(シキミ)は、

会意。「木+佛」で、佛前に供える木の意からの和製漢字、

である(漢字源)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:25| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月08日

もどく


永らへて生きるをいかにもどかまし憂き身のほどをよそに思はば(源師光)

の、

もどかまし、

は、

もどく、

の未然形に、

(とてもかなわぬことだが)もし……だったら……だろう、

の意の助動詞、

まし、

が付いた形で(広辞苑)、

生き永らえていることをどんなに非難することだろうか、もしつらい私の身分を他人事だとおもったならば、

と訳注がある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

「憂き身のほど」(低い社会的身分)であることを自身知っているから、他者が生き永らえていることを非難できない、

という含意である(仝上)と。

もどく、

は、

擬く、
抵牾く、
牴牾く、

と当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、上述のように、

をさをさ、人の上もどき給はぬおとどの、このわたりのことは、耳とどめてぞ、おとしめ給ふや(源氏物語)、

と、

さからって非難または批評する、
また、
そむく、
反対して従わない態度を見せる、

といった意味であるが、

がんもどき

の、

それに似て非なるものである、まがいもの、

の意の、

もどき、

は、

もどくの連用形の名詞化、

であり、

此七歳(ななとせ)なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文をつくりかはしければ(宇津保物語)、

と、

他と対抗して張り合って事を行なう、
他のものに似せて作ったり、振舞ったりする、
まがえる(紛)、

意でも使う(仝上)。

ただ、

非難する、

意と、

他のものに似せて作る、

とでは意味に乖離がありすぎる。大言海は、

擬く、

と当てる「もどく」と、

抵牾く、
牴牾く、
柢梧く、

と当てる「もどく」というを項を別にしている。前者は、

欺く、
まがへる、
他物をもて似せて作る、

意とし、後者は、

戻るの他動、戻り説くの意、

として、

もとらかす、
逆らふ、
然はあらずと批判す、
非難す、

の意とする。この意味に当ててている、

牴牾(ていご)、

は、

甚多疎略、或有牴牾(漢書・司馬遷傳)、

と、漢語で、

牴、

は、

さわる、

意、

牴觸、

の、

牴(抵)、

中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、

牴、觸也、

とあり、

牾、

は、

逆(さか)ふそむく、
悖る、

意、

迕(ゴ さからう)、

と同義で、明代の『正字通』には、

牾、與忤逆通、

とあり、

牴牾、

は、

互いに相容れざること、
かれとこれと食い違ふこと、
背戻、

の意である。その意味で、

互いに相容れざること、

非難する、

という意味の流れはわかるが、

他のものに似せて作る、

という意味へは架け橋がない。

もどく、

の語源説も、

モドク(戻)の義か(志不可起)、
モドカス(戻)の義(名言通)、
モドはモドス(戻)・モヂル(捩)と同根(岩波古語辞典)、
戻り説くの意(大言海)、
モソムク(茂背)の略転(柴門和語類集)、

と、

戻る、

との関連を見る説が大半で、使われる意味の幅との関連が分からない。ただ、

モドはモドス(戻)・モヂル(捩)と同根、

とする説(岩波古語辞典)は、つづけて、

ねらった所、収まるべき所に物事がきちんと収まらず、はずれ、くいちがうさま、

が原義とする(仝上)。とすると、

他に似せて作る、

というのではなく、本来は、上述の、

此七歳(ななとせ)なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文をつくりかはしければ(宇津保物語)、

は、

他と対抗して張り合って事を行なう、

のが含意で、そこから、しかし、

うまく真似できないながら、真似をする、

似て非なるまねをする、

となり、その状態表現である主体表現が、

あやしくひがひがしくもてなし給ふをもどき口ひそみ聞こゆ(源氏物語)、

と、

似て非だという様子を示す、

相手を誹謗し、非難する、

と、客体表現の価値表現へと転換していく(岩波古語辞典)とみれば、意味の外延をたどることができる。どうも、

牴牾、

は、意味が転換してから当てたものではないか、と想像される。

非難する、
悪くいう、
悪口のかぎりをつくす、

意で使う、

人にさしもどかるる程の事はなかりしに(平治物語)、

の、

さしもどく(差し牴牾く)、

は、その結果生まれた言葉ではあるまいか。「差し」は「さし」で触れたように、「もどく」を強めている。

ところで、

もどかまし、

の、

まし、

は、

ませ(ましか)・〇・まし・まし・ましか・〇、

と活用し、

用言・助動詞の未然形に付く、

推量の助動詞である(精選版日本国語大辞典)。

奈良時代には未然形「ませ」、終止形「まし」、連体形「まし」しかなかったが、平安時代に入って、已然形「ましか」が発達し、それが未然形に転用された、

とあり(岩波古語辞典)、

かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずそあるべくありける(万葉集)、

と、

現実の事態(A)に反した状況(非A)を想定し、「それ(非A)がもし成立していたのだったら、これこれの事態(B)がおこったことであろうに」と想像する気持ちを表明するもの、

で、

反実仮想の助動詞、

といい(仝上)、多く上に、「ませば」「ましかば」「せば」などを伴って、事実に反する状態を仮定し、それに基づく想像を表し、

もし…だったら…だろう、

の意となる(精選版日本国語大辞典)。

らし、

が、

現実の動かし難い事実に直面して、それを受け入れ、肯定しながら、これは何か、これは何故かと問うて推量する、

のに対して、

まし、

は、

動かし難い目前の現実を心の中で拒否し、その現実の事態が無かった場面を想定し、かつそれを心の中で希求し願望し、その場合起るであろう気分や状況を心の中に描いて述べる、

ものである(岩波古語辞典)。これは、推量の「む」から、

mu+asi→masi、

と転成したとされ(仝上)、

かむな月雨間も置かず降りにせばいづれの里の宿か借らまし(万葉集)、
あな恋し行きてや見まし津の国の今もありてふ浦の初島(後撰和歌集)、

と、

疑問の助詞「か」あるいは「や」と共に用いて、「……か……まし」となった場合、及び「……ましや」と用いた場合には、

…しようかしら、
…したものだろうか、

と、迷い・ためらいの気持を表す(仝上・精選版日本国語大辞典)とある。

「擬」.gif

(「擬」 https://kakijun.jp/page/1708200.htmlより)

「擬」(漢音ギ、呉音ゴ)は、

会意兼形声。疑は「子+止(あし)+音符矣(アイ・イ 人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子どもに心が引かれて足を止め、どうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は「ためらう、うたがう」意に傾いた、

とある(漢字源)。「擬案」(案を擬す じっと考えて案を寝る)の意と、「模擬(本物に似せる)」、「擬古(昔に似せる)」の意があり、「もどく」に、これを当てたのは慧眼と言っていい。別に、

会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、

と同じく会意兼形声文字とする説https://okjiten.jp/kanji1783.htmlもあるが、

形声。手と、音符疑(ギ)とから成る。おしはかる意を表す(角川新字源)、
形声。「手」+音符「疑 /*NGƏ/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%93%AC

と、形声文字とする説がある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:17| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月09日

まうし


なさけありし昔のみなほ偲ばれて永らへまうき世にも経(ふ)るかな(西行法師)

の、

永らへまうき、

の、

まうき、

は、

ま憂き、

で、

まほしき、

の反対(久保田淳訳注『新古今和歌集』)とある。

まうし、

は、

推量の助動詞ムのク語法マクにウシ(憂)のついたマクウシの音便形か(岩波古語辞典)、
推量の助動詞「む」の未然形「ま」に接尾語「く」が付き、さらに、形容詞「憂し」が付いた「まくうし」の音変化(デジタル大辞泉)、

などとされ、

◯・まうく(まうかり)・◯・まうき・まうけれ・◯、

のク活用型活用、

で、

動詞型活用の未然形に付く、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

その動作をするのに、気分が進まない、

という意を表わし(仝上)、

それをする気がおこらない、
……だろうとと思うだけでいやになる、
思っただけで気がすすまない、
……したくない、
……するのがいやだ、

等々という意で使う(仝上・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。

「まほし」の反対語、

だが、これは、

「まほし」が「まく欲し」から出たと同様、「まく憂し」から変化したと考えられる。しかし、「まく憂し」の形は実例がないので、「まほし」の成立後、その類推によって生じたものと見られる、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

希望の助動詞「まほし」が「ま欲し」と理解され、その類推として成立した、

という(デジタル大辞泉)、「まほし」から対比して作られたもののようだ。

平安中期から鎌倉時代まで用いられた。用例はあまり多くない、

とある(精選版日本国語大辞典)。

まほし、

は、奈良時代にあった、

まくほし、

が転じたもの(岩波古語辞典)で、

春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも(万葉集)、

の、

見まく、

は、「見む」のク語法で、「見むこと」の意であり、「ほしき」は形容詞である。これが、

ほとときすなくさほやまのまつのねのねもころ見まくほしき君かも(万葉集)、

と使われて、奈良時代、

まくほし、

という形が成立、平安時代、音便によって、

まうほし、

と転訛し、さらに、音が詰まって、

まほし、

となった(岩波古語辞典)。鎌倉時代になると、擬古的な文章を除いて一般的には、

たし、

が多用されるようになり、中世以後は雅語と意識された(精選版日本国語大辞典)とある。

希求の意を表し、

……してほしい、

という意で、

あはぬまでも、見に行かまほしけれど(宇治拾遺物語)、

話し手の希望、

を、また、

すこしもかたちよしと聞きては、見まほしうする人どもなりければ、かぐや姫を見まほしうて(竹取物語)、

と、

話し手以外の人の希望、

をも表わし、「あらまほし」の形で、

人は、かたち、ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ(徒然草)、

と、

……あってほしい、

と、

他に対する希望や期待の意、

を表す(デジタル大辞泉)。活用は、

(まほしく)、まほしから・まほしく、まほしかり・まほし・まほしき、まほしかる・まほしけれ・〇、

で、

動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する、

とある(精選版日本国語大辞典)。

なお、語幹相当部分に接尾語「がる」「げなり」の付いた、

御供に我も我もと物ゆかしがりて、まう上らまほしがれど(源氏物語)、
ことしも心ちよげならむ所のかぎりせまほしげなるわざにぞ見えける(かげろふ日記)、

と、

まほしがる、
まほしげなり、

の形もある(デジタル大辞泉)。

「憂」.gif

(「憂」 https://kakijun.jp/page/1532200.htmlより)


「憂」 金文・戦国時代.png

(「憂」 金文・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%86%82より)

「憂」(漢音ユウ、呉音ウ)は、

忧(簡体字)、𠪍(古字)、𩕂(同字)、𠮕(同字)、

が異体字とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%86%82)

会意文字。「頁(あたま)+心+夂(足をひきずる)」で、頭と心が悩ましく、足もとどこおるさま。かぼそく沈みがちな意を含む、

とある(漢字源)。同趣旨で、

会意。心と、頁(けつ)(あたま)とから成り、心配なことが顔に出ることから、「うれえる」意を表す。常用漢字は、のち、夊(すい)(あし。夂は変わった形)が加わった会意形声字で、おだやかに歩く意を表したが、借りて「うれえる」意に用いられる、

ともある(角川新字源)が、

会意。「頁(=頭)」+「心」+「夊(=足:歩む様)」、思い悩みふらふらと歩くさま。「心」+「夊」は「愛」の構成要素でもある。この記述は金文などの資料と一致していない記述が含まれていたり根拠のない憶測に基づいていたりするためコンセンサスを得られていない、

とされhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%86%82

形声。「心」+音符「夒 /*NU/」[字源 1]。また一説に、「心」+音符「頁(首) /*LU/」[字源 2]。{憂 /*ʔ(l)u/}を表す字、

とある(仝上)。別に、

会意兼形声文字です(頁+心+夂(夊))。「人の頭部を強調した」象形と「心臓」の象形と「下向きの足」の象形から、「頭・心を悩ます・心配する」を意味する「憂」という漢字が成り立ちました。また、「優(ユウ)」に通じ(同じ読みを持つ「優」と同じ意味を持つようになって)、「おだやかに行われる」の意味も表すようになりました、

https://okjiten.jp/kanji1776.html、会意兼形声文字とする説もある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:まうし まほし
posted by Toshi at 04:37| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月10日

片そぎ


わが恋は千木(ちぎ)の片そぎかたくのみゆきあはで年のつもりぬるかな(大炊御門右大臣)、
夜や寒き衣やうすき片そぎの行合ひの間より霜やおくらむ(住吉御歌)、

の、

片そぎ、

は、

千木(棟で交叉して高く突き出ている社殿の両端の材)の片端を縦に切り落としてあること、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

千木

については触れたが、「千木」は、

社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木、

を指し、

古代の家は、この突き出た端を切り捨てなかった、

が(岩波古語辞典)、後世、

破風と千木とは切り離されて、ただ棟上に取り付けた一種の装飾(置千木)となる、

とある(広辞苑)。

上代の家作に、切棟作りの屋根の、左右の端に用ゐる長き材にて、基本は、前後の軒より上りて、棟にて行き合ふを組交へ、其組目以上、其梢を、そのまま長く出して空を衝くもの。其組目より下は、椽(タルキ)と並び、又、屋根の妻にては、搏風(ハフ)となる、

という(大言海)。

だから、「ちぎ」は、

千木、
知木、
鎮木、

等々と当てる(仝上)とともに、

搏風、

とも当てている(日本語源大辞典)が、本来、「搏風」は、

榑風、

なので、「ちぎ」に当てた字も、

榑風、

なのではないか。神武紀にある、

太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、

も、

榑風、

を、

ちぎ、

と訓ませている(大言海)。「榑」(漢音フ、呉音ブ)は、「榑(くれ)」で触れたように、

会意兼形声。旁の部分(フ・ハク)は、大きく広がる意を含む。榑はそれを音符とし、木を添えた字、枝の広がった大木、

とある(漢字源)。「榑桑」は、太陽の出る所にあるといわれる神木、「扶桑」とも書く、わが国では、

皮のついたままの丸太、

の意である(漢字源)。これを交叉させて、上にで突き出た分が、

千木(榑風)、

山形に交叉した部分が、

搏風(榑風 ハフ)、

となった。「千木」は、

氷木(ひぎ)、

ともいう(広辞苑・岩波古語辞典)。『古事記』の出雲大社創建条は、

氷木(ひぎ)、

であり、また、

冰椽、

とも表記され、『日本書紀』の神武天皇紀にも、上述のように、

太立宮柱於底磐之根、峻峙榑風(チギ)於高天原、

と「チギ」と訓ませている。『延喜式』の祝詞において、

高天原の千木に高知りて、

と、「千木」の表記が現れ、平安時代中期には、

チギ、

と訓んだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9C%A8%E3%83%BB%E9%B0%B9%E6%9C%A8・岩波古語辞典)。

片削ぎ、

は、

千木

には、

其梢の一角を殺ぐを、カタソギと云ふ。伊勢の内宮なるは内角を殺ぎ、外宮なるは外角を殺ぐ、共に共に風穴を明く、

とがあり(大言海)、例外もあるが、

千木には矩形(くけい)の穴があけられており、これを風切穴(かざきりあな)という。千木上部が水平になる内殺(うちそぎ)と、外側が垂直になる外殺(そとそぎ)があり、前者は女神、後者は男神が祭神の本殿を飾る千木という、

らしく(仝上)、

女千木(めちぎ)男千木(おちぎ).jpg

(女千木(めちぎ)男千木(おちぎ) https://izumo-enmusubi.com/entry/chigi/より)

内そぎは女千木(めちぎ)で女神を表す、
外そぎは男千木(おちぎ)で男神を表す、

となる(https://izumo-enmusubi.com/entry/chigi/)。つまり、

片削ぎ、

は、

かたそぎの月を昔の色とみて猶しもはらふ松の秋風(新後撰和歌集)、

と、

片方をそぎ落とすこと、

また、

そぎ落としたもの、

の意だか、ここでは、

神殿の千木、

を指す。

神殿の千木(ちぎ)が、先端を水平または垂直にそぎおとしてあるから、

である(広辞苑)。

「削」.gif

(「削」 https://kakijun.jp/page/0914200.htmlより)


「削」 楚系簡帛文字.png

(「削」 楚系簡帛文字(簡帛は竹簡・木簡・帛書全てを指す) 戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%8Aより)

「削」(①漢音シャク・呉音サク、②漢音呉音ショウ)、

は、

会意兼形声。小は、真ん中の丨印をけずって、その細片の散るさまを示す。肖は、肉を細く削ること。削は「刀+音符肖(ショウ)」で、刀で細くけずること。小・肖の原義を表す、

とある(漢字源)。「削除」「削滅」などは①の音、鞘(ショウ)のに当てた、細いさやの意の場合、②の音である(仝上)。同趣旨だが、

会意兼形声文字です(肖+刂(刀))。「小さな点の象形と切った肉の象形」(骨肉の幼く小さいものの意味から、「小さい」の意味)と「刀」の象形から、「刀で小さくする」、「けずる」を意味する「削」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1636.htmlが、

形声。「刀」+音符「肖 /*SEW/」https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%89%8A

形声。刀と、音符肖(セウ)とから成る。刀のさやの意を表す。借りて「けずる」意に用いる(角川新字源)、

は、形声文字とする。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:17| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月11日

玉依姫


白波に玉依姫(多万余理毗咩 たまよりひめ)の来(こ)しことはなぎさ(渚)やつひに泊りなりけむ(大江千古)、

の、

玉依姫、

は、

海神の娘。豊玉姫の妹で、神武天皇の母、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

玉依姫、

は、

たまよりひめ、

と訓むが、古くは、

たまよりびめ、

と訓まし(精選版日本国語大辞典)、

記紀神話で、海の神、綿津海(わたつみ)神の女(むすめ)、姉の豊玉姫が天孫彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の子彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)を産み落として去った後、其の子を養育した。その後、育てた彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と結婚して、神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと 神武天皇)を含む四人の男子を産んだとされる、

とも、

『山城国風土記』逸文にみえる女神。神武天皇の先導をしたと伝える賀茂建角命(かもたけつのみのみこと)の女、丹塗矢(にぬりや)と化して瀬見の小川を流れ下ってきた火電神(ほのいかずちのみこと)との間に、賀茂別雷命(可茂別雷命 かもわけいかずちのみこと 賀茂氏の祖神)を生んだ、

ともあり(広辞苑・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、固有名詞のように扱われているが、

「たま」は魂、「より」は憑依する、

意の(精選版日本国語大辞典)普通名詞で、

身に神霊を宿す女の通称(広辞苑)、
神霊が依り憑(つ)く女性(精選版日本国語大辞典)、

で、いわゆる、、

巫女、

である(広辞苑)。巫女の本来的な役目は、

神を迎えることであり、ときにその滞在の間、妻となって神の子を宿す役割を果たす、

とされ、

玉依姫の話はまさにそのような巫女のありようが神話的に構成されたものである、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

海幸山幸神話の主人公火遠理(ほおり)命の妻となった豊玉姫(とよたまひめ)、
狭井(さい)河のほとりで神武天皇のおとないをうけた伊須気余理比売(いすけよりひめ)、
毎夜訪れる見知らぬ若者(大物主(おおものぬし)神)によってみごもり、三輪氏の祖を生んだとされる活玉依媛(いくたまよりひめ)、
下鴨の御祖神社の祭神で上賀茂の別雷命の御母であったという多々須玉依比売(たたすたまよりひめ)、

等々、名は違うがいずれも、

タマヨリヒメ、

にほかならない(世界大百科事典)。祭儀の際、

神降臨の秘儀に立ち会う巫女が、神話的には神に感精してその子を生む母として形象化されたものである、

とされ(仝上・朝日日本歴史人物事典)、古代の巫女はなべて、

タマヨリヒメ、

であった(仝上)。このため、

玉依姫を祀った神社が地方にも多くある、

ことになる(日本伝奇伝説大辞典)。

なお、柳田國男『妹の力』に、「玉依姫考」がある。

「依」.gif

(「依」 https://kakijun.jp/page/0805200.htmlより)

「依」(漢音イ、呉音エ)は、

会意兼形声。衣は、両脇と後ろの三方から首を隠す衿(えり)を描いた象形文字。依は「人+音符衣(イ)」で、何かのかげをたよりにして、姿を隠すの意を含む。のち、もっぱらたよりにする意に傾いた、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(人+衣)。「横から見た人」の象形と「衣服のえりもと」の象形から、人にまとわりつく衣服を意味し、そこから、「よる」、「もたれかかる」を意味する「依」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji1101.html。しかし、

会意文字として解釈する説(白川静)があるが、これは誤った分析である、

とありhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BE%9D

形声。「人」+音符「衣 /*ɁƏJ/」[字源 1]。「よる」を意味する漢語{依 /*ʔəj/}を表す字(仝上)、

形声。人と、音符衣(イ)とから成る。「よる」意を表す(角川新字源)、

と、形声文字とする。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
乾克己他編『日本伝奇伝説大辞典』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:28| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月12日

賀茂社の午日


大和かも海のあらしの西吹かばいづれの浦にみ舟つながむ(三統理平)、

に、

賀茂社の午日(うまのひ)唱(うた)ひ侍るなる歌、

とある、

賀茂社の午日、

とは、

賀茂祭は四月、酉の日に行われるが、「午日」は、その前日の午の日、この日、齋院の御禊(ごけい)が行われる、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。「齋院」については「齋院」、「返さの日」で触れた。

斎院御禊、

は、

祭の日に先立って、午または未(ひつじ)の日に、天皇の名代として賀茂神社に奉仕する斎院(未婚の内親王または女王)の御禊(ごけい)が賀茂川で行われました、

とありhttps://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki71、華やかな行列が仕立てられ、人々が物見に集まり、『源氏物語』葵巻で語られた車争いは、この折のことでした(仝上)とある。

御禊、

は、広くは、

君が代の千歳の数も隠れなく曇らぬ空の光にぞ見る(新古今和歌集)、

の詞書に、

堀河院の大嘗会御禊、日頃雨降りて、その日になりて空晴れて侍りければ、紀伊典侍に申しける、

と、

大嘗会御禊、

とあるように、

大嘗会の一ヶ月前に天皇が賀茂河原に行幸して禊(みそぎ)をすること、

で、この歌の御禊は、寛治元年(1087)十月二十二日に行われた(久保田淳訳注『新古今和歌集』)ものだが、

伊勢の斎宮や賀茂の齋院が卜定(ぼくじょう)の後や祭りの前に賀茂川などで行うみそぎ、

にもいう(広辞苑)。ちなみに、

禊、

は、

神事などの前に、厠躬で身を洗い清めること、

をいう。記紀神話の中で、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が神避(さか)りました妻の伊弉冉(いざなみ)尊を黄泉(よみ)国に訪ねたのち、その身体についた汚穢(おえ)を祓い清めるために、

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の檍原(あわぎはら)に出(い)でまして禊祓をされた、

とあるのに始まるとされる(仝上)。

なお、新嘗祭の前日夕刻に天皇の鎮魂を行う儀式「鎮魂祭(ちんこんさい)」については、「鎮魂(たましずめ)」で、大嘗会については、「鬢だたら」、「五節の舞」、「御嘗(おほんべ)」でも触れた。

また、賀茂社における午の日は、「みあれ」で触れたように、

みあれの日、

でもあり、

賀茂祭の前に行われる神招(お)きの神事が行われる中の午の日、

とあり(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

跡垂れし神にあふひのなかりせば何に頼みを掛けて過ぎまし(賀茂重保)、

の詞書に、

みあれにまゐりて、社の司(つかさ)おのおの葵をかけけるによめる、

とあるように、

みあれ、

ともいう(久保田淳訳注『新古今和歌集』)、

御阿礼神事(みあれしんじ)、

のことである。

御阿礼、

は、

御生、

とも当て、

神または貴人が誕生・降臨すること、

をいい(広辞苑)、

ミは接頭語、アレは出現の意、祭神の出現・降臨の縁となる物の意、転じて、奉幣(神に幣帛を捧げること)の意、

とある(岩波古語辞典)。

阿礼、

は、

アル(生 神や人形を成して忽然と出現して存在する意、阿礼と同源)の名詞形。出現の意、

で、

祭神の出現の縁となる物、榊など、それに種々の木綿(ゆふ)を垂らして使う、

とある。一緒の、

よりしろ(依代・憑代)、

である。だから、「阿礼」は、

奉幣の義、

となる(大言海)。多くは、「御阿礼」は、

賀茂のみあれ(御生)、

を指し、古くは四月の中の午の日(二回目の午の日、現在は五月一二日)、

京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社)で葵祭の前儀として行なわれる神事、

をいい、

神社の北西約880mの御生野(みあれの)という所に祭場を設け、夜半暗黒のうちに、ここで割幣をつけた榊に神を移す神事を行い、これを本社に迎える祭りである。祭場には、720cm四方を松、檜、賢木(さかき)などの常緑樹で囲んだ、特殊の神籬(ひもろぎ)を設け、その前には円錐形の立砂一対を盛る。この神籬前庭では修祓(しゆばつ)ののち奉幣行事を行い、葵桂を挿頭(かざし)にし、饗饌の儀(献の式)をして、手水をつかい、灯火を消し、矢刀禰(やとね)(神職)5員がそれぞれ榊をもって立砂を3周し、神移しを行う。これを本社に捧持する。本社では、開扉して葵桂を献じ、祝詞を奏して閉扉する、

とあり(世界大百科事典・精選版日本国語大辞典)、

別雷神の出現・再現を感受しようとする神事、

で(仝上)、賀茂御祖(かもみおや)(下賀茂)神社では、御蔭祭(みかげまつり)と称する神迎えの神事がある。

御阿礼祭(御生祭 みあれまつり)、

ともいう(仝上)。平安時代の『内蔵寮式』賀茂祭に、

下社、上社、松尾社、社別、阿礼料、五色帛、各六疋、……盛阿礼料筥、八合、

とある。

賀茂祭については、「もろかづら」で触れた。

「午」.gif

(「午」 https://kakijun.jp/page/0432200.htmlより)

「午」 甲骨文字・殷.png

(「午」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%88より)

「午」(ゴ)は、

象形。上下運動を交互に繰り返して、穀物をつくきねを描いたもので、交差し、物をつく意を含む。杵(きね)の原字。また十二進法では、前半が終り、後半が始まる位置にあって、前後交差する数のことを午(ゴ)という、

とある(漢字源)。他に、

象形。杵を象る。「きね」を意味する漢語{杵 /*tkaʔ/}を表す字。のち仮借して「十二支の7番目」を意味する漢語{午 /*ngaaʔ/}に用いるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8D%88

象形。きねの形にかたどる。「杵(シヨ)」の原字。借りて、十二支の第七番目に用いる(角川新字源)、

象形文字です。もちをつく時に使う「きね」の象形。両人がかわるがわる手にしてもちをつく、交互になる事から陰陽の交差する十二支の第七位の「うま」・「時刻では正午」を意味する「午」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji363.html

とあり、十二支との関連に解釈の差がある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:33| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月13日

賀茂の臨時祭


臨時祭をよめる、

とある、

宮人の摺れる衣にゆふだすき掛けて心を誰に寄すらむ(紀貫之)、

の、

摺れる衣、

は、

山藍で摺り模様を付けた小忌衣(をみごろも)、

のことで、

ゆふだすき、

は、

神事にかけるたすき、

で、

山藍摺りの小忌衣に木綿襷(ゆふだすき)を掛け、

と注釈される(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

木綿襷(ゆふだすき)、

は、

木綿(ゆふ)で作った襷、神事に奉仕する時に袖をかかげるのに用いる、

とある(広辞苑)。中古以降は、歌語として、たすきをかける意で「かく」を引き出す序詞などとして用いられることも多い(精選版日本国語大辞典)。なお、

木綿、

は、

楮(こうぞ)の樹皮を蒸して水にさらし、細く割いたもので、代りに麻を用いることもある、

とあり(世界大百科事典)、『日本書紀』天の石窟戸(いわやど)の段に、

天鈿女(あめのうずめ)命が、蘿(ひかげ ヒカゲノカズラ)を手にして神がかりした、

とあり、允恭4年9月条には、

木綿手をつけて探湯(くかたち)した、

とある。現行では遷宮のときなどに用い、左右肩より左右両脇下に斜にかけ、体の前後で交差するか、左肩より右脇下に斜にかける方法がある(仝上)という。なお、

探湯(くかたち)、

は、

盟神探湯、
誓湯、

と表記し、

神に誓って、熱湯に手を入れさせ、火傷(やけど)をしたものは邪、火傷をしなかったものは正とした、

古代の裁きにおける真偽判定法(デジタル大辞泉)とある。

ところで、冒頭の、

臨時祭、

は、

賀茂の臨時祭、

を指し、

陰暦十一月、下の酉の日に行われた、

とある(仝上)。

臨時祭、

は、

りんじさい、

と訓ませ、

りんじのまつり、あさてとて、助にはかに舞人にめされたり(蜻蛉日記)、

と、

例祭ではなく、臨時に行なう祭、

をいい(精選版日本国語大辞典)、特に、

陰暦11月の下の酉とりの日に行われた賀茂神社の祭り、
陰暦3月の中の午うまの日に行われた石清水八幡宮の祭り、
陰暦6月15日に行われた祇園八坂神社の祭り、

をいう(仝上・デジタル大辞泉)とある。延喜式(927)に、

臨時祭、凡常祀之外応祭者。随事祭之、

とあり、奈良・平安時代の朝廷では、

神祇官(じんぎかん)が御竈(みかまど)祭、御井(みい)祭、堺(さかい)祭、大殿祭(おおとのほがい)ほかの臨時祭を行った、

とある(日本大百科全書)。賀茂(かも)臨時祭、石清水(いわしみず)臨時祭などは当初は臨時であったのが、のち恒例化したものである。

賀茂の臨時の祭、

は、

陰暦十一月下旬の酉(とり)の日に行う賀茂別雷(かもわけいかずち)・賀茂御祖(かもみおや)両社の祭礼、

で、四月の「賀茂の祭り」と区別していうが、祭儀は賀茂祭と同じ(精選版日本国語大辞典)とある。賀茂祭については、「もろかづら」で触れた。

賀茂別雷神社(上賀茂神社) .jpg


賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)、

は、京都市北区上賀茂本山にある神社。通称は、

上賀茂神社(かみがもじんじゃ)、

といい、

式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社、旧社格は官幣大社、

であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE。かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに、

賀茂神社(賀茂社)、

と総称される。賀茂社は、奈良時代には既に強大な勢力を誇り、延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた(仝上)。『延喜式神名帳』では、

山城国愛宕郡 賀茂別雷神社、

として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。『山城国風土記』逸文では、

玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える、

とある(仝上)。丹塗矢の正体は、

乙訓神社の火雷神、
とも、

大山咋神、

ともいう(仝上)。主祭神は、

賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)、

とされる。

賀茂御祖神社(下鴨神社).jpg


賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)、

は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社。通称は、

下鴨神社(しもがもじんじゃ)、

といいhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%BE%A1%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE

式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社、

で、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂県主氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。本殿には、右に、

賀茂別雷命(上賀茂神社祭神)の母の玉依姫命、

左に、

玉依姫命の父の賀茂建角身命、

を祀るため、

賀茂御祖神社、

と呼ばれる。金鵄(きんし)および八咫烏(やたがらす)は賀茂建角身命の化身である(仝上)。境内に、

糺の森(ただすのもり)、
御手洗(みたらし)川、
みたらし池、

がある(仝上)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

ラベル:賀茂の臨時祭
posted by Toshi at 04:14| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月14日

九十九王子


立ち昇る塩屋のけぶり浦風になびくを神の心ともがな(徳大寺左大臣)、

の、

詞書に、

白河院熊野に詣で給へりける御供の人々、塩屋の王子にて歌よみ侍りけるに、

とある、

塩屋の王子、

は、

熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)の一つ、

で、

紀伊国、現在の和歌山県御坊市塩屋町北塩屋にある、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

塩屋神社.jpg

(塩屋神社 https://4travel.jp/dm_shisetsu/11313294より)

天照大神の御神像が祀られているので別名は、

美人王子、

ともいい、

祈願すれば美人の子が授かるというので、子安神社としてお詣りする人があとをたちません、

とあるhttps://4travel.jp/dm_shisetsu/11313294

九十九王子(くじゅうくおうじ)、

の、

「九十九」は数の多いこと、

の意(精選版日本国語大辞典)で、「若王子(にゃくおうじ)」で触れたように、京都から熊野への参詣路である、

熊野街道、

のうち、

窪津(くぼつ、大阪市中央区)起点とし、紀伊路に沿って本宮、新宮から那智社までの間、おおよそ三一町余に置いた王子、

に一つずつ、熊野権現の末社である、

若王子(にゃくおうじ)、
または
若一王子(にやくいちおうじ・わかいちおうじ)、

が配され、中世後期までには、

熊野九十九王子(熊野王子)、

と総称されるようになった(精選版日本国語大辞典)とある。

九十九所、
九十九王子社、

ともいう(仝上)。

九十九王子、

は、「源平盛衰記」には、

窪津王子より八十余所におはします王子王子、

といい、

「熊野九十九王子記」には、

八二か所、

と数え、室町時代以前の文献に見えたものを総合するとすべてで、

九八か所、

あるが、これを俗に、

熊野九十九、

という(精選版日本国語大辞典)とある。

熊野街道、

は、

摂津の渡辺から天王寺・住吉を経て泉州を南下し、雄ノ山峠で紀州に入り、矢田峠・藤代峠・蕪坂・鹿瀬山を越えて日高に至り、切目・岩代・南部の海岸伝いに田辺に着き、そこから山中に入って富田川の谷を北上、滝尻・逢坂・近露・道湯川と山道をたどり、発心門から熊野川河畔の本宮に通じていた、

とあり、

九十九王子、

といわれる、熊野権現の分身とされる王子社が配列されていたが、なかでも、

藤代、切目、稲葉根、滝尻、近露、

の諸王子は、

五体王子、

と呼ばれる主要拠点の王子社であった(世界大百科事典)とある。

若王子(にゃくおうじ)、

は、

熊野の十二所権現の一つ。十一面観音の垂迹(すいじゃく)といわれる、

とある(日本国語大辞典)。『長秋記』長承三年(1134)の記事で、

若宮(わかみや)、

とあるのが本来の呼称らしいが、平安末期の『梁塵秘抄』には、

若王子、

とある(世界大百科事典)。平安中期から中世を通して繁栄した、

紀伊国の熊野三山(本宮(ほんぐう)、新宮(しんぐう)、那智(なち)の熊野三社)、

に祀(まつ)られた、

熊野十二所権現(くまのじゅうにしょごんげん)の一つ、

とされ、「若王子」、「若宮」のほか、

若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん)、
若宮王子(わかみやおうじ)、
若女一王子(にゃくにょいちおうじ)、

などとも称し、三山ともその発祥を異にするらしいが、平安中期頃から神仏習合を表す本地垂迹(ほんじすいじゃく)説により、

本宮は家津御子神(けつみこのかみ 本地は阿弥陀如来)、
新宮は速玉大神(はやたまのおおかみ 本地は薬師如来)、
那智は牟須美神(むすびのかみ 本地は千手観音)、

の、

熊野三所権現、

と本地仏が祀られた(日本大百科全書)。平安後期までには、

若王子(本地は十一面観音)、

を中心とする、

五所王子(ごしょおうじ)、

と、一万眷属を含む、

四所宮(ししょみや)、

の、

熊野十二所権現、

が成立したとされる(仝上)。つまり、

三所権現、

が、

証誠殿(本地阿彌陀)・新宮(本地薬師)・那智(本地千手観音)、

五所王子、

が、

小守の宮(本地聖観音)・児の宮(本地如意輪観音)・聖の宮(本地龍樹)・禅師の宮(本地地蔵)・若王子(本地十一面観音)、

四所明神が、

一万の宮(本地普賢)または十万の宮(本地文殊)・勧請十五所(本地釈迦牟尼)・飛行夜叉(本地不動)・米持金剛童子(毘沙門天)、

の一二の権現を、

十二所権現(じゅうにしょごんげん)、

という(精選版日本国語大辞典)。

室町時代の意義分類体の辞書『下學集』には、

熊野権現、證誠殿、本地阿弥陀、両所権現者、薬師観音、若一王子者、施畏大士(だいじ)、號曰日本第一霊験熊野三所権現、

とある。

若王子、

は、三所権現に次ぐ位置を占め、

五所王子の第一、

に置かれ、

本宮・新宮では第四殿、
那智では第五殿、

に祀られる(仝上)。祭神は、

天照大神、
または、
伊邪那岐命、

で、

十一面観音の垂迹(すいじゃく)、

といわれる(精選版日本国語大辞典)。

熊野三所大神社.jpg

(熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ) 浜の宮王子の社跡に建つため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしろ)とも https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E7%8E%8B%E5%AD%90より)

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:27| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月15日

長押(なげし)


岩代の神は知るらむしるべせよ頼む憂き世の夢の行末(読人しらず)、

の詞書に、

熊野へ詣で侍りしに、岩代王子に人々の名など書き付けさせてしばし侍りしに、拝殿の長押に書き付けて侍りし歌、

とある、

岩代王子、

は、

熊野九十九王子の一つ、紀伊国、現在の和歌山県日高郡みなべ町西岩代野添にある、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。九十九王子については触れた。

長押、

は、

間仕切りとして柱と柱の間に横に渡した木、

とある(仝上)。

長押.jpg

(長押 デジタル大辞泉より)

で、

なげし、

の由来は、

長(長い横木)+押(押し渡した)」で、和室の梁の上に押すように取り付け、渡した長い横木の意、ナガオシがナゲシに転訛した(日本語源広辞典)、
ながおし(長押)の約(大言海・世界大百科事典)、

とされる。

和名類聚抄(931~38年)に、

長押、奈介之、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

長押、ナゲシ、

とある、日本の建築で、

柱から柱へと水平に打ち付けた材、

をいい、

柱の表面に釘(くぎ)で打ち付けて各柱を連結する横材、

である(日本大百科全書)。古代では、長押は、

重要な軸組用構造材の一つで、軸組を引き締める役割を果たしており、柱の頂部に頭貫(かしらぬき)が入れられたほか、柱の中間では長押を打ち付けて各柱を連結し、柱の横への移動を防ぐ方法がとられた、

とある(仝上・不動産用語辞典)。寝殿造で、

母屋(もや)・廂(ひさし)・簀子(すのこ)の間仕切りとして、柱から柱に横へ渡した(岩波古語辞典)、

ので、

母屋と廂との、中の隔の上下を限るもの、

とされ(大言海)、

下なるは幅広く、廂より高し、上なるを上長押(うはなげし)など云ふ、

とある(仝上)。後世、

鴨居の上、又は、敷居の下に、別に、横に長く亙せる化粧の材、

をいうようになる(仝上)。で、数寄屋建築や民家では、

天然の丸みを残した面皮(めんかわ)の材を使うこともある。装飾材となってからはことさら節(ふし)がなく木目のつんだ良材を用いるようになる。また、柱に止めた釘の上には釘隠(くぎかくし)を打つ、

とある(世界大百科事典)が、書院建築などでは、装飾を重んじて、

その意匠を凝らすことが多く、無節、柾(まさ)目の杉材が使用される、

ようになる(マイペディア)とある。

長押、

は、とりつける箇所によって、

地面に接する地(じ)長押、縁の上にある切目(きりめ)長押、
切目長押上の丈の低い半長押、
窓下や腰回りに打ち付けられる腰長押、
扉口や鴨居(かもい)の真上につく内法(うちのり)長押、
内法長押より上にある上(かみ)長押、
内法長押の裏側の縁(えん)寄りに取り付けられる縁長押、
天井と内法の間の小壁上方に蟻壁(ありかべ 室内の上端に設け、部屋を一周する細長い壁)を設けた場合には蟻壁を受ける蟻壁長押、
天井回縁(まわりぶち)の下に巡る天井長押、
柱の最下部をつなぐ地長押、
部屋の外側に回縁(まわりえん)を設けた場合、敷居下の縁板(えんいた)下に取り付ける切目(きりめ)長押、

等々がある(世界大百科事典・仝上)。奈良時代初期には、

扉を釣り込むためのもの、

であったが、まもなく、軸組を固めるために用いられるようになり(精選版日本国語大辞典)、鎌倉時代以降、中国の宋(そう)様式の導入によって、

貫(ぬき 柱と柱を貫いて連ねる部材)を通して柱を固めるようになると、徐々に構造的性質を失って装飾的な材へと変質していった、

ようだ(日本大百科全書・仝上)。断面は、

横長の長方形からほぼ正方形の裏側をL型に欠き取った形、さらに縦長の台形または三角形へと変化する。したがって、柱からふき出る部分(胸という)も古くは大きく、のちには小さくなる、

とあり、装飾材となってからは、

ことさら節(ふし)がなく木目のつんだ良材を用いるようになる。また、柱に止めた釘の上には釘隠(くぎかくし)を打つが、書院建築などではその意匠を凝らすことが多い、

という(仝上)。

現在では、

長押、

は、

鴨居の上にある柱の表面に水平(横)に取り付けた化粧材、

を言うhttps://www.ooyamano-ie.jp/blog/5996

長押(現代).jpg

(現在の長押 https://www.ooyamano-ie.jp/blog/5996より)

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:32| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月16日

奉幣使


住よしと思ひし宿は荒れにけり神のしるしを待つとせしまに(津守有基)、

の詞書に、

奉幣使にて住吉にまゐりて、昔住みける所の荒れたりけるを見てよみ侍りける、

とある、

奉幣使、

は、

勅命によって、神社や山稜に幣(ぬさ)を奉る使者、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

奉幣、

は、

ほうへい、

とも、

ほうべい、

とも訓ませ(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

初使至社奉幣之後、於社前給両社禰宜、祝及忌子等祿」(「延喜式(927)」)、

と、

神に幣帛(へいはく)をささげること、

である(仝上)。一般には、

神社に幣帛(へいはく)を奉る、

という意味に用いられるが、古代では、諸社の祝部(はふりべ)らが幣帛をうけとりにくる、

班幣、

と区別され、

勅旨をもって山陵や神社に幣帛を奉ること、

をいった(マイペディア・山川日本史小辞典)。この場合、

神祇官が幣帛を頒(わか)ち、これを使に渡して奉らしめた、

が、この使を、

奉幣使 (幣帛使)、

といった(仝上)。神に対する奉幣の場合、

掌侍が神祇官に赴いて幣帛をつつみ、天皇が臨見してから幣帛使に付された、

とあり(仝上)、また奉幣には、

宣命(せんみょう)、

がともなうことが多く、これも幣帛使に付される。

幣帛使、

は、

五位以上の人で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた、

とある(仝上・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%B9%A3)。神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、

伊勢神宮には王氏(白川家)、
宇佐神宮には和気氏、
春日大社には藤原氏、

が遣わされる決まりであった。奉幣の数は変動したが、延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を、

3132座、

記載されていて、3132座の神には、

神祇官よりの官幣
か、
国司よりの国幣、

が捧げられた(仝上)が、11世紀中頃には、

二十二社、

となり、通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した(仝上)。中世以降、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)に対する奉幣のことを特に、

例幣(れいへい)、

と呼ぶようになり、例幣に遣わされる奉幣使のことを、

例幣使、

といいhttps://www.japanesewiki.com/jp/Shinto/%E5%A5%89%E5%B9%A3.html、天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を、

由奉幣(よしのほうべい)、

というhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E5%B9%A3。ちなみに、

神嘗祭(かんなめさい・しんじょうさい・かんにえのまつり)、

は、毎年10月15日~17日に執り行われる伊勢神宮の年中行事きっての大祭で、

天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天上の高天原(たかまがはら)において、新嘗を食したとの神話に由来し、その年に収穫した新穀を由貴(ゆき 清浄な、穢(けがれ)のないという意)の大御饌(おおみけ)として、大御神に奉る祭り、

とある(日本大百科全書)。朝廷では例幣使を9月11日に発遣、17日に宮中で天皇が衣服を改めて遥拝式を行い、賢所(かしこどころ)での親祭の儀がある(山川日本史小辞典)。

こうした朝廷からの奉幣は、朝廷の衰微とともに次第に縮小・形骸化され、応仁の乱以降は伊勢神宮への奉幣を除いて行われなくなったが、17世紀半ばから江戸幕府が朝廷の祭儀を重んじるようになり、延享元年(1744年)、約300年ぶりに二十二社の上七社への奉幣が復興された。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まり、江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かったhttps://www.japanesewiki.com/jp/Shinto/%E5%A5%89%E5%B9%A3.htmlという。

「奉」.gif

(「奉」 https://kakijun.jp/page/0853200.htmlより)

「奉」 金文・西周.png

(「奉」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%89より)

「奉」(漢音ホウ、呉音フ)は、

会意文字。「╋(ささげもの)+りょうて+手」。ある物を両手でささげもつ意を表す。また、ささげ持てば、両手の形は△型をなして、その頂点に物をささげることとなる。両方から近づき△型に頂点であう意を含む。捧(ささげる)の原字、

とある(漢字源)。別に、

会意文字。丰(ほう)+収(きょう)。丰は秀(ほ)つ枝。神の憑(よ)る所。夆(ほう)はその枝に神霊が降る意。丰を両手で捧げ、神を迎えることを奉という。それで神意をうけ、神意を奉ずるのである、

ともある(字通)。他に、

会意形声。手(て)と、廾(きよう 両手)と、丰(ホウ しげった草)とから成り、草を両手でささげる、ひいて「ささげる」意を表す。「捧(ホウ)」の原字(角川新字源)、

会意兼形声文字です(丰+廾+手)。「草・木のよく茂った」象形と「両手」の象形と「5本の指のある手」の象形から、「両手を寄せて物をささげる」を意味する「奉」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1639.html

と、会意兼形声文字とする説もあり、別に、

形声。金文の字形は「廾」(与える)+音符「丰 /*PONG/」。「与える」「献上する」を意味する漢語{奉 /*b(r)ongʔ/}を表す字。のち「手」を加えて「奉」の形となるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%A5%89

と、形声文字とする説もある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:15| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月17日

させも草


なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむ限りは(新古今和歌集)、

の、

しめぢが原、

は、

標茅原、

と当て、

今の栃木市北部から都賀(つが)町にかけてひろがる野、

で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、

下野国の枕詞、

とされる(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

させも草、

は、

もぐさ、

の意とあり(仝上)、

指焼草、
指艾、

と当て、

さしも草、

に同じとあり(広辞苑)、

ヨモギの異称、

とあり、さらに、上記歌は、

何か思ふ何をか歎く世の中はただ朝顔の花の上の露、

とともに、新古今和歌集の釋教歌として、

清水観音御歌、

とされているので、

観世音菩薩に救われるべき一切衆生をたとえて言う語、

ともされている(広辞苑)。

よもぎ」で触れたように、

よもぎ、

は、古く、

させもぐさ、
つくろひぐさ、
えもぎ、
させも、

等々といった(たべもの語源辞典)。「させもぐさ」は、

さしもぐさ(指焼草・指艾)の転(岩波古語辞典)、
サセモグサと云ふは、音轉なり(現身、うつせみ)、サセモとのみ云ふは、下略なり(菰筵、薦)(大言海)、

である。「さしもぐさ」は、

夫木抄「指燃草」、注燃草の義、注(さ)すとは、点火(ひつ)くること(灸をすうるを、灸をさすと云ふ…)、モは燃(も)すの語根、燈(とも)すの、モスなり、此のモグサは、即ち艾(もぐさ)にて、灸治する料とす(大言海)、
サシは灸をすえるの意である(たべもの語源辞典)、

とある。で、

さしもぐさ、

の由来は、

サシモシグサ(指然草)の義。サス(注)は点火(ヒツ)くること(灸をさすと云ふ)、モは、燃(も)すの語根、燈(とも)すの、モスなり(大言海)、
サシは接頭語、モグサは燃え草の意(角川古語大辞典)、
夫木抄に「指燃草」とあるところから、サシモヤシ草の義か、また、艾の意で、サシは美称(和訓栞)、
刺艾の義(名言通)、

等々とあるが、古来、

単に雑草をさすとする説、

と、

艾(蓬)の異名とする説、

が対立していた(日本語源大辞典)が、和歌において、平安中期以降、

「もぐさ」の縁語として、「燃ゆる」「思ひ」(火をかける)、「こがす」がみられ、典型的な歌語とされるところから、今では、伊吹山を名産地とする蓬の異名とする説が定着している、

とある(仝上)。

伊吹もぐさ、

は、

短小で香気が高い、

とされ、伊吹山は艾の山地とされる(たべもの語源辞典)。

ところで、大言海は、「よもぎ」を、

艾、
蓬、

とそれぞれ当てる漢字毎に、二項別に立てている。

よもぎ(艾)、

は、

善燃草(よもぎ)の義、

とし、

草の名。山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ。倭名抄「蓬、一名蓽、艾也。與毛木」、本草和名「艾葉、一名醫草、與毛岐」、

と記す。ほぼ、いわゆる「よもぎ」の意である。しかし、

よもぎ(蓬)、

の項では、

葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりて飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄「蓬、ヨモキ」、

とする。

日本では一般的な「よもぎ」は、

 ヨモギArtemisia princes Pamp.〔分布〕本州・四国・九州・小笠原・朝鮮
 ニシヨモギArtemisia indica Willd.〔分布〕本州(関東地方以西)・九州・琉球・台湾・中国・東南アジア・印度
 オオヨモギArtemisia montana (Nakai) Pamp.〔分布〕本州(近畿地方以北)・北海道・樺太・南千島

の三種というhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm。日本だけでも30種あるが、この3種は植物学の分類上かなり近縁の種で、

日本全国で一般に『ヨモギ』と呼ばれている植物はこの3種のうちいずれかということになろう、

というし、

別名は、春に若芽を摘んで餅に入れることからモチグサ(餅草)とよく呼ばれていて、また葉裏の毛を集めて灸に用いることから、ヤイトグサの別名でも呼ばれている。ほかに、地方によりエモギ、サシモグサ(さしも草)、サセモグサ、サセモ、タレハグサ(垂れ葉草)、モグサ、ヤキクサ(焼き草)、ヤイグサ(焼い草)の方言名がある、

とありhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE、一般には、区別しているようには見えない。しかし、

蓬(よもぎ)は、葉は柳に似て微毛があるのでヤナギヨモギと呼ばれる。淡黄の小さい花をつけ、後に絮(わた)になって飛ぶ。ウタヨモギともいい、艾(よもぎ)とは違った植物である、

とある(たべもの語源辞典)。大言海の見識である。

「よもぎ」の漢字表記は、

現在日本において、ヨモギは漢字で「蓬」と書くのが一般的だが、中国語でヨモギは「艾」あるいは「艾蒿」である。(中略)艾は日本で「もぐさ」と訓じる。もぐさはヨモギから作られるから、そのこと自体は何ら問題ではない。だが、蓬をヨモギとするのは誤りである、という説が現在では一般的のようだ、

とあるhttp://square.umin.ac.jp/mayanagi/students/03/kamiya.htm。ちなみに、「蓬(ほう)」で触れたように、

よもぎ(艾)、

の由来は、

善燃草(よもぎ)の義(大言海)、
ヨモキ(彌燃草)の義(言元梯)、
ヨはヨクの義、モはモユルの義、キは木の義(和句解)、
ヨクモエグサ(佳萌草)の義(日本語原学=林甕臣)、
弥茂く生える草の意(日本語源=賀茂百樹)、
ヨリモヤシキ(捻燃草)の義、灸に用いるところから、生は草の意(名言通)、

等々とされ、その使用法からきている。

本州・四国。九州の山野にある多年草で、春に新葉をとって草餅の材料にする。モチグサと呼ぶ。よく乾いた葉を揉むと葉肉は粉になって葉の裏の白い綿毛が残るから、これを集めて灸のモグサともする(たべもの語源辞典)、

山野に自生す。茎、直立して白く、高さ四五尺、葉は分かれて五尖をなし、面、深緑にして、背に白毛あり。若葉は餅に和して食ふべし(餅草の名もあり)。秋、葉の間に穂を出して、細花を開く。實、累々として枝に盈つ。草の背の白毛を採りて、艾(もぐさ)に製し、又印肉を作る料ともす。やきくさ。やいぐさ(大言海)、

などとあり、

モグサ、

は、

モエグサ(燃草)の略、

であり(仝上)、

ヤイトグサ、

の別名あり、地方により、

エモギ、
サシモグサ(さしも草)、
サセモグサ、
サセモ、
タレハグサ(垂れ葉草)、
ヤキクサ(焼き草)、
ヤイグサ(焼い草)、

などの方言名があるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE

「艾」.gif

(「艾」 https://kakijun.jp/page/E488200.htmlより)

「艾」(ガイ、呉音ゲイ)は、

会意兼形声。「艸+音符乂(ガイ、ゲ ハサミで刈り取る)」、

とあり、よもぎ、もぐさの意である(漢字源)。字源には、

よもぎ(醫草)、

と載る。

「蓬」(漢音ホウ、呉音ブ)は、

会意兼形声。「艸+音符逢(△型にであう)」で、穂が三角形になった草、

とあり(漢字源)、

よもぎ(艾)の一種、

とある(字源)。「蓬(ほう)」で触れたように、

葉は一尺ばかり、柳に似て細長く、周囲は細かい鋸状である。淡黄の小さい花を着け、後に絮(わた)になって飛ぶ。冬に枯れると根が切れ、茎や枝部は風に吹かれて球状にまとまって地面を転がる(漢辞海・字源)、
葉は、柳に似て、微毛あり、故に、ヤナギヨモギの名もあり。夏の初、茎を出すこと一二尺、茎の梢に、枝を分かちて、十數の花、集まりつく。形、キツネアザミの花に似て、小さくして淡黄なり。後に絮(わた)となりた飛ぶ。ウタヨモギ。字類抄「蓬、ヨモキ」(大言海)、

などとあり、

よもぎ(艾)とは違った植物、

である(たべもの語源辞典)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
簡野道明『字源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:09| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月18日

みそぎ


禊(みそぎ)する川の瀬見れば唐衣日もゆふぐれに波ぞ立ちける(紀貫之)

の、

唐衣、

は、

衣の美称、

とあり、

「紐」などの枕詞「紐ゆふ」に「日も夕」を掛ける、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

唐衣

で触れたように、本来、

中国風の衣服、

の意だが、転じて、

めずらしく美しい衣服、

をいうこともある(広辞苑)とある。また、ここでいう、

禊、

は、

六月祓(みなづきばらへ)、

で、

夏越(なごし)の祓(はらへ)、

の謂いで、

六月の晦日、茅(ち)の輪をくぐったり、身体を撫でた人形(ひとかた)を川へ流したりして、身をきよめた、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。これは、

大祓(おおはらえ)、

といわれ、年に2度行われ、6月の大祓は、旧暦6月30日の、

夏越(なごし)の祓、

また、

輪越の神事、
六月祓(みなづきばらえ)、
夏祓(なつはらえ)、

などともいい、12月の大祓は、旧暦12月31日の、

年越の祓、

と呼ばれる(https://www.jinjahoncho.or.jp/omatsuri/ooharae/・精選版日本国語大辞典)。大祓は、

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)を起源とする神事、

で、701年には宮中の年中行事として定められていたhttps://boxil.jp/beyond/a5539/とある。

茅の輪.jpg


大祓では、

大祓詞(おおはらえことば)を唱え、人形(ひとがた)と呼ばれる人の形に切った白紙などを用いて、身についた半年間の穢れ、

を祓い、神社によっては、無病息災を祈るため茅や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立て、これを3回くぐって穢れや災い、罪を祓い清める。特に、

夏越の大祓、

では、

水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり、

と唱え、

年越の祓、

は、

中臣(なかとみ)の祓え、

ともいい、

新たな年を迎えるために心身を清める祓い、

とあるhttps://www.jinjahoncho.or.jp/omatsuri/ooharae/。初見は《古事記》の仲哀天皇の段で、

更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、生剝(いきはぎ)、逆剝(さかはぎ)、阿離(あはなち)、溝埋(みぞうめ)、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、 馬婚(うまたはけ)、 牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)の罪の類を種種求(ま)ぎて、国の大祓して、

とある(世界大百科事典)。律令制の確立後は、毎年六月と一二月のみそかに、

親王、大臣以下百官の男女を朱雀門(すざくもん)前の広場に集めて行なった、

とされ(精選版日本国語大辞典)、臨時には、大嘗祭(だいじょうさい)、大神宮奉幣、斎王卜定(ぼくてい)などの事ある時にも行なわれた(仝上)。

禊図.jpg

(禊図(光琳百図) https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0094214より)

みそぎ(禊)、

は、

汚穢・罪障・厄災などを取り除くために行なう儀礼、

である、

祓(はらえ)、

の一種で、特に、

川や海の水につかって行なうもの、

をいい、

禊祓(みそぎはらえ)、

ともいう、

浄化の所作、

で、神事に当たって物忌のあと積極的に身心を聖化する手段の一つだが、服喪など異常な忌の状態から正常な日常へ立ち戻る一種の、

再生儀礼(生まれ清まり)、

でもあり(世界大百科事典)、元来の意味は、物忌の後、

水に入って若返り、神となるための行事、

で、

変若水(おちみず・わかがえりみず)信仰、

であったとされる(マイペディア)。古代中国では、『後漢書』礼儀志や『晋書』礼志にみえるように、

春禊、



秋禊、

とがあって、陰暦3月3日(古くは上巳)と7月14日に、

官民こぞって東方の流水に浴して、宿垢を去った、

というし、『魏志倭人伝』にも、倭人は、

其の死には、棺(ひつぎ)有れども槨無し。土を封じて冢(つか)を作る。始め死するや、停喪(ていそう)すること十余日、時に当りて肉を食わず、喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲酒す。已に葬(ほうむれ)ば、家を挙げて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんぼく ねりぎぬをきての水を浴びること)の如くす、

と、十余日の服喪の後に遺族が沐浴すると伝えている(仝上)。

記紀神話の中では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が神避(さか)りました妻の伊弉冉(いざなみ)尊を黄泉(よみ)国に訪ねたのち、その身体についた汚穢(おえ)を祓い清めるために、

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の檍原(あわぎはら)に出(い)でまして禊祓をされた、

とあるのに始まるとされ、そのおりに生成した日神(なおびのかみ)、また祓戸(はらえど)神の神威により、禍津日(まがつひ)神の所為であるツミ、ケガレ、トガ、ワザワイが消除されると信じられる、

とある(日本大百科全書)。中古には、年中行事のうち、特に、上述の六月晦日に行なわれる、

夏越(なごし)の禊(夏越の祓え)、

と強く結びつき、和歌にもよく詠まれる。中世以降には、真言宗や修験道で修行的な要素が加わったものが、

水垢離(みずごり)、

と称され(仝上)、

浜垢離、
寒垢離、
滝行、
水行、

などに発展し、修行的な要素も加わり、精神的な清浄も重視された。とくに、

神祇祭祀(じんぎさいし)、

に関しては潔斎(けっさい)の重要な行事として厳修され、

手水(てみず)、

はその簡略化された形式で、近世以後、神道(しんとう)の修錬行法ともなった(日本大百科全書)とある。

平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)には、

上巳祭也、……(所)言(美)乃(波)良(みのはらへ)、

天治字鏡(平安中期)には、

禊、上巳祭、又云、三月三日得巳為、上巳所言乃美良戸(美乃波良戸の誤説)、

類聚名義抄(11~12世紀)に、

禊 キヨム・ハラヘ・ミソギ・ミソハラフ、

とある。この、

ミソギ、

の由来は、

身滌(みそそぎ ミ(身)ソソギ(濯))の約(大言海・日本語の語源・広辞苑・岩波古語辞典・延喜式祝詞解・類聚名物考・古事記傳・雅言考・言元梯・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄・国語の語根とその分類=大島正健・日本語原学=林甕臣・日本語源=賀茂百樹)、
身清(みすす)ぎの義、また身のけがれを除く意(日本釈名)、
ツミ・ケガレを身体から取り去る身削(みそ)ぎ(日本大百科全書)、

等々あるが、大勢は、

身滌(濯 みそそぎ)、

である(日本語源大辞典)。

「禊」.gif


「禊」(漢音ケイ・呉音ゲ)は、

会意兼形声。「示(まつり)+音符契(けずりとる、けがれをとる)」、

とある(漢字源)。別に、

形声、声符は契(けい)。〔玉篇〕に「史記に云ふ、漢の武帝、霸上に禊す。徐廣曰く、三月上巳、水に臨んで祓除す。之れを禊と謂ふ」と、〔史記、外戚世家〕の文と、その注とを引く。〔論語、先進〕「莫春には、春服既に成る。~沂(き)(川の名)に浴し、舞雩(ぶう)に風し、詠じて歸らん」とあるのが、その古俗である。六朝期には曲水の禊飲が行われた、

と形声文字とする(字通)。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:18| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月19日

小夜衣


さらぬだに重きが上の小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ(寂然法師)

は、

釈教歌、

のひとつで、

十重禁戒、

の第三、

不邪婬戒、

を詠い、

わがつまならぬつま、

で、

「つま」は、夫または妻の意の「つま」に、「衣」の縁語「褄」を掛けた、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。両者の関係については、「つま」で触れたことだが、「つま」は、

妻、
夫、
端、
褄、
爪、

と当て、それぞれ意味が違う。

爪、

を当てて、「つま」と訓むのは、「つめ」の古形で、

爪先、
爪弾き、
爪立つ、

等々、他の語に冠して複合語としてのみ残る。

端(ツマ)、ツマ(妻・夫)と同じ、

とある(岩波古語辞典)。で、

端、

を見ると、

物の本体の脇の方、はしの意。ツマ(妻・夫)、ツマ(褄)、ツマ(爪)と同じ、

とある(仝上)。これだけでは、「同じ」というのが、何を指しているのかがわからない。その意味は、、

つま(妻・夫)、

を見ると解せる。

結婚にあたって、本家の端(つま)に妻屋を立てて住む者の意、

つまりは、「妻」も、「端」につながる。で、

つま(褄)、

を見れば、やはり、

着物のツマ(端)の意、

とあり、結局、

つま(端)、

につながるのである。しかし、『大言海』には、

つま(端)、

について、

詰間(つめま)の略。間は家なり、家の詰の意、

とあり、

間、

は、もちろん、いわゆる、

あいだ、

の意と、

機会、

の意などの他に、

家の柱と柱との中間(アヒダ)、

の意味がある。さらに、

つま(妻・夫)、

については、

連身(つれみ)の略転、物二つ相並ぶに云ふ、

とあり、さらに、

つま(褄)、

についても、

二つ相対するものに云ふ、

とあり、

つま(妻・夫)の語意に同じ、

とする。どうやら、「つま」には、

はし(端)説、

あいだ説、

があるということになる。『日本語源広辞典』は、

説1は、「ツマ(物の一端)」が語源で、端、縁、軒端、の意です、
と、
説2は、「ツレ(連)+マ(身)」で、後世のツレアイです。お互いの配偶者を呼びます。男女いずれにも使います。上代には、夫も妻も、ツマと言っています、

と二説挙げる。どやら多少の異同はあるが、

はし(端)、

関係(間)、

の二説といっていい。僕には、上代対等であった、





が、時代とともに、「妻」を「端」とするようになった結果、

つま(端)、

の語源になったように思われる。つまり、

夫または妻の意の「つま」、
と、
「衣」の縁語「褄」、

とは語源的につながっているのである。

ところで、

小夜衣、

の、

小夜、

は、

サは接頭語、

で、

夜、

の意、

小夜衣、

は、

夜具、
夜着、

の意で(岩波古語辞典)、

身をおおう夜具、着物のような形で、大形で掛けるもの。多く真綿がはいっている、

という(精選版日本国語大辞典)。なお、上記の、

さらぬだに重きが上のさよごろもわがつまならぬつまな重ねそ、

の歌の影響で、近世、

小夜衣、

は、

奥様に引まくらるる小夜衣(雑俳「楊梅(1702)」)、

と、

密通する女、

をいうようになる(仝上)。なお、この、

小夜、

のついた言葉は、

小夜千鳥(さよちどり)
小夜嵐(さよあらし)
小夜時雨(さよしぐれ)
小夜曲(さよきょく)
小夜衣(さよごろも)
小夜終(さよすがら)
小夜神楽(さよかぐら)
小夜中(さよなか)
小夜更(深)け方(さよふけがた)
小夜枕(さよまくら)

等々ある(大言海・岩波古語辞典)。

ところで、

十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)、

とは、

十重禁、
十重、

ともいい(広辞苑)、顕教では、梵網経で説く、

十種の重大な戒め、

をいい、

不殺戒(不快意殺生命戒(ふけいせっしょうみょうかい) 生き物を殺さない)、
不盗戒(不劫盗人物戒(ふこうとうにんもつかい) 盗みを働かない)、
不淫戒(不無慈行欲戒(ふむじぎょうよくかい) 出家者は性交渉をもたず、在家は不倫をしない)、
不妄語戒(不故心妄語戒(ふこしんもうごかい) 噓をつかない)、
不酤酒(ふこしゅ)戒(不酤酒罪縁戒(ふこしゅざいえんかい) 酒を売らない)、
不説罪過戒(不説四衆過戒(せつししゅかかい)・不説他罪過戒(ふせつたざいかかい) 出家・在家問わず仏教徒の犯した罪を吹聴しない)、
不自讃毀他戒(ふじさんきたか 自ら威張り散らし、また他人をそしりけなさない)、
不慳貪(けんどん)戒(不慳惜加毀戒(ふけんじゃくかきかい)・不慳生毀辱戒(ふけんしょうきにくかい) 他人に与えることについて惜しまない)、
不瞋恚戒(不瞋心不受悔戒(ふしんじんふじゅげかい)・不瞋不受謝戒(ふじんふじゅしゃかい) 謝罪に対して、怒りをもって応じ、それを受け入れないということをしない)、
不謗三宝戒(不誹謗三宝戒(ふひほうさんぼうかい) 仏・法・僧の三宝をそしらない)、

とする(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E9%87%8D%E7%A6%81%E6%88%92・精選版日本国語大辞典)。これらの戒は、

それぞれ自らが犯さないことはもちろん、他人にも犯させないようにすることが要求されている、

とある(仝上)。これとは別に、密教では、説に不同があるが、無畏三蔵禅要によれば、

不退菩提心・不謗三宝・不捨三宝三乗経・不疑大乗経・不発菩提心者令退・不未発菩提心者起二乗心・不対小乗人説深大乗・不起邪見・不説於外道妙戒・不損害無利益衆生、

の十戒とする(精選版日本国語大辞典)。

寂然法師は、上述のように、十重禁戒の第三、不邪婬戒を、

さらぬだに重きが上に小夜衣わが妻ならぬ妻な重ねそ

と詠う他、十重禁戒の第二、不偸盗戒を、

うき草のひと葉なりとも磯がくれおもひなかけそ沖つ白波

と、十重禁戒の第四、不酤酒戒を、

花のもと露のなさけはほどもあらじ醉ひな勸めそ春の山風

と詠っている(新古今和歌集)。

梵網経.png


『梵網経』(ぼんもうきょう)は、二巻。具名は『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』、下巻は別に『梵網菩薩戒経』ともいい、

十重禁戒・四十八軽戒 (きょうかい) をあげて大乗戒(菩薩 (ぼさつ) 戒)を説き、戒本とされる、

とある(デジタル大辞泉)。鳩摩羅什訳と伝わるが、五世紀の中国成立と見られる。この経の説く戒律思想は、

日本仏教の基調を形成し、かつそれは大きな潮流として現在まで流れ続けており、戒律は、仏教者の生活軌範となるべきものとされている(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A2%B5%E7%B6%B2%E7%B5%8C・仝上)。

『梵網経』下巻に説く戒である、

十重四十八軽戒(じゅうじゅうしじゅうはっきょうかい)、

は、

十重禁戒と四十八軽戒、

をいい、

十重禁戒を犯した場合は波羅夷罪(はらいざい)に相当するとする。これは重大な罪であり、出家者の場合、僧の資格を失い、教団から追放され、修行の成果も無に帰す、

のに対し、

四十八軽戒を犯した場合、智顗『菩薩戒経義疏』下によれば、罪を告白する対首懺悔により、その罪が滅せられる、

というhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E8%BB%BD%E6%88%92

大乗の菩薩が守るべき戒、

とされ、

新学の菩薩は半月ごとの布薩において十重四十八軽戒を誦すべきである、

とされるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E9%87%8D%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E8%BB%BD%E6%88%92)とある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 05:09| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする

2024年10月20日

如是報


うきを猶むかしの故と思はずばいかにこの世を恨みはてまし(二條院讚岐)

の、

詞書に、

入道前關白家に、十如是歌よませ侍けるに、如是報、

とある、

如是報、

は、

十如是(じゅうにょぜ)、

の一つ、

今生の善悪の業因に報い、未来の苦楽の果を受けることを言う、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、

十如是、

は、法華経第一・方便品第二にある、

天台宗で、全ての存在を十の方面から説くもの、

であり(仝上)、

十如、
如是、
諸法実相、

ともいう(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。

如是(にょぜ)、

とは、

かくのごとく、
このように、

という意味で、

十如是、

とは、

相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等、

の十の如是を通して、

宇宙のあらゆるものの本当の姿はこうだよということを示してくれている法門です、

とあるhttps://rk-kitai.org/lotus-sutra/bukking_05

妙法蓮華経方便品第二には、

止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等(止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり)、

とありhttps://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/02.htm

一切存在の真実の在り方を、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟の10方面から説いたもの、

とされ(広辞苑)、

相(形相)、
性(本質)、
体(形体)、
力(能力)、
作(作用)、
因(直接的な原因)、
縁(条件・間接的な関係)、
果(因に対する結果)、
報(報い・縁に対する間接的な結果)、
本末究竟等(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)、

をいい、

諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる、

という、

この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法、

をいうhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF。ただ、

『法華経』のサンスクリット原典や『正法華経』には十如是が見られないので、鳩摩羅什が『法華経』翻訳時に『大智度論』の九種法をもとに十如是を挿入したのではないかと考えられている、

とあるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)

天台大師智顗は、本末究竟以外の九如是に対し、

三転読、

をほどこしている。たとえば、

相の場合、「是の相は如なり」、「是くの如き相」「相は是くの如し」と転読し、空・仮・中の三諦として捉える。一切法の生起は十の範疇で総合的に捉えることにより認識されるのであるが、その認識された対象の実相は三諦によって把捉されるもの、

としている(仝上)。因みに、

三転読、

とは、智顗が、鳩摩羅什訳の十如是の文について『法華玄義』(二ノ上)において、十如是の箇所の文字の区切り方を3通りにずらして、

是の相も如なり、乃至、是の報も如なり(即空)、

と、

是の如きの相、乃至、是の如きの報(即仮)、

と、

相も是に如し、乃至、報も是に如す(即中)、

として、十如是を三種に読み、これを「空・仮・中」の三諦(さんたい)の義に配釈したことをいい、これを、

三転読文(さんてんどくもん)、

といわれるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF。ここでいう、

転読、

とは、

大部の経典の本文読誦を省略し、経題・訳者名あるいは経典の初・中・終の要所を読むことによって全体を読むのに代えること、

で(精選版日本国語大辞典)、

真読(信読 経典を読むとき、その本文を略さないで、ていねいに読誦(どくじゅ)すること)、

に対する語である。

なお、智顗(ちぎ)については、

十界十如(じっかいじゅうにょ)、

で触れた。「十如」は、「十如是」のことである。

智顗大師.jpeg


冒頭の、

如是報(にょぜほう)、

は、

因と縁が出合えば、必ずある状態を実現しますが、ただそれが実現されたことにとどまらず、必ずあとに影響(報い)を残すものです。アサガオを丹精込めて育て、見事に花を咲かせたとします。すると「うれしい」という気持ちがわいてきます。そのように、物事には必ず、何らかの影響が残ります。これが「如是報」です。「主観的結果=物事の受け止め方」といえます、

とありhttps://rk-kitai.org/column/series04-3、如是報の他の、

如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果、

については、https://rk-kitai.org/column/series04-3に譲るが、最後の、

如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)、

は、

相・性・体・力・作・因・縁・果・報の九如是は、常に無数に、そして複雑に絡み合っていて、人間の知恵ではどれが原因だか結果だか分からないようなことが多くあります。しかし、それらは必ず天地の真理である一つの「法」によって動いているものであって、どんな物も、どんな事柄も、どんなはたらきも、一つとしてこの「法」を離れることはできません。「相」から「報」まで、すなわち初め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)「法」の通りになるという点においては同じだ(等しい)、というわけです。「本末究竟等」とは、そういう意味なのです、

とある(仝上)。

法華経については、「法華経五の巻」で触れた。

『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳 春日版)「序品第一」.jpg

(『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳 春日版)「序品第一」 日本大百科全書より)

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:46| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする