毎年酉の市に行っているわりには,よくその由来を知らない。ただ商売繁盛の神頼みと思っていっていたが,そもそもは,18歳で上京した年,同じ下宿の先輩につれられて,出かけたのが出発点。その時は夜遅かったにもかかわらず,すごい人だったことが記憶にある。その後二十年くらいして,いまは疎遠になった先輩とたまたま浅草で飲んでいて,酉の市に出くわし,再訪した。そこで熊手を買ったため,爾来お返しするという名目で,延々通って二十年になる。
そこで,改めて,由来を,調べてみた。
由来には,
江戸時代後期から,最も著名な酉の市は,浅草の鷲在山長国寺境内の鷲大明神社(東京都台東区千束)で行われた酉の市である。当時浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれて,鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ,長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され,酉の市が盛大に行われるようになる。長国寺は「酉の寺」とも呼ばれた。明治初年には神仏分離令により,長国寺と鷲神社とに引き分けられた。現在の鷲神社の祭神は,天日鷲命と日本武尊。
とある。行くとわかるが,お寺と神社が並んでいる。たぶん分離令で引き離されたが,同じ敷地内で,形ばかりの別居,いわば家庭内離婚の状態になったみたいなものだ。これは,多くの他の神社・寺で見かける光景だが。
お寺側の由来は,
当山は江戸時代初期,寛永七年(1630年)に石田三成の遺子といわれる, 大本山-長國山鷲山寺第13世・日乾上人によって,浅草寺町に 開山されました。山号を鷲在山寺号を長國寺と称します。寛文九年(1669年)には坂本伝衛門氏の後ろだてにより,新吉原の西隣にあたる現在の地(台東区千束)に移転し,江戸時代から続く代表的な年中行事である,浅草酉の市の発祥の寺として,今日に至っています。
とあり,神社側は,
社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり,天宇受売命が,岩戸の前で舞われた折,弦という楽器を司った神様がおられ,天手力男命が天之岩戸をお開きになった時,その弦の先に鷲がとまったので,神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり,以後,この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神,天日鷲命と称される様になりました。天日鷲命は,諸国の土地を開き,開運,,殖産,商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。
後に日本武尊が東夷征討の際,社に立ち寄られ戦勝を祈願し,志を遂げての帰途,社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い,お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので,この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭,「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ,御祭神の一柱となりました。江戸時代から鷲神社は,「鳥の社(とりのやしろ)」,また「御鳥(おとり)」といわれており,現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが,正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。
ウキペディア風にまとめると,
神道の解説では,大酉祭の日に立った市を,酉の市の起源とする。大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が,東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行い,祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。これにちなみ,日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)には大酉祭が行われる。また,浅草・鷲神社の社伝では,日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり,その際,社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから,大酉祭を行い,熊手を縁起物とするとしている。
仏教(浅草酉の寺・長国寺)の解説では,鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。1265年(文永2年)11月の酉の日,日蓮宗の宗祖・日蓮上人が,上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折,国家平穏を祈ったところ,明星(金星)が明るく輝きだし,鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ,浅草の長国寺では,創建以来,11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後1771年(明和8年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され,11月の酉の日に開帳されるようになった。
実際の祭りは,花又の鷲大明神の近在農民による収穫祭が発端といわれる。鷲大明神は鶏大明神とも呼ばれ当時氏子は鶏肉を食べる事を忌み,社家は鶏卵さえ食べない。近郷農民は生きた鶏を奉納し祭が終わると浅草寺観音堂前に放ったのである。このように鶏を神とも祀った社は,綾瀬川に面しているため水運による人,物の集合に好適であった。そのため酉の日に立つ市には江戸市中からの参詣者も次第に多くなり,そこでは社前で辻賭博が盛大に開帳されたが安永年間に出された禁止令により賑わいは衰微する。かわって、酉の市の盛況ぶりは浅草長国寺に安置された鷲ノ巣の妙見菩薩へと移り、最も賑わう酉の市として現在に至るのである。また浅草鷲大明神の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因であった。
神仏分離令によって,本来の神仏混交のありようを,崩されて,それぞれが,おのれが何によって立っているかを告げなくてはならなくなった,という意味では,いまはかつての両者渾然一体状態が当たり前とみれば,いまの状態は何か不自然で,江戸時代そのままではなくなっているのかもしれない。ま,しかし建前は別々ながら,一緒に並んで市を立てているというのが,いかにも日本的だ。
まああくまで主役は,熊手を買う市民で,それは江戸庶民も変わるまい。ささやかな商売繁盛を願い,訪れる。それを受けるのは,おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店。また,市を開催する寺社は小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与され,福を「掃き込む,かきこむ」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれている。
熊手は露店の主と,まけた(負けた),かった(勝った)と,気風のいいやり取りを楽しんで買うものとされ,商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる。商品額をまけさせて,その差し引いた分を店側に「ご祝儀」として渡すことを「粋な買い方」とする考え方があり,手締めはこの「ご祝儀」を店側が受け取った場合に行われる。昨今は普通の夜店と同じ買い方をする人が多くなった。値切ることは値切るが,そのままというように,「いくらでも心付けで」と一応,店側も遠慮がちだ。かつての江戸っ子相手の商売とはいかず,まあ,単なる神社詣でのついでのような人も増えてきた。
こちらは,田舎者で,何十年住もうと,通人をまねようと,ついつい,値引きしておいて,その値引き分を祝儀として払うというのが,いきといわれると,そうしたくなる。実際そうやって決めたが,そのほうが,まあどちらも気持ちがいいからだろう。
其角の句に,
春を待つ ことのはじめや 酉の市
とホームページに出ていたが,そのほかに,
人並に押されてくるや酉の市 虚子
雑閙や熊手押あふ酉の市 子規
も載っており,混雑ぶりが,よく出ている。
久しぶりに,今年の一の酉は,大混雑であった。露店の主人は,「今年は二の酉までしかなく,いい天気だから」といったが,不景気を敏感に反映しているように感じた。押し合いへし合いしながら,やっとたどり着いた賽銭箱を前に,じっくり祈る間もなく,押し出される。
今日は,ちょっとネットで集めたねたでごまかしたような感じになってしまったかな。
参考にしたのは,
http://www.otorisama.or.jp/
http://otorisama.jp/
http://matsuri.enjoytokyo.jp/torinoichi/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%89%E3%81%AE%E5%B8%82
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#酉の市
#鷲神社
#酉の寺
#長国寺
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