怒りを表現する
昔から怒りっぽく,怒りで散々な目にあっていたとしよう。
そのとき,どう怒りをコントロールするかという話になるのだろうか。たとえば,論理療法でいうように,イラショナルビリーフがあるからだと。たしかにそれもあるかもしれない。だが,怒りがその人の価値にかかわることだとしたら,それをコントロールすることは,その人の何かを矯めることになる。
確かに激昂した状態で,冷静な判断は下せないし、瞬間のさらにその一瞬の一瞬に集約されたような尖がった状態になっていて,すさまじい視野狭窄に陥っている。トンネルビジョンの状態になっているときの,そこからの抜け出し方は,一瞬立ち止まれるかどうかにかかっている。その瞬間,選択肢が生れる。このまま行くか,立ち止まり続けるか,戻るか,選択肢が絶えず3つ以上生まれるとき,すでに発想に余裕が出る。
頭の中の,意識の流れは言語化のスピードの20倍から30倍なのだという。さまざまな思いや妄想が次々と流れそれを言語にしようとするとき,その思いに適合する言葉を瞬時に探し当てて,コトバにして口から出す。ところが,怒りの瞬間は,感情が最優先で流れるので,言葉も短絡化する。しかし,思い出すと,言葉を口に出す寸前,必ず,コンマ何秒かの間がある。ほんの一瞬どうするかを迷う束の間がある。その間が,たぶん,立ち止まる最後の機会になる。
何度も怒りで失敗してきたので,この間合いはよくわかる。長く,自分の怒りを恥じてきた。あるいは,そのたびに悔いる自分を蔑んできた。
怒りを前にして,相手の反応は3つに分かれる。同じ土俵で,怒りの度合いを張り合う。この場合,よく野生のオス同士が負けじと張り合うのに似ている。いまひとつは,すさまじい鎧を着飾って,それで対抗する。手段は,いろいろあるが,まあ馬耳東風と流されるのが、ますます怒りを煽る。最後は,土俵を下りて去る。とりあえずは頭を下げても,心の中で舌を出しているのが、よく見える。
最近はめったに怒らなくなった。怒るには相当のエネルギーがいるからだ。叔父の口癖は,怒ったら負け,というのだ。成らぬ堪忍するが堪忍,とはよく言ったものだ。
ただ,このごろ必ずしも怒りを悪いこととは思わなくなった。怒りを抑えることも大事だが,怒るべきときに怒らないことのほうが,人間的ではない,と感ずる。そのときに怒らなくてどうすると思うことも多い。自分にしろ,誰か身近な人にしろ,あるいは赤の他人でも,理不尽なことに出会ったとき,それに屈することなく,怒りを挙げることは必要ではないか。怒っている,ということは大事なのだ。
ただし,怒ることと怒っていることを伝えることは別だ。なんと成長したものだ。そう思えるようになっている。ではどう伝えるのか、もちろん,アサーティブなアプローチも悪くない。ただ,せっかちな自分の性には合わない。
で考えた。怒っているとしよう。その時,「俺は怒っている」と伝えても,その怒りの大きさは,伝わらないだろう。その瞬間の冷静さが相手に伝わるだけだから,多少日頃の人間関係を意識させることにはなるかもしれないが,怒っているインパクトと,その怒りの大きさは伝わらない。で,
「おれは,いま,
馬鹿野郎!(ここは,怒りの大きさに合わせて大声を出してもいい)
と,言いたい気分なんだ」
と言ってみる。相手の瞬間の驚愕の表情と,そのあとのほっとした表情の落差をひそかに楽しむ。これなら、まだコミュニケーションの土俵に乗っている。
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