2013年01月21日
錯覚がなぜいけないのかわからない~『錯覚学-『知覚の謎を解く』を読んで
一川誠『錯覚学-『知覚の謎を解く』を読んだ。
正直言って,全くつまらない。つまらない本を書評するのか,というご批判が聞こえそうだが,僕はブレストの原則で行こうと思っている。
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11000208.html
で触れたように,どんなくだらないアイデアも,それを生かせなければ,生かせない自分の力量が問われている。「くだらない」で切り捨てるのは簡単だが,それは自分の先入観がそうしているからかもしれない。そこで,自分なりに,何がつまらないかを,説明したいと思う。それが,どんな人とも共感性を持つことと通じると思うからだ。
因みに,ブレストと共感の考え方については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11001331.html
で触れた。
著者自身も,言っているように,錯覚というのは,日常生活では,それ自体が問題にはならない。というと言いすぎで,錯視しやすい道路標識とか,道路の見え方が錯覚を起こすということはあるが,ここでそう言い切ってしまったのは,この本で紹介される錯覚は,例の,ミューラー・リヤー錯視のように,ほとんどが二次元画像で起こる錯視だ。それは,人間の知覚にはどういう錯視がありうるかを研究するために作られた二次元画像であることがほとんどだ。その紹介に大半がさかれている。けれども,こう書く。
実は,これまでの研究の中で,華完全に解明された錯覚はほとんどない。むしろ,ほとんどの錯覚については,どのようにして成立しているのか,いまも議論が続いている。
けれども,大事なことは,読者側に必要なのが,どういう錯覚があるかという,つくられた錯覚ではなく,どういう時に,どういう場所で,どういう状態の時,人に錯覚が起きやすいのか,という現実の中での錯覚だ。ひょっとすると,交通事故のいくつかは,そのために起きているのかもしれない。このことがあまり重きを置いているように感じられなかったこと,これが第一だ。
第二は,錯覚は,何が問題なのかが,ちっともわからない。伝わってこない(過去に読んだのでは,高野陽太郎『傾いた図形の謎』,今井省吾『錯視図形』,ニコラウス・ウェイド『ビジュアル・イリュージョン』,とコブ『錯覚のはなし』いうのがあるが,こんなに苛立たなかった記憶がある)。
進化の過程で,人は,そうなるように,極端に言うと,そう錯覚した方が生き残りやすいから,そういう錯視を手に入れたのではないのか。とすると,いまそれが問題なのは,わずか数千年の間に,人類が手に入れた錯視が,自分自身の文明で,人類を危険に陥れそうだ,というのなら,そこをこそ紹介してほしい。それについては,
人間は自分たちで生活環境を大きく変容させ,その環境が知覚や認知のシステムの限界を超えた判断をしないと致命的な問題を生ずるような潜在的危険性と日々接している。
といいながら,抽象的な指摘にとどまっている。現実のそういう潜在的危険についての実験結果を指摘してもらった方がわかりやすいし,面白いはずなのに。
一方では,ぱらぱら漫画から,アニメ,テレビ,映画まで,人間の錯視があるから成り立っているものがある。その意味では,錯覚があるから成り立っているという,錯視の効用はいっぱいある。若干の言及はあるが,この面にもっと誌面を割いてもいいし,錯覚があるから楽しめる面を,もっと突っ込んでほしい不満がある。これは錯覚のプラス面かどうかはわからないが,効用ではある。
つまり,錯覚の危険と面白さ,あるいは錯覚のリスクと錯覚だからこそ起こるエンターテインメントというか,そういう具体例を我々は聞きたいはずだし,それが新書という媒体の役割のような気がするのだ(誤解?)。
次から次へと,何々錯視という錯覚の例示をいっぱい与えられても,しかもそれが似ていて,現実にはありそうもない図柄解くると,退屈してしまうだけだ。著者も言うように,それが人間の錯覚というものをあぶり出すためにつくりだしたものなら,それを元に,現実では何が起きるかを,その次に,展開してもらわなくては,錯覚にリアリティ感がない。それくらいなら,だまし絵,例の老婆と娘のような,錯覚させるだまし絵のほうが,エンターテインメント性がある(板根厳夫『遊びの博物誌1・2』,種村季弘・高柳篤『だまし絵』等々)。それに,この手の絵は,人間の錯視の特徴も表しているのではないか(たとえば,老婆と娘では,人間の「いま」とは何かというのが現れているという指摘もある。エルンスト・ヘッペル『意識のなかの時間』)。
ハンソンは,ネッカーキューブについて,錯覚などという言葉を使わず,
この図の遠近法的逆転現象を経験しうる人のほとんどは,この図を植えないし下から眺められた三次元の箱としてみることができるほど十分な知識を持っており,十分なものを学んでいる…(『知覚と発見上』)
といい,それを「~としてみる」と言った。我々の認識の特徴として,「知っているものとしてみる」という認知の特徴として言及している。遠近法という錯覚らみるのではなく,「知識を見ている」ともいえる側面がある,ということを忘れてはならない気がする。
もう一つ言っておきたいのは,人の認知形式,思考形式には,「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」と「ストーリーモード(Narrative Mode)」がある(ジェロム・ブルナー)があるとされていることである。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。
「物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)
要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。
その意味では,物語として,錯覚を提示してもらう方が,インパクトがあったと思う。
最後に,ただひとつ心に残ったのは,例のペンローズの「考えられない三角形」への錯視は,視点を移動することで見破ることができる,という指摘だ。それは他の錯視でも,人間ならではの,視点を変える,視点を動かすことで,それが打ち破れるのなら,ただ一瞬の錯視だけで,錯覚を論ずるのではなく,錯覚を崩せる人間の可能性についても,もっと言及してほしいと思う。錯覚という人間の弱点(?)だけでなく,それを克服できる人間の持つリソースにも言及しなくては,いささか,公平性に欠く気がしてならない。
素人が,結構勝手なことを言ってしまったか,な。
参考文献;
N・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊國屋書店)
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この記事へのコメント
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Posted by ガウンバスローブ at 2013年08月30日 04:51
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Posted by アンティーク 時計 カルティエ at 2013年11月04日 11:07
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