日本語ということで言えば,三浦つとむの『日本語とはどういう言語か』を読んだ時の衝撃は忘れられない。
われわれは,生活の必要から,直接与えられている対象を問題にするだけでなく,想像によって,直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり,過去の世界や未来の世界について考えたりしています。直接与えられている対象に対するわれわれの位置や置かれている立場と同じような状態が,やはりそれらの想像の世界にあっても存在するわけです。観念的に二重化し,あるいは二重化した世界がさらに二重化するといった入子型の世界の中を,われわれは観念的な自己分裂によって分裂した自分になり,現実の自分としては動かなくてもあちらこちらに行ったり帰ったりしているのです。昨日私が「雨がふる」という予測を立てたのに,今朝はふらなかったとすれば,現在の私は
(予想の否定)(過去)
雨がふら なくあっ た
というかたちで,予想が否定されたという過去の事実を回想します。言語に表現すれば簡単な,いくつかの語のつながりのうしろに,実は……三重の世界と,その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする分裂した自分の主体的な動きとがかくれています。
ここにあるには,日本語の視点の転換といってもいい。わずかな一文,「雨がふらなかった」にある,昨日予想した雨のふっている「とき」と今朝のそれを否定する天候を確認した「とき」とそれを語っている「いま」という三重の時制の転換,ということは過去,現在,語っている今,という視点の転換でもある。そういう構造を表現できる日本語という言葉の魅力に出会ったと言ってもいい。それをこう解釈した。
話者にとって,語っている「いま」からみた過去の「とき」も,それを語っている瞬間には,その「とき」を現前化し,その上で,それを語っている「いま」に立ち戻って,否定しているということを意味している。入子になっているのは,語られている事態であると同時に,語っている「とき」の中にある,語られている「とき」に他ならない。
そこから,時枝誠記の風呂敷構造に出会い直した。
日本語は時制があいまいとか,主語があいまいという言い方をするのは,基本的に間違っている。
基本的に日本語は,文脈依存だから,主語が周知ということで語られていない。しかし語られていないからと言って,時枝誠記が言うように,日本語は,基本,「辞」と「詞」に分かれていて,「詞」は,表現される事物,事柄の客体的表現,「辞」は,表現される事柄に対する話し手の立場の表現である。「辞」によって,統一されるので,「辞」によって具体的な思いや考えの表現になる。「辞」が欠けている表現を,時枝誠記は零記号と呼んだが,「辞」が隠されているか,言う必要がないだけで,基本的に「辞」のない表現はない。
きりがないが,日本語には日本語の独特の時制と視点という構造がある。その観点から見ると,汲めども尽きぬ泉である。それを自分なりに,言葉の構造と情報の構造としてまとめたのが,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm#
で,昔,古井由吉論をまとめるために,三浦理論,つまりは時枝誠記の「風呂敷構造」を借りて,
http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm
こんな風にまとめた。
僕は,この古井由吉という作家が大好きで,彼は,日本語のもつ表現可能性を,ぎりぎりまで意識的に追い詰めている,ただ唯一の作家だと思っている。その典型は,『眉雨』だが,まあ,それについては,やめておこう。きりがない。
処女作『木曜日に』以来ずっと古井由吉を追っかけてきたが,最近は,読み切る体力がなくなった。本気で作家と向き合うには,渾身の力がいる。もうそんな体力は僕にはないらしい。
その古井由吉が,小説の「私」について,大江健三郎との対談で,昔,面白いことを言っていた。
「私」というとき,「私」の多くの部分が死者なんです。個別の「私」にはわからないはずの感覚,感性,認識を書いている。例えば,一日の天気のことを考えても,よほど表を歩いて天候の変化をつぶさに観察した場合ならともかく,いや,その場合でも,表現として「私」が完全に個別だったら見えないはずのことを書いている。
確かフロイトだと思ったが,先人の肩の上に乗ってものを見ている,というのを思い出す。その古井由吉の言うのがふるっている。
説明するというのは,普通結び目をほどくことと解釈されるけれども,結び目をつくることでもあるわけですね。
確かに説明は,別次元のものを持ってくることになる。それがかみ合わなければ,説明の説明が必要になる。
ついでに思い出したのは,石川淳の永井荷風の死に対する痛烈な文章だ。それはこう始まる。
一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく,小説家らしくもなく,一般的に芸術てきらしいと錯覚されるようなすべての雰囲気を絶ちきったところに,老人はただひとり,身辺に書きちらしの反故もとどめず,そういっても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて,深夜の古畳の上に血を吐いて死んでいたという。
そしてこう締めくくる。
もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの,一箇の怠惰な老人の末路のごときには,わたしは一燈をささげるゆかりもない。
まさににべもないとはこのことだ。これこそ,「結び目」をつくる文章だ。あえて言えば(「結び目」をつくれば),畏怖し尊敬した荷風への決別の言葉なのだと読むことができる。タモリが,赤塚不二夫の葬儀で,白紙をひろげて,私はあなたの作品だ,と弔辞を読み上げたものの文学者バージョンというべきだ。そこに,おのれはそうはならぬ,という満々たる憤りと矜持がある。その怒りは,荷風へ向けられたものでは,必ずしもない。
参考文献;
三浦つとむ『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫)
時枝誠記『日本文法 口語篇』(岩波書店)
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http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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