美濃山に繁(しじ)に生いたる玉柏豊のあかりにあふがうれしさ(古今和歌集)、
の、
豊のあかり、
は、
新嘗祭や大嘗会の翌日の豊明の節会、
とある(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
とよのあかり、
は、
豊の明かり
豊明、
等々と当て、
は、
五節の舞、
で触れたように、
豊は称辞なり、あかりは、御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義と云ふ(大言海)、
トヨは美称、アカリは顔の赤らむ意(広辞苑)、
夜を日をついてせ酒宴するところから(和訓栞)、
タユノアケリ(寛上)またはタヨナアケリ(手弥鳴挙)の義か(言元梯)、
アカリは供宴に酔いしれて顔がほてっている様子から、トヨはそれを賛美する語(国文学=折口信夫)、
とあるが、素直に、
御酒(みき)にて顔の照り赤らぶ義、
ということだろう。
昨日神ニ手向奉リシ胙(ひもろぎ 神に供える肉)ヲ、君モ聞食(きこしを)シ、臣ニモ賜ハン為ニ、節会ヲ行ハルルナリ(室町時代「塵添壒嚢鈔(じんてんあいのうしょう)」)、
と、
祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒を戴き神饌を食する行事(共飲共食儀礼)、
である、
直会(なおらい 神社における祭祀の最後に、神事に参加したもの一同で神酒をいただき神饌を食する行事)、
の性格があり、
大嘗祭の祝詞の、
千秋五百秋(ちあきのながいほあき)に平らけく安らけく聞食(きこしを)して、豊明に明り坐(ま)さむ、
や、中臣神寿詞の、
赤丹(あかに)の穂に聞食して、豊明に明り御坐(おは)しまして、
などの例を引き、
豊明に明り坐す、
という慣用句が、宴会の呼称として固定したものであり、
豊は例の称辞、明はもと大御酒を食て、大御顔色の赤らみ坐すを申せる言、
と説く本居宣長『古事記伝』の解釈が最も妥当とみられる(国史大辞典)とある。だから、
とよのあかり、
は、意味としては、上述の、
赤丹(あかに)の穂に聞食して、豊明に明り御坐(おは)しまして(中臣の寿詞)、
と、
酒に酔って顔の赤らむ、
ことだから、
宴会、
饗宴、
を意味する(広辞苑)が、特に、
天皇聞看豊明之日(古事記)、
あをによし奈良の都に万代に国知らさむとやすみしし我が大君の神ながら思(おも)ほしめして豊の宴見(め)す今日の日は(万葉集)、
と、
泛(ひろ)く、朝廷の御宴会の称、
で、
豊穣(ゆたか)なる酒宴、
大宴会、
節会、
をいう(大言海・広辞苑)が、また、限定して、
豊明節会(とよあかりのせちえ)の略、
の意としても使う。古え、
新嘗祭の翌日(陰暦十一月、中の辰の日、大嘗祭の時は午(うま)の日)、天皇新穀を召しあがり、群臣にも賜ふ儀式、
をいい、
吉野の国栖(くず)、御贄(みにえ)を供し、歌笛を奏し、治部省雅楽寮の工人は立歌を奏し、大歌所の別当は、歌人を率ゐて五節の歌を奏し、舞姫、参入して五節の舞を演ず、
とある(大言海・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。「新嘗祭」については、
にいなめ、
で触れたし、「大嘗祭」については、
御嘗(おほんべ)、
で触れた。また、「直会(なおらい)」については、
おほなほび、
で触れたように、
動詞直(なほ)るに反復・継続の接続詞ヒのついたナホラフの体言形(岩波古語辞典)、
ナオリアイの約。斎(いみ)が直って平常にかえる意(広辞苑)
ナホリアヒ(直合)の義(大言海)、
平常に直る意(日本語源=賀茂百樹)、
直毘の神の威力を生じさせる行事の意(上世日本の文学=折口信夫・金太郎誕生譚=高崎正秀)、
等々諸説あるが、
神事(異常なこと)が終わった後、平常に復するしるしにお供物を下げて飲食すること、またその神酒(岩波古語辞典)、
神事が終わって後、神酒、神饌をおろしていただく酒宴、またその神酒(広辞苑)、
という意味である。
鬢だたら、
五節の舞、
で触れたように、
五節(ごせち)、
は、その謂れを、
「春秋左伝‐昭公元年」の条に見える、遅・速・本・末・中という音律の五声の節に基づく、
とも(精選版日本国語大辞典・芸能辞典)、
天武天皇が吉野宮で琴を弾じた際、天女が舞い降り、五度歌い、その袖を五度翻しそれぞれ異なる節で歌った、あるいは、天女が五度袖を挙げて五変した故事による、
とも(壒嚢抄・理齋随筆)いわれる(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典・日本語源大辞典)、
新嘗祭(にいなめまつり・しんじょうえ)・大嘗会(おおなめまつり・だいじょうえ)に行われた少女舞の公事、
をいい、毎年、
十一月、中の丑・寅・卯・辰の四日間にわたる、
とされ(岩波古語辞典)、丑の日に、
五節の舞姫の帳台(ちょうだい)の試み(天皇が直衣・指貫を着て、常寧殿、または官庁に設けられた帳台(大師の局)に出て、舞姫の下稽古を御覧になる)、
があり、寅の日に、
殿上の淵酔(えんずい・えんすい 清涼殿の殿上に天皇が出席し、蔵人頭以下の殿上人が内々に行う酒宴。《建武年中行事》などによると、蔵人頭以下が台盤に着し、六位蔵人の献杯につづいて朗詠、今様、万歳楽があったのち装束の紐をとき、上着の片袖をぬぐ肩脱ぎ(袒褐)となる。ついで六位の人々が立ち並び袖をひるがえして舞い、拍子をとってはやす乱舞となる)、
があり、その夜、
舞姫の御前の試み(天皇が五節の舞姫の舞を清涼殿、または官庁の後房の廂(ひさし)に召して練習を御覧になる)、
があり、卯の日の夕刻に、
五節の童女(わらは 舞姫につき添う者)御覧(清涼殿の孫廂に、関白已下大臣両三着座。その後、童女を召す。末々の殿上人、承香殿の戌亥の隅のほとりより受け取りて、仮橋より御前に参るなり。下仕、承香殿の隅の簀子、橋より下りて参る。蔵人これに付く。殿上人の付くこともある)、
があり、辰の日に、上述のように、
豊明(とよのあかり)節会の宴(新嘗祭は原則として11月の下の卯の日に行われ、大嘗祭では次の辰の日を悠紀(ゆき)の節会、巳の日を主基(すき)の節会とし、3日目の午の日が豊明節会となる)、
があるが、新嘗祭では辰の日に行われたので、
辰の日の節会、
として知られた。当日は天皇出席ののち、天皇に新穀の御膳を供進。太子以下群臣も饗饌をたまわる。一献で国栖奏(くずのそう)、二献で御酒勅使(みきのちよくし)が来る。そして三献では五節舞(ごせちのまい)となる、
とあり、ここで正式の、
五節の舞、
となり、
吉野の国栖が歌笛を奏し、大歌所の別当が歌人をひきいて五節の歌を歌い、舞姫が参入して庭前の舞台で五度袖をひるがえして舞う(大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4~5人(大嘗祭では5人)の舞姫によって舞われる)、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AF%80%E8%88%9E・https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki45・大言海・精選版日本国語大辞典)。後世、大嘗会にだけ上演され、さらにそれも廃止された。ちなみに、
帳台、
とは、平安時代に、
貴人の座所や寝所として屋内に置かれた調度のこと、
をいい、
御帳台(みちょうだい)、
また、
御帳(みちょう)、
ともいう(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B3%E5%8F%B0)。帳台の形状は、
四隅に置いた「土居」(つちい)というL字型の台の上に高さ6尺7寸の柱3本、合せて12本の柱を立てると全体の高さは7尺1寸になる。その上の方四辺に「鴨居」(かもい)と呼ばれる横木を渡して各々の柱を繋ぎ、その上に桟を漆塗りとした明障子(あかりしょうじ)を乗せ、四幅(よの)の帳(とばり)を四隅に、五幅(いつの)の帳を四方の中ほどにそれぞれに別に垂らした、
とある(仝上)。現代風の言い方だと、
天蓋付きのベッド、
となる(https://heian.cocolog-nifty.com/genji/2008/03/post_aacd.html)。
(御帳台(『宮殿調度図解』 (1905年))。四方や四隅に帳(とばり)を垂らし、天井には明障子を置く。帳台の中には几帳と畳を敷いた浜床が置かれているのが見えるが、柱や鴨居は帳や明障子に隠れて見えない。帳と几帳にある模様は朽木形(くちきがた)と呼ばれる有職文様である)
なお、
五節句、
は、
重陽でも触れたように、
人日(じんじつ)(正月7日)、
上巳(じょうし)(3月3日)、
端午(たんご)(5月5日)、
七夕(しちせき)(7月7日)、
重陽(ちょうよう)(9月9日)、
である。
(「豊」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%8Aより)
「豊(豐)」(慣用ブ、漢音ホウ、呉音ブ)は、
会意兼形声。丰(ホウ)は、△型にみのった穂を描いた象形文字で。豐は「山+豆(たかつき)+音符丰二つ」で、たかつき(高坏)の上に、山盛りに△型をなすよう穀物を盛ったことを示す。のち、上部を略して豊とかく、
とある(漢字源)。「豊」の字には、異体字が、
丰(簡体字)、
豐(被代用字(旧字体))、
禮(後起字)、
とあり、後述のように、
二種類の字が存在する(別字衝突)、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%8A)。
(「丰」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B0より)
「丰」(漢音ホウ、呉音フウ・フ)は、
象形。草の穂が△型に茂るさまを描いたもの。豐(豊)の音符となり、豊かに茂る意を表し、鋒(ホウ ほこさき)・峰(ホウ 山のみね)の音符となって、先が三角形に尖る意を表す、
とある(漢字源)が、この異体字は、
豐(繁体字)、
封(後起字)、
𡴀(同字)、
𫵮(古字)、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%B0)、
象形。草木の苗(封樹)を象る。漢語{封 /*p(r)ong/}を表す字、
とある(仝上)。
丰、
は、
豐、
の簡体字でもある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%8A)。
(「豐」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%B1%90)
(「禮」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%A6%AE)
さて、「豊」には、
豐(被代用字(旧字体))、
禮(後起字)、
の二系統の字がある(仝上)というのは、
①「レイ」と読む字「禮」、
が、
会意。「玨」+「壴」、儀礼の代表物である玉と太鼓。儀礼を意味する漢語{禮 /*riiʔ/}を表す字。もと「豊」が{禮}を表す字であったが、示偏を加えた、
②「ホウ」と読む字「豐」、
が、
形声。「壴」(太鼓)+音符「丰 /*PONG/」×2。太鼓の擬音を示す漢語{蓬 /*boong/}を書き表す字。のち仮借して「ゆたか」を意味する漢語{豐 /*ph(r)ung/}に用いる。中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)では、たかつき(「豆」)の上に食べ物が山盛りにされている様の象形文字と説明されているが、甲骨文字を見ればわかるように「豆」や食べ物とは関係がなく、誤った分析である、
とあり、上述の漢字源(藤堂明保説)は、『説文解字』に依拠した説明ということになる。しかし、
(A)「豐」 象形。高杯(たかつき)(食物を盛る、脚のある器)の上に玉が二つある形にかたどる。祭りに用いる道具の意を表す。もと豐とは別字で、「禮(レイ)(=礼)」の原字であるが、のちに豐の省略形として使われるようになった。教育用漢字はこれによる、
(B)「豊」 象形。実った穀物の穂を高杯(たかつき)の上に盛った形にかたどる。豊作の意を表す。ひいて「ゆたか」の意に用いる、
も(角川新字源)、
「豐」 会意兼形声文字です(丰+丰+豆)。「草・木が茂っている」象形と「頭がふくらみ脚が長い食器(たかつき)」の象形から、ゆたかに盛られた、たかつきを意味し、そこから、「ゆたか」を意味する「豊」という漢字が成り立ちました、
「豊」 象形文字です。「甘酒を盛る為のたかつき」の象形から、「たかつき」を意味する「豊」という漢字が成り立ちました、
とし(https://okjiten.jp/kanji863.html)、「禮(礼)」(漢音レイ、呉音ライ)についても、
会意兼形声。豊(レイ 豐(ホウ)ではない)は、たかつき(豆)に形よくお供え物を盛ったさま。禮は「示(祭壇)+音符豊」で、形よく整った祭礼を示す。『説文解字』や「礼記」祭儀篇では、礼は履(ふみおこなう)と同系のことばと説く。礼はもと古文の字体で、略字に採用された(漢字源)、
会意形声。示と、豊(レイ)(豐(ほう)の新字体とは別。神を祭るための祭器)とから成り、祭器に供え物をして神を祭る意を表す。ひいて、礼法の意に用いる。教育用漢字は古字の変形による(角川新字源)、
会意兼形声文字です(ネ(示)+乚(豊))。「神にいにしえを捧げる台の象形」と「甘酒を盛る為のたかつき」の象形(「甘酒」の意味)から甘酒を神に捧げて幸福を祈る、「儀式・礼儀」を意味する「礼」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji427.html)、
と、あくまで、
豐、
と
豊、
とを二系として、誤っているとされる、
豆(たかつき)がいっぱい満たされているもの、豆から構成され、象形文字(漢辞海)、
豆の豊満なるに象る。豆に从ふ象形、二の丰に从ふ、丰は聲をあらわす、豊(禮の古字)とは別(字源)、
とする「説文解字」に依拠して対比しているように見える。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
簡野道明『字源』(角川書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95