耐えられない言葉の軽さ~緘黙の勧め
いつから無口が貶められるようになったのだろう。会話の中の沈黙が,いつから無視されるようになったのだろう。
沈黙もまた主張であり,発言だということを,いつから忘れられてしまったのだろう。いつから,黙り続ける自由まで,失ったのだろう。あるいは人がしゃべりたい時まで待つだけの間をいつからうしなったのだろう。緘黙という言葉がある。黙る,ということだ。そこには強烈な意志がある。もっとも,妻から問い詰められて,完全黙秘という完黙というのもあるが。
一体いつから我々はこんなに言葉を雑音のように吐き出すようになったのか。昔の,というと笑われそうだが,父親は必要な時しかしゃべらなかった。ここぞという時にだけしゃべった。それがいつの間にかそういう父親は,父親失格の烙印を押されかけている。しゃべるというのは,ハミングのように言葉をまき散らすことなのか。
もちろん,僕は,「口に出さないことは伝わらない」という主義なので,黙っているだけで感じ取るとか,見ただけで相手を目利きするとかということのできないせいもあるので,しゃべるということをなおざりにする気がないが,何が大事で何が大事でないかの区別もつかないくらい,オンオフなしに,ずっとしゃべり続けていれば,耳は自動的に半開きになり,聞かなくなるのではないか。
さんまに代表されるような吉本芸人が,軽快にしかし薄っぺらにしゃべりつづけるだけのテレビ番組がいつから,ゴールデンタイムを占領するようになったのだろう。芸人だけが楽しんでいるのを,こちらはあほ面をして眺めている(ということは自分も観ているのだが)。軽薄にしゃべり続けることが,どうして価値あるとみなされるようになったのだろう。電車の車内放送から始まって,家庭,警察,みな喋り捲っている。子供に教え諭すように,おせっかいなおばさんのように。もっとも,おせっかいなおばさんも少なくなったが。
例が悪いが,オバマの演説は確かにうまい。しかし,四年たって,あの熱気を引き起こした演説がもたらした効果が,どれだけ本気だったのか,どれだけ実現されたのか,それぞれの希望に灯がついたのか,そろそろ検証されるだろう。演説のうまさだけを云々することに,いまもかつても疑問だった。この間の大統領選が,うってかわって熱気がうせている(伯仲という別の熱気だった)のも,そのせいかもしれない。どうもつい,巧言令色鮮なし仁,を思い浮かべてしまう。わが国にも,演説のうまさは比べようもないけれど,そういう政治家が多い。覚悟がなさすぎる。リスポシビリティとは,有言実行のことだ,と訳した人がいるが,つまりは言ったことに覚悟するということだ。言い訳も,説明も無用ではないか。やったか,やらなかったか,だけなのだから。
その意味では,壺井繁治の詩が好きだ。そこには,饒舌にも,沈黙にも無用な意味を与えていない。しゃべることも黙ることも,同格のコミュニケーションなのだ。
黙っていても
考えているのだ
俺が物言わぬからといって
壁と間違えるな
かつて沈黙は,寡黙に通じ,寡黙は黙考に通じた。しかし無口は嫌われる。自分を主張しろ,という。しかし主張することだけがいつも正しいわけではない。緘黙という言葉がある。意志として黙ることだ。沈黙しがちなことを,しゃべれないとおせっかいに言うようになったのは,なぜなのだろう。なんにでも,病名というレッテルを貼り,そうすることで,相手を理解したつもりになり,無遠慮に,土足で人の中へ踏み込んでくるのとよく似ている。
黙って
暮らしつづけた
その間に
空は
晴れたり
曇ったりした
と壺井繁治は詩に書いた。かつて職人は寡黙であった。静かな毎日がそうして過ぎていった。
黙り虫壁を通す
あるいは
言葉寡なきを求めて子の師たらしむ
とも言う。もちろん,昔から,
木像物言わず
とか,
黙り者の屁は臭い
と,諺にも無口への悪口はある。韻を外すときは,外すことを意識していた。そこに格調があった。しかし誰もがしゃべり続け,韻を外しっぱなしになると,ただ無秩序に,エントロピーが増大し,ノイズが漂うだけだ。底の浅さだけが目立つ。
だからと言って,誤解されたくないので,付け加えるが,昔の日本人は格調が高かったなどとは口が裂けても言わぬ。日中戦争での上海上陸作戦で,上陸に加わった部隊のほとんどが全滅し,わずかに生き残った数十名の中にいた父が,左腕を負傷し帰国した(だから僕が生まれた)が,あるとき,ぽつりと,「(中国では)ひどいことをしてきたからな」といったことがある。その時の表情を忘れない。何か苦いものを飲みこむ感じだった。そんな人でなしのことをしたのも,かつての日本人だ。しかし,こんなに意味なく,むやみにしゃべりはしなかったのではないか。ただそれをかみしめるやつも,かみしめないやつも,黙って受け止める度量があった気がする。器量があった。いまは黙って受け止めるだけの器がない。もちろん僕自身も含めて,器が小さくなった。
平均身長は,何十センチも伸びて,倭人ではなくなったのに,倭人であった頃のほうが,はるかに器が大きかった。それは幻想かもしれないが。
歳を食った人間の繰り言かもしれないが……。
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