うきを猶むかしの故と思はずばいかにこの世を恨みはてまし(二條院讚岐)
の、
詞書に、
入道前關白家に、十如是歌よませ侍けるに、如是報、
とある、
如是報、
は、
十如是(じゅうにょぜ)、
の一つ、
今生の善悪の業因に報い、未来の苦楽の果を受けることを言う、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、
十如是、
は、法華経第一・方便品第二にある、
天台宗で、全ての存在を十の方面から説くもの、
であり(仝上)、
十如、
如是、
諸法実相、
ともいう(広辞苑・https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。
如是(にょぜ)、
とは、
かくのごとく、
このように、
という意味で、
十如是、
とは、
相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等、
の十の如是を通して、
宇宙のあらゆるものの本当の姿はこうだよということを示してくれている法門です、
とある(https://rk-kitai.org/lotus-sutra/bukking_05)。
妙法蓮華経方便品第二には、
止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等(止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり)、
とあり(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/1/02.htm)、
一切存在の真実の在り方を、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟の10方面から説いたもの、
とされ(広辞苑)、
相(形相)、
性(本質)、
体(形体)、
力(能力)、
作(作用)、
因(直接的な原因)、
縁(条件・間接的な関係)、
果(因に対する結果)、
報(報い・縁に対する間接的な結果)、
本末究竟等(相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であること)、
をいい、
諸法の実相、つまり存在の真実の在り方が、この10の事柄において知られる、
という、
この世のすべてのものが具わっている10の種類の存在の仕方、方法、
をいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。ただ、
『法華経』のサンスクリット原典や『正法華経』には十如是が見られないので、鳩摩羅什が『法華経』翻訳時に『大智度論』の九種法をもとに十如是を挿入したのではないかと考えられている、
とある(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。
天台大師智顗は、本末究竟以外の九如是に対し、
三転読、
をほどこしている。たとえば、
相の場合、「是の相は如なり」、「是くの如き相」「相は是くの如し」と転読し、空・仮・中の三諦として捉える。一切法の生起は十の範疇で総合的に捉えることにより認識されるのであるが、その認識された対象の実相は三諦によって把捉されるもの、
としている(仝上)。因みに、
三転読、
とは、智顗が、鳩摩羅什訳の十如是の文について『法華玄義』(二ノ上)において、十如是の箇所の文字の区切り方を3通りにずらして、
是の相も如なり、乃至、是の報も如なり(即空)、
と、
是の如きの相、乃至、是の如きの報(即仮)、
と、
相も是に如し、乃至、報も是に如す(即中)、
として、十如是を三種に読み、これを「空・仮・中」の三諦(さんたい)の義に配釈したことをいい、これを、
三転読文(さんてんどくもん)、
といわれる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF)。ここでいう、
転読、
とは、
大部の経典の本文読誦を省略し、経題・訳者名あるいは経典の初・中・終の要所を読むことによって全体を読むのに代えること、
で(精選版日本国語大辞典)、
真読(信読 経典を読むとき、その本文を略さないで、ていねいに読誦(どくじゅ)すること)、
に対する語である。
なお、智顗(ちぎ)については、
十界十如(じっかいじゅうにょ)、
で触れた。「十如」は、「十如是」のことである。
冒頭の、
如是報(にょぜほう)、
は、
因と縁が出合えば、必ずある状態を実現しますが、ただそれが実現されたことにとどまらず、必ずあとに影響(報い)を残すものです。アサガオを丹精込めて育て、見事に花を咲かせたとします。すると「うれしい」という気持ちがわいてきます。そのように、物事には必ず、何らかの影響が残ります。これが「如是報」です。「主観的結果=物事の受け止め方」といえます、
とあり(https://rk-kitai.org/column/series04-3)、如是報の他の、
如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果、
については、https://rk-kitai.org/column/series04-3に譲るが、最後の、
如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)、
は、
相・性・体・力・作・因・縁・果・報の九如是は、常に無数に、そして複雑に絡み合っていて、人間の知恵ではどれが原因だか結果だか分からないようなことが多くあります。しかし、それらは必ず天地の真理である一つの「法」によって動いているものであって、どんな物も、どんな事柄も、どんなはたらきも、一つとしてこの「法」を離れることはできません。「相」から「報」まで、すなわち初め(本)から終わり(末)まで、つまるところ(究竟して)「法」の通りになるという点においては同じだ(等しい)、というわけです。「本末究竟等」とは、そういう意味なのです、
とある(仝上)。
法華経については、「法華経五の巻」で触れた。
(『妙法蓮華経』(鳩摩羅什訳 春日版)「序品第一」 日本大百科全書より)
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95