2012年11月03日
表現ということについて~自分の表現史
面倒な理論はともかく,表現というのは,かつて吉本隆明が『言語にとって美とは何か』で,自己表出と指示表出と概念化した考え方に強く影響されている。しかし実際に小説を論じようとしたとき,その理論は使わなかった。というより,自分にとって,表出の構造よりは,強く文体に関心があったせいかもしれない。
恥ずかしながら,かつて文学青年であったなれの果てで,古井由吉の「木曜日に」の文体に衝撃を受け,芥川賞を受賞した『杳子』を,何度も書き写した記憶がある。その無数に視点を変え,よく読みこまないと,その視点が,杳子と私の両者の息遣いのように,ただ自然に流れていく。しかし,そこには,入れ子の入れ子の入れ子のような語りの畳み込みがある。こんな文章を書く作家には,出会ったことがなかった。いまもまだない。
『杳子』の書き出しは,
杳子は深い谷底に一人で坐っていた。 十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時 期だった。
彼は、午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気 持で尾根を下り、尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それか ら沢にそって陰気な潅木の間を下るともなく続き、一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ち ょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。 谷底から見上げる空はすでに雲に低く 覆われ、両側に迫る斜面に密生した潅木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った 紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼおっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって 累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明 るさの中で、杳子は平たい岩の上に躯を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでい った低いケルンを見つめていた。
一見,語り手が両者を語っているようだが,このすべては,「彼」が思い出しているのを語っている。その「彼」の語りの中に,「杳子」から見えた「彼」が語られ,それを「彼」が入れ子にして語っている。畳み込みというのは,そういう意味だ。
いまでも,古井由吉は,日本の作家の中で,日本語表現の極北をいっている,と信じている。その一語一語のもつ感覚と生理は,他の追随を許さない。ドイツ語の専門家として,『特性のない男』のムジール研究から得たのに違いないが,ちょっと深いブラックボックスを感じる。そのためにか,彼の文体は容易に翻訳になじまない。それは『杳子』の出だしを一読すれば,ただ表面的に訳しただけでは,その複雑に入り組んだ心理の綾を訳しきれまい。それを作家評価の基軸にすれば,柳田國男も折口信夫もなじまない。別にそれをよしとしているのではないが,日本語の生理を生き物のように駆使する文体を,ただ意味だけ移植してもほとんど通用しない。『ユリシーズ』を翻訳で読んでも,実は何もわかったことにならないのに,事情は似ている。
若い頃,といつたも三十代から四十代にかけて,ちょうど会社と喧嘩別れした,どん底の中で,自分なりに古井の文体と悪戦苦闘して,やっと古井由吉をつかまえたと錯覚したのは,『語りのパースペクティブ』と題した古井論だ。
http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm
しかし,結局これでは,古井の持つ語りの構造はつかまえた(つもり)だが,肝心の文体の生理をつかまえることはできなかった(ある文学賞の最終選考までたどりつくのがやっとだったのは,そのせいだろうと思う)。それで,古井文体の極北,『眉雨』に果敢にチャレンジして,『眉雨』の文体を解きほぐしてみた。
たとえば,こんな文章だ。雨が降り出す一瞬を拡大鏡に掛けたように描いている,とも見える。
何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている。身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、雲と沸き 返り地へ傾き傾きかかり、目は流れない。いや、むしろ眉だ。目はひたすら内へ澄んで、眉にほのか な、表情がある。何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している。女人の眉だ。その さらにおもむろな翳りのすすみにつれて、太い雲が苦しんで、襞の奥から熱いものを滲ませる。その うちに天頂は紫に飽和して、風に吹かれる草の穂先も、見あげる者の手の甲も夕闇の中で照り、顔は 白く、また沈黙があり、地の遠く、薄明のまだ差すあたりから、長く叫びがあがり、眉がそむけぎみ に、ひそめられ、目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。
しかしときほぐしていけばいくほど,結局また語りの構造しかつかまえきれない。その遠い先に,文体があるような感じなのである。ちょうど原子からどんどん追い詰めて,クォークまでたどりつく,そんなイメージだ。
http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique103.htm
どういうのだろう。そこには,無限の入れ子のように,剥けばむくほど,するりと逃げていく感じなのである。そして,結局文学そのものが,自分から背を向けていった感じである。
ただ,こういうのもなんだが,その代わり,日本語の構造を手がかりに,情報というものを構造化してみることができた。是非はともかく,副産物なのである。こんなことを誰も言っていない,言っていないからいいというものではないが,そこにわずかに自恃のよりどころがある。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm
参考文献;
時枝誠記『国語学原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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