欠点をリソースとみなす
器用でもない,気もきかない,やることなすことうまくいかない,仮にそうだとしよう。
それをどう受け止めるのだろう。まずは,そのことを率直に語った真率さを,まずはポジティブにとらえるだろう。相手が問題といったことは,単なる言いかえではなく,真のリフレーミングにするには,それを心底プラスと受け止めなければ,単なるおためごかしに過ぎない。その率直さに,自分を何とかしたいと真実思っている姿勢と,だからこそ,あえて自分のマイナスを強調した,とみなせば,それは自分の負の部分と向き合える勇気なのかもしれない,あるいはいまの自分を何とかしたいという前向きの姿勢なのかもしれない。さらにその口ぶりの中に,不器用だけれども,粘り強さがあることをかすかに誇りに思っているにおいが感じられるかもしれない。あるいは気が利かない自分のなかに,頑固で,梃子でも動かない,軸があるのかもしれない。そして,やることなすこと,と総括しているなかに,実はもれてしまった,小さな成功が隠れているのかもしれない。
言葉で語っているのは,本人がいま意識しているネガティブ光線に照らし出されている部分だけなのだ。ではそこからもれた,別の機会,別の場所では,何があったのか,それは別のポジティブ光線で意識的に照らし出して見なければ,浮き上がっては来ないだろう。そこが,リソースをみつけるためのポイントなのではないか。
人はみな可能性がある,という。神田橋條治先生は,生来付与されている遺伝子の可能性を開花させる,という言い方をされていたが,それこそがポジティブ光線というものだ。
器用でないことで,得したことがあるかもしれない。その視点で見ていくと,器用でないことで,努力する必要があり,結果として,別のものが開花しているかもしれない。しかし本人は器用・不器用で振り分けているから,そのことは視野に入ってこないだろう。
われわれは(いや,ぼくはというべきだろう),一つの視点をとると,それから,なかなか離れられなくなる傾向がある。それを固定観念ともいうが,正確には機能的固着,つまり脳の働きが固まっている,あるいは脳のいつもの場所しか使っていないということである。それを習熟,という習性と呼んでもいい。
ネガティブになずむと,それによって,すべての過去が一色に染まる。ナラティブセラピー風にいえば,それが自分の観念を支配するドミナントストーリーとなる。それと異なる視点で見れば,ひょっとすると,数多のオルタナティブストーリーがあるはずなのだ。
神田橋條治先生は,それを能力と名づけた。悲観的というのは,悲観できる能力。極楽トンボよりはいい。怒りっぽいというのは,何についてもアグレッシブになれる能力等々。先ずは相手のネガティブに○をつければ,それはリソースなのだから。
エリクソンは,有名な,すきっ歯に悩む女性に,すきっ歯から水を飛ばす練習させた。あるいは人前でおならをして引きこもってしまった女性に,大鍋一杯の豆料理(海軍では口笛豆というそうだ)を作って食べさせ,大きいおなら,小さいおなら,うるさいおなら,やさしいおならの練習をすることを課題として出した等々。オハンロンによると,エリクソンは,患者の行動や体験のパターンを無批判に受け入れるだけでなく,パターンを積極的に発見し,変化を起こすために利用した,という。
N.R.ハンソンにならえば,なぜ,同じ空を見ていて,ケプラーは,地球が回っていると見て,ティコ・ブラーエは,太陽が回っていると見るのか。あるいは,同じく木から林檎が落ちるのを見て,ニュートンは万有引力を見,他人にはそうは見えないのか,ということになる。ハンソンは,それを「~として見る」と呼んだ。結局,われわれは対象に自分の知識・経験を見る。ゲーテは,「われわれは知っているものだけをみる」と言った。その延長線上で考えればいい。行動理論風にいえば,そういう見方を学習したのだ。ネガティブでおのれを見たほうが,生きやすいか,自己弁護しやすいか,防衛しやすいか等々。
能力に置き換えるのも,リフレームするのも,別の視点,別のものの見方,つまりオルタナティブなポジティブ光線で,照らし出すことで,別の自分が見えてくる,ということなのだ,と思う。
参考文献;ノーウッド・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊国屋書店)
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view04.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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