2013年01月13日

「ラブレター」の関係について


ラブレターという言葉自体が,ちょっと古風な気がする。メールでも,電話でも,チャットでも,告白にはなるが,ラブレターではない。

正直のところ,異性に出す手紙という意味では,ないこともないが,自分はラブレターを書いたことはないので,ラブレターとは何かについて,体験的に書くことはできない。

ただ,そこに意味があるとすると,どんな意味があるのかを,どうでもいいことにこだわる性分なので,ちょっとはっきりさせてみたいと思ったまでだ。

古典や資料にあるのかもしれないが,ここは,自力で,自分なりに絵解きをしてみたい。

まずは,見ず知らずの人にいきなり出す,ということは,なくはないだろうが,もらった方も,気味が悪いだけで,それを読む気にはならないだろう。とすると,ある程度知っているが,例えば,あいさつ程度でもお互いに相手を認知している程度以上でないと,書いたものを読んでもらうという前提が崩れるのではないか。

日常的に接触している,その頻度と認識度は違っても,ある程度相手と顔を見知っている。しかしある時,その相手が,不意に,知り合いという「地」から,際立って,「図」として自分に見え始めてくる。それを,好き,というのか,意識する,というのかはわからない。ある意味で,ただの顔見知りでは,自分にとってはなくなってくる。それがまあ,スタートラインなのではないか。

そこで起こっていることを,心理的に分析する力はないが,図になったからといって,すべての人がラブレターを書くとは限らない。書こうと思うには,もう一つ,何かがいるような気がする。まあ,いまふうに言えば,メールのアドレスを聞き出すとか,携帯電話の電話番号を聞きだすのとは違うが,といって,ストレートに告白するのとも,ナンパするのとも,何かを口実に誘い出すのとも,また違う。

わざわざ,文章を書いて,相手に投函するというのは(しかも,その前に相手の住所を知るとか,様々な手続き上の煩瑣な準備をして),書く作業,それを封函し,投函するというプロセスから,相手が返事する(無視する,突っ返す,返事を書く等々)までの,その間のタイムラグに意味があるのか,直接アプローチをためらわせる性格的なものか,いずれにしたって,間遠な感じなのだ。

だが,だ。そこまで手間暇かけても,何はともあれ,読んでもらわなくてはならない。しかも,差出人の名前だけで読んでもらわなくてはならない。とすると,必然的に,手紙を出しても,読んでもらえる,何だろう,と怪訝に思いつつも(ついでに顔が浮かぶくらいならまず読んでもらえる),封を切ってもらえなくてはならない。

ここからいえることは,わざわざ手紙を出すというプロセスを経ても,読んでもらえる相手として,相手に認知してもらえていなければ,ラブレターは,ただのレターとしても,機能しないのではないか。

ラブレターの中身はともかく,相手に手紙を受け取り,それを開封させるだけの関係があってはじめて,ラブレターとしての意味がスタートする,と言っていいのかもしれない。

で,問題はその文章だ。

自分の側から見て,その人との距離の遠さに目覚めたとしても,そんなことは,相手にとっては関係ない。だから,どんなに切々と訴えたとしても,それは届くことはない。いや,ただの顔見知りではないとしても,そういう関係を予期していない相手からもらった場合,驚愕よりは,恐怖を覚える可能性だってある。自分は,相手にそう勘違いさせる振る舞いをしてしまったのではないか等々。返って,距離を置かれる可能性だってある。

ここでも,文章以前に,ラブレターとして機能する関係性が必要になってくる。では,どういう関係なら,ラブレターの思いを,読んでもらえるのか。

自分は,ずいぶん昔一度だけラブレターをもらったことがあるが,自分はその人を仲間とは思っていたが,そういう相手とは感じていなかったし,自分はそれどころではない心理状態にもあって(別にすきな相手がいて,片思い状態だったので),たぶん,ろくな返事もしなかったと思う。

仮に,ラブレター(別に封筒に,ラブレター在中と朱書きされているわけではないので)もらったところで,相手に,それを,わくわくしなくてもいいが,何だろうと,心躍らせて開封するくらいでなくては,ラブレターとしては機能しない。

ということは,何だろう,矛盾することを言っているようだが,そもそもラブレターとして,相手が受け止め,そのつもりで開封してくれる関係でないところでは,ラブレターは機能しないのではないか,ということなのだ。

なんだかつまらぬ結論になってしまった。

せめて,お互いが,相手を,仲間の一人という「地」から,一人抜き出た「図」として,まあなんとなく意識するようになっていて,始めて,ラブレターを出すことで,関係に変化をもたせたいという,ラブレターを書く動機に意味が出てくる。

常識では,ラブレターで愛を告白するということになるようだが,残念ながら,そうはならないようだ。どんな立派な文章でも,相手にそれを読む心積りがなければ,それはただ意味のない文字面にしかならない。場合によっては,唾棄されるかもしれない。手紙と一緒にかすかな関係そのものも。

では,ラブレターは,何を訴えるのか。訴えなくてもいいのではないか。すでにお互いを「地」から際立つ「図」と認識しあっているのだから,ただ,そういう相互認識の確認でしかない。だからこそ,わざわざ文章を書き,封函し,投函する作業プロセスにも,意味がある。自分にとってはもちろん,相手にとっても,そういう作業をすること自体が,相互確認になっている。どんな駄文も,そういう気持ちで見れば,すべて心に響く佳文に見える。その文章の向こうに,二人の世界が見えると, (勝手に)思い描くという感覚なのかもしれない。

もっとも僕のような老人には,これは無縁の世界だが。

ネットで,「3行ラブレター」というのを見つけたが,たとえば,

「がんばれ!」と背中を押したのも
「がんばらなくていい」と抱きしめてくれたのも
あなたでした。


メールがきた、今何してんの?って 
ぼーっとしてるって返した  
君のメール待ってたなんて送れへんよ


おみくじは凶だったけど 
こんな彼女と初詣している俺は 
限りなく大吉だろ、神様。


帰り道 
雪の中に残る君の足跡に 
僕の足をそっとかさねてみる


大好きで大好きで
やっと言えたの
「ありがとう。そしてよろしく」

もうやめよ。
あほ臭くなってきた。つまりは,前提として,お互いが一定の深い関係を認識しあっているからこそ,そのラブレターには意味がある。それを勘違いして,「恋文」などと思い違いして,告白するツールとして使うと,下手すれば,友人関係らからすら,追放される「酷薄」な「告発」をされかねない。くわばら,くわばら。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#ラブレター
posted by Toshi at 07:09| Comment(1) | ラブレター | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
paleodiet
Posted by 三角ビキニ at 2013年10月06日 11:04
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