2013年01月03日

「恋」・「愛」・「好」について



自分の知っている範囲なので,あるいはとんでもない間違いをしているかもしれないが,恋には対立語がない。たとえば愛なら愛憎,好なら好悪がある。その意味では,「恋」に憎しみや悪意は似合わない。

辞書的に言うと,日本語には,本来「愛」はない。漢語からきた。だからか,本来の意味とは別に抽象度が高い印象を受ける。古語辞典では(といっても自分の持っている岩波版の古いタイプだが),「恋う(ふ)」には,「思い慕う」か,「異性を思い慕って悩む」という意味しかない。

「愛す」は,①大切に扱う,大事にする,②手心を加える,遠慮して扱う,③あやす,機嫌を取る,の意味しかない。恋とか恋愛はない。

「好む」には,①好く,愛する,②選ぶ,という意味だが,この場合の①の意味は,例で,「いまめかしき事をこのみたるわたりにて…」とあり,「恋」のニュアンスはない。

このあたりからは,憶測と独断になるが,まずは,「恋」・「愛」・「好」の矢印の方向性を考えると,「恋」は,水面に映る自分に恋をしたナルキッソスの話があるにはあるが,「愛」に自己愛があり,「好」にも自己を好むという言い方があるのに,自己恋や「自分を恋う」というのはあまり聞かない。しかも,矢印は,誰でもいいというわけではなく,基本は,一点にピンポイントで向かう。恋のキューピッドの矢が,意味があるのは,そのためだ。「恋」の漢和辞典での意味も,「こふ」に一点張り。ただ,恋々という言葉あるように,「恋」には軟弱さが付きまとう。だから,恋着とか恋泣になってしまうようだ。

「好」は,嗜好とか愛好とか愛玩いう言葉があるので,本来の「愛」の「めでる」「いつくしむ」ということとつながって,かなり狭い範囲に限定された矢印のような気がする。人とも物とも時とも相性のいい言葉らしい。漢和辞典的(といっても角川の『字源』だが)には,「よし(善)」か「うつくし」のニュアンスがあり,もちろん好色の「好」でもあるが,好意の「好」であり,好漢の「好」であり,好事者の「好」であり,好人物の「好」であり,好都合の「好」であり,好評の「好」であり,好機の「好」でもある。

「愛」は,漢和辞典的には,「いつくしむ」「親しむ」「めでる」「したう」とあり,幅が広い。仁愛の「愛」でもあり,愛育の「愛」でもあり,愛児の「愛」でもあり,愛詠(好んで歌う歌)の「愛」であり,愛惜の「愛」でもあり,愛着の「愛」でもあり,愛嬌の「愛」でもあり,愛妾の「愛」でもある。さらに,自愛の「愛」もある。

現代は,「愛」ですべてが代替できるくらい幅広いが,漢字としての「愛」も元来そんな感じになっている。矢印は全方向と言っていい。

恋と愛の違いにはいろいろ説もあるようだが,三島由紀夫が,ことを書いていたそうだ(ネットで知ったので保証はしない)。

 思うに、「好く」というのは、個人資質的な扇形した感情移入を云うのであろう。対極は「嫌い」であり、人はそれぞれ多少なりともその嗜好性向が異なっているので塩梅良くなっているように思われる。「恋」というのは、「好く」の扇形をかなり狭めた極力一対一のかなり濃度の高い「好く」感情移入なのではなかろうか。

 それに対して、「愛」というのは、一対一の「恋」の扇形を開く方向への感情転移なのではなかろうか。「愛」は広がれば広がるほど良いが、いずれ「止まり」がやってくる。なぜなら、「愛」は強めれば強めるほど逆に「憎」を呼び込むからである。こうなると、それまでの「愛」を「第一次愛」と呼び、「憎」と絡みながら織り成していく「愛」感情を「第二次愛」として区別すべきであろう。その上で、「第二次愛」も又広げていけば行くほど良い。

三島らしい屁理屈だが,どうもしっくりこない。僕はベン図で関係性を考えてみた。例の円を重ねたり,つなげたりする,ジョン・ベンの考案した,複数の集合の関係や、集合の範囲を視覚的に図式化したものである。

「恋」は,どちらかというと二つの円が離れている。だから知恵の輪のように接点だけで絡みつく。
「愛」は,二つの円が一部重なっているか,全体が重なっているかだろうが,しかし思うに,重なっている場合は,どちらかの円の方がはるかに大きくて,自分側が大きい方なのか相手側が大きい方なのかは別として,大きな円の中に包み込まれているのではないか。
「好」は,ほんのわずか,相手の円が接している。その接している部分,ないし重なり合っている部分が大きくなるほど,マニアックになるというか,執着が強まる。この場合円の大小は「好」には影響しない。

ただ,「恋」の円は,円ではなく,輪。知恵の輪が絡みつくように,別々のまま。言い様を変えると,まあ一方通行。絡んではいるが,重なることはない。だから,「恋」。だから,「恋」が「愛」になることはない。慈愛という言葉があるが,その時,「恋」ではない。なぜなら,目線がもう「恋」の一方通行の目線ではないからだ。それは「恋」の終焉の果てに,ひょっとしたらありうる境地だ。「愛」の場合も,確かに,特に大きいほうが小さいほうを飲み込んでいる場合,やはり一方通行に違いないのだが,一方通行で自足する傾向がある。自足というかそこで充足している。「恋」は終始,一方通行にじれている。しかし,「恋」には「憎」も「悪」もない。「恨」もないと思う(ここらは異論があるかもしれない)。

「恋」からの連想で,ちょっと古いが,与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」を思い出した。ネットで歌詞を調べてみたが,どうも人を「恋ふ」という感じではない。壮士の勇ましげな空元気っぽくて,好きではない。この中で,有名なのは,一番だが,

妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分の侠気 四分の熱

二番は,

恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男(おのこ)ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む

恋とは言っているが,単なるだしに使われているだけだ。とてもいただけない。与謝野鉄幹という人間の程度の悪さを想像させてしまう(正直のところよく知らないし,こんな歌ではよく知りたくもない)。

全歌詞は,ネットでみるといろいろあるので見てほしいが,あえて好意的に受け止めれば,よく読むと,一方通行で,人への憧憬に満ちている。その意味で,人を「恋うる」というのはあたっていなくもない。

どのみち,自分には無縁で,他にないものかと,いろいろあたってみたが,短歌ならたくさんあるのだろうが,結局この詩に落ち着いた。

他人を励ますことはできても
自分を励ますことは難しい
だから-というべきか
しかし-というべきか
自分がまだひらく花田と
思える間はそう思うがいい
すこしの気恥ずかしさに耐え
すこしの無理をしてでも
淡い賑やかさのなかに
自分を遊ばせておくがいい(吉野弘「自分自身に」)

僕は,まあ,愛とか恋とかには縁のない人間なので,つまるところ,「好」に落ち着いてしまったようだ。こういう含羞の気色が「好」みのようだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#恋
#愛
#好
#与謝野鉄幹
#吉野弘
#三島由紀夫

posted by Toshi at 07:48| Comment(2) | | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
剛毅朴訥仁に近し: 「恋」・「愛」・「好」について
Posted by モンクレール ダウン 人気 at 2013年12月09日 01:44
minnetonka ankle hi tramper boot
Posted by 信托理? at 2014年02月03日 15:20
コメントを書く
コチラをクリックしてください