2024年12月07日
五色(ごしき)の糸
南無阿弥陀ほとけの御手に懸くる糸のをはり乱れぬ心ともがな(新古今和歌集)、
の詞書に、
臨終正念ならむことを思いてよめる、
とある、
臨終正念、
は、
死に臨んで心静かに佛を念ずること、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)が、「正念に往生す」で触れたように、
臨終のときに心が乱れることなく、執着心に苛まれることのない状態のこと、
である。
願わくは弟子等、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱(しゃくらん)せず、心失念せず、身心に諸の苦痛なく、身心快楽(けらく)にして禅定に入るが如く、聖衆現前したまい、仏の本願に乗じて阿弥陀仏国に上品往生せしめたまえ、
とある(善導『往生礼讃』発願文)のが、
臨終正念のありさまを示したもの、
とされる(仝上)。これは、
臨終正念なるが故に来迎したまうにはあらず、来迎したまうが故に臨終正念なりという義明(あきらか)なり、
とある(法然『逆修説法』)ことや、
念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし、
という(歎異抄)の、
他力本願、
からいえば、
念仏申す毎に罪を滅ぼして下さると信じて「念仏」申すのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、
となり、
一心に阿弥陀如来を頼むこと、
に通じていく(http://www.vows.jp/tanni/tanni29.htm)。
「正念」は、「正念場」で触れたように、
四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいること、
と(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93)とある。
意識が常に注がれている状態、
である。しかし、他力本願では、
自分の力で罪を消して往生しようと励んでいること、
ではなく、
一心に阿弥陀如来を頼み、命の終わる最後まで、怠ることなく念仏し続けること、
を指すと思われる。この、
正念、
と、
正念場・性念場、
との関係については、「正念場」で触れた。
御手に懸くる糸のをはり乱れぬ心ともがな、
は、
阿弥陀如来の御手に懸ける五色の糸の端が乱れないように、乱れることのない心で死を迎えたいなあ、
と注釈されている(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、
糸、
は、
青黄赤白黒の五色の糸、
で、
臨終を迎える人はその端を握って往生を祈る、
とある(仝上)。この色は、今日的には、
青は緑、黒は紫を指す、
という(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E7%B3%B8)。この糸を、
念仏者の臨終の際に、阿彌陀の手から自己の手にかけ渡し、引接(いんじょう)を願ったもの、
ともある(広辞苑)。
引接、
は、
引摂、
とも当て、
仏・菩薩(ぼさつ)が衆生をその手に救い取り、悟りに導くこと、
の意だが、特に、
臨終のとき、阿弥陀仏が来迎(らいごう)して極楽浄土に導くこと。
をいう(仝上・デジタル大辞泉)。なお、密教では、
五智(ごち)を表わし灌頂(かんじょう)に用いられる青、黄、赤、白、黒の五色の糸、
をさす(精選版日本国語大辞典)ともある。これだけだとわかりにくいが、『今昔物語』に、
枕上に阿弥陀仏を安置して、其の御手に五色の糸を付け奉りて、其れを引て、念仏を唱うる事、四五十遍計して、寝入るが如くいて絶入ぬ、
とあるように、
極楽往生を願う者が臨終において横たわりながらも自らの手で引くために、仏像や仏画の尊像の手に付した糸のこと、
とある(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%89%B2%E3%81%AE%E7%B3%B8)。ただ、源信『横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)二十五三昧起請』や良忠『看病用心鈔』などでは、「糸」ではなく五色の、
幡(ばん)、
を用いるとしている(仝上)。
幡、
は、
幡(はた)、
ともいい、
旛、
とも書く、サンスクリット語の、
patākāの漢訳、
で、
荘厳のために堂内の柱・天蓋などに懸けるほか、大会のときには庭に立て掛ける。戦場で用いられた戦勝幡が、仏・菩薩の降魔の威徳を示す標識として道場を荘厳する具となった。幡のもつ降魔の威力により、福徳を得て延寿と浄土住生を得ると理解された、
とある(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%B9%A1)。
五色幡(ごしきばた)、
は、
上から青(緑)・黄・赤・白・黒(紺)の順に重ねた五色を配した幡、
をいい、
六手四足という形で布または紙で作る。幡は仏菩薩の降魔の威徳・象徴として道場を荘厳する具となり、幡のもつ降魔の威力が福徳・延寿を生ぜしめるものと解された。四天王幡・五如来幡などに用いることがある。地鎮式などのときには、式場の四隅に「持国天王」などと記した幡を掛けて結界する、
とある(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%89%B2%E5%B9%A1)。
仏教でいう、
青(しょう)・黄(おう)・赤(しゃく)・白(びゃく)・黒(こく)、
の、
五色(ごしき)、
は、
五正色(しょうじき)、
五大色、
ともいい(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%89%B2)、
五正色、
は、
東・中央・南・西・北の五方、
に配し、
五間色(緋・紅・紫・緑・碧)、
に対していう(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%89%B2)とある。インドでは袈裟に用いてはならない華美な色であったが、中国では五色の観念が五行説に関連づけられ(仝上)、五色を、
信(しん)・精進(しょうじん)(勤(ごん))・念(ねん)・定(じょう)・慧(え)、
の、
五根(ごこん)、
にあてて、
白を信色、赤を精進色、黄を念色、青を定色、黒を慧色、
とする(日本大百科全書)し、密教では、
五智(ごち)、
五仏、
五字、
などに配したりする(仝上・精選版日本国語大辞典)。また、
五大色、
は、
地水火風空の五元素のもつ固有の色、
をいい、
地大は黄、水大は白、火大は赤、風大は黒、空大は青、
としている(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%89%B2)。で、
五色の雲、
は、
聖衆来迎の瑞相とされる瑞雲、
をいい、
五色の糸、
は、上述のように、
臨終のときに阿弥陀仏の手から念仏者の手に渡して引接を願う、
ために用いた(仝上)。
善光寺のご開帳のときは、一光三尊阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸が五色の糸にかわり、白い善の綱として本堂の前の回向柱に結ばれている。また、五色のなかの黒を紺などに変えて、施餓鬼会の五輪幡はじめ五色幡で用いられている、
ともある(仝上)。この、
五色、
は、
単なる色彩の話ではありません。これらの色は、宇宙と自然界の深い理解、そして人間の精神の調和に対する深遠な洞察を表しています、
とあり(https://tokuzoji.or.jp/goshiki/)、
それぞれの色が象徴する意味は、宇宙の基本的な要素と深く結びついており、それぞれが特定の方角、自然の力、さらには人間の心理状態とも関連しています、
とある(仝上)。で、
青は東方、空、治癒の力、
黄色は中央、大地、安定、
赤色は南方、生命力、力、
白は西方、純粋さ、清浄、
黒は北方、神秘、深遠、
を表し(仝上)、
仏教徒にとって宇宙の調和と自己の内面の平穏を理解する手段、
だとしている(仝上)。
「五」(ゴ)は、「五蘊」で触れたように、
指事。×は交差をあらわすしるし。五は「上下二線+×」で、二線が交差することを示す。片手の指で十を数えるとき、→の方向に数えて、五の数で←の方向に戻る。その転回点にあたる数を示す。また語(ゴ 話をかわす)、悟(ゴ 感覚が交差してはっと思い当たる)に含まれる、
とある。(漢字源)。互と同系(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BA%94)ともある。別に、
指事文字です。「上」・「下」の棒は天・地を指し、「×」は天・地に作用する5つの元素(火・水・木・金・土)を示します。この5つの元素から、「いつつ」を意味する「五」という漢字が成り立ちました、
との解釈もある(https://okjiten.jp/kanji127.html)。
「色ふ」で触れたように、「色」(慣用ショク、漢音ソク、呉音シキ)は、
象形。屈んだ女性と、屈んでその上にのっかった男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの、
とあり(漢字源)、「女色」「漁色」など、「男女間の情欲」が原意のようである。そこから「喜色」「失色」と、「顔かたちの様子」、さらに、「秋色」「顔色」のように「外に現われた形や様子」、そして「五色」「月色」と、「いろ」「いろどり」の意に転じていく。ただ、「音色」のような「響き」の意や、「愛人」の意の「イロ」という使い方は、わが国だけである(仝上)。また、
象形。ひざまずいている人の背に、別の人がおおいかぶさる形にかたどる。男女の性行為、転じて、美人、美しい顔色、また、いろどりの意を表す(角川新字源)、
とも、
会意又は象形。「人」+「卩(ひざまずいた人)、人が重なって性交をしている様子。音は「即」等と同系で「くっつく」の意を持つもの。情交から、容貌、顔色を経て、「いろ」一般の意味に至ったもの(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%89%B2)、
とも、
会意文字です(ク(人)+巴)。「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形から男・女の愛する気持ちを意味します。それが転じて、「顔の表情」を意味する「色」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji143.html)、
ともある。
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95