2012年11月10日

死について~あるいは生き方について


友人が,前立腺癌を宣告されて6年。本人は,痛みも苦しみもなく,普通にすごしてこられたことに感謝している,と淡々と言う。本来は免疫力の強い体質という結果が出たとかで,発見が遅れなければ,完治したのではないか,という感想を言っていた。すでに「癌は外へ出ていて」(という言い方をした)転移している。その中で,苦しみなく過ごせてきたことを言っているらしい。

検査数値が高くなると,これが見納めか,と僕ともう一人の友人Aに連絡を入れてきて,一緒に飲むことになる。かつての会社で,一緒の部署にいたことはないが,偶然組合の三役になり,それ以来気があって,一緒にちょっとした事業にも手を出したり,会社を離れても,一時疎遠になったこともあったが,つかず離れず,付き合ってきた。ただ,これが見納めか,という対象に自分がなっているということには,ちょっと複雑な感情が入る。

今回は,検査数値4がレベルとすると,1700くらいまで数値が上がり,医者も,薬がもう効かないといっていたという。そんなこともあって,再会したわけだが,どうやら,本人は覚悟を決めているらしく,冒頭の発言はそこから出た。年末3人で温泉に行く約束をした。ひょっとしてそれが最後になるかも知れないが,「以前にも何度も上がって,下がった」という言葉を,かすかなよりどころにして,まだあきらめていない。

かつていろいろ世話になった先輩は,肝炎の入院先で,高見順の『死の淵より』を読んでいる,と言ってにやりと笑ってみせた。本人なりの意地と意気なのかもしれない。確か石田三成は,刑場へ行くとき,「柿」を勧められて,それは体に悪いとか言って,刑吏の笑いを誘ったというが,その話で思い出すのは,フランス革命で処刑される貴族の誰それが,刑場へ行く馬車の中でも本を読み続け,下りろと促されて,読みかけのページに折り目を付けたのを,刑吏に見とがめられたそうだが,その心理もよく似ている。それは刑吏にはわからなかったのだろう。その死にざまが頭にこびりついている。

しかしその最後まで自分の生き方を,それもいつも通り淡々と続けていく身の処し方は,僕には美学というより,その人の倫理に見える。その人の生き方のコアにあたる何かなのだ。

そういう死とか生き方で必ず出てくる,侍とか武士道という言い方が嫌いだ(これでもれっきとした尾張藩士の子孫だが)。そもそも武士という存在は,世の中の上に被さった寄生虫に過ぎないと思っている。だからこそ,生き方をシビアにし,その自己規制を厳しくせざるを得なかっただけだ。だから,武士道とか侍などということを軽々に口にする人間を信じない。侍は,もともと侍などと言わなくても侍なのだ。だから,どう侍なのかを,自分の生き方の中で体現していなくてはならない。でなくては,侍である資格がない。世に寄生しているもののそれが倫理というものだ。

やくざの親分がこんなことを言っている気がする(もちろん妄想)。
「お武家様なんぞは、あっしら博徒同様、この世には必要のない、無職渡世ではないかと思いやすね、百姓衆にとっても、職人にとっても、ましてや商人にとっては、お武家さまなんぞは無用のものですよ、何かを生み出すわけではなし、ただ何の因果か上にたって威張ってお指図される。でも、その無用の方々がいなかったら、どれだけお百姓衆の肩の荷が軽くなることか」
「お侍方は、仁とか義とか、仰ってますが、それは上に乗っかっておられる言い訳に聞こえます。理をこねくっておられる。いい迷惑です。いっそ、そこをのいてくれっていいたいですよ。あっしらにも、あるんですよ、仲間内の仁義ってやつが、杯かわした親分への忠、お互いの島への義ってやつですよ。でも、こんなのは、住んでいる人を無視して、勝手にあっしらが囲っただけですよ、これも似てるでしょ、お武家様のやり口に、まあ、真似たんでしょうがね。無職渡世は無職渡世なりに理屈がいるんですよ」

何が言いたいのか,というと,結局侍とは身分でも,スタイルでもなく,外見でもない。生き方そのものなのだと感じるのだ。友人の,Nとしておくが,Nのそのさりげない決意に,外面のかっこよさとは無縁の,凛とした立ち姿を見たのだ。それは侍かどうかとは関係ない,人としての生き方なのだと思う。

なにもどこかの元知事のように,大袈裟に,腕振り上げてやっつけろ,と勇ましい言辞を弄するのだけが侍ではない。それを猪武者といって嫌うのは,やっぱりどう見ても,無様でかっこ悪いからだ。むしろ臆病者こそがする振る舞いなのだろう。彼を指して,右翼がコメントしていた。「安全なところから,ひとをけしかけているだけだ,政治家としていまやるべきことは現地へ単身乗り込んで決着をつけることではないか」と。本当にそうだ。孔子も言っている。暴虎憑河し、死して悔いなき者は、吾与にせざるなり,と。

Nは小さな塾をやっている。さりげなくこんなことを言っていた。「オール1の中学三年生が入塾してきた。本当は断るのだが,その姉が昨年までいたので,断りにくかった」。いまはどうなったと,興味本位で聞くと,「2と3になった」という。本人もさることながら,教える側も大変だったに違いない。「殴って,殴ってでも,とことん叱る」という。そうしないと,絶対彼らはやらない。それは長年「できのわるいものを教えてきた」確信だ。

しかし,ぽつんと一言付け加えた。「でも,できたら,ほめなきゃいけない」。

教師と生徒の格闘が続いているらしい。そのエネルギーに感心する。そこにもコアとしての倫理が見えた。そこから,自分の決断もついた。覚悟の後押しをもらった感じだ。



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ラベル:生き方 死の覚悟
posted by Toshi at 06:52| Comment(0) | 生き方 | 更新情報をチェックする
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