何年か前,岡山を旅行中に,市内の郷土文学館で,見つけた,
おじさんと
人に呼ばれる齢になっても
じっきに
かっとなる癖はやまぬ
思慮分別もたらぬ
金も力もないが
名誉も地位もほしくない(吉塚勤治「自己紹介」)
という詩が気にいっている。「自己紹介」という題なのも,いい。もう,おじさんどころか,爺だが。
歳をとると,視野が狭くなる。行動範囲も限られてくる。必然的に,いつもの場所で,いつもの人と,いつもの会話しかしなくなる。
認知症にならない3条件というのを,ずいぶん昔,「ためしてがってん」でやっていたと記憶している。それは,
①メタボにならないこと
②有酸素運動をすること
③コミュニケーション
③のコミュニケーションというのが,みそだ。コミュニケーションというのは,家族やいつもの知り合いと,あいさつしたり,「風呂,めし」というのとは違う。ましてや,テレビを観て,ぶつぶつと文句を言うことではない。それは,一般に独り言という。しかし,上記の近親者との会話も,自己完結している。自己完結している,ということは,脳をとりたてて酷使しなくても,なんとなく流れていく,そういう状態を機能的固着という。
何がひらめいた時,0.1秒,脳の広範囲が活性化するという。それは,いつもの使い慣れた部分ではなく,自分の脳に蓄えたリソースと,広範囲にネットワークがつながる,ということだ。これがなくては,脳は,どんどんしぼんでいく。
その意味で,脳を酷使しなくてはならない。そのために,
①まずは,ウォーキング
②いろんな人と出会う機会を逃さない
③積極的に自己表現する
を心掛ける。人と出会えば,人は自分とは違う。違う人と会話するためには,いつもと違うところを使わざるを得ない。そのことによって,今までアクセスせず,断線していた脳のネットワークが再接続するかもしれない,新たな,接点をつくりだすかもしれない。そのことが,まずは脳にとって刺激だ。
自己表現とは,自分を語ることでもいい。新しい機会,新しい場所,新しい時間,新しい人と出会うこと自体が,すでに,自分に何らかの表現を強いるはずだ。
そして,
④広範囲の読書
少なくとも,若い時と同じスピードで本を買うと,どんどん積読になっていく。読書スピードはどんどん落ちていく。
だからといって,速読をしようとは思わない。読書のスピードはその人の思考のスピードなので,無理に速度を上げても,思考が研ぎ澄まされ,シャープになるとは思えない。速読者で,ノーベル賞,芥川賞,仁科賞等々をもらったという話を寡聞にして聞かない(いたらごめんなさい。話の都合上いないことにします)。ここで言いたいのは,頭がいいかどうかではない,人真似ではない,独自のものを考えている人を見たことがない,という意味だ。まして,速読を宣伝している人は,自分オリジナルの技術でも考え方でもない人がほとんどだ。
人の真似をしたり,人のお先棒を担ぐ人は,好きになれない。たとえ,ピンでなくても,キリであっても,自分で必死に考え,必死につかんだ結論でなくては,意味がない。そういう人でなければ,権力者の周りにうろつく手合いと同じ人種だと思っている(かつて選挙を手伝ったとき,蜜に群がる蟻のような手合いをいっぱい見た。こういうのを泥棒という)。自分で,血を流して,考えろよ,安易に,人の正解をもらうな!が自分のせめてもの意地だ。それも,おじさん予防対策の一つだ。言ってみると,意地というか,虚仮の一念,意地をなくしたら人間おしまいだ。
読書は読むことに主眼があるのではなく,ましてやいかに早くたくさんの本を読むかではない。一行ずつ,書き手と対話することのほうが大事だ。
それに,いかに速読が瞬間は,脳の酷使でも,速読に馴れれば,脳にとっては何の刺激にもならず,速読という機能的固着を一つ増やすだけだろう。閑話休題。
だから,まだ前へ進もうとしている。いくつになっても,前へ進む。新しい何かをする。
生きるとは
位置を見つけることだ
あるいは
位置を踏み出すことだ
そして
位置をつくりだすことだ
位置は一生分だ
長い呻吟の果てに
たどりついた位置だ
その位置を
さらにずらすことは
生涯を賭すことだ
それでもなおその賭けに
釣り合う
未来はあるか
それに踏み切る
余力はあるか
まだ
死んだ後,おのれの位置が定まる。棺を蓋いて事定まる,という。しかし,人は生き方通りの死に方をする,ともいう。出処進退を過たず,の気概でいこう。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#生き方
#死に方
#出処進退
#おじさん
【関連する記事】