2013年01月18日
どこかに貴種へのあこがれがある~『戦国武将 敗者の子孫たち』を読んで
高澤等『戦国武将 敗者の子孫たち』(歴史新書y)を読んだ。
ここでは,武田勝頼,真田信繁,明智光秀,石田三成,豊臣秀勝,松平信康,今川氏真,
が取り上げられている。真田信繁は,いわゆる幸村のこと。秀勝は秀次の弟,松平信康は信長の娘と結婚し,若くして自死に追い込まれた,家康の長子,今川氏真は,義元の長子。
言ってみると,負け組戦国武将の子孫が,どういう血脈を残したかを,延々描いていくので,それ自体は,退屈なものだが,所々で,著者は,自分の読みを披歴する。
たとえば,明智光秀には,「ツマキ」という妹だか,側室の妹だかが,信長の側に仕えていたが,本能寺の前年,死んでいる。「多聞院日記」に,「惟任(光秀)ノ妹ノ御ツマキ死量,信長一段ノキヨシ也,向州(光秀)無比類力落也」とあるらしい。これが,光秀の織田家中での立場を弱体化させた,とある。
あるいは秀吉については,百姓出の武将というイメージが定着しているが,それを覆す。
母親仲は,中田憲信編の『諸系譜』によれば美濃関鍛冶の系譜を引き,父は関弥五郎兼員と称していたとされる。『祖父物語』では青木一矩は秀吉の従弟としており,引用元の不明だが『若越小誌』は「青木一矩は秀吉の従弟」としている。
一矩の父は青木重矩,母は関兼定の娘であり,青木氏が美濃安八郡青木を本拠地としていた地縁を考えれば,隣接する美濃赤坂の刀工であったという関氏の女を母としたことも自然なことであろう。(中略)家康の側室にお梅の方という女性がいる。(中略)このお梅の方の父は青木一矩であり,(中略)江戸時代の竹尾善筑が編纂した『幕府祚胤伝』には,……青木一矩の娘お梅の方は家康の外祖母華陽院の姪であると明記されているのである。(中略)
つまり秀吉が生まれる以前の話,秀吉の母仲の姉妹が青木氏に嫁いでおり,その青木氏は家康の祖母華陽院と血縁であったことを徳川の史料が認めていることになるのである。
秀吉の葬儀では,青木一矩が福嶋正則と供に秀頼の名代をつとめている,というのも,ここから推測すると,意味深に見える。さらに,『百家系図稿』によると,秀吉の養父となった竹阿弥という人物について,水野氏の支流である水野藤次郎為春の子であるとし,
その真偽を補完する一次資料はないが,ただ秀吉が織田家の一部将であった頃用いた家紋は沢瀉紋であり水野家の家紋と一致する。
沢瀉紋はその後,形を変えて秀吉と姻戚関係にある浅野家,福嶋家,木下家も用い,羽柴秀次も旗印としており,…さらに秀吉が作らせた世界最大の金貨とも言われる慶長大判にも沢瀉紋が刻まれている。それだけ沢瀉紋は秀吉にとって特別な家紋であったことは確かである。(中略)
そして「藤吉郎」というような,「藤」の文字を通称に用いるのは藤原氏系に多くみられ,この通称は,水野家でよく用いる藤四郎,藤七郎,藤九郎,藤次郎,藤太郎などにも符合するものである。
秀吉来歴の幅を再確認するだけで,通常のイメージが変わっていく。こうした箇所がいくつかあるのが,本書のもうひとつの面白さかもしれない。
こうした血縁のつながりは,敗者の血のつながりが,たとえば,石田三成の血脈が,「尾張徳川家に入り,さらに四代徳川吉通を通して公家の九条家にも渡っていった」ということを考えると,同じ家格の家同士が婚姻でつながっていく,特に戦国時代,生き残りの重要な結合手段であったことを考えると,そんなに不思議ではない。
また明智光秀の血脈は皇室に入っているが,その系譜は,
一本は細川ガラシャ→多羅→稲葉信通→知通→恒通→勧修寺顕道室→経逸→婧子→仁孝天皇となり,もう一本は細川ガラシャ→細川忠隆→徳→西園寺公満→久我通名室→広幡豊忠→正親町実連室→正親町公明→正親町実光→正親町雅子→孝明天皇という流れである。
光秀ですらこれである。同じ家格同士が縁組するとすれば,420あるといわれる大名諸侯の間を血が行ったり来たりし,それが皇室・公家にまで行くのは,江戸時代という閉鎖された社会では十分ありうる。
比較的確実な系譜をたどってもこれである,女系で先があいまいになった場合を含めれば,すそ野は広がる一方だろう。我が家のようにどこの馬の骨かわからないものにとっては,うらやましい限りだが,それでも,細君の母方は,新田義貞の直系らしいので,どんな馬の骨にも,血脈は流れている,らしい。当たり前のことだが,全人類は,アフリカのたった一人の女性へと辿れるのだから,負け惜しみかもしれないが,血脈の貴種を競うことに意味があるとは思えない。
確かに貴種へのあこがれはわからないでもないが,江戸末期,徳川家定の後継を巡る継嗣問題が,一橋慶喜と紀州徳川慶福で争われているとき,肥後の横井小楠は,
人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや
と呼んだ。今日でも,こうはっきり言い切ったら,右翼に狙われるかもしれない。小楠は,明治初年,新政府に召しだされた直後,京都でテロに殺られた。はっきりものをいうことは,今も昔も,結構覚悟がいる。
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