萬葉集の詞書(和歌や俳句の前書きで、万葉集のように、漢文で書かれた場合、題詞(だいし)という)に、
(天武)天皇の崩(かむあが)りましし後の(持統)八年九月九日の奉為(おほみため)の御斎会の夜に、夢の裏に習ひたまふ御歌一首、
とある、
御斎会(ごさいゑ・おさいゑ・みさいゑ)、
は、
宮中公事の一つ、
で、
精進潔斎の法會、
とある(大言海)。
(御斎会 (年中行事絵巻) 精選版日本国語大辞典より)
冒頭の題詞(だいし)にいう、
御斎会、
は、
天皇などの追福のために、宮中で左右を集め斎食(とき)を施す行事、
をさす(「斎(とき)」については触れた)が、一般には、
御斎会、
というと、
正月八日から七日間、大極殿(のちには清涼殿、御物忌の時は紫宸殿)に、衆僧を召して斎食(とき)を設け、国家安寧、五穀豊饒の祈願をした法会、
をいい、
盧遮那仏(るしゃなぶつ)を本尊として読経供養し、金光明最勝王経を講じた、
とあり(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、平安時代初頭からは、
結願(けちがん)の日には、御前で内論議(うちろんぎ)が行われた、
とので、
御斎会論義、
ともいい(デジタル大辞泉・広辞苑)。講師には、
前年興福寺維摩(ゆいま)会の講師を勤めた僧を充てることが839年(承和6)12月の勅で決まり、恒例化した、
とある(http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%BF%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%88・世界大百科事典)。
年中行事となったのは、神護景雲二年(七六八)以来で(天平神護二年(766)始まりとする説もある)、のちに、
興福寺維摩会(ゆいまえ)、
薬師寺最勝会(さいしょうえ)、
とともに、
南京三会(なんきょうさんえ)、
の一つに数えられた(仝上・精選版日本国語大辞典・広辞苑)。
御斎講、
おおみおがみ、
さいえ、
という言い方もする。類聚名義抄(11~12世紀)には、
御斎會、ミヲガミ、
とある。因みに、
内論議、
は、
ないろんぎ、
とも訓ませ、
正月一四日の御斎会(ごさいえ)の結願(けちがん)の日や五月吉日の最勝講に、高僧を召して、問者・講師の役を定め、天皇の御前で最勝王経の経文の意義を論争させたこと、
をいい、
初めは大極殿、後には清涼殿で行なわれた。また、八月の釈奠(せきてん・しゃくてん)の翌日、紫宸殿に博士を召して釈奠の内論議がある、
といい(精選版日本国語大辞典)、平安時代、貴族の私邸で行なわれたこともあるようだ(仝上)。
年中行事として恒例化して以降、
年中行事第一の大事、
とさえいわれ、《延喜式》玄蕃寮の項に詳細な規定があり、
講師・読師・咒願師各1人、法用僧4人、聴衆25人のあわせて請僧32人と従僧34人、
によって構成された(世界大百科事典)。読師は、
内供奉十禅師や智行具足の僧、聴衆は南都六宗の学僧を主体として、諸寺の学僧、
請じて行い、813年(弘仁4)には結願の14日に、
高徳学僧11人を紫宸殿に招いてさらに論義を行わせたが、これが恒例化したので、いわゆる、
内論義(うちろんぎ)、
と称せらることになったが、鎌倉時代以後、南北朝の抗争などで衰微し、室町時代に至って中絶した(仝上)。当会の僧に対する布施も莫大なものであったらしく、
布施物を以て、殆ど一堂を建つ。近代の陵夷なり、
と批判された(仝上)とある。
南都三会(なんとさんゑ)、
のうち、
御斎会、
のほか、
薬師寺の最勝会、
は、
830年(天長7)6月薬師寺仲継の発議により当寺の教学興隆に資するため、檀主直世王の上奏により始められた。毎年3月7日から13日にわたって行われ、源氏の氏人が勅使となり下向したが、供料として播磨国賀茂郡の水田70町が充てられ、南都三会(さんえ)の一つとして、官僧の登竜門となった、
とあり、
興福寺の維摩会、
は、
毎年10月10日より7日間、《維摩経》を講説する大会、藤原鎌足が山階陶原(やましなすえはら)の自邸を寺とし、百済尼僧法明のすすめで《維摩経》を読み、658年(斉明4)に元興寺僧福亮を講師として始めたのが最初と伝える、
とある(世界大百科事典)
なお、
斎会(さいゑ)、
は、
既に訳し畢ぬるを皇帝聞き給て、歓喜して斎会(さいゑ)を設て供養し給はむとす(今昔物語集)、
と、
衆僧に斎食(さいじき 午前中の食事)を供養する法会、
をいい、もともとインドでは、
貴賤僧俗を区別せずに斎食を布施して、大きな法会を営むことが多く、これをパンチャ・パリシャドPañca-pariṣadと称し、中国では無遮会(むしやえ)と訳されていた、
とあり(世界大百科事典)、
梁の武帝が527年(大通1)に行った無遮大会、
などが有名(仝上)とある。道教でも、その祭りは、
斎、
とか、
会(かい)、
と呼ばれる。三洞珠囊(さんどうしゆのう)巻六の〈斎会品〉と称する章によれば、
斎には参加人数の制限や導師その他の役割分担が規定されているが、〈会〉にはそのような規定がなく、ただ「集まって散財し、道士賢者に食事を供する」だけだという。しかし、三元の日(1月15日の上元、7月15日の中元、10月15日の下元)には必ず「斎会」せよ、
といい、《雲笈七籤(うんきゆうしちせん)》巻三十七にも、春分・秋分に行われる社の大祭を、
斎会、
というとあるので、この言葉は道教の祭りをも指すと考えてよい(仝上)とある。
「斎(齋)」(漢音サイ、呉音セ)は、「斎」は「斎(とき)」で触れたように、
会意兼形声。「示+音符齊(サイ・セイ きちんとそろえる)の略体」。祭りのために心身をきちんと整えること、
である(漢字源)。別に、
形声。示と、音符齊(セイ、サイ)とから成る。神を祭るとき、心身を清めととのえる意を表す。転じて、はなれやの意に用いる、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(斉+示)。「穀物の穂が伸びて生え揃っている」象形(「整える」の意味)と「神にいけにえを捧げる台」の象形(『祖先神』の意味)から、「心身を清め整えて神につかえる」、「物忌みする(飲食や行いをつつしんでけがれを去り、心身を清める)」を意味する「斎」という漢字が成り立ちました、
とも(https://okjiten.jp/kanji1829.html)、
とあり、また、
会意。旧字は齋に作り、齊(斉)(せい)の省文+示。齊は神事に奉仕する婦人が、髪に簪飾(しんしよく)を加えている形。簪(かんざし)を斜めにして刺す形は參(参)。示は祭卓。祭卓の前で神事に奉仕することを齋と……いう。〔説文〕一上に「戒潔なり」とするが、字の原義からいえば斎女をいう。祭祀に先だって散斎すること七日、致斎すること三日、合わせて十日にわたる潔斎が必要であった。重文の字形は眞(真)に従う。眞はおそらく尸主(ししゆ)(かたしろ)の意であろう(字通)、
ともある。やはり、心身を浄め整える意味がある。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95