2024年12月15日
うまし
国見をすれば国原は、煙(けぶり)立ち立つ、海原(うなはら)は、鴎立ち立つ、うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は(万葉集)、
の、
うまし、
は、
シク活用形容詞、
で、
佳い、
の意(伊藤博訳注『新版万葉集』)、
蜻蛉島、
は、
大和の枕詞、
で、
とんぼのような豊かさに対する賛美、
とある(仝上)。現代口語で、
うまい、
は、文語形で、
うまし、
だが、この、
うまし、
は、
旨し、
甘し、
美し、
と当て、
形容詞ク活用、
で、
(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、
と活用し(学研全訳古語辞典・広辞苑)、
飯(いひ)食(は)めどうまくもあらずうま往ぬれども安くもあらずあかねさす君が心し忘れかねつも(万葉集)、
と、
心、耳、眼、口に感じて、甚だ好し、
愛でたし、
妙(くわ)し、
美(い)し、
結構なり、
の意で、
美、
と当て、神代紀に、
可美、此云于麻時(うまし)、
あるいは、
可美少女(うましをとめ)、
等々と使う(大言海・岩波古語辞典)。さらに、
旨、
と当て、
食不甘味(うまし)(欽明紀)、
と、
味、口に好し、
甘し、
の意で使い、字鏡(平安後期頃)に、
厚味、宇万志、
とある(仝上)。さらに、
新羅、甘言(うまくいひて)、希誑(めづらしくあざむくこと)、天下之所知也(欽明紀)、
と、
技(わざ)に好し、
巧みなり、
巧妙、
の意で使う(仝上)。それをメタファに、後世、
ものごとの状態が不足なく十分である、
ある事態や事のなりゆきが、当事者にとって都合がよい
(男女の仲について)親密な関係だ
(「あまい」から転じて)ぴりっとしたところのない、まのぬけた様子、
の意などに使ったりするが、基本は上記の三パターンだろう。なお、平安以降には、
むまし、
とも表記した(デジタル大辞泉)。
一方、冒頭の歌で使ったような、
形容詞シク活用、
の、
うまし、
は、
美し、
と当て、
(しく)・しから/しく・しかり/し/しき・しかる/しけれ/しかれ、
と活用し、
乃ち無目籠(まなしかたま)を作りて、彦火火出見(ひこほほでみ)尊を籠の中に内(い)れ、之を海に沈む。即ち自然(おのづからに)可怜(ウマシ)小汀(はま)有り(可怜、此をば于麻師(ウマシ)と云ふ。汀、此をば波麻(はま)と云ふ)(日本書紀)、
と、
満ち足りていて美しい、すばらしいと賛美する気持ち、
を表し、
よい、
すばらしい、
美しく立派である、
満ち足りて心地よい、
の意で使い、この、
うまし、
の語幹をつかい、冒頭の歌の、
うまし国そあきづ島大和の国は、
などと、
美し国、
と、
すばらしい国、
の意で使い、
うましものいづくか飽かじ尺度(さかと)らし角(四つの)のふくれにしぐひ合ひにけむ(万葉集)、
と、
旨し物(うましもの)、
と、
美しく立派なもの、
の意で使い(岩波古語辞典)、それを利用して、後世、上田敏が、
矢表に立ち楽世(ウマシヨ)の寒冷(さむさ)、苦痛(くるしみ)、暗黒(くらやみ)の貢(みつぎ)のあまり捧げてむ(「海潮音(1905)」)、
と、
味世(うましよ)、
と使ったりしている。
そこで、
ク活用の「うまし」
と、
シク活用の「うまし」
との関係である。意味の上からは、両者の関係は深いと思うのだが、
中古以降ク活用が一般的になった。上代には、シク活用は、用例のように、語幹(終止形と同形)が体言を修飾した、
とあり(学研全訳古語辞典)、
上古、シク活用の用例はごく少ないが、「うましくに」「うましもの」など、終止形(シク活用では語幹の働きもする)に体言の直接ついた例もあるところから、上代にもシク活用の存在したことが知られる。ク活用が対象の状態を表現しているのに対し、シク活用のほうは対象に対する主観的な気持ちを表現している、
ともある(デジタル大辞泉)のは、あくまで、
ク活用の「うまし」、
を言っている(のだが、後者は、両者が混同されているきらいもある)が、もともとは、漢字をあてはめるまでは、
シク活用の「うまし」
と
ク活用の「うまし」
は、区別して使われていた可能性がある。両者の関係を明確に指摘しているものは見当たらなかった。しかし、
吾妹子に逢はなく久しうましもの阿倍橘のこけ生(む)すまでに(万葉集)、
の、
うましもの、
は、
味の良いものの意で「あべ橘」にかかる枕詞、
として使われている。両者が重なって使われている例と見ることもできる。判断は附かない。
なお、
美し、
を、
イシ、
と訓ませると、
シク活用、
で、
吉(よ)し、美(よ)しの転、
ともされ(大言海)、
技能・細工の巧みなこと、転じて味わいの良さを形容する語、
とあり、
吾は是乃(いまし)の兄なれども、懦(つたな)く弱くして、不能致果(いしきな)からむ(日本書紀)、
と、
技能がすぐれている、
意、また、
一二町を作り満てたる家とても是をいしと思ひならはせる人目こそあれ、まことにはわが身の起き伏す所は一二間にすぎず(発心集)、
と、
立派である、
という意、
子ながらもいしくも申したるものかな(曽我物語)、
と、
健気である、
意、
いしかりし斎(とき)は無窓に喰われて(太平記)、
と、
美味である、
意などで使う(岩波古語辞典)。この語の意味も、上述の二つの「うまし」の意味をまたいでいる。古くから、混同されていた可能性は高い。なお、この、
いし、
は、中世・近世には、口語形で、
いしい、
を用いたが、後には、丁寧を示す接頭語、
オ、
を付けて、
もっぱら美味の意、
を表す、今日の、
おいしい、
となった(広辞苑・岩波古語辞典・デジタル大辞泉)。
「美」(漢音ビ、呉音ミ)は、その異字体は、
㺯、 媺、 嬍、 羙、 𡙡、 𡠾、 𫟈(俗字)、 𮊢(俗字)、 𮎪(俗字)、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%BE%8E)。
頭に飾りをつけた人間の形。のちに「大」+「羊」という形に変化したため、従来は{大きい羊、立派な羊}を表すと考えられたが、その用例が未発見であることや、甲骨文中で「大」が{大きい}という意味の義符として普通用いられないことからその仮説は棄却された、
とあり(仝上)、いまのところ、
「羊」の象形、
または、
「大」きい「羊」を意味する会意、
の二説がある(仝上)ようだが、いずれでも、
古代周人が、羊を大切な家畜と扱ったことに由来する、
としている(仝上)。しかし、
象形。羊の全形。下部の大は、羊が子を生むときのさまを羍(たつ)というときの大と同じく、羊の後脚を含む下体の形。〔説文〕四上に「甘きなり」と訓し、「羊大に從ふ。羊は六畜に在りて、主として膳に給すものなり。美は善と同なり」とあり、羊肉の甘美なる意とするが、美とは犠牲としての羊牲をほめる語である。善は羊神判における勝利者を善しとする意。義は犠牲としての羊の完美なるものをいう。これらはすべて神事に関していうものであり、美も日常食膳のことをいうものではない(字通)、
は、象形説を採っている。ただ、多くは、会意文字説を採り、
会意。羊と、大(おおきい)とから成り、神に供える羊が肥えて大きいことから、「うまい」「うつくしい」意を表す(角川新字源)、
会意文字。「羊+大」で、形のよい大きな羊をあらわす。微妙で繊細なうつくしさ(漢字源)、
は、
「大」きい「羊」、
を採っている。別に、
会意文字です(羊+人)。「羊の首」の象形と「両手両足を伸びやかにした人」の象形から大きくて立派な羊の意味を表し、そこから、「うまい」、「うつくしい」を意味する「美」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji44.html)、
は、
羊+人、
を採っているが、意味からは、
大、
を含意しているようだ。いずれにせよ、
義、善、祥などにすべて羊を含むのは、周人が羊を最も大切な家畜したためであろう、
とある(漢字源)。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95